極小サイズの羽虫に化け、リッペはこそこそとドアの隙間に入り込んだ。深手を負って帰ってきたイデアールの部屋にゲシュタルトが向かうのが見えたからだ。
 イデアールが魔物たちを集め、都に進軍したのは数日前のことだった。帰還してから今日まで彼に目立った動きはない。一応主人であるハルムロースが帰ってきたときのため、情報収集ぐらいしておこうと己も努力しているのである。
(つってもあの陰険ヤロー、本気で音沙汰無しだけどな)
 水門の街にいるという連絡を最後にハルムロースからの交信は途絶えている。ゲシュタルトは何か知っている様子だったが、教えてくれと頼めるほどリッペは命知らずになれなかった。まさかあの性悪眼鏡がくたばったわけではないと思うのだが。
「随分手酷くやられたのねえ?」
 ゲシュタルトはそう嘲笑いながら翼を出して休むイデアールに語りかけた。治癒に専念しているからか、今戦っても勝てる自信がないからか、或いは背中にユーニが隠れているからか、イデアールは何も言わない。ただ無言で彼女を睨みつけるだけである。
「そんなに怖い顔しないでよ。少しの間、あなたと協力しようと思って足を運んだんだから」
「……協力?」
 不穏な言葉にリッペもぴくりと耳を揺らした。長いこと共同戦線の案など欠片も持ち出してこなかったくせに、一体どういう了見なのだろう?
「都にいた連中、あの中のひとりにアンザーツがいるの。あなたの父親を気狂いの亡霊にした男よ」
 笑みを引っ込めたゲシュタルトにイデアールは「何だと?」と声を荒げた。旧敵の名を思わぬところで耳にして男は憎しみを剥き出しにする。
「だが人間が百年も生きていられるのか?」
 彼の疑問はもっともだった。人間なんて長生きしてせいぜい七十か八十だ。何か特殊な呪法を用いているなら話は別だが、普通は五十年も生きればなんのかんので死んでしまう。
「ヒルンヒルトよ。彼が今までアンザーツを人知れず眠らせていたの。都でヒュドラを倒したのも彼ら。……もしあなたが辺境の遺跡からせしめた古代魔法を譲ってくれるなら、私が彼らの戦力を殺いできてあげるわ。個人的に恨みがあるのよ。報復が成功すれば私は魔王の座を諦めても構わない。……どうかしら?」
「本当か?」
「ええ、もちろん」
 ゲシュタルトの赤い瞳は復讐の炎に染まっていた。
 魔王の座を諦めるという言葉にイデアールはそそられたらしい。「いいだろう」と警戒しつつも承諾する。
「どんな魔法が必要だ? すべてを譲ることはできんが、極力意には沿ってやる」
 形の良い唇が再び薄笑みを浮かべた。じわじわ相手を追い詰めてやろうという般若の顔だった。
 リッペは怖々ゲシュタルトを見上げる。この女がこうまで苛烈に瞳を燃やすところを見るのは初めてだった。
「私が欲しいのは死霊の憑依を強制解除する魔法よ」
 あるんでしょう、と女が笑う。
 そんなものを何にどう使うのだろうと訝るが、ゲシュタルトはそれ以上詳しく説明しなかった。



 ******



 荒野の旅は人数の割に静かなものだった。それぞれ物思いに耽る時間が長く、たまに思い出したように会話する程度である。
 明るい空気が当たり前だったベルクやノーティッツにとって重苦しい旅路だった。ノーティッツの方は努めていつも通り振る舞おうとしていたが、ベルクはウェヌスとアラインのことが気にかかって仕方なかった。
「お兄様にオーバスト……どうなさるおつもりなのでしょう……」
 ウェヌスは時折溜め息を零し、祈るように手を合わせる。こんな風に静かに落ち込む彼女は見たことがなく、困惑した。神鳥の剣が輝かない事件のときはもっとコミカルに壊れていたし、それ以外でもウェヌスは常にテンションが高い。そういう彼女を鬱陶しいと思ったこともあるけれど、今に比べればずっとましだった。
「大丈夫だよ、ベルクが上手くやってくれるって」
「おい」
 オーバストはともかく、いくらなんでもウェヌスの兄まで思い留まらせる自信はない。
 勝手にこちらに全部委ねようとしてくる幼馴染を軽く小突くと女神はくすりと笑みを浮かべた。
「……そうですわね。私がひとりで思い悩んでも仕方ありませんわ! ベルク、どうぞお願いいたします」
「だからちょっと待てっつうの! そりゃなんとかしてやりてえとは思ってるけどなあ」
「ええ、ですからあなたの選択を信じますわ。私の選んだ勇者はあなたなんですもの」
「……」
 そこまで言われると照れるなと黙り込んでしまったベルクを、今度は幼馴染が嬉しそうに小突いてきた。その手を無言で押し返したり引っ掻いたりしているうちに、ウェヌスの表情は少しずつ明るいものに変わっていく。
 ちらりとノーティッツと顔を見合わせ、互いにほんの少し安堵した。いつの間にかウェヌスは自分たちのムードメイカーになっていたようだ。旅に出ろと押し切られたときはどうしてくれようこの女と思ったが、変われば変わるものだ。
(……あいつにも色々あったんだろうなあ。旅に出てからここに来るまで……)
 視界の片隅に捉えた隣国の勇者は辺境の都を出て以来ほとんどずっとひとりでいる。仲間のはずのクラウディアはアラインよりもエーデルを案じているようだし、彼の側を飛び回るのは神鳥バールくらいだった。
(アンザーツに会えたら話したいこといっぱいあるっつってたのに……)
 何をどう話しかけてもアラインは上の空だった。ひとりで歩きたいからとベルクからも離れてしまう。塞ぎ込んだ背中を見る度に喉から嘆息が出かかった。アラインが落ち込んでいることをアラインに当たっても仕方がないのに。
「どうしても勇者の血筋じゃなきゃ駄目なもんかね」
 思わず漏らした言葉にはノーティッツの溜め息が返る。幼馴染は沈むアラインを遠目にかぶりを振った。
「血統の重みくらいお前でもわかるだろ。もしお前んとこの兄貴が実は王様と血が繋がってませんでしたって言われたらどうすると思う? きっと王位継承権を放棄するって言い出すぜ」
「……」
 わかりやすすぎる例えにベルクは唸らされる。うちの兄どもなら「国民をたばかるとは、この上は死んでお詫びを!」と腹を切る可能性も否めない。
 流石にアラインはそこまでの短絡思考ではないだろうが、非常に不安定になっていることは確かだった。
 それでも彼が「勇者」を諦めるわけがないと信じているけれど。



 ******



 徒歩移動より飛行移動の方が遥かに迅速である。辺境の都でベルクたちと袂を分かった数日後には、オーバストとディアマントは水門の街まで引き返してきていた。
 表面上ディアマントの態度は落ち着いているが、彼の場合落ち着いていることの方が珍しいので、やはり常の精神状態ではないと考えていいだろう。
 エーデルのことを思っているのだろうか。何度か尋ねようとしてみたが、ディアマントはオーバストにその隙を与えてはくれなかった。
「……で、アンザーツの身体はどこにあるんだ?」
 国境を隔てる河を見下ろしながらディアマントが問う。オーバストは「多分あの辺りです」と岸辺を指差した。
 ヒルンヒルトがハルムロースに憑依したことを考えると、賢者が離脱した水門の街が最も怪しい。そうでなくても尋常でない数の魔物が出現していたようだし、彼らがみな勇者の器に引き寄せられて集まったならアンザーツの肉体が付近にある可能性は高かった。寧ろそう考えるのが自然だろう。
「水で隠れているのかもしれんな」
 ふむ、と思案した後ディアマントはオーバストに河を堰き止めるよう命じた。自然のものに介入するのは疲れるし気合いがいるのだが、そんなこと彼はお構いなしだった。
「……えい!」
 まだ痛む脇腹を極力気に留めないようにしてオーバストは空中に魔法陣を描く。竜巻で水を吸い上げ、薄くなった部分を凍らせた。淡々とやってはのけたが結構な大技である。
「あれか?」
「うわっ……!」
 河の水量が一時的に減少したことで洞窟の入口らしきものが出現する。だがそれは到底中に入ることなどできそうにない状態だった。何もかも氷漬けなのだ。洞穴の内部を完全に水で満たしてから、溶け出さないよう氷の魔法をかけたものらしい。
 試しに最大火力で炙ってみたが、強固な封印に弾かれ少しも水に変えることはできなかった。真空波で傷をつけてみようともしたが、これも徒労に終わる。
「何か策を練らないとアンザーツまで辿り着けそうにありませんね」
「……時間がかかりそうだな」
 チッと舌打ちしたディアマントは暇潰しに街へ行ってくると告げ、オーバストを洞窟の前に置き去りにした。これはまさかひとりでアンザーツを掘り出せということなのかと戦慄する。だがどうやら本当にそういう意味らしい。あっという間に後ろ姿は見えなくなってしまった。
 お前ならできるだろうと任せてくれるのは有り難いが、今は自分も都での連戦で疲れている。できればほんの少しでも休ませてほしかった。そこまでの気遣いを自分がディアマントに求めてもいけないと思うけれど。
(……傷の治りが悪いのは肉体が古いから、か)
 何百年も昔の器を無理に酷使しているのだ。仕方ないと言えば仕方ない。そのうえ己は魂も不完全だ。
 クラウディアはア・バオ・ア・クーから分離したのがオーバストかと推測したけれど、事実はその逆である。オーバストからア・バオ・ア・クーが切り離されたのだ。
 世界を繰り返すための魔法に最初に異議を唱えたのは自分だった。地上の塔に落とされた神鳥も。
 魔物の肉体を与えられ、今後は聖獣としてひとりで神具を守るよう言い渡されたとき、オーバストはまだ欠けたところのないオーバストだった。
 ぽつんと孤独に何年過ごしたろう。寂しいと言って自分を天に呼び戻したのはツエントルム――罰を架した当の神であった。何もかも知っているお前にはやはり側にいてほしい。そう言って。
 魂を分けられ塔に残されたのは「ツエントルムに同調できない自分」「ツエントルムから離れたい自分」「ツエントルムの友人であった自分」――そのどれかだったのだろう。天界に戻ったとき、オーバストはもう神とされる男に逆らえなくなっていた。
 大陸史上最強無比と謳われた大魔導師のなれの果て。神鳥たちの楽園である天界において、ツエントルムはひとりだけ形を異にする精神体だった。最初こそ肉体と同じ男の形をしていたが、何百年と経つうちに輪郭はゆっくりと失われ、やがて青白く発光する水晶に似た球体となった。
 何人もの勇者が生まれ、死んでいった。その間にツエントルムの書庫を覗いた神鳥と、地上を覗いた神鳥が相次いで塔に落とされた。そうしておよそ百年前、生まれたのがファルシュとアンザーツだった。
 ツエントルムは神として生まれた神ではない。だから全知全能というわけにいかない。同じ家系からしか勇者を輩出できないのは、勇者が彼の子孫だからだ。ヒルンヒルトと同じようツエントルムも己の血筋にまじないをかけた。魔王の方は彼の魔法から作られた。魔王城に配した玉座を寄る辺に姿を持つように。
 勇者や魔王を、まして大陸すべてを常に監視することは難しかった。ゆえに彼らの反逆を見過ごした。アンザーツがファルシュを倒していないと気づいたとき、事態は既に手遅れで、彼らはとっくに肉体と精神を分離させていた。アンザーツは子を成していなかった。今までと同じやり方で世界を続けるためには何か手を打たなければならなかった。

 ――昔のお前のように、またわたしに抗議しようという者が現れたよ。

 ツエントルムはもう光と声だけの存在になっていたけれど、彼が笑ったのがオーバストにはよくわかった。

「……」

 眼下の洞窟をじっと見つめてオーバストはかぶりを振る。覚えのある眩暈と耳鳴りに息を震わせながら。
 呼びかけられていた。薄ら寂しい神殿の奥から、頭の中に直接。
 新しい命令がまたオーバストに下される。神の声は喜々とすらしていた。
(……まるで試されるために遣わされたようだ)
 今度こそ自分が彼の意向に従うかどうか見定めようとしているのだろうか?
 逆らう意志と自由を奪ったのはあちらなのに、おかしな話だ。






 対岸からずっと見えていた街ではあるが、実際に訪れるのはこれが初めてだった。
 ディアマントは特にすることもなく雑踏を歩いた。人間の住む場所は寂れた田舎村と崩壊寸前の都しか知らない。普段はこれほど活気あるものなのだなとぼんやり思う。
 石畳の道をエーデルくらいの若い女が何人も歩いていた。造形の良し悪しなどわかりもしないが、まったく心惹かれないことだけはわかる。
 明るい色の髪をした女が赤毛には何色の髪飾りが合うかとお喋りしていた。無難なのは黒だが緑や紫も良いだろうと連れの男が答えている。
 ――目の前にいない女のことで何故こうも頭が埋まるのか。
 ふたり連れの去った店の前でディアマントは立ち止まった。店先に並んだリボンを手に取って戻して、結局また掴んでしまう。
 贈れるわけもないのだからと選んだ色はあの女の髪と同じ紅だった。地上の貨幣など持っていないので代わりに胸の宝石を毟り取る。慌てた店主がもっと持って帰れとうるさく騒いだ。仕方がないので青い硝子玉の埋め込まれたペンダントを懐に突っ込んだ。こんなものであの女が笑いかけてくれるはずもないとわかっているのに。
 本当に、私はここで一体何をしているのだろう。
(殺さねばならん女だぞ……)
 そう言えばウェヌスも髪にピンク色のリボンをつけていた。連れの少年のどちらかから受け取ったのだろうか。そうだとしてももう尋ねる機会もなさそうだが。
「ディアマント様!」
 従者の声に振り向けば、へらへら笑う彼がいた。正直今はこの顔を見ているだけで腹が立つ。もっと早く、あの女に出会うより早く魔王の血のことを知っていれば、情を移すことなどなかったのに。
「アンザーツはどうした? 掘り起こせるまで私を呼びに来るな!」
「いえ、あの、掘り起こせたので来たんですけど……」
「……何? もうか?」
「ええ、ですのでお越しいただければ」
 促されるまま洞窟近くの岸まで戻ると地滑りでも起きたかのよう古い土壌が露出していた。洞窟のあった周辺は無残に崩れ落ち、付近の水を茶色く濁らせている。
 オーバストは長剣で次元の裂け目を作り、ディアマントにその中を覗かせた。まだ全体が氷漬けではあったものの、暗闇に浮かんでいるのはアンザーツの肉体に他ならなかった。
 手こずりそうな様子だったのに、もう回収を終えてしまったのか?
 不思議に思い「これはお前がやったのか?」と問いかける。
「ここには私しかいませんよ?」
「……まあそうだな」
 何か奇妙なやりとりをしていると思ったが、気に留めないことにした。オーバストは時々ディアマントも知らないような魔法を使う。ともかく勇者の身体が手に入ったならそれでいい。
「どうやって潰す?」
「いえ、しばらくはこのまま持ち運びましょう。まだ利用価値があるかもしれません」
「……そうか、そうだな」
 肉体破壊は敢えて強行しようとは思わなかった。
 頭のどこかではわかっていたのだ。それをすれば決定的な亀裂になると。
 すんなり提案を受け入れたディアマントを見てオーバストはホッとしたようだった。



 ******



 都を襲った魔物たちの生き残りは一時的に魔界まで退却したのかもしれない。山門の村が見えてくるまで敵らしい敵に遭遇することもなく、旅は至って順調だった。戦って身体を動かしている方が何も考えなくて済むのに、出てきてほしいときに限って出てきてくれないものだなとアラインは冷めた視線を荒野へ向ける。一瞥した視界にはやはり何もなかった。ただ荒れ果てた長い道が続くだけで。
 これから己の進む道もそうなのだろうか。
 痛む心臓には知らんふりして、できるだけ頭の中を空っぽにして、何もない道をとぼとぼ歩く。意味のある言葉を思い浮かべたら、そこから崩れていきそうだった。マハトを助けるまではまだ止まるわけにいかない。
「……何かおかしいな」
 不意にヒルンヒルトが声を漏らし、賢者に応えてアンザーツが頷いた。
 彼らの目線は前方の小さな岩山に注がれていた。一見何の変哲もないただの灰茶色の岩山だ。
「あそこだけ妙に強い魔力を感じる。気をつけた方がいい」
 アンザーツの忠告に皆揃って同じ方角を見る。ただノーティッツだけは「露骨すぎない?」と眉をひそめた。
「待ち伏せるつもりならもっと上手く隠れててもいいのに。なんかあそこに注意を向けさせておいて、別方向から仕掛けてきそうな感じが――」
「あら、わざとらしくしすぎたかしら?」
 上空から響いた声にハッと顔を上げる。涼やかなその声はマハトをさらった魔族のものだった。羽を広げた大きな蝙蝠に杖を手にした長い髪の女が乗っている。
(ゲシュタルト……!)
 こちらが彼女に釘づけになった隙を突き、後方に忍んでいたトロールが砂の中から現れた。黄土色の皮膚をした汚らしい巨人はギトギトした掌でウェヌスの身体を掴み、ニタリと一笑して逃走する。
「いやあああああ!!!!! ベタベタしますわああああぁぁぁーーー…………」
 徐々に小さくなっていく彼女の悲鳴を追いかけて、ベルクとノーティッツが慌てて駆け出した。エーデルとクラウディアもすかさずその後を追う。
 アンザーツとヒルンヒルトはゲシュタルトから視線を外さなかった。アラインも少し悩んで留まることにする。あちらは四人もいれば何とかなるだろう。
「今日はあなたに用があるのよ、ヒルンヒルト」
「私に?」
 賢者はすでに臨戦態勢だ。銀の杖を構え、相手が空にいるのならと身体に風をまとわせ始めている。
 何故イデアールより彼女を先に説得しないのだろうとアラインは不思議だった。すれ違いはあったにせよ、誤解が解ければ関係は修復できる気がしなくもない。だってかつては仲間だったのだから。
 それとも仲間だったからこそ、溝は深いのだろうか。
「そう、だからいらっしゃい。遊んであげるわ!」
 ゲシュタルトはヒルンヒルトとアンザーツを引き裂くように魔法弾を連発した。すぐさま賢者が空に飛び、攻撃魔法をぶつけ合う。
 加勢しようとしてアラインとアンザーツが剣を取ったときだった。また背後で何かの蠢く気配がした。

「――……」

 振り向いてぽかんと口を開いたアラインを、アンザーツが真横から突き飛ばす。
 地面に突き刺さった大斧の持ち主はマハトだった。
 紅い魔法石が斧の真ん中で皓々と光り、戦士に力を与えている。

「マハト……いや、ムスケルか?」

 アンザーツの呼びかけにマハトは苦い顔で首を振った。
「自分でもどっちなのかよくわからねえんだ、アンザーツ」
 ドォンという地響きとともに足元が揺れる。道の先を見れば、さっきヒルンヒルトたちが気をつけろと言っていた岩山がこちらに向かい動き出していた。
 あれはおそらく陸のザラタンだ。山や島に擬態して、近づいてきた旅人を食らうハリネズミに似た超大型生物である。
「……アライン君、ひとまずそっちは君に任せたよ!」
 アンザーツはそう言うとヒルンヒルトに拳を振り下ろさんとする怪物の元へ駆け急いだ。ごつごつとした岩の身体は勇者の剣技であっても切り裂くことが難しく、ひとりでは苦戦しそうなのが目に見えている。結局自分たちはゲシュタルトにしてやられたらしい。
「マハト、お前また呪いに操られてるのか? 目を覚ませよ、お前が加担してるのは都を襲った魔族なんだぞ!」
 五体満足で再会できたことにはもちろん安心していたが、戦い慣れた彼の手から武器だけを叩き落とすのは容易でない。会話に応じてくれるだけの理性はまだ残っているようなので、説得が通じればそれに越したことはないのだが。
 互いに武器を向け合ったままアラインはマハトと対峙した。ざっと観察してみた限り、戦士の様子はいつもとそう変わらない。顔色も悪くないし、恨みや怒りに支配されているという感じもない。ただそれならどうして彼が自分たちに攻撃を加えてきたのか解せなかった。
「別に操られてるわけじゃないんすよ、俺」
 そう言うとマハトは大斧からぱっと手を離す。こちらに両手を広げて見せられ、アラインは少なからず瞠目した。肩にとまったバールの息を飲む音が聞こえる。
 それではまさかマハトは自らの意思でゲシュタルトに手を貸していると言うのだろうか?
「この魔法石は俺にムスケルの記憶を見せてくれただけっす。……まあ多少は魔法補助もしてくれてますけど」
 こんな風にね、とマハトは斧を振り上げた。魔法石が光り輝いたかと思うと、風圧で生まれた風が魔力を帯び、蛇行しながら賢者の背中へ向かっていく。
「あかん! 避けるんや!!」
「っヒルト!!!」
 先に気づいたアンザーツがガードしようとしたが間に合わなかった。咄嗟に結界を生み出し直撃は避けたものの、勢いに押されてヒルンヒルトが体勢を崩す。そこにゲシュタルトが禍々しい紫色の光を放った。
「何やってるかわかってるのかお前!」
「わかってますよ。アライン様こそ邪魔しないでくれませんか」
「……っ!」
 邪魔って、と一瞬言葉を失った。よくわからないがマハトはヒルンヒルトたちと刃を交えるつもりらしい。
 何故?ゲシュタルトに何かされたのか?でも彼は操られているのではないと言った。
 何故?ムスケルの記憶に影響されているのか?でも彼はアラインを認識できている。
「……あの人たちは同じパーティのメンバーだ。傷つけさせるわけにいかない」
 自分の話した言葉なのにそれはどこか遠くで響いた。本心から出た言葉ではないから途端に胸が苦しくなる。自分はただ、勇者なら当然そうあるべきだと思ったことを口にしたに過ぎない。
「同じパーティのメンバー、すか」
 アラインの後ろ暗さを見透かしたようマハトが苦笑した。
「……もう無理して頑張らなくていいんすよ? アライン様、勇者でも何でもなかったんでしょう?」
「――」
 今度こそ頭の中が真っ白になった。ずっと一緒にやってきたマハトにそんなことを言われるなんて少しも思っていなかった。剣の塔を出た後だって、彼はアラインが勇者に向いてないなんておかしいとずっと言い続けてくれていたのに。
「ジブンなんちゅうこと……!」
 バールの責める声を無視してマハトはまた大斧を構える。落ち着いた仕草に迷いは感じられない。却ってアラインの方が気圧され後ずさりしてしまう。
(……なんでそんな風に僕を見るんだ?)
 哀れむように。もう休めばいいと言うように。

「アンザーツの血が流れてないってわかったとき、アライン様どう思いました? それでもまだ勇者続けるつもりなんすか?」

 問われた瞬間、呼吸も心臓も止まったように感じられた。
 辺境の都で勇者の血統が偽物だったと明らかになったとき、誰もアラインにそれを確かめようとしなかった。これからも「勇者アライン」として旅を続ける気があるのかどうか。
 自分自身考えることから逃げていた。マハトさえ救い出せば、彼ならきっと自分に勇者で在り続けるよう求めてくれると――そう頼っていたから。
「僕は……」
 答えられなくてかぶりを振る。求めていたこととまるきり逆のことをマハトは言う。
 だって自分にはわからない。偽物だと言われた自分がまだ勇者と名乗っていいのか。向いていないということだって、バールに言われてはっきりしているのに。
「アライン様が戦う理由なんかもうどこにもないんじゃないすかね? ……だったら俺がアライン様の側にいる必要もないっすよね?」
 これがあの大斧に操られて出ただけの言葉なら良かったのに。
 戦士の声は即ち祖国の民の声だった。頑張れと励ましてくれた人たちも彼と同じように言うのだろうか。勇者でなかった自分などもう見限ってしまうのだろうか。
 マハトは動揺に震えるアラインのすぐ側まで近づくと、「今までお世話んなりました」と微笑んだ。温かい大きな掌が剣を握る両手にそっと被さってくる。力づくで奪われたわけでもないのに、それは呆気なくアラインの手を離れた。足元でからんと乾いた音が響く。
「ちょ、アライン! マハト行ってまうで!! 早よ剣拾って追いかけな!!」
 ごうごうと風の音。呪文を唱える賢者の声、魔物の咆哮、後ろは戦闘の真っ最中だ。
 マハトが行けばアンザーツたちはもっと苦境に立たされる。バールの言うよう早く彼を追いかけなくては。頭ではそれが理解できているのに。
 アラインはがくんと地面に両膝を突いた。傍らの剣は刃こぼれひとつしていない。手にすればまた戦える。わななく右手でそれを掴もうとして、掴めなかった。
 戦う理由はずっと「勇者になるため」だけだった。
 家名に恥じない男になれと言われ続け、念じ続け、自分にはそれしかないと信じてきて。

 ――まだ勇者続けるつもりなんすか?

 ぽたりと地面に染みができる。頬を冷たい川が流れる。
 剣が見えない。
 どこにあるか見えない……。






 暗い紫に光った魔力はそれ自体が細い蔓となりヒルンヒルトの左腕に巻きついた。どうやらゲシュタルトはかなり厄介な類の古代魔法を持ち出してきてくれたようである。普通の魔法陣と違い、これは人体に直接描くことを前提に考案された術のようだった。
 アンザーツは巨大すぎるザラタンの相手に手間取っているし、若者たちは随分離れたところまでトロールを追跡している。どう考えても己ひとりで振りほどかねばならない。それもゲシュタルトの相手をしながらだ。
 一度組成が始まると後は自動で完成する術らしいのがもうひとつ厄介だった。進む組成と逆向きに魔力を注いで進行を妨げるが、当然ゲシュタルトが見逃がしてくれるはずもない。
(しばらく魔法は使えないか……!)
 ヒルンヒルトは風をほどくと舞うように地上へ降り立った。すぐにゲシュタルトが追ってきて、炎を放ち、ぐるりと火の輪で取り囲む。そうして逃げ道を塞いでから彼女はもっと大きな火球を浮かべた。
「ゲシュタルト! やめるんだ!! 攻撃したいならぼくにすればいい!!」
「……うるさい男ね。あなたの相手はまた今度してあげるわ」
 アンザーツには目もくれず、ゲシュタルトはヒルンヒルトを焼き尽くそうと杖を向ける。彼女の注意を逸らしてくれたのは戦況を見かねたラウダだった。神鳥は旋回しながら鋭いくちばしで杖を持つ手を何度も狙う。
「邪魔するんじゃないわよ!!!」
 突風がゲシュタルトを中心に吹き荒れた。ラウダは何とか踏みとどまろうとしたようだが、風に流され飛ばされてしまう。
 そのとき不意に炎の影から斧の切っ先が現れた。かろうじて身を引いたものの、ヒルンヒルトは己が一層追い詰められたことを悟る。
「……ムスケル!」
 百年前仲間として過ごした三人のうち、もっとも相性の悪かった男だ。殴られた後は一切連絡を取り合わなかったし、ゲシュタルト同様恨まれているのは想像に難くない。
「悪いな、ちょっと痛いかもしれねえぜ」
 戦士は斧を掲げるとヒルンヒルトの肩めがけ一直線に振り下ろしてきた。後ろに退いてそれを避けるが追撃の風はかわしきれない。結局魔法で障壁を作る羽目になり、魔法陣の浸食が進んだ。
「ぐっ……!」
 ゲシュタルトたちは攻撃の手を緩める気などまったくないようだ。地上ではムスケルの大斧が、上空からはゲシュタルトの魔法が畳みかけるよう襲ってきて、ヒルンヒルトは防戦一方だった。細かく魔法の発動を余儀なくされ、少しずつ彼女の術が完成していく。
(これは……!!)
 半分ほど魔法陣が完成して、何の魔法かようやくわかった。元は大僧正クラスの僧侶が用いていた、怨霊の呪いを清めるための古代魔法だ。
「人を悪霊扱いとはな……!」
 戦士の大斧をひらりと避けつつヒルンヒルトは再び上昇気流を生み出す。魔法の正体さえわかれば何とでも手を打てる。この古代魔法は発動までに何段階か必要だ。魔法陣を描かれただけで即憑依を解かれることはない。
「悪霊みたいなものでしょう? 生きてるときからあなたは心ない悪魔みたいだったわよ……!!」
 向かい合ったゲシュタルトが軽口を鼻で笑った。取りついてくる魔力には構わずヒルンヒルトは空中で五つの魔法陣を重ね合わせる。手間をかけて大きな魔法をひとつ撃つより、一瞬で作れる小さな魔法を複数撃った方が早い。術の効果を予測して流石の彼女も顔色を変えた。
「私をアンザーツから引き離すつもりなら、もう手加減はしない」
 噴き上げる炎、切り裂くような熱風と百度近い蒸気、ゲシュタルトはどこまでかわしきれただろうか。
 近くで暴れていたザラタンの背に乗ると、ヒルンヒルトは岩で覆われた魔物の身体を魔法で抉り、幾百もの礫に変えた。今度はそれを地上の戦士に向けて放つ。
「ムスケル、退くわよ! 術はひとつ完成したわ!」
 女の声とともに戦士の前に結界が出現した。半透明の壁に阻まれ攻撃は届かない。
 吼え猛るザラタンの突進をかわすうちにふたりはいなくなっていた。ヒルンヒルトの全身に絡まっていた紫の光も肉体の内側に沈み込んでいき、薄まって見えなくなる。一旦完成してしまった術にはおそらくもう手出しできないだろう。
「アンザーツ、さっさと片付けるぞ」
「ああ……」
 消え去ったふたりが気になるのか、アンザーツはちらりと虚空を仰ぎ見た。
 こんな調子ではゲシュタルトが本気で彼を襲ったときが思いやられる。
「しっかり剣を持て。何のために君はここにいる」
 眉間に皺を寄せ叱咤すると、アンザーツがごめんと詫びてきた。
 迷いがあることを責めたいわけではない。自分はただ彼の思うよう生きてほしいだけだ。
 ――ゲシュタルトの怒りを静めるための手立てを何か考えてやるべきなのだろうか。だがもしそれでアンザーツを喪うようなことになったら?
「お互い様だよ。謝らないでくれ」
 古い仲間が視界から消えるとアンザーツの戦いぶりにも力が戻ってきた。散漫になっていた気がザラタンだけに集中しはじめる。これなら幾らもせずに仕留められるだろう。
「さっき何の魔法をかけられたんだ?」
「後で話す。大したものじゃない」
 会話の余力を残しつつ、ヒルンヒルトは土魔法でザラタンの外殻を成す岩山を次々引き剥がした。大岩を取り去ってしまえば後に残るのはふた回りほど小さくなったヤマアラシで、アンザーツの剣の前に魔物はあっさり倒れ伏した。



 ******



 逃げに徹したトロールを止めるのは至難の技だった。身体のサイズが違うので追いつくだけでひと苦労、クラウディアが風を起こして転ばせてくれなければ延々追いかけっこをする羽目になっていたかもしれない。
 逆に巨人が転倒してからは早かった。エーデルが禿げ上がった頭に飛び蹴りを食らわせ、敵の怯んだ隙にベルクが右腕を断ち切ってやった。地面に転がったウェヌスがほうほうの体で這い出して来ると、ノーティッツが火炎を放ち、最後は炭化するまで燃やし尽くした。
 ぜえぜえと全力疾走を原因とする荒い呼吸が繰り返される。皆一様に双眸に不快感を滲ませていた。
 駆け下りてきた道を振り向けばトロールの皮膚から分泌された体液でギットギトである。何を食べて生きていたらあんな肉体になるのだろう。間違いなく今の魔物は二度と出会いたくない敵ランキングのトップをさらっていった。
「ひいいいいん!!! いやああああああーーー!!!!」
 涙目どころかウェヌスは号泣している。直接全身を掴まれていたせいで白い僧服はべっとり脂で汚れていた。エーデルがハンカチを差し出しながら慰めていたが、彼女も触れるのは躊躇している。
「うげっ……」
 折角ベルクがウングリュクから賜った宝剣にもプルプルした半固形の黄色い液が付着していた。このまま鞘にしまったら臭いがつきそうだ。
「とりあえず、砂で落とせるものは砂で落としましょう」
 クラウディアが白い手にめいっぱい砂を取り、ベルクの剣にかけてくれる。ノーティッツは炎で熱消毒をしてくれた。
「山門の村が見えてからで良かったね……」
「ああ、ウェヌス、井戸か風呂貸してもらえ。そこまではなんとか我慢しろ」
「ふ、ふええええああああああああーーーー!!!!」
 ディアマントたちがいなくなったときより悲しそうに見えるのは何故なのだろう。女神のくせに肉親の情より生理的嫌悪感が勝るとは。いや、この場合はトロール恐るべしと言うべきかもしれない。
「それにしても随分戻らされましたね。ゲシュタルトも来ていたようですし、急いで戻らなくては」
「そうね。思わず追いかけて来ちゃったけど、向こうも心配だわ」
「ああ、上手いこと分断されちゃったな。何事もなきゃいいけど……」
 小走りに駆け出す面々の後を、ウェヌスの手を引いてやりながらベルクも走る。他の連中には聞こえない声で「お前あんま俺の側から離れんなよ」と言っておいた。この先もこんな間抜けな事態が起きたら堪らない。
 絶対に聞こえなかったはずなのにノーティッツがニヤけた顔で振り向いたので、トロールの分泌液で汚れた小石を前方に蹴り飛ばす。ヒイイと情けない悲鳴が荒野に響いた。ざまあみろだ。



 しばらく走ると何か大きなものの倒れる音がした。見覚えのない大小の岩が道のあちこちに飛び散っていて、激しい戦闘が繰り広げられたことを推測させる。
「今の音がとどめかな?」
「だといいけどな」
 ノーティッツに目配せしながらベルクは付近への警戒を強めた。行きに見かけた岩山がなくなっているのに気づいて指摘すると、クラウディアたちも驚きを露わにする。
「まさか岩山そのものが魔物だったのでは?」
「えええ!?」
「いくらなんでもデカすぎだろ!!!」
「あ、でもあたし絵本でそういう魔物見たことあるわ――」
 和気あいあいとお喋りできたのはアンザーツたちが見えてくるまでだった。
 横たわった巨大な魔物の死骸。困ったように佇んでいるアンザーツとヒルンヒルト。その横を飛ぶラウダ。必死に何か話しているバール。座り込んだままのアライン。
 何かあったのは一目瞭然で、ベルクは真っ直ぐアラインの側へ向かった。
「どうしたんだ?」
 転がった剣を放置してアラインは蹲っていた。何も答えてくれないので近くにいたバールを見やる。

「マハトがゲシュタルト側についてもうた」

 神鳥は嘆息混じりに教えてくれた。操られているのでもなんでもなく、アラインとゲシュタルトを秤にかけて、戦士は彼女を選んでしまったのだと。
「はあ!? なんで!?」
「こっちが聞きたいわボケ!!! なんでよりによってあの兄ちゃんに血筋どうのこうの言われなアカンねんホンマ……っ!!」
「あいつそのこと知ってたのか? ってそうか、ゲシュタルトが教えてねーわけねえよな……」
 ベルクは地面に片膝を突くとアラインの顔を覗き込んだ。おい、と呼びかけても反応はない。
「おい! 聞こえてんだろアライン!!」
 マントの上から肩を掴むとようやく彼はこちらを向く。ぞっとするほど色のない目で。
「……ベルク……」
 笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、アラインはそのどちらもできず曖昧に首を振る。
 置いて行ってくれと聞こえた。もう僕はいいからと。

「……何言ってんのお前」

 すうっと胸が冷えていき、同時に怒りがこみ上げる。
 アラインが口にしたのは、それを言っちゃ駄目だろうという言葉だった。
 今は岩に噛りついてでも耐えねばならぬときではないのか。騙されて、裏切られて、そんなものに絶望したら二度と立ち上がれない。わからないはずないだろう。
 ここに来るまで色んなことを乗り越えてきたのではないのか。
 たくさん戦ってきたのではないのか。
「山門の村で少し休んで、これからどうするか考えるよ……」
 アラインはふらつきながら身を起こす。落ちた剣を拾うことさえしなかった。
 彼のパーティで唯一残ったクラウディアを振り返ると、僧侶は小さく首を振った。
「アラインさんの決めることです」
 言わんとすることはわかるが憤りは抑えられない。
 拳を強く握り締め、ベルクはぶんぶん頭を振った。
 自分が喚いてどうこうなる問題ではない。凄まじく気に食わないのは確かだったが。



 山門を守る村に着き、宿が決まると、アラインは正式に離脱を申し出てきた。
 広くもない番台の前で嫌な沈黙が立ち込める。皆どこか気まずそうにじっとアラインを見つめていた。
「本当にいいのかい?」
 アンザーツがそう尋ねてもアラインは「もういいんだ」と首を振るだけだった。
 苛立ちを噛み殺しながらベルクはそれを睨みつける。
「もういいんならその盾よこせよ」
 半ば挑発するように真っ黒な盾を指差せば、逡巡すらせず彼はこくりと頷いた。
「……はい。最初から君が持ってた方が良かったな」
 こんな気持ちで人を殴ったのは後にも先にもこの一度きりだ。わざと盗賊に連れ去られたウェヌスを叱り飛ばしたときでさえ、ここまで腹が煮えてはいなかった。
「簡単に譲ってんじゃねえよ!!!」
 木板の床を軋ませてアラインが床に転がる。
 受け取ったばかりの神鳥の盾をそのすぐ隣に投げ捨てて、ベルクはくるりと背中を向けた。
 そう長く一緒に過ごしたわけではない。それでも彼のような男が勇者で良かったと、そう思っていたのに。
 ――どうして自分ばかり悔しくなっているのだ。
「マハトのことはぼくらに任せてくれ。昔の仲間だ、何とかしてみせる」
「……うん、頼んだね」
 違うだろ、と言いたくて言えなかった。何とかすべきなのはお前だろうと。
 アラインはもうベルクをちらりとも見なかった。
 荒々しい足取りで宿の廊下を突き進む。扉を蹴り、荷物を寝台に放り捨て、なおも消えない怒りに唇を噛んで耐えた。
 入り口でベルクの荒れ様を眺めていたノーティッツが「お前にできることは全部したし、言えることは全部言ったよ」と呟いたが、心が晴れることはなかった。
 俺だって勇者の血なんか引いてねえと言えば、でも君は女神に選ばれたじゃないかと答えるのだろうか。
(本気で旅をやめる気なのかよ……)
 窓の向こうにアラインの後ろ姿が見えて、ベルクはバッと顔を上げる。
「余所の宿を探すんだってさ」
 ノーティッツがそう嘆息し荷解きを始めた。「こんなところで諦めて納得できるのかな」とぼやきながら。














(20120618)