山門の向こう、死の山を越えればその先は人の住まう世界ではないと巫女が告げる。二本の白い柱によって形成された結界が開かれ、ベルクたちは斜面の道を登り始めた。
 アラインは見送りにさえ来なかった。拾った剣だけは宿の主人伝いに返してきたが、最初彼は受け取ろうともしなかったそうだ。
 首に縄をつけてでも引っ張って来れば良かった。足を止めてしまったらそれ以上どこにも進めないのに。
 何度も村を振り返ってしまうベルクの肩をノーティッツがぽんと叩く。「待つしかできないときもあるさ」と慰めるように。
「……ねえ、イデアールってどんな男なの? 彼はあたしにとって兄にでも当たるのかしら?」
 他のメンバーは他のメンバーで気になることが山積みらしい。改めてイデアールに関して問うエーデルに答えたのは、長年ハルムロースに憑いてきたヒルンヒルトだった。
「同族思いの男ではある。その代わり極端な人間嫌いだがな。……彼はファルシュの直接の息子だが、君は多分何世代か隔てての子孫だろう。兄妹という括りには当てはまらないよ」
「……そう」
 戦いになる可能性の方が高いからか、兄妹ではないと聞いてエーデルは少しホッとしたようだった。
「人の血で魔物の本能を薄めようなどとファルシュも面白いことを考えたよ。人間と魔物が共生していこうというなら、これからは君のような混血が増えるのが理想なのだろうな」
 アンザーツたちはエーデルの存在をファルシュのかけた保険だと言っていた。ただ魂と肉体を分けただけでは魔王も百年後が不安だったのだろう。魔物は人を襲うようにできているし、人を襲った魔物はいずれ討伐される。だからどうにかして人間を襲わない魔物に己の血肉を与えなければならなかったのだ。
 混血が理想か、とベルクは未来に思いを馳せる。何百年後かの話ではなく、この旅が終わってからの未来だ。
 もし神様の仕掛けた天変地異の魔法が解けたら、世界はどう変わっていくのだろう。



 ******



 ――アライン、アライン、いらっしゃい。

 母の呼ぶ声に小さな手で扉を開く。待ち構えていた大好きな父が優しく抱き上げてくれた。
 今日はなかなか部屋に入れてもらえなかった。ごちそうの支度をするからまだ見ちゃ駄目よと遠ざけられて。
 食卓に並ぶのはアラインの好物ばかりだ。普段は食べさせてもらえない甘い焼き菓子もある。喜ぶアラインに「誕生日おめでとう!」と両親が祝福の抱擁をくれた。

 僕は何時に生まれたの?
 母さんは大変だった?
 どうしてアラインという名前にしたの?

 矢継ぎ早に尋ねられ、困ったようにふたりは笑う。

 ――お前が生まれたのは朝日の昇る頃だよ。

 ――父さんが手を握ってくれていたから母さんは平気だったわ。

 ――いつか勇者として旅立つお前に、ふたりで一生懸命特別な名前を考えたんだ。

 人類の英雄。神様に選ばれた唯一無二の存在。それが勇者。
 アラインとは「ひとりきり」という意味だと母が教えてくれた。
 あなたはこの世界でたったひとりしかいない特別な子供なのだと。



 ――立派な勇者になってね、アライン。



 そう言って抱きしめてくれた両親は半月後にいなくなった。
 アラインは真っ黒な服を着てふたりを見送ることになった。

 ――これからは毎日俺が来ます、アライン様。

 生活は変わった。時々遊んでくれていたマハトがいつも自分の側にいるようになった。
 でもそんなことで父と母のいない寂しさを紛らわせるはずもない。自分はまだ幼い子供だった。
 強い勇者は人前で泣いたりしないんだ。
 父の教えに涙を堪え、夜中にひとりきりで震える。
 父さんに会いたい。母さんに会いたい。

 ――アライン様、眠れないなら本でも読みましょうか。

 もう帰ったと思ったのに、マハトが戻ってきてそう言った。アラインのために子供の頃好きだった本を取ってきてくれたのだった。
 アンザーツの話くらい知ってるよ、とむくれる自分をベッドの端に追いやって、マハトが分厚い本を広げた。虫みたいに小さな文字でびっしり埋まっていて驚いた。大きな文字しか読んだことがなかったので大人の本だと身構える。ああでも勇者ならこれくらいきちんと読めないと。
 難しい話じゃありませんよとマハトが笑う。そうして彼の言った通り、それはワクワクするような冒険譚だった。
 絵本よりずっと詳しく、生き生きとアンザーツが活躍する。試練の森で幻を振り払い、麗しい乙女を仲間に引き入れ。ピンチに陥ったときはアラインもハラハラした。悪者を退けたときは胸がすく思いだった。気がつけば夢中になってマハトに続きをせがんでいて、彼の方がもう寝てくださいと頼むくらいだった。

 ――父さんと母さんはアンザーツのいる天界へ行ったのかな。

 最後まで読み終えて、ぽつりと漏らす。
 マハトはそうですねと頷いた。

 ――じゃあ僕もアンザーツみたいに強くなれば、いつか天界へ行けるかな? 父さんと母さんに会えるかな?

 それは俺が寂しいですよと苦笑いが返ってきた。
 マハトは毎晩でもアンザーツの話を聞かせてくれた。いつしかそれが心の支えになっていた。
 強いアンザーツの血を引く自分は何があっても大丈夫だ。都にいるときはそう思えた。
 だって誰も疑いなんか持たないのだ。アラインに届く不安の声などひとつもなかった。だから――。



「よいなアライン。辺境の都が魔物の軍勢に襲われ早一年だ。ついにおぬしにも旅立ちの日が訪れた」



 勇者の墓を取り巻く群衆。その前に立つ国王。
 力強く頷きながら、アラインはあれっと首を傾げた。
 この人に何か言いたいことがあった気がする。だけど思い出せない。
 花道を作る人々と握手を交わして、声援と拍手を受け取って、ありがとう頑張ってくるよと愛想を振り撒いた。いつもと変わらないセレモニー。けれど何かがおかしい。

「でもアライン様、勇者じゃないんだよね?」

 笑顔で手を振る子供が言った。
 凍りつくアラインを都の民が取り囲む。そうして笑って拍手し続ける。
「ああ、盾が真っ黒だ」
「自分で手に入れた神具もないのよ」
「番人には勇者らしさの欠片もないと言われたわ」
「隣国の王子は女神まで連れて、魔王の息子にも一太刀浴びせたと言うのになあ」
「もう仲間に見限られても仕方ないのう」
 カランと剣の落ちる音。
 洞窟の入り口からマハトが出てきて、もう頑張らなくていいんですよと囁いた。
 ゲシュタルトの手が戦士の腕にそっと絡む。こちらに背を向け彼らは行ってしまう。
 待ってくれと叫びかけて、悲鳴は喉にはりついた。何の言葉も出てこなかった。



 ――勇者の血なんか引いてないのにね。



 ゲシュタルトはそう言うのに、何故か拍手だけ鳴りやまない。

「もういいよ、もういいんだ」

 崩れ落ちながら絞り出した声に「無意味な拍手を欲しがってるのはお前だろ?」と声が返った。



「――……」



 寝台の上で汗だくになって目を覚ます。
 転がり落ちるよう這い出して、床に膝をつき、アラインは蹲った。
 あなたはこの世界でたったひとりしかいない特別な子供――。

(……名前の通りになったよ。父さん、母さん。)

 部屋の窓から開かれた山門が見える。ベルクたちはもう出発したらしい。
 僕はひとりだ。
 たったひとりだ。



 山門の村はこじんまりとしていた。古びた神殿と田園、農家と小さな宿、あるのはそれっぽっち。よくこれで魔物の侵攻を防げたなと驚くくらいだ。聞けば神殿に特別な結界があり、それが村を守っているらしい。小規模版の辺境の都というところだった。
 アラインが泊めてもらったのは宿屋ではなく普通の民家だ。村にひとつしかない宿はベルクたちが泊まるだけで満室だったし、どのみちもう一緒にはいられなかった。
 相変わらず剣は持てない。触るくらいならなんとかできるが、力を篭めて握るというのが無理だった。戦い方なんか忘れてしまいたいと身体が訴えているようだ。魔法も同じで、簡単な火魔法さえ組成できない有り様だった。ついて行ったところでお荷物になるのは目に見えていた。
「なぁ、まだ追いかけたら間に合うで? ホンマに行かへんのか?」
 ぼそぼそと耳元でバールが問いかけてきてもアラインは聞こえないふりをする。朝食代わりのスープを啜りながら、もう放っておけばいいのにと内心嘆息した。
「……ごちそうさまです。ありがとうございます」
「いえいえ、畑を手伝ってもらえるって聞いたからね。こっちも助かるよ」
 恰幅のいい朗らかな中年女性が台所から振り返る。昨年亭主に先立たれ、色々と困っていたところらしい。食事の後片付けを終えると農具の保管場所を教えてもらうのに彼女の後をついて行った。今は深入りしないでくれる他人の方が有り難かった。
「小さな畑だから、終わったら好きにしてくれていいからね。ああ、隣の坊やとも遊んでやってもらえると助かるねえ」
 アラインが会釈をすると彼女は家に戻って行く。無言で鍬を手に取る自分にバールがわざとらしい溜め息をついた。
「……ここにいたって仕方ないのはバールの方だよ。まだ追いつくなら追いかけろよ」
「アホ! 誰が置いてったるか!!」
 物凄い剣幕で怒鳴りつけられたがそれも無視する。
 どうせ自分は傷ついた自分を持て余すくらいのことしかできないのだ。
 バールの期待になんて応えられない。そんな余裕はもうない。
「すげえ……鳥が喋ってる……!?」
 と、そのとき「兄ちゃんたち何者だ?」という少年の声が響いた。
 アラインが振り向くとさっき話題に出ていた隣家の息子と思しき子供がこちらを凝視していた。年齢はまだ十歳くらいだろうか。鳶色の猫っ毛を跳ね返らせ、三白眼を目いっぱいに見開いている。
「あ! わかった、さっき山門を出てった勇者一行の仲間だろ!? なんでまだ村に残ってんの!? もしかして神殿で修行積んだりする予定なの!?」
 次々と質問を浴びせかけられ、アラインは正直辟易した。今はそういうことから遠ざかっていたいのに。
 バールを睨むと神鳥は空とぼけて口笛を吹き出した。はあ、と大きく息を吐きアラインは少年に「どうだろうね」とだけ返答する。
 好きに想像を膨らませればいい。勝手な幻想を抱かれるのには慣れっこだ。



 少年の名はヴェイクと言った。遠方からの旅人が珍しいのも手伝って、彼はうるさいほどアラインにまとわりついてきた。子供らしい遠慮のなさで根掘り葉掘り尋ねられたが、そのどれにも今は答える気になれない。何も考えたくないのだ。
「強いんでしょ?」
「どんな魔物知ってる?」
「魔法使える?」
「戦士? 僧侶? もしかして勇者?」
「どこから来たの?」
「歳は?」
「名前は?」
 ねえねえと服の裾を引っ張られてもアラインが何も教えないので、ヴェイクは「まさか記憶喪失?」と突拍子もない結論に至った。どうしてそういう推測が飛び出すのだとバールが突っ込みたそうに震える。
「前にそういう人が来たよ。すごく怖い目に遭って、それ忘れるために今まであった良いことも悪いことも全部忘れちゃったんだって。兄ちゃんもそうなの?」
「……」
 違うとは言えなかった。けれど頷くこともできずアラインは立ち尽くす。多分似たようなものなのだ。
 どうして答えてくれないのだと少年は憤慨した。「遊び相手が欲しいなら他を当たってくれ」と言うと、ぶんぶん大袈裟に首を振る。
「そんなんじゃないよ! ただ、誰か一緒に神殿まで行ってくれる人がいないかって、俺……」
 急に声を萎ませたかと思うと少年はあぜ道に座り込んだ。
 神殿は集落から少し離れた山麓にある。確かにあれは大人と行った方がいいだろう。途中で魔物に出会わないとも限らない。
「どうして神殿へ行きたいんだ?」
 アラインが尋ねたことにヴェイクは少し驚いたようだった。聞かれるのが嫌なだけで、聞くのは別に嫌じゃない。
「姉ちゃんがいるから……」
 成程と息を吐きアラインは鍬を下ろした。仮に魔物と出くわしても今の自分には逃げるくらいしかできないのだが。
「用事が終わってからならいいよ」
 どうせ他にすることもない。そう思って少年の意を汲んでやった。
 ヴェイクは嬉しそうに顔を上げるとアラインの手を取り礼を言う。
「本当に? ありがとう! 姉ちゃんは村の皆を守るえらい巫女様なんだ! 特別なんだよ!!」
 ぎくりと胸が強張った。
 ついこの間まで、自分もその特別だと思っていたのに。



 ******



 死の山越えは登り始めていくらも経たないうちから連戦続きとなった。
 百年前にここを越えたときも相当な数の魔物に遭遇したが、今度も易々とは行きそうにない。
 細い道ではどうしても縦一列になるしかなく、陣形の問題から魔法使いが主力となる。自然その比重はヒルンヒルトにかかってきた。
 すぐ後ろから投げかけられるアンザーツの心配そうな視線が辛い。馬鹿正直に憑依解除の魔法を組まれたなどと打ち明けるのではなかったか。
「……私の身を案じる必要はない。大丈夫だと言っただろう」
 信用しないのかと問えばアンザーツはしょげた様子で黙り込んだ。最近の彼は前に比べて感情豊かだ。やっと普通の人間らしくなってきたと言ってもいい。それならもう少し楽しそうにしていてほしいのだが――それはまだ無理な話か。
「そんなことよりイデアールにどう説明するか考えておけ。あれだけ統率力のある男だ。説得できれば魔物と人間の住み分けが百年単位で可能になるかもしれない。彼さえなんとかなれば君の成すべきことは終わる」
「うん、でも……」
 イデアールがこちらに応じることはないだろうと承知しながらヒルンヒルトはそう話す。元々彼にファルシュの真実を伝えようと考えたのは人と魔物の無用の争いを避けるため、引いては彼の肉体を守るためだった。だがエーデルのおかげで肉体の保存については思い悩まずとも良くなった。先の都での戦いで魔物の数は半減と言っていいほど減ったし、イデアールさえいなければ彼らが徒党を組むこともない。あの男が首を縦に振ろうが横に振ろうが決着は次でつくだろう。問題はそれまでにゲシュタルトの邪魔が入りはしないかということだった。できれば彼女との個人的ないざこざには、イデアールの件が片付いてから取り組みたいところなのだが。
「ちっ! また出たぞ!!」
 ベルクの声が響くより早くヒルンヒルトは真空の刃を組成する。十数匹の群れを成して現れたのはハゲタカに似たカールフォゲルという魔物だった。鋭利な爪とくちばしが目立つが、それより厄介なのは風と炎を操れることだ。
 先制攻撃で何体か仕留める間に、ノーティッツやクラウディア、アンザーツも魔法を放つ。空飛ぶ羽も持たぬのに意に介さず崖を駆け上がり戦えるエーデルの身体能力には感嘆すべきものがあった。彼女に倣いベルクも上手く地形を利用し器用に跳ね回っている。
 行動を共にする人数が増えたのは喜ばしいことだった。己にせよアンザーツにせよ今は最盛期の半分ほどの力しかない。肉体と精神を分かつとはそういう不利益を伴うのだ。
 逆にゲシュタルトは強くなった。元々才能豊かな肉体に魔物を取り込み、各段に魔力を増している。対抗できないほどではないが油断は禁物だ。
「っ……!」
 最後の一匹にとどめを刺そうと杖を振り翳し、ヒルンヒルトは突如襲った胸の痛みに動きを止めた。今まで完全に同化できていたのに、ハルムロースの身体がヒルンヒルトを拒絶し始めたのだ。
「ヒルト!?」
「……ッ大丈夫、だ」
 抵抗しようともがく力を無理矢理抑えつけ舌打ちする。やはり魔王の後釜を狙ってあの城に住むだけはあるようだ。たった一段階解除が進んだだけで早くも目覚めてこようとは。
「ヒルト、本当に大丈夫なのか?」
「信用しないのかと聞いたはずだ」
 駆け寄って覗き込んでくるアンザーツにそれだけ言うとヒルンヒルトは杖を持ち直す。細い道に散り散りになっていたベルクたちがそれぞれ魔物の相手を終えて戻り始めていた。
「……一匹取り逃がしたな」
 空の向こうに霞む翼を見やって呟くと、アンザーツの手が怖々こちらの左腕を掴む。紫色に発光した魔法陣の紋様が一瞬浮かんでまた消えた。



 ******



「ヴェイク、どうして来たの? 山門を開くからもう今までのようには会えなくなると言ったでしょう?」
 古い樹木の柱に支えられた神殿の入り口で、アラインと同い年くらいの黒髪の少女が弟を諌めた。
 白い指、白い喉元、透き通るような瑞々しい肌を彼女は巫女装束で包んでいる。ひと目で聖女とわかる清らかさだった。
 少年から聞いた彼女の名前はシュトラーセ。「導く」という意味があるそうだ。
 静謐な森の中にあっても巫女は際立って神秘的だった。ヴェイクが自慢したがるのもわかる。誰が見たって彼女は本物だ。
 考えることなど放棄したつもりなのに、アラインの胸にじわじわ黒い感情が広がった。バールが自分にないと言ったのは、多分こういう類のものなのだ。
「怒らないでよ姉ちゃん。この兄ちゃんと来たから平気だよ」
「……。申し訳ありません、旅の方。弟がご迷惑を」
 家族と話をするときだけは巫女の神々しさも和らぐようだ。いえ、と首を振りながらアラインは当たり障りない話題を求めて「山門を開くと何かいけないんですか?」と尋ねた。
 シュトラーセは閉じ直したばかりと思われる神殿奥の高い門を振り仰ぎ答える。
「門を開いて今まで村を守っていた結界は消滅しました。元のよう強い結界になるまでまた数年がかりですので」
 えっとアラインは目を瞠る。門自体にそういう力があったのかという驚きと、それなら何故門を開いたのかという驚き。水門の町は対岸の村を見殺しにしてでも我が身を守っていたのに。
「どうして……」
 思わず口にしていた疑問にシュトラーセは微笑んで言った。
「魔王を倒していただくためにはお通ししなければならないでしょう? それまでの間くらい、私たちで村を守ります」
 強い眼差しに何故かベルクやアンザーツを思い出す。巫女の言葉は勇者に近い何かがあった。それが苦しくて、目を背けたくて、なのに問うのをやめられない。
「……代々そういう家系なんですか? 村の護り手とか、そういう」
 何を聞いているのだと思いながらアラインは返答を待った。
 そんなことを聞いてどうなる。自分の欲しい答えが何かもわからないのに。
「ええ、神殿は家の女が、血筋は家の男が守ることになっております」
 アラインがシュトラーセに興味を持ったのが嬉しいのか、ヴェイクもうんうんと頷いた。姉に対して心酔しきった双眸にだんだん気分が悪くなる。
「もし彼らが魔王を倒すために山門を通ったんじゃなかったらどうします?」
 己の底意地の悪さには反吐が出そうだった。騒ぐ心臓を上から押さえつけ、巫女の様子を窺う。丸い瞳が怪訝そうに歪められるとホッとしそうになる自分がいた。だがシュトラーセはすぐ落ち着いた表情に戻って「彼らは本物の勇者でしたよ」と言い切った。
「聞いてすぐ後悔なさるようなことを、どうしてお尋ねになられたのです? 何か迷いがおありですか?」
 アラインは返答に窮した。どうして自分がそんなことを聞くのかも、何故こんな袋小路に閉じ込められているのかもわからない。ただ苦しい。苦しみから逃れるためにかぶりを振る。
「……よろしければ中へどうぞ。ご案内いたします」
 優しげな眼差しがアラインに注がれた。逃げ帰りたい気持ちが一瞬で膨らむが、言葉を返すよりヴェイクの手がアラインの手を掴む方が早かった。
「行こうぜ兄ちゃん」
 ――僕、アンザーツと同じ紅いマントがいいな。
 幼い頃の幻がヴェイクと重なり無邪気にアラインを見上げてくる。かっこいいの仕立ててもらいましょうねと手を繋ぐマハトが笑った。
 振りほどけないまま腕を引かれて歩き出す。
 まだ今朝の悪夢の中にいるようだ。



 小さな神殿には三つ四つの部屋と地下の倉しかなかった。シュトラーセが招いてくれたのはその倉の中で、奥には大きな長櫃が置かれていた。
「ここはかつてヒルンヒルトが大賢者となるための試練を受けた地。死の危険を冒して見事にすべての魔法属性を手に入れた彼は、この神殿でいくつか新しい魔法を試して行きました。箱の中に残されているのはその記録です」
「……はあ」
「兄ちゃんちょっと感動が薄くない? 普通の旅人ならものすごーく有り難がるのになあ!」
 ヴェイクにそう言われても拝む気になれないものはなれない。なにしろアラインは既に当人と会っている。彼の操る魔法も見た。山門を通過していったのがそのヒルンヒルトだと言えばふたりはどんな顔をするだろうか。
「長いこと大賢者の力を手に入れようなどという人間はいませんでした。いても彼らは二度と戻ってこなかった。それを聞いてなお仲間のためにとヒルンヒルトは賢者の祠を目指したそうです」
 美しい話だな、という表面的な感想しか今の自分には持てなかった。アンザーツやヒルンヒルト、ベルクたちと決定的に違っていると悲しくなるのはその迷いのなさだった。いや、小さな迷いはあるのかもしれない。だけど彼らはこうと決めたら覆さない。
 己とてそういう風に旅をしてきたつもりである。勇者として祖国の人々の希望を背負っているのだと、ずっと信じてきたのだから。

(……違う……)

 違うだろ、と頭の奥で声がする。希望なら今も背負っている。あの国王が国民に真実を打ち明ける英断をするとは思えない。まだ誰もアンザーツとアラインが他人であるとは知らないはずだ。
 力がないわけではないのだから、剣士としてでも、魔法使いとしてでも、本当は旅を続ければ良かったのだ。世界の平和を願って戦っていたのなら。だけど自分は――。
 シュトラーセが長櫃の蓋を開けた。箱の中は闇魔法を発動させるために描かれた魔法陣の図案で埋め尽くされていた。少し見ただけで容易に想像できる、ヒルンヒルトがアンザーツの自我を繋ぎ止めようとどれだけ必死になっていたか。
(アンザーツもそう、ベルクもそう、クラウディアやエーデルもそう……)
 誰も彼もが自分以外の他人のために戦っている。それなのにアラインだけ違う。勇者になりたいなんていう我欲しか結局はなかった。それでもアンザーツの血さえ流れていれば大義名分を失わず済んだのに、なんて。
「もし巫女の力が消えてしまっても、あなたはきっと村のために戦うんでしょうね」
 嘲るように呟くも、シュトラーセは臆することなくアラインを見つめ返す。
 彼女もまた自分とは違う生き物なのだろう。ならこれ以上話をしても傷つくだけだ。
 帰ります、と言いかけてアラインは声を飲み込んだ。シュトラーセがこちらに呪符を突きつけていた。ヒルンヒルトが残したという闇魔法の呪符を。
「……この属性を持つ人間が極端に少ないのは、深淵まで心を覗くことに皆耐えられないからだそうです」
 でもあなたにはこれが必要なように見えます、と彼女が言う。
「あなたが願うなら呪符が答えを示してくれることもあるでしょう」
「答え? 僕がどんな答えを求めてるって言うんです?」
「それを知るのはあなた自身です。旅の方、あなたは諦めるための材料を探しているのですか? それとも前へ進むための材料を探しているのですか?」
 超然と放たれた言葉にアラインは暫し声を失った。
 今までも、きっと何度も彼女は迷える旅人に声をかけたに違いない。
 巫女として生まれた彼女の、巫女としての言葉。
 そんなものは受けつけなかった。受け入れたくなかった。――彼女たちは本物で、自分だけが偽物だなんて。
「あなたの仰るよう、もし力を失くしても私は村のために尽くします。それではあなたのその剣は誰のためにあるのです?」
 シュトラーセがアラインに呪符を押しつける。噛みつくように彼女を睨んでも、その真っ直ぐな眼差しは変わらなかった。
 強く在れる人間が妬ましく、疎ましく、心底憎らしい。こんなことに気づかされるくらいならまだ無気力なままでいた方が良かった。
「僕は僕のためにしか剣を振るってこなかったよ」
 そう吐き捨ててアラインは巫女に背を向けた。ぱたぱたと響くバールの羽の音がうるさい。
 勇者という言葉が、たった二文字のそれがどうしようもなくアラインを苦しめた。胸の中で暴れる感情をコントロールできない。早く捨ててしまえ、早く忘れてしまえとどんなに念じても、少しも消えてくれない。

「それでいいではないですか」

 凛とした声が張り詰めた背中に投げかけられた。何がいいものかと怒鳴りつけようとしてアラインは拳を握る。
 振り返ればシュトラーセは穏やかに笑っていた。愛想笑いでも誤魔化しでもない笑みだった。
「極論を言えば私だって私が幸せでいるために村を守りたいだけです。守りたくないものまで守る余力はありません。……巫女と言っても人間ですから選り好みだってしますよ? 余所の方にこんな話をして大丈夫かしらと気にもします」
 シュトラーセは言う。でもそれが己なのだと。
「自分自身から逃れることのできる人間はいません。今あなたを押し留めているものは一時的な感情にすぎない。それがどんなに重い悲しみでも、もっと深いところからくる欲求にこそ人は動かされるのです。あなたがあなたのために願っていたのはどんなことですか? その願いでは迷いを振り払えないのですか?」
 僕が僕のために。
 頭の中で彼女の言葉を反芻した。
 願いならあった。いつだって胸の奥に。だけど理想はあまりに遠くて。
「……もしそれが絶対に叶わないってわかってたら? だったらどんなに強く願ってたって諦めるしかないんじゃないか?」
 どうしたって自分の中にアンザーツの血は流れない。
 流れないのだから。

「…………」

 シュトラーセはアラインの最後の問いには答えられなかった。
 少し考え込んだ後、彼女は「次にお会いしたとき必ずお答えします」と言った。
 見透かすような瞳が苦手だ。こちらの事情など実際は何も知らないくせに。
 ヴェイクは途中から姉の様子に気圧されていたようだった。神殿を後にしてもまだ無言で、アラインの左手を握ったまま帰路を歩いている。
 明日も一緒に神殿まで行ってくれと言われたら今度こそ断ろう。自分はもっと静かに時を過ごしたい。何も頭に入れないように、何も頭に残らないように。それこそ記憶喪失にでもなってやりたかった。
 これからもこんな思いを抱いたまま、どうやって生きて行けばいい。何を目指して歩けばいい。
 勇者になることしか考えたこともなかった。アンザーツのようになりたいとしか――。

「あ……」

 怯えたようなヴェイクの声にアラインは空を見上げる。
 ぶわ、と風が畑の作物を揺らしていった。
 大きな影がすうっと真上を通り過ぎていく。

「――」

 声を上げる間もなかった。
 死の山から降りてきたカールフォゲルは村の上空で大きく旋回すると、神殿に向かい真っ赤な炎を吐き出した。
 ヴェイクが姉の名を叫んで駆け出す。目を見開いたままアラインも今来た道を引き返した。
 行ってどうすると自問しながら。



 辺境の国はほぼどこにでも一定数以上の魔法使いがいると聞いたが、この山門の村では神殿に戦力が集中しているらしい。肥大化したハゲタカの魔物、カールフォゲルを迎え撃ったのはシュトラーセと数人の神官だった。ベルクたちと比べればだいぶ見劣りはするものの、それでも魔物相手に少しも引けを取らない。炎を鎮めるため水魔法を連発する青年もいれば、風を操り魔物に対抗する老人もいた。入口からこそりと覗く限り、手を貸す必要はまったくなさそうである。
(……なんだ、慌てることなかったな)
 安心すると同時、シュトラーセに見つかるのが嫌になり、アラインはもう帰ろうとヴェイクの手を引いた。しかし少年は戦う姉の姿に興奮したのか「姉ちゃん!!」と声も高らかに彼女の元へ突進していく。
 アラインは柱の影で額に手を当て溜め息をついた。どうも自分はこういう不幸値が高い気がする。
 姉の胸に飛びつく少年は本当に幸せそうだった。ああいうものを守りたいと彼女も思っているのだろう。やはり自分とは違う。
 もっと人目につかないところで待とうとしてアラインは踵を返した。
 ――瞬間、凄まじい風圧が周囲にあったものを根こそぎ吹き飛ばした。かろうじてバールはアラインの袖に引っ掛かっていたが、神殿の神官たちは散り散りになってしまったようだ。

「ちょお待てや……デカすぎるやろ……」

 バールがぼやくのも無理はなかった。崩壊した神殿の奥に姿を現したのは、建物より更にひと回り大きな鷹の魔物だった。カールフォゲルの親玉であるカールファルクが鋭い瞳で眼下を睨みつけている。
 紅い翼を持った怪鳥は紅蓮の炎で辺りを焼き尽くそうとした。火の手が回り、村への退路は呆気なく断たれる。
「ボケとる場合ちゃうぞアライン! 戦わな死んでまうで!」
 神鳥に言われるまでもなく右手は背中の剣に回っていた。だが柄を握ろうとすると心臓が嫌がって鼓動を速める。眩暈に襲われ膝をつくアラインにバールが苛立ちの声を上げた。
「だああもう!!!」
 翼の先の鋭い爪が振り翳されるのをどこか他人事のように見ていた。ここで終わるのもそれはそれでいいかなと、頭の隅で考えながら。
 けれど魔物の攻撃はアラインに当たらなかった。横方向から飛んできた火の玉がカールファルクの注意を逸らしたからだ。
 怪鳥は狙いを変えた。双眸はヴェイクを抱えて逃げるシュトラーセを捉えた。華奢な彼女の背中に刃のような羽根が雨あられと降り注ぐ。
「姉ちゃん! 姉ちゃん!!」
 少年の悲鳴が響き渡った。炎を逃れた地下倉庫に弟を押し込むと血まみれの巫女は息を切らしつつカールファルクを振り返る。
「何しとんねんアライン!! 早よ助けに行ったれって!!」
「……え?」
 助ける?――誰を?
 本気で尋ね返したアラインにバールは呆然と目を瞠る。
 だって彼女は選ばれた巫女なんだろう。最後は自分で何とかするよと頭の奥で声がした。
 何故選ばれなかった自分が選ばれた他人など助けないといけないのだ。
 そんなことをしたってもう勇者になることはできないのに。
「呪文唱えるくらいできるやろ!? アライン!!!」
 怒号を浴びせられても頭の中は真っ白だった。そもそも自分はどんな属性を持っていた?思い出せない。
 シュトラーセが杖を掲げ戦う。倉庫の入り口を守るため、逃げるどころか移動することもままならない。そんな不器用な戦い方をしているせいで、彼女はすぐ苦境に立たされた。かわすこともできず、追い込むこともできず、白い巫女服が朱に染まり始める。
「アライン!!! 聞こえとんのやろ!!!」
 ふらりと足が動いた。
 一歩ずつ前へ、足を引き摺って炎の中を進む。
 回復のための魔法陣も描けなかった。何からどうやって魔力を注ぐんだったか忘れてしまった。
 火がすぐ側まで迫っていて熱い。ヴェイクの泣き喚く声がうるさい。
「助けて! 姉ちゃんが死んじゃう!!」
 それは僕に言ってるのかなとアラインは鼻で笑った。
 自分のためにしか戦えないと言ったのに。世界のためと言いながら、自分が認められることしか考えてこなかったのに。
「ヴェイク、出てきちゃ駄目!!」
 巫女の忠告は無意味だった。魔物の足に弾き飛ばされヴェイクがこちらへ転がってくる。どこか骨でも折れたのか、蹲ったまま起き上がらない。
「兄ちゃ……姉ちゃ、を……」
 酷く冷めた目でそれを見ていた。シュトラーセが最後の力を振り絞り、弟に癒しの魔法を送ってくる。力尽きた巫女に興味を失くしてカールファルクがこちらを向いた。
 もっと早くに知っていれば、何か変わったのかなあ。
 勇者以外の生き方を考えることもできたのかなあ。
 この期に及んで剣を掴まぬアラインを見かね、バールが魔物に突っ込んで行く。膝を折り、アラインはヴェイクの上に被さった。
 わからないんだよ、本当に。自分がどうやって戦っていたのか。
「アライン!!」
 羽の音が近づいてきて、爪が背中に食い込んだ。肉を裂かれる激痛に声にならない悲鳴が漏れる。
 高温の息が浴びせられ、熱に全身を焼かれても、アラインはじっとその場で耐え続けた。泣きながら自分を見上げる少年を見つめ返して。
 笑いかけてあげるべきだろう。勇者なら。
 微笑みを作ろうとしてピタリと止める。ぷつんと何かの切れる音がした。

「……あ……、ぁっ……!」

 もう腕も支えられない。
 血が足りない。
 背中が痛い。
 真っ暗闇に飲み込まれ、アラインは完全に意識を手離した。



 ――それからだ。身体の奥で燻っていた魔力が解き放たれたのは。
 突如起こった巨大な爆発でカールファルクの胴体は半分消し飛んだ。その後連続して襲いかかった火球を避け切れず、魔物は致命傷を負う。神殿を燃やしていた炎は大風と竜巻に飲み込まれ消えた。そのすべてが通りすぎた後、一帯には治癒の魔法が粒となり優しく降り注いだらしい。
 全部後からバールに聞いた話だ。「ジブンが無意識でやってたんやぞ」と。



 ******



 バルコニーに立つイデアールを見咎めて、小鬼の少女が悲愴な顔で駆けてくる。明らかに責める色を含んだ眼差しにイデアールはうっと喉を詰まらせた。
「イデアールさま、またどこか行くつもり!? まだケガなおってないのに!!」
 行かせない、とユーニは小さな腕を広げてばたつかせる。こうして心配してくれるのは有り難いけれど、アンザーツたちを魔界に入れるわけにはいかない。もう城を発たなくては。
「すまんな。だが私にも責任というものがある。行ってこなければならん」
 都での戦闘で配下の魔物は激減した。生き残った者たちも今はイデアールを遠巻きに眺めている。要するに自分は失脚しかけているのだ。もう一度同胞たちの長であることを認めさせるにはそれなりの成果を見せねばならない。
「案ずるな、すぐに始末してくる」
 都で自分に一撃を食らわせた男も、父の仇も。それが自分の使命だ。
「なんでイデアールさまは人間を攻撃するの? そんなことやめたらいっしょにいられるのに!」
 右腕に縋りつかれては黒竜に変化することもできない。ほとほと困り果てて少女を抱き上げ、何故だろうなと嘆息した。
「人を見ると殺さずにはいれない。それが魔物の本能なのだ。……ユーニは人間に会ったことがあるか? ないのならわからないかもしれないな」
「……ボクじゃイデアールさまのきもちわからない?」
「そうじゃない。お前は今のままがいいんだよ」
 とん、と少女を床に下ろすとイデアールは癒えたばかりの翼を広げる。
 早く人間のいない世界になればいい。そうしたらやっとこの城でゆっくり過ごせる。わけのわからない戦闘衝動に悩まされることもなく。
「鏡はちゃんと持っているか?」
 こくりと頷きユーニは懐から通信用の手鏡を取り出した。揃いの鏡が己の手元にあるのを確かめて「何かあったらいつでも呼べ」と笑いかける。
 闇色の空に闇色の竜が羽ばたいた。見降ろせばまだ不安そうにユーニがこちらを見つめている。

「それじゃ行きましょうか、イデアール」

 緑の髪を風になびかせゲシュタルトが寄り添った。いつも連れている蝙蝠に今日は見知らぬ男も乗っている。自然と眉間に皺が寄った。
「……道理で城が人間臭いはずだ」
「少しくらいいいじゃない。もうすぐ出て行ってあげるんだから」
 岩山と毒の沼地、湖の側の湿原を飛び越えイデアールは人間たちが死の山と呼ぶ高嶺を目指す。
 今度は油断も容赦もせずに屠り尽くしてやる。



 ******



 剣が持てないんだ。そう言って呼び止めると、マハトは「えっ、そうなんすか?」と振り返った。
「俺の教えた型を忘れちまうなんて。でも大丈夫っすよ、アライン様にはもうそんなの必要ないんすから!」
 にこにこといつものように笑うだけで戦士はそれ以上何も言わない。アラインがもう一度教えてほしいと頼んでも「だって何に使うんすか?」と不思議そうだ。
「今までずっとアライン様を立派な勇者にしないとって俺も気ィ張ってましたけど、解放された気分なんすよ。俺にも好きなことさせてくださいよ。なんでいつまでも勇者ぶるんです? 人助けのために人助けしたことなんかないくせに。さっすが勇者様って言ってもらうために戦ってたんでしょ? ……つっても勇者は世界にひとりしかいないわけだし、俺はそれでもいいと思ってましたけどね。――でもさあアライン様、勇者の血を引いてないならそういうことしちゃ駄目っすよ」
 びくんと竦んだ肩に手をやりマハトは紅いマントを掴む。アンザーツと同じ色ですと彼が用意してくれた。
「所詮勇者ごっこだったんです」
 囁かれ、目の前が真っ暗になった。
 真っ暗になったはずの世界はすぐ陽光に照らされた。
 眩しい。痛い。もう嫌だ。
 一歩も踏み出せていないのにどうして朝が来るんだろう。



「兄ちゃんすごかったよ!!こーんなでっかい火をこのっくらいの球にしてさ、ドーンドーンって!!!」
 枕元でまくしたてる少年にアラインは曖昧な相槌を返す。まったく記憶にない戦闘の話をされても「はあそうですか」としか言いようがない。バールに聞いて魔物を撃退したことだけは知っていたが、当のアラインにその自覚はゼロだった。
 先程からヴェイクは何度も同じ話を繰り返している。よく飽きないなとそちらの方に感心した。
 もう寝てもいいだろうかとアラインはブランケットに潜り込む。別段深い傷が残っているわけでもないが、寝台から起き上がる気力はなかった。
 苛々する。どうして魔物など倒してしまったのだろう。
「兄ちゃんてさ、絶対勇者でしょ!? ねえ、いい加減教えてってば!!」
「――うるさいな!! 出て行けよ!!!」
 急に枕を投げつけられて少年は酷く驚いたようだった。バールには落ち着けと宥められたがまったく耳に入らない。
 うるさいうるさいうるさい。僕のことなんか放っておいてくれ。
 手当たり次第に物を投げつけ、部屋中ひっくり返すまで自分で自分を止められなかった。はぁ、はぁ、と息を乱してめちゃくちゃになった部屋を見渡す。子供相手に何をとか、借りている部屋だぞとか、そんなことを思う余裕もなかった。ただ早く楽になりたかった。

「……お取り込み中でしたか?」

 不意に澄んだ声が響く。戸口を振り向けば身体のあちこちに包帯を巻いたシュトラーセが立っていた。昨日の今日で彼女はもう立ち歩いているらしい。
「お礼を伝えに伺いました。旅の方、弟や村を救ってくださりありがとうございます」
「……何も覚えてないよ。僕に戦う気はなかった」
「そうでしょうか? ですがあなたが魔物を倒してくださったことは事実です」
 シュトラーセは深々と頭を下げて「もうひとつ」と付け加えた。叶わない願いならどうするかという問いの答えをアラインに伝えにきたと言う。
 細く白い手に光が溢れ、温もりを保ったままアラインの頬に触れた。
 ずるいなと思う。
 だってこれは闇魔法だ。
 ささくれた心を癒すよう、彼女の力が染み渡っていく。
「……人の心を覗くほどの力は私にはありません。こうしてほんの少しの間、寄り添うことができるだけです」
 やめろよと拒絶するのに触れる指先はどこまでも優しい。今はそんな風にされても痛いだけなのに。他人を導く余力のある人間が羨ましくなるだけなのに。
 そう、羨ましいのだ。裏を返せば自分もそう在りたいと願っている。だけどもう勇者に届かないことだけははっきりわかっているから。
「歩みを止めてはいけません。永遠に近づかなくとも、辿り着かなくとも、あなたが目指し歩き続ければそこに道ができます。あなたは留まってはいけない人です。道のない場所に道を拓く人です」
 世界にたったひとりしかいない人、とシュトラーセの声が囁く。
「あなたが歩み出すひとりめになればいい」
「……」
 魔法は解けて、光も溶ける。
 両手を胸の前で合わせると巫女はその場に跪いた。
 まるでとても尊いものと相対しているかのように。
「あなたの答えが見つかるよう、私も祈っています」



 ******



 大きな気配が動き出したのに気づいたのは山越え二日目の昼過ぎだった。
 ヒルンヒルトはアンザーツと目を見合わせて頷き合う。近づいてきている敵は切り立った崖の続く山道で戦えるような相手ではない。
「ベルク、エーデル、他の皆も用意して。イデアールだ」
「はぁ!? いきなりご本人か!?」
「随分行動力あるなあ!」
 アンザーツがそう知らせると隊列に緊張が走った。しっかりと安定した足場を作るためヒルンヒルトは土魔法を駆使してすぐ横の崖を崩し始める。些か乱暴だが今日のところは仕方ない。
「あの、地形とか変えちゃっていいんです?」
 遠慮気味に尋ねてくるノーティッツに「君とて都ではやりたい放題だったろう」と返せば「ですよねー」と山崩しに加わってきた。ベストは戦闘に発展しないことであるが、最悪の事態を考えて戦いやすい状態にはしておきたい。均し終えた即席の大広場を見て「魔法ってなんでもアリだな……」とベルクがおののいた。

「しっかし説得するっつっても話なんか聞いてくれんのかね? 俺あいつに一撃入れちまったし、俺の顔見た瞬間ドッカーンとかなりそうなんだけど」

 ――果たして彼の推測は的中した。ものの五分と経たず現れた黒竜はこちらを見つけるや否や燃え盛る炎の息を吹きつけてきた。風や水で凌げるだけは凌いだが、聞く耳など持ってもらえそうな雰囲気ではない。やはりここは一戦交えるほかないようだ。
「……おいおい。これも魔法か?本気で何でもアリだな」
「まぁ、彼は四つ子でしたの!?」
「ウェヌス、絶対違う。それ絶対違う」
 煙の中から現れたのは四体のイデアールだった。それぞれ普段の人間に近い形態を取っている。力の配分は不明だが、おそらく均等に分割されているのだろう。それでも下手な魔族より余程強いのは間違いなかった。
「やはり都で見たのが何人かいるな? ……我々の国に踏み入ろうとする者は誰であれ殺してやる」
 イデアールたちは一斉に魔法を発動させ、ばらばらに襲いかかってくる。アンザーツが仲間と離れすぎないよう呼びかけた。だがイデアールは最初からこちらの戦力を分散させるため分裂したようだ。怒涛のごとく魔法弾が発射され、結界で弾く暇もない。物理的に避けるしかなく、ヒルンヒルトはじわじわアンザーツたちと引き離された。
(何かおかしい)
 ベルクやエーデルたちの様子を遠目に窺うが、こうまで執拗に狙われ攻撃されているのは自分ひとりだけのようだ。アンザーツとは反対の方角に追い込まれているのも引っ掛かった。
(反撃せずに一度隠れた方がいいな)
 直感的にそう断じ、ヒルンヒルトは簡易な土魔法の陣を描く。この属性の魔法は隠密行動や防御に適している。硬い岩壁を出現させて一瞬イデアールの視界から消えると、ヒルンヒルトは即座に土の中へ潜った。そのまま地中を魔法で擦り抜けアンザーツのところへ出ようと試みたのだ。
 だがそれには邪魔が入った。ハルムロースが内側から憑依を振り解こうと暴れる。微々たる抵抗と言えば微々たる抵抗ではあるのだが、一瞬の隙が命取りになる強敵との戦闘中くらい大人しくしていてほしかった。
「それで逃れたつもりか?」
 声とともにイデアールに付近の地面を掘り返される。アンザーツの側へはまだ行けそうもない。睨み据えるヒルンヒルトに魔王の息子はにやりと笑った。
「面倒な女に恨まれたな、貴様」
 ハッと周囲を見渡すとヒルンヒルトを取り囲むよう紫色の魔法陣が浮かび上がる。憑依解除の二段階目ということは考えるまでもなく明らかだった。あの女、イデアールまで巻き込んでくれたのか。
 恨み言を呟いている時間はない。魔法陣を描き込まれる前に逃げ切らなくては憑依を維持するのがますます困難になってしまう。術者を倒すか術の有効範囲を出るか、選んだのは後者だった。転移魔法の構築を開始したヒルンヒルトにイデアールは驚嘆すべき速度で術を完成させていく。空中に浮かんでいた魔法陣が吸い込まれるようヒルンヒルトの内側へ潜り込んだ。
「……ッ!」
 戦線離脱など不本意でしかない。だがどうやら、こちらの転移の方が僅かだけ速そうだった。ともかく今はアンザーツのため退却しなくては。
 目前からイデアールが消え、ヒルンヒルトの身体は暗闇の中を高速移動する。麓の山門まで戻るつもりで術を編んでいた。そこから体勢を立て直そうと。
(……!?)
 けれど何者かに強い干渉を受ける。目的地に向かっていた身体が突然他の引力に軌道を変更させられた。
 否、引き寄せられているのは肉体ではない。刻まれた魔法陣の方だ。

「随分巧妙な罠を敷くじゃないか、ゲシュタルト……!」

「アンザーツのことばかり考えて、あなたこそ頭の動きが鈍ったのではない?」

 山道の外れ、天然の鍾乳洞に彼女は待ち構えていた。
 隣には戦士を従え、足元には古代魔法の準備を整えて。






「ヒルト!? ヒルンヒルト!!!」
 アンザーツの叫ぶ声で大賢者の不在に気がつく。チッと舌打ちをひとつ零すとベルクは再度イデアールに斬りかかった。
 スピードはやはり速い。普通に斬りかかったのではまず当たらない。吹き飛ばされて戻ってくるたびウェヌスが回復魔法をかけてくれたがダメージは少しずつ蓄積していた。
 アラインとマハトがいれば、もっと言えばオーバストとディアマントもいれば何とかなりそうな気がしなくもないのに。
 いない人間を当てにしようとするなど初めてで、ベルクは己の不甲斐なさに唸る。相手が強いからそう思うのでないこともわかっていた。なんだってこう上手く噛み合わないのだろう。
「くそッ!! うらああああ!!!」
 気合いとともに放ったはずの一閃はやはり掠りもしなかった。後方からノーティッツの炎球が飛んでこなければまた無残に切り刻まれていたに違いない。
「なんかちょっとずつ雑になってるぞ、お前!」
「っるせえなあ当たらねえんだよ! 王宮主催の宝くじ並みに!!」
「当てに行くから当たらないんだ! 隙作るから構えて待ってろ!!」
 ノーティッツはそう言うと弓を取り出し矢をつがえる。凄まじい魔力を受け継いだくせにまた新しい武器を仕込んだのかと驚いた。どう考えてもその矢よりさっきの火魔法の方が強そうなのに。
「人間の弓など効かん」
 長剣を抜いたイデアールがベルクとノーティッツに向かってくる。怯むことなく幼馴染は前方へ矢を放った。
 まあノーティッツのことなので多分そうだとは思ったが、木矢の内部には何枚か呪符がねじ込まれていたようだ。矢を避けたイデアールのほぼ真横でそれは爆発し、一瞬だけ気を逸らさせた。
「……!!」
 間合いはもう詰め終わっていた。ノーティッツが隙を作ると言って作れなかった例はない。イデアールの剣に阻まれ傷を負わせることこそできなかったが、やっと剣と剣同士まともに切り結ぶことができた。
「もういっちょおまけだ!」
 更に追加で射られた矢にイデアールが警戒を強める。一歩後退しようとした彼の前ではなく、今度の矢はベルクのすぐ側で魔法を発動させた。一時的に、しかし飛躍的に速度を上昇させる光魔法だった。
 遅かったものが速くなったり、速かったものが遅くなったり、視覚は緩急をつけられることに弱い。ベルクを捉え損ねたイデアールは打撃の衝撃で後ずさりした。
 分裂のおかげか都で戦った彼ほどの強さはなさそうだ。そう確信して畳みかけるため距離を詰める。
「っらあ!!」
 だがその刃が触れる直前、イデアールは忽然と姿を消した。剣は空しく宙を斬る。
「!?」
 振り向けばノーティッツも驚き目を瞠っていた。しかし幼馴染はすぐ広場の中央に現れた黒竜を見つけ出し「うわ!」と指差した。
 どういうわけか今度は分裂をやめたらしい。金色の目をした紅紋の竜は雄叫びをあげ、再び強い火炎を吐き出した。ヒルンヒルトがいないためノーティッツとクラウディアが炎の相殺役になる。ベルクもなるべく己の背中にウェヌスを庇った。
「……これでようやく存分に戦える。さあかかって来い、人間ども」
(ったく、悪役らしすぎる台詞だぜ)
 ベルクは剣を握り直してイデアールと向かい合った。






 黒竜がエーデルを見たのはほんの一瞬のことだった。人間に同行している時点で敵だと見なしたのか、深く追及することもなく平然と爪を向けてくる。
「やめて! 戦う必要なんかないわ!!」
 懸命に叫ぶのにイデアールは炎を止めない。クラウディアが風の結界を張っているが熱の侵入は防ぎようがなく、白い額からしとどに汗が滴り落ちた。この高温をなんとも思っていないのはイデアールとエーデルだけだ。
「イデアール! ぼくらの話を聞いてくれ!」
 アンザーツの呼びかけにも彼はまったく応じなかった。人間と話すことなど何もないと言うようだ。背中に飛びつき炎を避けるアンザーツを振り落とそうと黒竜は強く翼をはためかせる。
「ファルシュは戦いをやめようとしていたんだ! そのために君という子供を残して――」
「戦いをやめる? 異なことをほざく。我が父の亡霊は毎日勇者を呪っているぞ!」
 竜の巨体を黒い風が包む。風は無数のかまいたちとなり一帯に放たれ、触れたものをずたずたに切り刻んだ。
 地面に落ちたアンザーツを後ろ足で蹴りつけようとしてイデアールは瞳を光らせる。
「ッ!!」
 間一髪、勇者は転がり逃げたようだ。
 戦うべきか説得が通じるのを待つべきか逡巡し、ベルクやノーティッツたちも動けずにいる。
「魔王が戦いをやめるわけがあるまい? そんな日が来るとすれば、貴様ら人間がこの地上から一掃された後だろう!」
 完璧に人間を敵だと認識している彼を説き伏せるのは難しそうだった。けれどアンザーツはまだ平和的解決を望んでいるのか剣を抜かない。見ているエーデルの方がハラハラしてしまう。
「それに、魔を統べる私が同胞を殺してきた貴様たちを見逃せると思うのか?」
「――」
 どんな言葉も無意味であるのをエーデルは痛感した。
 最初に仕掛けてきたのはそちらだろうと思ったが、それは自分にとっての話だった。イデアールから――魔物側からすればやって来るのはいつも勇者で、どちらから始めた争いかなど水掛け論にしかならない。
(……これからは混血が増えるのが理想、か)
 賢者の言葉を思い返してキッと目尻を尖らせる。「これから」を得るためには「これまで」を捨てなければならないのだ。イデアールが真実に触れないままでも、彼に立ち向かわなければならない。
(あなただってあたしの街を滅ぼして、母さんを殺したのよ……!)
 だけどそんな憎しみを晴らすより争いがなくなる方がよっぽど良い。クラウディアの隣で静かに暮らしていけるようになる方が。そのためならなんだってできる。否、自分にはもうその道しか残されていないのだ。
「身を滅ぼすまで戦いたいならそうすればいいわ!」
 まだ迷っているアンザーツを飛び越えてエーデルは跳躍した。竜の首裏に痛烈な蹴りを入れると反撃の風に吹き飛ばされるまで打撃を加え続ける。
 咆哮が耳をつんざいた。さっき見たより真っ赤な炎がエーデルに襲いかかる。けれど強靭な己の皮膚にそんなもの効きはしない。物ともせずに腕を伸ばし、鱗を掴んで眉間に膝蹴りしてやると、イデアールはぐらり頭を傾けさせた。そこへ一斉にベルクたちが攻撃を仕掛ける。
「エーデル……!」
 クラウディアが驚いた声でエーデルの名前を呼んだ。
 ふと見れば紅の髪が胸まで伸び、黒竜の羽と同じ色に染まり始めていた。
 どういうことだと考えている暇はなかった。イデアールは上空に舞い上がり、大きな火の球を雨粒のよう降らせ始める。その間もエーデルの身は徐々に魔王に近づきつつあった。






 百年前、勇者の都へ帰還したあのときから――彼女の身に降りかかった悲劇を己のために利用しようとしたあのときから、いつかこんな日が来ることはわかっていた。
 ゲシュタルトは自分を許さないだろう。そしておそらくムスケルも。

「……君が本当に憎んでいるのはアンザーツより私だろうな」

 淡い光を放つ魔法陣に囚われながら、ヒルンヒルトは無駄と承知で己の魔力を逆流させる。憑依はもう剥がれかけていた。皮膚の色、髪の色、すべて元通りに塗り替わっていく。
「そうよ、アンザーツを変えてしまったあなたが憎い。彼に何でも打ち明けてもらえるあなたが憎くて堪らなかった……」
 膝をつくヒルンヒルトをゲシュタルトは憎悪に満ちた目で見下ろす。まるきり見当違いの嫉妬だ。こんなときなのに口の端が緩む。
「君は馬鹿だ」
 そう呟くとムスケルまでもが表情を歪めた。こちらが何か企んでいないか疑うように武器を向けてくる。つくづく自分はふたりに嫌われているようだ。
「……アンザーツは非の打ちどころのない勇者だったが、人間としてはおそろしく不完全だったよ。彼が私にだけ秘密を打ち明けたのは、私が彼の同族だったからさ。信頼という意味でなら彼は何者も信じてはいなかった。ちょうど万物を愛し慈しむようにね」
「意味がわからないわ」
 怒りを滲ませゲシュタルトは古代魔法の進行を早める。
「煙に巻かれるのはもうたくさん。あなたのその憎らしい顔も見納めと思うと胸がすくわ」
 心臓に電撃が走った。剥がされまいとすればするほど酷い痛みがヒルンヒルトを喘がせる。
「く、ぅ……ッ!」
 ゲシュタルトの報復を甘んじて受けようというのは何もアンザーツだけの決意ではない。かつての仲間にそれ相応の償いをすべきだとは、自分の方がずっと考えていたように思う。
 これは裏切りだ。わかっていて黙っていた。アンザーツがそれと気づいて傷つかぬように。
「……彼に弁解させてやってくれ。百年経ってようやくあの男は自我を得たんだ」
 紫色の紋様が全身に浮き上がる。内側から追い出そうとする力と外側から引き摺り出そうとする力にずるずる負けていく。石を掴んだ手の指が一本ずつ外されていくように。
「嫌よ」
 ぽつりとゲシュタルトが答えた。
「今更何を聞いたって私たちの過去は変えられない。そうでしょう?」
 さよならヒルンヒルト。彼女がそう言い憑依が解ける。
 自由を得たハルムロースは暴風のように魔力を解き放った。憤慨と屈辱を露わにしたまま「お礼は言いませんよ!」と吐き捨て飛び去って行く。
 もう彼に取りつくことはできまい。だがまだやれることはある。






 他の皆はイデアールと戦うことに決めたようだった。
 アンザーツも剣を取り、ファルシュの残した魔王の肉に刃を向ける。
 昔より躊躇うことが増えたのは「勇者」に選択を委ねなくなったからだろうか。自分で決めてきたこともたくさんあったはずなのに、ゲシュタルトと再会してからどこかで気持ちが揺らいでいる。
(彼を倒せば成すべきことは全部終わる)
 勇者と魔王の真実はベルクたちが世界に伝えてくれるだろう。そうすればわざわざ魔界に立ち入る人間もいなくなる。この地上で最後の勇者になろうと決めて誓ったことはそれで終わるのだ。そうしたら後はゲシュタルトに――。
「……っ!!」
 気がつくとイデアールの吐き出した熱の塊がすぐ側まで迫っていた。なんとかそれをかわしきり、アンザーツは硬い鱗に剣を突き立てる。
 本気を出した魔王の息子は一筋縄ではいかなかった。攻撃は火の息、魔法、鋭い爪による斬撃、重さを利用した体当たりとシンプルなものが多かったが、ひとつひとつの威力が凄まじい。炎から身を守るだけでこちらは幾重にも魔法をかけなければならなかった。
「ヒルンヒルトさんまだ見つからないの!? ぼくもう魔力結構やばいよ!?」
 騒ぐノーティッツを横目にアンザーツももう一度友人の姿を探す。
 嫌な予感しかしなかった。ゲシュタルトにあんな魔法を仕掛けられた後では。
 グオオオと猛々しく吼え立てるとイデアールはまた頭上高く舞い上がった。さっきのような猛火の攻撃をもう一度浴びせるつもりらしい。
 避けることなどできないほどの絨毯爆撃だ。こちらの魔力消費量も桁違いである。クラウディアが竜巻を生み出してイデアールを引き摺り降ろそうと試みるけれど、竜の翼は微動だにしなかった。辺境の都での戦闘のよう、百名を越える魔導師たちの十数年分の魔力でもぶつけなければ相手にならないのかもしれない。魔王城に到達した頃のヒルンヒルトなら或いはと思うが、それこそ考えても詮無い話だ。
「来るぞ! 固まれ!!」
 白い炎が次々空から落ちてくる。風や炎で相殺しながら前へ進み、ラウダの羽に掴まって、アンザーツは黒竜の顔面に斬りつけた。まさか空まで追いかけて来られるとは思っていなかったらしく、イデアールが唸り声を上げる。すぐさま太い腕がアンザーツに向かい振り下ろされた。
「……!!!」
 衝撃でラウダから落下してしまう。精神体なので身体に穴が開こうと死にはしないのだが、無用な痛みは避けたかった。あまり酷いダメージを負うと苦痛のせいで魂が歪むこともあるそうだ。
 後ろ向きに風を放って着地しようとしたときだった。自分のではない魔法の風がアンザーツを受け止めた。
(あ……!)
 慣れた魔力の波動に嬉々として顔を上げればヒルンヒルトが笑いかけてくる。
 良かった、どこ行ってたんだと言おうとしてアンザーツは息を飲んだ。
 透けている。微笑む賢者の向こう側で燃え残った炎が揺れている。
「すまない」
 もう側にはいられないようだと彼が詫びた。その方が君たちのためかもしれないなどとわかったようなことを言って。
「……私が邪魔になっていることには薄々気がついていた。だが人生で唯一得られた友人は私にとっても貴重だった。君を失くしたくなかったんだよ」
 呆然とするアンザーツの頬にヒルンヒルトの手が触れる。いつも闇魔法をかけてもらうときそうしていたように。
 半透明の指先はアンザーツにその温度を伝えることはなかった。お互い生身の身体ではないのに、向かい合うヒルンヒルトだけが揺らいでいる。
「君をひとりにするけれど、君への誓いは変わらない。私は必ず君を救う。だから……」
 ヒルンヒルトの姿はそれきり見えなくなってしまった。
 何度も辺りを見回すけれどもう声すら聞こえない。
 動揺する間もなくイデアールの炎が吹き荒れる。それはどこか嘲笑するような息遣いだった。
「大事な仲間が消えたようだな?」
「……ッ!!」
 炎の中を突き進み、アンザーツはイデアールの喉元に斬りつけた。
 信じたくない。
 消えたなんて嘘だろう?
 ヒルト。
 ヒルンヒルト――。



 ******



 尊敬する人は?と聞かれたら、必ずアンザーツの名を答えていた。
 強く優しく勇敢な、彼のような勇者を目指したいと。
 他になりたいものなんてなかった。料理人にも大臣にも吟遊詩人にも興味なんてなかった。

「……」

 燃やし尽くされた神殿の前でアラインは立ち呆ける。
 過去ここでアンザーツのため命を賭したヒルンヒルト。対して自分は仲間から離れ、どうしていいかわからずにいる。
 シュトラーセは歩みを止めるなと言った。進み続けて、そこに自分で道を作れと。届くかどうかわからなくても行くのだと。
(僕はそんなに強くなれないよ……)
 万にひとつも届くことなどないと知っていながら歩くなんて。
 そんな不毛の道を、どうやってひとりで進めと言うのだ?
 ――谷底を挟んだ向こうに塔が見える。いつの間にか皆そちら側にいる。あそこへ行けば、あの天辺へ登りさえすれば勇者だと認めてもらえるのに、どうしても橋が見つからない。橋の代わりにできるものも、谷底へ降りられる場所もない。ただひたすら崖に沿って道は真っ直ぐ続くだけだ。ちらちらと勇者の塔を視界に覗かせながら。
 立ち止まっても、立ち尽くしても、座り込んでも塔が崩れることはないのだろう。そこに聳え立ったまま、アラインには辿り着けないという絶望だけを与え続ける。
(諦めるための材料か……)
 そんなものならもう山ほど持っていた。勇者の血も、マハトの選択も、向いていないという神鳥の言葉も、勇者に相応しい他の候補者たちも。それでもまだ、まだ自分を諦めさせるに足りないのだ。――まだ。
 アラインはポケットからシュトラーセに渡された呪符を取り出した。元あった場所に返すつもりだった。
 示されるべき答えなど呪符に教えてもらうまでもなくわかっている。
 勇者などという幻想は、ここで捨ててしまうべきなのだ。そんなものが見えているからどこにも進めない。
 地下倉庫へ続く階段はひっそりとしていた。右手の呪符を手離そうとしてアラインはふと異なことに気づいた。
 光っている。呪符に刻まれた魔法陣が。

「ヒルンヒルト?」

 バールの声に驚いて顔を上げるとアラインの目の前に旅立ったはずの大賢者がいた。だがその姿は薄らいでいて、今にも消えてしまいそうである。
「……勝手を承知で頼む。私の力を受け取って、アンザーツを助けてくれ」
 ヒルンヒルトは五芒星の刻まれた右手をアラインに差し出した。
 彼らに何があったのか、聞けばいいのに何も聞けない。アラインは黙ったまま立ち尽くした。聞いてしまったらまた勇者になりたがる心が動き出さないか心配だった。
「この力は血の繋がった君にしか渡せない。もう時間がないんだ」
 戸惑うアラインにヒルンヒルトが詰め寄った。必死な様子にまた逃げ出したくなってしまう。
 そうやって強い願いのために動ける彼から。それが許された人間から。
「……ッ!!」
 呪符から発された光に驚きヒルンヒルトが半歩下がった。「それは……」と短く呟いた後、賢者は真っ直ぐアラインを見据える。
 彼には垣間見えたのだろうか。
 呪符を通して、アラインの心の中が。

「長らくアンザーツにとって、勇者とは呪いじみた存在だった。……君はどうだ? 君にとって勇者とはなんだ?」

 ヒルンヒルトの問いは呪符の光と混ざり合い、閉じ篭ろうとするアラインの心を呼び戻す。
 己にとっての勇者。生まれてからこんなことになるまで当たり前に課せられていた使命。
 当たり前すぎて、それが両手から零れていくなんて思ってもいなかった。追いかけられなくなる日が来るなんて少しも。
 わかっている。諦め切れない理由も、自分のためだけだった理由も、本当は。
 呪符の光が降り注ぐ。
 涙と一緒に滴り落ちる。

「勇者は僕の夢だ」

 だったら行け、と賢者が笑った。
 行ってアンザーツをその役目から解放してやってくれと。



 譲り受けた魔力は莫大なものだった。
 重なったヒルンヒルトの右手から、アラインの身体を流れる血に溢れんばかりの力が伝えられる。それはあっさりハルムロースのかけた禁呪を振り払い、全身をもっと強く温かいもので満たした。
 今までどこにこんな力を隠していたのか不思議に思うと同時、それだけの犠牲を払って得ようとしたものがあるのだと悟る。
 五芒星がアラインの右手に移ると賢者は消えていなくなった。
 マントを翻し、山門へと駆け急ぐ。ともかく早く行かなくては。
「毎度おおきにお客さん。ひとりぐらいやったら乗せたるで?」
 バールがそう言いアラインの前に羽を広げた。精神体というのはかくも便利なものなのか、いつの間にか普段の縦横十倍ほどの比率になっている。
「バール……」
「何のために残ってやってたかわかったやろ。早よ乗りや、この状態保つの結構しんどいねん」
 信じてて良かったわ、と神鳥はぼそり呟いた。青い羽毛にくるまりながらアラインはバールの首にぎゅっと抱きつく。ありがとうと囁いて。
「ほな行くで!」
 ニッと笑うと神鳥は大空高く羽ばたいた。



 ******



 まただ。またあの妙な女が父に一歩近づいた。
 鼻持ちならない気分でイデアールは眉根を寄せる。人間たちに囲まれて人間たちの肩を持つ、そんな娘に自分と同じ血が流れているなど信じ難い。しかし彼女にだけまともに炎が通用していない事実は認めざるを得なかった。
 それに勇者アンザーツもだ。おかしなことに彼はここまでまだ一滴の血も流していない。光魔法で治癒しているからではなく、ダメージが外傷という形で残らないようだった。あまり考えたくないことだが、あの男も亡霊の父と似通った存在なのかもしれない。であれば完膚なきまでに叩き潰さねば再び形を取り戻してしまうと言うことだ。
 厄介な相手だった。ゲシュタルトはわかっていて自分を彼にぶつけたのだろう。この戦闘が終わり次第あちらにも相応の報復をしてやらねばなるまい。
 イデアールは天に顎の先を向け、思い切り首を捻り下ろしながら激しい炎を吹きつける。一帯はたちまち業火の海と化した。こうしておけば普通の人間は地上に釘づけにしておける。
 辺境の城で一杯食わせてくれた剣士や彼の連れている魔法使い、後方の僧侶たちはイデアールの猛攻から身を守るべく結界に逃れた。負った火傷も長い金髪の聖女然とした娘に癒されている。
 人間は小賢しい。先の戦いで身をもって学んだ。なら己もそれに合わせて姑息になってやればいいのだ。回復魔法を操る者を消してしまえば人間たちはすぐにくたびれ果てるだろう。そうして雑魚が息絶えた後、勇者アンザーツと半魔の女はゆっくり料理してやればいい。
 炎の壁に身を隠しつつイデアールは低空を飛んだ。目標に近づくと同時、鋭い鉤爪を掬い上げるよう旋回させる。
「危ねえ!!」
 薄紫の鎧の剣士が狙う女を突き飛ばした。だがその程度イデアールにとっては悪あがきにすぎない。もう一度空に浮き上がり、今度は両腕を振り下ろす。
「ウェヌス!!!」
 ぶつかったものすべて弾き飛ばしながら、真っ直ぐ聖女に向かっていく。栗色の髪をした魔法使いが咄嗟に目くらましの幻を出現させたため物理的な攻撃は外したが、吐いた火の玉は娘に直撃したようだった。
「あうッ……!!」
 苦悶の声にイデアールはほくそ笑む。が、それも束の間だった。黒煙と炎の中から現れた半魔の女に鼻っ柱を折られ、アンザーツには痛む箇所を上から斬りつけられる。
「……っ!!」
 腹立たしいがこのふたりは後回しだ。先に確実に敵を減らす。
 まずは一匹と先程の女を仕留めようとしたところで次の邪魔が入った。癒しの風が女の腹を包み込み、折角イデアールの与えた痛みをほぼ完全に取り除いてしまう。もうひとりの金髪の僧侶とさっき幻術を用いた魔法使いだった。
「ちぃっ……!」
 他の連中もそれなりの術を使うらしい。だったらまどろっこしい真似はせず、どちらの力が先に尽きるか持久戦だとイデアールは大きく翼をはためかせた。






 すぐ側にクラウディアが膝をついたのがわかった。痛いのか熱いのか判別できない傷に意識を失いかけていたら、彼とノーティッツの魔法がウェヌスを現実に引き戻してくれた。
 いや、まだどこか夢心地であったように思う。傍らの僧侶は何故なのかいつもと少し違って見えた。普段はほとんど関わりのない、しかも他の勇者に同行していた人間なのに、彼の態度にはそれ以上の何かがじわり滲んでいる。
「ウェヌス、動けますか?」
 問われてウェヌスはなんとか起き上がった。もう激痛は残っていないが精神的なショックは消えない。ベルクたちはいつもこんな痛みと戦っているのだ。
(……『ウェヌス』?)
 違和感の原因はすぐ知れた。誰に対しても敬語で接し、親しいエーデルの敬称のみを省略するクラウディアが、ウェヌスを「ウェヌスさん」とは呼ばなかった。
 何故と問うにはあまりに場違いで口にできない。単に焦って飛ばしてしまっただけかもとも思う。だが印象的ではあった。それも次の瞬間には忘れてしまったけれど。
「っぐあああ!!!」
「きゃあッ……!!!」
 黒竜の腕に振り飛ばされたベルクとエーデルが揃って岩壁に激突する。敵が届かぬ空へ戻る前になんとかしようと無茶をしたのだろう。
「ベルク!!」
「エーデル!!」
 叫び声を上げたのは同時だ。後はふたりとも脇目も振らず、クラウディアは友人の元へ、ウェヌスは勇者の元へ駆け急いだ。






 状況は芳しくない。黒竜の魔力と生命力にアンザーツですら押され始めている。
 クラウディアは背中にエーデルを守りながら、悠々と焔を吐き続けるイデアールを睨みつけた。
 やはり魔王の肉体を持つだけのことはある。エーデルも彼の腕には押し負けているし、爪に抉られれば血を流した。力量差はおそらくそのまま血の濃さに関係しているのだろう。少なくとも彼女の方に竜に化けるような力はない。
(でもそれはあくまで今はという話……)
 黒髪になったエーデルをちらりと振り返り、クラウディアはどうしたものかと苦悩した。
 神鳥の首飾りでも彼女の生来の力を抑え込めなくなってきている。トルム神とて殺しやすいようエーデルには弱いままでいてほしいはずだが、魔王の血が目覚めるのは時間の問題に思えた。
(いよいよ魔物じみた姿になったら、彼女にはきっと耐えられない)
 意を決し、クラウディアは風の防護壁を強化した。絶え間なく繰り出される炎を圧倒しなければベルクたちをイデアールに到達させることもできないのだ。
「首飾りを返していただけますか?」
 魔法陣に杖を突き刺しクラウディアはエーデルに向き直った。
 仕方がないのだと自分に言い聞かせる。ヒルンヒルトは消滅してしまったし、ノーティッツの魔力も一度きりの使い捨てだ。ウェヌスにはまだ余力があると思うが、彼女の魔法は攻撃向きのものではなかった。今ここにいる人間だけで敵を突破するには自分がやるしかない。この状況で神具に触れるのがどれだけ危険なことかわかっていても。
 エーデルが頷いて首飾りの留め具を外す。差し出されたそれを受け取る前に、クラウディアは彼女の手をそっと握り締めた。
 彼女とはこれが最後になるかもしれない。
「……イデアールに隙ができたら攻撃に転じてください」
 いや、必ず戻ってくる。ただひとり愛した人の元に。
 神鳥の首飾りを身につけると輝く白い光がクラウディアの全身を舐めた。天の力を借り受けた手が再び銀色の杖を掴む。
 初めクラウディアの周囲に生まれたのは小さな旋風だった。風は術者の元を離れるとすぐさま激しさを増し、土を巻き上げ、荒れ狂う大竜巻になる。読んで字のごとく、黒竜は風に巻かれて姿勢を崩した。
「―――……ッ!!!」
 意識が途切れそうになるのをクラウディアは必死で堪える。まだ、まだ消えるわけにいかない。
 ねじ伏せるようイデアールの巨体を地面に引き倒すと、千載一遇のチャンスにエーデルたちは次々飛びかかった。ウェヌスも肉体強化の呪文を唱える。
 だが誰もとどめを刺すには至らなかった。ベルクとノーティッツ、アンザーツとエーデルがそれぞれふたりがかりで翼を半ばまで引き千切った程度だ。
「オオオオオオオオオオ!!!!!」
 黒竜の咆哮に地響きが起こった。風魔法を持続する魔力が途切れ、クラウディアはイデアールの羽ばたきに吹き飛ばされる。
「っう、く……」
 禁じ手を使ってこれかと溜め息のひとつもつきたくなった。忌々しい白い輝きは気を抜けばすぐ内側に入り込んでこようとする。
「クラウディア! クラウディア!!」
 懸命に名を叫びエーデルがこちらに駆け寄ってきた。
 イデアールは暴れ足りないらしく、あちらこちらに太い尻尾を叩きつけている。
「クラウディアさん! 今まいりますわ!」
 ウェヌスがいてくれるおかげで随分マシに見えるけれど、普通なら全員五回は死んでいるだろう。口から血を吐くクラウディアの元にも女神がやってきて治癒の魔法をかけてくれた。天上の者が皆、彼女のようなお人好しなら良かったのに。
 キッとイデアールをねめつけてエーデルはまたドラゴンに向かい跳躍した。戦ううちに炎耐性が増しているのか、どんな業火にも彼女は眉ひとつ動かさなくなっている。
(いけない、戻らせないと……)
 クラウディアはエーデルの後ろ姿に手を伸ばした。
 止めてあげなければ。本当に人間でなくなる前に。
「っだああああ!!!」
 イデアールが千切れかけた翼を揺らすと黒竜に乗り上げていたベルクたちが投げ出された。今あそこで火炎を撒き散らされたら危険だ。勇者の危機にウェヌスが走り始める。
「あ……っ!」
 彼女がふらりと立ち眩むのをクラウディアとアンザーツが見咎めた。回復の中心である女神を失えば全滅は必至である。
 鱗は剥がれ落ち、翼はもがれかけ、全身血まみれだというのに、イデアールはまだ息絶えそうにない。腕の振りにも魔法にも衰えらしい衰えは見られなかった。
 狙われたベルクとウェヌスを助けるため、またノーティッツが幻術を発動させる。彼も魔力消費量の多い術を連発し通しだ。
「力量を見誤ったかな……」
 勇者の呟きに怪訝な顔を見せたのはウェヌスの元へ集まっていたベルクとノーティッツだ。
「エーデルを連れて全員一旦退いてくれないか?」
 続けてそんな提案をされ「はぁ!?」とふたりは怒声か罵声かわからない返事を響かせる。
「ぼくは精神体だから死ぬことはない。ぼくが引きつけてる間に山を降りてくれ」
「……」
 顔を見合わせたベルクたちの隣で女神がぶんぶん首を振った。
「魂を傷つけられるのは肉体を傷つけられるより何十倍も痛いはずです。それに、元の形状に戻るまできっと何年もかかってしまいますわ」
「そんじゃあ駄目じゃねーか! おい、切羽詰まってんだから結論の見えてること聞くなよな!!」
「そんなことより竜の弱点とか教えてよ! 無い魔力絞ってなんとかするから!!」
 彼らの返答にはアンザーツの方が目を丸くする。それから懐かしいものを見るように薄らと目を細めた。
「危なくなったら本当に逃げるんだよ」
 クラウディアはエーデルの元へ走ると杖でイデアールの爪を弾き、彼女の手を引いた。危なくなったらとアンザーツは言ったが、もう既に今が危機的状況だ。
 神鳥の首飾りがわんわんと不快な音を響かせ続ける。白と黒の間を行き来する意識に何度もかぶりを振る。
 杖を振り翳しもう一度風を起こそうとしてクラウディアは空を見上げた。
 いや、陣を描くため俯いたのかもしれない。
 ――どちらだったか知ることはなかった。「クラウディア」は閉じ込められてしまったから。
 ただ最後に、アラインの声が聞こえた気がした。






 眼下の黒竜に突き刺したのは火魔法を仕込んだ鋭い氷柱だった。
 イデアールの腹を貫いたそれは転げてのたうつ彼の中で大爆発を引き起こす。
 突然空から現れた刺客に黒竜の対応は完全に遅れた。吐き出された火炎を風でいなすと空中でバールと別れ、アラインは仰向けに倒れた竜に飛びかかっていく。
 剣でとどめを刺すことは最初から考えていなかった。愛剣には光魔法を宿していた。癒すための術ではなく、細胞を死滅させていく竜殺しの秘術を。
 心は水を打ったように静かだ。何の迷いも恐れもない。認めてしまえばこんなに楽だった。
 ゼロからだろうが偽物だろうがなりたいから目指す、それだけの単純な話だったのだ。目隠しになるしがらみが多すぎて、気づくのに時間がかかってしまったけれど。
「たああああっ!!!!」
 黒竜の胸に突き刺した剣は魔法の渦の中心となり、その肉体を見る間に腐食させる。
 イデアールは光魔法を取り除こうとして剣を掴んだが、両側からアンザーツとベルクに斬りかかられて痛ましい悲鳴を上げる。
 肉が腐り落ちるにつれてイデアールは弱り始めた。翼が溶け、腹が溶け、周囲には悪臭が満ちる。魔法の効果はまだ切れない。
「……っ、……ぅぐっ……!」
 残された力を振り絞り、黒竜はアラインに炎を吹きつけた。跳躍してそれをかわすと着地点にアラインの剣が飛んでくる。どうやらこれもイデアールがなんとか自力で抜いたらしい。
「ごめんね……」
 もはや動くこともできぬ竜の傍らにアンザーツが歩み寄った。
 喉元に剣を突き、彼は呆気なく決着をつけてしまう。
「ふう」
 息を吐いたアラインにベルクの拳と笑い声が飛んできたのはその直後。
「遅刻だぞ、遅刻!」
 そう叱られたが悪い気はしなかった。



 ******



 黒竜の身体がどろどろに溶け、白く変色していくのを、ゲシュタルトは高い空から見下ろしていた。
 あれはもう回復しても無駄そうだ。見切りをつけて蝙蝠を飛ばす。
 後ろに座らせたムスケルはイデアールを追い詰めた少年に目を奪われているようだった。あの勇者は勇者ではないのだから、もう放っておけばいいのに。相変わらずお優しいことだ。
「次はいよいよアンザーツよ」
 戦士の肩に細い手を添えゲシュタルトはくすくす笑う。
 ヒルンヒルトはさぞかし無念であったことだろう。あれだけ入れ込んだ勇者の側から引き剥がされて。
 アンザーツももうひとりぼっちだ。この先あの賢者の協力はない。
「復讐が済んだらどうする気なんだ?」
 ムスケルの問いにゲシュタルトは笑みを止めた。
 そんなこと考えたこともなかった。甦ったふたりのことで今まで頭がいっぱいで。
「……どうだっていいじゃない。今はまだ先のことなんて」
 頬に手をやるとムスケルはゲシュタルトの腕をゆっくり押し返した。開けられた距離に強い不服があるわけでないが、気が萎える。
 本当に、この男は相変わらずだ。



 ******



 久方ぶりのハルムロースからの連絡にリッペは飛び上がった。これでやっと恐怖の留守番から解放されるという喜びと、己の後ろ盾はいなくなっていなかったという喜び。今にも踊り出しそうな気分である。
 保身に関することばかりなのはさておいて、盛大に主人を出迎えるつもりでリッペは扉を開き待っていた。だが魔王城の地下書庫に帰ってきたのはいつものヘラヘラ笑う性悪眼鏡ではなく、低血圧の女のようにどこまでもブチ切れた主人だった。
「リッペ君、すぐに準備をしてくださいね? 手間取ったら八つ裂きにして殺しますよ?」
「は、はははハイ! な、何を用意すればいいですか?」
「そうですねえ……ひとまずここにある古代魔法はあらかた使えるように支度を整えておいてもらいましょうか」
「ぜ、全部ですか!?」
「ええ、全部です」
 ハルムロースは勇者一行を血祭りにあげると言い切った。人間どもの殲滅にやる気を出してくれたのは嬉しいが、いかんせん放たれているオーラが危険すぎる。仕事量の多さに文句も言えず、リッペはすごすご書庫の奥へと引っ込んだ。
「大賢者ご本人に何もしてやれない代わりですよ……!!」
 ドゴォンと壁に大穴の開く音が響く。土埃にげほごほ咽つつリッペは片っ端から魔道書を掻き集めた。
 こんなにキレて我を忘れたハルムロースを見るのは初めてだ。一体この男に何があったのだろう。



 ******



 竜の身体から分離させた肉体にも生命力と呼べそうなものはほとんど残っていなかった。
 這いつくばって岩影の鍾乳洞を進みながらイデアールは自分が帰れないことを悟る。
 仰向けに寝転がり、疲れた腕で懐を探った。手も足も灰のように真っ白だ。
「……ユーニ」
 取り出した鏡に呼びかけるとほどなくして応答が返る。嬉しそうにはしゃいだ声がイデアールの名を呼んだ。
『どうしたの? おしごとおわって帰ってくるの?』
 少女の笑顔に微笑みかけつつ「ああそうだ」と頷いてやる。
「すぐ帰るよ。そうしたらもうどこへも行かない。それまでは玉座の部屋で待っていろ……」
 勇者たちは魔王城に辿り着いてしまうだろう。
 せめて彼女に災禍が降りかからないことを、もはや祈るしかできない。
 せめて一番安全な場所で、生きてさえいてくれれば――。
『イデアールさま?』
「…………」
 応えてやることもできないままイデアールは手鏡を取り落とした。
 何故守りたかったのだろう。
 何故滅ぼしたかったのだろう。
 自問してみても答えは見えない。愛憎はどちらも本能だった。
『イデアールさま、帰ってくるよね? ちゃんと帰ってくるんだよね? ねえ、イデアールさま! ねえってば!!』
 どうかそのままずっと話しかけていてくれ。
 この耳が聞こえなくなるまで。



 ******



 死の山を越え魔界に入ると、名前にそぐわぬ濃い緑の湿原と美しい湖が見えた。
 いよいよここまで来たんだな、と隣でベルクが言う。アラインも頷き返して大地を踏みしめた。
 ヒルンヒルトの憑依が解かれてしまったので、今度はハルムロースが出てくるはずだ。アンザーツはそう予測した。ゲシュタルトも何を仕掛けてくるかわからないし、やはりまだ魔王城を目指すべきだという意見は皆一致している。
 神鳥ラウダはひとりになったアンザーツを甚く案じているようだった。表面上アンザーツの態度は変わりなく見えるが、ヒルンヒルトの言葉を借りるなら彼はそういった感情を表に出すのが得意でないだけなのだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。……ヒルトがいなくてもやり遂げなきゃね」
 勇者というのは呪いだと賢者は言った。そこから彼を解放してやってくれとも。
 途方もない力を受け取った代わりにヒルンヒルトにはちゃんとお返しをしなければと思う。元を辿ればこんなに悩む羽目になったのは彼のせいなので、迷惑料だと言い切ってしまってもいいのだが。
「僕たちもついてるよ」
 アンザーツに右手の印を覗かせるとどこか儚げに微笑まれた。
 ありがとうとは言ってくれたがその横顔には後悔の色が滲んでいる。
「……ぼくがきちんと仲間に全部打ち明けてればこんな風にはならなかったのかな」
 初めて聞いた彼の弱音。
 こんなに勇者らしい勇者でも悩む心はあるんだな、と今更に実感する。
「あんまりジブンばっかり責めんなや」
 神鳥の慰めにアンザーツは小さく頷いた。
















(20120622)