第十五話 長き旅の答えを






 小さな黒トカゲを頭に乗せ、ユーニはごろんと中庭の芝生に寝転がる。今日はお天気で日差しがとても心地良い。
 可憐な花と武骨な造りの兵士の城が奏でるハーモニーは不協和音と呼ぶに相応しいけれど、ユーニがそのちぐはぐさを気に留めることはなかった。ただ毎日懸命に働く庭師の大男をえらいなすごいなと尊敬するだけである。
「お嬢ちゃん、まだ魔王城へは帰れねえのかい?」
「うーん……。あのね、もう「かり」はおわったって聞いたんだけど、ボクまだエーデルたちが心配で……」
「おおっ! 優しいねえ、優しいねえお嬢ちゃんは……! 流石ベルクの兄貴たちが信頼してるだけのこたァあるぜ!!」
 魔物のような声で吠え、元盗賊だというヴルムが感涙する。彼はベルクを兄貴と呼ぶが、別に血は繋がっていないそうだ。大きな弟だなあと思っていたのにユーニの勘違いだったらしい。
「ボクたちにも何かできることあればいいんだけどね。イデアールさまはボクにいてくれるだけでいいって言ってくれてたけど、ボクだって好きなひとのためになにかしたいもの……」
 ユーニの肩で黒トカゲがぴょんと跳ねた。背中に埋まった魔鏡の欠片が陽光を反射しキラキラ光る。まるで慰めてくれるように。
「戦争が悪いのさ。お嬢ちゃんたちがここへ逃げてくる羽目になったのも、ノーティッツの兄貴が大変な目に遭ったのも、ぜーんぶ戦争のせいだ!」
 戦いになっちまうだけの理由はあったと思うけどよとヴルムは空を見上げた。大男が腰に巻いたピンク色のストールが冷たい風にはためく。
「殺しは駄目だぜ。どうやってもその前の自分には戻れなくなる」
「……うん……」
 ユーニはこくりと頷いて黒トカゲを抱き締めた。
 お前は今のままがいい。かつてそう言ってくれた男の両手は血の臭いが染みついていた。そうしてついに戦いから戻ってくることはなかったのだ。
 もしエーデルたちが同じ道を行ってしまったら悲しい。
 争いや戦いが大切な人たちを連れ去ってしまうなら、なんとかして止めたい。今度こそ。






 辺境の国は兵士の国にビブリオテークとの同盟を維持する意向を示した。身の破滅を招いてもアペティートと刺し違えるつもりでいるアヒムを放ってはおけないというのが主な理由だ。国益など二の次、三の次にしてもウングリュクは戦争被害の縮小に努めようとしている。元は自衛のためにやむなく結んだ同盟だが、今は緊急時の軍事介入を可能にする唯一のカードとなりそうである。
『甘いのかね私は。うちも決してビブリオテークとは良好な関係ではないが、それでも見捨てられんのだよ』
「ワシはウンちゃんのそういうところ、嫌いじゃないぞ」
 トローンは鏡の向こうの友人に笑いかけた。魔物に蹂躙され、滅茶苦茶になった国土はまだ半分も元通りにはなっていない。外貨を獲得したければ、それこそ魔物に値札を付けてビブリオテークに売れば良かったのだ。だがこの王はそういう商売に手を出さなかった。だから無条件に信じられるし、力を貸そうという気にもなる。
『今まで通りドリト島を民族混合地として解放してくれるなら、宮廷魔導師たちの派遣を約束するとも言ってみたのだがね』
 嘆息はそのままアヒムの素っ気ない態度を表しているようだ。辺境の手助けがなければ空からの強襲を防ぐ手立てなどなかろうに。
『一応すぐに兵を出せるよう準備だけは整えさせているが……あの首長が易々と自国への立ち入りを許可してくれるとは思えんな』
「意地っ張りな国だのー。ワシらの方が破滅の魔法でよっぽど切羽詰まっとるっちゅうのに」
 げんなりするトローンにウングリュクは心配そうな眼差しを送ってくる。「ノーティッツ君もあまり良くないんだろう?」と潜められた友人の声になんと返したものか迷う。帰還早々客室を吹き飛ばされて、まぁ確かに無事とは言えない状態なのだろうが。
「……大丈夫だよ。ウチの男は強いから、すぐ元気になってくれるさ」
 また動きがあれば連絡すると伝えると、鏡による通信は終わった。
 この二ヶ月というもの考えることが多すぎてろくに睡眠も取れていない。さっさと問題を片付けて丸三日は爆睡したいところだ。
「何とかせんとな、本当に」






 ******






 真っ黒な眠りに落ちていく。
 墜落が怖くてもがいている。
 このままどこまでも沈み込んでいきそうで。
 差し伸べられた手も掴めなさそうで。

「――……ッ!!!」

 ガバリと跳ね起き顔を上げると目の前にうろたえる大臣の顔があった。どうやらまた会議の途中で気を失いかけていたらしい。
「だ、だ、大丈夫かね? フライシュ参謀長」
「あ……、え、ええ……」
 なんとか頷きノーティッツは椅子に座り直した。
 今はアペティートとビブリオテークにどう休戦協定を結ばせるか、非常に重要な話し合いが行われている。だと言うのになんて体たらくだろう。
「やはりあの飛行艇はアライン殿に完膚なきまでに破壊してもらうのがいいのではないか?」
「だから昨日も言ったであろう! あの勇者にも移動限界があってだな、飛行艇が帝都以外に持ち出されていたら手が出せんのだ」
「いや、少し違うぞ。正確には帝都以外の場所には行ったことがないから移動できないのであって、まったく手が出ないわけでは」
「いずれにせよこちらから出向いていって破壊工作というのは少々やりすぎでないかのぉ。今回のことに懲りて、アペティートが戦争を取り止める可能性はゼロじゃないわけじゃろ? 侵略行為だのなんだのイチャモンつけられることになりかねんぞえ」
「ああそうだな、それに勇者の国はビブリオテークと同盟を組んでいないしな」
「ううむ……やはりアペティートがビブリオテークやこちらの大陸を襲ってきた場合どうするかに論点が絞られるか」
 広範囲を見張ることはできないが、望遠鏡の類はすべて外界の監視に回されている。自国の防衛のためと言うよりはアペティートのビブリオテーク侵攻をいち早く察知するためだ。帝国が再び三日月大陸に乗り込んでくる可能性は低いだろうと臣下の意見は一致していた。ノーティッツもそう思う。手負いの軍が狙うのは最も弱く実入りの多い敵に違いないし、あの国の王も軍人も、弱者を甚振ることに余念のない連中ばかりだから。
「ウングリュク陛下はあちらの近海ギリギリまで船を進めて待機すると言ってくれているがなあ」
 大陸の守りを兵士の国が固めてくれればビブリオテークの助太刀には自分たちが行くということらしい。救援部隊ならヒーナにでも要請しておけば十分だろうに律儀な王だ。
「どう思う? ノーティッツ」
 トローンに呼びかけられても頭はすぐに動かなかった。
 だって何をごちゃごちゃ小難しく考える必要があるのだ?
 アペティート軍が不穏な行動を始めたら、同盟にかこつけて殲滅しに行けばいいだけの話だろう?
(まただ……。何考えてんだよぼく……)
 影のように纏わりつく思考を振り払う。
 馬鹿な真似を止めさせるために動いてきたはずなのに、どうして。
 ――許せない。どうしても。



 起きて、無理矢理胃に食べ物を突っ込んで、寝るときも無理矢理で。
 毎日ってこんな味気ないものだったかな。
 覚束ない足取りで会議室を後にするとノーティッツはふらついたまま廊下を歩く。
 悪い酒に酩酊しているようだった。兵士の城は何も変わっていないのに、見える景色が全然違うのは何故だろう。
 ビブリオテークへの援助をどうするか、早く結論を出さねばならない。
 宮廷魔導師を派遣するのか、一般兵を派遣するのか、ベルクたちに出てもらうのか。数は、編成は、期間は、物資の調達ルートは。仮にアペティートの攻撃阻止に成功した場合は? 捕虜はビブリオテークに引き渡すのか、制裁は与えるのか、賠償金は請求するのか。細かいことを挙げ連ねればいくらでもある。
(円満に終わろうなんて無理だ……)
 どこかに必ず禍根は残る。戦犯を生かし見逃すようなことをすれば、逆にこちらがビブリオテークの反感を買いかねない。仲裁などという甘い考えは捨てて、同盟国としてアペティートを徹底的に叩く方が却っていいのではないか?
(ニコラ……)
 あの子ならどう言っただろう。ドリト島で生まれ育ち、皮膚の色に関係なく人懐こかったあの子なら。
 毒に蝕まれ、息も絶え絶えだった姿しか思い出せない。いつもにこにこ笑っている子だったのに。

「ノーティッツ」

 不意に背中から声をかけられ、ノーティッツは立ち止まった。視線は床に落としたままでゆっくりと振り返る。
「……何? ベルク」
「ニコラの親父さんたちがドリト島に戻るっつってんだけど……会うか?」
 どきんと心臓が跳ねた。
 飛行艇でふたりが救出されたことは知っている。でもまだ一度も顔を合わせてはいない。
 きっと消沈しているだろう。外の人間と懇意にしていたせいで、罪もない娘を殺されて。
「俺がドリト島でニコルと会ったって話したら、どうしても今すぐ迎えに行ってやりたいって。アラインも島までなら送ろうかって言ってくれてんだ」
 ベルクの言いたいことはわかる。もしそのままニコラの両親がビブリオテークに帰ったら、こちらにはもう足取りが掴めなくなる。そうなる前に話をしておいた方がいいのではないかと提案してくれているのだ。――でも。
「どんな顔して会えって言うんだよ? ぼくのせいで娘さんを死なせてしまってすみませんって頭下げてくればいいのか?」
 わななく肩を自分の腕で抑えつけ、声を絞った。また思ってもいないことが口を衝いて出てくる。
 誰かに罵倒してほしいと思っているくせに、実際糾弾されるのは怖くて堪らないのだ。
 なんて卑怯なんだろう。
「そうじゃねえよ。あの人たちもお前のこと責めてねえ。こんな戦争なければ良かったって、俺が聞いたのはそれだけだ」
「だったら余計会えるわけないだろ……!?」
 抱えていた資料の束が散らばる。廊下には平静を欠いた己の声だけが響き渡った。
 彼女の両親と傷を舐め合うなんて御免だ。できるわけがない。悲しいね、不運だったね、そんな言葉で済ませていい問題じゃないはずだ。
「ニコラやったのはお前じゃなくてブルフだよ!! そんなに自分ばっか何もできなかったって思い込んでんじゃねえよ!!!!」
「……っ」
 ガクンと急に膝の力が抜け、冷たい床にへたり込んだ。耳の奥でこだまする男の哄笑を散らすようにして首を振る。
 ――ブルフ。あの男の名前を聞いただけでまだ自分のどこかが支配されたままなのを痛感する。
 壁を掴もうとした指は震えて表面を滑った。呼吸は乱れ、吐き出す息に嗚咽が混じる。
 多分誰の目から見ても、今の自分は正常とは言い難いのだろう。
 堪えていた言葉をついに抑え切れなくなってベルクがぽつり呟いた。
「何されたんだよお前……」
 その問いにこびりついていた恐怖が爆発する。
 いやだ、思い出したくないと全身が記憶を拒絶した。
「そんなのいちいち全部覚えてるわけないだろッ!?」
 思考がひとつに定まらなくて、混乱を自覚するほどに症状は悪化していく。
 ちらつく薄紫の軍服と床に転がったニコラの姿が眼前に繰り返し繰り返し再生された。気が変になりそうだった。
 ノーティッツがその場から逃げ出してもベルクは追ってこなかった。
 追いかけて、捕まえて、それからどうすればいいかわからなかったからだろう。
 どんな言葉をかけてほしいかなんて自分でもわからない。






「これからお帰りですの? 途中までご一緒なさいません?」
 意を決して話しかけた相手は疲れた顔で振り返ると「別にいいよ」と呟いた。
 前はなんでもなかった沈黙が酷く重苦しい。簡単な挨拶以外何の話題も上らせないノーティッツの横につき、ウェヌスは王城の門をくぐった。極力いつも通りを心がけて。
 失言した、と夫が泣きごとを漏らしたのはつい先刻のことだ。あいつが話すまで何も聞かねえって決めてたのにと。
 表情はずっと暗いままだがノーティッツに声を荒立てる雰囲気はない。ただとても憔悴して見えた。こんな状態の彼に通常勤務を課すなんて、と女官の中には憤る者もいる。でも何かしていた方がノーティッツも気が紛れるのだろう。ベルクと話すと一気にその均衡が崩れてしまうようだけれど。
「そう言えば、お腹どうなの?」
「えっ?」
「赤ちゃんだよ。順調なの?って」
「あ、ええ。……すくすく成長しているそうですわ。生まれるのは半年以上先だそうですが」
「へぇ、男の子かな。女の子かな」
「私はどちらでも嬉しいです。でも女の子だと、ベルクに似たとき少し困りそうですわね」
「はは、そうかも」
 空元気の笑い声に、ノーティッツが努めて平静に振る舞おうとしているのがわかる。彼だってなんとか立ち直りたいのだ。それを支えてあげられている実感に乏しいのが悔しかった。ノーティッツはひとりで戦っていて、ベルクにまで背を向けてしまっている。
 夫の名前を出した途端、ノーティッツは前を向き黙り込んでしまった。先程までの穏やかな空気は消え失せ、透明な壁が彼との間に立ち塞がる。
(何の労わりも思い浮かばないなんて……)
 敵の手中に落ちていたとき、魔法でベルクを殺しかけたと、そう聞いた。
 現実にならなくて良かったと安堵する反面、恐ろしい経験をさせられたのだと涙が滲んでくる。
 いつだって彼はベルクを第一に動いてきたのに、その根底を覆されて平気なはずがない。
 自分がベルクを裏切るわけがないと――、そういう己自身への信頼を、無残に打ち砕かれたのだ。
 満身創痍の心を癒す魔法など知らない。
 せめて少しでも寄り添えるように、闇属性が備わっていれば良かったのに。
「もし……、もしも魔法で記憶を消せるとしたら、消したいと思いますか? ノーティッツ……」
 己のこれも失言の類だったかもしれない。ノーティッツは冷めた目を向け立ち止まった。
 平和な城下は子供たちのはしゃぐ声で溢れている。坂道を行き来する人々は皆それぞれの日常を送っていた。いつもの時間から弾かれて迷子になっているのは自分たちだけだ。
「ウェヌスは忘れた方がいいと思うの?」
 意地悪く薄笑みを浮かべた彼がハッと顔を逸らす。
 刺々しい態度で接されても仕方のないことだと思えた。彼が苦しんでいる間、自分はひとり温かい部屋で過ごしていたのだから。
「……そうは思いません。でもつらそうなあなたを見ていると、どうすればいいかわからなくなってきます」
 苦痛を取り除いてやりたいだけだ。たったそれだけのことが叶わない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、ほんの一歩がどこまでも遠くて。
「……ぼくは……」
 何か言いかけてノーティッツは口を噤んだ。長い静寂を破ったのは「ウェヌス様!」とこちらに手を振る若者たちだった。
(あ……っ!!)
 振り向かないようノーティッツの袖を引いたがもう遅い。アペティートから逃げてきた元兵士たちが四人ほど集まってきて、街での仕事を終えたことを律儀に報告してきた。
「明日からしばらく工業区で機械の調子、を……」
 話の途中で彼らもこちらの連れ合いが誰か気づいたらしい。しまったと額を青ざめさせ、今更逃げ出すこともできずに立ち尽くした。
「あ、その……、オレたち……」
「アペティート兵だろ? 知ってるよ」
 温度のない声が空気を冷やす。ウェヌスは恐る恐るノーティッツの横顔を覗き込んだ。
 丸い瞳は焦点が合っていない。首筋は薄ら汗ばんでいて、震える手が不自然に心臓を掴んでいる。
 兵士の城で最初に目を覚ましたとき、魔力を御し切れず暴走した彼を思い出した。制御不能状態に陥ったのは一度だけだし、まさかこんな街中でとは思うが。
「ノーティッツ、大丈夫ですか? ノーティッツ……!」
 火属性の魔法が発動したら終わりだ。城内のことなら誤魔化しも効くが、城の外で、もし市民に害が及べば相応の処分は免れない。そんな事態は絶対に避けなければ。
「……大丈夫、大丈夫だよウェヌス」
 眠りの呪文を唱えようとしてウェヌスは声を飲んだ。何かの焼け焦げる匂いが漂ってくる。でもアペティートの若者たちも、街の人たちも、変わらずそこに立っている。
 内側に、外に出さぬように、彼が必死で抑え込んでいるのだ。憤怒の炎を。
「ノーティッツ!!」
 路傍に崩れ落ちた彼を抱き締め光魔法で包み込む。しばらくは苦しげな呻き声が聞こえていたが、やがてそれは規則的な呼吸に変わった。ノーティッツの手足がだらんと垂れ下がったのを見て兵士のひとりが「運びましょうか?」とおずおず申し出てくる。
 触れさせていいものか正直迷った。自分は嘘をつくのが下手だから、後でノーティッツに何か尋ねられたとき彼に不快な思いをさせないか心配だった。
「いいよ、アタシが連れて帰るから平気さね」
 聞き覚えのある声がしたのはそのときだった。
「あ! イ、イヴォンヌさん……!」
「ウチの子ぶっ倒れたのかい? 面倒かけちゃってすまないね」
 現れたのは勇者の国の妃と同じ名を持つ食堂の女亭主だった。野菜の入った袋を左手に持ち替えると、右肩に軽々息子を担ぎ上げてしまう。相変わらずパワフルな女性だ。
「あの……申し訳ございません……。私たちの力が及ばず、こ、こんな……っ」
 泣いたってどうにもならないとわかっているのに溢れてくる涙を止められない。
 本当に、この二ヶ月何をやっていたのだろう。祈りながら帰りを待ち続ける以外、何かできることはなかったのか。お腹に子供がいるからなんて言い訳もいいところだ。無理をしてでも付いて行けば良かった。そうしたら三人ばらばらにならずに済んだかもしれない。
「ひっ、ひっく……うう、すみません……っ」
「ありがとうね、心配してくれて」
 イヴォンヌは片眉を下げて笑い、ウェヌスに礼を述べた。そんな言葉をかけてもらう資格など自分にはない。ぶんぶん首を横に振ると彼女はまた口角を上げる。
「この子がこれじゃ片割れも気が気じゃないだろ。あんたさっさとお城に戻ってやんなよ。そんなビービー泣いてたら、赤ん坊だってびっくりしちまう」
 たったひとりの我が子がこんな状態で、気が気じゃないのは寧ろ彼女の方だろうに。懐が深いのか、肝が据わっているのか、ベルクが唯一「あの人には頭が上がらん」と言うだけある。
「世の中に出てくるまでは、子供守れるのは母親だけだよ。あんたはあんたの責任をちゃんと果たしてる。それでいいんだ」
 じゃあねとイヴォンヌは手を振った。彼女の肩に掴まるノーティッツは怪我をした小さな子供みたいだった。
 胸が痛い。
 何があってもベルクとノーティッツだけは変わらないと信じていたのに。――信じていたいのに。
 王城の私室に帰り着くと、夫は沈んだ様子で「どうだった?」と尋ねてきた。首を振るしかできなくて、また勝手に涙が頬を伝う。
 アペティートのすべてが悪だとは思っていない。けれどもうノーティッツを彼らに関わらせたくなかった。
 こんな悲しみは初めてだ。
 生まれ育った場所で人間の価値など決まらない。誰とだって友人になれる。それは天界から降りてきた自分が一番よく知っているはずなのに。
 今は少し、ビブリオテークの止まれなくなった理由がわかる。






 ******






 破滅の魔法が甦るまで一ヶ月。そのタイムリミットはまだ自分とアラインしか知らない。
 君にしかできないことがあるはずだ、と彼は言った。
 始まってしまった戦争にどう決着をつけるつもりなのかも改めて問われた。
 ヴィーダは左手の五芒星を空に透かし、行方の知れぬ恋人に語りかけるようじっと見つめる。
 彼女を守ろうといつも必死だった。でも自分が変わろうとしたことはあっただろうか。
 ドリト島へ逃れてからも、やはり自分はアペティートの第三皇子で、あの男の息子のままだったのではないか。大賢者の力を得てもなお父や国と向き合うことから逃げ続けた。それが破滅を恐れる彼女と向き合うことでもあったのに。
(……流れ星に願いをかけると願い事が叶うんだったっけ?)
 空を落ちるのが彼女と自分の星であるように祈る。
 何を成すかはもう決めた。
 変わるのだ。クライスが破滅以外の未来を信じられるように。
 変えてみせる。共倒れしようとしている国ごと、きっと。
 コツコツと足音を響かせアラインや兵士の国の王たちが広い会議室に入っていく。
 食事の場所や移動していい区画こそ限られていたが、今日までヴィーダは敵軍の人間ではなく一個人として扱われてきた。祖国では考えられないことだ。こちらはまだアペティートの内部情報すら明かしていないのに。
 この大陸に魔物や魔法が存在しなくても、いつかアペティートは都を追い出されていただろう。寛大で強い結束の前に。


「フロームとエアヴァルテンに反アペティートを掲げる勢力があるんだ。彼らと協力してアペティートの帝王制に終止符を打つ。……そうしたらもう戦争する理由なんか無くなるだろう?」


 ヴィーダの提案は父との完全な決別、そして新しい道を切り拓こうという決意を示していた。
 自分の目的が何なのか、誰と共にどう戦うのか、今一度はっきりと言葉にして告げる。
「父に……ヴィルヘルムに、これ以上帝王の権威を振り翳すのも、他国を苦しめるのもやめるよう説得を試みるつもりだ。応じてくれなければ反対勢力を引き入れて帝都を占拠する手筈を整える。もし戦闘になった場合は誰も傷つけないようにぼくがひとりで戦うよ。ヴィルヘルムが帝位を放棄したら、後のことはフロームとエアヴァルテンに任せて身を引くつもりだ」
 それじゃ駄目かと問いかけると、奇妙な静寂が室内を満たした。ヴィーダの真意を見極めようとする眼差しが雨のごとく降り注ぐ。 視線を逸らさず立っているしかできなかった。簡単に信じてもらえるとは思っていない。だがここは退くわけにいかないのだ。
「ええと……帝王制を終わらせるってどういうこと? 誰か別の人を王様にして、その人に戦争を止めてもらうの?」
 政治については無学なエーデルがきょとんと目を丸くしている。すぐにクラウディアが「いいえ」と横から否定した。
「この人の命令は絶対だという制度をなくすということですよ。民衆に選ばれた役人たちが話し合って国の指針を決定するとか、戦争の継続を国民投票で決定するとか、帝王制が崩壊すればそんな流れになるでしょうね」
 その通りだとヴィーダは頷く。思えばアペティートは帝王に対する抑止力を持たなさすぎた。少なくとも議会と軍はヴィルヘルムの暴虐を止めようとしたこともなかったのだ。
「今まではフロームもエアヴァルテンも困窮しすぎてて、あまり大きな暴動は起こせなかったんだ。二国はどちらもぼくの兄が治めてる。ヴィルヘルムのやり方にまだ付いて行く気でいるのかどうか、ふたりにも確かめたい」
「成程。属国が同時に反旗を翻せばそれも足止めになるでしょうね。悪くないのでは?」
 イヴォンヌは肯定的な態度で返事をくれた。だがまだ賛同とまでは行かず、周囲の反応も芳しくない。
 自分が休戦派となったことは彼らにわかってもらえただろうか。自分たちの国で始まった問題だから、なるべく自分たちで解決しようとしていることも。
 たくさんの人が傷ついて、血を流すことになる方法では駄目だ。破滅の魔法以外にも世界を滅ぼす可能性を有するものはいくらでもある。戦争はその最たるだった。なるべく戦わずに始末をつけたい。何より自分がもう、クライスさえ助けられるなら他はどうでもいいなどと言えなくなっていた。
「……うん。僕もそれがいいと思う。もちろん全部すっきり解決するかはわからないけど、アペティートの体制が変われば今の状況からは好転するはずだ」
 協力するよとアラインが立ち上がる。笑顔がなんだか眩しくて、ヴィーダは薄ら目を細めた。
 考えてみろと促してくれた人間が今まで何人いただろう。本当に望むものは何なのだと。
 君を信じると言われたわけでもなんでもない。でも確かに彼が手を差し伸べてくれた。
「ありがとうアライン。ぼくにチャンスをくれて……」
 いつからか自分は、クライスを救うこととすべてを敵に回すことを同じに考えるようになっていたのかもしれない。どこかで覚悟を履き違えていたのかも。
 もう間違えたりしない。
 滅びの種を全部取り除いて、彼女が笑える世界を作るのだ。
 そしてふたりで考える。運命を変える方法も。






 内部から戦争を取り止めさせようなんて思いつきはベルクの中にはなかった。多分それは自国の政治体制が安定している裏返しなのだろう。必ずしも帝王が存在する必要はないのだと、皇子であるヴィーダが言ったのはもっと意外だったが。
 ――そうか、じゃあアペティートとやり合うことは二度とないのかもしれないな。
 思った瞬間ベルクの胸で何かがざわついた。
 馬鹿言えよ。まだ決着はついてねえよと頬傷の男の顔が浮かび上がる。
 怒りは少しも収まっていない。まだ腹の底で煮えたぎったまま、殴り飛ばしてやりたくてうずうずしている。
 傷つけられたのが自分なら何でもないと笑えたのだろうか。一番穏便な方法で収拾をつけようぜと。

「ぼくは反対だけど」

 アラインがヴィーダと握手をかわそうとしたのを牽制するようにノーティッツの声が響いた。
 いつもの幼馴染の声ではない。ただ冷たく、排斥の意志だけが滲んでいる。
「どうして簡単にハイって言えるわけ? 先陣切って王都を攻めさせた相手なんかよく信用できるね」
 そもそもヴィーダがこんな会議に混じっている意味がわからないとノーティッツは続けた。何故いつまでも何の枷も嵌めずにいるのかと。
「しかも言うに事欠いてクーデターか。現帝王を玉座から引き摺り下ろしてビブリオテークにごめんなさいって言うわけだ。こっちで八つ裂きにするから引き渡せって言われたらどうするの? どうぞお好きにしてくださいって突き出すの? 戦争の全責任を父親ひとりに被ってもらおうってことだよね。それってちょっと都合が良すぎるんじゃない?」
「……まだ先のことはわからない。ヴィルヘルムだけに罪があるとも思っていないよ。ぼくにだって相応の罰が与えられて然るべきだ。ただこれが、今のぼくに尽くせる最善なんだとはわかってほしい」
「わからないから反対してるんだけどね。大体、クーデターの真っ最中にあんたがクライスに殺される可能性だってあるわけだろ? そんなことになったら大惨事だ。息巻いてやってきた反対勢力が魔法の加護を失って、軍に対抗できなくなって、折角占拠した帝都で全員捕縛だなんて笑えないよ?」
「……っ」
 ヴィーダが震える唇を一文字に引き結ぶ。蒼い双眸はそれでもこの道を選んで進むのだと燃えていた。
 本気なのだ。
 わかっていた。もう頭で考えるべきではないということは。
 だが心はふたつに引き裂かれている。同じだけの苦痛を返してやれと叫ぶ自分と、早く穏やかさを取り戻したいと願う自分に。
「参謀長が反対ならば仕方がないの。すまんが兵士の国はその案却下じゃ」
 トローンが話し合っても無駄とばかりに手を振った。ヴィーダは「そんな……」と食らいついたが父王は聞く耳も持たず座り直す。
「理屈や大義も大事じゃ。だがあらぬ方向に心を曲げてまで通すのが道理かね? ワシはおぬしなんかよりずーっとノーティッツを信頼しとるし、ノーティッツが嫌だと言うならおぬしの手を取るわけにいかん。そういうもんじゃろ? なぁウンちゃん」
 通信鏡の向こうでウングリュクが苦笑した。「まぁ確かにな」と同意の声が返ってきて、ヴィーダが言葉に詰まる。三国のうち二国の王に首を振られては三日月大陸を出て活動するのが難しくなってくるだろう。

「でも――でも陛下は、魔物たちをお許しになられましたよね」

 そうアラインが呟いた。
 真っ直ぐに背筋を伸ばして。毅然として。

「……同じことなんです。怒ってないわけじゃない。恨んでないわけじゃない。ただ未来に持ち越したくないんです」

 くるりとその場で踵を返し、アラインは次にベルクの方へ向き直った。
 迷って悩んで沈み込んで浮かび上がって、やっと勇者になった男の瞳に濁りはない。
 思い出すのはふたりで冥界を彷徨った日のことだ。あの日初めて本物の魔王に会った。頼みごともされた。長らく敵同士だった人間と魔物が共存できる道を模索してほしいと。

「三年前、僕たち何も知らなかったよね。敵には戦って勝てばいいって思い込んでた。だけどファルシュはそんな僕らに魔物の未来を丸ごと預けてくれたんだ。――今があの旅の答えを出すときだと思う。敵味方関係なく、僕はひとりでも多く生きてほしい。だからヴィーダに協力する。それが一番いい方向に進めるって思うから」

 ツエントルムを恨んでいますかと魔王に聞いたオーバストは、一体どんな気持ちでいたのだろう。ごくあっさり許していると答えたファルシュの心境は。
 もういいよなんて俺には言えない。とても言えないけれど。
「わかった。ウチもお前に賛成だ」
「は!? 何を言ってるんじゃ馬鹿息子、ひとりで勝手に決めるんじゃ……」
「るっせえなクソ親父!! こいつがうんって言やいいんだろ!?」
 ベルクは幼馴染の腕を掴んで立ち上がった。ノーティッツは目を瞠ったが構わずそのまま出口まで引き摺る。
「休憩だ休憩! 会議は一時間後に再開!!」
「ちょっ……!? おい、ベルク!!!!」
 勢い良く扉を閉め、傍らで喚く声に耳を塞ぎ、駆け足で城を抜け坂を下る。
 矛盾も葛藤もなくなったわけじゃない。
 だがアラインの示したよう、今が未来を創る選択のときなのだ。






 ******






 強引にどこへ連れ去られるのかと思ったら、ベルクは見慣れた看板を潜ってカウンターの席についた。顔面に押しつけられたメニュー表で鼻が曲がる。「やめろよ!」と怒鳴っても謝罪の言葉はなかった。さっさと座れと顎で促され、渋々ノーティッツは隣に腰を落ち着けた。
「イヴォンヌさん、いつものやつ」
「はいよ。お連れさんも同じでいいかい?」
「だって、いいよな?」
「……何でもいいよ別に……」
 まだ平常心では側にいられない。ベルクの姿を見ていると色んな記憶がごちゃ混ぜになって頭がおかしくなってくる。いっそ全身に回った見えないこの毒を吐き散らしてしまった方が楽になれるのだろうか。普段の自分も演じられないぐらいなら。
 また暴走してしまいそうだった。ベルクが「わかった」と返事したとき。
 なんでだよって。お前までアペティートの連中を信じるのかって。
 理性ではわかっているのだ。ヴィーダの案を受け入れてアペティートの体制そのものを変える方が建設的だということは。
 でも感情がまるで追いつかない。絶対に許しちゃ駄目だってニコラの声がする。
「鶏肉と野菜炒め、おふたつね。ライスはサービスだよ」
 乱雑に置かれた皿からは肉特有の臭いがした。思わず口元を抑えている間にベルクは食事を始める。ふたくちほど口に運んだところで幼馴染は静かにフォークを置いた。
「俺は戦争は嫌いだ」
 自分がその現場に立って、お前がこんな風に巻き込まれて、ますますそう思うようになったと――声はどこか遠く響く。
 見なくたってどんな顔をしているかくらいわかるのだ。
 苦しいときも、楽しいときも、ずっと隣で過ごしてきたから。
 何か心に決めたんだなってわかってしまう。
「ヴィーダのことは正直まだ許してねえし、信じてもねえ。アペティートの連中ともういっぺん会ったとき、冷静でいられる自信もねえ。……お前にあいつらを許せだの信用しろだの言わねえよ。すぐ助けに行けなかった俺のこともだ」
 ベルクは強い。
 ぼくがいなくてもきっと強い。
 迷ってもちゃんと元の道に帰ってくるし、そんなときは前よりずっと大きくなっている。
 ぼくはいつからそれに気づいていたんだっけ。

「アラインは真っ直ぐ胸張ってただろ。俺はそれに応えたい」

 鼻の奥が痛かった。
 動いたら、息をしたら、堪えているもの全部溢れ出しそうで必死に歯を食いしばる。
 置いてかないでくれよ、ぼくを。
 連れてってくれよ。お前とならどこにだって行くから。
「……ん、ごっそさん!」
 ガチャガチャと昼食をかきこむ行儀の悪い音が途切れると、ベルクは両の掌を合わせた。こちらはまだ料理に手もつけられていない。
「先に戻ってるぜ」
 結局一度も目を合わすことなく幼馴染は王城へと引き返していく。
 後にはひとり、項垂れたノーティッツだけが残された。
 なんでだよ。ヴィーダの件でぼくを説得したいんじゃなかったのか。
「食べないなら片付けちまうよ? あらやだ全然食べてないじゃない」
 客足の引いた食堂で母の声だけが明朗に響く。皮肉を込めて「何も聞かないんだね」と呟けば彼女はぴたり足を止めた。
「――当り前さ! あんたの心がボキボキに折れて、ママに泣きつかなきゃ生きてけないって言うんなら、いくらだって甘やかしてやろうじゃないか。けどあんたは踏ん張ろうとしてんだろう? だったらアタシも可哀想になんて口が裂けても言わないね!!」
 野菜炒めの隣にドスンと大盛りのスープが追加される。果汁を絞った特製ジュースと山羊乳のプリンまで。

「あんたあの子の隣に立てなくなってもいいのかい?」

 靄も霧も吹き飛ばすような問いかけに視界がゆらゆら歪んで揺れた。ポチャポチャと滴を跳ねさせたスープはみっともない泣き顔を映し出している。
 母はやはり母だった。息子のことなどお見通しだった。
 そう、己の根底にあるものは、とてつもなくシンプルなのだ。
「……やだ……」
「だったらお食べ! 食べなきゃ始まらないよ!」
 鼻を啜りつつ食事させられるなんて何年ぶりだろう。
 時間はかかったが久々に完食し、急いで家を飛び出していった。許したり信じたりしなくていいと告げた横顔を思い出しながら。
 あいつがもうひとりの勇者に応えると言うのなら、自分が応えてみせる相手はひとりしかいない。
(ごめんねニコラ……)
 こういう風にしか生きられないんだよ。
 でもせめて、いつまでも君の死を悼むから。






 三十分遅れで会議室に戻ってきたノーティッツはテーブルに世界地図が広がっているのを見るや否や、堰を切ったよう喋り倒した。
「フロームとエアヴァルテンの反対勢力って言ってたよね? いくら大賢者の力があるって言っても相手は大量に武器を所持してるわけだから、アペティート軍がビブリオテークに攻め出た隙を突いて帝都に押し入っちゃうのが一番安全だと思うんだ。どうせ戦闘慣れしてない一般人が中心なんだろ? で、ぼくらはアペティート軍がビブリオテークに到達する前に身ぐるみ剥いじゃえばいい。これは別にビブリオテークを守るためでもなんでもなく、帝王制脱却を目指す反政府組織に手を貸すだけのことだからビブリオテークが余計なことしやがってって噛みついてきてもスルーできるよね。あ、それと飛行艇はこの時期東から西に吹いてる貿易風に乗っかると二日かからずビブリオテークのこの辺りまで進めちゃうんだ。資源の供給地がなくなってあいつら焦ってるだろうから、狙うとしたら都じゃなくて軍事工場を併設してる北側の基地だろうね。とすると侵攻ルートで怪しいのがこの基地からこうくる場合と、こっちの基地からこう来る場合で、ポイントとしてはこの辺りとこの辺りとこの辺りとこの辺りに監視用の魔法陣でも設置できたらいい感じだなと思うんだけど」
「えっ、えっ」
「あとやっぱり最後にもう一度ビブリオテークの首長じゃなくて軍内の穏健派と隠密にコンタクト取るべきだよね。飛行艇がうっかりビブリオテーク入りしちゃった場合、爆撃を避ける方法なんかないわけだし、避難できそうな地下施設のピックアップとかダミー人形の製作とか提案できることは提案しておいてあげないと。それにぼくらも飛行手段を確保しておかなくちゃ、海の上で魔力が尽きたら大変だよ。ラウダに全員乗れるかどうかわからないし、飛行艇を囲んで威圧できるくらいの数は欲しいよね。どう思う? ベルク、アライン」
「早すぎて何言ってんのかわかんねえよ!!!!」
「もう一回! ノーティッツ、もう一回最初からゆっくり説明してくれないかな!!」
「えっ? ごめん、早かった?」
 驚いた顔で詫びるノーティッツに「おいおい」とベルクがつっこむのを皆ホッとした面持ちで取り囲んだ。ここ数日硬直気味だった兵士の国の重臣たちも次々に胸を撫で下ろす。勿論アラインも穏やかな気持ちで彼らを見守っていた。
「……手を、貸して、くれるのかい?」
 ヴィーダの震える声にノーティッツは素っ気なく返答する。「言われなきゃわかんねーのかよ」という罵倒スレスレの返事だったがそれでも彼は嬉しそうだった。
「ぼ、ぼく、それじゃあの!! アペティートに戻って父と話を」
「ヴィルヘルムって宮廷を出てゼファーごと姿隠してるんじゃなかったっけ? 重大作戦の決行前だからって」
「あっ……そう言えば……」
「無闇に探し回ってこっちの動き嗅ぎつけられるのも面倒だし、とりあえず出てくるまでは放っておけば? 先にフロームとエアヴァルテンに行ってきなよ」
「う、うん! うん!」
 ありがとうと子供のような笑顔を見せてヴィーダは転移魔法を唱えた。今頃遠い異国の城では突然現れた弟皇子に何人か泡を吹いているかもしれない。
「けど足の問題は悩ましいな。こっちの船を待機させられるとしたらドリト島の北の海域か辺境の西の海域くらいだろ? 海で飛行艇を捕捉できなきゃかなりの遅れを取っちゃうぞ」
「その心配はないわ!!」
 威勢の良い声で扉を開けたエーデルは頭に黒トカゲを乗せていた。どうも今さっき出て行って、バタバタと戻ってきたところらしい。
「駄目もとでユーニたちに頼んでみたの。翼の生えた魔物であたしたちを手伝ってくれそうな子はいないかって。それが、何匹か心当たりがあるんですって。ここ二、三年で新しく生まれてきた子たちは人間への敵対心が薄いみたい。魔物狩りのせいで警戒が強くなっちゃってはいるらしいけど、頑張って説得してみるって。……ねぇ、答えってそういうことでしょ? アライン」
 晴れやかなエーデルの表情にアラインも心からの笑みを返す。まさか魔物たちに救援要請を行うとは、流石唯一の混血児だ。
「昨日の敵は今日の友か。何がどう転ぶかわからんな」
「ふふ、ディアマントが言うとおかしいわね」
「まったくです」
 皆が皆それぞれに答えを持っている。それでいいのだろう、きっと。
 自分の生き様も変わらない。「勇者」という生き様を貫く決意は――。
「無事に戦争が終わったら今度はいよいよ破滅の魔法対策か。あー忙しい忙しい」
 調子の出てきたらしいノーティッツがぼやくのを少し離れて見つめる。
 マハトとヒルンヒルトの心配そうな顔を無視し続けるのもそろそろ限界だろう。もう隠しておくことはできない。
「実はそのことなんだけど……」
 心に乱れがないのは覚悟が完成したからだ。
 何があっても大丈夫。皆が側にいてくれれば。その記憶さえ胸にあれば。

「僕が破滅の魔法を引き継げると思うんだ」






 ******






 赤い、赤い陣を描く。
 黒い、黒い陣を重ねる。

 滅びの言葉をひとつ唱えて、ふたつ並べて、みっつ歌って、よっつ数えて。
 最後の呪文が引き金になる。
 それでおしまい。



 クライスは短剣の先に宿した魔力で円を閉じた。
 ラーフェが放った魔法の跡を自分でなぞることになるとは滑稽だ。
 賭けるにしても愚かな賭けだった。同じ力をぶつけたところでうまく相殺できるとは限らない。下手をすれば倍に膨らんだ魔法がもっと速度を上げて世界を飲み込んでしまうだけかもしれないのに。
(でも終わりが来るのに早いも遅いも関係ないわ)
 もし彼が自分と死ぬと言ってくれなければ、もうこの魔法を発動させるしかないのだ。

「ヴィーダ……」

 呟きは虚空に消える。
 届かないのは果たしてどちらの声だったのだろう。







(20130110)