第十六話 勇者の選択 前編






 破滅の魔法を引き継げると思うんだ――。
 アラインが告げた直後、えっという皆の顔が一斉にこちらへ向けられた。
 純粋に驚いている者もいれば、感心した様子の者も、訝しげに眉を顰めた者もいる。
「どういうことです?」
 最初に尋ねてきたのはクラウディアだった。
 怪しまれても当然だ。一度は大陸を滅ぼした危険な古代魔法をこんなにあっさり解決できると言われては、誰だって面食らう。
 だがアラインには確信があった。目覚めてから急激に増した己の魔力が元は何の一部であったのか。
「ラーフェとシュルトの話は覚えてる? 破滅の魔法が発動する前にシュルトは死んでしまったけど、大賢者の力とラーフェは生き残った。彼らの血は辺境の国で脈々と受け継がれてきたんだ。そしてヒルンヒルトに繋がった」
「じゃあアラインは例のふたりの子孫にあたるわけ?」
 ノーティッツの問いにこくりと頷く。成程ね、と嘆息したのはゲシュタルトだった。
「ということはヒルンヒルト、あなたに大賢者の力を授けたっていう老賢女も実はあなたと血縁関係にあったってことじゃない? 試練なんて言っても結局は血筋のおかげだったのね」
「……」
 からかうような彼女の台詞に元大賢者の耳がピクリと動く。けれどヒルンヒルトは何も言い返すことなく無言を貫いた。
「うん、僕の手にあるこの力は近しい血の中で宿主を替えてきたんだと思う。……で、話は戻るけど、破滅の魔法はラーフェの魔力を核にして無尽蔵に他者の魔力を吸収しながらすべてを破壊していくっていう魔法なんだ。言い換えれば、他者の魔力を破滅の魔法っていうひとつの規格に変えて融合させてるってこと。これって何かと似てない?」
 鏡の向こうでウングリュクが立ち上がったのと、ノーティッツがあっと叫んだのは同時だった。
「辺境の都の……! うちの母さんが残してったアレ……!!」
 魔物たちから身を守るべく大結界を形成していた魔力の源。そう、原理はあれと同じなのだ。ただノーティッツの母は核の場所を固定し、一度使った力が戻ってくることのないように魔法を設計していた。それがあの魔法を安全に取り扱う最低限の条件だったからだ。ラーフェの用いた禁術はまったく逆である。核は意思を持つかの如く移動し、何度でも力を取り込む。
「じゃあお前、本当にあのヤバそうな魔法を自分のものに変えちまえるってことなんだな?」
 破滅の魔法の赤黒い光を目の当たりにした面々は一様に目を丸くしていた。あんな禍々しいものを吸収するなんて大丈夫かと既に何人かは不安げな表情になっている。
「その点に関しては疑う余地もないよ。実際この二ヶ月で信じられないくらい魔力が増えてる。あの中にいるときに、知らないで蓄えちゃったんだろうね」
 右手を開いて、また握り直して、寧ろ己が絶好調であるのを仄めかすと、トローンは感嘆とも呆れともつかない溜め息をついた。
「はー……。血の話はようわからんが、被害を出さずになんとかなりそうなんじゃな? 安心したわい。しっかし勇者兼大賢者ともなるとちょいと人間離れしとるのぉ」
「はは、かもしれません」
 率直な感想にアラインは笑顔を返す。一番の懸念であった破滅の魔法問題に片が付きそうとあって、会議室には安堵の空気が流れ始めていた。
「ちょっと待て。まだ肝心な話をしていないのではないか?」
 心配事など何もないと示したつもりだったのに、それはしかし、あらゆる魔法に通じた男の目には誤魔化しと映ったらしい。後は休戦実現に向けて頑張っていこうという盛り上がりに冷や水が浴びせられた。
「肝心な話って?」
「破滅の魔法を核までその身に取り込んだ後、君が一体どうなるかだ」
 ヒルンヒルトは腕を組み、半分宙に浮いたまま追及した。もしかすると彼は大賢者の力を譲り渡した責任を感じているのかもしれない。この力の強大さを真に理解できるのは己に宿したことのある者だけだろう。特にヒルンヒルトは、死してなおその魂に五芒星を刻まれていた。
「確かに君の推測する通り破滅の魔法は引き継げるだろう。同じ血を有していれば拒絶反応は現れない。ハルムロースを飲み込んだリッペのように、破裂して死んでしまう可能性はないさ。だが何故魔力や属性に個人差があるのかわかるか? たとえ見た目には安全な魔力譲渡だとしても、肉体は決して許容量以上の魔力を受け付けないんだ」
 いつも飄々としている賢者の表情は険しさを増す一方で、室内に緊張が漂う。イヴォンヌの揺れる双眸に気づいてはいても、まだ手を握ってあげられなかった。
「ラーフェの血が我々に繋がっていたこと、どうやって知った?」
 微笑んだまま沈黙するアラインに賢者は厳しく問いを重ねる。
 破滅のルーツを仲間に語り聞かせたとき、アラインは自分自身が過去へ遡ったことを伝えなかった。言えなかったのだ。トローンが言ったように、それはあまりに人間離れしすぎていたから。
「今までは君が破滅の魔法を通してふたりの記憶を垣間見たのだと思っていた。だがラーフェのその後や子孫の情報まで持っているのはおかしい」
 ヒルンヒルトとマハトはアラインが気功師と話していたのを知っている。だから最初から疑ってはいたのだろう。そんな馬鹿なと思考停止に至ることなく。
「……数百年も時代を越えたのか?」
 尋ねた声はまだ半信半疑だった。問われた以上仲間に嘘をつく気もなく、アラインは素直に事実を認める。
 どよめきが静かに駆けた。それと押し殺した嘆息がひとつ。

「時間を超越する魔法などない。君はもうツエントルムを越えようとしている。――これ以上魔力を増せば人間ではなくなるぞ」

 自分の中でも言葉にするのを躊躇っていた未来を明確に突きつけられ、アラインは「うん」とだけ頷いた。
 変化に対する怖さはある。だけどもう決めたのだ。
「ごめんね皆。隠すつもりじゃなかったんだけど、打ち明けるには僕も勇気が必要で……」
 でもこれが一番いい方法だと思うんだ。そう続けたが反応は今ひとつだった。人間ではなくなるというヒルンヒルトの脅しが覿面に効きすぎていて。
「いや、僕だって先のことは考えてるよ? 自分の子供に魔力を小分けにして受け継いでもらおうかなーとか、だったら子供は三人は欲しいなーとか、ひとりめは女の子がいいなーとか」
 何を言っても滑る空気らしく、やめとけとバールが羽を振った。室内をぐるりと一瞥するが、笑っているのは自分ひとりだ。神妙な視線が幾つも突き刺さって痛い。
「……私が大賢者の力を授かったとき、相手はミイラ同然の老婆だった。今思えばあれが行き過ぎた魔力を得た結果だったのだ。寿命を越えても魔力が尽きないから、ずっと死ねなかったのだろう」
 君がなろうとしているのはそういうものだとヒルンヒルトが釘を刺す。
 誰も口を開けなくて、会議の続きはまた翌日に持ち越された。






 ******






 どちらから腕を取ったのだったか。
 肩に届かぬ髪を振り乱しイヴォンヌがしがみついてくる。
 勝手知ったる他人の城で、アラインは人気のないバルコニーまで伴侶を支え静かに歩いた。
 時刻はまだ昼下がり。暗い話の似合う天気でもない。
「ヒルンヒルトの言い方が大袈裟なんだよ」
 なんでもないように言ってみたが、イヴォンヌはぶんぶん首を振った。これ以上深刻な問題がどこにあるのかと言いたげに。
 先に話しておくべきだったかな、と少し悔いる。自分は彼女にとってあまり良い夫ではないかもしれない。大事なときに側にいられず、こんな風に悲しませて。
「……私を助けて下さったのは未来のあなたなのですか、アライン」
 説明しなくてもそこまで見当がつくあたり、我が妻ながら明晰な頭脳の持ち主だ。震える肩を抱き寄せて華奢な背中をそっと撫でた。小さな子供をあやすみたいに。少し前まで彼女の方がよほどしっかりしていたから、なんだか変な感じだ。
 気丈で可憐で責任感の強いお姫様。でも勇者の家系が偽物だったとわかったとき、王族の血に誇りを持てなくなってしまって、酷く落ち込んでしまった。アラインが自分を見失い、立ち尽くすしかできなかったときと同じように。
 ――ひと目惚れとかそんなのではないけれど、あのときから、助け合って生きていくなら君がいいって思っていたんだよ。
「うん……。多分そう。僕自身は出会ってないし、何年先からここへ来たのかはわからないけどね」
 未来の自分が妻を見殺しにできる男でなかったことには感謝している。「彼」の干渉で何が変わったのか、アラインには想像するしかないけれど。
「本気で破滅の魔法を自分のものにするつもりなのですか?」
「うん。他に打つ手もないし、殺伐とした方法で解決するのは絶対嫌だし。いつもどんなときも、僕は勇者でいたいんだ」
 夢を叶えたらそこがゴールなのではない。現実味のなかった美しい理想が生々しく日常に入り込んでくる。表もあれば裏もあり、そのどちらもよく知るところとなるのだ。
 勇者は世界を救う。でもその影で犠牲になるものが必ずある。わかっていてなお勇者であろうとし続ける自分は多分とっくに普通の人間ではないのだろう。ヒルンヒルトはこれからそうでなくなると言っていたけれど、もう手遅れだ。
「勝手でごめんね、イヴォンヌ」
 両腕に力を込めると伴侶は優しく抱き返してくれた。
 もしかするとアラインは彼女よりずっと長生きするかもしれない。年老いて衰えていく彼女の横で、自分は若い姿のまま。
 イヴォンヌはそれさえわかっていたはずだ。でも何も言わないで寄り添ってくれた。
「……いいえ、謝らないでください。あなたが大きな意思をお持ちの方だとはわかっていたこと。私は勇者の妻として、あなたの良き理解者であるように務めるだけです」
 腕の中の大切な温もりに口づける。
 彼女が死ななくて良かった。こうして側にいてくれて良かった。
 勇者以外の生き物になるつもりがないことを、理解してくれる人でなければ駄目なのだ。
 他には何も選べないから。






 イヴォンヌを部屋まで送り届けると、今度は廊下の壁に凭れてディアマントが待ち構えていた。
 関心の薄いふりをして実は随分気にかけてくれているのだ。有り難くてつい頬が緩んでしまう。
「不死はお前が思うより不快だぞ」
 感想混じりの忠告にアラインは「そう」と答えた。ツエントルムとの契約の名残で首が飛んでも生きていたという彼が言うのなら、まあ間違いなく愉快ではないのだろう。
 厳密にはアラインは死なない身体になるわけではない。頭や心臓といった機能を潰されれば敢え無く昇天する。ただ更なる魔力を得るであろうアラインにとどめを刺せる敵がいなくなるのは確実だった。そういう意味で不死という表現に誤りはないのである。
「最初は生まれ育ちのせいかと思ったがな。……人の輪から外れているのを感じたときは堪らない心地になる。あの女が魔王の血のことで塞ぐ気分と似ているのかもしれん」
 ディアマントはエーデルやクラウディアのようには他人と関わろうとしない。性格上コミュニケーションが不得意なのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。
 人の輪から外れている。どんなときに彼はそう思うのだろう。死にゆく誰かを見送るとき? 滅びぬ肉体に恐れを抱かれたとき?
「僕、ディアマントやエーデルよりも長く生きることになるのかなぁ」
「……おそらくな」
 うまく説明できないが、とディアマントは渋い顔で続けた。
「自分の中に核が存在しているのがわかる。腕や足が千切れても魔力の糸は必ず核と繋がっていて、それを手繰って肉体を復元できるという感じだ」
「へええ」
 彼はあまり自分のことを語るタイプではない。こんな話も今日初めて耳にした。
 ディアマントなりにアラインを思い留まらせようとしてくれているのだろうか。知りもしないで恐ろしい決断をするのではないと。
「普通肉体が死ねば魂は切り離されて冥界へ行く。稀に高い魔力を有した者だけがぶらぶら地上を彷徨っているわけだが……、私の場合は肉体と魂の関係が逆転しているのだろう」
「魂が滅びなきゃ肉体も滅んでくれないってこと?」
「そうだ。お前もあの魔法を取り込むつもりならきっとそうなる。破滅の魔法にも核があって、それが魔力を吸収し続けるという話だろう? じわじわ魔力を失っていく私とは逆に、永遠を生きることになりかねん」
 それでもいいのかという問いにアラインは迷いなく答えた。
「うん。それでいいよ」
 今はとりあえずね。そう付け加えて笑いかける。
 強く押し留める気はなかったようで、ディアマントは嘆息ひとつ挟むと踵を返した。その広い背中に目を細め、ありがとうと礼を述べる。
「それじゃ僕、ディアマントとエーデルがくっつくとこ見れちゃうね」
 てっきり耳まで赤くして振り返ると思ったのに、ディアマントの横顔には照れも呆れも浮かんでいなかった。ただ瞳の奥に静かな意思が滲むだけだった。
「あの女には死ぬまで何も言う気はない。口にすれば契約が解けて、私はただの人間になるのだから」
 言葉を失ったのはアラインの方だった。
 では何か、彼は想い人のために、人の輪から外れても、抱き締めることすら叶わなくとも、側にいようと言うのか。
 どうあっても輪には戻れぬエーデルと違い、ディアマントには人として生きる選択もできるのに。
「……それは……辛いね……」
 思わず漏らしたひとことにディアマントはふっと笑った。
 忍耐が彼を成長させたのだろうか。優しくて強い男に。
「仲間に次々置いて行かれるお前より哀れではないさ」
 その言葉もやはり「やめておけ」と言うように響いた。
 でももう止まれない。あとたったひと月、いや、それよりもっと早く決断のときは訪れるだろう。
 災厄の復活を阻止するためだけではない。破滅の魔法を取り込まねばならぬ理由は他にもあるのだ。






 なんとなく次はクラウディアに呼び止められそうだなと考えていると、その通り前方から小柄な僧侶がやって来て立ち止まった。どこへ行くのかと尋ねられたのでベルクの部屋だと答える。
「本当は皆に言う前に、ベルクにだけは相談しようかと思ってたんだ。ベルクがやめろって言うならやめておこうかなって。……でも結局今日まで言い出せなかった」
 あっちはあっちで大変だったしね、と笑うアラインにクラウディアはわざとらしく溜め息を吐く。
「ひとりで解決しようとしすぎじゃないですか? あなたは少し優しすぎます、アラインさん」
 この僧侶はまだヴィーダとクライスをどうにかする案を捨てていないらしい。外側に対して冷たいのは身内を大事に思う反動なのだろうなと思う。本人が自覚しているかどうかは知らないが。
「別に優しいわけじゃないよ。僕は多分、ああ僕って勇者だなあって実感しながら生きてたいだけだもん」
「……なんですかそれは」
「えっ? そのままの意味だけど?」
 アラインはアンザーツのように勇者であることを強いられていない。その称号を己の手から取り落としたとき、拾い上げたのも同じ手だった。
 初めはその生き方しか知らなくて。自分しか勇者をやれる人間もいないと思っていて。――でも今は違う。
「なりたくてなったから、勇者でいられないなら意味ないんだ。自分で自分のこと勇者だって認められなくなったら。……だから怖くないって言うと嘘になるけど、僕の中ではそこまで悲壮な決意じゃないんだよね」
 クラウディアはエーデルのために死のうとしたことがあったろう。そう問うと僧侶は綺麗な顔を複雑に歪めて頷いた。この世で唯一の愛しい女の子を殺しかけた過去まで一緒に甦るせいか、眉根の皺は濃い。
「あれと近いんじゃない? クラウディアだってエーデルが生きてなきゃ意味ないと思ってそうしたんだろ? あんなことしてもエーデルが悲しむってわかってたくせに」
「……今更嫌なつつき方をしますねえ。そうですよ、わたしはわたしのエゴで彼女を生かそうとしたんです。別れが来るとわかっていてギリギリまで手を離さなかったのもわたしだったのに」
 噛みついてきそうだったクラウディアの視線がついと逸れ、窓に向かって長い息が吐き出される。
「成程、そう考えるとあなたを不憫がるのも馬鹿らしくなってきました。あなたはあなたでやりたいようにやろうとしているだけなんですね」
「はは、そうそう」
「……ですがあなたの行為は決してエゴだけに由来するものではないと思いますよ。わかっておられないと思いますが、アラインさんは信じ難いほどの博愛精神をお持ちですから」
 話は終わったとばかりにクラウディアはすっと脇を横切ろうとする。そうかなあとぼやくアラインに、どこか面白がるような微笑を返しながら。
「相反する思いを抱いていてもいいでしょう。自己愛が深い方だということも勿論存じています。――どんな道を選び取ってもできる限りの協力はさせてもらいますよ」
 歩み去る後ろ姿に、ふと自分たちはいつから仲間になったんだろうなと思う。
 ヒルンヒルトの隠れ家で同行すると言ってくれたときか、ツエントルムの密命を打ち明けてくれたときか。
 どちらも違う。それはきっと旅が終わってからだった。お互いに本音を話せるようになってから。
 おかしな話だ。苦労なら旅の道中の方が圧倒的に多かったはずなのに。






「あら、アライン。今さっきユーニたちを見送ってきたところなのよ。あなたも誘えば良かったわね」
 羽音を響かせ渡り廊下に降り立ったのはエーデルだった。黒竜の翼は完全に出し入れ自由なようで、するりと背中に消えてしまう。
 いつもの調子で話しかけてきたのはいつもの調子で話したかったからなのだろうが、彼女の表情はすぐに翳った。どうやらあまり元気でないらしい。先刻はあんなに嬉しげに魔物たちに協力を乞うことを提案してくれたのに。
「……さっきあたし、アラインが長生きしてくれたら安心だなって思っちゃった。最低よね」
 ごめんなさいとエーデルが呟く。利己的な発想を自嘲するように。
 顔を見られないようにか彼女はアラインの数歩先を歩いた。それがそのまま彼女の防衛ラインに思える。
「エーデルは将来が不安なの?」
 細い背中に問いかけると苦笑いを噛み殺すような間があった。
 三日月大陸では魔族のものと認識される浅黒い肌。この三年、彼女のことでアラインのところに直談判に来た人間は数え切れない。放っておいて大丈夫なのか、急に魔物の血が暴走することがないか心配だ、と。
 エーデルには悟られぬよう対応してきたつもりだったが、全面的に受け入れられていないことは彼女もどこかで感じていたのだろう。
「いつまでも今のままでいられるとは思ってないわ。……魔物と人間が仲良くなってくれればっていうのはあたしの願望でもあるの。あたしはずるいから、あたしが安心できる世界であってほしいんだと思う。誰かが傷つけ合うのを見るのもつらいの。自分と重ねて怖くなっちゃう」
 吹き抜けた風がエーデルの短い髪をなびかせた。背中の翼とは違い、黄金の眼も皮膚の色も隠しようがない。だからこそ魔物の血が流れているとはっきり明示し生きる決意をしたのだろうが。
「優しいだけだよ、エーデルは。街の人たちだってエーデルのそういうところが好きだから一緒に暮らせてるんじゃない?」
 輪の中に入れない。心の中では嘆いていても、彼女は目の前にある命を大切にするし、守ろうとする。
 他ならぬ勇者の都がアペティートの戦列艦に攻め入られ、エーデルやディアマントが身体を張って避難者を守ったと聞いたとき、アラインは却ってそれで良かったのかもと思ったぐらいだった。
 もう魔物と人が争う時代は終わったのだ。都の民も翼を広げた彼女を見て、きっとそう感じてくれたはずだ。
「……ちょっと違うわ。あたしが都に住めるのはアラインがあたしを仲間だって言ってくれるからよ。勇者様のお墨付きがなきゃ今頃とっくに魔界の端まで逃げてるわ」
「そんな、今更僕なんかおだてなくても」
「ううん、本当にそうなの。――アライン、あたしあなたにはやっぱり普通の人間のままでいてほしい。考え方とか感じ方とか、絶対に前とは変わるもの。人からどう思われてるかすごく気になって、でも埋没することもできなくて……」
 ともかく心配で堪らないとかぶりを振る彼女はやはり優しい気性の持ち主だった。クラウディアやディアマントが何を置いても守り抜こうと誓う気持ちがよくわかる。
「そうやって心配してくれる人がいてくれる限り、僕は大丈夫だって思えるよ。ありがとう」
「……アライン……」
 あなたの運命は孤独だと、そう告げた気功師の言葉を思い出す。
 たとえそれが真実になったとしても忘れないでいたい。
 ひとりではなかったこと。






「いいんじゃない? 個人的には名案だなって思ったよ。すごくアラインらしいなって」
 ベルクの部屋にはいつもの三人が揃ってテーブルを囲んでいた。破滅の魔法について話題を持ち出したアラインに開口一番答えてくれたのは以前の彼に戻りつつあるノーティッツだった。
 丸い卓上には地図と海図が広げられ、上空の風の流れが幾つか書き込まれている。その中央に視線を落としたウェヌスが不安そうに呟いた。
「ですがどんな肉体的変化があるのかわからない以上、見守る側としては恐ろしいですわ……」
「や、だからさあ。問題が起きたら起きたでまた解決方法を考えればいい話じゃない。今はとりあえずアラインの言う方法で何とかしちゃって、先のことはまた皆で知恵を出し合おうよ」
「ノ……ノーティッツぅ!! うわあああん!!!!」
 ここまで来てようやく聞けたポジティブ発言にアラインは思わず参謀長の肩にしがみつく。「やめろ、君とハグすると変な噂になる!」と抵抗されたが構わず背凭れごと抱きしめた。
「それ、それだよお。皆して考え直せみたいに言ってくるから孤立無援かと思ったよおぉ」
「わかった! 喜んでくれたのはわかったから離れて!!」
「まあぁぁ流石ノーティッツですわ! 未来はこれからいくらでも変えられるということですのね!!」
「やめてウェヌス!! ふたりがかりは重い!!!!」
 ホッと安堵の心地でアラインは潰れかかったノーティッツから身を離した。彼の口からそう言ってもらえるだけでかなり心強い。
 別にひとりで背負いこもうとしているわけではないのだ。自分にできることをしようと思ったらああいう結論が出ただけで。
 他にやりようがないのだと悲観的になっているわけでもない。それをわかってもらえているのが何より嬉しい。

「俺はちょっと待てって思ったぜ」

 ベルクの声は、代わりに随分冷ややかだった。
 怒っているのとは少し違う。呆れ返っているのでも。
 隣国の勇者はただ淡々と胸の内をアラインに語った。
「後で解決策が思い浮かべばいいけどよ、そういうの無いかもしれねえんだろ? 人間じゃなくなるなんて脅されるような方法を誰かひとりに押しつけるなんざ、あのふたり殺して災いを鎮めちまおうって考えとそう変わらねえよ」
「……押しつけじゃない。自己犠牲でもないよ。これは僕の意志だ」
「そんくらいわかってるっつうの。けど少しはそういうのもあるんだろ? でなきゃあんな簡単に破滅の魔法に飛び込んじゃいかねーだろ」
 強い眼差しがアラインを見据える。
 真っ直ぐに、射抜くように、虚栄も虚勢も粉々にするように。
 勇者がどうしてふたりいるのか実感するのはこんなときだ。全然似ても似つかないのに、知らぬ間に互いを映す鏡になっている。
「僕はさ」
 ずっと自分の中にあった思いをアラインは初めて口にした。悔しさとも歯痒さともつかぬ感情を。
「三年前のあの旅のとき、ヒルンヒルトの力を貰ってあっさり強くなっちゃっただろ? 勿論そこまで苦労もしてきたつもりだけど、受け取った力が大きすぎて、自分の努力で勇者になったとは露ほども思ってないんだよね。……じゃあ僕自身が成し遂げたことってなんなんだろう? 僕にしかない力ってなんなんだろう?」
 ベルクと自分は違う。剣ひとつ携えて仲間と強敵に立ち向かってきた彼の方が、遥かに勇者らしい道程を歩んできた。嫉妬するわけではないが、時には酷く焦らされたものだ。他人の力で勇者を名乗る己と比較して。
「そう考えたとき今回はすとんと納得いったんだ。ああ、僕って人や物から力を奪って強くなるタイプの勇者だったんだなあって。――こんな言い方したらすごい悪役みたいだけど」
 大真面目に告げた台詞にベルクはずるりと斜めに滑る。お前は何を言っているんだと語る目にアラインはアハハと笑い返した。
「昔ベルクが僕に言ってくれたこと覚えてる? 勇者にも色んなタイプがいるだろうって。……だからこれが僕の役回りで合ってるんだ」
 自分にしかできないこと。そこから目を逸らしたらきっと自分ではなくなってしまう。
 今だって有り余るほど力はあるのだし、上手に楽しく生きていくぐらい簡単なのかもしれない。でもそれは歩みたいと願う道ではないから。


「お前、ひとりになるぞ」


 気功師と同じ予言をベルクも紡いだ。
 頷く代わりに静かに微笑み見つめ返す。


「お前が強くなりすぎて、周りからビビられすぎて、誰も文句なんか言えなくなっても――。……お前が心にもないことしそうになったときは、俺が目ェ覚まさせてやるよ」


 その言葉があれば十分だ。
 ベルクがベルクのままそこにいてくれるなら。






 ******






 鎮座したまま一歩も部屋を動かないマハトの周りを先程からゲシュタルトが心配そうに練り歩いている。いや、練り歩いているというか、浮かぶ場所を変えてみたり、天井付近をふよふよ彷徨ったりしているだけだが。
「ねえ、あの子を止めに行かなくていいの?」
 痺れを切らし、彼女がそっと尋ねてくる。編成案でも練っておくかと広げていた世界地図から顔を上げると、半透明の黒い瞳と目が合った。
「なんでだ? 別に何も言うことねぇだろ?」
「な、何も? 何もってことないでしょう!?」
 耳元で騒ぐゲシュタルトと距離を取るべく後ろに椅子を引く。甲高い声でキイキイやられると鼓膜が痛い。
「いいんだよ、余計なこと言わなくたって。アライン様はちゃんと俺らに話してくれただろ? だから俺もあの人のやろうとしてることを信じるんだ」
 きっぱり言い切るとゲシュタルトは眉を顰めてアンザーツの後ろへ逃げていった。案じてくれてのことだろうに相手にしなさすぎたかな、と少々罪悪感が湧く。
 同じやりとりはヒルンヒルトとも済ませたばかりだった。絶対にやめさせた方がいいとの賢者の主張にマハトは頑なに首を振った。
 どんな無茶苦茶な方法だって、アラインがそうと決めたならどこまでも信じて付いて行きたいのだ。それはきっとムスケルにできなかった生き方でもあるから。
「……そうだね、アラインならきっとぼくみたいな馬鹿な間違いはしないよ」
 窓枠に半身を預けてアンザーツが囁く。真実世界を救うため、精神体に変わって生きるのをひとりで決めてしまった男が。
「アラインもベルクも凄いなあ。信じるってこといつどうやって知ったんだろう?」
 元勇者なのに感心させられてばっかりだと苦笑する先代に、ヒルンヒルトもゲシュタルトもしゅんとした表情を見せた。彼らと同じく前世の行いはああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔することばかりだった。――だけど。

「あの人を本物の勇者にしてくれたのはお前らだよ。胸張って前へ進めるようにしてくれたのは」

 そんな姿に民衆は惹きつけられている。血筋でも家系でもなく。マハトにとってそれ以上に誇らしいことなどなかった。
 このまま変わってほしくない。悩み惑うアラインを見るのはたくさんだ。
「もう隠居してたのに、わざわざ手伝いに来てくれてありがとうな」
 複雑そうに三人で目を見合わせた後、アンザーツが「お礼なんて照れちゃうよ」と片眉を下げた。ゲシュタルトも腕組み浮遊しつつ「そうよ、大体あなただって困ってたんだから」と続ける。
「うん、うん。何百年経ったってぼくたちずっと仲間だよ!」
 両側から腕にしがみついてくるアンザーツとゲシュタルトはまるで小さな子供のようだった。こんなに長く地上にいたら名残惜しくなって困るとゲシュタルトが喚く。彼女の場合、親しくなったイヴォンヌへの未練もあるだろう。
「この馬鹿とあなたの契約が切れたら私たち揃って冥界へ行くのもいいわね。天界で気侭に過ごすのも悪くないけど、それじゃいつまでも次へ進めないもの」
「あ、ゲシュタルトもぼくと同じこと考えてたんだ。嬉しいなぁ」
「へえ、そりゃいいや。うまくすりゃまた同じ時代に生まれ変われるかもな」
「……何を喜んでいるんだ? 君が死ぬ仮定の話をされているんだぞ?」
 呆れ顔のヒルンヒルトにゲシュタルトが協調性の無さを責める。まあまあと彼女を窘めるアンザーツの横から賢者のローブの袖を掴んで引き寄せた。
「お前もありがとな。アライン様のこと気にかけてくれて」
「……君に礼を言われるようなことではないよ。彼は私の子孫でもあるのだから」
 優秀すぎるのも考えものだがとヒルンヒルトが嘆息する。顔を背けたのは多分照れ隠しだろう。ありがとうなんてムスケルには言われ慣れていないらしいから。
「そうだ。私はノーティッツに呼び出されているのだった」
「え? 何だよそれ?」
 行こうと言うようマントを引っ張るヒルンヒルトに用件を問う。しかし賢者も詳しくは聞いていないそうだった。
「死者の霊魂を呼び出す術について教えてほしいと頼まれたんだ。そういうのは私の得意分野だからな」






 ******






 ふたつある属国のうち、反アペティート勢力が大きいのはフロームだ。大鉱山が空になってからも無理な採掘を要求され、一度は大暴動に発展している。それが五年前――ヴィーダがクライスを連れてドリト島へ逃げた日の話だった。
 兄と話をつけるには時間がかかると思っていたが、長兄は待っていたと言わんばかりに出迎えてくれた。暴君ヴィルヘルムを排斥し、国が変わるには今しかないと熱弁まで振るって。
 思えば政治の話など兄弟間では数えるほどしかしたことがなかった。胸に秘めた理想に至ってはこれまで一度だって。
 いつも父の命じたことには逆らえなかった。それが普通だと思っていたし、だから今まで兄弟で力を合わせてもこれなかったのだろう。
 長兄は例の大暴動の後、反アペティート勢力と結束する意思を固めたのだと言う。このまま父に従っていても未来はないと確信し、それからは従順なふりをして機を窺っていたのだと。
 明日はエアヴァルテンへ赴いて次兄にも協力を乞う。帝都を占拠する大包囲網を作るために。

「それじゃあ人を動かすことはできそうなんだ? 飛行艇の修理が終わってしまう前に、話はまとまりそう?」
「ああ、やってみせる。こんな土壌が前からちゃんとあったんだ。少しも気にしていなかったのが本当に恥ずかしいよ」
「うん、頼んだからね」

 ヴィーダが簡単に今日の進展を報告するとアラインはにっこり笑って頷いた。
 長距離の転移には多大な魔力を費やしたが、宵の口には兵士の都へ戻ってこれた。大賢者の力を革命に利用しようなんて、科学大国を治める父には卑怯だと詰られるかもしれない。だが使えるものはこの際なんでも使わせてもらう。
「このまま搾取に喘ぐ暮らしは続けられない、新体制を築かなければって話はエアヴァルテンでも出てるんだって」
「そうだね。でも急を要する作戦になるだろうし、アペティートへの密告者が出ないとも限らない。十分気をつけて」
「大丈夫さ。そこはほら、闇魔法を通して見れば怪しい奴はわかるから」
 人差し指を立てたヴィーダにアラインが成程と納得した。その顔にもうひとつ報告しておくべきことを思い出し、そう言えばと口を開く。
 本来こんな計画は、何ヶ月も、何年もかけて練るものだろう。いくらフロームの起こすクーデターに乗っかる形になったとは言え、主力となるのは間違いなく新参の自分なのだ。本当に信用してもらえるのか、現場は己の指揮で動いてくれるのか、不安要素は数え切れなかった。だがそれを払拭してくれる人物がフロームで待っていたのだ。

「不思議な人に会ったよ。目元以外は隠してたけど、君にそっくりなんだ。白いマントを羽織っててね、イックスと名乗ってた。ぼくが力を貸してほしいと頼みに来ること、彼があらかじめ皆に伝えてくれてたみたいだ」

 心当たりがあったのか、アラインは静かに瞠目した。それから彼が何に思い至ったのかはわからない。読めない顔で、だが決して苦い声音ではなく「イックスは何て言ってた?」と尋ねてくる。
 ヴィーダは男と交わした言葉を思い返した。と言ってもほとんどすれ違っただけなので、ふた言くらいしか会話していなかったけれど。
「羨ましいって言ってたかな。こんな展開もあったんだって……」
「……そう。わかった、ありがとう」
 瞬間、あっと閃いたものの、アラインに問うタイミングは逸してしまった。
 主君の姿を見つけたツヴァングが二羽の神鳥を連れ城内から飛び出してきたからだ。
「アライン様! あの、出撃に向けて準備しておくことはありますか? さっきマハト兵士長と部隊編成案や待機地点の候補は話し合っていたんですが!」
「ああ、それ僕も詳しく聞きたいな。何人か呼んでちょっと会議室に集まろうか」
「あの、アライン様……! おれは……、おれたち勇者の国の人間は、あなたの進む道にどこまでもついて行きますからね……!!」
「はは、ツヴァング君、それ言うために探してくれてたんだ?」
「そうです!! 仰る通りです!!」
 ねえ、もしかしてあれは君の知らない君だったの。
 気功師の言っていた、時空を越える力を身につけた――。
 アラインの背に伸ばしかけた手は宙を掴む。目の前を青銀の羽が横切って飛んだ。
「ワシもずーっと一緒やで。何百年でも付きおうたるわい」
 勇者の肩にとまった神鳥がそう囁くのを耳にして、何か様子が変だなと気づき始める。自分がフロームへ飛んだ後、彼らは何を話し合っていたのだろうか。
 アラインとツヴァングはヴィーダを置いてすたすたと歩いて行く。
 取り残された己の元へ舞い降りてきたもう一羽の神鳥が「お前も知っておけ」と言った。
「何を犠牲にあの男が破滅の魔法を消し去ろうとしているか……。お前も知っておくべきだ」






 羨ましい、か。
 その言葉でなんとなくわかってしまった。
 未来の自分がここへやってきた理由。

 いくら過去を変えたって元いた世界を変えられるわけじゃない。
 そうと知っていて何故イヴォンヌを助けてくれたのか。どうしてヴィーダの手助けをしてくれたのか。
 他にも多分あるのだろう。知らぬうちに与えられていた助力は。

 羨ましい。
 そんな短い台詞の中にすべてが凝縮されている。

 本当はひとつ変えられるものがあったのだ。
 過去への旅で取り戻すことのできるものが。

 自分は「彼」に何らかの答えを示すことができたのだろうか――。






 ******






 アペティート軍が動いたという急報が飛び込んできたのは丁度二週間後のことだった。
 兵士の城でもすべての支度が滞りなく完了しており、後は打って出るのみである。
 帝都占拠を実行する部隊にはアラインが、飛行艇ゼファーを待ち受ける部隊にはベルクが回ることになっていた。
「健闘を祈るぜ」
「ああ、また後で」
 拳同士をぶつけ合うのはこれで二度目だ。そっちは任せたと頷き合う。
 たったひとつ恐れるものがあるとするなら、いつかこの得難い存在をなくしてしまうことだろう。ベルクがいなくなったとき、きっと僕はひとりになる。
(……でもそれでも、生き方は変えられないんだ)
 勇者は僕の夢だった。
 その道を貫き通して辿り着きたい。星さえも追い越して。







(20130119)