※途中やや性的な表現があります。直接的なものではありませんが、ご注意ください。








 心の隙を突いて幻惑を見せる試練の森。その奥にある神殿にゲシュタルトと双子の姉ゲシュテーエンがやってきたのは五歳のときだった。
 物心がつくのは早かったので市井で暮らしていた頃の記憶も少しは残っている。子を成すようにと託宣を受け神の御許から俗世へ降りた母と、そんな母を心から愛した父のこと。


 当時神殿を護っていた巫女は山門の神殿の血を汲む老婆で、僅かながら未来を探る力を持っていた。めしいた瞳でゲシュタルトたち双子を順に一瞥すると、巫女は白い眉を歪めて囁いた。
「……どうやらふたりとも連れて行かなきゃならないね」
 必要な後継者はひとりだけではないのですか。父はそう問い、母は決定を予測していたかのごとく頭を垂れただけだった。
 双子の存在は災禍を招くとされている。強い魔力を宿す家系には特に双子が生まれやすく、大抵何か大きな事件に巻き込まれ、時にその元凶となった。
 ふたりと言われた意味もわからず、幼い自分は姉と離れ離れにならずに済んだことを安直に喜んでいた。
 それがすべての始まり。






 番外編 聖女の結婚






「すみません、この神殿の方ですか?」
 聞き慣れない間延びした声に不意を突かれて振り向くと、見知らぬ男がふたり泉の向こうに立っていた。
 紅のマントを身に纏った青年と、大きな身体にいかめしい鎧を着込んだ青年。台詞からして祭事関係の人間ではない。禊のための聖なる泉に立ち入るなど、しきたりを知る者であれば有り得ないことだった。
 時折、本当に時折だが、何の加護もなく幻惑を打ち破り神殿に到達してくる人間がいるという。出るには容易く入るには困難を極める試練の森。ここには魔界から流れてきた魔力が吹き溜まりを作るのだ。
 だがそんなことはどうでも良かった。
 そのときにはもうゲシュタルトの目は黒髪黒眼の青年にすっかり奪われてしまっていた。
「あの……ぼくたち怪しい者ではないんですけど」
「……!」
 自分に話しかけられているのを自覚した途端、頬が熱くなり、身を清めるのも忘れて神殿へ駆け戻る。聖女然とした振る舞いは十四年間叩き込まれてきたはずなのに、威厳を持って接することなどできなかった。あの漆黒の眼差しに己が映ったのだと思うと。
「お姉さま! 姉さま! お、お、男の方よ。泉にどこかの男性が」
「まぁ、なんですって?」
 ゲシュテーエンはすぐに神官のところへ行って異例の事態を報せてくれた。後のことは全部彼らがやってくれたらしい。ゲシュタルトたち姉妹は老巫女の眠る奥の間でじっと息を潜めていた。神職に就いていない若い男とは言葉を交わすことはおろか姿を見ることも許されていなかったからだ。
 男の名はすぐに知れた。アンザーツ・フィンスター。大陸中で誰も知らぬ者はいない、魔王討伐の旅へ出た勇者一族の末裔だ。
 彼は老巫女との接見を希望していた。勇者は巫女や神官などよりずっと神聖な存在である。ゲシュタルトたちもその場に控えているようにと老巫女は掠れ声で命じた。
 巫女は数年前から病を患っていた。避けようのない寿命という病だ。せめて滋養のあるものを食べてほしいと長年彼女に付き従う神官のひとりが街へ出ていたのは知っていた。だがまさか道中で魔物に襲われ勇者に助けられていたとは思わなかった。 アンザーツによれば神官は傷の具合が悪く、とても連れてこれなかったそうだ。後で迎えに行ってやってほしいと優しげな顔で頼まれた。
「それからこれを……」
 急いだ方がいいのかなと思ってと、アンザーツは青い林檎とザクロの入った袋を差し出す。怪我をしたという神官が巫女のために用意した果実だろう。幻を振り払うのに少し手間取ってしまってと申し訳なさそうに彼は苦笑した。
 おかしい。絶対におかしい。
 どうしてこんなに胸が高鳴るのか。どうして彼ひとりしか目に入らないのか。ゲシュタルトはずっとそればかり考えていた。
 恋なんて言葉はまだ頭になかった。ただ「癒し手がいないとこの先の旅はつらいかも」という彼の言葉だけが頭の中を猛烈な勢いで回っていた。

「あの、私、勇者様のお手伝いをしてはいけませんか」

 気がつくとゲシュタルトは老巫女にそう頼み込んでいた。
 アンザーツたちはもう祭壇に背を向けかけていて、このまま見送ればおそらく一生会うことなどないとわかっていた。
 目を剥いたのはゲシュテーエンだ。「神殿を守る責務があるのに何を言い出すの!?」と叱る姉に半分泣きながら「どうしても付いて行きたいのよ!」と駄々を捏ねる。アンザーツとムスケルは突然始まった姉妹喧嘩に唖然としていた。
「光魔法なら得意だわ。魔王を倒すことは世の中に平和をもたらすし、神殿を守ることにも繋がるはずでしょう? お願いです巫女様、ゲシュタルトに良いと仰ってください!」
 臥した老巫女に縋りつく聖女と引き剥がそうとする聖女。とても勇者に見せていい光景ではない。神官たちはさっと醜態を隠そうとしたが、アンザーツは再び踵を返してこちらを振り向いた。正確にはゲシュタルトではなく老巫女の方を。
「えっと、どうしましょう? ぼくらとしては仲間が増えるのはありがたいですけど……」
「……」
 巫女の口はどんな神託を告げるときよりも重かった。
 長い長い静寂が薄暗い神殿を包み込む。
 彼女は既に予見していたのかもしれない。守られた籠の中から片翼だけを解き放つ危険を。
「ここを捨てるなら二度と戻っては来れないよ。外へ出るということは心身を穢すということだ。それでも行くと言うのなら婆は止めはしないさ」
 肯定と否定の入り混じる言葉に一瞬尻ごみする。捨てるなんて過激なと思ったけれど、実際そういうことなのだろう。巫女の資格を自ら放棄するとゲシュタルトは言っているのだから。
 跡継ぎがどちらかに決まるまでは絶対に森を出てはいけないと厳しく言いつけられてきた。神殿で過ごしてきた十四年、一度も戒律を破ったことはない。
 同じ年頃の男性を見るのは初めてだから、何か勘違いしてのぼせてしまっているのかも。そう自分に言い聞かせてみても無駄だった。この人と引き離されるくらいなら苦難の道を選んだ方がましだと思えた。それほどまでに芽吹いた感情は強烈だった。
「行きます。ごめんなさい姉さま、神殿と巫女様をお願いします……!」
 この日からゲシュタルトの世界は激変した。
 ゲシュテーエンは最後まで「付いて行っても報われないかもしれない」と説得を試みてきたが、ついに頷くことはなかった。






 神聖性を失う代わりに得たのはふたりの仲間だった。
 アンザーツは勇者の名を冠するに相応しく、優しく果敢であった。剣だけでなく攻撃魔法や回復魔法にも通じ、エキスパートとまでは行かずとも組み合わせの妙で魔物たちを蹴散らしてしまう。後衛を任されたゲシュタルトはたびたび彼の凛々しさに目を眩ませることとなった。殿方に見とれるなんて今までの自分の生活からは考えられない。あまり戦闘中にぼうっとしてると危ないよと指摘され、何度か恥ずかしい思いもした。アンザーツたちに怪我がないように己が一番気を配らねばならぬのにと反省していると、必ずムスケルがフォローを入れに来てくれた。
 ムスケルの方はいかにも戦士という風体の戦士だった。大きな斧を軽々と振り回し、魔物たちに重い一撃を浴びせかける。しかし性格は穏やかで、世間知らずなゲシュタルトとアンザーツをにこにこしながらサポートしてくれた。ゲシュタルトが仲間に入ってしばらくは異性の同行者に遠慮している節もあったが、次の街に着く頃にはすっかり慣れ、「アンザーツのどこが気に入ったんだ?」「ひと目惚れってやつ?」などと軽口ついでに恋愛相談も受けてくれるようになっていた。
 ムスケルに言われて初めて気がついた。アンザーツを想うこの心こそが恋なのだと。
 もうぼやけてしまっている父母の顔を思い出すと急に故郷が懐かしくなった。少しだけ我侭を言ってもいいかとアンザーツに頼めば彼は快くゲシュタルトの生まれた村に立ち寄ってくれた。
 ――記憶を頼りに生家を探すとそこは朽ち果てたあばら家になっていた。住む者もおらず、風雨に晒され、今にも崩れそうになっている。
 青褪めたゲシュタルトに代わってふたりは村の人間に事情を尋ねてきてくれた。なんでも十年ほど前に出掛けたきり音沙汰がないらしい。もしも国境を越えたのなら魔物か野盗の犠牲になったのかもという話だった。
 神殿には一切何も伝わっていなかった。親子が縁を切り他人になるとはどういうことか思い知らされたような気がした。
「大丈夫? ゲシュタルト」
「すぐには無理かもしれねえけど、元気出してくれよな」
「……ありがとう。アンザーツ、ムスケル」
 涙ぐむゲシュタルトに勇者も戦士も優しい。自分はこのふたりと新しい関係を作っていくのだ。改めて心に誓った。
 思えば不純な動機で神殿を後にしてしまったが、旅の最中はあの森の奥で何があってもゲシュタルトには知る由もないのだ。今更ながら姉や老巫女と遠く離れてしまったことを怖いと感じた。自分が傷つくのには耐えられても、手の届かない場所で大切な人が苦しむのには耐え難いものがある。
「小さな傷でも放っておかないですぐに言ってね。ふたりに何かあったら私……」
「うん、わかってる。必ず伝えるよ」
「心配すんなって。俺もアンザーツも頑丈だから」
 笑顔のアンザーツとムスケルにゲシュタルトもやっと微笑みを返す。
 本当にいい仲間ができたと、このときは心から思っていた。






「しっかり、ゲシュタルト。休んでるとまた魔物たちが集まってくる。立てるかい? ぼくの肩に掴まって」
「アンザーツ……、大丈夫よ。ひとりで歩けるわ……」
 聖なる盾が祀られているという古代遺跡の塔はおそろしく高かった。もう何度階段を上ったかわからないほどだ。
 ひっきりなしに現れる敵を三人で相手するのは骨が折れた。最初はダンジョン踏破など楽勝だという雰囲気だったのに、じりじり体力と魔力を削られ皆ピリピリしてきている。
 ふらついたゲシュタルトがムスケルの背中にぶつかると戦士は「無理すんな。アンザーツに支えてもらえ」と小さく溜め息をついた。
「とりあえずしばらく俺が先行するぜ。魔物が出たら様子見て手伝ってくれりゃいいし。アンザーツ、それでいいよな?」
「うん。最上階には番人がいるって言うし、そろそろ魔力は温存しておくべきだろうね。それでいこう」
 足手纏いになっているのは明白なのに、ふたりして「ゲシュタルトがいなきゃ聖獣を倒すなんて無理だ」と口を揃えるので泣きそうになる。普段よりずっと近い体温にも安堵と緊張が交互に訪れた。
 盾の塔での戦いはぎりぎりの死闘となった。聖獣ア・バオ・ア・クーが現れた時点でムスケルは満身創痍に近く、アンザーツにも魔法を連発できるほどの余力はなかった。
 ゲシュタルトはこのとき初めて肉体機能を強化する光魔法を使用した。今までも知識としては知っていたけれど実際に使ってみたことはなく、失敗しないか怖かったのだ。だがこれが功を奏した。元々破壊力の高いムスケルの斧は鋼のごとき聖獣の翼をも切り裂いた。アンザーツも速度を増した足を使って敵を撹乱する。
 長時間に及ぶ戦闘で精も根も尽き果ててしまったが、勇者の盾は見事手に入れることができた。
 消えていく聖獣。降りてくる白い輝き。手を取り合って三人で喜ぶ。
「これがひとつめの神具かあ」
 知らない誰かの声に驚き顔を上げると、そこにはいつもと同じ顔で笑うアンザーツがいた。
「どうしたの? ゲシュタルト?」
「あ、いえ、なんでもないわ」
 疲労困憊しすぎて頭がおかしくなっているのかしら。
 額を抑えつつ皆に回復呪文を唱える。「降りるのもひと苦労だしちょっとゆっくりしていこうぜ」とムスケルが大の字に寝転がるのを勇者と一緒に笑って眺めた。
 こんな塔があとふたつもあるなんて事実は、ひとまず忘れておくことにした。






 神鳥の盾を手にパーティは西へ向かう。隣国へ入る前には大きな街がふたつあった。ひとつめは温泉街で、ふたつめは湖に挟まれた街。
 知らない世界を知るのは楽しくて堪らなかった。羽目を外し過ぎるような真似はしないけれど、街をぐるりと散策するのは旅の間の安らぎだった。気配り屋のムスケルが「俺は飲みに行くからお前らは散歩でもしてくれば?」とさりげなく追い出してくれることもある。花が好きだとアンザーツに言うと、綺麗な庭や花畑のある一角を頑張って探し出してくれた。
「ねえ、花が好きっていつ気づいたの?」
「え?」
「好きになったのはどんなきっかけがあったから?」
「うーん、難しいわね……。どの花も色が綺麗だし、神殿には季節くらいしか巡るものがなかったから……」
 ふうんと感心したようにアンザーツは相槌を打った。
 あなたは何が好きなのと問うと「ぼくはこの世界の全部だよ」と返ってくる。
 勇者らしい模範解答だ。だがゲシュタルトは別の答えを期待していた自分に気がつき嘆息を飲み込んだ。
 旅は順調だった。三人揃えば何でもできると思えるくらい信頼は深まっていった。たとえアンザーツが自分を振り向いてくれなくても後悔はしないと、そう思えるくらいに。
「ゲシュタルトとアンザーツが上手くいったら俺ひとり余り者だろ? あとひとり攻撃魔法の得意な美女が入ってくれたら願ったり叶ったりなんだけどなあ」
「もう、ムスケルったらまたそんなこと言って。……私も女友達には憧れるけど、あんまり魅力的な人がアンザーツの側にいるのは不安だわ」
「ははは、ゲシュタルト以上の別嬪さん見つけるのはなかなか大変だと思うぞ」
 買い出しや入浴の順番待ちでアンザーツがいないときは、よくムスケルと内緒話をしていた。とは言えそれは非常に可愛らしい密談だった。仲間の輪を乱すようなものでは。






 転機が訪れたのは国境沿いの村でのこと。
 「凄い美人が出るみたいだぞ」と鼻の下を伸ばしたムスケルが公演のチラシを握り締めて宿へ戻ってきた。どうも旅の一座がこの村に停泊しているらしい。
「花形の巫女がめちゃくちゃ評判でさ。ポートレートが飛ぶように売れてんの。今から席取りゃ前の方で見れるから!!」
 舞を舞うその巫女とやらが戦士は大層お気に召したようだった。公演までまだ数時間もあるのにアンザーツとゲシュタルトを一座のテントまで引き摺って行く。中に入ると彼は最前列の真ん中にどっかり腰を降ろした。
「どうせふたりともこういうの見たことねえんだろ? 猛獣を従わせて火の輪をくぐらせたり、不安定な球の上で逆立ちしてみせたり、旅芸人ってのはすげーんだ。身のこなしとか参考になるかもしれないぜ」
 ムスケルの饒舌な講釈は開演時間までノンストップだった。投げナイフについての説明が終わるか終わらないかのうちに観客席は満杯になり、始まりを告げる鐘が鳴る。
 前座と幾つかの演目が終わるといよいよ目玉である巫女の登場だった。波を打ったよう客席は静まり返り、場の空気が塗り替わる。前評判からの予想を悠々上回り、清らかとしか言いようのない巫女が薄紫の長い髪をなびかせた。笛と琴の音が舞の神聖さを更に高めた。
 雪だ。
 誰も触れられない高峰に積もったまっさらな雪。
 名のある神殿に、けして短くはない時間を捧げてきたのに、自分など足元にも及ばないと思った。
 なんて神の領域に近く在る人なのだろう。どうしてどこの神殿も城もこの巫女を引き入れず旅などさせているのだろう。
 疑問は後ほど明らかになった。巫女だと思っていた女は、実は女ではなかったのだ。
 演舞の途中で悲鳴が上がった。幕を切り裂いたのは獰猛な魔物の爪だった。
 アンザーツが即座に剣を取り、ムスケルも斧を振り上げる。巫女は何事もなかったかのように踊り続けていた。七色の魔法を放ちながら。


「ヒルンヒルトって言うんだって。今日から四人パーティだね」


 この日のムスケルの落胆ぶりについては語るまでもなかろう。「嘘だ。嘘だ男なんて……」と嘆く背中には慰めの声すら掛けられなかった。
 ゲシュタルトはというと、彼が男であったことに内心ホッとしていた。己でさえその一挙手一投足に心を奪われかけたのだ。こんな魔力を持った人間が女であれば、たちまちアンザーツの心を虜にしてしまったに違いない。






 さて、四人目の仲間は問題だらけだった。まず呼びかけてもろくに返事をしない。彼が応じるのはアンザーツにのみである。戦闘中の「下がって!」などの指示には対応してくるので耳が聞こえていないわけではなさそうだ。ということは我々は彼に無視されているのである。
 アンザーツとムスケル以外は俗世の人間をあまり知らないゲシュタルトなので、こういう対応は頻繁にあるのかそうでないのか大いに悩まされた。ムスケルに「いや、普通はこんなことはない」と教えてもらってからはじわじわと憤りが増していき、それはそれで別の悩みになったのだが。
 しばらくするとアンザーツがヒルンヒルトに何か言ってくれたらしく、返事をしないということはなくなった。だが植えつけられた不信感はそう簡単には払拭されない。笑ったり怒ったりという感情もほとんど示さぬ魔法使いに透明な壁を感じたまま、ゲシュタルトたちは旅を続行しなければならなかった。
 とは言えヒルンヒルトの参入で楽になったこともある。ひとつは魔物との戦闘だ。闇属性を除くすべての魔法を大魔法レベルで操ることのできる人間など大陸中探しても三人はいないだろう。光魔法だけは辛うじてゲシュタルトに軍配が上がったが、魔力の容量や複合の正確さ、その他どれを取っても彼には到底敵わなかった。
 知らない土地で道に迷うこともなくなった。旅慣れたヒルンヒルトはただの街道くらいなら地図を見ずともひょいひょい先へ進んでしまう。剣の塔へ向かう森の中でも、方向がわからなくなると風を纏って樹木より高く飛び、道の正しさを確かめてくれた。
「ヒルトは凄いなあ。ヒルトのおかげでぼくたちとても助かってるよ」
「そ、そうね……ふふ」
「そ、そうだな……あはは」
 アンザーツは無邪気にヒルンヒルトを受け入れていた。一方ゲシュタルトとムスケルはそんな彼を見て「流石は勇者、心が広い」と驚嘆していた。
 よくぞあんな何を考えているかわからぬ男に親しみを持てる。ムスケルが「俺もヒルトって呼んでいいか?」と尋ねてスルーされる現場を目撃して以来、ゲシュタルトは毎日戦々恐々としていた。魔物よりもヒルンヒルトの方が余程恐ろしい。物理的な傷なら魔法で癒せるけれど、冷たい視線と情のない言葉で傷つけられた心は縮こまるばかりだ。
 雪なんて可愛らしいものではない。あれは氷柱だ。研ぎ澄まされた氷のナイフだ。
 せめてもう少し笑ってくれればこちらも接しようがあるのに。
 ムスケルは同じ男同士腹を割って話せるようになった方がいいとしばらくアタックを続けていたが、ゲシュタルトはそのうち打ち解けるのを諦め、会話の際には腫れ物に触るような気分でいた。
 別に見返りを求めて優しくするわけではないが、思いやりのおの字もわかってもらえないのはあまりにつらい。折角こうしてあげたのに、など考えたいことではなかった。聖女がそんな思考を持ってはならないのだ。神殿を出たとは言え神殿で学んだことを蔑ろにしたくはなかった。少し苦手なところもあるけれど、彼も大事な仲間のひとり。そう思っていたかった。
 胃のチクチクする状況は増えたものの、兵士の国では大きなトラブルもなく、無事に国境の河を越え辺境の国へ渡ることができた。
 この頃からアンザーツは以前の彼と変わり始めていた。どこがどう違う、とは上手く言えなかったけれど。












 辺境の都で魔物の大群に襲われた。親玉は紅の皮膚と八つの頭を持つドラゴン。ヒュドラと呼ばれる怪物だった。
 どうやってアンザーツが勝ったのか詳しい顛末は知らない。ゲシュタルトとムスケルは戦闘不能状態に陥り、目を覚ましたときは王城のベッドに寝かされていた。
 アンザーツとヒルンヒルトは側にいなかった。それが酷く不安だったのを覚えている。

「大丈夫か? アンザーツ」
「大丈夫だよ、ヒルト。大丈夫」

 勇者の変化はヒルンヒルトにどんな影響を及ぼしたのだろう。やがて彼も少しずつ少しずつ変わっていった。ゆっくりと内側の氷から溶け出すように。
 首飾りの塔を出ると、アンザーツは物語で見た先代勇者と同じ格好になった。美しく輝く剣と盾を構え、首飾りの加護で邪気を払う。
 何故か素敵ねと言えなかった。早く魔王を倒して勇者の国へ帰りましょうとしか。
「さあ行こう、皆」
 アンザーツはよく笑う。どんな困難な状況にあっても口元には笑みが刻まれている。
 アンザーツは親切だ。悩める人を捨て置けず、必ず力になろうとする。
 アンザーツは優しい。アンザーツは強い。アンザーツは正しい。アンザーツは……。
 どうしてそんな泡沫の夢を信じてしまっていたのだろう。皆のために戦うことがつらいわけないよ、なんて勇者の言葉を。
 好きだったから、熱くなっていたから、彼の隠した冷たさも弱さも見抜くことができなかったのだろうか。少なくともあの男はそれに気づき始めていたというのに。

「少しくらい相談してくださったら良かったのに……」
「ほんっと突発的だよなあ」

 山門の村に滞在したとき、ヒルンヒルトはふらりと姿を消した。どこへ行ったのだろうと三人で案じていると、魔法使いは大賢者になって戻ってきた。
「……先のことを相談したい。少し時間をもらえないか?」
 闇属性を手にした彼が勇者に問う。どこか切羽詰まった表情で。
 何かが大きく変わろうとしていた。
 予感は確かにあったのに、ゲシュタルトにもムスケルにもついにその正体を掴むことはできなかった。
 ――そうして真実から置き去りにされたのだ。






 賢者の眼差しは常に勇者に向けられていた。朝も昼も夜も、戦闘中も就寝時もだ。
 何かしらの友情が芽生えたなら良いことである。こちらには一切なびかないくせにという小さな苛立ちには気づかぬふりを続けた。いつかヒルンヒルトの心が我々にも開かれ、本当の仲間になれるときがくるだろうと楽観していた。そう信じていなければ自分が仲間の絆をめちゃくちゃに引き裂いてしまいそうだった。
 魔の山を越えて数日経つ。ふと気がつくとアンザーツはヒルンヒルトの側にいる。ヒルンヒルトが彼の傍らに寄って行くのではない。アンザーツの方から賢者の元へすり寄って行くのだ。こんなことは今までなかった。決まった誰かとべったりして、ひそひそ何か話し込むようなことは。
 隠し事をされているという確信について、ムスケルと話し合うこともできなかった。そんな事実があることさえ認めたくなかった。受け入れられなかった。
 普通の街で、普通の暮らしの中で育っていれば、まだ何かできただろうか。
 豊かな人間関係など持つこともなかったのが悔やまれた。こんなとき聖女としての教育を受けてきたゲシュタルトには不安や不満を吐き散らすことができない。心の奥底に沈澱した闇が噴き出さぬよう蓋をするので精一杯だ。

「……平気か? なんかつらいことあったら俺に言えよ。アンザーツには相談しにくいことだってあるだろ?」

 夜の見張りはふたりひと組の交代制になっていた。ムスケルの優しさは出会った頃から変わらなかった。否、寧ろ前よりもっと親身になって思ってくれる。彼とてあのふたりの態度に傷ついていないはずなかったのに。
 でも結局ムスケルにも言えなかった。心が歪むほど嫉妬しているだなんて。
 そう、嫉妬だ。自分にはヒルンヒルトが許せない。どうやってアンザーツの隣という居場所を我が物にしたのか知りたくて知りたくて堪らなかった、本当は。
 闇魔法に何かヒントがあるのだ。それはわかっていた。賢者が勇者に魔法をかけているところは何度か盗み見た。あれが何のための術なのかさえわかればきっと安心できる。疑心暗鬼とも自己嫌悪とも別れられるに違いない。

「ねえ、ヒルンヒルト。昨夜アンザーツと何かしていた? 魔法の気配を感じて目が覚めたのだけれど……」

 なけなしの勇気を出してゲシュタルトは自ら賢者に尋ねた。この男が人でなしだということも、簡単にこちらの意に沿うような人間ではないということもわかっていたのに。
「……何の話だ? 夢でも見たのではないか?」
 逡巡の後、ヒルンヒルトはそう答えた。嘘をつかれたのは明白だった。命を賭して共に旅する仲間なのに。
「……。そう? そうかしら……ごめんなさい……」
 どうして自分の方が引き下がっているのだろう。
 後からパーティに加わったのは彼なのに。不協和音をもたらしたのは彼だったのに。
 どんな大きな力だとしてもこの男の魔法など要らない。三人で旅していた頃に戻りたい。

 ――外へ出るということは心身を穢すということだ。

 老巫女の予言がまざまざと甦る。あれは魔物の返り血を浴びることを意味しているのではなかった。気に食わぬ他人を排除しようとする悪意を、悪者に仕立て上げようとする害意を、己の心に飼うことを意味していたのだ。

「ムスケル……。私、私……っ」

 目の前が真っ暗で、心の中はもっと真っ暗で、水汲みに訪れた湖のほとりで初めて戦士に縋りついた。わんわん泣いたらアンザーツにも聞こえてしまうかもしれないから、本当にひっそりと。
 ゲシュタルトが落ち着くまでムスケルは何も言わずに付き添ってくれた。こちらに何があったのか問いただすこともしなかった。
 嗚咽が止むと戦士は真面目な顔で言う。
「お前さ、アンザーツに告白してこいよ」
 あまりに唐突な提案にゲシュタルトは目を丸くした。こんな旅の佳境で伝えることではない、魔王ファルシュとの決戦を控えているのに浮つきすぎだ。そう反論した。
「だからだよ。今の精神状態でまともに戦えるのか? アンザーツが嫌だなんて言うわけねえんだから、都に帰ったら結婚しようって約束もらってどっかり腰据えてくれてた方が俺だって安心だ。久しぶりにふたりで散歩でもしてくればいいじゃねえか。さっき見たら、小さいけど花も咲いてるみたいだったぜ」
 な、と戦士はゲシュタルトの肩を叩き、軽妙に笑う。その笑顔に元気を分けてもらった気がした。

「魔王を倒して都に戻っても側に置いてくれる? 私のことを愛してもらえる?」
「うん、ずっと一緒にいよう」

 ムスケルの言った通り、アンザーツはゲシュタルトの想いを受け止め歓喜の口づけを返してくれた。
 彼の言葉に、温かい抱擁に、凝り固まっていた感情が一気に解き放たれる。
 魔王を倒したら。勇者の役目が終わったら。アンザーツは自分の夫に、自分はアンザーツの妻になれるのだ。愛し愛されて暮らしていけるのだ。
 それがまだ聖女だった頃の、人生で最高の一夜だった。












 宴が終わる。
 楽の音が止み、踊り子は足を休め、酒の匂いも薄らいで、人々の熱狂が冷めていく。
 勇者は消えた。
 都のどこを探してもアンザーツは見つからなかった。












「っ〜なんだよ、どこ行ったんだあいつ? 何か変なことに巻き込まれたんじゃねぇだろうなあ」
「心配だわ。黙っていなくなるなんて今まで一度もなかったのに……」
「神具の他にもなくなっている荷物がある。携帯食とブランケットと呪符が数枚……明らかに旅支度だ」
 王城の客室に三人で膝を寄せ、アンザーツの行方はいずこと相談し合う日が続いた。折角魔王討伐に成功し、天変地異を起こさせることなく凱旋したのに当の勇者が姿を隠してしまうなんて。
「国の外も探した方がいいかもしれない。辺境へは私が行くよ。兵士の国は君が頼む」
「おう。……お前もあいつから何にも聞いてねえんだな?」
「聞いていればこんなところでじっとしていないさ」
「ああ、まあそれもそうか」
 ヒルンヒルトに睨みを効かされムスケルがたじろぐのを見てどこかで安堵した。今回のことは彼でも預かり知らぬのだと。そんなくだらない考えを抱いている場合ではないのに。
 早く戻ってきてくれないと民衆だって不安に思うだろう。シャインバール二十一世が機転を利かせ、「ゲシュタルトとの結婚式を挙げるため、勇者はしばらく戦いの穢れを落とす儀式に入る」と言ってくれているので疑問に思われることはないと思うが。
「お前は都に残ってくれるか? アンザーツがふらっと戻ってこねえとも限らねえし」
「ええ、わかったわムスケル。必ず彼を見つけてきてね」
 戦士と賢者を見送るとゲシュタルトはひとりになった。内情を知る女官がひとり甲斐甲斐しく世話をしてくれ、きっとすぐ見つかりますよと慰めてくれた。女官はかつてシャインバールの乳母として宮廷に仕えていたという初老の女性だった。
 アンザーツが不在でも挙式の準備は着々と進む。ゲシュタルトの不安などよそにしてドレスの仮縫いが終わり、以降は禊のためと決まった部屋でしか過ごせなくなった。本当に身を清めるなら一度でも神殿に帰りたいのに。それにもしかしたら、あの老巫女なら彼の居場所も突き止められるかもしれない。そう女官に伝えると、試練の森の神殿はとっくに代替わりしましたよと教えられた。ゲシュタルトが発って半月もせず、年老いた巫女には天の迎えが来ていると。
「今はゲシュテーエン様が神殿をお守りくださっています。文ならばなんとか届けさせますが……」
「……そう。そうだったんですか。……では後ほど書かせていただきます。ムスケルたちにも返事を書きたいので……」
 何を動揺しているのだろう。縁を切るとはどういうことか理解していたのではなかったか。帰る場所を失ってでも勇者についていくと決めたのは自分だろうに。
 心臓が嫌な鼓動を刻む。肺腑は軋んで悲鳴を上げるみたいだった。
(アンザーツはずっと一緒だと言ってくれたわ。約束も信じられないの? 必ず戻ってきてくれるはずよ)
 ムスケルからもヒルンヒルトからもアンザーツが見つかったという報せはなく、焦燥は募る一方だった。自分も飛び出していきたくて堪らなかったが、王は頑として許可をくれない。ゲシュタルトの身にもしものことがあったとき、アンザーツにもムスケルたちにも合わせる顔がないと言われた。選りすぐりの衛兵たちが国内を捜索している。信じて待ってくれと乞われれば、わかりましたと頷くほかなかった。
 凱旋から数週間が過ぎた。日が巡れば月も巡る。ゲシュタルトに女特有の血の穢れが訪れているのを悟った女官は「こんなときですから」とこっそり温かい飲み物を淹れてくれた。本来は清浄な水と穀類、野菜、果実しか口に含んではいけないのだが、身体を労わるほうが大事だと気遣ってくれたのだ。
 アンザーツが忽然と行方をくらましてからろくに食べても寝てもいない。安眠効果のある薬草を使っていますと微笑む女官に礼を述べた。薬湯を飲み干ししばらくすると急激に瞼が重くなり、ゲシュタルトは深い眠りに落ちていった。






 思い出したくない。この先のことは。
 薄暗い地下の石畳の上でゲシュタルトは両腕を抑えつけられていた。
 有り得ない場所が焼けつくような痛みを訴え、意識の覚醒と混乱を誘発する。
 声は出なかった。いや、本当は叫んでいたのかもしれない。何もわからなかった。わかってはいけなかった。
 災難から逃れるため魔法を構築しようとしても、激痛が、焦りが、嫌悪が、様々なものが間を置かず去来してゲシュタルトをパニックに陥らせた。

「ちぃっ……目が覚めてしまったではないか!」
「も、申し訳ございません……!」
「うわ、魔法だおっかねえ!!」
「何を怖気づいている!! さっさとしろ、失敗したら貴様の命もないぞ!!」

 男の声がふたつ。女の声がひとつ。知っている声はふたつで、知らない声はひとつだった。その聞き慣れぬ声の男がゲシュタルトに覆い被さっている。蛇のように巻きつき、毒を撒き散らしながら。
 どんなに祈っても誰も来てくれなかった。悪魔がその所業を止めることもなかった。勇者は助けに来なかったし、魔王は世界を滅ぼしてくれなかった。
 心は濁り、肉は汚され、呆然としたまま地獄に繋がれる。
 一体何が起きたのか。
 数日うなされ悪夢の内を彷徨った。
 目覚めると女官はいなくなっていて、別の侍女がゲシュタルトにあてがわれていた。次の女は産婆の経験がありますと話した。






 こんな境遇で誰が正気でいられるのだろう。
 起きている間は国王の監視下で泣き叫んでいるしかできず、腹に赤子がいるとわかったときはいっそ窓から飛び降りて死んでしまおうかと思った。
 ゲシュタルトを押し留めたのはアンザーツとの約束ただひとつだ。ずっと一緒にいようと微笑み口づけてくれた。あの甘美な思い出さえなければとうに己の命など見限ってしまえたに違いないのに。
 アンザーツなら、誰より優しいあの男なら、こんな不幸を責めたりしない。外道の王を懲らしめて正しい結末へと導いてくれる。
「ゲシュタルト様、お身体に障りますから……!!」
 発作的に暴れる自分を侍女は全身で抑え込んだ。その感覚が件のおぞましい一夜を彷彿とさせ、いつもそれ以上何もできなくなる。
 ひとりだった。
 こんなに悲しくて苦しいのに仲間は誰もいてくれなかった。
 神様に背を向けた、これが罰だと言うのだろうか。
 自殺も堕胎も選べなかった。それらは僧侶として、また勇者の仲間としてあるまじき行為だった。
 アンザーツさえ戻ってきたら。アンザーツさえ側にいてくれれば。
 勇者の帰還は唯一残された希望であり、自分自身を追い詰める諸刃の剣であった。
 朝が来て、夜が来て、どんな一日も終わっていく。時間はただ残酷だ。
 腕も足もどんどんやつれていくのに腹だけは逞しく膨らんでいった。殴りつけると慌てて侍女が止めにきた。

「ゲシュタルト……!!」

 扉はある日唐突に開かれた。けれどそこにいたのは待ち望んでいた男ではなく、落胆が心を削る。
 数ヶ月ぶりに会うムスケルは「アンザーツとの子供だって?」と驚いた顔をしていた。
 もし違うわと答えていたら、彼はどんな返事をしてみせただろう。






「側にいて。ひとりにしないで……!」
 明日また来るからと宥めるムスケルを必死に引き留め泣き縋る。
 この頃にはもう自分が何を言っているのかよくわからなくなっていた。
 早くアンザーツに戻ってきてほしいのに、ムスケルを送り出すことができない。ひとりで置いて行かれるのが堪らなく怖かった。
 戦士は相変わらず優しかった。ゲシュタルトの我侭をできる限り聞いてやろうと、時には国王にもかけあってくれた。
 シャインバールはゲシュタルトが彼に何も打ち明けられないと踏んでいたらしい。予測の通りで腹立たしいが、何も言えるわけがなかった。そもそも思い返すこともできぬ記憶をどう話せと言うのだ。
 王城ではなくムスケルの家で静養したいと願い出たが、にべもなく却下された。駄目だと言われることくらい少し考えればわかったろうに、思考力は極限まで低下していた。
「行かないでムスケル! お願い、お願いだから……!!」
 勇者探しの旅に戻ると告げた戦士に抱きつくと困り果てた様子で嘆息する。
 ゲシュタルトだって誰にでもこんなことを言うわけじゃない。仲間の存在は特別だった。もうそこしか寄る辺はなかったのだ。
「俺、お前のこと好きなんだよ。愛してる。……だから駄目だ」
 側にいられない理由をはっきり告げるとムスケルはごめんなと言うように苦笑した。
「お前が待ってるのはアンザーツだろ?」
 囁く声に身が凍りつく。
 羽をもがれ、身動ぎもできなくなった鳥は、こんな気分になるのかもしれない。






 自暴自棄になっていた。虚無の只中でゆらり揺られ、絶望が忍び寄ってくるのを感じていた。
 アンザーツは帰ってくるわと唱える言葉はまるで呪詛。
 産声を聞いても女児を抱き上げるなどしなかった。汚らわしい血を受け継いだ生き物には触れたくもなかった。
 死んでしまえばいいと呪う。王も、男も、女官も、赤子も。
 迎えにきてと言って呪う。約束だけして消えた勇者を。
 今度扉を開いたのは人の皮を被った悪魔だった。アンザーツを唆し、彼の何かを変容させてしまった男。
 彼は言う。
 きっと言う。
 私は勇者に会えたよと。
 自分だけがあの男にとって特別なんだよと。

「アンザーツを封印した。これは彼の決断であり、彼の希望だ。もうここに帰ってくることはない。……君にはムスケルと幸せに暮らしてほしいと言っていた」

 ほらやっぱり。悪い予感は当たるのだ。
 けたたましい哄笑が部屋中に響き渡った。ヒルンヒルトの間の抜けた顔を見ていたらどんどんおかしくなってきて、苛立って、やっぱり酷く滑稽で、狂ったように笑い続けた。
 揺り籠の中に捨て置かれている赤ん坊が賢者はとても気になるようだ。あれはなんだ、誰の子だとあまりにしつこいので返事の代わりに魔力を固めて放ってやった。
 大嫌い。大嫌い。大嫌い。
 いらなかった、お前なんか。いらなかったのに。
 拒めば良かった。最初から。ムスケルだって付き合い難そうにしていたのだから。
「ゲシュタルト!! やめろ、何をしている!!!!」
 魔法はすべて賢者の術により相殺された。ぶつけた怒りと憎しみは一切相手に届かないまま掻き消えてしまう。
 本音を受け止める気もないのだ、この男は。
 仲間なんかじゃなかった。
 そうじゃなかったのにどうして敵わなかったのだろう。どうして私じゃなかったのだろう。
 誰に聞けばいいの、アンザーツ。
 この男からすべてを話してもらえって言うの? あなたのすべてを?
 ――馬鹿にしないでよ。


「出て行って、もう顔も見たくない」


 ぱたりとベッドに倒れるとゲシュタルトは手も足も投げ出した。ついでに心も投げ出してしまいたかった。勇者に捧げた愚かな恋心を。
「……落ち着いて話ができるようになったらまた来る」
 次があるなどよくぞ思える。この男も馬鹿者だ。
 扉は閉ざされ、部屋は再び静まり返った。静寂のままなら良かったのに、オギャアオギャアと肉塊が泣き出す。生まれたときから不幸を決定づけられた娘が。
「うるさい」
 むくりと起き上がりゲシュタルトは髪を結っていたリボンを解いた。どこかの街でアンザーツがプレゼントしてくれた紺のリボンだ。今までずっと大切にしてきたけれど、これも最早意味を失くした。ゲシュタルトが生きる意味を失くしたように。
 赤子の首に濃紺を巻きつけて二重にする。少し力を入れただけで泣き喚く声は大きくなった。もう少し力をこめると途端に力を失い青くなる。
 死んだかどうかはどうでも良かった。癪に障る声が響かなくなったので手を離し、窓辺に目を移した。
 穏やかな日差しの元、結婚式で着るはずだったウェディングドレスが飾られていた。せめて淋しさが紛れるようにと何か勘違いした侍女が置いておいたのだ。
 引き裂くつもりでスカートを掴むと純白の生地が真っ黒に染まる。僅か目を瞠りゲシュタルトは姿見を探した。魔力の状態が著しく不安定になっており、周囲には黒霧が漂っている。
 鏡には自分の姿は映っていなかった。代わりに何か黒くぐにゃぐにゃした生き物が映り込んでいた。
 かつて老巫女から聞いたことがある。魔物になった魔法使いの話を。
 ああ自分もそうなるのかとどこかで納得していた。
 ならばもう何をしたところで自由だろう。
 人の理から外れるのであれば。






 目当ての男はすぐ見つかった。酒場の側で酔い潰れ、気持ち良さそうに眠っていた。
 風で揺すって頭から噴水に浸け込んでやれば寒さで酔いも醒めたらしい。犯した女が半ば魔物化して目の前にいると気がつくと男は慌てて命乞いをした。
「た、助けてくれ! シャインバールに頼まれたんだ! どうしてもって……!!」
 魔物以下の屑だ、人間など。
 どうしてこんな下衆どもを救うために命を張っていたのだろう?
 もうわからない。昔の自分には戻れない。
 どこから魔力を吸い上げているのか知らないが、力だけはいやに溢れていた。
 皆を癒してきた光魔法で男の関節や肉体のパーツをひとつずつ破壊していく。
 死ぬより辛い目に遭わせたくせに自分は助かろうとするなんて卑怯だ。
 罪には罰を。罪人には死を。当然の報いではないか。
 輪郭の定まらぬ身体を引き摺りながらゲシュタルトは飛んだ。シャインバールと彼の女官も八つ裂きにしてやろうと振り返ったが、ひと目王城を見るなり目眩がして都にいられなくなった。
 暗雲と夕闇に紛れて風に乗る。いつしか眼下には幻惑の森が広がっていた。何かに惹かれるよう降り立つと大蛇が足に絡みついてくる。霧を吸った皮膚と毒蛇の鱗は同じ暗褐色をしていた。
「ゲシュタルト……?」
 汚されることなく老巫女の後を継いだ姉は、禍々しい邪気を放つ妹を見てどう思ったろう。少しは哀れんでくれただろうか。
 アンザーツを見つけ出して、何もかも壊し尽くそう。
 勇者も、勇者を求める人間たちも許さない。






 ******






 怒りは冷めることのないままに、長い百年が過ぎた。
 魔王城の子竜は知らぬ間に随分大きくなったようだ。地下書庫に棲みついた胡散臭い魔導師も最近は偉そうに従者など連れている。
 倒したはずのファルシュは壊れた亡霊となってまだ玉座にしがみついていた。
 すべてが悪い夢のようだった。
 ――けれどそれも。






 ねえアンザーツ、私たち本当に色々あったわね。
 本心を見せられないのはあなただけじゃなかった。私もきっとしなくていい我慢をしていたの。ただの人間のくせにいい子ぶって。いいえ、きっと自分がそんなにお綺麗な人間じゃないってことにも気がついてなかったわ。
 飲み込まれた闇魔法の中であなたの苦悩を知って、空虚と怯えを知って、やっと夢見ていたことを悟ったのよ。いつの間にかあなたのこと、強くて優しい勇者としてしか見なくなっていた自分を。おかしいわよね、恋に落ちた瞬間はあなたが何者なのか全然知らなかったのに。
 ゲシュタルトはゲシュタルトだってあなたは言ってくれた。憎まれていてももう一度会えて嬉しかったと。あのとき私、もう一度恋をし直したのよ。あなたが愛しくて堪らなかった。抱き合う前に横槍が入って今度はあなたが歪んでしまって、絶対に助けなくちゃと思ったわ。そうしたらアラインが呼んでくれた。私の血が、あんなに呪った子供の紡いだ血が、あなたや私を助けてくれるなんて誰が思ったかしら?
 奇跡だったわ、私にとっては。初めて四人で笑い合えたことも。
 天界での新しい暮らしはきっと百年耐えたご褒美ね。ヒルンヒルトとは毎日喧嘩してたけど、ふたりで言いたいこと言い合ってるの、結構性に合ってたみたい。今は正真正銘ふたりきりだから少し静かすぎるくらいかしら。
 私はもう幽霊だし、あなたとも両思いだとわかっているし、改めて誓いを立てて夫婦になる必要はないと思ってた。ううん、本音を言うと少し怖かったわ。あなたの愛はとても穏やかだけど、それでも時々大きく波打つのを知っているから。あなたの望むすべてに応じられるか不安だった。本物の夫婦になれるのか。
 でも価値観ってちゃんと変わるのね。新しい出会いや新しい経験は過去を癒してくれるんだわ。イヴォンヌが私に前へ進む力を与えてくれた。最後まで消しきれなかった私の呪いに終止符を打ってくれたの。
 私は百年前の私より今の私が好きよ。そして百年前のあなたより今のあなたがもっと好き。あなたがいれば怖いものなんて何もない。


「――だからこれからもよろしくね。愛してるわアンザーツ」


 普段はゲシュタルトと新郎以外誰もいない天の神殿に、今日はたくさんの友人たちが駆けつけてくれていた。アラインやベルクは元より、地上へ降りて何ヶ月も経つヒルンヒルトも。
 白い婚礼衣装に身を包んだ先代勇者が同じく真っ白なドレスとヴェールで身を飾るゲシュタルトを見つめて涙ぐんだ。サプライズで手紙を読むとグッとくるらしいですとアドバイスしてくれたのは、アンザーツ以上の女泣きを見せる王妃イヴォンヌだ。ウェヌスとエーデルもぐずぐずになっていて、ベルクとディアマントの衣装が犠牲になっている。
 指輪の交換を指示されてゲシュタルトは手袋を脱いだ。左手の薬指に互いのリングを嵌め終わるとクラウディアの進行に従い誓いのキスを交わす。
 厳かなムードなど欠片もなく、口笛とファンファーレ、拍手喝采が巻き起こった。風魔法に乗るフラワーシャワー。飛び散るシャンパンの飛沫。祝福に満たされた祭壇で愛しい人と見つめ合う。
「ぼくも愛してるよ、ゲシュタルト。誰にも取られたくないって思うのは君だけだ」
 ぼくたちも式を挙げたいね、と言ってくれたのはアンザーツだった。
 ひとつきちんとけじめをつけて一緒に未来へ進んでいこうと。
 永遠の伴侶に抱き締められたかと思うと背中側からイヴォンヌも飛びついてきて、主に感極まった女性陣に揉みくちゃにされた。こんな「めでたしめでたし」があるのだから人生は捨てたものじゃない。
 柱の影に隠れているヒルンヒルトにも手を振ったけれど、遠慮したのかなんなのか今日は寄りついてこなかった。マハトが賢者に何事か話しかけているのだけ見える。
「……なに喋ってるんだろ?」
 眉根を寄せたアンザーツにゲシュタルトは思わず噴き出した。
「やだ、やきもち?」
 笑い飛ばせるようになるまで百年かかるわよと脅すと本気で怯えるのだから面白い。
 「もし私が本当にムスケルと幸せになってたらどうしてた?」と尋ねたら、「魔物になってたかも」と半分本気らしい答えが返ってきた。






 そうしてその夜、ゲシュタルトとアンザーツは夫婦になって初めて同じベッドで眠った。
「大丈夫?怖くない?」
 何度も何度も確かめてくる彼の方がずっと及び腰になっていて、途中で少し笑ってしまった。
 この先四人で冥界へ行く日まで、嬉しいことや楽しいことが途方もなく待っているとわかっているのに、何が怖いものか。
「嬉し涙よ。わかるでしょう?」
 精神体と霊体とで不格好な愛を奏でる。
 明日からはきっともっと素晴らしい日々が始まるだろう。







(20130209)