第十七話 勇者の選択 後編






「ど、どういうこと……?」
 兵士の都とビブリオテークの首都を結んだ直線上、丁度その真ん中。そこが例の飛行艇を迎え撃つ予定の地点だった。
 だがノルム率いる魔導師軍が目的の海に到着したとき、ゼファーは既に遥か北西へと進んでおり、その後ろ姿がやっと視認できるくらいだった。
 速い。いくら追い風を受けているとは言え、あまりにも速度が出過ぎている。
「作戦を変更します!! 全速前進!! あの飛行艇に追いつくのです!!!!」
 号令に応えて宮廷魔導師たちが吠える。今回は海上での戦闘になるため一般兵の大半は都に残してきていた。魔法がまったく使えない者でここにいるのは勇者の国の兵士長マハトと兵士の国の王子ベルクだけだ。そのベルクも神鳥ラウダに先を急がせつつ、現在の状況に首を傾げている。
 第一報ではゼファーの軌道はノーティッツの予測したルートと寸分違わなかった。なのでこちらもアペティート軍の行く手を阻むべく現場へ向かったつもりだったのだが。
「どうなさいますかノーティッツさま! このスピードでは飛行艇がビブリオテーク沿岸部まで到達してしまいます!」
 ベルクの隣で親指を噛む参謀長にノルムは問うた。作戦はすべて飛行艇に出せる最大速度で計算してある。改良に関わったノーティッツが貿易風まで考慮に入れて緻密なシミュレートをしてくれたのだ。にもかかわらず現実のゼファーはまだ速い。こちらも必死で追っているのにぐいぐい引き離されていく。
「そうか……ぼくとしたことがひとつ失念してたぞ……。ノルムさん、部隊をふたつに分けます! 先陣は風属性持ちで固めてください!!」
「!! そういうことですね、わかりました!!!!」
 風属性という言葉でピンと来た。ノーティッツはアペティート軍の手中に落ちていた間、ひたすら呪符の生産を命じられていたと聞いている。その中には当然風を生み出す札もあっただろう。
「ぼくの魔法を加速に使うとはいい度胸だ……!!!!」
 アペティートは電光石火の早業で勝敗を決める策に出たようだ。成程これなら他国の干渉をぶっちぎってビブリオテークとだけ対決できるというものである。
 あの科学大国にはもう後がない。ビブリオテークを仕損じれば込める球のない大砲が残されるのみだ。だがゼファーで敵軍基地を落とし、捕虜を盾にして取引すればまだ十分優位に立てる可能性はある。
「おいラウダ、もっと速く飛べるか?」
「任せろ。切り込み隊長になってやろう」
「こっちも風を集めるぞ! ベルク、しっかり翼の根っこに掴まってろよ!」
 ノルムの真横から浮き上がった勇者たちは雲を射抜いて空を斜めに滑っていく。負けじと自身も魔力を解き放ち足元の翼竜の背を押した。
 見据えるべきは前方の飛行艇だ。わかっているが、後に続く皆の勇姿を焼きつけずにはいられなかった。
 ドラゴン、ガルーダ、キマイラ、グリュプス、果ては速く飛ぶのが苦手な蝙蝠一族まで。魔導師たちを乗せた魔物の大群が一列にビブリオテークを目指している。
 ウングリュクは言った。乗りたくない者は乗らなくていい。それで咎めることはないと。ただ少しでも憎むのをやめたい者や争いの不幸を嘆く者、信じてみようという気持ちのある者には乗ってほしいと。
 祖国は良い王を持った。辺境は必ずもっと強い国になる。この光景こそが証明だ。
「急ぎましょう!! これ以上争いを拡大させてはなりません!!!!」
 グルル、と同調するような唸りが掌に伝わった。恐怖と嫌悪の対象でしかなかった固い鱗のなんと頼もしいことだろう。
 雲間から差す光の間を縫って飛ぶ。幾つもの波が重なる海面も美しい。
 悲しいことはノルムにもたくさんあった。でも今はとてもいい時代に生まれたのだと信じられる。
 ビブリオテークに住む人々も、アペティートに住む人々も、いつかそう感じられる日が来るといい。
 それがきっと、敬愛する主君が出兵を決めた理由でもあるから。






 ゼファーの頭上まで近づいたとき、飛行艇は既に眼下の港町へ空襲を開始していた。
 軍港の軍人たちはおろか、路上にいた市民までも爆発に逃げ惑い、地上はたちまち大混乱に陥る。
 灯台には備え付けの砲台があったものの、空高く停まったゼファーに砲弾を当てることはできなかった。建物も日干し煉瓦で作られた脆いものが多く、爆風で次々と倒壊していく。
「くっそ、なんとか止めねえと……!!」
「ラウダ、操縦席の前に回ってくれ」
 幼馴染の要求に神鳥は了承の意を告げた。急降下に身体が浮くが、青い背中になんとかしがみついてベルクはオリハルコンの剣を引き抜く。

「おりゃああッ!!!!!」

 打ち合わせなど必要ない。ガラス張りの側面が見えた瞬間、ベルクは跳躍し飛行艇に思い切り剣を叩きつけた。パリンと小気味良い音を立て広い窓に亀裂が走る。正面にいた兵士の顔が青ざめる。
「て、敵だー!!」
「陛下、ブルフ司令官!! 上空から敵兵が!!!!」
 あわよくばそのまま取りついてやろうと思ったが、割れ方が激しく上手くいかなかった。墜落するベルクを風で拾い上げたのは当然いつもの相棒だった。「跳ぶなら跳ぶと先に言え!」と怒鳴ったのは文句を言いつつきっちり対応してくれる神鳥だ。
「帝王様も総司令官殿もちゃあんと乗ってたぜ。早いとこ攻撃止めて乗り込むぞ!」
「合点だ!」
 親玉に白旗を上げさせるのがベルクとノーティッツの役割である。彼らの本拠地でこれから革命が成されること、ビブリオテークを攻めてもヒーナと三日月大陸に囲まれるだけだということ、もう身を退くべきなのだということ――この大馬鹿者たちにわからせなければならない。
「いたぞ、あの青い鳥だ! 狙え、狙えー!!」
 と、そのときいかにも危険そうな発射音を轟かせゼファーの機銃がこちらを向いた。ラウダが嫌そうに顔面を歪めたのが手に取るようにわかる。前回はあの砲身は真下にしか向いていなかったのだが。
「うわっ、あいつら射撃方向も改良してきたか。ラウダ、ぼくの言う通りに逃げて! 誘導して町から引き離す!」
 ババババと連続する音と光が神鳥の翼を追って迫る。幼馴染は風で一部を押し返しつつ「右! 左! 十五度上! 更に上!」と細かい飛行指示を出した。
「全然伝わらん!! 大雑把に言うとどういう逃げ方をすればいいんだ!!」
「危ない! 羽たたんで!!」
「……ッ!!」
「離れすぎず近づきすぎずおちょくりながら致命傷を避けんだよ! 挑発だ挑発!!」
「そう、ベルクの言う通り!!!!」
「……!! お前たち振り落とされるなよ……!!!!」
 神鳥は弾道を見定めるべく身を捩る。背泳ぎに似た格好で砲弾をかわす姿はかなりアクロバットだった。もし首飾りの塔の上で試練を受けることになっていたらどうなっていたのだろう。少なくともあのハリセン不細工よりは手強そうに思う。
「――伏せろッ!!!」
 避けた砲弾に呪符が張り付いているのを見つけたノーティッツが叫んだ。結界代わりに剣を翳すが爆風の勢いは殺ぎ切れない。上空を流された際、ラウダも何発か食らったようだ。すぐさま幼馴染が回復魔法を唱えたが、本職でないせいか神鳥の動きは鈍ったままだった。
「ラウダ、上へ飛べ! 下がったら的にされるだけだぞ! なんで左に傾いてんだ!?」
「……ッすまん、関節に破片が挟まった……!」
「え、ええー!?」
「そういうことならお任せを!!!!」
 遅れて現れたノルムの声が空に響く。白く輝く癒しの風が神鳥の翼を優しく包み、痛みと不具合を取り除いた。
「さあ、この数を見てまだ戦意喪失なさいませんか!?」
 圧巻の光景だった。ベルクたちがゼファーに接近している隙に、ノルムは全方向からの包囲を完了させてくれたらしい。空を埋め尽くす強面の魔物たち。その背に跨り雷やら氷柱やらかまいたちやらを浮かべている魔導師たち。こんな団体に四方八方を取り囲まれては生きた心地がしないだろう。
 逃げ場をなくした飛行艇はまだ幼そうな黒竜に鉛の球を撃ち出した。だが黒竜は吹いた豪炎で難なく砲弾を溶かしてしまう。
 それを目にした好戦的な連中が何匹か船底に集まって、砲身をバリバリ頬張り始めた。
 あんなことをされたら兵士は間違いなくトラウマになるだろう。見ていて少々気の毒になってくる。
(……トラウマか……)
 ベルクは幼馴染を振り返り、その横顔をじっと見つめた。
 普段通りに話すし笑うが指先は少し震えている。
「行けるか?」
 うん、と小さく返事があった。
 早く夢から覚めなきゃと。






 ******






 汚職まみれの大臣たちを牢獄に繋ぎ終わると、ものの二時間かからずにアペティート城の制圧は完了した。武器という武器を取り上げて、衛兵たちには眠ってもらっている。侍女たちは震えながら大人しくひとつの部屋に固まっていた。後はフロームとエアヴァルテンの有志を呼び込み、砦が落ちたことを民衆に知らしめるだけである。こんなに呆気ないものなのかと内心拍子抜けだった。湾岸の軍施設も水を打ったように静かだし、あちらはアラインが上手くやってくれているのだろう。
「売国奴め! こんなことをして何になる!?」
「痴れ者が笑わせおって、搾取を看過してきたのは貴様も同じだろうが!!」
 鉄格子の向こうで喚く古狸たちを振り返り、ヴィーダは静かに目を細めた。
 これまでの己の行いはいくら非難されても仕方のないものだ。戦争勃発の引き金を引き、すべてを見捨てて恋人と逃げよとした。責任を問われれば頭を下げて償いますと言うほかない。
「そうだよ。でもこれから変わるんだ」
 全部クライスのためだというヴィーダの根幹はあまり変化していない。だが自分たちの不運を見知らぬ誰かに肩代わりさせようという考えはなくなっていた。彼女のために何ができるか、何を成すのか、繰り返し胸の内で問い続けている。
 一緒に死んでほしいというのは紛れもなく彼女の本心だろう。愛していると言ってくれたのも。
 十五年かかってようやく本当のことを口にしてくれたのだ。
 返事がしたい。今度こそ彼女の涙を拭えるように。


「……意外だったわ。あなたがこんなことを計画するなんて思わなかった。政治には――いいえ、自分のこと以外には興味なんてないのだと思っていたのに……」


 誰もいない玉座の間に移動したときだった。クライスが疲れ切った相貌を俯かせて現れたのは。
 運命が大きく動き始めていると、また気功師にでも聞いたのだろう。右手には隠しもせずオリハルコンの短剣を握り締めている。
「ぼくが馬鹿だったんだ」
 もっと早く気がついてあげられたら良かった。どこにいても誰といても彼女はずっと不安だったのに。心の内を吐露できる相手がいたとしたら、それは自分だけだったのに。
 長いこと我慢させてごめんね。辛抱ばかりさせてごめんね。本当は君も叫びたかったんだろう。
「もう一度だけ同じことを言うわ。一緒に死んで、ヴィーダ……私を愛しているなら」
 オリハルコンに雷を宿しクライスが懇願する。
 夕暮れ色の双眸。宝石箱に閉じこめようとしていたガラスの瞳。
 その奥に灯った暗い炎の揺らめきにヴィーダは首を振った。
 死なない。
 死なせもしない。
 だってシュルトと君の運命は違う。そうだろう?
「生きるんだクライス。来世のためにじゃなく、今の自分のために」
 きっぱり申し出を断るとクライスは失望を露わにした。
「あなたやっぱり何も変わっていないのね」
 嘲るようなその声に違うよと思いを吐き出す。
「破滅の魔法がなかったら、戦争が起きていなかったら、アペティートとビブリオテークが憎み合うのをやめていたら、――君はどう生きたかったの。それが君の本当の望みだろ? ぼくは君の本心が知りたい! クライス、君の手を取って生きたいんだ!!」
 彼女の右手から離れたオリハルコンが光を放ち宙に浮いた。
 白く透明な輝きはたちまち暗い朱に染まる。暗澹たる死の色に。
「逃げられないと言っているじゃない……! 聞かないでよ、叶うはずのない願いなんて……!!」
 放たれた雷撃は壁と天井を吹き飛ばした。後ずさり、追撃をかわすため腰を落として身構える。けれど土煙の中に現れたのはクライスの魔法ではなく別のシルエットだった。


「叶うよ、どんな夢だって」


 英雄の声が力強く語りかける。
 薄暗闇から伸びた手が彼女とヴィーダの腕を掴んだ。


「世界に愛と平和をもたらすのが勇者なんだ。……知ってた?」








 気がつくとクライスは見覚えのある景色の上に浮かんでいた。
 蹂躙を受け、誰も残らぬ静寂の王都。足元には忌々しい滅びの元凶が埋まっている。
 自分とヴィーダをここへ運んだ男にも覚えがあった。遠い記憶の一ページに。
「昔一度だけ会ったよね。ちょうどこの辺りで」
 シュルトがクライスの前世であることを男は知っているらしい。黒髪を風になびかせ微笑みながら、彼は邂逅の理由を説明した。
「あれって僕が時間を飛び越えたせいなんだ。破滅の魔法から力を吸い取ったんだよ」
「? 破滅の魔法から?」
「そう。だからもう、君やヴィーダが死ぬ必要はないんだよ」
「……馬鹿なことを言わないで! 気功師はあれが復活するのに次の満月までかからないと言ったのよ? もう時間がないわ。あれを消滅させられなければ私たち――」
 広げた両手に魔力をこめたクライスに男は自分の右手を突き出す。
 甲には黒い五芒星。「まさか」と思わず目を瞠った。
 そうだ。旧い都で出会ったときも、シュルトは大賢者の刻印に驚き馬車を止めさせたのだ。自分と同じ力を持つ人間などいるはずがないと。
 破滅の魔法に力を奪われるどころか逆に吸い取ったということは、この男は。
「シュルトとラーフェの血はちゃんと未来まで繋がってた。僕はあの魔法を引き継いでいいと思ってるけど、君はどう? まだヴィーダのこと殺したい?」
 問いかけにクライスは視線を彷徨わせる。男の隣には真っ直ぐこちらを見つめるヴィーダがいた。
「クライス……!」
 絶望が胸の底まで一気に蝕む。
 差し伸べられた手を握り返すなんてできなかった。
 どうして今なの。今更生き残る道もあると教えられたって、私もう――。


「……遅いわ……」


 手遅れよ、と囁くと同時、己の呼んだ災厄が暗雲の彼方から舞い降りた。
 赤い明滅を覆う黒い光。さっきヴィーダが生きると答えた瞬間に発動させていたもうひとつの破滅の魔法。空と海を越えて届いた――。
「私だってあなたを守りたかったのよ、ヴィーダ……!!」
 食わせ合って相殺させようと賭けに出た力。でもわかっていた。所詮は悪足掻きだと。同じ性質を持った古代魔法は反発し合う可能性の方が極めて高い。しかも核を有する魔法同士だ。斥力が発生した場合の大きさは計り知れなかった。
「破滅の魔法がもうひとつ……!? アライン、あれはどうすれば……!!」
「……ッ!!」
 たとえこの青年がシュルトとラーフェの血を継いでいたところでクライスの魔法まで飲み干すことはできまい。
 結局世界は滅びるのだ。今度は己の手によって。
「クライス、危ない!」
 隕石が落下するように雲間からおどろおどろしい太陽が転落してくる。ヴィーダの強い腕に抱かれてクライスはその軌道から退避した。どうせすぐ逃げ場もないほど滅茶苦茶になってしまうのに。
 地面に埋まった破滅の魔法と空から零れた破滅の魔法はやはり触れ合いもしなかった。跳ね上がった新しい破滅は王城を押し潰し、ごろりごろりと進行方向を修正する。

「――……」

 泣き崩れるしかできなかった。
 最後の最後で自分が彼を信じなかったからこうなったのだ。
 共に生きようと言ってくれたヴィーダの言葉を。自分が。

「諦めるにはまだ早いよ。ふたりともオリハルコンは持ってるね? 少しの間、あっちの動きを止めておいて」

 真昼の暗すぎる空を背景に、横顔すら見せずアラインが背中で告げる。
 どうするつもりなのかと問えば「君の答えは聞かせてもらったから」と笑った。
 都を見下ろす上空から彼が消える。聖石の剣で封印を切り裂きながら、ラーフェが生んだ破滅の中へと沈んでいく。
 呼応するように王城でゆったり回っていた真新しい光球が再び弾みをつけ始めた。
「……アラインを信じよう。勇者の国にはまだ誰も戻ってきてない。とにかくあれに国境を越えさせちゃ駄目だ」
 ヴィーダの左手がクライスの右手に重ねられる。
 星がふたつに増したから、破滅の威力も倍になってしまったのだと思っていた。
 でも、だけど、本当は違ったのかもしれない。
 本当は。






 ******






 風属性の無い後続部隊がビブリオテーク東岸部に到着したとき、ゼファーと魔導師・魔物連合の睨み合いは膠着状態に陥っていた。
 飛行艇に最接近しているのは神鳥ラウダである。その背にベルクとノーティッツの姿はない。代わりに機体の一部に大きな損傷が見られ、そこから通路が覗いていた。今頃は内部で交戦中、或いは交渉中だろう。
「ねえ、あたし街へ降りてもいいかしら? 怪我人がたくさんいるみたい。見てられないわ……!」
 マハトにそう頼んできたのは希少な自力飛行組であるエーデルだった。バールに乗ったクラウディアも、黄金色の翼を広げるディアマントも、彼女を味方するように傍らで頷いている。
 同じことなら自分も考えていたところだ。過干渉だの領土侵害だの後で色々言われそうだが、この状況で助けに行かずして何が勇者の国なのか、と。
「わかった、俺が責任持つ。下の連中助けたい奴は付いて来い!」
 腕を振り上げ地上を目指すと回復に長けているという何人かが喜び勇んで追従した。
「あ、ただしあんまり怖がらせんじゃねえぞ! こっちはいかついのに乗せてもらってるからな!」
 見慣れぬ魔物に更なる恐怖を煽らせぬため、配慮のつもりで言ったのに、マハトが跨った赤い竜は不満げに首をくねらせた。八つある頭のうち、三つ四つが集まって何やらヒソヒソ内緒話をしている。
「ちょっ……そういうのやめろよオイ! 気になるだろ!!」
 思わず子ヒュドラにつっこむと「からかわれているんだよ」と悪霊賢者の溜め息が聞こえた。
「まさかヒュドラに乗せてもらえるとは思わなかったねえ」
「フフ、この子は私に懐いたのよ? アンザーツ」
「母親か何かと勘違いしたのではないか? でなければ君の凶暴性を本能的に感じ取ったのだろう」
「なんですって?」
「なんだ? 反論でもあるか?」
「あーもうこんなとこ来てまで喧嘩すんな!!」
「ホンマご隠居さんたちはやっかましいなー」
 呆れ声の神鳥が皆に先駆けて降下していく。クラウディアは祈りで傷を癒し、エーデルとディアマントは崩れた建物の中から生き埋めにされた人々を掘り出した。マハトたちもそれに倣って救援活動を開始する。
 ビブリオテークの住民は最初アペティート兵と誤解して石を投げたり命乞いをしてきたりしたが、敵でないことがわかるとホッとした表情を見せた。
 魔物ならともかく、同じ人間の顔を見て恐れるなど己には少し信じ難い。今すぐには無理だとしても、五年後、十年後、二十年後にはこの国も変わっているといいなと願わずにはいられなかった。






 足が震えている。頬も多分引き攣っている。
 でも立ち止まったりしない。こいつの隣にいるときは、絶対に。
「くそッ!! 止まれ、止まれーーッ!!!!」
 操縦室までの通路はほぼ一本道だった。バリケードを築いた兵士たちが銃を乱射してくるが、気合一閃、神鳥の剣により敢え無く吹き飛ばされていく。流れ弾も己の風魔法で横に逸らすくらいなんてことはなかった。
「ノーティッツ、突っ切るぞ!」
「おう! 後ろは任せとけ!!」
 通り過ぎた兵の中にはまだ食らいついてくる負けず嫌いもいて、銃弾は前後に飛び交った。アラインみたいなチート級の魔法は使えないからひとりずつ地味に着実に眠らせていく。クラウディアから頂戴した眠りの札は効果抜群だった。
「……っ」
 薄紫の軍服が鉄の廊下に折り重なる。焦点を合わせ過ぎると目眩がするのですぐ前を向いた。まだとても、平常心には戻れない。
「うぉぉ!? あっちぃ!!!!」
 と、そのとき隠されていた数枚の呪符がベルクの真横で火を吹いた。直撃は避けたようだが髪が少し焦げ耳に水膨れが出来上がる。
「あーらら。痛い? なあ痛い?」
「うるッせえ! さっさと治せ馬鹿野郎!!」
 わざとらしいほどいつもの自分を意識して振る舞っているのにはベルクもとっくに気づいているだろう。
 そうしていないと怖くて怖くて堪らないのだ。さっき操縦室の中にあの男もいたと聞いたから。
(いいようにしてくれたよな、ホント……)
 支配されていた事実と染み込んでしまった恐怖は簡単に拭えそうにない。直接対峙などひとりでは無茶もいいところだったろう。
 ――なあベルク、本当はぼくは冒険なんて柄じゃないし、ひとりじゃ何かを成し遂げようなんて考えもしない人間なんだ。でもなんでかな。お前といると、不思議と何でもできる気がしてくるんだよ。
「来たぞ!!!! 撃てーーーッ!!!!」
「絶対に突破されるなあああッッ!!!!!!」
 五人がかりでやっと運べる車輪付き砲台が大仰な音を立て、ひた走るノーティッツたちに向けられる。
 にやりと笑ってベルクは跳躍した。身を捻り、低い天井を蹴り、狙いを定めさせず当人が弾丸のごとく突っ込んでいく。
「う、わあああああーーーー!!!!!!!」
 悲鳴とともに扉は開いた。青ざめた操縦士と通信兵の間で帝王と総司令官が立ち尽くしている。
 敗北なら既に悟っているだろう。長年魔物たちと戦ってきた三日月大陸の人間が、こんな風に立ち塞ぐとは考えもしていなかったはずだ。

「陛下にひとつお伝えしたいことが」

 ノーティッツは半分無理矢理笑って言った。
「帝都付近の海域に、さっきまで雷魔法で妨害電波を送っていたんです。もうジャミングは解除してもらったので溜まった通信をご確認いただけますか? 帝都は今日、フロームとエアヴァルテンに陥落されました」
 ヴィルヘルムの顔色がさっと変わる。遅れて届いた電信を掴むと初老の男の手はわなわな震え始めた。
 どういう心理でこの男はここまでやって来たのだろう。手に入らないものなどないと頑なに信じ、疑いもしなかったのだろうか。それはそれで幸せな思考回路だ。たったひとつの信条すら守り抜けぬかもと怯えた自分にそんな不遜な強さはない。勿論欲しいとも思わないけれど。
「馬鹿な! フロームとエアヴァルテンは私の息子たちの……ッ!!」
「うん、だからね。あんたのことを憐れんで『権力の放棄と戦争の終結を宣言するなら今後のことも保障する』んだって。……どうする? どのみち帝王制は白紙に戻ると思うけど」
「あぁぁあああ!!!? 属国も支配できぬ愚か者の分際でえええぇぇッ!!!!!!」
 冷たい問いかけにヴィルヘルムは吠え猛った。子供のことは忠実な駄犬か何かだと思い込んでいたらしい。噛みつかれたことに対して異常に怒り狂っている。
 この種の人間を操作するのは彼にとって造作もないことだったろう。不要な憎しみと悲しみを幾つも幾つも生み出してきた男には。 ブルフ・フェーラー。こいつとだけは今ここで決着をつけねばならない。
「どこ行くんだよ? 外は魔物と魔法使いだらけだぞ」
「……ここに残っても生かしてもらえる気がしなくてね」
「人聞き悪いな。お前とは違うよ」
 ブルフは壁際まで後退すると鉄製の小さな扉に手をかけた。おそらく墜落を防止する風の呪符と、回復用の呪符を何枚も持っているはずだ。

「――ッ!!!!」

 予測に違わずブルフを中心に旋風が生じ、その勢いで扉が開いた。突如発動した呪符に男は戸惑いを隠しきれない様子だったが、「ぼくの魔力でぼくが作った呪符なんだぞ? この至近距離で自由にできないわけないだろ?」と教えてやると、悔しそうに歯噛みした。
「観念するんだ。大人しく降伏して、今まで自分がしてきたことを反省しろ。約束するなら殺さない」
 操縦士は既に両手を上げていた。通信兵は――ハンスは涙ながらにひれ伏している。ヴィルヘルムは気でも触れたか、見えない誰かに延々怒りをぶちまけていた。
「……わかった。約束する。帝都へ戻ったら相応のつぐ……、な……っ!! な、なんだこいつら!?」
 膝をついたブルフの周囲に、半透明の、或いはもっと色味の薄い霊魂が一体、二体と集まってくる。黒い軍服の男たち、片足の無いアペティート兵、羽振りの良さそうな商人に傷つき疲れた年嵩の女。多すぎて数も数えられないが、全部この男が殺してきた人間だ。
「なんだ、来るな! 来るな!! 死人のくせに! やめろーッ!!」
 魔力を持たぬ霊体にできることなどほとんどない。事実彼らの腕はブルフの肉体を通り抜けるだけで何の危害も与えてはいなかった。だと言うのにブルフはじりじり壁際まで追い詰められていく。
 散らして消そうとするから憎しみが癒えないのだ。掌をつき謝る気持ちが少しでもあれば。――そう思ったが無駄なようである。
「……つらかっただろ、ニコラ。助けてあげられなくてごめん」
 ブルフの元へ寄ろうともせず抱きついてくる少女の霊に、涙の粒が吸い込まれる。気にしちゃ駄目よと言うように彼女は明るく笑って見せた。
 その輪郭も風に溶け、やがて見えなくなってしまう。

「あ、うあ、あああああああああーーーーーーーーーー!!!!!!!」

 間近に響いた絶叫はやがて下方へと遠ざかった。呼び出した霊魂の大半はそのまま海へブルフを追って行ったが、魔法の効果が切れるとともに不可視の存在へ戻ったようだった。
「……ま、悪党には似合いの結末なんじゃねえの?」
「回復魔法は残してやったよ。安否に関しては責任持たないけどね」
「十分だろ。それで」
 労うように肩を叩かれやっと重い荷を降ろせた気になる。
 仕事まで終えた気になるには少し早すぎたようだけれど。
「……っ許さん、許さん、許さん、許さんぞ!!!! この私が帝位を失うなど有り得ぬ!!!! 覇者でなくなるくらいなら、ここで貴様らと心中してくれるわ!!!!!!」
 ブルフにばかり目が行っていたのは失態だった。操縦桿ではなく砲撃を行うための操作盤にヴィルヘルムの手は置かれていた。
 呪符をより合わせ長く長く数珠繋ぎになった爆弾が操縦室の真下から発射されたのは、その直後のことだった。






 ドオン、ドオンと立て続けに轟いた爆音にアンザーツは顔を上げた。見ればゼファーが大きく傾き、ネックレスのような影が火の手を上げつつ風に流されこちらに落下してきている。飛行艇を囲んでいた者の中には深手を負った者もいるようだ。傍らから賢者が飛び出していくのを認めてアンザーツも地を蹴った。
「魔法と科学の融合か。だが氷漬けにすれば済む話だろう」
 そう言ってヒルンヒルトは魔法を放つ。パキパキと音を立ててひとつめの爆弾が凍りついたが、何故か両隣の呪符が大爆発を起こして後方へ吹き飛ばされた。
「ご、ごめん!! 火の呪符は水属性を受けると自動で威力十倍になるように作ってあるんだ!!!!」
「君はまた呪符に姑息な仕掛けを……!!!!」
 ラウダに乗って降りてきたノーティッツが平謝りするのを賢者は威嚇混じりに睨む。上空ではノルムが連結爆弾を避けるよう指示を出していたが、ノーティッツの顔色は青ざめていく一方だった。
「あ、あ、あああ……っ!! よ、避けてね!? 避けてね!? 多分次は風魔法が――」
 ゴウッと突風が吹いたかと思うと円形だった連結爆弾は縦紐に形状を変えた。さながら一匹の龍のよう、風魔法の助けを借りて空中で不規則に飛び回る。無論その間も大小様々な爆発は起こっていた。
「おい、あれどうしたら止まるんだクソノーティッツ!?」
「ああああ、と、とにかく結び目を切って相乗効果が出ちゃうのを抑えないとあああああ」
「退けーッ!! 退けーッ!! 動きが読めん!! ともかく離れろーッッ!!!!」
 ベルクの叫びにどこかの魔導師の怒号が重なる。リーチの長さと変則的な上下運動に魔物も魔法使いも完全に翻弄されていた。
「結び目だな? わかった、かまいたちで切り刻む!!」
 腕を振り上げヒルンヒルトが放った真空波は連結爆弾を六つに分断した。だが依然うねうねとした動きは変わらず、軽くなった分更に風の影響を受けやすくなって、ますます避けにくくなってしまう。
「ああああああああ!!!! ご、ごめんんんんんんんんんん!!!!!!!!」
 そのうえ的が小さくなったことでかまいたちの命中率も下がってしまった。皆が皆呪文のように結び目を切れ結び目を切れと連呼するが、爆弾は目前で浮かび上がったり沈み込んだり、アンザーツの剣もまったく掠らない。あちこちでけたたましい爆発音が轟いた。
「このままだと内陸部まで風に乗って行ってしまいますよ!」
「アカンアカン! それはアカンで!!」
「早くどうにかしないと……!!」
 てんやわんやで応戦するアンザーツたちに救いの手が差し伸べられたのはそのときだ。

「離れて!! 今海に引き摺り込む!!!!」

 聞き覚えのある声が海上から響いてきた。
 黒装束の気功師たちを従えたヒーナの若き皇帝。姿を見つけた瞬間アンザーツは飛び跳ねた。
「レギ!!!!」
 気功師軍は一糸乱れぬ動きで大風を巻き起こす。下から上に、そしてまた上から下に戻っていく強い風を。
「あの風力では少し足りんな」
 ヒルンヒルトが気功師たちに文字通り追い風を送り始めると、ノーティッツやクラウディア、風属性を持つ魔導師たちが一斉に同じ方向へ空気を押し流した。抗うような動きを見せていた連結爆弾はひとつまたひとつと海の底へ消えて行く。再び静寂が戻ったのを確かめて、アンザーツはヒーナの軍船に飛び降りた。
「レギ、来てくれたんだ……!」
「遅くなってすまない。身内でもまだ色々ごたついていてね。気功師たちも半数以下になってしまったし……」
「えっ」
 言われてみれば確かに前よりぐっと数が減っている。いや、と言うかそれよりも。
「契約は解いたんだ。闇魔法を使ってわたしの胸の内も皆に明かした。……アンザーツ、あなたがわたしに信じろと言ってくれたときのように」
「レギ……」
 前よりも晴れやかな顔で笑う彼にアンザーツは堪らない心地になる。
 大変だと話す本人の前で門出を祝っていいものかどうかわからないけれど、――良かった、本当に。
「ビブリオテークもそろそろ本軍が到着するよ。またうるさく言ってくるだろうけど、何かあればいつでもヒーナに相談してくれ」
「……うん! 皆に伝えておく!」






 それから少しして、港町で瓦礫の片付けや救護所を設置するベルクたちの元へビブリオテークの首長と司令官はやって来た。開口一番「どういうつもりだ?」と睨まれて、どう返答したものか逡巡する。どういうつもりも何も、見ればわかるだろうに。
「我々に恩を売って、どんな見返りを要求するつもりだ? ウングリュクにも援軍は要らんと言っておいたはずだろう! 退け、救護所は我々が預かる!!」
 気が立っていても仕方ないとは思うが自国の負傷者まで乱雑に押しやるのはどうかと思う。
 ふうと嘆息を吐き零すとベルクはアヒムの腕を掴んだ。
「あのさ、町の連中が俺たちのこと追い出そうとしてないのわかるか?」
「……なんだと?」
「困ったとき助けてくれるならどこの国の誰かなんて関係ねえんだよ。俺は二年近くドリト島で暮らしてたけど、どこの奴らも根っこは同じだ。いい加減わかれって。俺たちは人が死ぬのが嫌だから来ただけ! 目の前で誰か倒れてたら、利害なんか考えねえでとにかく声かけるだろ?」
「……それがビブリオテークの民ならな」
 眉を顰めたアヒムに対し、ベルクも憮然とした面持ちを返す。頑固爺め。これでは飛行艇の脅威が取り除かれたことにも微塵も感謝などしていなさそうだ。
「そんなんじゃアペティートが生まれ変わる方がずっと早ぇかもな。……あんたらも変わってみせろよ。負けたくねーならさ」
 「勝手なことを」と凄むだけ凄んでアヒムは踵を返した。首長の命令を受けたビブリオテーク兵たちが街に散開していく。代わりに役目を終えた三日月大陸の連合軍が集まって帰還準備を整え始めた。
 ウングリュクには後でお詫びをしなければならないかもしれない。当初はビブリオテーク本土へは降りないつもりでいたのだから。
「……前にも会ったよね、きみ? 時計塔の天辺で演説してただろ?」
 と、首長に気づかれぬようにこっそりと耳打ちしてきたのはビブリオテークの司令官だった。確かインゴとかいう名前の男だ。軍の中では相当地位が高いらしいが、実は穏健派の筆頭だという話である。
「あの齢になると素直になるのに時間がかかるんだわ。でも戦争が終わるなら、何年かけても必ず変わる。こっちにも戦い以外の道を模索してる奴はいるからさ」
 インゴはぱっちりウィンクすると足早に本軍司令部へ戻って行った。
 ゼファーは海へ降ろされて、ヒーナの船に繋がれている。ヴィルヘルムは虚脱したままぴくりとも動かないそうだ。
 さて、これからどうなることやら。

「大変ですベルクさま! たった今兵士の国から通信が!! 国境に破滅の魔法が迫っていると――!!!!」

 血相を変えたノルムの叫びにその場はたちまち凍りついた。
 なんだってこう次から次へと問題が起きるのだ。






 ******






 あれだけ毒々しい光を放っているのに破滅の魔法の内側は白く静謐ですらあった。
 それともこれは誰かの作り出した、まったく別の空間なのだろうか。
 答えは自ずと知れた。アライン以外誰もいるはずのない場所に足音が響いたから。


「やっぱりこの選択は変わらないんだな」


 同じ顔、同じ声。
 青い瞳はアラインを眩しげに見つめる。
 男は白い装束と白い外套で身を包んでいた。マントの裏地は紅。お互いよく似た格好である。
 けれど彼の方がアラインよりずっと生の長さを感じさせた。
 初めてアンザーツと出会ったときの感覚と似ている。
 「人間」にではなく「勇者」に会ったのだと――そう思った。


「初めましてって言えばいいのかな。……よくわかんないね」


 少しおかしそうに彼が笑う。こちらは大真面目だと言うのに。
 遠い遠い未来の自分。普通なら有り得ない邂逅。
 鏡映しのアラインが「来て良かった」と囁いた。
「自分がどうして今の自分になろうと思ったか、おかげで思い出せたよ。僕の原点はずっとこの時代なんだ」
「……」
 色々手を出しちゃってごめんねと謝罪の声は静かに響く。
 見ていられなくて、気がついたら飛び込んでいたのだと。
「でもそうやって取り戻していった気がする」
 何をとは尋ねる必要もなかった。
 何十年、何百年とひた走れば得るものも失うものも多かろう。
 過去を変えるためとかそんなんじゃない。彼の来訪の理由は。
 迷いを振り払うために来たのだ。


「ベルクの言った通りになるよ。……いつの間にか僕の周りには僕の言葉を鵜呑みにする人しかいなくなってた。だから時々わからなくなるんだ、自分の選択が本当に正しいことなのかどうか」


 気功師の予言した孤独の片鱗が淡々とした台詞の随所に潜んでいる。
 「アライン」は視線に気づいてばつ悪そうに苦笑いした。
「ごめん、これは僕の失敗談だったな。君の運命とはまた別物だ。どれだけ似通っていたとしても」
「……ひとりぼっちになることより、勇者でいられなくなる方が怖い?」
 問いかけは予測済みであったのだろうか。
 答える代わりに彼は彼に待ち受ける未来の話をしてみせた。
「僕もひとつ、大きな決断をしなきゃいけない。多分『勇者』としては最後の決断だ」
 詳しく語ろうとしないのはそれが悲劇であるからなのか、或いはその逆なのか。
 いずれにせよ彼は自分とは別の展望をアラインに願っているようだった。


「君は忘れないで。ひとりじゃなかったこと……」








 ******






 魔法の球は毬のように跳ねて跳ねて、今は湖に浸かっている。
 兵士の国と勇者の国を分ける国境。間には高い山が聳えているが、ここを越えれば一気に破滅の力が増すのは目に見えていた。
 最初クライスは光球を魔力によって誘導しようとした。初めに魔王城から弾みをつけさせたとき、無作為にではなく己の魔力で波の上を飛ぶように魔法陣を組成できたからだ。
 だが一旦手を離れた破滅はこちらの言うことなどまったく聞こうともしなかった。風を送っても土壁で道を塞いでも容易く飲み込み、好き勝手に暴れ回る。唯一有効なのがオリハルコンを通じてその場に留まれと祈ることだった。
「……っ!」
「クライス、平気か?」
 時折中心から放たれる赤黒い風に触れると魔力をごっそり奪い去られる。ヴィーダはうまく避けたようだが、クライスは少し掠ってしまった。
 体勢が崩れた隙を突き、破滅の魔法は水の中から浮き上がった。またじりじりと歩を進められてしまう。
「とにかくここを守りきらないと……! アラインが来てくれるまでは……!」
 ヴィーダは短剣を握り締め、破滅の魔法を白く輝く光で戒める。クライスも再び風で身体を持ち上げ自らの呪いと対峙した。
 一体いつから彼は誰かを信じられるようになったのだろう。
 ほんの少し前まで、こんな状況ではクライスを連れて逃げることしか考えなかった男なのに。
 変わらないのだと思い込んでいた。誰よりも自分が自分の半身を信じなくてはならなかったのに。
「だけどあの人、どうやってこの魔法を封じるつもりなの? オリハルコンが三つに増えたって結局……」
「わからないよ。でも絶対に何とかするって顔だった」
 だから信じて耐えるんだ、とヴィーダが剣を振り上げた。赤黒い球体の表面が風圧に抉れ、勢いは一時的に殺がれたものの、またすぐ元に戻ってしまう。
 そもそもあの魔法から魔力を吸収していたというのがクライスにはまだ信じ難い。いくらアラインがラーフェとシュルトの子孫だとしても、普通は自身がすっかり飲み込まれてしまうだろう。さっきから自分でも何度か試してみているが、己の魔力を持って行かれるだけで向こうから取り返すことなどできなかった。
(星が違うんだわ……。私たちと彼では……)
 宿主が変わるたび、大賢者の力もその役割を変えてきた。持ち主の運命に寄り添うように。
「……ッヴィーダ!!!!」
 とびきり大きな赤黒いうねりが破滅の魔法から飛び出してきて、クライスは咄嗟に恋人を庇った。ヴィーダを突き飛ばした代わりに自分がその場に取り残される。魔獣の掌にも似た形なき腕が迫る空中に。
「クライス!!!!」
 絶叫が嶺にこだまする。だが覚悟した消滅は訪れなかった。
 視界は開けた高い空。黒翼の羽音が間近に響いている。「大丈夫だった?」と女の声。
「……あなたは……」
 祖国の都で会った黒い肌の女がクライスににこりと笑いかけた。
「ヴィーダとは和解したみたいね。良かった!」
 心底ほっとしたように祝福する彼女の足にはオリハルコンのアンクレットが嵌っている。ヴィーダの方を見てみれば、同じくオリハルコンの剣を手にした青年が青い鳥に乗り舞い降りていた。
「おい、どういう状況だ? お前らどうやってあの魔法抑え込んでるんだ!?」
「聖石だよ、聖石に祈りをこめるんだ。四つもあれば少しくらい押し返せるかもしれない……!!」
 希望の戻ったヴィーダの蒼い目はきらきらと輝いている。
 昔はあの目を見るのが嫌だった。自分を映されるのはもっと。
「お、お祈り!? あたしそういうの苦手なんだけど大丈夫かしら……」
 不安げな女の声に応えたのはクライスではなく金髪の兄弟だった。
「大丈夫ですよエーデル、わたしも力を貸しますから」
「仕方がないからな。協力してやらんでもないぞ」
「……! ありがとう!!」
 光の翼を有したディアマントとその肩に掴まったクラウディアがエーデルの合わさった掌に手を重ねる。
 どこかうんと遠いところから転移魔法を使ってきたのか、麓では突っ伏しているヒルンヒルトと付き添うマハトの姿が見られた。
「魔法本体と光に触れないように気をつけて! アラインも来てくれるはずなんだ!!」
「わかった!! ともかくこっから先へは行かせねーぜ!!!!」
 ベルクの剣はよくよく彼の気持ちを汲み取ってくれるらしい。深く腰を落とした彼が斜めにひと振り斬り上げたかと思うと、衝撃はたちまち巨大な空気の塊となり破滅の魔法とぶつかった。毒色の光を吐き散らしながら魔法は跳ね上がり、ひとつ向こうの丘へと落ちていく。
「……」
 呆気に取られるクライスの横で今度はエーデルが空を蹴る仕草を見せた。
「はぁーーッ!!!!」
 掛け声に傾いたのは球体の動きだけではなかった。彼女の傍らではディアマントが羽を滑らせていた。
「い……祈るのではなかったのか?」
「だってこっちの方がわかりやすいんだもの!」
「効いているならいいじゃないですか。さあ早く追いかけましょう」
 お互いに文句を言ったり窘めたりしながらエーデルたちは破滅の魔法の後に続いた。
「待って、オリハルコンを持っていないふたりは危険だわ。あなたたちは皆に避難を呼びかけて!」
 引き留めたクライスにクラウディアとディアマントが似ても似つかぬ笑みを返す。そんなものとっくに手配済みだということらしい。
「妙な縁だな。シュルトを殺したツエントルムは、まさか我が子がお前に手を貸すことになるなど考えもしなかったに違いない」
「ええ、本当に不思議です。あの人が封じた魔法と同じものと自分も向き合うことになるなんて」
「え……?」
 すぐには意味を理解しかねたが、どうやら彼らはツエントルムの息子であるらしい。運命を知り、ラーフェを手離し、ひとりになったシュルトが救いを求めたあの子供の。
「あ、じゃあぼくもウェヌスの代理ってことで協力するねー」
「それはちょっと厳しくねえか?」
 おいおいと笑いながら神鳥の背に掴まったベルクたちがクライスを横切る。
 ひとりじゃない。ふたりきりでもない。
 こんなのは初めてだ。
「行こう、クライス。ぼくたちも……!」
 破滅の魔法はまたぐるぐると同じところをゆっくり回って進路を探しているようだった。
 それぞれにオリハルコンを握り締め、もうそこから動かぬようにと必死で念じる。


「待たせてごめんね! 核まで全部取り込むのにちょっと手間取っちゃって!!」


 ――果たして奇跡は降臨した。
 長かった非業の宿命に、ようやく終止符が打たれようとしていた。












 人間ではなくなるぞ、と賢者が脅していたことを今更ながらベルクは思い出す。
 同時にまたひとつ時代が過ぎ去って行ったのを感じた。
 お前みたいなやつが勇者で良かったと笑い合い、互いに負けじと切磋琢磨した時代が。
 ――アラインはもはや誰の手も届かぬような力を得てしまったのだ。

「……うん、やっぱりそうだ。もう血縁なんか関係なくどんな魔力でも吸い込める。僕の中にあの魔法の核がちゃんと根付いた証拠だ」

 結末はあっさりしていた。アラインが右手の五芒星を翳すと破滅の魔法は凄まじい勢いで勇者に引き寄せられ、濁流と化し飲み込まれていった。
 その間ほんの数十秒だ。最後は塵ひとつ残らなかった。
「……終わったの? 何、今の……、すごい……」
 エーデルやディアマントたちが息を飲む。ノーティッツも黙して語らず、じっとアラインを見つめていた。
 どうしようもない予感がベルクの胸に迫る。道は多分、今ふたつに別れたのだろう。
(けど仕方ねえよな。行くって言うのを止められねぇよ、俺だって)
 ひとりになるぞとは言ったものの、できるならひとりになってほしくはない。アラインの手にした力がどれだけ異質なものであったとしても。
「まだ終わってないよ。これからまたアペティートへヴィーダを送っていかなきゃ。城の占拠は済んだだろうけど大変なのはこれからだし」
「……うん! ありがとう、アライン」
 ヴィーダがすっと差し出した右手は握らず、アラインは笑って彼の左手を握り締めた。刻まれていた五芒星が波打ち、たちまち勇者の右腕に吸い込まれていく。
「!?」
「もう必要ないだろ? 手元に残しておくとまた破滅に向かって悪さを始めちゃうよ、これ」
 ほら君も、とアラインはクライスに手を差し出した。意を決したように頷いて不遇の女は腕を伸ばし返す。
「……刻印の色が……」
 ノーティッツの呟きにベルクは薄く目を細めた。
 三つあった大賢者の五芒星はひとつに集約され、何の反応か縦半分が白い光に染まっている。
「じゃあ僕たち行ってくるから」
 アラインはアラインのまま変わっていないはずなのに、何かが酷く変容したのを実感せずにはいられなかった。
 彼の行く先を案ぜずには。






 ******






 ――数ケ月後、勇者の都には以前の賑やかさが戻りつつあった。アペティート軍と破滅の魔法による被害で無事な街はひとつもなかったけれど、人が戻れば生活が始まり回転していくものらしい。
 一番に隊商と市が戻ったのはやはりアイテム街だった。荒らされ方が一番酷かったのもこの街だが、勇者の国では逞しい部類の住人が揃っているだけはある。流通が巡るようになると皆も活気づき、各地で復興が進んだ。アラインも毎日あちこち出向いては土魔法や水魔法を駆使している。
 アペティートではめでたく軍部が解散し、帝王制は正式に過去のものとなった。帝都へゼファーが戻ったとき、ヴィルヘルムは既に正気も生気もなくしていたらしい。水面下で結集していたアペティートの反政府組織もフローム・エアヴァルテンの反対勢力と合流し、今後について討議を重ねているとのことだった。どうやら彼らは国土を十数の地域に分け、各地区ごとに民衆から代表を選ぶつもりであるらしい。地雷原となってしまった西部にはヒーナの気功師たちが来てくれているそうだ。
 ビブリオテークはアペティートがアペティートでなくなったことに動揺を隠し切れない様子だった。何度か沿岸まで戦列艦を寄せる事態は発生したが、近頃はそれも落ち着き、軍はドリト島からも撤退している。要人の身柄を引き渡せなどの催促も今のところはないらしい。
 あれからクライスは一度アヒムの元へ帰ったそうだ。決別するなら決別するで最後に話しておきたいからと。意外なことに首長は嘆息ひとつで娘の恋を許したらしかった。「あの男と暮らしたいなら好きにしろ。戻りたいと思ったら戻ってくるのもお前の自由だ」と。この話はウングリュクから伝え聞いたことだが、辺境の王は満足げに「何かひとつでも我々の言葉が伝わったのなら嬉しいよ」と囁いていた。
 そして今、クライスとヴィーダはドリト島にて新生活を送っている。以前はただの寄せ集まりの村でしかなかったそこを、国籍に関係なく解放された島にしたいと旅立っていった。「償うってそういうことだろ?」と前とは違う笑顔を見せたヴィーダの男ぶりは忘れ難い。
 ドリト島には既に遠方の国々から旅人が訪れているらしく、最近やってきた画家にポートレートを描いてもらったとふたりから手紙が届いていた。満面の笑みでヴィーダと腕を組むクライスにアラインはふっと頬を緩ませる。

「……こういうの見ると、あー間違ってなかったなーって思うよね」
「さあどうでしょう? 私には選択の正誤などわかりません」

 政務室の広いデスクに手を置くと、アラインはポートレートから顔を上げ、宙に浮かんだ気功師と見つめ合った。
 実は今までいつ来るかなと待っていたのだ。破滅の魔法と同化したあの日から。
「あなたは本当に変わった星をお持ちです。……これからはあらゆる魔法があなたに引き寄せられてくるでしょう。百年や二百年では集まったところで霧散してしまう力が、何百年とかけてすべてここに――」
 白と黒が半分ずつの五芒星を指差して気功師は笑う。
 感情も人格も持たぬ存在のはずなのに、何故か少し嬉しそうに。
「ひとつ思い出したことがあります。太古の昔、白い五芒星を宿していた偉大な方を」
 まだ人間が地上に君臨していなかった時代について彼は話しているのだろう。
 精霊たちの楽園。その記憶はあまりに遠く、五芒星の中ですら消えそうに霞んでいる。
「散り散りになった魔力と聖石が元通りひとつに還ったとき、世界はどこへ向かうのでしょう? 懐かしき桃源郷へ? それともまだ見ぬ新天地へ?」
 ――答えを問うときまたあなたに会いに来ます。そう言って気功師はアラインに背を向けた。

「すべての主、完全なる精霊王よ。待っています。……あなたに再び会える日を」

 何か尋ね返す隙もなく気功師は掻き消えた。
 新しい予言に短く息を吐きアラインはピシャリと己の頬を打つ。
 今日の仕事はまだ残っている。自分を待っている人たちがいる。
 しばし右手の星を見つめ、拳を強く握り締めた。
 椅子を蹴り、白いマントを身につけて、静かに重い扉を開く。
 一歩を踏み出すために。







(20130119)