――妹をあんな状態にしてくれた大梟をようやく追い詰めたと思ったのに、あと一歩のところで取り逃がしてしまった。それは覚えている。その後すぐブヨブヨした巨大な黒い生物が現れて、勝手に苦しみ始めたことも。
 どうやら自分は正体不明の魔物に飲み込まれたらしい。ディアマントに判断できたのはそれだけだった。
 目の前にはひたすら真っ暗な闇が続いている。剣で斬りつけても手応えは皆無で、元いた場所へは戻れそうになかった。
(何かの魔法に囚われたのかもしれんな……)
 だとすれば効果が切れれば自動的に弾き出されるかもしれない。そう思い空間を攻撃することはやめた。
 どうせここを出られたとしても、ハルムロースたちを倒してしまえば今度はエーデルを――。
(……)
 かぶりを振ってディアマントは歩き出す。
 誰かいないかきょろきょろ辺りを見渡せば、薄ぼんやりと明るく光る場所があるのに気がついた。
(なっ……!?)
 近づいてみて驚愕する。そこに見えたのは天界にあるはずの神殿の一室だった。
(馬鹿な、何故魔物の肉体の中に!)
 だがその光の奥へ行くことはディアマントにはできなかった。透明の壁が自分とそこを遮断していた。まるで絵本の内側と外側のように。

「……オーバスト。昔のお前のように、またわたしに抗議しようという者が現れたよ」

 ディアマントは言葉を失う。
 父である神がそこにいて、鳥籠の中の神鳥に語りかけていた。
(オーバストだと? あれが?)
 黄金の籠の中にいたのは片翼の神鳥だった。右側の羽が欠けていて、そのせいか空を飛ぶことができないらしい。
「神様……」
 顔を上げた神鳥はどこか虚ろに父の姿を見つめ返す。仄かに青く輝く小さな球体を。
「もう友人だったときのよう、ツエントルムとは呼んでくれないんだね」
 これはオーバストの記憶だろうか。だとすればおそらく今自分は闇魔法の中にいるのだ。
 ごく、と小さく息を飲みディアマントは目を瞠った。こんなものを勝手に見るべきではない。そう思うのにどうしても視線が逸らせない。
「ああ、いいんだよ。何もお前を責めているんじゃない。寧ろわたしももう一度世界のありようを考えるときが来たのかなと思っているんだ」
「……本当ですか?」
「ああ本当だ。長いことお前をこんなところに閉じ込めて悪かったね。……ねえオーバスト、お前わたしの代わりに少し地上を見てきてくれないか? そうして人々がどんな風に暮らしていたかわたしに教えてほしいんだ」
「私が地上に……?」
「そう、盾の塔にさえ行かないでくれればどこで何をしても構わない。お前にはひととき自由と人の身体を与えよう」
 父はそう言い触れもしないで鳥籠の扉を開いた。光が溢れ、一瞬の後に神鳥は青年の姿に変わる。それはディアマントがよく知るオーバストの姿だった。
「わたしと何か話したいときは右手に呼びかけるといい。――さあ行っておいで」






 忘れよう忘れようとしていつまでも己を苦しめる記憶にオーバストはゆっくりと落ちていく。
 誰かがそれを覗き込んでいるのには気づいていたが、魔法の浸食を拒むことはできなかった。
(ディアマント様……)
 縁にいるのはきっと彼だろう。こんな魔法の中にあって、自分が強く呼び込んでしまう存在など他には思いつかない。
 この闇魔法が解けるまでに追憶はどこまで進んでしまうのだろうか。
 瞼を閉じればまた過去が動き出す。広がるのは地上に降りてからの景色だった。
 辺境の国の古い村、今はもうない古代遺跡のすぐ側の――そこで彼女に出会った。美しく優しいディアーナ。心から愛した人。
 どこへ行っても自由だと言われ、オーバストは感動とともに大地を踏みしめた。地上は初めてと言うわけではない。聖獣として塔に落とされたときも勇者の国なら間近に見た。だが己の足でこうして歩くのは初めてだった。
 色々な書物を読んで勉強してから行ったつもりだが、それでも自分はこの街の中で浮いていたらしい。どちらのお国からいらしたの、と尋ねてきたのは豊かな金髪の少女だった。
 彼女は将来を約束された魔法使いで、両親とも高名な魔導師だった。宮廷で国王にさえ謁見すればすぐさま賢者と呼ばれるほどの実力の持ち主だった。
 けれどオーバストは彼女に魔法使いや賢者という言葉は似合わないと思った。ディアーナは清らかな花のようだった。湖よりもっと澄んだ青い瞳がオーバストはたちまち好きになった。ディアーナもオーバストの手を握り返して嬉しいと言ってくれた。
 神様、神様、と呼びかけたのは彼女と出会った一ヶ月後。地上の人を愛してしまったと真正直に伝えれば、ツエントルムは祝福の言葉を返してくれた。そうか、それは良かったねと。
 嬉しかった。自分とア・バオ・ア・クーを引き裂いたツエントルムが自分に自由をくれたことも、その選択を肯定してくれたことも。彼は本当に天変地異の魔法を取り下げるつもりかもしれない。オーバストはもうツエントルムに逆らう心などなくしていたけれど、もしかしたら自分の報告次第では様々なものが変わるかもしれないと期待した。
 素性こそ明らかにはできなかったものの、上級魔法を用いることのできたオーバストはディアーナの配偶者候補として彼女の両親に認められた。結婚の約束をして、ふたりで暮らす家を建てて、やがてそこに移り住んだ。
 ディアーナと過ごしたのはほんの数年だ。けれど毎日とても満たされていて、こんな幸せが人の数だけあるのなら天変地異などで壊してはならないと実感した。いつかツエントルムの元へ戻ったときにはそう伝えようと思っていた。
 やがてディアーナは身籠った。どんな赤ん坊が生まれてくるのかドキドキしながらオーバストは出産のときを待った。男の子だろうか女の子だろうか、名前は何にしようか、どちらに似ているだろうか。考えるだけで気が逸った。ディアーナが産んだのは美しい男の子だった。
 一晩生きた心地がしないまま待ち続け、やっと産婆が「ディアーナはもう大丈夫」と言ってくれたのが昼過ぎのこと。飛び込んだ寝室のベッドで彼女は生まれたばかりの赤子を抱き、半身を起き上がらせていた。
「まだ横になっていないと!」
 慌ててそう言うと彼女は笑った。抱かせてもらった小さな我が子の蒼い瞳と黄金の髪は彼女にそっくりだった。
「ありがとうディアーナ、よく頑張ってくれたね」
 妻を労いオーバストは彼女の額を撫でようと右手を差し出した。
 家の中にいたのに、外には雨など降っていなかったのに、雷の轟く音がした。

「――……」

 左腕に赤ん坊を抱いたままオーバストは震えて後ずさる。
 幸せは絶頂で途切れた。彼女を撃ったのは己の右手だった。
「……さま、――神様!!」
 慟哭を堪えてツエントルムを呼べば、青い光はすぐ目の前に現れた。
 縋りつけない代わりに膝をつく。本当は肩を揺さぶって問いたかったけれど。
「何故です……!? 何故彼女を殺したんです……!!?」
 稲妻の直撃を受けたディアーナは真っ黒に焦げて絶命していた。
 手違いなら早く甦らせてほしかった。神がそこまで万能ではないことも知っていたけれど。
 天界へ帰ろう、とツエントルムは優しく囁いた。気がつけばオーバストは赤ん坊ごと元いた神殿に戻ってきていた。
 涙の涸れぬまま幾日か過ぎた。名前もまだ無い我が子は神に奪われた。愛しい人の忘れ形見だと言うのに、寄越せと言われれば差し出すしかできない己が理解できなかった。
 オーバストの反逆心はとっくに封印され眠らされていた。かつての世界で友人だったというそれだけで、ツエントルムは自分を手離そうとしない。何をしてでも側に置き、離れて行かないか試そうとする。
 そんなことはわかっていたはずなのに。

「この子の名前を決めたよ。ディアマントというのはどうだろう?」

 瑞々しい肌の赤子を連れ、ツエントルムは鳥籠の間を訪れた。
 数日ぶりに我が子を抱きしめオーバストは僅か安堵した。殺されてはいなかったのだと。
「わたしもね、色々と考えたんだ。アンザーツが子孫を残さなかったろう? なら新しく勇者の血筋を作ればいいんだよ。どうだ、妙案だろう?」
 穏やかに笑うツエントルムにオーバストは目を瞠る。
 この方は何を仰っているのだろう。世界のありようを見直すと言っていたくせに。だったら自分は最初からそのために地上へ――。
「お前に貸したのはわたしの身体だし、となればこの子はわたしの息子だ。お前、今日からこの子の世話役になってもらうが分を弁えて接するようにね」
「……」
 呆然と口を開くオーバストにツエントルムは返答を要求した。
「悲しいかい? でもこんなことくらいでお前はわたしを憎んだりしないね? ……返事はどうした?」
 はい、とひとこと掠れた声を絞り出すと、ツエントルムは満足そうに薄く笑った。
 ア・バオ・ア・クーを切り離しただけではまだ不足だったのだ。そもそも片翼の自分を鳥籠に閉じ込めるような男だ。ほんのひと欠片でもオーバストの中に神を否定する心が残っていないかどうか、血筋を作るついでに確かめたのだ。こんなことをされても己が従うかどうか。
(ディアーナ……)
 好きにならなければ良かった。自分が彼女を巻き込んでしまった。
 俯いて涙を零すオーバストにツエントルムは「ああそうだ」と思い出したように告げた。
「まだ予備の子をひとりふたり作っておきたい。お前また地上に降りるかい? それともわたしの代わりに神殿の留守番をしてくれるかい?」



 ******



 闇に飲まれたと思ったのに視界は驚くほど真っ白だ。
 白い闇の中をエーデルは心許ない気分で歩く。爪先で辺りの光を払いのけると、それらはふわりと舞い上がり、シャボン玉のよう呆気なく弾け飛んだ。
(どこなのかしらここ……。どうして何もないのかしら……)
 どちらへ進めばいいのかもわからないまま孤独に進む。広大な空間に白以外の色はなく、あまり長くいると頭がどうにかなりそうだった。
 そのときふと黒い影が見えた気がしてエーデルは立ち止まった。光に埋もれてよく見えないが何かある。いや、誰かいる。
 エーデルは腕を伸ばして邪魔な光を払いのけた。光の向こうから顔を出したのはクラウディアだった。
「……エーデル? どうしてあなたがこんなところに?」
 心底驚いた表情で彼は問う。どうしても何も一緒にあの変な魔物に飲み込まれたのだ。そう説明しても反応は芳しくない。「ああ、今そんなことになってたんですか」などと意味のわからないことを言う。全然普段のクラウディアらしくなかった。
「だったらきっとわたしがあなたを呼んでしまったんですね」
 微笑むクラウディアをまた光が覆い隠そうとするので腹が立って腕を振り回す。ぱちぱちとすぐ弾けるくせに、元に戻るまであっという間だ。奮闘するこちらを見つめてクラウディアは笑みを零した。
「エーデル、もうわたしに近づいてはいけませんよ」
「……何言ってるの?」
「わたしはもうすぐこの光に食い潰されてしまうんです。そうなったらあなたを守れるかどうか」
「光ってこれのこと? どうしてこんな攻撃を受けてるの? あの変な魔物を倒せばあなたは助かるの?」
 不安げに揺れるクラウディアの双眸が怖くてエーデルは幾つも問いを投げかけた。けれど彼は小さく首を振るだけだ。何か話そうと口を開くと途端に光がクラウディアを掻き消そうとする。
「約束してください、エーデル。けっしてわたしの側には行かないと」
「嫌よ!! どうして急にそんなこと言うの!? 一緒に行こうって言ってくれたじゃない!!」
「エーデル、お願いです。でないとわたしは……」
 クラウディアの手を握ろうとした指は呆気なく白い光に弾かれた。
 急速に後方へと引きずられ、エーデルはクラウディアと引き離される。
「クラウディア!!!」
 名前を叫んでももう彼の姿は見えなかった。
 ただひとこと、会えて嬉しかったと聞こえた気がした。



 ******



 ベルク、ベルク、起きてくださいと聞き慣れた声がした。
 ぱちりと目を覚ませば心配そうに覗き込んでくるウェヌスがいた。
 なんだ、無事だったんじゃねえか。ホッとして腕を伸ばそうとしたら、先に隣で別の誰かが起き上がる気配がした。
「ウェヌス、ベルク……」
 幼馴染は幼馴染で珍しく目を潤ませて女神を見つめる。ウェヌスはそんな自分たちにいつものように笑いかけた。
「私たち闇魔法の中に取り込まれてしまったようです。肉体と切り離されたおかげで、こうしてまたおふたりとお会いすることができました。ラッキーでしたわ」
「闇魔法?」
 ベルクが問うとウェヌスが頷く。明るい笑みに変わりはない。
「もうお話しすることもできないかと思っておりましたのに」
 息を飲むベルクとノーティッツの前に女神はそっと跪いた。目線の高さは揃ったけれどその存在はどこか遠い。センチメンタルなこととは無縁な自分の胸まで締めつけられるほどに。
「俺が助ける。だからんなしょっぱいこと言うな」
 ウェヌスは笑うだけだった。首を振って無理だと言うこともしなければ、頷いて期待していると言うこともなかった。
「……このところずっと考えていたのです。私はいつまでおふたりと一緒にいられるのかと」
「ウェヌス」
 悲しい話など聞きたくないと言わんばかりにノーティッツが声を荒げる。それでも女神は話をやめなかった。こんなときだけ神々しく、真っ直ぐこちらを見つめてくる。そういうのがずるいと言うのに。
「考えるべきなのはお兄様やお父様、オーバストのことなのに、私ときたら自分のことばかりで、女神失格なんですわ。……でも失格でも良いとさえ思いました。このまま地上へ放逐されても構わないと。だっておふたりと旅をするのはとても楽しかったんですもの」
 そんな話やめろとベルクだって言いたかった。けれど止めることなんかできなかった。
 怒ったふりをして誤魔化せないのは精神世界にいるせいなのか。どうにもしてやれない悔しさで涙が止まらない。ウェヌスの微笑も歪んで見える。
 泣いたら終わりだ。負けを認めたら終わりだ。最後まで、ウェヌスが消えるまで絶対に諦めない。そう思うのに涙どころか鼻水まで溢れてくる。女の前でみっともない。
「ベルク、ノーティッツ」
 細腕が伸びてきてそっと肩に抱きついた。
「おふたりとも大好きです。今まで本当にありがとうございました」
 ウェヌスの鼓動と体温を感じながら、ベルクは己の顔を拭った。ノーティッツも同じように手の甲を瞼に押し当てている。
 別れの挨拶なんか気取ってんじゃねえぞ。誰が許すかそんなもん。そっちがどれだけフラグ立てたって片っ端からへし折ってやる。
「お前は俺が助ける。何やってでもだ!」
「俺がじゃなくて俺たちがだろ。ウェヌス、何か消滅しないで済む方法とかないの?」
 いつもの調子を取り戻した自分たちを見て女神は嬉しそうに笑った。だがそんな方法はないとばかり、問いかけには答えない。身を離せば少しずつ姿が薄まり、ベルクは思わずウェヌスの腕を掴んで引き寄せた。
「私の勇者――。あなたに祝福があるように、いつもお祈りしています」
 額に口づけられた瞬間、黄金が辺り一面を埋め尽くす。きらきらふわふわと、初めは怒りしか湧かなかった浮遊物体が。
 ウェヌスの姿はもうどこにもなかった。ベルクの手元に残ったのは、昔自分が女神にやったピンク色のリボンだけだった。



 ******



 苦しい。どうして僕だけ。もう嫌だ。もう嫌なんだ――。
 羨ましい、妬ましい。僕より強く、僕より優しく、僕より正しく、僕より優秀な、僕より勇者に相応しいすべての人間が。
 こんなに頑張ってきたのに何故バールは認めてくれないんだ?
 何故クラウディアの方が向いているなどと言うんだ?
 どうして他に勇者候補なんているんだ?
 僕ひとりでは不十分だって言うのか?
 なれなかったらどうしよう。こんなところまでやってきたのに、もし勇者になれなかったら。他の奴らに先を越されたら。
 不安、羨望、焦燥、嫉妬、プレッシャー、後ろ暗い感情で長いトンネルの内側はあちこち歪に膨れ上がっている。通りにくさに身を屈めながらマハトは出口を目指し歩いた。
 響いているのはアラインの心の声だ。
 こんなんじゃマハトに見捨てられても仕方がないと溜め息に似た風が吹き抜ける。
 トンネルはおそろしく長かった。彼の両親が死んだ頃から徐々に黒壁が周囲を覆っていき、やがて広さもわからぬ暗闇になった。
 こんなところを歩いてきたのかと今更ながら思い知る。こんなところに置き去りにしてしまったのかと。
 けれどこの漆黒の闇の中にアラインがいないことはわかっていた。
 トンネルの出口はもうすぐそこで、紅いマントが見えていたから。

「……どろどろだったろ?」

 振り返った少年はけろりとした顔で笑いかけた。僕もこんな自分が大嫌いだったと。
「大嫌いな自分を見せてお前に失望されたくなかった。……僕のこと勇者だって信じてくれてるお前に」
 アラインはそう言って真っ黒な神鳥の盾を放った。
 呆気に取られるマハトの前に、今度は剣を、荷物を、マントを、次々投げ捨てる。
「でももう勇者を演じることもできなくなって、ひとりぼっちになって。――それでもこれだけは残ったんだ」
 差し出されたのは見覚えのある本だった。夜になると両親を思い出して泣く彼のために読んでやった、アンザーツの。
「お前は無駄だって言うかもしれないけど、やっぱり僕は国のためでも家のためでも誰のためでもなく、勇者になりたいんだ。だって世界を救うヒーローなんてかっこいいだろ? 憧れるよ。そうなれたら最高だよ。だからこの先も旅を続けようと思うし、お前には一緒に来てほしい」
 僕のこと一番よくわかってくれるのはお前だろ、とアラインが言う。
 今やっと全部見せれたんだからと。
「……」
 一抹の寂しさなど湧き上がる喜びに比べれば微々たるものだった。守ってやらねばとばかり思っていたのに、いつの間にかこんなにも成長している。
 ――もう無理して頑張らなくていいんすよ?
 あのとき剣を折らなかったのは、本心では戦ってほしかったからだ。剣を拾って、待てよと止めてほしかったから。
「アライン様……」
 手にしていた斧を、マハトもその場に捨てた。
 自分ももう戦士ムスケルではないのだ。生まれ変わって、新しい勇者の側で、別の人生を歩んでいく。
「俺の勇者はこの先も、ずっとあんただけです」
 返答にアラインは快活な笑みを浮かべた。



 ******



(何なのここ……)

(真っ白だわ…………)



 雪の降り積もった平原より、ずっとずっと白い世界にゲシュタルトはぽつんと立ち尽くしていた。
 構築していたはずの破壊魔法はどこかへ消え失せてしまっている。折角魔力を溜めたのに無駄になってしまった。今度こそあの男を殺してやるつもりだったのに。
 ともかくどこかへ移動しようとしてピクリと足を止める。ついこの間憑依を解いたはずの男がひょいと視界に現れたからだ。
 ヒルンヒルトは草刈りでもするように辺りの光を払い除けた。ゲシュタルトが白いと思っていたものは、すべてシャボン玉に似た小さな光の集合であったらしい。賢者は忌々しげにそれらを追い払った。そうするうちに彼の前にあった一点の影が明確な人の形を持ち始めた。
「……これってあまり良くないんじゃないか?」
「良くないのは君の状態だ。ここまで酷いとは聞いていなかったぞ」
 会話を始めたふたりを目にしてゲシュタルトは怒りのまま魔法を放つ。
 けれど攻撃は彼らに届かなかった。透明な壁に阻まれて、アンザーツ、ヒルンヒルトと叫んでもふたりは少しも振り向かない。
「……言って困らせたくなかったんだ。ぼくは旅をやめるつもりはないし、誰にもどうにもできないことだと思ったし」
「だが私には言ったではないか、これ以上進めないかもしれないと。やめたいならやめればいい、勇者など。誰も君を責めることはできない」
「……」
 何の話をしているのだとゲシュタルトは呼びかけをやめた。無益でしかない魔力の消費も一旦止める。
 様子がおかしい。なんだか芝居でも見ているようだ。
「……違うよ。『勇者』は旅を全うするし、ぼく自身もそう希望してる。だけどこれ以上『ぼく』の方が皆とは行けないかもって言ったんだ」
 世界を平和に導くことがぼくの使命で、ぼくの生きがいなんだよと、アンザーツはまるで聖人のように言う。そのために生まれたのだからそのために生きられることが幸せだ、なんて。本当に嬉しそうな顔で。
 何を見てそうとわかったのだろう。だがゲシュタルトは確信した。これはまだ四人で旅をしていた頃の彼だ。自分は彼の記憶の中に迷い込んでしまったのだ。
「消えてしまうのは怖いけど、死ぬわけじゃないし。誰かが悲しむわけじゃないなら構わないんだ」
 アンザーツの言葉を耳にしたヒルンヒルトが殴ってやりたそうに拳を握る。
 何故あの賢者が突然闇属性を手に入れてきたのかようやくわかった。この真っ白な心象世界はきっと――。

「……嘘をつくのはよせ。ここは君の心の中だぞ。誤魔化そうとしたってすぐわかる」

 ヒルンヒルトはアンザーツの右腕を高く持ち上げた。袖の端を握り締めたその指は小さく小さく震えていた。
「呆れた強がりだよ、君は」
 嘆息しながら賢者は勇者の頬に触れた。アンザーツの周囲にはまた無遠慮に光が集まり出していた。
「ごめん」
 謝罪の言葉を受け止めるヒルンヒルトは普段の無表情な彼らしくなく眉をしかめる。
「君を旅に誘ったとき、なんてぼくと似てるんだろうと思った。君ほど感情の動かない人をぼくは見たことがなかったから。……だからこんな、賢者になってまで助けようとしてくれるとは全然思ってなかったんだよ」
 ごめんとアンザーツがもう一度言った。
 ヒルンヒルトは頷かず、ただ彼の前に佇んでいた。



(声が聞こえる……)



 やめてと拒絶しようとするのに抗えないまま引き摺られる。アンザーツの心がゲシュタルトの内に溶け込んでこようとする。
 知りたくない。知りたくないわ、真実なんて。
 もう裏切られるのはたくさんなのよ。口先だけで愛してるなんて言われることは。



(アンザーツ……)



 落ちる、落ちていく。望んでもいない意識の中に。
 声がする。
 光に埋もれてアンザーツが立ち竦んでいる。



 ******



 生まれたときからぼくの半分はあの光だった。それが普通じゃないということに気がついたのは旅の初めの頃だった。
 ムスケルと出会って、ゲシュタルトと出会って、ああなんだかふたりと自分は違うなと自覚しながら深く気に留めることもなく。
 旅は順調だった。それで良かった。
 ある日ムスケルが「ゲシュタルトはどうもお前が好きらしい」と教えてくれた。さっさとくっついちまえよと戦士は言いたげだったけれど、ぼくには誰かひとりが特別だという感情がよくわからなかった。
 ぼくは「勇者」だったから、万人に対し等しい愛情しかないから、それ以外のことはいまひとつ理解できない。けれどどのみち魔王討伐が終われば血筋は残さねばならなかった。魔物と戦う力を持ったゲシュタルトが伴侶になってくれるのは有り難いなと思っていた。
 期待されれば応えてしまうのも「勇者」の習性のようなもので、ゲシュタルトがそうしてほしそうにしていると、散歩に誘ったり、贈り物をしたり、時に甘い言葉をかけたり――最初は全部「勇者」がしてくれた。自分自身の心はまったく動いていなかった。……動いていないと思っていた。
 盾の塔に上ってひとつめの神具を手に入れると急に「勇者」が強くなった。少し「あれっ?」と戸惑うくらい。でも別に焦ったり怖がったりはしなかった。ああこれからだんだん「勇者」はぼくを押し殺していくんだなという予感が生まれただけだった。
 塔での記憶が一部飛んでいることも仲間に告げることはなかった。ふたりは優しいから気に病むだろうと思ったし「勇者」も伝える必要などないというスタンスだった。
 ――不意にふたりはどちらのぼくを慕ってくれているのだろうと気になった。けれどこの時点で「勇者」とぼくに大した差異はなく、どちらだとしても構わないという結論が出ただけだった。



 国境近くの宿場町までやって来ると旅の一座が公演していた。ムスケルが「すっげえ美女がいる!」と騒ぐので評判になっている踊り子を皆で見に行った。
 戦士が感嘆の息をつき、聖女であるゲシュタルトでさえ神秘的だと褒めそやしたのが巫女の衣装で舞うヒルンヒルトだった。
 静かな盛り上がりの最高潮で魔物たちは襲ってきた。ほんの一瞬対応が遅れ、座長や数人の団員が犠牲になってしまった。
 応戦するアンザーツの傍らでヒルンヒルトは炎や風、氷や雷を次々放った。まるで舞の続きのようだった。彼にとって非常に近しい人間が死んだはずなのに、ヒルンヒルトは最後まで眉ひとつ動かさなかった。
 一座の内情はなかなか酷いものだったようだ。こき使われていた団員たちがこれ幸いと散り散りになると、ヒルンヒルトはあっさり置き去りにされた。
 行くあてがないなら一緒に行こうと手を差し出したのは彼の目があまりに冷え切っていたからだ。
 似ていると思った。すべてに対し同じようにしか振る舞えない様が、あまりに自分と。
 同族とは言えある意味では初めて他人に関心を持った瞬間だった。
 ヒルンヒルトの性別を知るとムスケルは甚く残念がった。ゲシュタルトは逆にほっとしたようだった。
 それから不思議なことが起きた。アンザーツには相変わらずにこにこ接してくれるのに、ムスケルもゲシュタルトもふたりしてヒルンヒルトは苦手だと言う。
 何故なんだろうと本気で驚いた。だってぼくだって彼と似たようなものじゃないか。笑っているかいないかの違いだけで、本質はそう変わらない。この極端なまでの感情の不動。いつだって誰にだって同じ態度しか取っていないのに。
 ヒルンヒルトは魔法が使えるから誘われたと思っているようだった。ムスケルとゲシュタルトもそう思っていた。「勇者」もそうだった。ぼくだけが違っていた。
 ――この頃から「勇者」とぼくの間には溝ができていった。
 ヒルンヒルトを苦手に思うなら、ぼくも彼と同じだと知れたらふたりに嫌われてしまうかな?
 そんなことを考えるようになった。「勇者」は好かれようが嫌われようが無関心そうだったけれど、ぼくはふたりに嫌われたくなかった。
 「あれっ?」と思った。今度こそ大きな戸惑いを持って。
 ああ、ぼくは彼らが好きなんだ。それに気づいたとき泣きそうになるほど嬉しかった。初めて手に入れた人間じみた感情に、それでも涙は出なかったけれど。
 勇者である己に泣くことは許されていなかった。生まれたときからそれらの権利は「勇者」に奪われていた。
 いつか自分は淘汰され、いなくなってしまうだろう。でもきっと何があってもこの地上を守り抜こう。そう決めた。そしてできるだけ長く、「勇者」ではなくぼく自身が彼らと一緒にいるのだと。



 辺境の都でハッと気づくとゲシュタルトたちに回復魔法をかけているところだった。
 散らばった死骸を見るに、多頭の紅い竜と戦っていたようだ。もう倒してしまったのだろうか?
「……今ぼく何してた?」
 あまりに長く記憶が飛んで、少しだけ不安になった。ついヒルンヒルトに話してしまった。「これ以上進めないかもしれない」と。
 こんな不安や恐怖も初めての感情だった。また「勇者」とぼくは遠ざかった。
 時々、本当に時々自分のしたことがわからなくなるんだと、嘘を混ぜてそれだけ伝える。
 気に病ませたくはなかった。そんなつもりで言ったんじゃなかった。
 ヒルンヒルトは出会ったときと同じよう眉ひとつ動かさずに聞いてくれた。それで少し安心した。



 首飾りを手に入れた。神具はすべて揃ってしまった。「勇者」はもうぼくに自由を譲らないくらい強くなっていて、不意に意識が戻ったときだけ「ああ、みんな久しぶりだなあ。変わらないなあ」と嬉しくなれた。
 でもすぐに不安がぼくを襲った。次に仲間に会えるのはいつだろう。もう会えなかったらどうしよう。まだ皆と一緒にいたいのに。
 ぼくは初めて「勇者」への抵抗を試みた。水面下で競い合いを続けながら、夜中じゃぶじゃぶ湖の中に沈んだ。
 ヒルンヒルトがすぐ止めに来てくれた。気でも狂ったのかと言われたので、まだ正気に戻れるか試そうとしたんだと答えた。
 このときのぼくは「勇者」に勝てたのだ。それは何にも勝る安堵だった。
 だけどそんな勝利は一瞬でしかないこともわかっていた。
「……勇者であるのが嫌なんじゃないんだ。だけどこのままじゃぼく自身は一体どこへ消えてしまうんだろう?」
 ぽつりと漏らした言葉にヒルンヒルトが息を飲む。賢い彼はそれだけでもうぼくの中の「勇者」を感知してしまったようだった。
「いつから記憶がおかしいんだ?」
 ぼくは馬鹿だった。そう問われて嬉しかった。
 伝えたところでどうにもならないとわかっていたのに。
「君と会った頃くらいかな」
 ヒルンヒルトは怒ったようだった。何故もっと早く言わなかったと言いたげに唇をわななかせた。
 ぼくたちは双子のようだった。少しずつ共鳴し合って少しずつ感情を増幅して、だけど決定的に違うのは、消えてしまうのは自分だけだということだった。
 何とかすると彼が言う。心の中で無理だよと思いながら笑う。
 嬉しかった。惜しんでもらえていることが。
 だけど誰にも「勇者」は止められない。仲間や世界のために魔王を倒すというぼくの志も最初から変わっていなかった。その一点においてだけは「勇者」とぼくは共通していた。



 ヒルンヒルトはぼくに休めと言ってくれた。魔物を倒さないでいいように一週間だけ小さな村に停泊した。「勇者」はしばしまどろんで、ぼくはほんの少し楽になった。でも意識がはっきりし始めると急に別の恐怖が湧いた。
 このままここにいたら動けなくなる。魔王を倒すには魔王城へ行かなきゃいけないのに。
 進もうとぼくは言った。でもその言葉は「勇者」がぼくに言わせたのか、ぼく自身が決めたことなのかわからなくなっていた。
 山門の神殿がある村で、ヒルンヒルトは「少し遠出をしてくる」と言い宿を出て行った。ふと気がつくとぼくは真っ白な光の中にいた。いつもはただ眠らされているだけだったので、そのとき初めてこの光が「勇者」の正体なのだと知った。
 ああ、本当に真っ白だ。そう思っていたらヒルンヒルトがやって来て、消えかかっていたぼくを見つけ出してくれた。
 なんでこんなところにいるんだろう。どうやってここまで来たんだろう。
 そう思う間に彼はいなくなり、今度はまた光を荒らしながら現れる。
 ああそうか、彼は賢者になったのか。だから心の中まで入って来れたのだ。
「呆れた強がりだよ、君は」
 その優しい言葉に生まれて初めてぼくは弱いのだと知った。本当はとても弱いのだと。
 泣いて縋れたら良かったのに、性懲りもなく笑ってしまう。
 「勇者」がぼくに被せた仮面をつけてしまう。



 ヒルンヒルトは真摯だった。毎日のように懸命に、ぼくを探しに来てくれた。
 彼の心が育っていく様を間近に眺めて嬉しく思う。自分たちはやはり似た者同士だった。
 彼が「勇者」を払い除ける度ぼくの感情も少しずつ育まれた。そしてそのうちぼくは欲を持ち始めた。
 もっと長く自分を保っていられるかな。このままみんなと最後まで行けるかな。
 以前なら考えもしなかったことを考えるようになった。それくらいヒルンヒルトの闇魔法に助けられていた。
 だけど魔王を倒してしまえば「勇者」はきっと膨れ上がる。今までの比でないくらい勢いを増し、ぼくはぼくの中でひっそりと滅びてしまうのだ。それはもう確定事項だった。
 どんなにヒルンヒルトが強く光を蹴散らしても、光は消えてしまわない。魔物退治の必要がなくなればぼくの苦しみも終わるだろうと彼は考えていたようだけれど、ぼくの予感はまったく逆だった。でもそれを彼に伝える気はなかった。ゲシュタルトやムスケルにはもっと。



「魔王を倒して都に戻っても側に置いてくれる? 私のことを愛してもらえる?」
 泣きそうな顔のゲシュタルトに告白されて、それを「勇者」ではなくぼく自身が聞くことができて、ぼくは堪らなく嬉しかった。
 何も打ち明けられないでここまで来たけれど、ぼくにとって仲間より大切なものなど何もなかった。
 ムスケルも、ゲシュタルトも、ヒルンヒルトも、初めて好きになった人たちだ。永遠に失くせない宝物だ。
「うん。ずっと一緒にいよう」
 返事なんか即答だった。震える唇に口づけて、だけどふと我に返って。
 ――ゲシュタルトとずっと一緒にいることになるのは「勇者」の方だ。
 そう思ったら血が冷えた。当たり前にわかっていた未来のはずなのに。
 ゲシュタルトには特に「勇者」とアンザーツが別物だと気づかれるわけにいかなくなった。優しい彼女がぼくを憐れんでしまったら、きっと幸せになれないと思った。
 悲しませるようなことはしたくなかった。ぼくという人間がいたことはヒルンヒルトが覚えていてくれる。寂しくはない。だから彼女にはずっと笑っていてほしかった。



 消えてしまう覚悟で降り立った魔王城で、ファルシュはとんでもないことを言い出した。天変地異は神の仕組んだ魔法だと。ぼくの自我を押しやる「勇者」もその魔法の一部なのだと。
 魔王が自分の同族なのはひと目でわかった。玉座と神具が同じオリハルコンでできていることも、その事実を裏付けていた。
 ぼくの中で「勇者」が震えた。早く肉体を譲り渡せと喚いていた。
 どうしようもないと思っていたそれが他者からの干渉であると、解くことのできる魔法かもしれないとわかったとき、「ぼく」の心はふたつに別れた。
 勇者と魔王の宿命など終わらせたいと願う自分と、こんな話は聞かなかったことにしようとする自分。
 だってもしファルシュの言うよう肉体と精神を分けてしまったら、死なないために己を封じてしまったら、ゲシュタルトとの約束を守れない。ぼくだけでなく「勇者」も彼女といてやれない。
 ムスケルとも、ヒルンヒルトともいられなくなる。ただ仲間と離れ難くて今日まで闇魔法に頼り切りになっていたのに。
 ――自分の中の身勝手な自分の存在に、ぼくは酷い衝撃を受けた。
 勇者なら世界のために身を尽くすべきなのに、己や大事な仲間さえ幸せならばと思っている。
 ファルシュのことは倒せなかった。天変地異を起こすわけにはいかなかった。
 だったらヒルンヒルトに頼めば、このまま「勇者」と共存しながら人生を全うすることができるんじゃないか?ぼくがみんなと、本当の最後まで過ごすことができるんじゃないか?
 ……どうして少しでもそんなことを考えてしまったのだろう。
 ぼくは卑怯だった。すべてに平等ですべてに無関心な「勇者」よりよっぽど酷いと思った。



 魔王を倒したフリだけして、悩みながら帰路について、祖国に一歩立ち入った瞬間ぼくは「勇者」に自由を奪われた。
 心を強く保てなかったからだ。自分の幸せばかり願う自分など消えるべきだと思っていたから。
 ヒルンヒルトの呼ぶ声は何度も聞こえてきたけれど、到底返事などできなかった。こんな自分を彼に見つけてほしくなかった。真実を知りながら逃げ出そうとする自分なんて。
 どれくらい閉じ篭っていただろう。
 ヒルンヒルトの捜索の手から逃げ回りながら、残された自我でどうするべきか考えた。
 自分がいなければゲシュタルトの隣には誰か別の男が寄り添うことになるのだろうか。それで彼女は幸せになれるのだろうか。
 考えすぎてわからなくなって、皆と出会った頃のことをずっと思い出していた。
「ゲシュタルトはどうもお前が好きらしい」
 ――そう教えてくれたムスケル自身が彼女のことを好いている。ぼくがいなくなったらきっと彼がゲシュタルトを慰めてくれるだろう。
「ヒルンヒルトとは少し話しにくい気がするわ」
 ――でもその彼はぼくの同類だ。ぼくは普通じゃない。ゲシュタルトの側にいたいと思う気持ちが愛なのかどうかもわからない。わからないのだ。
 ぼくは勇者で、彼女は勇者の仲間だった。
 魔王の提案を無視して自分の幸せを取ってしまったら、その瞬間にきっとぼくは勇者ではなくなってしまう。
 たとえ彼女がそうと気づかなくたって、彼女が注いでくれる愛情を受け取る資格を自ら放棄してしまうのだ。
 「勇者」にも永遠に敵わなくなってしまう。

「……このままじゃ駄目だ」

 ヒルンヒルトが何重にもかけてくれた魔法陣の上で目が覚めた。
 震える指が嫌だ嫌だとしつこく我欲を訴えたけれど、ぐっと堪えた。
 皆と離れたくはない。だけど行かないと。
 次の勇者や次の魔王がこの魔法に抗えるとは限らない。ぼくが最後の勇者にならなければ。
 ――だってみんな、ぼくが勇者だからついて来てくれたのだ。
 弱いぼくに気づいているのはヒルンヒルトだけだ。
 ゲシュタルトも、ムスケルも、知れば離れてしまうかもしれない。
 そうなったら、ぼくはぼくが見つけたささやかな幸せも失くしてしまうのだ。
 この胸にあるかけがえのない思い出を。



 勇者の凱旋を祝す宴は三日三晩催されるそうだった。
 バルコニーから城の中庭を見下ろすとゲシュタルトがこちらを見つけて手を振った。隣ではムスケルが笑っている。ふたりとも嬉しそうだ。
 真相を告げるべきか悩んで、結局何も言わないことに決めた。勇者一行は魔王を滅ぼしました。世界は平和になりました。めでたしめでたし。それで幕を閉じてしまえばいいと思った。
 国王にはもう帰りませんと告げた。勇者は子孫を残しませんと。何故と問われて何と答えればいいか迷った。シャインバール二十一世はまた魔王が現れるのにと憤った。
「……この先どうなっていくかはぼくにもわからないんです。でもこうしなければ何も変わらない。魔物と戦える人はたくさんいます。勇者がいなくても大丈夫な世界を、陛下には考えてほしいんです」
 城を去り、ぼくは神鳥の塔を回った。
 辺境の塔で待っていると、やがてヒルンヒルトがやって来た。
 ぼくを見つけてくれるのはいつも彼だった。



 封印までの一年、ずっとゲシュタルトとムスケルのことばかり考えていた。今からでもふたりにすべて伝えてこようかと。でもその度に思い留まった。結局ぼくはずっと怯えていたのだ。
 彼らに必要とされているのはぼくなのだろうか、それとも「勇者」なのだろうか。
 その答えを突きつけられるのが怖かった。今までずっと隠し通してきたツケが回っていた。
 ぼくは勇者としての自分は信じられたけれど、ただの人間としての自分はどうしても信じられなかった。
 普通の感情がわからない、普通の愛がわからない、それなのに自分の幸せを手離せなくて震えている、こんな自分が。
「……ムスケルの側にいた方がゲシュタルトは幸せになれるんじゃないかな」
 半ば否定してほしくてヒルンヒルトにそう言った。彼は何も答えなかった。ただ読み込んでいた魔道書から目を上げて、ちらりとぼくを見ただけだった。
「都に戻ったらそう伝えてくれ。幸せになってほしいって……」
 嘘ではなかった。彼女には笑っていてほしかった。
 その隣に自分がいられれば良かったのに。「勇者」でもなんでも側にいられれば。
 ――もう戻らないと言えなかったのは、泣き顔を見たくなかったからだ。ぼくは最後まで身勝手だった。何も伝えさえしなければゲシュタルトはずっとぼくを愛してくれるんじゃないかと思った。
 ムスケルに対しても同じだ。彼女を任せると言わなければ、境界線を越えるような真似はしないだろうと考えていた。
 戻るつもりもないくせに、渡したくなかったのだ。
 ぼくのずるさは全然変わっていなかった。
「……伝えておく。少し彼女が羨ましいよ」
 ヒルンヒルトが約束してくれてホッとした。
 自分なんかが彼女の未来を縛るべきじゃない。これで良かったんだと思えた。



「さあヒルト。ここにぼくを眠らせてくれ」
 精神と肉体を分離する魔法はヒルンヒルトが完成させてくれた。
 辛い、気の重くなることばかり彼には押しつけてしまった。
 眠りから覚めたらぼくはひとりだ。たったひとりだ。
 だけどきっと地上を守ろう。ゲシュタルトの、ムスケルの、ヒルンヒルトの子供たちが生きる大地を。
 それがいかにも勇者らしい愛じゃないか。



 ――目が覚めて、盾の塔を訪れて、ヒルンヒルトの家を見つけて。
 魔法のかかった手記にはその後のすべてが記されていた。
 ゲシュタルトに降りかかった災いも、決裂してしまったかつての絆も。
 激しい後悔が胸を襲った。何もかも自分がくだらない願いにこだわったせいだった。
 だけどもうどうすることもできない。もう一度やり直すなんて不可能だ。
 そうしたらヒルンヒルトと思わぬ形で再会した。あろうことか彼は死してもぼくの側にいてくれた。
 ゲシュタルトとの再会もすぐだった。
 ぼくはやっぱり身勝手な人間のままだった。
 あんなに酷い目に遭わせたくせに、彼女に会えて嬉しかった。二度と呼びかけることもできないと思っていたから。
 嘘つきと言われても、憎んでいると言われても、それでも良かった。やっと確かめられた。
 あの白い光から解き放たれて。百年経って。まともな感情を手に入れて戻ってきて。
 彼女を悲しみから救い出したい。今度こそ願いを叶えてあげたい。
 己の抱くこの思いこそ愛なのだと、はっきり知ることができたから。
 ぼくは。
 ぼくは……。



 ******



 ゲシュタルト、と呼ぶ声に振り返る。
 アンザーツは白い闇の中でなく、暗い魔物の腹の中にいた。

「ごめんね、長いこと君を待たせてしまった……」

 耳に届く声を拾うのに必死で、溢れそうな言葉を抑えるのに必死で、一歩も動けない。
 これ以上知れば憎めなくなる。わかっていたのに。
「あの頃のぼくは、ぼく自身のことさえわかっていなかった。大切な仲間なのに何も言えなかったのは、ぼくの中身が空っぽだって知られたくなかったから……」
 でもその勝手さが君を不幸にしたんだね、と彼が泣く。
 微笑む以外にしなかった人が、ヒルンヒルトにさえ見せなかった涙を自分に見せる。
「ゲシュタルト、君に会えたとき気が狂いそうなほど嬉しかった。だってすぐにわかったんだ。君のその黒いドレス――それがウェディングドレスだって」
 アンザーツの手が伸びてきて、指先がショールに触れる。
 精神世界にいるせいで彼にも自分にも嘘などつけない。
 真っ白に染まったそれは花嫁のヴェールに変わった。漆黒のドレスは彼の言う通りウェディングドレスだった。
「……もう遅いわ」
 遅い、すべてが遅すぎる。
 百年も経ってしまったのだ。ずっと一緒だと約束を交わしてから、もう百年も。

「私は聖女でも人間でもなくなったのよ……!」

 ただあなたを待つためだけに憎しみ以外のすべてを捨てたのに。

「ゲシュタルトはゲシュタルトだ」

 首を振り、アンザーツがそう言った。
 白い光が辺りを包み込む。伸ばそうとした手は後方へと引き摺られ、触れることは叶わなかった。
 ――闇魔法の効果が切れたのだ。



 ******



 どろどろと腐った肉が天から滴り落ちていた。湖も湿原もぐちゃぐちゃだ。
 アラインのすぐ側にベルクがいて「こいつが俺たちに闇魔法をかけてたのか?」と呟いた。
 起き上がってきたマハトが気持ち悪そうに生きているのか死んでいるのかわからない魔物の巨体を見上げる。
「さっきのは闇魔法だったからまだいいけど、このヘドロみたいなのは多分魔力の塊だ。次に妙な攻撃を食らう前に何とかしないと……」
 だが流石に、王城の何倍もあろうかという敵のどこを攻撃すればいいかアラインにも見当がつかなかった。ヒルンヒルトのおかげで威力のある複雑な魔法も使えるようになっているが、こういった泥状の巨大生物を相手にするような大規模攻撃は思いつかない。変な魔法を使ってうっかり仲間に当たってしまわないか不安でもあった。まだ全員の無事は確認できていないのだ。
「おい、あいつ攻撃してくる気だぞ」
 ノーティッツが周囲に警戒を呼びかける。エーデルとディアマントの間でクラウディアが杖を翳した。
 ボコッボコッと泡立った肉片から発射されたのは白い光線だった。その狙いはどうやらアラインたちでなく、別の場所で立ち上がったアンザーツのようである。彼はまだ目が覚めたばかりなのか、自分に魔法が向かってきているのに気づいていない様子だった。
「危ない!!」
 アラインはそう叫び防御結界を出現させたが、それよりも光線が途中で弾ける方が先だった。
 突如発動された破壊魔法はアンザーツを守っただけでなく、ハルムロースの残骸と思しき魔物を凄まじい勢いで消滅させていく。
 黒い腐肉が徐々に削がれ、見晴らしが良くなってくると、見当たらなかった他の仲間たちも見つかった。バールにラウダ、オーバスト、ウェヌスも従者に抱えられている。
「あ……っ!?」
 破壊魔法を唱えていたのはゲシュタルトだった。慌ててアラインが飛び出そうとしたのをマハトが腕で制止する。行かなくてもいいですと戦士は言った。
「……!!」
 向かい合うアンザーツとゲシュタルトの間に刺々しい緊迫感はない。
 あの突発的な闇魔法の中で、きっと彼らも心を通い合わせたのだ。
(良かった……和解できたんだ……)
 振り仰げばアライン以上に嬉しそうにマハトがふたりを見守っていた。

「……ヒルンヒルトがあなたを封印したと聞いたとき、頭がどうかなりそうだった。約束を破られたことよりも、二度と会えないことが悲しかったわ。――あなたに、勇者に、すべてに復讐するつもりで、結局私はもう一度会いたかっただけなのよ……」

 ぽろぽろとゲシュタルトは褐色の頬に涙を伝わらせる。
 大蛇の尾は消え、肌に浮かんでいた魔族の紋様も光の粒となり浮き上がった。取り込んだ魔物の力が浄化されていっているのだ。
 雪のように白い肌、黒い瞳が光とともに戻ってくる。その足元からにょろりと一匹蛇がこちらに逃げ出してきたのを、何食わぬ顔でマハトが踏み潰した。
「ゲシュタルト……!」
 腕を広げた勇者の元へゲシュタルトが足を踏み出す。
 アンザーツも翳りのない笑顔で彼女を迎えた。――迎えようとした。
 雷が鳴ったのはそのときだった。



「――――……」



 振り返る。全員が。
 横向きに走った雷撃のみなもとを知るために。
「オーバスト……?」
 ディアマントが喉を震わせた。魔法を撃ったのは彼の従者だったけれど、オーバストはうつ伏せになって必死に右腕を抑え込んでいた。
 動かないゲシュタルトに更なる追い打ちがかけられる。同じ雷光がもうふたつほど飛び交って、聖女を完全な消し炭にした。
「…………」
 がくんとアンザーツが揺れる。つい今自分たちを包んでいたものより、もっともっと黒い影が、彼を染め上げてぐにゃりと歪めた。



「    」



 勇者は何を呟いたのだろう。真っ黒な塊となったアンザーツは凄まじい速さでオーバストの腹を貫いた。
 そのちょうど反対側で、肉体の方のアンザーツが起き上がる。
「ははははは、上手くいった上手くいった! 勇者の世代交代ついでに新しい器も手に入ったぞ!」
 仄かに青く発光しながらアンザーツは――彼の身体に入り込んだ何者かは空中に転移の魔法陣を描いた。
 それはちらりとディアマントを一瞥し、「あとは魔王の娘を殺すだけだな」と呟き消える。
 黒霧となった勇者がそれを追いかけようとして障壁に阻まれた。アンザーツは魔物のような唸り声を上げ空に舞い上がる。そうして暗黒を撒き散らしながら、真っ直ぐ北東に向かい飛び去った。
(何がどうなったんだ? 今、魔王城の方角へ飛んで行ったのがアンザーツなのか?)
 わけのわからないままアラインはオーバストの元へ走った。治癒の魔法をかけようとしたのを「もう無駄です」とクラウディアが止める。
「……ディアマント様……」
 息も絶え絶えに呼びかけられ、ディアマントは従者の側に膝をついた。天界の人間である彼にも状況が把握し切れないらしい。傍目にはオーバストの右手が勝手に魔法を放ったように映ったが。
「エーデルを殺してはいけません……」
 げほごほと血を吐く彼の背中を戸惑いながらディアマントが支える。ずっと黙っていてすみませんでした、と詫びる声が響いた。
「神は……あの方は最初からあなたを勇者にするつもりなどなかった……。より世界を管理しやすくするために、ご自身の血を継ぐ魔王をと……」
「……本当か……?」
 驚愕にディアマントの肩が震える。オーバストはこくりと頷き力尽きた。
 魔王ファルシュを倒させた後、トルム神は自分の息子を新しい魔王に据えるつもりだったらしい。周到な話だ。虫唾が走る類の。
 ぽう、と青い光が息絶えたオーバストの身体から溢れた。あっと叫んだのはバールとラウダだ。青年の中から抜け出してきた魂は彼ら神鳥にそっくりだった。
「もう私にその肉体を使うことはできません。……どうか盾の塔までお越しください。私からすべてお話しさせていただきます」
 片翼の神鳥は光を放ちその場からいなくなった。「ウェヌス様をお守りできず、すみません」という囁きだけを残し。
 はっとオーバストの倒れた方を見やると同じように仰向けに転がる女神の姿があった。けれど時間を止める魔法は途切れ、静かに横たわるのみだ。
「おい、おい!!!」
 どれだけ強くベルクが揺さぶってもウェヌスの閉ざされた瞼が開くことはなかった。
 バールとラウダ、ノーティッツとディアマントも彼女の元へ走り寄る。
「なんやこれ……寝とんのか?」
「わからん。昏睡しているようだが……」
 神鳥たちが分析し合うが彼女が無事かどうかは不明な模様だった。
「……こいつどうなるんだ?」
 ベルクのそんな頼りない声を聞くのは初めてだった。















(20120626)