アンザーツの肉体を手中に収めはしたものの、このまま魔界を目指した彼らの後を追うべきか悩むディアマントに、オーバストは一度帰還することを勧めた。魔王を倒すまで帰ってくるなと言われているとそっぽを向けば、「では僭越ながらこちらにお越しいただきましょう」などとのたまう。
 父に対して聞きたいことは山ほどあった。だがいざ対面するとなると何を聞けばいいかわからなかった。大体、問い質したところで余計な疑問に答えてくれる相手ではない。それでもわかったと頷いたのは、ディアマントには新しい指針が必要だったからだ。エーデルを思うと自分のすべきことさえ考えられなくなってしまうから。
 オーバストが神と交信するための魔法陣を準備する間、ディアマントは故郷である天界に思い馳せた。
 幼少期から過ごした神殿。神鳥たちが羽を休める空の小島。奇跡のように美しい場所から訪れたはずなのに、胸を埋めるのは暗い肌の娘で。
 あの女をどう思っているかなど自分にもわからない。ただもし父が彼女を殺す必要はないと言ってくれたら、そうしたら――。

『アンザーツの肉体が手に入ったようだね』

 久方ぶりに聞くその声にディアマントはハッと面を上げた。跪き頭を垂れるオーバストに倣い、己も土に片膝をつける。
『ディアマント、お前はよくできる息子だな。頼んでもいなかったがこれは有り難い。……なかなか強力な封印がかけられているようだが……』
 パン、と小気味良い音を立て、アンザーツを守っていた氷が砕け飛んだ。あまりの呆気なさにごくりと息を飲む。すぐ殺してしまうのかと思ったが、父はそれ以上勇者の器に何もしなかった。
『いいことを考えたんだ。その身体にはまたとない価値がある』
 だから殺さなくていい、と父は言った。その代わり肉体と精神の繋がりを完全に断ち切ってしまおうと。
 意味がわからずディアマントは眉根を寄せる。そんなもの切ってどうすると思ったが、父に説明する気はないようだった。
『ディアマント、お前はどんなとき人が肉体の法則から逸脱するか知っているかな?』
「……」
 思案の後、ディアマントは小さく首を振った。人間が魔物化することがあるのは知っているが、そのメカニズムについては知識外だ。
 オーバストなら知っているかと思い隣を見やる。だが尋ねられなかった。
 従者の姿は恭しくと言うよりも疲れて項垂れているようだった。交信を保つため魔法陣に触れる右手は何故か震えている。
『当たり前のことだけれど、人の心は人の身体に宿るものだ。ならその心が大きく変質しようとするとき、普通はまとう肉体とともに変化を遂げると考えられるね? ……だがもしもだよ。もしもそのふたつがばらばらに存在しているとき、そんな変化が起きれば一体どうなるだろうか?』
 ふふふ、と楽しげに父が笑う。尋ねておきながらその答えを彼は知っているのだ。
『お前たちはこの器を持って魔界へ行くといい。勇者の肉体を壊すぞと言えば動けなくなる者ばかりだろう。――その間にお前はちゃんとあの娘を殺すんだよ。でないと魔王を代替わりさせられないからね』
 はっきりとエーデルを殺害するよう命じられ、ディアマントの心臓は凍った。
 やはりどうあっても自分は魔王討伐をせねばならぬらしい。魔王の血肉も魂も、あの女ごと滅ぼさねば。
「……卑怯ではないか? そんな脅しのような真似を、天界の者である私が」
 父に口答えをするなど初めてのことだった。ほとんど無意識に口をついた言葉にディアマント自身が驚く。
『娘を殺すのが嫌なのかい?』
 そう問われ、ディアマントは言い淀んだ。これ以上の反抗を父は許さないだろう。心配そうにこちらを見つめるオーバストの視線でもそれは十分にわかる。
「……違う……」
 あんな女と天界人としての使命を秤にかけられるはずがない。首を振ったディアマントに満足したよう父は声音を和らげた。
『魔王の血を引く悪しき娘に情けは無用。さあ、行っておいで』
 だがその言葉がまたしてもディアマントの胸を掻き乱した。
 悪しきだと?悪しきと言うなら何故、何故はじめからそんなものを。
「魔王も魔物もあなたが作り出したのではないか……!」
 必死に抑えようとしたが、声は怒りに震えていた。どんな叱責を受けるかと思ったが、意外にも父は違うよと静かな返事を寄越しただけだった。

『わたしが世界を創り直す前にも魔物はいた。でもそれは、かつては人の中にいたんだ。……我々天界人は理想郷であるこの大地を守らねばならない。どうしてもあの娘を殺せないなら、お前は翼を失って死ななければならないよ』

 ディアマントは唇を噛み俯いた。
 オーバストの描いた魔法陣が彼の右腕に吸い込まれるよう消えていく。
 父の声はいつまでも頭の中に重く響いていた。



 ******



 左手に縦長の湖を拝みながら、ベルクたちは深緑の草が生い茂る湿原を北に向かい歩いた。
 今いる場所は赤黒く染まった魔界の空の下だけれど、気分はそう悪くない。ヒルンヒルトの能力を受け継ぎパワーアップしたアラインがしっかりした足取りで進むのを見ていると、このところ続いていた気の重い事態も半分くらい解決したような気になった。
 まだ出会って大した時間も過ぎていないのに不思議だ。ノーティッツのような悪友でも、解り合った親友というわけでもない。お国の民に大事に大事にされてきた勇者などロクでもないに違いないとさえ思っていたのに。まあ実際はその勇者の血すら引いていなかったわけだが――。
 アラインが戻ってきて、ベルクは心底安堵していた。もう一度自分の意志で勇者を目指すと言ってくれて。
(負けてらんねえよなあ)
 兵士の国の人間は勇者の国と張り合うのが好きだが、今までのベルクにあまりそういった感情はなかった。でも今は純粋に、アラインと追いつ追われつやりたいなと思う。
「良かったじゃん、ライバルが復活して」
 ノーティッツにそう言われて、ああそうかと納得した。これまでの人生で、ベルクに勝とうとする男や、ベルクが越えたいと思うような同年代の男は誰もいなかったのだ。
 ライバル、いいね、ライバル。なかなか嬉しい響きだ。
「……あんま締りのない顔してんなよ? 余裕かましてると足元すくわれるぞ?」
 悦に入るベルクに幼馴染は眉をしかめた。
「喜んでるんだからほっとけよ」
 そう肩を小突くと「兵士の国ってホント脳筋思考だよね」と呆れられる。
「お前だって半分はその血が流れてんだぞ」
「いやいや、どう考えても辺境の血の方が濃いだろぼくは」
 きゃいきゃいと遠足のような雰囲気を醸し出すベルクたちに、前方のアンザーツが微笑ましげに振り返る。やや切なそうに黒い瞳を細めながら。
「このまま岩山の洞窟を目指すけど、もし洞窟が埋まったままならもうそこで別れよう。空路でラウダが運べる人数もひとりが限界だろうし」
 肉体があれば彼も何人だって乗せられるけれど首飾りの塔に置いてきたままだから、とアンザーツが言った。
 百年前、魔王ファルシュは勇者の侵攻を防ぐべく魔王城に続く道を完全封鎖してしまったのだそうだ。アンザーツたちは苦肉の策で神鳥の背に乗せてもらったらしい。魔王城を目指すためには岩を削るか空を飛ぶしかないそうだ。洞窟が掘り返されていればいいのだが。
「お前は何人運べるんだよ残念不細工?」
「誰が残念不細工や!! ……ワシかて身体は置いてきとるしひとりが限界やで」
「んじゃお前は俺運べよ。魔法使える連中はノーティッツがなんやかんやでどうにかする予定だから」
「なあベルク、さり気なくぼくに丸投げするのやめてくれない?」
「じゃあお前アンザーツにガチでひとりで行けってのか? 冷たくない? 喫茶エンジェルスマイルのウェイトレスの態度以上に冷たくない?」
「そこまで言うことないだろ!?」
 地元ネタに本気で切れかける幼馴染を見てアラインがあははと笑い声を零す。落ち着いた様子で彼はアンザーツに「風魔法を使えば何とか全員移動できると思う」と言った。一度行った場所なら転移魔法でどうにでもなるのだけれどとも。
「……チートだよね、大賢者パワー……」
「……ああ……」
 憑依という形態を取っていたため半減していたヒルンヒルトの力は、アラインの肉体と融合してより強化されたとのことだった。あのイデアールを一瞬で撃沈させた魔力を思い出し、これは本当に本気を出さねばもう追い抜けないかもしれないと焦らされる。
 ベルクはちらりとウェヌスを振り返った。負けてはなりませんよ、とか言われるかと思ったが、女神はにこにこ笑っているだけで特に何も言わない。
 このところウェヌスは黙ってベルクを見ていることが増えた。父であるトルム神の魔法について知り、兄であるディアマントも離脱して、それでも自分の選んだ勇者を信じるとはっきり言い切ってから。
(こいつ喋らねえとちゃんと女神さまに見えっからなあ……)
 ぽりぽりと頬を掻きつつベルクは再び前を向く。
 ――今はあなたの僧侶ですわ。
 あの台詞、結構嬉しかったぜとは未だに伝えられていない。
 ウェヌスを旅に同行させるきっかけとなった盗賊退治を思い出し、ここまであっという間だったなと改めて感じた。
 最初はウェヌスの女神パワーでとんとん拍子に事が進むから毎日ノーティッツとキレていた。天界の力を封じさせたら今度は魔王を倒すまで女神の力は一切使えないなどと言い出して。
(……んん?)
 ふと自分が重要なことに思い至ったのに気づいてベルクは愕然と目を瞠った。
 そうだ、この女、女神の力を使ったら泡になって消えると言っていた。魔王さえ倒せばベルクの同行者である必要はなくなるから、また元の力を得て天界に戻るとかそういう話ではなかったか。もう魔王を倒す予定はないが、どうするつもりなのだ?
「ウェヌスお前……」
「はい?なんでしょう?」
 にこにこと女神は、ひたすらにこにこと微笑みを返した。そのそこはかとないアホっぽさにベルクは確信する。この女、絶対に何も考えていないと。
 どうする、ここはどう出るべきだと自問した末、ベルクは先にノーティッツに相談することに決めた。今こんなときに話すことではない気がしたし、何よりウェヌスを動揺させたくなかった。
 優しくなったなと妙に自覚して溜め息をつきかける。だが幼馴染にからかわれる予感しかしなかったのでグッと堪えた。
 女なんかすぐ泣くし、体力はねえし、虫も触れねえし、そう思っていたのに。
「ベルク?」
「や、なんでもねえ。歯に青ノリがついてる気がしたが気のせいだった」
「えっ! えっ! か、鏡で見てみますわ!」
 気のせいだったと言っているのにウェヌスはクラウディアに手鏡を借りて歯列のチェックを始める。ポケットからすっと鏡が出てくるクラウディアの無駄な女子力にも驚きだ。
 そう言えば神鳥の首飾りは今エーデルではなく彼が所有しているらしい。いくら勇者の神具でも自分には身につけられそうもないなとベルクはふっと笑った。美しく透き通る首飾りをつけた自分を想像してみたら震えがくるほど似合わなかった。
「……にしても平和だねえ。ここって本当に魔の国なのかな?」
 死の山を越えてから見通しが良くなったこともあり、襲ってくる魔物はほとんどいなくなっていた。ノーティッツのぼやきに魔界は二度目のアンザーツがうんと頷く。
「この辺りは百年前もすごく静かだったよ。綺麗な白い花畑があって、その辺りは空気も青くて、幻想的って言うのかな……。ゲシュタルトとふたりで歩いたよ」
 ああ、多分あそこだとアンザーツが指差したのは鏡面のような湖のすぐ側の、白い花の群生地だった。小さな蕾をつけた花が濃い緑の中で揺れている。その花と同じようアンザーツの眼差しも揺れていた。長年の友人である大賢者を喪ってから、ことのほか彼は気落ちしている。
 さっき岩山の洞窟が云々と言っていたのもおそらくそのせいだ。悲壮な決意を持っているのかもしれないが、やたらひとりでもやらなくてはと言いたげにする。本質的にあまり誰かに頼ろうという気がないのだろう。水門の街で魔物退治を手伝ってほしいと乞われたときもそうだし、辺境の都で魔王との経緯を告げられたときもそうだった。もし自分たちが彼の申し出を断っていても強引には頼んでこなかったはずだ。
 アンザーツとアラインは少し似ている。全責任をひとりで背負い込もうとする。勇者だから、勇者だからと自分を追い込んで。アラインはそのあたりも吹っ切れたように見えるが、アンザーツは深刻化した気さえした。
 もっと自分のことを優先すればいいのに。あの賢者もきっとそれを望んでいたのだから。

「――のんびりしていられるのもここまでだ」

 不意に頭上から羽音が響き、全員バッと空を見上げた。
「お兄様! オーバスト!」
「ディアマント……!!」
 ウェヌスとエーデルが現れたふたりの天界人の名前を叫ぶ。
 身構えるこちらに対しディアマントは無表情のまま剣を抜いた。その傍らで申し訳なさそうにしながらオーバストが長剣で次元を切り裂く。
「死にぞこない、貴様の封印は解かれたぞ。大賢者の秘術と言っても名ばかりだな」
 オーバストが空に浮かべたのは生身のアンザーツだった。流石に全員顔色が変わり、精神体の方の彼を見やる。
 最初にディアマントに飛びかかったのはエーデルだった。「早まってはいけません!」とオーバストに呼びかけたのはウェヌス。だが説得は無意味だった。エーデルの俊足の蹴りを高くはばたきかわしたディアマントは、アンザーツの身を盾にしてこちらに動くなと命じてきた。
「まだ器を消されたくはないだろう?」
 オーバストが仮死状態のアンザーツに魔法を唱える。肉体を攻撃されたせいなのか、連動して精神体のアンザーツも苦痛に呻き始めた。
「ッ……!!!」
 己の身体を抱きかかえるよう勇者は蹲る。誰も動けなくなったところでディアマントはエーデルに剣先を向けた。
「……髪の色が変わったか? また魔王に近づいたらしい」
「……」
 ふたりの間に長い静寂が訪れる。
 アラインとノーティッツは魔法構築の隙を窺っていたが、オーバストが目を光らせていて反撃は難しそうだった。
「お兄様、やめてくださいまし!!」
 叫ぶウェヌスにも容赦なくディアマントは風を放つ。尻餅をついた女神の側に駆け寄りベルクは空を睨みつけた。
「今度は普通の娘に生まれてくるといい」
 エーデルに向け剣を振り翳したディアマントに、クラウディアが杖を投げつける。
 戦況が乱れたのはほんの一瞬だ。その一瞬の隙を突いて、今度は更にややこしい相手が黒雲の向こうから現れた。

「おやおや、なんだか楽しそうなことをしてらっしゃるじゃないですか」

 気配を消して現れた男はクイと眼鏡を上げ直した。その銀杖は既にオーバストを地上へ墜落させている。右腕にはアンザーツの肉体が抱えられていた。
「ほほう、これが先代勇者の御身ですか。ゲシュタルトの喜びそうなお土産ができましたねえ!」
「……っのハムヤロー!!」
 ハイテンション気味な魔の賢者に舌打ちするも、ニヤニヤと不快な笑みが返されるだけだった。ハルムロースは側に控えたガラの悪そうな従者にアンザーツを投げ渡す。
 以前呪いのかかった魔道書を押しつけられたときから気に食わないと思っていたが、これでますます嫌いになった。最初からこちらの寝首を掻くつもりで近づいたのだろう。今まではヒルンヒルトに行動を阻害されていただけで。

「お土産なんて用意しなくてもここにいるわよ」

 次から次へと、とベルクは胸中に毒づいた。上空に響く蝙蝠の羽音。見上げればゲシュタルトとマハトの視線が下を向く。全員同時とは畳みかけに来たなという気がした。
「ごきげんようアンザーツ。あなたともそろそろお別れのときかしら?」
 天界人からは解放されたものの、アンザーツの表情は更に険しいものとなっている。ゲシュタルトはハルムロースに彼の相手を譲る気は更々ないようだった。黒手袋の指先に凝縮された魔法の光はバチバチ火花を散らしながらアンザーツに放たれるときを待っている。
「私にも後で切り刻ませてくださいよ?」
 そう言うとハルムロースは己の従者を後ろに引かせた。生かしておいて精神体の状態でなぶるつもりなのだとは予測がついた。
「あいつやっぱり悪い奴だったぜ、ノーティッツ」
「ああ、もう完全に悪い顔してるな」
 オールバックの従者の手からアンザーツを奪い返そうとしたディアマントが、ハルムロースの発動させた魔法球に吹き飛ばされる。見たことのない、属性もわからない魔法だったので多分古代魔法のひとつだろう。この戦闘ではああいうものを多用してくるに違いない。
「俺たちで先にあの身体差し押さえるぞ!」
「そんな借金取りみたいな言い方しなくても!」
 イデアールのように高温の炎を吐く相手でなければ単独でも斬り込んでいける。ノーティッツに上昇気流を起こしてもらい、ベルクは従者に飛びかかった。「うわ!」と悲鳴を上げる辺りこちらにハルムロースほどの戦闘能力はないのだなと知れる。ただ賢者の手によりガードは施されているようで、ベルクの剣は青いバリアに阻まれまったく届かなかった。
「リッペ君、あなたはもう少し離れていましょうか」
 ハルムロースの転移魔法がリッペと呼ばれた魔物とアンザーツをどこかへ移動させてしまう。賢者を睨みつけたベルクに、銀髪の魔物は眼鏡を光らせくすりと一笑した。
「私の醜態を見た君たちも勿論生かしては帰しません。ふふふ、もう抑え切れないんですよ!! こんな屈辱を受けたのは生まれて初めてですからねえッ!!!」
 高笑いしてハルムロースは真っ黒な霧を身体にまとわせた。見た瞬間、魔法に縁のない自分でもとてつもなく邪悪な力だと判別がつく。
(なんだアレ!? 相当やばいぞ!?)
 この手の直感は当たるものだ。クヴァドラートと対峙したときと同じくらい、否、それ以上の悪寒がベルクの背中を駆けていった。
 アラインが攻撃を阻止しようとして魔法を撃つが、それはハルムロースの目前でぐにゃりと曲がってまったく違う場所に転移させられた。歪んだ次元の中で悠々と賢者は術を完成させる。
「さあ、何人生き残れるでしょう?」
 瞬く間に霧が周囲を覆い隠す。ディアマントも、オーバストも、アラインも、ノーティッツも、エーデルも、クラウディアも、ウェヌスも、神鳥たちも見えなくなった。唯一アンザーツだけが霧の範疇外でゲシュタルトと応戦している。
「おい、ウェヌス! ノーティッツ――」
 あ?とベルクは胸を掴んだ。霧を吸い込んだからか、それとも触れてしまったからか、信じ難いほどの激痛が心臓を襲った。次いで感じたのは凍りつくような寒さ。
 思わず神鳥の剣を握り締めたが神具の加護は得られなかった。痛みは増し、冷気は増し、徐々に身体が動かなくなっていく。他の連中もこんな状態なのかと考える余裕もなかった。
 ぷつりと思考が途切れ、ベルクは草の上に転がった。






 真っ黒な霧の中、オーバストは慄然と周囲を見渡す。
 また惨い古代魔法を発掘してきたなと全身総毛立った。あの賢者が使ったのは大量虐殺だけを目的とする即死魔法だ。
(全滅してしまうんじゃ……)
 天に護られたディアマントや自分はともかく、他の者は死を免れないだろう。どうすべきかと心は震えた。神の命を第一とするならこのまますべて見過ごさねばならない。アンザーツの身体を奪われホッとしていたくらいなのに。
 どうする、どうすると自問する。ディアマントも狼狽を隠せぬ様子だった。
 初めに動いたのはオーバストではなかった。主人でもなかった。
 暗黒の中でふわふわした金色の浮遊物体が膨らむ。その中心にいるのは金髪の少女だった。
「……ウェヌス様!?」
 思わず声に出して叫んだ。ベルクと約束して女神の力は使わないと制約を設けたはずの彼女の名を。
 何をやっているのだあの方は。確かにこんな古代魔法は天界の力をもってせねば退けられぬが、己に架した戒めを忘れたわけではあるまい。
 祈る女神の身体から際限なく光は溢れた。とっくに人間の僧侶の限界など越えていた。
 瀕死だったノーティッツやベルクの指がぴくりと動く。色を失っていた頬にも赤みが差してくる。ウェヌスは更に祈りを強め、ハルムロースを真っ直ぐ見据えた。大聖女の威容を双眸に宿らせて。

「あなたがそんな術を使うから、ベルクとの約束を破ってしまったではないですか……!!」

 絶対に許しません、と彼女は掴んだ杖の先から黄金光を放射する。半ば唖然としているハルムロースを包み込み、聖なる光は彼を侵食した。
「……ッ!!!」
 凄い光景だ、とオーバストは息をするのも忘れて見入る。魔法を食い荒らす魔法など今まで一度も拝んだことがない。ウェヌスは天性の才能だけであれをやってのけているのだ。天然とは凄まじい。
「ぅく、ぁううっ……!」
 だがそれはハルムロースの魔法を封じ切るところまでいかなかった。女神としての力を使った反動に、彼女の身体が先に耐えられなくなったのだ。
 もがく賢者は光を振り払うべく梟の翼を広げた。地上では倒れていたベルクたちが次々起き上がる。起き上がって、辺りを満たす浮遊物体を見て、勇者は女神の元へ駆け寄った。力尽き倒れんとする彼女の元へ。






 おい、とかけた声は柄にもなく震えていた。
 ウェヌスの細い体を抱き上げた腕も。
「……すみませんベルク、女神の力はなしだと言われておりましたのに……」
 そうじゃねえだろと言いたいのに声が出てこない。キラキラとこんなときまで輝かしい浮遊物体は次第に薄まり消えていく。
 どうして力を使ったんだなんて聞くまでもなかった。この女が簡単に約束を反故にするはずないのだから。
(俺らのためかよ……!!!)
 泡となって消えると話していた通り、女神の全身をあぶくのような光が覆った。これが全部消えてしまったらどうなるかなんて想像したくもなかった。
 繋ぎ止める方法を必死で考えるのに何も浮かばない。ウェヌスにかけてやるような言葉も。
「何とかならねえのかよ!!!」
 怒鳴り散らしたベルクにノーティッツは首を振った。その仕草に目の前が暗くなる。
 幼馴染はウェヌスに回復魔法を唱えたが、閉ざされた瞼は少しも開かなかった。光はますます薄まって、ほんの一握りだけになる。
 すみませんなんて言葉で終わる気か?そんなもの認めやしないぞ。
「ウェヌス!!!」
 妹の異変を察してディアマントが叫んだときにはもう最後の光も消えかかっていた。
 だがその声に弾かれたよう、オーバストが離れた場所から魔力の塊を放出する。
「……っ!」
 僅かに残った黄金はウェヌスの心臓に戻っていった。横たわったままの女神に近づきオーバストは短い印を切る。そうして固まった身体をベルクから受け取った。
「……何したんだ?」
「……肉体の時間をお止めしました。ですが魔法を解けばウェヌス様は再び……」
 何の解決にもなっていない返答にベルクは拳を叩きつける。どうしてやればいいのだ。
「まったく、天界人というのは目障りな存在ですねえ。そんな馬鹿女にこれほどの力があるんですから……!!」
 折角用意した魔法が半分駄目になったじゃないですか、と文句を垂れつつハルムロースは無数の光刃をベルクたちに向けた。悪徳賢者は腕と足だけ梟のそれに変わっており、褐色の額には魔族の紋様が浮かんでいる。どうやらこれがハルムロースの正体らしい。
「悲しんだって無駄ですよ。どうせ全員殺して差し上げますからね」
 八つ裂きにでもするつもりなのか、白い刃はかわす隙間もないほどに地上へと降り注ぐ。ウェヌスを庇ってやるためにベルクは一歩たりとも退かず、攻撃を弾き返すため剣を取った。
(――許さねえ。あの野郎だけは絶対にだ)
 パン、と高らかな音が目の前で響いた。ハルムロースの魔法を消滅させたのはベルクの剣ではなくアラインの結界だった。
「ベルク、僕はアンザーツの加勢に行く。こっちは任せていい?」
 紅いマントを翻し、アラインは浮かぶ光刃を次々に撃ち落としていく。普通に考えて賢者を相手にするのなら大賢者の力は必須だろう。だがそんな打算はベルクの頭にはもうなかった。あの男だけは己のこの手でぶちのめさねば気が済まない。
「おう、行ってこい。ちゃんと戦士の兄ちゃん連れて帰ってくんだぜ」
「……ああ!」
 いつも通りに声をかけてやれたのだろうか。はらわたが煮え繰り返って頭がどうかなりそうだ。
 オーバストにつきっきりで術をかけられているウェヌスを振り返り、ベルクは待ってろと唇を結んだ。
 何があっても、何をしてでも助けてやる。それまで死ぬな、ウェヌス。






 下半身を大蛇の姿に変貌させ、ゲシュタルトは多大な魔力を必要とする大魔法を連発した。その攻撃をかわしながら、己の肉体を取り戻そうとアンザーツはリッペの元へひた走る。
「ゲシュタルト、待ってくれ! 話を聞いてくれ!!」
 叫ぶ勇者に聖女は容赦などしなかった。そう簡単に辿り着かせはしまいとアンザーツの足元を狙い炎や氷を撃ち続ける。
「こんな姿になった私に今更何をどう弁明したいの!?」
 何をどう言っても怒りを沸騰させるだけで、ゲシュタルトはまったく話し合いに応じそうにない。傍らの戦士にもアンザーツを足止めするよう指示を出し、リッペの元へは彼女自ら飛び立とうとした。
 そうはさせるかとアラインは鞭のごとく稲妻をしならせる。背後から襲ったそれをゲシュタルトが結界で相殺すると、ハッと気づいた戦士がこちらに顔を向けた。
「……アライン様」
 苦い表情だ。アラインは臆すことなくマハトを見つめる。ぐっと息を飲み戦士はこちらに斬りつけた。斧を弾いた剣が硬い金属音を響かせた。






 ハルムロースと向き合って、ディアマントは「一時休戦だな」と呟く。声音から感情を読み取ることができず、エーデルは眉根を寄せた。
「……本気であたしを殺す気だったの?」
 問いかければこちらを振り向くこともせず、彼はそうだと言い切る。
「これが終わったら覚悟しておけ」
「……」
 そう言う割に後ろ姿は無防備だ。普通の人間ではないからだろうか?考えていることがまったく読めない。殺そうと思うなら庇わなければいいのに、さっきも彼は風魔法でエーデルの周囲から黒霧を吹き飛ばそうとした。殺意があるなどと明言されてはこちらとしても警戒せざるを得ないけれど。
 何か意図や目的があるのかもしれない。天の神様からの言いつけが。それで行動がちぐはぐなのかも。
「あなたが本当はいい人なのか嫌な人なのかよくわからないわ」
 ディアマントは答えなかった。ただ空の賢者に向かって大剣を抜いただけだった。
 地上から梟を見上げるのは五人。ベルク、ノーティッツ、クラウディア、そしてエーデルとディアマントだ。オーバストは命がけで自分たちを助けてくれたウェヌスにぴたりと寄り添っている。神鳥たちはそんな神の使者を見張るよう側についていた。
(……さっきは少し動揺してたわね)
 身内が倒れたのだから当然か。やはりディアマントと言えど妹が心配なのだろう。いくら袂を分かっても、家族というのは変わらず心を砕く相手なのかもしれない。
 エーデルも彼女のことは好きだ。兄に似ず明るくて素直だし、できるなら助けてあげたい。
「ねえ、一時休戦するなら肩に乗せてちょうだい」
「はあ!?」
「流石にあたしもあんな高くまで跳べないのよ。構わないでしょ?」
「……」
 断られなかったのをいいことにエーデルは背中の鞘に手をかけた。金色の粒が寄り集まって翼に変わり、ディアマントはふわりと大きな身体を浮かせる。不機嫌そうないつもの表情に戻ったのが何故か少し嬉しい。
「落ちても平気だから拾いには来なくていいわ」
「ふん、誰が貴様なぞ拾ってやるか!」
 同じ空から賢者を狙うエーデルたちを見て、ノーティッツもベルクの足元に風を送り始めた。
 アラインに魔力の刃をすべて落とされたハルムロースが「ふむ……」と唇に手をやり次の手を考えている。どれだけの知識を溜め込んで生きてきたのか知らないが、余裕ありげなのが腹立たしかった。
 エーデルはディアマントの背中を蹴って跳躍した。小憎らしい銀髪男の顔面に蹴りを入れるつもりで踵を落とすが、透明なバリアが金剛石のごとき強度を持ってエーデルの攻撃を阻む。
「貴ッ様この私を足蹴に……!!」
 憤慨しつつディアマントも剣で突く。だがやはりハルムロースのバリアを貫くことはできなかった。
「ちっ……それも古代魔法か!」
「ふふふ、天界人でも魔法の理を歪めることはできないようですねえ? それでは反撃させていただきますよ?」
 賢者は結界の中から掌大の黒い球体をいくつか撃ち出した。それらは落下するエーデルの足首やディアマントの手首に吸い寄せられるよう近づき、吸着と同時に鉛のようなおもりに変わった。
「!!!」
 ちょうどそこへノーティッツの風魔法を受けベルクが舞い上がってくる。黒い球体は彼にも複数向かっていった。
「小僧、叩き切れ!!」
 ディアマントの助言が少しでも遅れていれば彼も餌食になっていただろう。ベルクは類稀な剣技の才能をもって五つも六つも襲いかかってきた球体を残さず真っ二つにした。黒い物体は綺麗に弾け、跡形もなくなる。代わりにハルムロース本人を攻撃するところまで行かなかったようだが。
 そうこうする間にエーデルは湿原に着地した。まるで枷でもつけられたよう両足が重い。避け切れなかったディアマントもおそらくこうなのだろう。
「エーデル!」
 クラウディアが確認してくれたが、案の定簡単には解けない魔法のようだった。解けないなら解けないで仕方がない。このまま戦うよりほかはない。
「こんなのよりあの結界よ。攻撃が届かないんじゃ倒しようがないわ」
 何か手はないかと問えば「アラインさんの攻撃のとき、彼の周囲だけ次元が歪んでいるように見えました」とクラウディアが分析した。それを耳にして反応したのはノーティッツだ。
「次元か。あの鎧の剣士のときを思い出すな」
「ええ」
「……もしかしたら何とかなるかも! クラウディア、悪いけどベルクが上まで飛べるように補助してやってくれる? ぼくちょっとオーバストさんのところへ行ってくるよ!」
 常々ベルクやウェヌスが賢い、頭の回転が速いと誉めちぎる少年は何か思いついたらしく戦場にくるりと背を向けた。出会ったときは一番普通そうな印象だったのに、頼りになる男の子だ。
「おっと、行かせませんよ」
 そのときハルムロースのにこやかな声が天から響いた。反射的にエーデルは今しがた走り去ったノーティッツの背中を追う。黒ずんだ気弾が彼に襲いかかろうとするのを二本の腕で受け止め、エーデルは地面に大きくバウンドした。
「ぁぐ……ッ!!」
「……っの腐れハム!!!!」
 ノーティッツは急ブレーキをかけ、空へ向かい何本もの矢を放った。魔力を注入してあるらしい矢はバリアを越えこそしなかったものの、深々と空に突き刺さる。
「ほほう、辺境の都で古代魔法のお勉強でもしましたか? でも残念です、私の扱う魔法の方が数倍強いんですよ」
 結界に刺さった矢をあっさり引き抜きハルムロースは一本ずつへし折った。その間もディアマントは賢者に斬りつけようとしていたが、剣は空しく弾かれるのみだ。
「何か思いついたんでしょ? ここはあたしに任せて行って!」
「……ごめんね! 後で好きなB級グルメごちそうするから!!」
 くすりと笑ってエーデルは間髪入れず襲いくる気弾をすべて受け止めていった。クラウディアも結界を作って護ろうとしてくれたけれど、賢者の魔法があまりに速い。すぐ側に着地してきたベルクとふたり舌打ちしながら応戦した。もっと速く動ければもう少し回避できるのに、さっき受けた攻撃が手痛い。いつものように足が動いてくれない。
 クラウディアが光魔法で速度補助を何重にもかけてくれたが、術の構成の違いか何かか効果は表れなかった。ディアマントもかなり苛立った様子で一旦湿原に降りてくる。
「おい、ウェヌスの兄貴。空飛べるんなら俺も乗せろ」
「貴様まで私を乗合馬車扱いするつもりか!?」
「っるせえガタガタぬかすな!! ウェヌスあんなんにされて黙ってられっかよ!!! てめぇも兄貴ならあいつボコボコにする一番いい方法考えろッ!!!」
 フーッ、フーッと荒れる呼吸をベルクは必死に抑えている。エーデルから見ても彼の怒りは振り切れていた。攻撃しても当たらないもどかしさが更にそれを増幅させているようだ。
「……」
 妹の名を出されたことでディアマントは言葉を飲んだ。
「仕方がないから掴まらせてやる」
 低く唸りってそう返し、重いはずの腕を差し出す。
 一時休戦などと言わず、ずっとそうしてくれたらいいのに。天界のしがらみなど自分にはわからないが、できるならディアマントと戦うようなことはしたくない。
 とんでもなく失礼でデリカシーのない男だが、エーデルの寂しさを紛らわせてくれた男であるのもまた事実なのだ。






 エーデルとベルクがハルムロースの攻撃を凌いでくれている隙にノーティッツは土魔法で地面を掘り、こっそりとオーバストに近づいた。
 モグラにでもなった気分だが今ここで自分が倒れたら反撃の糸口は永遠に掴めない。頭の上に草と土を乗せたままボコリと顔を出すとオーバストがギョッと目を剥いた。静かにと言うよう人差し指でジェスチャーする。ハルムロースに勘づかれたくない。
「オーバストさん、水門の街で魔剣士と戦ったとき次元の亀裂を塞いでたよね? あの要領であいつのバリア壊せない?」
「……申し訳ありません。今の私にはウェヌス様の時をお止めするので精一杯です」
「ううーん、ぼくじゃ代行できないかな? それか天界人のディアマントか」
「ディアマント様には難しいかと……。非常に繊細な魔法組成を必要としますので……」
 暗に彼にはそういう細やかさがないと言っているらしい。普段の自分ならすかさず突っ込んでいたろうなとノーティッツは思う。そう、普段の己であれば。
 苛々しているのはベルクだけではない。どうしてウェヌスを守れなかったんだとノーティッツも内心発狂寸前だった。幼馴染に比べても温厚な性格であるこの自分をここまで怒らせたのはあの賢者が初めてだ。将来ベルク伝記が残されることになったとき、検閲でストップがかかるレベルでどうにかしてやりたくて堪らない。もしウェヌスが消えていたらこんなことを思う理性も残ってはいなかっただろう。
「……ノーティッツ殿は何故まだ私を頼ってくださるんです? 我々はあなたがたに刃を向けたのに」
「何故って今そんなこと……ああまあいいや。ウェヌスを助けてくれたんだからぼくたちまだ仲間だろ。兄貴の方も、ほら、ベルクと一緒に戦ってるよ」
 突然そんな疑念を投げかけたオーバストにノーティッツはごくシンプルな答えを返す。ともかく今はあのいけ好かないハルムロースをどうにかしなくてはいけないのだ。置いておけることは一旦置いておきたい。
「……私の剣をクラウディアに渡していただけますか?」
「え?」
 オーバストはウェヌスに術をかけたままそう聞いた。なんであの子に、と思ったがそれこそ尋ねている暇はない。
「次元を断ち、次元を塞ぐこの神剣……彼にならもしかして使いこなせるかも」
「わかった。必ず渡す。他に伝えることは?」
 ありません、とオーバストが言い背中の長剣を放り投げる。片手で切り札を受け取るとノーティッツは再び土中に潜り、今度はクラウディアを目指した。
 勇者候補だとかアンザーツ殺しを命じられたとか、愛らしい顔に反して不穏な気配がぷんぷん漂う僧侶である。オーバストが彼を指名した理由もその辺りにあるのだろうか。
(今はどうだっていいや、そんなもん)
 ハルムロースに一撃食らわせ思い知らせてやれるなら、あとは野となれ山となれだ。
 精々いい気になっておけ。その高そうな縁無し眼鏡、百万回叩き割ってやる……!






「……すげえな、マジで怒り狂ってる」
 先程から尋常でない量の魔力を消費し古代魔法を駆使している主人を遠目に眺め、リッペは呆れた溜め息をついた。あんな感情任せに戦っていて大丈夫なのだろうか。だいぶ冷静になってはきているが、ハルムロースはまだ全然いつもの落ち着きを取り戻してない。
 最初の即死魔法も、白刃の雨も、位相をずらした結界も、枷の魔法も、連続気弾も、そして今ベルクたちに浴びせている重力超過の魔法も、一介の魔導師なら一生に一度使えるかどうかの大魔法だ。あれだけやられてまだ立っている勇者たちにも驚きだが、汗ひとつ掻かず空に停止するハルムロースもハルムロースである。半分が人間とは思えない化物だ。
 だがやはり遠くから観察していると、判断力や分析力の落ちているぶん主人のほうが分が悪いように見えて仕方なかった。あの男は気がついているのだろうか?さっきからひとりだけ異常にダメージの少ない人間がいる。わざとらしく攻撃を食らって、痛がる素振りをしているようにしか見えない者が。
(なんなんだあいつ?)
 リッペは目を細め、クラウディアを凝視した。温泉街で見張っていたときと雰囲気がまったく異なる。いや、というよりあの頃抑え込んでいたものが力を増して表層に現れてきたようだ。
 変化の術を操るリッペは日常的に演じ分けをする場面が多い。だから他人がそうしていればすぐわかる。
 クラウディアはハルムロースの攻撃を意に介していない。
 勘ではなく確信だった。さっさと主人に伝えてやるべきだろうかとリッペは悩む。アンザーツの身体を放置するわけにいかないので伝える術もないのだが。
(あいつこっちに来たらイヤだな……)
 ハルムロースの作ってくれた結界があるし、魔王城で留守番する際に貰った護符もある。少しくらいなら我が身を守れると思うがどうだろう。
(ま、とりあえず様子見だ様子見)
 クラウディアのことは引っ掛かるがハルムロースも用意周到な男だ。まさか勇者たちもリッペの鎮座するすぐ後ろに魔力と体力回復用の陣が準備されているとは夢にも思うまい。
 そう、陣は己の真後ろに――。






「なんでゲシュタルトについたんだ? 今からでも遅くない、マハト、武器を捨てろ!」
 強く迷いなく剣を振り、アラインは戦士に命じる。
 既にゲシュタルトやハルムロースたちとは随分な距離が開いていた。他には誰の邪魔もない、正真正銘の一対一だ。
 マハトは時折後方のゲシュタルトを気にする素振りを見せたけれど、そのたびに相手はこっちだと主張するべく打ち込んだ。あまり自分と戦いたくなさそうなのは気のせいではないだろう。その態度が操られているわけではないと言った彼の台詞に信憑性を持たせた。
「……百年前の出来事をムスケルは未だに後悔してるんすよ。あの子を守れなかったことも、アンザーツの口から何も聞けなかったことも。だから俺は!!」
 経験していないはずの過去を叫ぶマハトはムスケルの記憶に振り回されているように見える。だがアラインを目の前にしてなおその呪縛が解けないことに違和感を覚えた。どうも前世の記憶だけが彼女になびいた原因ではない気がする。
「アライン様こそなんで勇者じゃないのに戻ってきたんです!? 俺、あんたに斧を向けなきゃいけないじゃないっすか!!!」
 こちらに向かいマハトは猛然と突っ込んできた。自分に対する遠慮からなのか知らないが、攻撃は普通の物理攻撃だけで魔法石による追撃はない。アラインもヒルンヒルトから受け継いだ力は敢えて使わず戦った。剣術の稽古はずっと魔法なしでつけてもらっていたし、魔法を使えば敵と見なしたように思われる気がしたのだ。
「僕を切り捨ててでもゲシュタルトと行くのか!?」
 ギリギリの間合いを見極め、後ろに飛び退き斧の一閃をかわす。かわして即座に踏み込めばマハトは篭手で剣の平らな面を弾いた。体勢が崩れ、剣は湿原に突き刺さる。反撃に備え盾を構えるが、戦士からの攻撃はなかった。彼は苦しげに動きを止めただけだった。
「俺が要らなくなったのはアライン様の方でしょう?」
 見たことのない歪んだ顔でマハトはそう吐き捨てる。何を言われているのかわからずアラインは眉をしかめた。
「……置いて行かれるのもう嫌なんです。苦しいんです。平気な振りして笑うのも……! アライン様も俺には何も言ってくれませんでしたよね? もうひとりの勇者には何だって打ち明けてたくせに」
「――」
 飛び出した台詞は、思ってもいなかった台詞だった。
 確かに剣の塔を発ってから思い悩んでいたことは、河に落ちてベルクとふたりきりになるまで誰にも吐露などしなかったけれど。
(いや……ちょっと待て)
 誰が誰を置いて行ったって?自分がマハトをか?そんな馬鹿な。
 辺境の塔と都を別れて目指したことを言っているのかと思ったが、マハトのこの逼迫した様相を見るにもっと根が深いように感じた。
 そもそも戦士を置き去りにした勇者は自分ではなく――。
「お前、誰の話をしてるんだ? もしかして僕とアンザーツが混ざってるのか?」
 先代勇者の名を告げた途端、大斧の中心で魔法石が光った。
 吼え猛りながら、しかし酷く辛そうに刃を振り回すマハトの攻撃をアラインは剣ひとつで受け止める。何度も刃の擦れ合う音が響いた。体格差もあり次第に力負けしそうになってくるが、今はどうあっても退くわけにいかない。
「……ッお前の勇者は僕かアンザーツどっちなんだ!!」
 どうしようもない怒りともどかしさをこめて問う。戦士は一瞬身を竦ませた。見開かれた双眸を真っ直ぐ見つめ、アラインはもう一度声を張り上げる。斧に嵌められた魔法石に狙いを定めながら。
「答えろマハト! お前の勇者は誰だ!!」






 蛇の尾をくねらせながらゲシュタルトは牙を出し笑う。彼女の両手にはまた暗い魔力の塊が具現化し始めていた。
 戦士がアラインの方に取られてしまったので、もうアンザーツの肉体を奪いに行く気はなくなったようだ。これだけ両者が近くにあれば精神体から殺そうと肉体から殺そうと変わりないということだろうか。
 迸るほどの殺意が辛い。そこまで彼女を追い詰めたのは己自身の選択だけれど。
「なかなか自分の身体まで辿り着けないわねえ?」
 リッペのいる結界は湖の向こうの岩山である。近づくどころかじわじわ遠ざけられており、彼女の思惑に嵌まっているのは否めなかった。
「新しいお仲間たちも苦戦しているようだし、ふふ、ヒルンヒルトがいてくれれば良かったのにね」
 ゲシュタルトの冷笑にアンザーツは唇を噛むことすらできない。激しい憎悪が声や眼差しの端々から伝わってくる。その度に己を責めるしかできなくなる。
 ヒルンヒルトがいれば確かに叱ってはくれただろう。何を成すために時代を越えて生き延びたのかと。
 目的を忘れたわけじゃない。魔王ファルシュとの約束を。だけど……。
「彼ってあなたのためなら何でもしてくれるんでしょう? あなたは私に何もしてくれなかったけど!」
 ひとしきり笑った後、ゲシュタルトはすっと表情を戻して「嘘つき」と呟いた。
 傷つく権利など持ち合わせていないのに心臓を抉られる。責めていいのは彼女だけで、責められるべきは自分だけだ。そんなことはわかっているのに。
 放たれた瘴気の弾丸にアンザーツは剣を抜く。魔力を漲らせ両断すればゲシュタルトの魔法はそれ以上追ってこなかった。
 アンザーツは彼女との距離を開き、迂回して逃げようとする。しつこく追い縋ってくる割にまだ本気の攻撃は仕掛けてこない。さっきからこの繰り返しだ。ゲシュタルトは何かを待っているようにも見えた。
「逃げてばかりいないで戦いなさいよ。私にもその刃を向ければいいでしょう?」
 こちらが諦め反撃に転じるのを待っているのだろうか。そう思うと尚のことかわす以外の用途に剣は使えない。
「君を攻撃なんてできない」
 アンザーツの返答がゲシュタルトはお気に召さなかったらしい。
 あらそう、と声に怒気を滲ませ新しい魔法の生成を始める。
「優しいのね。攻撃なんてできないですって? ――愛してもいなかったくせに!!」
 刃を剣で跳ね返すことはできなかった。鋭利に尖った鋼鉄のような氷塊が腹を貫いて、走った痛みに思わず呻く。
「……よくできた精神体だわ。血まで出るの」
 イデアールと戦ったときですら見なかった流血が傷口を抑える掌を汚した。心の痛みが反映されているのだろうか?これがゲシュタルトからの攻撃だから、罪悪感と後悔まで実際的な苦痛に変換されているらしい。
 眩暈に立ち眩みながらアンザーツは首を振った。掠れた声で「愛してたよ」と囁く。
「嘘つき」
 嘘つき、嘘つき、とゲシュタルトは狂ったように繰り返した。自分が都へ帰らなかったことだけが彼女にとっては真実なのだ。もう何を呼びかけても言葉は屈折してしか伝わらない。それでも伝えずにはいられなかった。わかってほしかった。
「嘘じゃない。愛してる。今でも君を……!」
「これ以上そんな言葉聞きたくないわ!!!!」
 悲憤の炎を撒き散らしながらゲシュタルトは破壊呪文の詠唱を始めた。
 ああ、あれを食らったら死ぬだろうなと漠然と思う。けれどアンザーツは動けなかった。
 強大な魔法であればあるほど構築には手間と時間を必要とする。逃げようと思えばいくらでも逃げる隙はあるのに。
(ごめんよヒルト……)
 折角手伝ってくれたのに、自分にはあれを避けれそうもない。もう彼女の思いを無視したくない。
 もし勇者が代替わりすることになっても、魔王が死ぬのでなければ天変地異は起こらないはずだ。勇者候補たちは勇者と魔王が魔法に囚われた存在だとわかってくれたし、自分が無理に生き延びようとしなくても後は何とかしてくれるだろう。せめてハルムロースをどうにかするところまでは責任を持ちたかったけれど。
「……」
 宙に浮かんだ魔法陣が黒々とした力を溜め込んでいく様をアンザーツは静かに見つめていた。
 膨れ上がっていくそれは、魔法なのか呪いなのか。
 ゲシュタルトの足元で白い花が揺れる。揺れている。






 ノーティッツが戦場へ戻るとハルムロースの次なる魔法攻撃に皆攻めあぐねているところだった。一帯の重力値が操られており、飛ぼうと思っても飛べないし、魔法もまったく届かないのだそうだ。
 クラウディアの手にオーバストの長剣を握らせながらノーティッツは「どう? 使えそう?」と尋ねた。
「これはオーバストさんの?」
「うん。君なら次元を切り裂けるかもって」
「……わかりました。やってみましょう」
 会話する間もハルムロースの攻撃の手は止まない。自分を傷つけられる者がいないとわかってからは、じわじわなぶるような手段に切り替えてきていて反吐が出た。
 エーデルとディアマントのおもりは時間が経つにつれ質量を増しているようだ。ベルクも腕や足を光線に貫かれ鎧が血まみれになっている。ウェヌスが欠けているのが痛い。クラウディアひとりでは回復するにも限度があるのだ。
 と、僧侶が構えた剣を見てハルムロースが怪訝に眉根を寄せた。
「おやおや、何か新しい策でも講じましたか?」
 どうせ余裕を見せるなら一撃くらい試し切りをさせてくれればいいのだが、こちらには僅かな希望の芽も与えるまいと賢者は超速の光線を撃ってくる。
「クラウディア!!」
 エーデルが叫び、クラウディアを庇おうとしたが重力に囚われ間に合わなかった。ノーティッツも魔法防御をかけようとしたがこれも遅い。
 速さを超越していたのは守られようとしていた当のクラウディアだった。僧侶はするりと地面に鞘を落とすと、一瞬の躊躇も見せずハルムロースのいる上空に向かい剣を振り上げる。
「……!?」
 瞠目する賢者の前で、直線だった光線は曲がりくねって消滅した。ノーティッツもベルクもぽかんと口を開く。天界の剣なので何か特殊な魔法がかかっているのかもしれないが、それにしたってあの細腕であんな重い剣を軽々と……。
「いけそうです。次は結界を破ります」
 クラウディアの宣言にノーティッツはベルクと目を見合わせた。互いにこくりと頷き合う。
「ノーティッツ、風魔法で俺をあの野郎の近くまで……」
「いや、ベルクお前はディアマントの肩に掴まらせてもらえ。その間にもっと戦いやすくしてやる」
 きっぱり言い切りノーティッツは幼馴染の背を押した。
「一発殴るくらいじゃ足りないだろ?」
 ぼくもお前もな、とは言わずとも通じ合っていた。ベルクはこちらの肩に軽く拳をぶつけると腕から血を流したままディアマントの元へ向かった。
 長剣を手にしたクラウディアのスピードは寧ろいつもより速いくらいだった。旗かリボンでも振るように軽やかに左から右から斜めに刃を滑らせて、剣圧で生まれた風をハルムロースにぶつけていく。さっきまで重力のせいで攻撃が一切届かないと言っていたのが嘘のようだ。あまりに呆気なく賢者を包む次元の結界が弾け飛んだので、ハルムロースだけでなくこちらも目を丸くしたくらいだった。
 本当に何者なんだろうか、この子。






 ノーティッツはまだまだ頭の回転を緩める気はないようだ。ベルクも剣を持つ手に力をこめる。
 クラウディアの持つ剣が厄介この上ないと断じたらしいハルムロースは一旦僧侶だけに的を絞って攻撃し始めた。だが先程まで自身がそうしていたのと同じよう、今度はクラウディアの切り裂いた次元に魔法弾のすべてを遮断される。
「ちっ……!!」
 身を翻し、ハルムロースは上空へ飛んだ。エーデルとふたりディアマントの背中に掴まりながら、ベルクは反撃のチャンスを待った。迂闊に跳びかかっても相手には羽がある。あっさりかわされておしまいだ。
「私が魔法で撹乱してやる。腕と貴様らが重すぎてまともに剣が振れんからな、仕方なくだ」
「あんた難儀な性格してるよなあ。だが恩に着るぜ、頼んだ」
「あたしも足は重いけどやるわ。ベルクの次に、できればあいつより上であたしを放してちょうだい」
 短い作戦会議が終わるとディアマントは体勢を立て直そうとするハルムロースにかまいたちを放った。五指の端から順番に炸裂した刃は梟の羽根を空に散らばせる。致命傷ではないにせよ、傷つけられた怒りに賢者は唇を歪めた。
「まだ左手の分もあるぞ!」
 今度は背後から襲いかかるよう、また五つのかまいたちがハルムロースに向かっていく。賢者がちらりと背中を確認した隙にベルクは宙へ飛んだ。右手にはウングリュクに貰った宝剣ではなく神鳥の剣があった。
 ハルムロースは風を起こしてこちらを押し戻そうとしたが、それよりベルクが剣を振り下ろす方が速かった。憎たらしい顔にではなく足元へ叩きつけるよう鞘を振れば、その反動で僅か身体が浮き上がる。やはりこの剣の剣圧は凄まじい。ハルムロースの風魔法はその間に足元を抜けていった。
「覚悟しろよてめえ」
 自分でも驚くくらい冷たい声だった。あっさりと神鳥の剣を投げ捨てベルクはもう一本の剣に持ち替える。ハルムロースが呪文を唱えようとしたので本能的に右足を突き出し顎を砕いた。半人半魔だからだろうか、イデアールより断然脆いと確信する。
「……ッ!!」
 それでもまだ魔法を発動させるには魔法陣という手がある。身を反らしてこちらに向けられた炎を避けると到底剣技を繰り出す姿勢ではなくなったが、墜落しながらベルクは右手を振り上げた。
 手応えはあった。血を噴き出してハルムロースが仰け反るのを半笑いで眺めつつ落下する。ハルムロースはすぐさまベルクに追撃の魔法を向けようとした。だがそこに上空から降ってきたエーデルが襲いかかる。重みを増した彼女の足は的確に賢者の背中を蹴りつけた。身軽さを生かし、エーデルは更に羽に取りつきハルムロースと格闘を始める。
「ベルク!!」
 湿原に叩きつけられる寸前、ノーティッツの声がしてふわりと柔らかい風に包まれた。
 準備できたぞと幼馴染は極悪人の顔で笑った。






 ――なんなんだあの僧侶のあの剣は。水門の街で会った天界人のひとりが同じ剣を扱っていたように思うが、何故それをクラウディアが使っている?アラインたちと同行していたとき、彼にそこまで特殊な力はないと断じていたのに。
 防御結界を切り裂かれ、直接攻撃を許したことにハルムロースは怒りを燃やした。ベルクに蹴り飛ばされた顎は既に癒し終えていたが、傷つけられたプライドは到底治癒などできそうにない。
 ヒルンヒルトに無理矢理自我を眠らされて以来度し難い屈辱ばかりだ。全員苦しめて苦しめて殺してやらなければ怒りは冷めそうもない。
「離れろ小娘!!!」
 翼を引き千切ろうと掴まるエーデルを振り落とすべく、ハルムロースは体内の魔力を放出させた。狙い通り悲鳴を上げて娘の身体が吹き飛ばされる。だが連続して古代魔法を用いたこともあり、今のでかなり消耗してしまった。
 ともかくまずはクラウディアを殺さねばとハルムロースは敢えて低空飛行を試みた。剣さえ奪えばまた防御の結界を生み出せる。僧侶なら接近戦には向いていまい。
 刃のごとく羽を研ぎ澄ませ、旋回しながらクラウディアを狙う。僧侶は剣から杖に武器を変え、四方八方から襲い来る羽根を竜巻で退けた。
(おやおや、調子に乗って剣を使いすぎましたかね?)
 魔力が足りねば魔道具を操れはしない。無尽蔵に力を持つわけでもないのに天界の剣など振るうからだ。だがこれで戦いやすくなった。
 念のため術者の息の根は止めておこうと両翼に残った魔力を掻き集める。リッペのところへさえ行けば回復は容易だ。今このチャンスを逃したくはない。
 しかしとどめを刺そうと腕を振り上げた直後、さっきまではなかった大きな黒い影の存在に気がついた。
 進路方向を変えるふりをして一瞬空を確認する。おそらくノーティッツの仕業だろう、大量の土砂が上空に運ばれていた。
(成程、土の重みで私を地面に引きずり降ろすつもりでしたか)
 ニヤリとハルムロースは頬を歪めた。実行前に悟られるとは不運なことだ。
 となればクラウディアが杖に持ち替えたのもこちらを誘うための罠だろう。頭に血が昇っているはずのベルクが攻撃してこないのも頷ける。深追いは禁物だ。
「皆、気をつけろよ!」
 ノーティッツの号令とともにハルムロースは横方向の飛行を止め、降りかかってきた土砂を風で払い続けた。もくもくと立ち上がる砂煙、これが収まったとき己の無事を確認した彼らの表情を見るのが楽しみでならない。
「っおいノーティッツ! 全部かわされてんじゃねえか!!」
 いち早く失敗に気づいたのはベルクだった。彼の隣で苦々しげにディアマントとエーデルも顔をしかめている。
「残念でしたねえ、翼を封じることはできなかったようですよ!」
 ははははは、とハルムロースは高笑いした。こんな子供騙しの戦略でこの自分を倒そうなどと百年早いのだ。立案者である少年を嘲笑ってやろうとしてハルムロースはノーティッツに目をやった。だが少年は口角を上げ薄笑いを浮かべるだけだった。
「誰が一度で終わりだって言った?」
 ハッと気づいて見上げると土砂に覆い隠され見えなくなっていた上空から水の塊が落ちてくる。否、池の塊と言った方が適切だろう。土を被るより水を被る方が遥かに速度は落ちる。あれはかわさなければならない。
(土魔法? 水魔法? まさか同時に準備していたのか?)
 ハルムロースは咄嗟に防御の膜を張った。属性違いの魔法なら自分に第二波を悟れぬはずなかったのに。否、そもそも賢者でもないこの少年に異なる魔法を並行して扱う才があるわけない。辺境の都で得た臨時の魔力とてイデアールとの一戦で使い込んでいたはずだ。一体どうして――。
「どっちもただの風魔法だよ? やっぱり人間ある物使って戦わないとね」
 土も水も、湿原と湖のそれを利用しただけだとノーティッツが笑う。降り注ぐ滝が結界を打ちつけ侵入しようとしてくるが、何とか我が身は守り抜いた。取り囲まれている今の状況を思うとスピードダウンは即座に命取りとなる。
「……っ!」
 空中の水がすべて湿原に落ちてきたのを確認し、ハルムロースは急ぎ空へ舞った。少し息が切れている。さっさと魔力を補充せねばならない。
「逃がすわけないだろ腐れハム……!」
 ぼこぼこと足元で泡立つような音が響いた。ノーティッツが魔法陣を編み浮かべているのは土と水が混ざり合ってできたもっと厄介な副産物――泥だった。
 ハルムロースの退路を塞ぐようディアマントが立ちはだかる。たった一瞬虚を突かれた隙に、梟の羽にはどろどろとした粘着物が付着した。一気に羽が重くなる。
 ベルクの剣とディアマントの剣、エーデルの蹴り、クラウディアの魔法が四方向から向かってくる。
 残った魔力を振り絞り、ハルムロースは退却のための転移呪文を諳んじた。






 ぜえ、ぜえ、と浅い息を吐く主人の姿にリッペはごくりと唾を飲む。大丈夫ですかと問う前にハルムロースは四肢を投げ出し這いつくばった。
 ここまで疲れ切ったこの男を見るのは初めてだ。早く回復してやらねば相当危ないに違いない。
「リッペ君……、魔法陣まで……連れて行って下さ…………」
 長年こき使われてきたが、肩を貸せなどという殊勝な命令も初めてだ。ここで恩を売っておけば後々少しくらいは優しくなってくれるだろうか。
 だがそんなことはどうでも良かった。もうどうだって。
「お断りですよ、ハルムロース様」
 そう言ってリッペは目を瞠る主人に彼手製の呪符を解き放つ。力尽きんとしていた男にはとどめの一撃同然だったろう。光に焼かれ、ハルムロースは地にのたうった。苦悶の悲鳴が耳に心地良い。
「貴様ッ何を……!!」
 思った通りハルムロースは反撃すらできない有り様だった。不味そうな眼鏡だけポイと投げ捨てリッペはじゅるりと舌なめずりする。変化の魔法で口の大きな魔獣に姿を変えながら。

「なんで俺が今まであんたの小間使いしてたかわかります? ――ハハッ、こんな上等なエサ初めてだ」

 強い魔物を殺せば殺すほど得られる力は大きい。地道に一匹一匹屠るより、デカいのを一匹釣り上げた方が余程魔力は向上する。
 何の旨味もなしに人間にへいこらするわけがないだろう。怒りに我など忘れるからだ。魔物が人間に従うわけないんだよ。
 ヴォルフの牙でハルムロースに噛みつくと、リッペはそれを胃袋の中に飲み込んだ。抵抗など微弱で可愛らしいものだった。
「ははは、はははは!!!」
 溢れる力、漲る力にリッペの笑いは止まらない。
 すごい、すごいぞ。やはり見込んだ通りハルムロースは極上の一品だった。これであの回復の魔法陣に触れたらどうなるだろう?己の力は魔王ファルシュなど越えてしまうのではないか?
 アンザーツの肉体を後ろ足で蹴り飛ばすとリッペは古代魔法の陣の中心に寝そべった。胃の中から海のように魔力が溢れ、溢れ、溢れ、留まるところを知らない。内臓が破裂せんばかりの量だった。
「……んあ?」
 ちくちくした痛みに気づいてリッペが起き上がろうとしたとき、変質を押し留めるのは既に不可能になっていた。
 満ちすぎた魔力のせいで身体が歪み始めている。変化が変化の形を保てなくなっているのだ。
「なんだ!? 腹がいてえ! いてえ!!」
 魔物は勿論人間を食べるのも初めてではない。この痛みには覚えがあった。新しい属性が自分の中に根ざそうとしている痛みだ。前は確か風属性の女を食べたのだった。だが痛みがそのときの比ではない。腹が属性を拒絶している。

「うああいてええ!! っだこれ、闇属性かあああああああああああ!!!」

 悲鳴を上げてリッペは力の溢れるままに何度も身体を変化させた。輪郭という境界を失った魔物の肉は単なる魔力の集合体として目一杯に空間に広がる。それはちょうど傘のよう魔界の空を覆い尽くした。
 どろどろに溶け、崩れた肉塊がアラインたちの頭上にもぼたぼたと落ちていく。
 敵も味方も関係なかった。この時点でリッペの自我は消し飛んでいた。
 そうしてすべてが闇に飲み込まれた。















(20120625)