※未来からきてたほうのアラインの話です。ちょっと鬱。








 目が覚めたのはあまりに多くを奪われた後だった。
 崩れた石膏の粒を巻き上げ吹き荒ぶ潮風。冷たいそれは「すみません」と謝り続ける青年の濡れた頬にも吹きつける。
 泣いているのはツヴァングだった。アラインの傍らに膝をつき、手にした剣を差し出してくる。主を亡くした聖なる神具、神鳥の剣を。
「……何があったんだ……?」
「アライン様……」
 ツヴァングは喉を絞って問いに答えようとした。けれど声が詰まって上手く話せないようだ。青銀の翼を閉じたラウダが重い重い溜め息を吐いた。その足元で黙したまま横たわるベルクには右肩から先がなかった。惨劇を物語るかのごとく、乾いた血痕は聖獣の羽やツヴァングの腕を汚している。
 すぐにわかった。何か悪いことが起きたのだと。
 見渡せば王都は竜巻が通り過ぎた後かと思うほど滅茶苦茶で、外壁などはほとんど崩れ落ちていた。頭上にはアペティートの国旗を掲げた空飛ぶ船が浮かんでいる。港を埋め尽くすビブリオテーク船団は空の的を狙って次々に砲弾を飛ばしていた。

「……なんでこうなったんだ……?」

 戦争になるだろうという読みはあった。アラインの存在がアペティートの暴走を抑止する役割を担っていた以上、もはや衝突は避けられないだろうと。だが少なくとも、少なくともこんな結果だけは想定外だ。こんなところで、こんな形で彼を喪ってしまうなんて。

「誰がベルクを殺したんだ」

 詰め寄るアラインにツヴァングは首を振った。到底答えられそうにない青年を見かねてか、ラウダが無言のまま飛行艇を見上げる。アペティート軍の人間かと問い質そうとしたそのとき、ひときわ大きな爆発音が都に轟いた。それまで悠々とビブリオテーク船を攻撃していたアペティートの飛行艇が突如として炎上したのである。
「あれ、ノーティッツさんじゃ……」
 小爆発を繰り返し墜落していく船とは逆向きに、火だるまの人影が落ちていくのが見えた。状況はまったくわからなかったが仲間の名前を耳にしては放っておけない。咄嗟に風を纏って落下点へ加速すると、ツヴァングの案じた通りノーティッツが真っ逆さまに落ちてきた。ただし彼は薄紫の軍服に身を包んでいたけれど。






 アペティート軍による最初の砲撃を受けたのはアラインが封印に身を投じてすぐの出来事だったそうだ。国民の避難は無事に完了したものの、逃げ遅れたノーティッツは連れ去られ捕虜にされてしまったのだという。
 オリハルコンはふたつに割れ、それぞれヴィーダとクライスの手に渡った。聖石を追いかけるグループとノーティッツを奪い返すグループに別れて行動しようというのは皆で相談して決めたらしい。隠居中の先代たちにも力を借りて。
 まだ半分わけのわからないまま兵士の城へやって来ると、自分の左手薬指に嵌っているのと同じデザインの指輪をそっと握らされた。トローンは申し訳なさそうに遺品だと告げてきた。信じたくなかったが、生涯の伴侶と決めた相手も戦乱の中いなくなってしまったようだ。彼女が「お戻りになられたのですね」と駆け寄ってくることは二度となかった。誓いを立てて、まだいくらも経っていなかったのに。
 理解を拒みたくなる現実はまだまだたくさんあった。ビブリオテーク滞在中にヒーナ軍の攻撃を受け、イヴォンヌ以外にマハトやヒルンヒルト、ゲシュタルトも地上を去っていた。精神体だったアンザーツだけは難を逃れ、ディアマントと合流を果たし三日月大陸へ戻ってきていたが、先代勇者は憔悴しきっていつ仲間の後を追ってもおかしくないように見えた。我が子の出産を待たぬまま未亡人となったウェヌスも同様だ。無理をして笑ってはいるが、いつもの彼女の底なしの明るさは見る影もない。己の支えであった仲間を一度に喪失し、アラインも悲憤と虚脱に飲み込まれてしまいそうだった。
 だがそれでもノーティッツの悲嘆に比べればまだ堪えようがある。勇者の命を断ったのはあろうことかベルクの親友である彼だったのだ。敵の手中に落ちていたとき自分がどのように操られていたか、不幸にもノーティッツはよく覚えていた。幼馴染を絶命させたまさにその瞬間のことも。
 兵士の城の一室で目覚めたとき、彼は自らを焼き尽くそうと火を放った。他にどうすれば良かったのか知らない。アラインはノーティッツの過去数ヶ月に及ぶ記憶を封印した。そうしないと彼が生きていけないと思ったからだ。今はノーティッツも少し落ち着いて、侍女の介護を受けつつ静養している。ベルクが死んだことは知らぬまま。
 戦死者の弔いを終えるとアラインは兵士・辺境の両国と連合軍を編成し、大陸へ派遣した。戦争にはまったく意外な形で決着がついていた。墜落したアペティートの飛行艇がビブリオテークの戦列艦に衝突し、帝王ヴィルヘルムや首長アヒムを含めた両軍の上層部がほとんど死んでしまっていたのだ。アペティート東部では帝王制の撤廃を求める人々と残った軍が衝突を繰り返し、多数の死傷者が出ているという。ビブリオテークはビブリオテークで各地の有力者が各々に兵を束ね、陸路からアペティートに侵攻、地雷地帯で大量の犠牲者を出しているそうだった。これを受け内陸部では武闘派と穏健派の対立が深まっているらしい。いつもならこんなとき調停役を買って出てくれるヒーナも新皇帝が気功師軍ともども戦死したためはそれどころではないようだった。
 エーデルとクラウディアは引き続き国外での活動に従事した。ディアマントはウェヌスを案じて兵士の城に留まっていたが、アラインはほぼひとりきりで破滅の魔法を退けなければならなかった。
 ――こうして長い孤独は始まった。






 未来編 einsamer Fesseln






 ピチョンと音を立て、天井から垂れた水滴が跳ねる。地下牢は澱んだ湿気に満たされており、肌に触れる石は冷たい。項垂れたヴィーダの耳に階段を下りてくる足音が聞こえた。また彼が来たのかとうんざりしつつ、一縷の望みを捨て切れず僅か面を上げる。
 鉄格子の向こうにあったのは宮廷人の黒い喪服。やはり彼女ではない。落胆し顔を背けるヴィーダに来訪者は苛立ちを隠さず嘆息した。
「クライスがどこにいるかわかる?」
「……」
 また今夜も同じ問いが投げかけられる。知っていたとして教えるわけがないだろう。彼は破滅の魔法を止めたいのだし、災いを完全に封じようと思えばヴィーダとクライスの犠牲が必要不可欠だ。――彼女は死を厭わないかもしれないけれど。
「まただんまり? たまには何か言ったら? 戦争を引き起こしたこと、少しは後悔してるならさ」
 淡々とした声音とは対照的に、ガンと蹴り飛ばされた格子戸の歪む音は高い。いつも温厚な彼らしくない振る舞いだ。冷徹すぎる眼差しも、国民に持て囃される希代の英雄のものとは思えない。
 だがそれも致し方のないことだった。彼の愛した国は街も村も暴虐の限りを尽くされ、厚い信頼を置いていた従者もこれから未来を築いていくはずだった伴侶も戦場に散ったというのだから。更にはヴィーダが囚われている兵士の城の第三王子もアペティート軍の手にかかり非業の死を遂げたという。牢獄の番人はころころ代わった。皆「ここにいたら職務を全うできそうにないほどの怒りを覚える」と言って出て行った。
「自分のしでかしたことの責任も取らないつもりか?」
 アラインは棘で差すように糾弾した。アペティートの皇族で、破滅の魔法とも深い関わりを持っていて、大賢者の力を有している。そんな自分がこの期に及んで何もせずいることが彼には度し難いらしい。
 動こうと思えば動けるのかもしれない。だけどもう疲れ切ってしまった。クライスの望み通りに心中することも、自ら死を選ぶことも、破滅の魔法を消し去ることもできない自分に何ができるというのだろう。彼は何を期待している?
「殺したいなら殺せよ」
 少なくともそれなら彼女が手を汚すことはなくなる。薄笑みを浮かべたヴィーダにアラインの表情が変わった。
 あからさまな軽蔑の念を向けられても何とも思えない。
 もうどうでも良かった。生きるべきか死ぬべきか、その答えを出すことも。






 青く降り注ぐ月光を頼りにバールは勇者の姿を探す。アラインは第二兵舎のある裏庭へ向かったそうだから、おそらくまた地下牢にいるのだろう。虜囚は脱獄する気がない代わりに反省したり協力したりする気もないようだった。それならいっそ放っておけばいいと思うのに、アラインは夜ごとヴィーダの元へ通っている。クライスの居所を突き止めるにはそれが一番手っ取り早いと言えば手っ取り早いけれど。
 屋敷にあったオリハルコンの半分はヴィーダから取り戻していた。クライスと彼の戦闘に居合わせたのは偶然だ。たまたまそのときは王都の近くを巡回していた。エーデルが声を掛けてくれて、これまでの経緯を耳にしながら大賢者同士の戦いを見守った。彼らが何の話をしているかはさっぱり掴めなかったが。
 嵐のように彼女が去ると残されたヴィーダは糸の切れた人形同然に崩れ落ちた。聖石の短剣を取り落とすのが見えて、反射的に拾いに飛んだ。嘴の先で掬い上げてもヴィーダは追ってこなくて、それでアラインと破滅の魔法を飲み込んでいる結界に短剣を放り込んだ。
 それからの惨事はあまり思い出したくない。間を置かずツヴァングとベルクを乗せたラウダが舞い降りてきて、血まみれの翼に嫌な予感が走った。エーデルはヴィーダにベルクの傷を癒してくれと頼んだが、彼はまだ呆然とクライスの消えた海辺を見つめていた。魔力もほとんど残っていなかったから、たとえ応じてくれていたとしても一命を取り留めることはできなかったろう。だがエーデルの失意は深かった。上空に出現した飛行艇が港の戦列艦を攻撃し始め、追われるように彼女は海へ飛ぶ。アラインが封印から解放されたのは直後のことだった。
(死にすぎやで……。ちょっと前までみんなピンピンしとったのに……)
 少しのことではへこたれない兵士の国の人間でさえ若すぎるベルクの死に嗚咽を噛み殺している。都中が深い悲しみに包まれていた。
 ディアマントとクラウディアは比較的元気な方だった。彼らは自分が涙するよりエーデルとウェヌスを励ますことを優先した。何かしている方が気が紛れるからとエーデルが前線に戻ることを決めると僧侶はそれに倣った。兵士の国に残っているのはバールとラウダ、アンザーツ、ツヴァング、ノーティッツ、ウェヌス、ディアマント、そしてアラインだ。喚き散らす者こそいないがノーティッツを除いて全員酷く落ち込んでいる。特にアンザーツは、己の優柔不断が不幸を呼び寄せたとずっと自分を責めていた。

「ひっどい顔やな。エエ男が台無しやで」

 牢獄塔から出てきたアラインを見つけるとバールは強張った肩に降りる。疲弊した相貌は暗く陰鬱だった。ノーティッツもウェヌスも心配だが、自分には彼が最も気がかりだ。表面上はいつもと変わりなく振る舞っているけれど、そうさせているのは責任感ただひとつだろう。死んでいった者たちが担っていた分まで彼は背負おうとしている。
「どうしたのバール、何か急用?」
 無理矢理笑おうとするなと言いかけてやめた。どうせすぐに笑えなくなる。
「アンザーツが天界に帰るて。さっきラウダが送っていきよったわ」
「え……」
 瞠目したところを見るとアラインも予想外だったようだ。バール自身、破滅の魔法を封じ込めるまではアンザーツも力を貸してくれるだろうと考えていた。彼がとっくに勇者としての強さなど捨ててしまっていることは忘れて。
「天界に帰って……、どうするって?」
「……」
「バール、アンザーツは!?」
「放っといたれや、わかるやろ。あのアホがひとりぼっちでやってけるわけないやろが!」
 転移魔法を構築しようとするアラインを怒鳴りつけ制止する。完成しかけていた魔法陣が分解し、夜風に溶けて消えた。取り残された勇者は半ば呆然自失して拳をわななかせている。
「謝っとったわ。何もでけんですまんて。自分は元々死人みたいなモンやから、気に病まんでくれって」
 そう告げながらバールも重い息を吐いた。アラインの側にこそ誰かがいてやらねばならぬのに、去っていく者ばかりだ。
「そっか……。わかった……」
 落胆を飲み込んで勇者が答える。虚勢は簡単に見て取れた。また笑おうとするから黙っていられなくなった。
「大丈夫かジブン」
 思い出すのは勇者の血統が偽物であると知らされたときのアラインだ。打ちひしがれ、絶望し、それでも体面を保とうとした。あのときも悲惨だった。結局マハトの言葉に最後の拠り所も失い、一時は旅を放棄したのだ。一歩間違えればまたあのときと同じになるのではと怖かった。
「何が? 大丈夫だよ? アンザーツのことは残念だけど、決めちゃったんなら止められないよ。迷惑かけたのは寧ろこっちだし」
 せめてお別れくらい言いたかったけど、とアラインは言葉を濁す。振り向かない横顔と張りつめた空気が痛々しい。
 イヴォンヌがいれば共に苦難を享受しようとしてくれたろう。
 マハトがいれば彼を支えてくれたはずだ。
 ベルクがいればふたりで考えられたに違いない。これからどこへ向かって進んでいけばいいか。
 破滅の魔法をどうするかさえ答えは出ていないのだ。今のアラインは夜の海に放り出された小舟も同然だった。彼の歩む道に灯っていた明かりは全部消えてしまった。

「……ワシは神鳥や。何百年も生きとる聖獣や。誰がおらんようになってもジブンと一緒におるさかい、ひとりになったやなんて死んでも思うんやないで」

 たかが自分ひとりの励ましで彼の心が慰められるとは思わない。だが言わずにはいられなかった。傷ついたときに傷ついたと言える相手が、誰にだって必要だろう。
「……ごめんバール。ありがとう」
 喪服の袖で目元を拭うとアラインは少し笑った。
 何もかも失ったわけじゃない。時間はかかるかもしれないが何らかの形でやり直すことはできるはずだ。そう信じたかった。






 ******






 このところいつも同じ夢を見る。
 燃え盛る炎の中で泣いている。どうしようもなく胸が痛くて、自分で自分を許せなくて。
 煙と熱は壁に空いた大穴から空へと立ち昇っていた。
 足元には幾つもの消し炭が塊となり転がっている。
 動くものは何もなかった。すべて焼き滅ぼした後だった。
 ふらりふらりと穴に近づくとノーティッツは空に身を投じる。
 目を閉じて墜落を待つうちに朝が来て、夢の詳細を忘れてしまう。
 今朝起きたときもそうだった。寝ぼけまなこを擦っていたらコンコンとノックの音が響き、たちまち現実の風景が押し寄せてきた。
 包帯を取り替えてくれるのは決まった侍女だ。彼女が毎度の食事も支度してくれる。そのついでに脈を取って記録し、水銀の体温計で熱を測ってくれた。若い侍女にしては珍しく寡黙な人物だ。宮廷の女というのは位の上下に関わらず大抵お喋りなものなのに。
「火傷、まだなくなってない?」
「ええ、ご覧になりますか」
 無愛想な侍女はノーティッツに手鏡を差し出した。鏡面には寝台に伏せる自分が映っている。自らも何度か回復魔法をかけているのに顔の左半分を覆うケロイドは一向に良くならないままだった。赤黒く変色した皮膚を見ていると段々気分も悪くなってくる。
「ごめん、ありがと。もういいよ」
 侍女は鏡を抽斗にしまうとぺこりと一礼し退出した。毎日こんな傷に包帯を巻いてくれるのだから流石は兵士の国の女だ。これが勇者の国だったら、兵卒あたりが看護に回されていたに違いない。
 そんなことを考えていたらまたノックの音がした。几帳面な性格を表すようにリズムも大きさも毎回同じだ。笑みを浮かべつつノーティッツは馴染みになった青年の名を呼んだ。
「入っていいよ、ツヴァング君」






 この部屋を訪れるのには覚悟がいる。緊張も並大抵のものではなかった。
 そもそも自分などが兵士の城の世話になっていること自体厚顔無恥と言わざるを得ないのだ。何も守ることができなかった、見ていることしかできなかった自分が。
「あの、具合はどうですか」
 毎回尋ねるのは同じことなのに、同じように躊躇ってしまう。直立不動のツヴァングにノーティッツは朗らかな表情を見せた。
「元気だよ。相変わらず頭は寝ぼけたままだけど」
 冗談が言える程度には精神状態は良好らしい。火傷の方はと問いを重ねれば明るい顔のまま首を振った。
「なんだかみっともないよねえ、敵船から落ちて頭打って記憶喪失なんてさ」
「でも助かって良かったじゃないですか。傷が薄れてくるまでは大事を取った方がいいってアライン様も仰ってましたよ」
 隠し事をしたまま話をするのは良心が痛む。だが事実をありのまま伝えるわけにはいかなかった。ノーティッツが知っているのは彼が飛行艇から落ちたこと、飛行艇の大破に巻き込まれてアペティートとビブリオテークの要人たちが戦死したこと、各地の小競り合いに収拾がつけば戦争は終結するということだけだ。
「ま、いい機会だしね。ゆっくり休ませてもらうことにしてるけど。でも流石にもうちょっと詳しい最新情報が欲しいかなあ」
「あなたが頭を使いすぎるから教えないんじゃないですか? 今までの分も含めてゆっくりしてほしいんだと思いますけど、アライン様やトローン陛下は」
「うーん、でもぼくだけ働いてないみたいじゃない? 皆はまだあっちの大陸にいるんだろ?」
 ノーティッツは僅かに唇を尖らせた。どうも除け者にされているようで気分が良くないらしい。
「誰もお見舞いに来てくれないしさー。このままじゃひとりチェスの達人になっちゃうよ」
「えっと……、おれがお相手しましょうか?」
 ベッドサイドにチェスボードを用意しながらツヴァングはほっと安堵の息をついた。ノーティッツの注意は世界情勢から多少逸れてくれたようだ。
 見舞いの客は来ないのではない、厳しい入室制限が設けられているだけだ。王子殺害の実行犯である彼に会えるのはトローン、アライン、ツヴァングと身の回りの世話をする侍女の四人だけだった。実際に彼と顔を突き合わせているのはツヴァングと侍女だけである。「恥ずかしい話だが、どんな顔でどんな話をすればいいかわからんのだ」とトローンは言った。処罰を下すつもりはないが、どう扱ってやればいいかもわからないと。放逐するのは見放したも同然である。自力で立ち直ってくれることを情け深い王は望んでいるようだった。
「身体は健康そのものだしさ、せめてウェヌスに会っちゃ駄目? あっちはあっちで退屈してると思うんだけど」
「あ、その、ウェヌス様はご出産に向けて身を清めてらっしゃいますので男性の方は……」
「うわー。そういうとこだけ王族っぽいことするのか」
 顔を歪めたノーティッツと目を合わさぬようにツヴァングは盤面に視線を注いだ。
 何も教えるわけにいかないし、人と会わせるわけにもいかない。アライン曰く、闇魔法の仕掛けはおそろしく繊細で危険なのだそうだ。特に相手が同調してきていない場合は。どんなことをきっかけに封じた記憶が甦るかわからない以上、今は保留にしておくしかないとのことだった。
(そうだよな、アライン様だって今は破滅の魔法を何とかすることで頭がいっぱいだよな……)
 ノーティッツの様子を見ていてほしいと頼まれた以外命令らしい命令は受けていない。災厄に関しても一切何の相談もなかった。
 支えになれればいいのに。せめて自分にもう少し力があれば、何か違ったのだろうか。






 バルコニーへ出ると満天の星空が見えた。少し寒いくらいの外気が肌を冷やす。
 連日のごとく催されていた舞踏会に飽きたら、よくこんな場所へ逃げ込んでいた。イヴォンヌとは抜け出すタイミングが似ていたから、気づけばそれなりに会話するようになっていた。

 ――私が悪者に捕らわれたときは助けに来て下さる?

 まだ少女だった彼女に勿論と答えたのは何も知らなかった自分。
 愛していくはずだった。愛になるはずだった。おとぎ話の締めくくりに相応しい幸せがあるはずだったのに。
 アラインは傷だらけの小さなリングを月にかざした。痛かっただろうなとか、怖かっただろうなとか、思う度に心臓がぎゅっと締め付けられる。
 間違いだったのだろうか。破滅の魔法に飛び込んだこと。仲間たちに後の判断を委ねてしまったこと。
 でもあのときあれ以外の方法はなかった。復活しかけた破滅の魔法を止めるには。
「はよお城に帰したげたいな」
 手摺に掴まったバールが囁く。イヴォンヌたちの遺灰は即席で作られた聖壇に安置されていた。
 骨壷の小ささにはまだ少し慣れない。マハトなんて見上げるほどの大男だったのに、今は片手に収まるサイズになってしまった。
 降霊は不可能ではないけれど死んでしまった三人は誰も魔法使いじゃない。会えたところで一瞬だ。自分を慰めてもらうために彼らを呼ぶのかという自問はアラインの衝動をねじ伏せた。
「これからどうしようか?」
 軽い調子で尋ねてみると神鳥は眉を顰める。どうもバールはアラインの空元気が気に入らないらしい。
 泣けるならとっくに泣いてるよ。そう胸中に呟いた。
 なくなったものが多すぎて、何が何だかまだよくわからないんだ。ベルクの他には遺体も見ていないから。


「こんばんは」


 唐突に響いた声にアラインはハッと振り返った。バールも翼を翻しアラインの肩に身を隠す。
 素顔を隠す布、ヒーナの民族衣装そっくりの装束。聞き覚えのある抑揚のない声はやはり彼のものだった。遠い過去で出会った子供。気功師。彼は青年の姿に成長していた。
「またお会いしましたね」
「……久しぶり、でいいのかな?」
 笑みは邪気のあるものではない。だが人外の男相手に油断は禁物だ。聞くところによれば現代でもヴィーダとクライスに大賢者の力を授けたのは彼らしい。この男が積極的に人類を滅亡に導こうとしているようには思えないのだけれど。
「破滅の魔法が甦るまでいくらもないと伝えておこうかと思いまして」
 気功師は勇者の都がある北東を指差して告げた。目を瞠るアラインとバールに淡々と彼は続ける。
「あれはクライスたちの魂に反応して目覚めたのです。オリハルコンを戻したところでもう抑えつけてはおけません」
 風が静寂の合間を縫った。バルコニーの縁に立った気功師はゆっくり腕を降ろし胸の前で手を合わせる。表情は現れたときから一度も変わらなかった。
「魔法が動き出せば彼女も姿を見せるでしょう」
「……どうしてそれを僕に?」
「おや? 覚えていませんか。あなたが私に言ったんですよ、どうして滅びが迫っているのを教えてやらなかったのかと」
 伝えることは伝えましたと消えかけた気功師にアラインは手を伸ばした。彼にはどうしても確かめねばならぬことがあった。終焉を永遠に退けるために。
「破滅を回避する方法はひとつじゃない、そうだろう!?」
 その一瞬だけ気功師の口元から笑みが消えた。煙のように掴めぬ男はにこりと頬を緩めると納得した素振りで頷き返す。
「成程、それがあなたの運命ですか。たったひとり誰も歩んだことのない道を行く。……あなたは本当に変わった星の持ち主ですよ。王の道を行くか蛇の道を行くか、私は影で見守らせてもらいましょう」
 夜とは思えぬ光とともに気功師は消え去った。しばしの沈黙が訪れたのち、訝しげにバールがアラインの顔を覗き込む。不信と遠慮と気遣いが入り混じった複雑な眼差し。思わず苦笑いが零れた。
「ごめん。黙ってたけど実は、破滅の魔法を何とかする方法思いついてたんだ」
「はああ!? なんやねんジブン!! これからどないするとか聞いといて」
「だってどっちもあまり気の進むやり方じゃなくてさ。……でもバール、バールだけは何があってもずっと僕といてくれるよね――」






 破滅の魔法と己を融合させる手段については結局大半のことをひとりで決めてしまった。
 ノーティッツにはそんな魔法の復活自体伝えなかったし、ディアマントたちにも簡単な事後報告しかしなかった。事前にどういう事象が考えられるか説明したのはトローンとウングリュク、それに神鳥たちだけだ。もしも失敗したときは彼らに後始末を頼まねばならなかったから。
 気功師が具体的なタイムリミットを告げなかったので、アラインは数日後には王都へ向かい赤黒い光と対峙した。思った通り、シュルトとラーフェの血脈は膨大な魔力を引き継がせてくれた。
 クライスが現れたのはそのときだ。古い魔法をすっかり飲み込み終えたアラインの前に、彼女はそろそろと降り立った。くたびれた緑のワンピースと長い銀髪をなびかせて。
 エーデルからも彼女とヴィーダの関係は聞き及んでいた。でも何故かあまり同情心が湧かない。シュルトの時代に旅したときは彼らを宿命から救う方法がないか必死に考えていたというのに。
「どうしてあの魔法が消えてるの……? あなた、まさかヴィーダを殺したの……?」
「ううん違うよ。彼なら兵士の城にいる。もう会えないかもしれないけど」
 ごめんねと告げてアラインは歩を詰めた。虚を突かれたクライスはびくりと震え、後方に退こうとする。けれどこちらが彼女の腕を捕える方が早かった。触れてしまえば至極呆気なく魔力は奪うことができた。
「……ッ!?」
 五芒星は掻き消えて、クライスがぺたんとへたり込む。置き去りにするのは流石に酷かなと思案していると今度は別の客が飛んできた。どうやら牢は抜け出してきたらしい。無気力になったと見せかけて、都の気配は彼も探っていたようだ。
「ちょっと遅かったね」
 だけどきっと感動の再会だ。心のどこかで羨ましく思う。ヴィーダはナイトさながらの仕草でクライスの短剣を拾い上げ、アラインに刃を向けてきた。乱暴狼藉を働いたと思われているなら心外だ。クラウディアがいたら「そのぐらいの報復は許されますよ」と断言してくれただろう。
「それもこっちに渡してくれる?」
 無人の都で剣を取る。ベルクが遺した神鳥の剣。左手には輝く盾を。
 攻撃に右腕は要らなかった。神鳥の盾を形状変化させるだけで十分に事足りた。波状に広がったオリハルコンはまるで意思を持つ生き物のように無数の槍となり地面に突き刺さる。檻に囚われたふたりを分断するのは造作もないことだった。転移魔法を使われる前にアラインはヴィーダの懐へ潜り込む。彼の五芒星は左手に刻まれていたが、数秒後には意識とともに綺麗さっぱり消えていた。
 ――やろうと思えばこんな程度のことだったのだ。なのに引き換えにしたものの大きさは。
「やめて!! どうやったのか知らないけれど、破滅の魔法は消えたんでしょう!? もう彼を殺す必要はないはずだわ!!」
 聖石の柵の向こうでクライスが喚く。奪い返した短剣を手にしてアラインは首を傾げた。
「必要ない? 本当に? 僕らの世界を滅茶苦茶にしたのは彼なのに?」
「……っ」
 魔力を取り込み過ぎたせいだろうか。右手の星は半分白く染まっていた。
 盾はまだ入り組んだ翼竜の化石にも似た形状を保っている。ただの非力な女と化したクライスはアラインがヴィーダの金髪を掴んで持ち上げても叫ぶぐらいしかできない。
「やめて、やめて!!!! お願いだから殺さないで!!!!」
 絶叫はどこまでも遠くこだました。彼女は血を吐かんばかりに恋人の名を繰り返した。
 ああ嫌だな。女の子を泣かせるなんて最低だ。
 こんなの「勇者」のすることじゃない。


「今日中にこの国を出てってくれ」


 盾を元の形に戻して短剣を穴底へ放り込むとアラインは振り返りもせず都を後にした。
 恨む気持ちが消えない。
 魔物たちとの戦いで敵対することの無意味さは痛感したはずなのに。
 足元が揺れていた。そんな馬鹿なだ。今は空を飛んでいるのに。
 でも確かに揺れていた。ぐらついていた。
 ――ねえベルク、こんな不安定な人間でも勇者って言えるかな?






 ******






 恐怖に怯えた幾つもの顔が炎に巻かれる。どことなく見覚えのある連中ばかりだ。
 炭化していく薄紫の軍用コートはアペティートのものだった。どうして自分が敵中にひとりでいるのかはわからなかった。
 わからない。わかりたくない。もう何も考えたくなかった。
 だけどこいつらだけは全部殺してしまわねば。命を奪った重罪は命で贖ってもらわねば。
 助けてくれ、見逃してくれと悲痛な叫びを上げる男にも火を向ける。激しい怒りと憎しみはいつしか我が身まで焼いていた。何よりも許せないのは自分自身だった。
 兵士たちの死骸をまたぎ、通路も倉庫もそこらじゅう真っ赤に染める。ノーティッツに命令を出していた男は最初に死んでいた。誰も止められる者はいなかった。自分から止まる気など更々なかった。
 そう広くもない艇内を徘徊し、動くものは無差別に火炙りにする。貴族だとか平民だとか高官だとか帝王だとか関係なかった。誰も彼も同じ人間だと思えなかった。
 元いた部屋へ戻ってくるまで大した時間はかからなかったように思う。鉄と肉の焼ける臭いに吐きそうになりながら、何をやっているんだろうと涙した。でもその涙も空気に熱されすぐに蒸発してしまう。
 穴の開いた壁からは薄ら空の青が覗いた。このまま火と熱の中で死ぬのではなく、自分も落下し死ぬべきだろうと歩を進める。
 誰にごめんと詫びたのだろうか。
 どうしてまだ生き延びているのだろうか。
 目を閉じたらすべて終わるはずだったのに。






 ビロードの絨毯にスペードとダイヤが散らばる。大理石の小テーブルではジョーカーが笑っていた。目前には未だ傷の癒えないノーティッツ。苛立ちを滲ませ迫る彼にツヴァングは後ずさりした。
「一体どういう理由なんだ? おかしいだろ、こんな軟禁状態が一ヶ月も二ヶ月も続くなんて」
「軟禁だなんてそんな……。大事を取るようにというご配慮です」
「だったらなんで中庭に出る程度の許可も下りないんだよ? 埒が明かない、陛下かアラインを呼んでくれ!」
「ノーティッツさん、落ち着いてください。火傷に障りますから……!!」
 なんとかそれだけ言い聞かせ、興奮した患者を近くの椅子に座らせる。忌々しげに左頬を掻くとノーティッツは大きく舌打ちした。
「いくらこっちの大陸が危害を受ける可能性がなくなったって言っても向こうじゃまだまだ争いが続いてるんだろ? これだけ長く誰も帰ってきてないってことはアペティートと元属国やビブリオテークの対立構造はもっと複雑化してきてるんじゃないのか? そりゃ今のぼくは肝心な戦争中の記憶がぶっ飛んでるしすぐには役に立てないかもしれないけど、ちょっとぐらい何か手伝えるはずだろ。いつまでこんなところに閉じこめておくつもりしてるんだ?」
 ノーティッツの言い分はもっともだった。もし自分が彼と同じ立場に置かれたら、外へ出せ仕事をさせろと叫んで暴れるに違いない。しかも彼はその辺の大臣などよりよっぽど有能だし、皆がもたもたやっているのでないかと気になって仕方ないのだろう。
 この部屋でノーティッツを監督管理するようになってからそろそろひと月半余りである。外出はおろか外部情報の一切をシャットアウトされているため彼の我慢も限界に見えた。果たしていつまで養生という言葉が通用するのだろうか。段階的にでも真実を伝えるべき時が来ているのかもしれない。ベルクの死についてどんな言葉で打ち明ければいいかなど少しもわからないけれど。
「でも本当に心配してらっしゃるんですよ、アライン様は……。傷が良くならないのも記憶が戻らないのも原因は心因性のものなんじゃないかって……」
「そうだとしても毎日毎日こんな生活してたら却って悪化するって」
「まだ痛むときだってあるんでしょう?」
「……」
 黙り込んだノーティッツの顔に広く残った痕は少しも消えていない。それどころか包帯の隙間から見える皮膚はますます黒ずんでいくようだ。起きたらすぐに忘れてしまうと言っていたが、毎日同じ夢を見るらしいのもツヴァングは酷く気がかりだった。
 もしかしてこの人は眠っている間に少しずつ自分を焼き殺そうとしているのではないだろうか。心配で堪らない。
「アライン様には一応お伝えしておきます。お忙しいみたいなのでここへ来れるかはわかりませんけど……」
「……そう」
 不機嫌極まりないノーティッツに頭を下げるとツヴァングは部屋を出た。前室に控えていた侍女が入れ替わりに入室する。女性には荒れた態度で接しない主義なのか、背後から響く会話が穏やかで少々羨ましかった。
 どうすればいいのかわからないまま時間だけが過ぎていく。
 こんなときあの男なら、己に手をかけた友人に何と言ってやるのだろうか。






 鏡の向こうの部下から報告を受け取ると、アラインは弱ったなという心情を誤魔化せないまま「そっか」と頷いた。
 飲み込んだ溜め息が喉で閊えている。己もまたノーティッツを持て余し始めているのだ。それでも現状維持が難しい以上、何か対策はせねばなるまいが。
『もう一度記憶を封じ直すことはできないんですか? ……おれ少し怖いです。明日にもノーティッツさん、全部思い出してしまいそうで』
「部分的に忘れさせることは多分もう不可能だろうね。ノーティッツは警戒するだろうし、同意のない状態で何度同じ術をかけたところで結果は変わらない。いざというときは力尽くでも記憶という記憶を奪うしかないかな」
『それって……生まれてから今までのってことですか?』
「うん、そうなるね。中途半端に干渉する方が危険だから」
『……そんな……』
 ツヴァングは複雑な心境を隠しもせずに俯く。ノーティッツの側に付かせるには彼は少し優しすぎたかもしれない。そのひたむきさに少しでも友人の心が休まればと思っていたけれど、彼では負い目の方が大きかったようだ。
 ベルクの代わりに守ってやろうとしているのだろうか。だとしたら健気な話である。
「でもそれは最終手段だよ。僕だって乱暴なことはしたくない」
 皆が笑って過ごせる世界にしていこうと、そう決意した日は遠い昔のようだった。理想とはかけ離れた現実。深く抉られた胸を埋める方法もわからない。多忙に身を委ね思考を停止させている間だけだ。いつもの自分に戻れるのは。
 破滅の魔法を取り除いた後、アラインはツヴァングとディアマントを残し勇者の城へ帰っていた。復興には魔法の力が必要だったし、自分で直接指揮を取った方が話も早い。マハトがいてくれれば半分任せることもできたのだろうが、いないのだから仕方なかった。クラウディアたちも今はアペティート西部の地雷地帯で悪戦苦闘の日々らしい。戻ってくるのは半年以上先になりそうだった。
 なんだか皆ばらばらだ。今まで一番連絡を密にしていたのがノーティッツだったから余計そう思うのかもしれない。繋がりを断ったわけではないのに仲間の存在がやけに遠く感じられる。ひとつのものに皆で向かっている気がまるでしなかった。望む平穏はきっと同じなのに。
「さっさと全部忘れさせてあげた方が本当は親切なのかもね。……だけど僕が嫌なんだ。ノーティッツがベルクとも誰とも無関係な人間になるなんて」
 躊躇う理由の半分は自分勝手なものだった。認めたくないだけだ。ベルクという男が忘れ去られてしまうことを。それに記憶を全消去してもノーティッツが自己を保てるかどうかわからなかった。彼の人格を構築してきた思い出や感情を取り去ったら、まったくの別人になってしまうのではないか? そう考えるとたちまち手が出なくなる。他人の人生を独断で変えてしまうのは怖かった。
「部屋に籠りっきりやから気ィ塞ぐのはあるやろな。ワシも番人やってたときはそら憂鬱やったわ。とりあえず心許せる相手と会うて喋れるようにしたったらどないや?」
 大人しく成り行きを見守っていたバールが政務机に羽を広げる。神鳥の案に頷くと、アラインは「面会許可を増やしてあげて」とツヴァングに命じた。
『あの……アライン様はおいでになりませんか?』
「そうだな、そのうち顔出すよ。なるべく近いうちに」
 はぐらかすような微笑みに我ながら吐き気がする。
 この感覚はいつかと似ていた。辺境の都を発ってから山門の村へ辿り着くまでの、あの苦しかった毎日と。






 外へ出るなという指示にやはり変化はないようだ。室内にこそ立ち入ってはこないものの、すぐ外の廊下には常に衛兵が番をしている。見張り役とも思える侍女がやって来る頻度も随分高くなっていた。寝室は採光の良い南側に面しているけれど、王城の裏手に当たるため山だの川だの海だのしか観察できない。これでは街や城の様子を知りたくてもどうしようもなかった。
 怪しすぎる。ここまで情報を封鎖して一体何がしたいのだ。
 その気になれば魔法を使っていくらでも脱け出せる状況なのも理解できなかった。勝手な行動は取らないだろうという信頼から部屋の中での自由だけは保障している――そんな感じだ。もっと露骨な不自由を強いてくれれば盗聴なりなんなりの手段に出る気になれるのに。
「風が冷たくなってきたなあ。そろそろ織物市の季節じゃない? 街にはもう行商人も来てるのかな?」
「さあ。私は世事には疎いもので」
 鉄面皮の侍女はバッサリ会話を切って捨てた。「お風邪を召されてはいけませんから」とバルコニーの硝子戸を閉じられ、ノーティッツは仕方なくチェス盤とカードを並べっぱなしにしたテーブルへ戻る。
「だったらどういう話題には明るいの? ぼく会話に飢えてるからちょっと付き合ってもらえると嬉しいんだけど」
「私が聞き手でよろしければお相手させていただきます」
「いや、できたら君の話が聞きたいかなって。仕事の話でも友達の話でも何でもいいんだけど」
「お話することはございません。やたらに身上を語ったり噂話に興じたりするのは行儀が悪いと躾ける家で育ちましたので。あなたも宮廷に仕える方ならおわかりでしょう」
「う、うん……。そ、そうだね……」
 ノーティッツが必死で伸ばそう伸ばそうとしている外界への糸を鋼鉄の侍女は無情に断ち切る。当初からまったく変わらず無愛想で、その分仕事にも無駄がない。取りつく島もないというのはこういうことだなとノーティッツはこっそり嘆息した。彼女には隙がなさすぎるし、ツヴァングは上の意向だとかわすばかりだし、本当に埒が明かない。自分が何かやらかして謹慎させられている最中だとかなら、そう教えてくれればいいのに。
(よくわかんないけど相当ヤバいことしたっぽいよな……)
 虫に食われた記憶の抽斗を探ってみても、参謀長クラスで軟禁や幽閉を受けた例は国家反逆罪くらいしか思い当たらなかった。折しも今は戦時中だし、ドリト島にいた頃は諜報活動の一環としてアペティート軍内に潜り込んだこともある。何か嫌疑をかけられていて、記憶が戻らない限り有罪か無罪かも決められないということだろうか。だったらこの状況もわからなくはないが。
「せめてベルクかウェヌスに会わせてもらえない? 鏡越しとかそんなんでいいからさ」
「面会予定ならございますよ。そのお二方ではありませんけれど」
「それってどうせツヴァング君だろ……」
「いえ、お名前を見たところ女性の方でした」
「えっ!?」
「確かイヴォンヌ・フライシュ様と」
「えっ……!?」






 よもやこんな形で「職場に母親がやってくる」という羞恥プレイを受ける羽目になるとは思いもしなかった。しかも仕事もしないでダラダラしているところを見られるとあってはいい笑い者である。
「なんだい、元気そうじゃないか。あらあら随分男前になっちまってまぁ」
「ちょ、触らないでくれる? 包帯してても痛いもんは痛いから」
 気恥かしさに母を後ろへ押しやると付き添いのツヴァングと目が合った。真面目な彼はノーティッツを見て笑ったり茶化したりしてこないけれど、その優しさが却ってつらい。なんでこんな辱めを受けなきゃならないんだと身悶えてしまう。不満と退屈を訴えたのは確かに自分だが、この仕打ちは無いのではないか。
「ほらこれ見舞品。林檎入りのカスタードパイ」
「あ、ありがと。後で切り分けてもらうよ。この時期じゃまだ果物は高かったんじゃない?」
「うん、別に? 北の方の商隊がもうこっちにも来てたからね。朝の市で安く買えたよ」
「へえ、じゃあ織物市もそろそろかぁ」
 不自然でないタイミングで先程と同じ話題を振ってみる。ツヴァングにも出入り口に控えた侍女にも表情の変化は見られなかった。なんだ、この話はセーフなのか。ということは彼女は隠し事をしようとしたわけでなく、本当に世事に関心が薄いだけらしい。
 情報が入ってこないよう操作されているのではという疑いはこちらの一方的な思い込みだったかもしれない。少なくとも国家反逆罪については考えすぎだったと言えよう。そんな重罪人なら万にひとつも身内と面会などさせてもらえないだろう。
「明日ぐらいには始まるみたいだねえ。母さん何か買っといてあげようか? 今年は毛皮が流行りらしいよ?」
「え!? いい、いいよ」
「遠慮してんのかい? 店の買い出しもあるし、ついでさついで」
「い、いらないって! 母さん何もかも直感で決めるからたまにすごいの引いてくるだろ」
 いらないいらないと連呼するノーティッツにイヴォンヌはむっと顔をしかめた。母親のセンスを信じられないのかという顔だ。生憎信頼できるなら快くお願いしている。大雑把で適当な母に振り回されてきた我が子の半生を思い出してほしい。
「何さ。父さんなら喜んで市までお供してくれたのに」
「も、母さん、お城でこういう話やめよ。家の中の会話聞かれてるみたいでさっきからすごく居心地悪い……」
 両手で己の顔面を覆うとノーティッツは母にさっさと帰宅してくれと水を向けた。ところが何故かイヴォンヌは腕組みしたまま姿勢を崩さない。爪先を返す気配も一切見られなかった。いつもならある程度察して引いてくれるのに。
「母さん?」
 不審に思い呼びかければ普段と変わりない笑みが向けられた。奔放で強い母の顔。どんなに悲しいことがあった日もイヴォンヌはどっしり構えてくれていた。世の中悪いことばかりじゃない、心配しなくても大丈夫さと言うように。
「ずっと面会謝絶だって言われてたから、ちょいと気を揉んでたんだ。けどアンタの顔見たらすっきりしたよ」
「……ごめん」
 ああそうか、そうだよな。家を出てもう長いし、つい忘れがちになるけれど、こんな人でも一応息子を案じてくれてるんだよな。
 記憶喪失になったこと、母は知っているのだろうか。知っていても知らなくても交わす言葉が変わることはなさそうだけれど。
「出歩けるようになったら一度顔見せに寄る。パイありがとう」
 改めた告げた礼にイヴォンヌは満足げな笑顔を見せて出て行った。
「元気出たみたいで良かったです」
 ホッとしたようそれだけ言うとツヴァングも部屋を後にする。
 色々思い過ごしだったかな、と苦い気持ちでノーティッツは寝台に腰かけた。本当に皆、自分を心配して安静にできる環境を作ってくれているだけかも。きっと記憶に欠落があるから疑心暗鬼になっているのだ。裏で何か別の思惑が働いているんじゃないかなんて。
(でも変だよな……)
 もしアラインやベルクが我が身に起きた出来事を長期に渡り忘れてしまうような事態になったら、自分なら何を置いても記憶の復元を試みる。だがノーティッツに対しては、どちらかと言えば何も思い出さないような処置が施されていた。何も起きない室内で、極力刺激を与えぬように、読書や書き物の制限までして。
(誰もぼくに早く思い出してくださいって急かさない。精々ツヴァング君が早く思い出せるといいですねって笑うだけだ)
 どうしてだ? 戦場での凄惨な記憶を含むから?
 でもそれじゃ王城に留めておく意味がわからない。母親に会っていいなら自宅療養で構わないはずだ。
「パイ、お切りしましょうか」
 淡々とした女の声に思考が中断される。生返事でうんと返すと侍女はナイフを取って戻ってきた。
「……」
 ノーティッツは無意識に息を飲んだ。視線の先にあるのは細かな装飾が施された銀の柄。だが瞠目したのはそこではない。彼女の右手、ナイフをくるんだ黒いレースのハンカチ――。

「誰か死んだの?」

 問う声は震えていた。喪中にしか用いないそれにハッと目をやり侍女はしばし言葉を失くす。
「私の……、遠い、親戚が」
 わかりやすい嘘だった。詰まって、詰まって、いつもの話し方とは全然違う。
 彼女は未亡人ではない。結婚指輪を嵌めていないし、家訓の話から考えても未婚であるのは明らかだ。彼女のような女性が夫の方針より実家の方針を優先するとは思えない。
 亡くなったのも身内ではない。本当に親族ならこの律儀な侍女は休暇願を出して駆けつけただろう。一ヶ月半もの間、彼女は毎日ノーティッツと同じ空間で過ごしていたのだ。誰かの葬儀に出席するなんて不可能だ。
 なら死んだのは誰だ。彼女がその死をひっそりと悼むような人物は。
「そう……。そっか、ご愁傷さま……」
 ひとつだけ、たったひとつだけ当てはまる答えがあった。ノーティッツが置かれた現状とも符合する、できれば真実であってほしくない解答が。
 本当にそれが事実なら、葬列に参加できる者は限られるし、国民の誰が喪に服したとしておかしくない。

(……王族だ……)

 この城の誰かが死んだのだ。
 そして自分には凶報が伏せられたままでいる。






 長い廊下をしっかりとした足取りで赤毛の女が歩いてくる。もう結構な年齢のはずだが赤い巻き毛と艶のある瞳が彼女に若々しい印象を与えた。
 伴侶と同じ名を持つ女性にアラインはぺこりとお辞儀する。元辺境の国宮廷魔導師長イヴォンヌ・フライシュのすぐ後ろでツヴァングが目をぱちくりさせていた。どうやら彼にはしばらく姿を見せないものと思われていたようだ。
「すみません、無理を言って。ありがとうございました」
「謝らないでおくれ。あんたに頼まれなくたってアタシからあの子に言えることなんか何もなかったんだ」
 小手先の詭弁が通じる相手ではない。わかっていたから最初から全部打ち明けた。その上でイヴォンヌには何も知らないふりをしてノーティッツと会ってほしいと頼んだ。面会が終わったら自分たちに助言が欲しいとも。
 愛息子が人を殺したと、それも唯一無二の親友に手をかけたと知ったときは流石の彼女も表情を失くした。何かあったんだろうと思ってはいたけどと喉を詰まらせて。
 トローンはノーティッツに非がないことを認めている。イヴォンヌが我が子を連れて帰りたいと申し出ればおそらく了承してくれるだろう。彼の記憶を残すか消すかについても母親である彼女に一存していた。それが一番間違いのない判断だと言うトローンにアラインも同意した。
「あの子は頭のいい子だ。誰も何も教えなくてもいつかは自分が何をやったか真実に辿り着いちまうだろうね」
 親の欲目も贔屓目もなしにイヴォンヌはノーティッツを語る。放っておけばいつか破綻するに違いないという予感は己の中にもあった。いつも僅かな糸口を掴み、助けになってくれたのは彼だったから。
「じゃあやっぱり記憶を……」
 人生の幸も不幸もすべて自分が彼から奪い尽くさねばならない。ぎゅっと拳を握るアラインにイヴォンヌは違うと言うようかぶりを振った。
「そのままにしておいてやってくれないかい。もしあの子が記憶を取り戻して、もう死んじまいたいって言い出しても……そのときは止めないでやってほしいんだ」
「えっ?」
 思わずツヴァングとふたり、イヴォンヌの顔をまじまじ見つめ返した。普通の母親なら真っ先に子供の命と心を守ろうとするだろうに。
「ベルクはきっと全部忘れていいから生きろって言うだろうけど、誰かの希望を叶えることが人生の意義じゃあないだろう? あの子は得難いものを得て、それを失った。ここで死んでもそれが寿命だって思える。あの子にとって、ベルクってのはそういう友達だったんだ」
 だから我が子の人生は最後まで我が子に任せると彼女は言う。これが母としての己の希望だと。
 半分は納得できて、半分は頭が理解を拒絶した。
 だってアンザーツがゲシュタルトたちの元へ向かったのとは理由が違う。ノーティッツが自身を焼き殺そうとしたのは。
「何故ですか? 感じなくていい自責の念で死んでしまうってことですよ!? そんなのおれは……!!」
 ツヴァングの反論にたじろぐことなくイヴォンヌは微笑すら浮かべた。少しだけ困った顔で片眉を下げながら。
「あの子にはあの子の価値感がある。もし罪人じゃなく友人として扱ってくれるなら、わかってやっておくれ」
「……」
 飲み込み切れない感情を無理矢理奥底へ沈めるとアラインは「わかりました」と頷いた。
 結局は現状のまま保留ということか。「友人」としては己は彼に、罪だけ忘れて生きていてほしいと願っているのだから。
「元気お出しよ、あんたたちも。誰にもどうしようもなかったんだ」
 最後に会わせてくれてありがとうと礼を述べ、イヴォンヌは慣れた足取りで角の螺旋階段を登っていった。上にあるのは王族の私室だ。多分これからトローンに謁見して帰るのだろう。
「アライン様……、おれノーティッツさんのところに戻りますね」
「うん。頼んだよ」
「あの……アライン様はあの人のこと見捨てませんよね?」
「何言ってるのツヴァング君。しないよ、大事な仲間なんだから」
「……。信じてます、おれ」
 不安げに揺れる瞳を伏せてツヴァングは足早に廊下を戻っていった。静寂の中、遠ざかる足音だけが耳に響く。
 本当にどうしようもなかったのかな。
 胸中で自問した。奇跡を起こすのが勇者の役目だったんじゃないのかと。
 口を開いたら死人を責めそうで怖かった。一番腹が立つのは肝心なときに仲間と一緒にいられなかった自分だけれど。
「無理したらアカンで、アライン。しんどいときはしんどい言うて手ェ貸してもらわな」
「……わかってるよ」
 バールがいてくれて良かった。定位置になっている右肩を振り返り、改めてそう思う。
 ひとりだったらきっと意地も見栄も張れずに、とっくに心が折れていただろう。






 沈んだ心地のままツヴァングがノーティッツの部屋へ戻ると、扉の前で青褪めた侍女が待っていた。小さく潜めた声に告げられたのは「見られました、申し訳ありません」という謝罪。彼女は折り畳んだ黒いハンカチを握り締めていた。
「見られただけか?」
「いえ、誰か死んだのかと聞かれました。私の親類ですとお答えしましたが……」
「……」
 動揺を押し殺しながらツヴァングは扉を開く。前室を通り抜けて寝所へ続く戸を叩けば「どうぞ」といつもの声が返った。
 どうかまだ何も勘付いていませんように。そんな祈りは空しく散った。窓辺に立つノーティッツの横顔には昨日までなかった憂いが深く刻まれていた。
「どうしたのツヴァング君? 真っ青だよ?」
 そう尋ねてきた彼の方が余程蒼白な顔色だ。本当に気づかれたかもしれないと身が竦む。
 イヴォンヌは何かあってもノーティッツの判断に委ねてくれと言っていたが、自分にはそんなことできそうになかった。
 ただ不運だっただけではないか。勝手に四肢を操られて、己の意思とは無関係に放った魔法が最悪の結果をもたらした。ただそれだけ。
 ノーティッツが割り切れないだろうことはわかっている。事実を受け入れられるなら最初に目を覚ましたとき死のうとなんてしなかったはずだ。
 守ろうとして何が悪い? 取り返そうと命まで賭けた男の希望を代行して何がいけないと言うのだ。死んだ者にはもう何もできないのだから、生き残った者が願いを受け継ぐべきなのでないのか。
「寒くなってきましたから、風邪でも引いたかもしれません」
 震えている理由は適当に誤魔化した。ノーティッツも特に追及はしてこない。ただ何か確かめたそうにこちらを見つめ、黙ったままでいる。
「……暇ならチェスかカードでもしない?」
 短い沈黙が去った後、彼は小テーブルを指差した。何を考えているのだろうと表情を窺うが、曖昧な笑みから読み取れるものは何もなかった。
 否、ひとつだけ。漠然とした恐怖と緊迫が室内を満たしている。だがその感情が自分のものなのかノーティッツのものなのかは判別しかねた。
 ゲームに集中できないまま何度か勝敗を決する。惨敗するかと思ったのに内容は大して悪くなかった。違和感を覚えるうちにノーティッツの方も散漫になってきて、ついに背凭れに沈み込んでしまう。
「あのさ、ツヴァング君。変なことお願いしてもいい? ――今夜ひと晩この部屋にいてほしいんだ」
 顔の左側を抑えながら彼が言った。意図を探ろうと視線を向ければ弱り切った目が指の隙間から覗く。
「毎日同じ夢を見るって話しただろ。今日に限ってそれがものすごく不安なんだよ。自分でも異常だなって思うくらい」
 お願いと重ねて乞われ、ツヴァングは一も二もなく頷いた。ともかくノーティッツが心配だったし、夜の間に火傷を悪化させていないか確かめるまたとない機会だった。
「わかりました。おれ、側についてますから。苦しかったり辛かったりしたら言ってください」
「……ありがとう。頼むね」
 何があろうと自分はベルクが守ろうとしたものを守る。見捨てたり見離したり、絶対にしない。自分だけは。
 だって他に報いる方法などないのだ。ないのだから。






 ぐるぐる回る。世界が回る。遠心力に負けて吹き飛んだ断片が弾ける。
 ぐるぐる回る。思考が回る。手に入れたピースから全体像を描き出すために。

 ノーティッツは金属でできた狭い通路に立っていた。背の高い男がこちらに銃を突きつけていて、こめかみが少し痛む。
 目の前には怒りを露わにした幼馴染。俺がわからないのかと必死に叫んでいる。
 夢にしては生々しく、すべての感覚がリアルだった。早鐘を打つ心臓も、不快なほどの息苦しさも、己の構築した風魔法も。
 真下は海だ。そしてここは空の上だ。わかっているのにぼくは何をしているのだろう。どうしてあいつを吹き飛ばそうとしているんだ?
 世界が回る。まるで悪い目眩のように。――負けてしまう。強すぎる回転に。

「じゃあな。来世で会おうぜ」

 非情な宣告が合図だった。軍服の男は銃口をベルクへと向け連射する。かわしきるにはオリハルコンで身を守らねばならなかった。だが剣は今、突風をやりすごすため鉄の床に突き刺さっている。
 どうしてぼくは風を止められないのかな。
 隣の男に一撃食らわせてやれないのかな。
「……」
 視界からベルクが消えた。呪符でぐるぐる巻きにされた一番強い爆弾が幼馴染を追って行った。
 迸る光と熱。鼓膜と天を揺らす轟音。
 どうしようもなくて膝をつく。ブルフに腕を掴まれて、ずるずる奥へ引き摺られて行った。
 目が覚めたらまた全部忘れてしまうんだろうか。
 そして明日も明後日も同じ夢を?
 なんて意味のない。そんな中途半端な罰では駄目だ。天界の古い法律書にはもっと相応しいものが書かれていた。
 悪さを働いた魔法使いは火炙りの刑に処されるのだ。



「……さん! ノーティッツさん!! ノーティッツさん!!!!」



 耳元で誰かの呼ぶ声がした。瞼を開いて見てみればツヴァングの目が赤く照らされ歪んでいる。綺麗な瞳が台無しだ。
 何の夢を見てたんだっけと手繰り寄せようとした糸は、途中で切れてたわんでいた。寝る前に巻き直したはずの包帯も解けて寝台に散らばっている。
「ノーティッツさん、火を消してください!!!!」
「え?」
 言われて周囲を見てみればさして大きくもない炎がそこかしこで揺らめいていた。己の顔も妙に熱く、焦げつくような臭いが充満している。
 寝ている間にまたやったのか。夢なんて欠片も覚えていないのに。
(覚えてなくても……。いや、覚えてないからわかっちゃうんだよな……)
 漏れ出た魔力を引っ込めさえすればそれ以上の延焼はない。ただ身の内を焼き尽くすような高温だけは如何ともし難かった。
「大丈夫ですか? 火傷がまた……!」
 不得手な魔法でツヴァングはノーティッツの傷を癒そうとする。優しい光が粒となり降り注ぐが、熱を持った頬は頑なに痛みを手離そうとしなかった。これだけは忘れてはならないのだと主張するように。
「いいよ、治さなくて。それよりツヴァング君こそ怪我してる」
 どこかまだぼうっとしたままノーティッツは赤い血を噴き出している腕に触れた。おそらく揺り起そうとしたときに受けた傷だろう。魔力の暴走現場に立ち会うことなど滅多となかろうに、よくぞこんな若者がひとりで冷静に対処できたものだ。
「おれのことはいいんです。こんなの何ともないですから」
 だからまず自分の怪我をどうにかしろと彼は言いたかったのだろう。だがノーティッツが返した反応は彼の好意を否定するものだった。
「君が誠意を尽くしてくれるのは、君がベルクの最期を看取った人だから?」
「……、何……」
 狼狽したその表情に落胆の念が湧く。やっぱりこれが正解だったのか。信じたくなかったけれど。
「何言ってるんですか……、ノーティッツさん……」
「それ癖みたいだね。嘘ついた後すぐ目を逸らす。だから弱いんだよ、カード」
 それきりツヴァングは言葉を失くし黙り込んだ。退いてくれと命じれば存外素直に寝台から腕を降ろす。
 ピースが揃えば想像は容易だった。王族の死が事実ならノーティッツに伏せられる話などひとつしかない。しかも軟禁のおまけつきだ。否が応でも己が深く関わったことを見出してしまう。
 寡黙な娘が侍女に選ばれたのは余計なことを喋る女だと困るから。兵士の城と親交のないツヴァングが率先してノーティッツの相手をするのは彼とベルクに何らかの繋がりがあったから。
 アペティートの飛行艇から落ちて記憶喪失? 笑えない冗談だ。
 ずきずきと頬が痛みを訴える。
 世界はまだ足元を突き崩すような回転を続けていた。






 侍女からの報告とイヴォンヌの言葉が気になって、その夜はアラインも兵士の城に留まっていた。
 誰かの魔法が無茶苦茶な形で発動するのを感じたのは夜明け前。ハッと顔を上げ向かいの棟に目をやるとノーティッツの寝室が薄闇に仄赤く浮かび上がっていた。
 読みかけの書類もそのままにバールとふたり廊下へ飛び出る。異常を察したディアマントも同様に奥の一室から駆け出てきた。
「お待ちくださいお兄様! ノーティッツのところへ行くのでしょう? 私もお連れください!」
 冷えた回廊に悲痛な声が響く。ウェヌスは侍女に伴われ、白絹の寝間着姿のまま長い髪を振り乱していた。お腹こそかなり大きくなっているものの、手足はやつれ顔にもあまり生気がない。確か彼女はクラウディアから「出産が済むまでノーティッツとは会わないように」と言いつけられているはずだ。ただでさえベルクの死が大きな負荷となっているところへ、これ以上のストレスは悪影響にしかならないと。
「もう堪え切れません……! 仲間が側で苦しんでいるのに自分ひとりのうのうと過ごしているなんて、私には……!!」
 困り果てたディアマントの肩をバールが蹴り飛ばす。「どないすんねん、はよ決めんかい!」と急かされた彼は妹を抱きかかえ廊下にふわりと翼を広げた。
 一刻を争う事態かもしれない。迷っている暇はない。速度を高めたアラインの横をもう一羽の神鳥が通り過ぎた。中庭の樹をねぐらにしているラウダだった。
「ツヴァングが宥めてくれているようだ。しかし急いだ方がいいかもしれん、様子が変だ」
「……! わかった」
 きっと覚悟が必要だ。先延ばしにしてきたことを、もう決めなければならないのだ。死を見届けるか、すべて無かったことにするか。
(止めないでやってほしい……か)
 なんて難しい注文をするのだろう。
 めでたしめでたしで幕を降ろすのが生業であるこの自分に。



「アライン……」



 ふたつ目の角の階段を降りたらノーティッツの部屋はすぐだった。
 燃え切れた絨毯と焦げついた調度品に囲まれて魔法使いは立ち呆けている。
 ラウダの言った通り室内の雰囲気は異様だった。歯噛みするツヴァングの様子から察するに、ノーティッツはかなり真相に近いところまで読み当ててしまったのでないかと思えた。
「まずいであれ。目がどっかイッとる」
 耳元でバールが息を飲む。背後にはディアマントとウェヌスが遅れて駆けつけた。
 近くにいた衛兵に人払いを頼むとアラインは虚ろな顔の友人と対峙する。
 ノーティッツは静かだった。泣きも叫びもしなかった。
「君がぼくの記憶を消したの?」
 闇魔法はまだ解けていないはずだ。しかしすべてお見通しなのか、彼はまったく淀みなく問う。
「消したんだろ? ぼくが暴れて困ったから、君が応急処置をしたんだ」
 語調は強く嘘を許す空気はない。そうだと頷くしかなかった。
「黙っててごめん」
「謝ってほしいんじゃないよ。今すぐ魔法を解除してくれれば」
 できるわけないと唇を強く噛み締める。先程暴走を目の当たりにしたばかりのツヴァングはしきりに首を振っていた。
 何のために今日イヴォンヌと会ったのだ? ひとりではどうしても決められないから彼女を頼ったんじゃなかったのか?
 親子の意に沿うのなら記憶は元に戻すべきだ。それが新たな悲劇を生むきっかけにしかならないとしても。
「……ごめん。できない……」
 口を衝いたのは決意とは真逆の台詞だった。まだ微かな希望に縋りつこうとしている。どうにか絶望を避けられるはずだと足掻いている。



「――ぼくがどうやってベルクを殺したのか思い出させろって言ってるんだ!!!!」



 そうじゃないならそうじゃないって言ってくれ。血を吐くようにノーティッツは声を震わせた。
「……」
 城に閉じこめておくのじゃなく、どこか遠い国にでも旅立たせれば良かった。ベルクのことや戦争のことなど考えないで済むぐらい、たくさんの仕事を任せて送り出してしまえば。
 ノーティッツの推測を裏切る声は誰からも出てこない。ツヴァングも、ディアマントも、ウェヌスも、ラウダも、バールも、黙って見ているしかできなかった。彼が失意に飲まれていく様を。
「本当にぼくなんだ? ぼくがあいつのこと……」
 ここまできたら隠しても話しても同じことだろう。アラインは断腸の思いでノーティッツにかけていた術を解いた。やはり記憶のすべてを消し去ることはできなかった。彼の中からベルクという存在を奪うことは。
「――……」
 涙がひと筋赤黒く変色した頬を伝い落ちる。
 次に彼がどんな言葉を発するか、誰もが固唾を飲んで見守った。
「ベルク……」
 煙のような黒い靄に気づいたのはそのときだ。
 初めはまたノーティッツが魔力を制御できなくなったのかと思った。その予測は半分だけ当たっていた。
 抑制は最早できなかったのだろう。火傷の痕から内側へ入り込むように、靄は一瞬でノーティッツを覆い尽くした。そうして彼を真っ黒な塊に変えてしまった。

「あ……」

 見覚えのある光景にアラインは瞠目する。
 ぐにゃりと歪んで定まらぬ輪郭、黒一色に染まる心身。
 アンザーツのときと同じだった。ゲシュタルトを殺された彼が魔道に堕ちてしまったときと。

「いけませんノーティッツ、それ以上自分を呪っては……!!」

 踊り出ようとしたウェヌスを生温い風が押し返した。ノーティッツを中心に突如渦巻状の強い風が発生したのだ。すべてを拒むと言いたげな風が。
「ノーティッツ!!」
 何とかこれ以上の魔物化を食い止めようとアラインは神鳥の剣を掲げた。こちらも譲り受けた遺品だった。
 人か魔物か曖昧な生き物が輝きに釣られて振り返る。爛々と光る赤い眼は既に魔性に魅入られていた。
「なんやこれ……」
 いざ神具に祈りを込めようとしたときだった。すぐ側でバールの焦り声が響いたのは。
「ラウダ、はよ逃げェ!! こっちに来るんやない!!!!」
 黒い風の一端が青銀の羽を絡め取っている。掴まれたバールは奮闘空しくあっという間に靄に飲み込まれた。何が起きたのかわからなくてバルコニー側にいた神鳥を見やる。聖獣の肉体を纏った彼にも風は巻きつき、凄まじい力がラウダから自由と意思を奪っていった。
 何もかも一瞬だった。悲鳴を発する暇さえなく、二羽の神鳥は黒い塊の一部として取り込まれたのだ。
「ノーティッツ? 何をしたんだ!?」
 動悸がする。冷や汗で服が張りつく。
 聞いても無駄だとどこかでわかっていた。アンザーツは闇堕ちの際、魔力を安定させるためファルシュと同化した。
 おそらくそれと同じことが起きただけだ。同じことが、ラウダとバールにも――。

「行ってはなりません! ノーティッツ、ノーティッツ!!」

 泣き縋るウェヌスの腕を振り切って影はガラス窓を突き破った。引き留める声も届かないのか、夜空に黒翼を広げると「それ」はたちまち北へ飛び去ってしまう。
 アラインはノーティッツを追いかけた。追いついたところで何ができるのかなんてわからなかった。それでも今追わなければ、二度と彼に会えない気がした。






 どうしてだと呟くことすらままならない。
 どうしてこんな風になるのだ。大それた野心を抱いたわけでもないのに。ただ残されたものを守ろうとしただけなのに。
(嘘だろ……? なんで魔物になんか……)
 ふらつきながらツヴァングは周囲を見渡した。ノーティッツとアラインがいなくなった室内は壊れた調度品とその燃え残りで滅茶苦茶だ。同じく空を飛ぶことのできるディアマントがふたりの後に続こうとしたけれど、腹を抑えて崩れ落ちた妹に気がつき足を止めた。
「おい、大丈夫か?」
「お兄様……、早く、ノーティッツを……」
「おい、しっかりしろウェヌス! 誰かいないのか!?」
 回復魔法を得意とするウェヌスが自らを癒すこともできずに呻いている。単なる心労でないのはすぐわかった。
 ばたばたと駆けつけてきた侍女たちが身重のウェヌスを取り囲み、半分泣きながら「破水なさっています」と叫ぶ。
 切迫早産なんて言葉は知らなかった。出産には時期が早すぎると、それだけは理解できたけれど。
「ともかく早く清潔なベッドへ!」
「ディアマント様、ディアマント様は隣について癒しの魔法を」
 侍女は皆悲愴な顔をしていた。たとえ生まれても赤子の命には期待できないとか、このままでは母体も危ないとか、そんな言葉だけいやに耳に残る。
 どうしてこんな風になるのだ。
 連鎖する悲しみがどこで止まるのかわからない。






 北へ逃げる彼を追う。ノーティッツを取り巻く黒い魔力の靄は時間とともに肥大し膨れ上がっていった。まるで新たな破滅がもたらされたかのように。
 人間から魔族へと変貌を遂げる可能性があるのは魔法の素養を持つ者のみだ。ゲシュタルトもアンザーツもハルムロースも己の魔力と魔物の魔力を融合させて巨大な力を手に入れた。
 元々魔物はツエントルムに作られた生命体である。彼は野獣や虫、植物に自らの魔力を分け与えた。闇魔法を媒介とすることで同時に人間への敵意も植えつけながら。
 神の死後は魔物を生み出すシステムだけが取り残された。ディアマントが不死の契約を維持しているのと同じである。効果は徐々に弱まっているものの、彼の魔力はまだ様々な形で地上に残留しているのだ。
(……それが全部、ノーティッツに集まってきてる……)
 激しい呪いが魔法使いを魔物に変える。その原因がかつて神として君臨した男にあるのは明白だった。憎悪は憎悪を引き寄せ、やがて一体化してしまう。負の感情を帯びた魔力を取り込むから魔物と同じ生き物になる。
(どこまで大きくなるんだ)
 通常の魔道堕ちなら魔物数匹で打ち止めになるはずだ。だがツエントルムが去って久しく、魔物の肉体と魔力の結びつきが希薄になっているせいか、ノーティッツの魔力吸収は一向に終わる気配がしなかった。
 触れさえすれば力は奪える。こちらにしか扱えない術もある。もし彼が世界ごと終わりを望んだときは、自分がこの手で引導を渡さねばなるまい。

「ねぇアライン」

 北の果て、岩山の神殿を見下ろしながらノーティッツが黒翼を止めた。
 ただただ醜悪な邪気を撒き散らしていた身体は青く薄い羽毛に覆われた魔族のそれに変わる。黒い羽も神鳥を彷彿とさせる青銀に染まった。ようやく彼に取り込まれた魔力が定着したのだ。

「なんで殺さないの?」

 振り返ったノーティッツに元の面影はほとんど残っていなかった。銀髪に赤い眼、褐色肌に痛ましい火傷痕。情の通わない冷たい眼差し。
「ひょっとしてまだ説得できるって思ってる? ニコニコ笑って仲間ごっこができるって?」
「ノーティッツ……」
 昇りかけた太陽が空の天辺を照らし出す。漆黒に紺が混ざり、朱が混ざり、夜明けの訪れを知らしめた。
 だがアラインには長い長い夜が始まったようにしか思えなかった。
 ベルクもいない、イヴォンヌもいない、マハトもいない、アンザーツたちも、バールまで。
 こんな世界じゃ星の輝きなんか見えやしない。目の前は真っ暗でぐらついたままだ。
「ごっこじゃない、仲間だ」
「嘘つき。勝手に記憶を奪ったくせに」
「嘘じゃない! 僕はただ、ノーティッツまで死んでしまったらって……」
「じゃあその戦闘態勢やめろよ。ぼくも君を攻撃したりしない」
 忌々しげに吐き捨てられた言葉で自分の手が剣の柄にかかっていたことを知る。わけのわからない焦りと動揺が順繰りに胸を焼いた。どうして。わからない。混乱している。――救えないかもしれない恐怖に怯えている。
「それ、こっちにちょうだい」
 魔物の指が神鳥の剣を示した。戦わないなら不要だし、友人の形見なら貰っていいだろうと彼が言う。
「……ノーティッツ、死のうとしてる? 誰かに殺されたいと思ってる?」
 もしそうだと返答があればすぐにも力と記憶を奪うつもりだった。ノーティッツが剣を欲しがるのもこの剣で自分を貫こうとしているからではと不安で仕方なかった。
「まさか。地獄なんてないってわかってるのに死んでどうするのさ」
 半ば無理矢理オリハルコンの剣を奪ってノーティッツは飛び退る。今すぐ命を断つつもりはないとわかると少しだけホッとした。
「ひとつだけ感謝するよ、ぼくに考える時間をくれたこと。思い余って自殺だなんて馬鹿な選択をしなくて良かった。死んでしまえば悪人も善人も行き着く先は同じだしね」
「……ノーティッツ?」
「バールやラウダには悪いことしたけど、もう人間に戻る気はない。兵士の国にも帰らない」
「ノーティッツ、何言って……」
 大切そうに神鳥の剣を脇に抱え、ノーティッツは大翼を翻した。思わずその背に腕を伸ばすが「来るな」と鋭く釘を刺される。

「優しくされて嬉しいと思うか? 忘れさせてくれってぼくがいつ頼んだ? そんなのは御免だ。お前のせいじゃなかったなんて言葉は死んでも耳にしたくない。――でももし冥界であいつに会ったら、あの馬鹿きっとそう言うだろう?」

 だからぼくはこの先ずっと魔物の身体で生き延びるんだ。そう聞こえた。
 誰の慰めも、慈悲も、許しも要らないと。罰してくれぬ他人の代わりに自分で煉獄を作るのだと。

「ノーティッツ……ッ!!」

 青銀羽の魔物は一直線に足元の神殿へ逃げ込んで行った。古く神聖な建物は結界を張りやすい。簡単には侵入させてもらえないだろう。
 もう放っておくべきだろうか。最悪の結果だけは回避したはずだ。誰かを傷つけてやろうとか、復讐してやろうと思って彼は魔物になったのではない。今までと同じ人間でいることを拒んだだけだ。自分で自分に人でなしの烙印を押しただけ。
「……」
 アラインは目眩のする頭を抱えながら魔王城へ飛んだ。たくさんいた魔物たちは皆姿を消していて、ユーニもイデアールも見つけられなかった。
 首飾りの塔でも剣の塔でも同じだった。大陸から魔物という魔物がいなくなってしまったようだった。

(もう帰ろう、もう……)

 疲れ切ったアラインが兵士の城へ戻ったときには朝日も随分高く昇っていた。この時間帯ならもっと活気があってもおかしくないのに王城内は妙にひっそりしている。時折誰かの漏らした嗚咽が響いてきて、また何か悲しいことがあったのだなと気が滅入った。

「アライン様……、ウェヌス様が……」

 もう涙も出てこない。顔面をぐしゃぐしゃにできるツヴァングが羨ましいくらいだった。
 聞けばアラインがノーティッツを追いかけている間にウェヌスの容態が急変し、母子ともども喪われる死産となったのだという。光魔法に心得のある者が何人も側についていたが、衰弱した彼女の肉体では最後までもたなかったそうだ。遺体はまだディアマントが抱えたままでいるらしい。
「ノーティッツさんはどうなりましたか? ちゃんと帰ってきてますよね……?」
 声を絞る気力もなくて首を振る。
 説得は不可能だった。ノーティッツはもう自分たちに何も期待などしていないのだ。
 糾弾されたいのは自分も同じかもしれないと自虐的な気分になる。そしてツヴァングは、失望をそのまま口に出してくれる正直な若者だった。

「なんでなんですか!? アライン様、見捨てないって言ったじゃないですか……!!」

 見捨てていないと言い張るのも困難で、ただ黙っているしかない。二度と使うことなどないと思っていたセレモニー用の作り笑いを貼り付けて。
「おれは必ずあの人を連れて帰りますよ!!」
 それとも本当に笑いたかっただけだろうか。小さくて弱い自分を。







 別の大陸にいたおかげか、混ざった人の血のおかげか、エーデルにノーティッツが魔物化した影響は及んでいなかった。ウェヌスの訃報を受け取った彼女とクラウディアは直ちに帰国し無言の元女神と対面した。ラウダやバール、ノーティッツのこともひと通り説明したが、誰も明確にアラインを責めてはこない。こんな形でノーティッツの気持ちがわかるなんて皮肉だった。
 誰かが言ってくれたら良かったのに。
 勇者のくせに何もできないのかと。
 そうしたら、そう在り続けることをどこかでやめられたかもしれない。
 ウェヌスの葬儀が終わった翌日にはツヴァングは姿を消していた。宣言通りノーティッツを探しに旅立ったのだろう。いい意味でも悪い意味でも彼は純粋無垢だった。自分にもそんな時代があったはずなのに、何故か思い出せない。
 こちらの心境など知ったことかと言わんばかりに世界は迷走を続けた。紛争には終わりが見えず、結局あらゆる地域に軍事介入せねばならなかった。
 アペティートとビブリオテークはほんの一年足らずで既存の体制が完全崩壊した。少しでも機能している自治組織を傘下に組み込みながら、アラインは戦争の鎮圧と抑止に努めた。それが一番勇者らしい行動で、一番何も考えずに済んだ。
 トローンとウングリュクにはやり過ぎだと窘められたこともある。だがアラインの操る魔法は人々の心に強い印象を与え、いつしか勇者の称号とともに平和を表す代名詞となっていた。
 そしてゆっくり、ゆっくりと、ひとりぼっちになっていった。






 ******







 強い魔法使いほど歳を取らない。さして見た目が変わらないまま、非常に緩慢に老いていく。そんな誤った認識が一般化した頃、クラウディアが他界した。七十歳だった。

「それじゃアライン、元気でね」

 謁見の間からエーデルが退室する。孫娘と揶揄されるほど外見に差異ができても彼女とクラウディアはずっと仲睦まじい夫婦だった。子供はいない。ひとり目もふたり目も流産に終わり、もう作らないと決めたのだそうだ。
「ディアマントはどうするの? エーデルに付いて行くなら僕と契約し直してみる?」
 残された金髪の男にそう問うと小皺の出てきた顔を顰めて首を振る。相変わらず余計なお節介を嫌う性質らしい。今のままでは積年の思いを告げることさえ叶わないのに。
「妙な気を回すな、私は現状に満足している。……それにこの契約も、唯一親が残してくれたものだからな」
「変なところで真面目だよねえディアマントって。はあ、なんだか一気に都が淋しくなっちゃうなあ」
 アラインが王位について今年で五十年だ。半世紀の間にたくさんの出会いと別れがあった。この歳になると親しい誰かを見送るのも精神的に堪える。
「仲間ならまた作ればいい。お前は慕われているだろう」
「駄目駄目、みーんな言いなりなだけだもん。クラウディアが宮廷に出入りしなくなった途端、僕に過激なこと言ってくれる人いなくなったしさ」
「ひとりぐらい骨のある奴はいないのか?」
「いても周りに寄ってたかって潰されちゃうんだよね。議会までそんなだから、却ってこっちが気疲れしちゃうよ」
「……ままならんな」
「うん、ままならない。それでもやっぱりエーデルと出て行く?」
 後ろ髪を引いた甲斐はあまりなかったらしい。ディアマントはごくあっさりと頷いた。
 彼からすれば当然だろう。エーデルと秤にかけて彼女より重く沈むものなど何もない。
 ――そうか、やはり人の街では暮らしにくいか。ゆっくりとしか年齢を重ねられぬ身では。
「ねえ、やっぱり契約させ直してよ。僕からのお祝いに」
 クラウディアの喪も明けぬうちにこんな言い方をしては怒られそうだが、多分当人もぷりぷりしながら祝福のバトンタッチをしたがると思う。さっさと夫婦の契約を結んでしっかり守れとまで言いそうだ。
「さっきも要らんと言っただろう。言葉にすれば不死は解けるが言葉にせずとも思いは交わせる。あの女も私が変わることを望んではいないさ」
「……真面目だなあ本当。もう少し私利私欲に走ってもいいんじゃない?」
「馬鹿を言え」
 踵を返したディアマントに躊躇いは見受けられない。エーデルの隣が空くのを待っていたのもおそらく自分のためではないのだろう。心底恐れ入る。
「どこに住むの? 魔王城? それとも旅暮らし?」
「両方だろうな。近くまできたときは寄ってやる。精々退屈していろ」
 広い背中が見えなくなるとアラインは深い溜め息をついた。
 エーデルはもう教会関係者に挨拶を終えただろうか。用が片付けば彼らは都の民でなくなる。庇護を望まず「ふたり」で生きていこうとする彼らが今の自分には酷く眩しい。
 あと百年は長らえてくれるだろう。でも二百年はどうだろうか。黙って座っているだけで周囲に漂う魔力を集めてしまう自分は確実に取り残されるに違いない。
 破滅の魔法。処理の仕方を間違えてしまったのかな、僕は。
 知っているなら誰か教えてほしかった。
 アペティートを抑えつけ、ビブリオテークを組み伏して、三大陸に跨る平和な大国を作ったけれど、心はずっと波立ったままだ。
 この道で良かったのかな。本当に良かったのかな。
 誰も「はい」しか言わないんだ。
 少しずつまともな会話も減っているんだ。
 だからなんだかわからなくなってしまう。






 訃報は続いた。次にこの世を去ったのは山門の神殿を護る巫女だった。
 アラインにとっては特別な人間だ。迷いの中にあったとき灯をくれた聖女。
 ――彼女が道を照らしてくれることももうないのか。
 悲嘆に暮れるアラインの元に一通の手紙が届いた。どうやら死期を悟った彼女がアライン宛てに書き遺してくれたものらしい。黒い蝋で封じられたそれを破ると巫女の最後の予言が現れた。いかにもシュトラーセが告げそうな、未来への希望が秘された言葉だった。


『道の果てにあなたを待つものが必ずあります。勇者様、どうかあなたが何者であるか忘れずいてください』


 希望が時に凶器になり得ると彼女は知っているのだろうか。
 死ねないのなら歩み続けるしか術はない。だがどうやら果てがあるらしいことにアラインは歓喜していた。
 世界を破滅から遠ざけながら、すべてが終わるその日を待つ。
 己の抱えた矛盾にもそのときは気がついていなかった。否、気づかないふりをしていた。
 狂い出したのは世界か自分か、答えを出すわけにいかなかったから。







(20130316)