黄昏はじめた空の向こう、ゲシュタルトは飛び去った。
何が起きたのかよくわからないままアラインはアンザーツとヒルンヒルトを交互に見つめる。
早く否定してほしかった。
彼女の告げた言葉を、早く。
「……どういうことやねん」
何も言えない自分の代わりにバールがふたりを問い質す。
小さく息を吐きヒルンヒルトが「彼女の言った通りだ」と返した。
「ゲシュタルトの娘がアンザーツの子でないことははっきりしていた。だがそれが『勇者』の血統と扱われるなら途絶えることは絶対にない。……私は私の術のため確実に子孫を残し、血を繋いでおきたかった。だから王のはかりごとと知っていながら素知らぬ顔で彼女の娘を娶ったのだ」
賢者の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。
理解してはいけなかった。
アンザーツと自分がまったくの他人であるなど。
「……ごめんね」
申し訳なさそうに本物の勇者が頭を下げる。
君と会ったときはまだ知らなかったんだと言って。
「ムスケルそっくりの戦士が盾の塔を探す少年を連れていて――ああ、他の家系から仮の勇者を出したのかなと思ったんだよ。ぼくの血がうわべだけでも続いてるとは思わなくて……」
ぐにゃ、と地面が曲がり始めた。
焼け野原になった都と朱に染まり出した空の色が混ざって視界が回転する。
「――……」
外界から与えられる情報のすべてを拒絶しアラインは膝を折った。
その傍らをベルクが横切る。揺らがない目でふたりを睨みつけながら。
「……何言ってんのかわけわかんねえよ。説明はしてくれんだろうな?」
ヒルンヒルトがアンザーツを仰ぐと、彼はこくりと頷いた。
もっともこのとき自分には何も見えていなかったのだけれど。
王城跡に着くと地下から出てきた民衆や魔導師たち、国王ウングリュクが出迎えてくれた。
誰もが口々にベルクとノーティッツ、ウェヌスに感謝の言葉をかけてきて、アラインたちも三人の仲間であるのを知ると、今度はこちらを揉みくちゃにしようとしてきた。
「悪い、陛下。ちょっと部屋借りていいすか? それと頼みたいこともひとつあって……」
隣国の王子らしくベルクは王と気安く話す。地下へ降りる列からはぐれかけたアラインをノーティッツの腕が掴んだ。
しっかりしなよ、とは言ってこない。
大丈夫?とも聞いてこない。
酷い顔をしているのだろう。それくらいしかわからなかった。
王城の地下は広々とした空間になっていた。ノルムという女性の案内で奥まで進むと更に下へ続く階段があった。
「明かりを灯しますね」
彼女が杖を振ると小さな灯火がふわりふわり飛んでいき、そこかしこに設置されていたランプが明るく輝き出す。
何本かの太い柱に支えられた地下の街で、ノルムは全員が腰を下ろせそうな広い家を貸してくれた。
アラインはノーティッツに引き摺られるまま部屋の片隅に座り込んだ。
ベルクが遅れて到着するとアンザーツがぽつりぽつりと話し始める。
今日この日を迎えるまでのすべての経緯、そしてこれからどうするつもりでいるのかを。
******
残ったのは空しさだけだった。
折角魔王を倒したのに、俺たちは何をやってんだっていう。
アンザーツがいなくなった日、ムスケルは当然のようヒルンヒルトに「あいつどこ行ったんだ?」と聞いた。賢者は何も知らないと言い、ムスケルもそれを信用した。
それでも彼には心当たりくらいあっただろう。後になってもっときちんと聞いておけばと悔いた。
国中どこにもアンザーツがいないので、数日後には皆で手分けして探そうということになった。
ゲシュタルトにはアンザーツがふらりと帰ってきたときのため都に残ってもらい、西をヒルンヒルトが、東を自分が担当することにした。王様も何人か兵士を派遣していたようだ。だが彼らは比較的すぐに都に呼び戻されたらしかった。
アンザーツはどこにもいなかった。街という街から手紙を送り、アンザーツが戻ったかどうか尋ねたが、良い返事は一度も返ってこなかった。
そのうちゲシュタルトが懐妊したとの報せを受けた。ヒルンヒルトとは連絡がつかず、ムスケルはひとりで都に引き返した。
ゲシュタルトは待ち疲れていた。ムスケルに「アンザーツは? 見つからなかったの?」と必死になって尋ねてきたが、首を振って答えることしかできなかった。
可哀想に、彼女は余程寂しいのだろう。
ムスケルが都にいる間「側にいて。絶対にひとりにしないで」と毎日のよう懇願した。
都には生まれた家もあるけれど、ゲシュタルトが心配でほとんど毎日城に泊まり込んでいた。
「ああ、大丈夫ここにいるよ。でもまずはお腹の子の父親に戻ってきてもらわなきゃな」
そう言うとゲシュタルトは俯いて、物も言わずに涙を流した。
魂の中に眠る記憶が無理矢理呼び起こされる。
ゲシュタルトは何度もマハトに「ムスケル」と呼びかけた。
暗い、暗い塔の中。窓から見えるのは赤黒い空だけ。
時折大きな生き物の呻き声が響いてくる――。
「……イデアールがまた吼えてるわ。よっぽど悔しかったのねえ」
頬を撫でる冷たい手にマハトは瞼を開こうとした。
だが彼女が制してくる。まだ夢の続きを見ていろと言いたげに。
――ねえ、あなたの家に行きたい。城にいるのはもう嫌よ。
ゲシュタルトがそう言い出したのはムスケルがそろそろ出発すると告げた直後のことだった。
家に仲間が来てくれるのはもちろん歓迎だ。なんなら長期滞在してくれても構わない。ところがそれを国王に進言してみると、「ゲシュタルトは勇者の子を宿しておる。その子に何かあっては大変じゃ」と取り合ってもらえなかった。
彼女に国王の返事を伝えると大泣きして荒れに荒れた。手当たり次第掴んだ物を放り投げ、シーツを引き裂き、高価な花瓶を床に落とし、散々喚いたその後でムスケルに「行かないで!」と縋りついた。
彼女はもう普通ではなかった。ただ寂しいというだけでなく、いつも何かに怯えていた。
ムスケルはそれを深く考えないようにしていた。アンザーツが戻ってきさえすれば、すべて元通りになると信じたかったのだ。
己の胸に顔を押しつけて泣くゲシュタルトを見下ろしながら、ムスケルは拳を握り締めた。
せめてここにいるのが自分ではなくヒルンヒルトなら良かったのに。それなら何の他意もなく、純然たる仲間への思いやりだけで抱き締め返すことができたろう。
「……駄目だゲシュタルト。俺はアンザーツを探しに行く。あいつが天へ召し上げられたなんて信じない。絶対連れて帰ってくるから……」
ゲシュタルトはなおも首を振った。「怖いの、ひとりにしないで」と泣きながら。
アンザーツがゲシュタルトを幸せにしてくれるなら己の思いなど伝える気は更々なかった。黙ってふたりを見守り続けるつもりだった。
まさかこんな形で告白することになるなんて。そう思いながらムスケルはゲシュタルトのやつれた身体を押し返した。名残惜しさは極力無視して。
「俺、お前のこと好きなんだよ。愛してる。……だから駄目だ」
苦笑いしか浮かべられないムスケルに、ゲシュタルトは最後に一粒大きな涙の雫を溢した。
「お前が待ってるのはアンザーツだろ?」
ゲシュタルトにもう一度笑ってほしくて、そのためだけにムスケルはまた旅立った。
魔王だって倒したのだからなんだってできる。そう信じていた。必ずアンザーツを見つけられると。
都から届いた次の報せはゲシュタルトの出産に関するものだった。無事に娘が生まれ、国をあげて盛大な祝宴を催したと。
その次の報せはゲシュタルトが都からいなくなった、彼女もまた天に召し上げられたというものだった。
わけがわからずムスケルは勇者の都へ舞い戻った。一年ぶりにヒルンヒルトと顔を合わせ、ひとりじゃないことにホッとした。
だが安堵は束の間だった。ヒルンヒルトはアンザーツの捜索を打ち切り、ゲシュタルトも探さないと放言したのだ。
「なんでだよ!?」
そう詰め寄れば「誰かが彼らの子を見守らねばなるまい」と言い返される。冷たい賢者の双眸に無性に怒りが湧いてきて、気がつけばムスケルは旅の最中ずっと堪えていた言葉を吐き出していた。
「お前が大事なのは所詮アンザーツひとりだけだもんな?」
ヒルンヒルトは笑ったようだった。
短い逡巡の後、彼が響かせたのはいつも通り冷静な声だった。
「そうかもしれない」
賢者の胸倉を掴み上げ、ムスケルは思い切り頬を殴った。
ヒルンヒルトとは気まずい喧嘩別れになった。
――それからも数年、ムスケルはふたりを探して方々を訪ねて回った。手がかりはひとつもなく、親にも友人にも早く諦めて帰ってこいと急かされるようになった。都ではアンザーツもゲシュタルトも生きたまま天へ昇ったと信じられていて、ムスケルの方が異端扱いだった。
半ば意地になって都へ戻らないでいたムスケルの元に、ある日手紙が届いた。手紙にはヒルンヒルトがゲシュタルトの娘を引き取ったことが書かれていた。賢者はアンザーツの生家に住み、その娘に武器と魔法の教育を施しているらしい。
自分がゲシュタルトを家に連れて帰りたいと言ったときは通らなかったのに。そう思うと身体が震えた。
勇者の娘。俺には預けられなくて、あいつには預けられるのか。
「……」
もう疲れた、とムスケルは膝を折った。
宿の小さな木のテーブルで俺も帰るよと返事を書き、ヒルンヒルトを手伝うと書いたところで手が止まった。
あいつを手伝う?できるわけがない。できるわけないのに他人には親しい仲間同士のように演じてしまう。
いつからこんな亀裂が入っていたのだろう。世界を救った勇者一行だというのに。アンザーツは伝説にさえなったのに。
あらゆるものが一気にどうでも良くなって、国王に勧められるままムスケルは貴族の娘と結婚した。相手は優しい女だった。少しずつ少しずつ癒されてはいったけれど、大きな傷は深いところで膿んだまま、時折浮かび上がってはムスケルを苦しめた。
ゲシュタルトの娘が十五歳になると、ヒルンヒルトは彼女と結婚した。双子が生まれたらしいと人伝に聞き、彼は彼で幸せを求めているのだろうかと考えた。アンザーツのことは上手く忘れられたのだろうかと。
だがやはり賢者は己の都合しか考えない、人を愛せぬ男のままだった。双子の片割れの女児を連れ、彼はどこかへ行方をくらましてしまったのだ。
愛する夫と生まれたばかりの我が子を失い勇者の娘は泣き伏せた。都に残った勇者の仲間はついにムスケルひとりになった。
――ドアを叩く。勇者アンザーツの育った屋敷のドアを叩く。
ゲシュタルトには言ってやれなかった言葉を、代わりのように娘に告げた。
俺が、戦士ムスケルの血筋が、ずっと側で支えていくと。
だからもう泣かないでほしいと。
次に目が覚めたとき、ゲシュタルトはもうマハトを眠りにいざなおうとはしなかった。
ただ寝台に横たわる自分を覗き込み、懐かしげな眼差しを向けてくるだけだった。
「……アライン様のところへ帰らねえと……」
絡みつく郷愁にも似た感情を振り切って声を絞る。ゲシュタルトは困った顔で眉根を寄せた。だが怒っている風ではなく、寧ろその瞳は優しげですらあった。
「駄目よムスケル、帰ったところで彼は受け入れてくれないわ。だってあの子、自分がアンザーツの血を引いていないと知ってしまったんだもの」
「……」
息苦しさに目が霞む。己を見つめるゲシュタルトの赤い目だけがいやにチカチカ眩しかった。
「ねえ、あのときあなた本当は、私が彼の子を身籠ったわけじゃないと勘づいていたんでしょう? だけど真実を知るのが怖くて逃げ出したわね?」
細い指がマハトの頬をゆっくり撫でる。責めてるんじゃないわと囁きながら。
「優しくて弱い可哀想な人。……あの子にとってあなたは必要なのかしら? 勇者じゃないとわかった今、ただ重荷になるだけではないの?」
ぴくりとマハトの指先が震えたのをゲシュタルトは目聡く見つけ、微笑を浮かべた。
アンザーツに必要とされなかった自分。
必要とされていたとき突き放してしまった自分。
ゲシュタルトの問いかけは的確すぎるほど的確に探られたくない部分を突いてくる。
「お願いよ、どこにも行かないで。私をひとりにしないで……」
あなたが必要なのよと彼女が言う。
もうあなたしかいないのと。
「ふたりであいつらに思い知らせてやりましょう?」
拒むことはできなかった。
マハトの中で甦ったムスケルの記憶が、痛いほど彼女の手を取りたがっていた。
******
勇者として生きれば生きるほど自我が失われるという話も、魔王を倒せば天変地異が引き起こされるという話も、俄かには信じ難かった。それを仕組んだのが神様だという話はもっと。
ベルクは別にトルム教信者ではない。それでもこうして「いくらなんでもそりゃ嘘だろ」という抵抗が起きるのだから、他の面々の心境は想像に難くなかった。
「……実際にファルシュと会って話したのはぼくらだけだから、信じろというのは難しいかもしれないね。君たち勇者候補は誰もぼくみたいに浸食を受けてはいないようだし」
アンザーツは至極あっさりしていた。信じてもらえずとも自分たちの目指すものは変わらない、そんな心が眼差しによく現れている。
「まあ突拍子もない話だなとは思ったけどねえ。古代魔法の方が今より発展してる理由づけとしては面白かったかな。百年周期でほぼズレのない天変地異も、確かに大掛かりな魔法だと考えられなくはない。……とすると神様っていうのは一般に考えられてるよりずっと人間に近い存在なのかもしれないね。超絶長生きの大魔導師とか」
ノーティッツはベルクよりよほど柔軟に考察しているようだ。そうか、神様だと思うから先入観が働くのかと隣のウェヌスを盗み見る。思えばこれが女神なのだから、トルム神がどんなおとぼけ野郎でも何ら不思議ではないのだ。
「どうなのでしょう? わたしも気になります。わたしはお声を聞いただけですが、オーバストさんやウェヌスさんたちはトルム神にお会いしたことがあるのですよね? やはり地上の宗教観とはギャップがあるのですか?」
クラウディアがにこりとオーバストに微笑んだ。一見普段と変わらぬ笑みに思えたが、冷やりとした空気が流れた気がしてベルクは「?」と首を傾げる。
「……」
黙り込むオーバストとは対照的に、ウェヌスは「神は神です」と言い切った。ディアマントも「そんな天変地異の魔法だの勇者と魔王の自我の話だの聞いておらん!」と不快感を露わにする。
「聞かされていなかっただけという可能性は?」
押し黙ったディアマントにクラウディアは真っ直ぐな目を向けた。笑顔は少しも崩さぬまま。
「……何が言いたい?」
低下していく室内の気温に比例して緊迫は高まる。
クラウディアはついと目線をアンザーツへ向け直ると「先に申しあげておきますが」と前置きした。
「わたしはあなたを殺すよう神に仰せ遣いました。天から来たというこの方たちがそれを知らなかったのは事実です」
「……随分あけすけに言うね」
やや目を瞠ったアンザーツにクラウディアはにこりと笑いかける。「殺意があるわけではありませんから」と。
「うん、クラウディアの言う通りかな。神様がそれぞれの人にそれぞれの役割だけ伝えてるなら、ぼくらに全容が見えてこないのも仕方がない。ウェヌスたちが反論できないならぼくらは一旦魔王側の話を信用することになると思うけど」
どうだろう、と幼馴染に問われてベルクは返答に窮した。
アンザーツが何を考えているかわかったと思ったら、今度は神様とやらが何を考えているかわからなくなってしまった。天変地異云々が事実か事実でないかによって選択はまったく異なってくる。
「本当に何も知らねえのか?」
改めてウェヌスに尋ねるも、女神は「申し訳ございませんわ……」としょんぼり項垂れるだけだった。
「他にも何か神の手によって隠されていることがあるかもしれませんね」
クラウディアの言にまたオーバストが顔を歪める。その態度が気になりベルクが声をかけようとしたときだった。彼は自ら「いえ、私が存じております」と口を開いた。
「……アンザーツの話したことは事実です。トルム神は古代魔法の秘術を使って何度も世界に災害をもたらしています。ですが、ですがそれはトルム神自身の生きたかつての大地が、人間同士の争いにより滅びてしまったからです。再び同じ過ちを犯さないよう一定の管理を行っているだけで……!」
オーバストの話したことに一番驚いたのは天界のふたりだった。神様というのはとかく秘密主義らしい。自分の身内にすら大事な話を共有できないような輩は、正直ベルクの信頼には値しなかった。
「んじゃ神様は俺らに魔王を退治させて、今度こそ天変地異を引き起こそうとしてたってことか?」
答えられないオーバストを皆が複雑そうに見守る。
矛盾するかもしれないが、今の話をウェヌスが知らなくて良かったと思った。知っていて今まで笑って側にいたのだったら、怒りも悲しみも通り越してどうかなりそうだ。
「ともかく我々の成すべき第一は魔王と勇者の血肉を保存することだ。アンザーツの肉体は既に私が封じたし、憂慮していた魔王側の血も今ここにある。――エーデルと言ったな?悪いがしばらく行動を共にしてもらうぞ。君が魔王の血を継いでいるのは明らかだからな」
イデアールとエーデルが似ていると思ったのは錯覚ではなかったようだ。次から次に新しい情報が入ってきてベルクの頭では処理が追いつかない。
「……そうやって魔王と勇者の血を守って、最終的にはどうなるの?」
エーデルがヒルンヒルトに問いかける。賢者は「生命体が増えれば一個体の魔力含有率が下がって、何百年後かには魔物と人間が共生できる環境になるはずだ」と答えた。
おお、とベルクは顔を上げた。ぐるぐる回っていた思考回路が今のひとことで実にスッキリ整理される。
「それいいじゃん。丸く収まってる感じだぜ」
争わなくていいようになるならそれが一番だ。単純明快な答えである。
「だから、トルム神の元々いらした世界はそうだったんです!」
声を荒げたのはオーバストだった。
「あなた方がどう決意されようと神の意志は変わりません。綻びた理なら修正するだけで……!」
俯いたまま自分の胸を引っ掻いているオーバスト。どう見ても彼は混乱していた。神様のことはわからないが、その混乱の原因がどこにあるのかはわかってやれる気がした。
「……お前は神様が何もかも正しいと思ってんの?」
ベルクの言葉にオーバストは息を飲み込む。
それがわからないから言えなかったんじゃないですか、と苦しげに彼は呻いた。
「目先のことだけを考えるなら天変地異などない方がいい。……でもあの方はこの大陸の滅びゆく様を今でも克明に覚えています。管理しなくてもいいなどと、私にはとても言えません」
室内には妙な空気が流れ出していた。
この地に生ける者としては天変地異などもってのほかなので、勇者と魔王の血は守る。これはもう決定事項だ。魔物たちは大人しい獣になるまであと何回も生まれ変わらなければならないらしいから、襲ってくる敵は倒す。これも決定である。
アンザーツたちはできればイデアールに父の意志を伝えて説得したいそうだったが、これについては誰もが「無理だろうな」と諦めていた。何も知らなかったとは言え、彼は都を襲撃し、甚大な被害をもたらした。こちらも派手に応戦しているし、和解は難しいだろう。
問題はパーティに混ざった天界人たちだった。神の意向を重視してこちらとは敵対するという可能性が少なくない。思い留まってくれれば有り難いが。
「ウェヌス、お前どうすんだ?」
耐え切れなくなりベルクから聞いた。異様な緊張が襲いかかってきて鼓動を早める。
女神は黙り込んだ。神の言いつけで地上へ降り立ったウェヌスの立場を思えばその沈黙は当然のものだった。
「私は……今はあなたの僧侶ですわ、ベルク」
ウェヌスの笑った顔を見て情けないくらい安心した。立っていたら膝が抜けていたかもしれない。
それはノーティッツも同じだったようで、ああ良かったと大げさに胸を撫で下ろしている。
妹の出した答えにディアマントは嘆息したが、否定するようなことは言わなかった。オーバストも「おふたりの考えを尊重します」と控えめだ。好戦的な態度で出られたらどうしようかと思っていたのでひとまずホッと息を吐く。
「てことは当面の問題はあの戦士の兄ちゃんだな」
ゲシュタルトにさらわれたアラインの従者マハト。早く彼を救い出したいし、アンザーツたちも昔の仲間とは因縁があるようだ。バールによればマハトは戦士ムスケルの生まれ変わりで、それゆえゲシュタルトに連れ去られたらしい。
「ああ、いずれにせよぼくらは魔王城を目指すことになる」
アンザーツの言にベルクはこくりと頷いた。そしてここまでまったく会話に入ってきていないアラインを振り返り眉間に皺を寄せた。落ち込む気持ちはよくわかるし、それについてとやかく言いたくはないけれど。
おい、と声をかけようとしたときコンコンとドアがノックされた。呼びに来たのはノルムだった。
「ベルクさま、頼まれていたものの準備が整いました。どうぞいらしてください」
「あ、おう、サンキュ。……悪い、俺ちょっとこいつと出てくるわ」
ベルクはアラインの腕をぐっと掴むと引き摺るように歩き出す。失意の勇者はどこへ行くのかとすら聞かない。こちらを見つめるアンザーツが心配そうな顔をしていた。
ウングリュクに頼んでいたのは勇者の国の王との通信だった。ベルクが父と話したあの鏡があれば、アラインに直接自国の王と話す機会を設けられると考えたのだ。幸い魔道具や貴重品は大半が地下に納められていたのでノーティッツの暴虐から逃れることができていた。
「失礼いたします。ベルクさまとアラインさまをお連れしました」
内密の話だと言ったからだろう、通されたのは人気のない通路の先にあるこじんまりした部屋だった。鏡の前にウングリュクが待っていて、こちらへ来いと手招きする。
「……一応私は席を外すが、何かあったら呼んでくれ」
「すんません陛下。ありがとうございます」
他国の事情に首を突っ込むなど後々ろくなことにならない。本来ならこんな通信を独断で行うべきではない。わかっていてもベルクはアラインを放っておけなかった。
だってこいつは国益のために騙され続けてきたのだ。辺境の国とは戦争したくないと思ったが、勇者の国はまったく逆だ。できるなら一発国王の顔をぶん殴ってやりたい。
「アライン、いいか? 今からお前んとこの王様呼び出すからな」
「……」
アラインが小さく頷いたのを見てベルクは鏡にかけられた布を取り去った。ぼんやり波打っていた表面が徐々にはっきりした輪郭を持ち始める。映ったのは疲れた顔をした老齢の男だった。
「……お初にお目にかかります。俺は兵士の国の第三王子ベルクです」
一応と思い挨拶するが、王はベルクの顔など見ていなかった。項垂れたアラインの姿に釘づけになり、しばらくすると玉座に深く座り直して俯いてしまう。
「単刀直入に聞きますけど、アラインがアンザーツの血筋じゃないってホントなんですか?」
王はぴくりとも動かなかった。ただ何かに耐えるようじっと静寂を貫いた。
アラインも似たようなものだ。目を瞠ったまま王を凝視し、微動だにしない。
嫌な空気だった。
誰も彼も傷つくしかないような。
『……知ってしまったのじゃな。わしの祖父……シャインバール二十一世がゲシュタルトを汚させたこと……』
隣国の王は両手で顔を覆った。その姿は酷く弱々しく見えた。
多分、たったひとりの勇者に頼って生きてきた結果がこれなのだろう。この国は間違っている。
『死に瀕した父からこの秘密を聞き、何度もそなたに打ち明けようと思った。……だができなかった。真実を伝えたそなたの両親は絶望し、偽りの重さに耐えきれず死を選んでしまった。もしそなたまでそんなことになったらと思うと、どうしても言えなかったんじゃ』
アラインが大きく目を見開く。震えることさえ忘れて彼は王の懺悔に呆然とした。
「父さんと母さんが?」
だって事故じゃと掠れた音は最後まで聞き取れなかった。
苦々しくベルクは眉をひそめる。嘘で塗り固められた勇者の名前に虫唾が走った。
『わしはずっと、そなたの旅立つ日が怖かった。辺境の都が襲われてもすぐにはそなたを見送ってやれなかった。……そなたが行ってしまってからは、そなたの訃報や帰還に怯えて』
軽蔑してくれと王は言う。そんなことで解決できる問題ではなかろうに。
答えられないアラインにシャインバール二十三世は鼻を啜りながら話した。
『すまなかった、本当に。辛ければもう旅などやめて、そのまま帰ってこずとも構わぬ。そなたの好きに生きてくれれば……』
「ふざッけんじゃねえぞ!!!!!」
我慢し切れずベルクは叫んだ。鏡の向こうの王に掴みかからん勢いで。
「こいつがどんな気持ちでここまで来たかわかってて言ってんのか!? 今までどこのどいつのために戦ってきたか!!! 全部あんたらのためじゃねえか!!!!」
王はやはりベルクを見ない。アラインに対しすまなかった、すまなかったと繰り返すだけ繰り返して勝手に向こうから通信を切ってしまった。
「おい!!! ふざけんなよ!!!! おい!!!!!!」
鏡面を真っ黒に染めた後、鏡は普通の鏡に戻ってしまう。どこにも苛立ちをぶつけられず、ベルクは思い切り壁を蹴った。
後ろでアラインが膝をつく。ぺたりとその場にへたり込んだまま、彼は動かなくなってしまった。
「おい、平気か?」
平気なわけがないのはわかっているのにそう聞いてしまう自分が歯痒い。もっと気の利いた言葉をかけてやれたらいいのに。
アラインは剣の柄をぎゅっと握り締めていた。目の焦点が合わないまま「大丈夫、大丈夫……」と呪文のように繰り返す。
「これくらいのことで……。マハトを助けに行ってやらないと……」
呼吸が浅くなり始めたのを見て思い切り肩を揺さぶる。
あのときみたいに泣けばいいのにと思ったが、アラインの目は虚ろに揺れるだけだった。
******
地下空間の街を飛びながらバールはラウダの後に続く。
ついて来るなと言われるかもと思ったが、そんなことはなく揃って窓の桟に舞い降りた。
「……塔へ帰れと言ったのに」
「帰れ言われてホンマに帰るアホがおるかいな」
「天界へ戻れなくなっても私は知らないぞ」
ぶっきらぼうな物言いにバールはふう、と溜め息を吐く。彼は前より口が悪くなったのではなかろうか。
「ジブンはこのまま地上で暮らすんか? まあそれはそれでええかもしれんのう」
「そのつもりだがな。いつ消されるかはわからない」
誰にとは聞かずとも知れた。天界の者が神に逆らえばどうなるか――。
「……ま、十分長生きしたやろ。自分の好きなようにやって死ぬんやったらそれもええやん。ワシはこのまま旅を続けるで」
見守ってやりたい出来損ないの勇者もおることやしな、と笑うバールにラウダは小さく息をつく。
流れる空気に拒絶の色がないことを素直に嬉しく思った。やっと友人と再会できた気がする。
「それにしても、神と言うのはなんなのだろうな」
「ワシも思たわそれ。天界でも神殿に引き篭って出てこんかったやろ? 漠然と偉い方や偉い方や思てたけど、なんなんやろな?」
「元々人の世界にいたということは、あの少年の言っていたように本当に長寿の人間なのかもしれないな」
「……せやなあ……」
膨らむ謎に溜め息が出る。
天界における掟はたったふたつだった。
ひとつは地上を覗かないこと。
ひとつは神殿に立ち入らないこと。
特例的に側仕えを許された者も中にはいると聞いたことがあるが、それがオーバストなのだろうか?
どこかで外と繋がっているせいか、先程からずっと生温い風が吹いていた。
ついて来いと命ぜられるままオーバストはディアマントの後ろを黙って歩く。特に目的地があるわけではないらしい。
人のいない四角い丘までやって来ると、ディアマントはこちらを見もせず喋り出した。彼には珍しく淡々と。
「……オーバスト、私はあの女を殺さねばならんのか?」
魔王の血と肉が人間の女にも分け与えられていた事実に彼は衝撃を隠せないようだ。アンザーツの語る話に余計な茶々を入れなかったのは、そうする余裕もなかったためらしい。
「……魔王を滅ぼすにはその血も肉も魂も消滅させる必要があるのだろう? 私は父から魔王討伐を命ぜられた。父に背くという選択肢は私にはない。だったら……」
だったら、とディアマントは言葉を切る。隠しきれない彼の戸惑いにオーバストは唇を噛んだ。できればずっと何も知らないままでいてほしかったけれど。
「私に魔物殺しの話をしたとき、あの女が魔王の血を引いているかもしれないと知っていたのか?」
「……」
オーバストは答えられなかった。
知らなかったと言えば嘘になる。人間の少女で、素手で魔物と渡り合えるような者はまずいない。勇者でさえ武器を持って戦うのが普通なのに。
「……知っていたのだな? なら何故私にそう教えなかった?」
向けられた背中からディアマントの怒りが伝わってくる。かろうじて口に出せたのは「申し訳ありません」という謝罪だけだった。もっと何か言わなくてはとオーバストは焦って言葉を紡ごうとする。けれどディアマントに説明してやれることなど何もなかった。
ちらとだけオーバストを振り返り、苦い顔のままディアマントは飛び去ってしまう。
その姿が見えなくなるまで立ち尽くした。
(何故教えなかった……か)
本当にどうしてだろう。自分でも自分の心がぶれすぎていて呆れてしまう。
神の意に沿いたいのか、ディアマントに幸福であってほしいのか。
――本当の私はどちらなのだ。
自分の進むべき道がわからなくなったのは初めてだ。
こんなことは今までになかった。父である神を疑うようなことは。
地下の天井すれすれを飛びながらディアマントはエーデルを探した。見つけてどうするつもりかはわからなかった。ただ話がしたかった。
どこにあっても目立つ紅の髪は五分も飛べば見つかった。だが彼女の前に降りようとして、先客がいるのに気づく。クラウディアだった。
「……まさか自分が魔王の血縁だとは思わなかったわ」
初めから盗み聞きをするつもりだったわけではない。声が聞こえてきて動けなくなった、それだけだ。
エーデルはやや荒れていた。もう涙も枯れてしまったと自嘲気味に嘆いていた。
あれだけ強い力を有していながら何故悲嘆するのか不思議ではあるが、エーデルは普通の娘に戻りたいと考えているらしい。普通であってもそうでなくても彼女は彼女でしかないのに。
「……寧ろ良かったんですよエーデル。皆概ね魔王を生かす方向で考えているわけですし、イデアールが我々と敵対するならあなたは絶対に生き残らなくてはなりません。あなたを守りたい気持ちはわたしの中でいっそう強まりましたよ」
そんな彼女にクラウディアは優しく語りかける。
騙されるなと叫びたかった。人間は魔物を殺す。勇者のお告げを受けたならもっとそうだ。そいつはいつかお前に噛みつくぞと言いたかった。
だが声は喉奥に押し込められたまま、ディアマントの呼吸を苦しくするだけだ。
「魔王の血なのよ? 危険かもしれないわ。あたし、あなたに迷惑をかけることになるかもしれない。不幸にしてしまうかもしれない……」
不安そうな彼女をクラウディアがそっと抱きしめる。エーデルは目を瞠って、それからすぐ僧侶の肩に縋りついた。
雷に打たれたような衝撃が走った。ディアマントにはその光景を見下ろすことしかできなかった。
「クラウディア、あたし怖い。ほんの二年前までどこにでもいる平凡な人間だったのに、どうしてこんなことに巻き込まれてるの? あたし特別な人間なんかじゃないわ。魔王の血なんて言われてもわからない」
「エーデル」
「大それた望みなんて持ってないのよ。ただありきたりの、普通の幸せがあればそれでいいのに、どうしてなの。いつか魔物の血が誰かを、あなたを傷つけるかもしれない。なのに死ぬのも駄目なんて、あたし、あたしもう……!」
「エーデル!」
クラウディアは彼女の耳元で叫んだ。落ち着かせるよう華奢な背を撫で、僧侶は僅か身を離す。そうしてふたりで見つめ合った。
「わたしがあなたを守ります。あなたに与えられた魔の力を封印する方法も、必ず見つけます」
だから安心してくださいとクラウディアは笑った。エーデルの黄金の目から涙が溢れた。
一瞬の口づけがかわされるのを、どうしていいかわからないままディアマントはただ見ていた。
さっきまで胸の中を満たしていた靄はたちまちに消えてしまう。
代わりにもっと不可解な感情と、もうどうでもいいではないかという無気力が満ちた。
(思い出せ、何のために私は地上へ降りてきたのか……)
あんな娘のためではない。
決して。
精神体と言えど、力を使えば消耗はする。
ヒュドラとの戦い、ゲシュタルトとの邂逅で疲弊したアンザーツにヒルンヒルトは休めと言った。このうえアラインの心配までしてやる必要はないと。
偽の血統が続いてしまった責任を取らねばならぬとすれば、寧ろ自分の方だった。もう一度アンザーツに会うためだけに、正せたものを歪めたままにした。己の血にしか強い憑依の術はかけられなかったから。
「……ゲシュタルトはわかってくれるかな」
寝台に潜り込みながらアンザーツがぽつりと呟く。
彼のためにも勿論和解が望ましいけれど、ゲシュタルトがアンザーツを傷つけるなら自分は戦うことを厭わない。
だが敢えて何も口にせず、アンザーツには眠りの魔法をかけてやった。
この先で彼を待つものに穏やかで優しいものなど少なかろう。休めるときにゆっくり休んだ方がいい。
(……いや、恨まれているのは私かな)
自嘲の笑みを刻んでヒルンヒルトは寝室を後にした。これからラウダを探してどのルートで魔王城を目指すか相談しておきたかった。
魔王城にはイデアールの張った結界があるため転移魔法を使えない。企みが神に露見しているので聖獣ラウダトレスの翼も却下だ。通常ルートである岩山の洞窟は百年前に魔王ファルシュが勇者の到達を防ごうと埋め立ててしまった。何らかの手段を講じる必要があった。――だが。
ヒルンヒルトは廊下の途中で立ち止まると、くるりと踵を返して来た道を引き返した。今しがた離れたばかりの部屋に人の気配を感じたからだ。
「何のつもりだ?」
白いコートの背中に杖を突きつけながら問う。彼が天界人だということは元より、担いだ大剣に手をやっていることに警戒心が強まった。
ディアマントは眠るアンザーツの顔を眺めていた。窓は開いたままになっていて、そこから入ってきたのだとわかる。
「別に、この男の実力がどんなものか知りたかっただけだ。肉体が滅びぬ限り精神体は滅びんのだろう? そう目くじらを立てるな」
「だがダメージは負う」
笑った男にヒルンヒルトは静かに答えた。不快と怒りを滲ませた声で。
肩越しに睨み合ったディアマントの次の台詞は賢者を更に不愉快にした。
「……勇者を代替わりさせたくばこの男を殺せばいいわけか。その前に邪魔な腰巾着を始末する必要がありそうだが」
「所詮天の人間は天の言いなりということか。戦いたいなら表へ出ろ、相手になってやる」
バチバチバチ、と火花が散った。
ディアマントの剣とヒルンヒルトの稲妻がぶつかり合い、その余波で壁の一部が崩壊する。金髪を翻して彼はなおも突進してきたが、風を使ってひらりとかわした。近くの家に入っていた住人がなんだなんだと騒ぎ始める。
「街を傷つけるつもりはない。上へ行くぞ」
そう言って土魔法を構築するとヒルンヒルトは硬い天井に穴を開けた。ディアマントは魔法弾でヒルンヒルトを狙いながらついて来る。
瓦礫の山と成り果てている地上へ出ると、星も見えないほどの曇り空だった。月だけはかろうじて仄かな光を放っていたが、これならランプで照らされた地下街の方が明るそうである。
夜目の利きにくい中でディアマントの白いコートはよく目立った。的を探すのに印をつける必要もなかった。
あちらから向かってきたのだから遠慮は不要だ。氷の刃、炎の鞭、かまいたち、畳みかけるよう幾重にもディアマントを囲んで襲う。もっとスマートに戦うのかと思ったが、意外に彼はがむしゃらだった。投げやりとか八つ当たり的と言えたかもしれない。ただ暴れたいだけのようにも見えた。
「ちょこまかと鬱陶しい!!」
大剣はお飾りではなかったらしい。軽い魔法ならそれで易々凪ぎ払ってしまう。剣圧でこちらを両断しようと彼は高く剣を掲げた。
そこへ騒ぎを聞きつけた数名が地下から駆けつけた。
ヒルンヒルトによる業火の攻撃を、ディアマントを庇った男が竜巻で吹き飛ばす。オーバスト、彼も天界の人間だ。
「なに仲間割れしてんだよ!」
叫んだのはノーティッツという少年だった。それに対しディアマントは「仲間になった覚えなどないわ!!」と声を荒げる。
彼はじっと地上の一点を睨みつけていた。魔王の血を引く娘と、アンザーツを殺すよう頼まれた僧侶を。
「……今度会ったときは貴様らも敵だ」
行くぞオーバスト、と彼に呼ばれてオーバストはおろおろしながら結局は側に寄っていく。
飛び去ろうとした彼らめがけ特大の火球をぶつけてやろうとしたが、「やめてくださいまし!」とウェヌスに制されひとまず断念した。あまりやりすぎて折角得られた理解を失うのは惜しい。
「何があったの? あの失礼馬鹿男はどこへ行ったの?」
ふたりの姿が消えた夜空を見上げつつ、エーデルが動揺した素振りで尋ねた。
ヒルンヒルトが嘆息すると、濃い色の雲からぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
良かったんですかとオーバストが尋ねてもディアマントは強がるだけで本音を話してくれない。
「そもそも天界人が人間と戯れている方がおかしいのだ。私は父の神託通り魔王を殺す。ついでに勇者も、勇者候補もな」
そんな風に話すだけで、エーデルへの思いからはわざと目を逸らしているようだ。
(……魔物殺しの話などしない方が良かったか)
彼にこんな選択をさせるくらいなら、何もしなかった方がずっと。
もっともあのときはそこまで深く考えていたわけではない。ただディアマントが毎日山のように魔物を殺しているのを見て、これ以上強くなってしまうのが怖いと思っただけだった。
魔物を狩れば狩るほど、それが強い魔物であればあるほど、倒した者の手に入れる力は大きい。
相手がディアマントより強く、ディアマントを殺さないなら誰でも良かった。
(成長をお止めしたいと思ったのが誤りだったか……)
「オーバスト、貴様アンザーツの身体がどこにあるか見当はつくか?」
雨に打たれながらディアマントは羽ばたき続ける。けっしてオーバストを振り返らずに。
「……多分わかると思いますが……」
「そこへ連れて行け。まずは勇者の身体から潰す」
泣いているのだろうかと心配だった。
天の国でトルム神にディアマントを預けられてから、傷つくことのないように誠心誠意尽くしてきたつもりだったのに。
(勇者も魔王も殺してしまえばあなたは――)
零れかけた言葉を飲み込み、オーバストは不安を打ち消すようかぶりを振った。
クラウディアの言う通り、見張られているのは自分なのだ。
何も伝えることなどできない。
******
ディアマントとオーバストが出て行ったと聞いたときは、驚きとともにやっぱりかという気がした。ディアマントはウェヌスの兄だし、オーバストには随分世話になったので、剣を交えるような事態にならなければいいとは思うが。
ベルクは落ち込むウェヌスを見やって何とも言えぬ溜め息をついた。ともあれ天界人の離反により女神も微妙な位置に立たされてしまったのだ。なるべく目を離さないでやらねば。
(あちこち問題だらけだな……)
沈んでいるのはウェヌスだけではない。アラインもだ。ひとことも口をきかないレベルなので、もしかするとウェヌスより精神状態は危ういかもしれない。
辺境の都の正門だった場所で、群衆とウングリュクに見送られベルクたちは出発した。とてもじゃないが笑顔で手を振る気になどなれなかった。
今度の目的地は辺境の北部で唯一生き残っている山門の村だ。魔界へ続く道を塞ぐ神殿のある場所だった。
「新しい武器貰えて良かったね。その剣とか国宝級だろ絶対」
「ああ、そうだな」
いつもの調子で話してくれる幼馴染の存在が有り難い。
都の結界を張り直してなおノーティッツの魔力は有り余っているようだった。これからますます戦闘が厳しさを増すことを思うと本当に頼もしいレベルアップだ。伝説の勇者と大賢者が加わった大所帯のパーティなので、滅多なことはないだろうが。
「イヴォンヌさん、ただの女店主じゃねえとは思ってたけどスゲー人だったんだな。帰ったら逞しくなった息子の姿見て喜ぶんじゃねえ?」
「うーん、そうだねえ。国に帰るまで受け取った魔力が残ってればの話だけど」
ノーティッツ曰く、特殊な魔法を特殊な形で受け継いだので今回得た魔力は使い切ればなくなってしまうとのことだった。
「丸一日経過しても力が全部戻ってこないし、そうなると使いどころが悩ましいな」
「なんだ、シケてやがんな。まあお前がぶっちぎって俺より強くなるのも面白くねえけど」
「……そんな言い方するなよ。きっとこの方が良かったんだ。今まで通り地道な努力を積み重ねて強くなってく方がさ」
見上げた空は曇天。またひと雨来そうだな、と幼馴染も天を仰ぐ。
あの雲の上で自分たちを見下ろしている存在がいるのかと思うと鼻持ちならない気分だった。
何が起きたのかよくわからないままアラインはアンザーツとヒルンヒルトを交互に見つめる。
早く否定してほしかった。
彼女の告げた言葉を、早く。
「……どういうことやねん」
何も言えない自分の代わりにバールがふたりを問い質す。
小さく息を吐きヒルンヒルトが「彼女の言った通りだ」と返した。
「ゲシュタルトの娘がアンザーツの子でないことははっきりしていた。だがそれが『勇者』の血統と扱われるなら途絶えることは絶対にない。……私は私の術のため確実に子孫を残し、血を繋いでおきたかった。だから王のはかりごとと知っていながら素知らぬ顔で彼女の娘を娶ったのだ」
賢者の言葉はほとんど耳に入ってこなかった。
理解してはいけなかった。
アンザーツと自分がまったくの他人であるなど。
「……ごめんね」
申し訳なさそうに本物の勇者が頭を下げる。
君と会ったときはまだ知らなかったんだと言って。
「ムスケルそっくりの戦士が盾の塔を探す少年を連れていて――ああ、他の家系から仮の勇者を出したのかなと思ったんだよ。ぼくの血がうわべだけでも続いてるとは思わなくて……」
ぐにゃ、と地面が曲がり始めた。
焼け野原になった都と朱に染まり出した空の色が混ざって視界が回転する。
「――……」
外界から与えられる情報のすべてを拒絶しアラインは膝を折った。
その傍らをベルクが横切る。揺らがない目でふたりを睨みつけながら。
「……何言ってんのかわけわかんねえよ。説明はしてくれんだろうな?」
ヒルンヒルトがアンザーツを仰ぐと、彼はこくりと頷いた。
もっともこのとき自分には何も見えていなかったのだけれど。
王城跡に着くと地下から出てきた民衆や魔導師たち、国王ウングリュクが出迎えてくれた。
誰もが口々にベルクとノーティッツ、ウェヌスに感謝の言葉をかけてきて、アラインたちも三人の仲間であるのを知ると、今度はこちらを揉みくちゃにしようとしてきた。
「悪い、陛下。ちょっと部屋借りていいすか? それと頼みたいこともひとつあって……」
隣国の王子らしくベルクは王と気安く話す。地下へ降りる列からはぐれかけたアラインをノーティッツの腕が掴んだ。
しっかりしなよ、とは言ってこない。
大丈夫?とも聞いてこない。
酷い顔をしているのだろう。それくらいしかわからなかった。
王城の地下は広々とした空間になっていた。ノルムという女性の案内で奥まで進むと更に下へ続く階段があった。
「明かりを灯しますね」
彼女が杖を振ると小さな灯火がふわりふわり飛んでいき、そこかしこに設置されていたランプが明るく輝き出す。
何本かの太い柱に支えられた地下の街で、ノルムは全員が腰を下ろせそうな広い家を貸してくれた。
アラインはノーティッツに引き摺られるまま部屋の片隅に座り込んだ。
ベルクが遅れて到着するとアンザーツがぽつりぽつりと話し始める。
今日この日を迎えるまでのすべての経緯、そしてこれからどうするつもりでいるのかを。
******
残ったのは空しさだけだった。
折角魔王を倒したのに、俺たちは何をやってんだっていう。
アンザーツがいなくなった日、ムスケルは当然のようヒルンヒルトに「あいつどこ行ったんだ?」と聞いた。賢者は何も知らないと言い、ムスケルもそれを信用した。
それでも彼には心当たりくらいあっただろう。後になってもっときちんと聞いておけばと悔いた。
国中どこにもアンザーツがいないので、数日後には皆で手分けして探そうということになった。
ゲシュタルトにはアンザーツがふらりと帰ってきたときのため都に残ってもらい、西をヒルンヒルトが、東を自分が担当することにした。王様も何人か兵士を派遣していたようだ。だが彼らは比較的すぐに都に呼び戻されたらしかった。
アンザーツはどこにもいなかった。街という街から手紙を送り、アンザーツが戻ったかどうか尋ねたが、良い返事は一度も返ってこなかった。
そのうちゲシュタルトが懐妊したとの報せを受けた。ヒルンヒルトとは連絡がつかず、ムスケルはひとりで都に引き返した。
ゲシュタルトは待ち疲れていた。ムスケルに「アンザーツは? 見つからなかったの?」と必死になって尋ねてきたが、首を振って答えることしかできなかった。
可哀想に、彼女は余程寂しいのだろう。
ムスケルが都にいる間「側にいて。絶対にひとりにしないで」と毎日のよう懇願した。
都には生まれた家もあるけれど、ゲシュタルトが心配でほとんど毎日城に泊まり込んでいた。
「ああ、大丈夫ここにいるよ。でもまずはお腹の子の父親に戻ってきてもらわなきゃな」
そう言うとゲシュタルトは俯いて、物も言わずに涙を流した。
魂の中に眠る記憶が無理矢理呼び起こされる。
ゲシュタルトは何度もマハトに「ムスケル」と呼びかけた。
暗い、暗い塔の中。窓から見えるのは赤黒い空だけ。
時折大きな生き物の呻き声が響いてくる――。
「……イデアールがまた吼えてるわ。よっぽど悔しかったのねえ」
頬を撫でる冷たい手にマハトは瞼を開こうとした。
だが彼女が制してくる。まだ夢の続きを見ていろと言いたげに。
――ねえ、あなたの家に行きたい。城にいるのはもう嫌よ。
ゲシュタルトがそう言い出したのはムスケルがそろそろ出発すると告げた直後のことだった。
家に仲間が来てくれるのはもちろん歓迎だ。なんなら長期滞在してくれても構わない。ところがそれを国王に進言してみると、「ゲシュタルトは勇者の子を宿しておる。その子に何かあっては大変じゃ」と取り合ってもらえなかった。
彼女に国王の返事を伝えると大泣きして荒れに荒れた。手当たり次第掴んだ物を放り投げ、シーツを引き裂き、高価な花瓶を床に落とし、散々喚いたその後でムスケルに「行かないで!」と縋りついた。
彼女はもう普通ではなかった。ただ寂しいというだけでなく、いつも何かに怯えていた。
ムスケルはそれを深く考えないようにしていた。アンザーツが戻ってきさえすれば、すべて元通りになると信じたかったのだ。
己の胸に顔を押しつけて泣くゲシュタルトを見下ろしながら、ムスケルは拳を握り締めた。
せめてここにいるのが自分ではなくヒルンヒルトなら良かったのに。それなら何の他意もなく、純然たる仲間への思いやりだけで抱き締め返すことができたろう。
「……駄目だゲシュタルト。俺はアンザーツを探しに行く。あいつが天へ召し上げられたなんて信じない。絶対連れて帰ってくるから……」
ゲシュタルトはなおも首を振った。「怖いの、ひとりにしないで」と泣きながら。
アンザーツがゲシュタルトを幸せにしてくれるなら己の思いなど伝える気は更々なかった。黙ってふたりを見守り続けるつもりだった。
まさかこんな形で告白することになるなんて。そう思いながらムスケルはゲシュタルトのやつれた身体を押し返した。名残惜しさは極力無視して。
「俺、お前のこと好きなんだよ。愛してる。……だから駄目だ」
苦笑いしか浮かべられないムスケルに、ゲシュタルトは最後に一粒大きな涙の雫を溢した。
「お前が待ってるのはアンザーツだろ?」
ゲシュタルトにもう一度笑ってほしくて、そのためだけにムスケルはまた旅立った。
魔王だって倒したのだからなんだってできる。そう信じていた。必ずアンザーツを見つけられると。
都から届いた次の報せはゲシュタルトの出産に関するものだった。無事に娘が生まれ、国をあげて盛大な祝宴を催したと。
その次の報せはゲシュタルトが都からいなくなった、彼女もまた天に召し上げられたというものだった。
わけがわからずムスケルは勇者の都へ舞い戻った。一年ぶりにヒルンヒルトと顔を合わせ、ひとりじゃないことにホッとした。
だが安堵は束の間だった。ヒルンヒルトはアンザーツの捜索を打ち切り、ゲシュタルトも探さないと放言したのだ。
「なんでだよ!?」
そう詰め寄れば「誰かが彼らの子を見守らねばなるまい」と言い返される。冷たい賢者の双眸に無性に怒りが湧いてきて、気がつけばムスケルは旅の最中ずっと堪えていた言葉を吐き出していた。
「お前が大事なのは所詮アンザーツひとりだけだもんな?」
ヒルンヒルトは笑ったようだった。
短い逡巡の後、彼が響かせたのはいつも通り冷静な声だった。
「そうかもしれない」
賢者の胸倉を掴み上げ、ムスケルは思い切り頬を殴った。
ヒルンヒルトとは気まずい喧嘩別れになった。
――それからも数年、ムスケルはふたりを探して方々を訪ねて回った。手がかりはひとつもなく、親にも友人にも早く諦めて帰ってこいと急かされるようになった。都ではアンザーツもゲシュタルトも生きたまま天へ昇ったと信じられていて、ムスケルの方が異端扱いだった。
半ば意地になって都へ戻らないでいたムスケルの元に、ある日手紙が届いた。手紙にはヒルンヒルトがゲシュタルトの娘を引き取ったことが書かれていた。賢者はアンザーツの生家に住み、その娘に武器と魔法の教育を施しているらしい。
自分がゲシュタルトを家に連れて帰りたいと言ったときは通らなかったのに。そう思うと身体が震えた。
勇者の娘。俺には預けられなくて、あいつには預けられるのか。
「……」
もう疲れた、とムスケルは膝を折った。
宿の小さな木のテーブルで俺も帰るよと返事を書き、ヒルンヒルトを手伝うと書いたところで手が止まった。
あいつを手伝う?できるわけがない。できるわけないのに他人には親しい仲間同士のように演じてしまう。
いつからこんな亀裂が入っていたのだろう。世界を救った勇者一行だというのに。アンザーツは伝説にさえなったのに。
あらゆるものが一気にどうでも良くなって、国王に勧められるままムスケルは貴族の娘と結婚した。相手は優しい女だった。少しずつ少しずつ癒されてはいったけれど、大きな傷は深いところで膿んだまま、時折浮かび上がってはムスケルを苦しめた。
ゲシュタルトの娘が十五歳になると、ヒルンヒルトは彼女と結婚した。双子が生まれたらしいと人伝に聞き、彼は彼で幸せを求めているのだろうかと考えた。アンザーツのことは上手く忘れられたのだろうかと。
だがやはり賢者は己の都合しか考えない、人を愛せぬ男のままだった。双子の片割れの女児を連れ、彼はどこかへ行方をくらましてしまったのだ。
愛する夫と生まれたばかりの我が子を失い勇者の娘は泣き伏せた。都に残った勇者の仲間はついにムスケルひとりになった。
――ドアを叩く。勇者アンザーツの育った屋敷のドアを叩く。
ゲシュタルトには言ってやれなかった言葉を、代わりのように娘に告げた。
俺が、戦士ムスケルの血筋が、ずっと側で支えていくと。
だからもう泣かないでほしいと。
次に目が覚めたとき、ゲシュタルトはもうマハトを眠りにいざなおうとはしなかった。
ただ寝台に横たわる自分を覗き込み、懐かしげな眼差しを向けてくるだけだった。
「……アライン様のところへ帰らねえと……」
絡みつく郷愁にも似た感情を振り切って声を絞る。ゲシュタルトは困った顔で眉根を寄せた。だが怒っている風ではなく、寧ろその瞳は優しげですらあった。
「駄目よムスケル、帰ったところで彼は受け入れてくれないわ。だってあの子、自分がアンザーツの血を引いていないと知ってしまったんだもの」
「……」
息苦しさに目が霞む。己を見つめるゲシュタルトの赤い目だけがいやにチカチカ眩しかった。
「ねえ、あのときあなた本当は、私が彼の子を身籠ったわけじゃないと勘づいていたんでしょう? だけど真実を知るのが怖くて逃げ出したわね?」
細い指がマハトの頬をゆっくり撫でる。責めてるんじゃないわと囁きながら。
「優しくて弱い可哀想な人。……あの子にとってあなたは必要なのかしら? 勇者じゃないとわかった今、ただ重荷になるだけではないの?」
ぴくりとマハトの指先が震えたのをゲシュタルトは目聡く見つけ、微笑を浮かべた。
アンザーツに必要とされなかった自分。
必要とされていたとき突き放してしまった自分。
ゲシュタルトの問いかけは的確すぎるほど的確に探られたくない部分を突いてくる。
「お願いよ、どこにも行かないで。私をひとりにしないで……」
あなたが必要なのよと彼女が言う。
もうあなたしかいないのと。
「ふたりであいつらに思い知らせてやりましょう?」
拒むことはできなかった。
マハトの中で甦ったムスケルの記憶が、痛いほど彼女の手を取りたがっていた。
******
勇者として生きれば生きるほど自我が失われるという話も、魔王を倒せば天変地異が引き起こされるという話も、俄かには信じ難かった。それを仕組んだのが神様だという話はもっと。
ベルクは別にトルム教信者ではない。それでもこうして「いくらなんでもそりゃ嘘だろ」という抵抗が起きるのだから、他の面々の心境は想像に難くなかった。
「……実際にファルシュと会って話したのはぼくらだけだから、信じろというのは難しいかもしれないね。君たち勇者候補は誰もぼくみたいに浸食を受けてはいないようだし」
アンザーツは至極あっさりしていた。信じてもらえずとも自分たちの目指すものは変わらない、そんな心が眼差しによく現れている。
「まあ突拍子もない話だなとは思ったけどねえ。古代魔法の方が今より発展してる理由づけとしては面白かったかな。百年周期でほぼズレのない天変地異も、確かに大掛かりな魔法だと考えられなくはない。……とすると神様っていうのは一般に考えられてるよりずっと人間に近い存在なのかもしれないね。超絶長生きの大魔導師とか」
ノーティッツはベルクよりよほど柔軟に考察しているようだ。そうか、神様だと思うから先入観が働くのかと隣のウェヌスを盗み見る。思えばこれが女神なのだから、トルム神がどんなおとぼけ野郎でも何ら不思議ではないのだ。
「どうなのでしょう? わたしも気になります。わたしはお声を聞いただけですが、オーバストさんやウェヌスさんたちはトルム神にお会いしたことがあるのですよね? やはり地上の宗教観とはギャップがあるのですか?」
クラウディアがにこりとオーバストに微笑んだ。一見普段と変わらぬ笑みに思えたが、冷やりとした空気が流れた気がしてベルクは「?」と首を傾げる。
「……」
黙り込むオーバストとは対照的に、ウェヌスは「神は神です」と言い切った。ディアマントも「そんな天変地異の魔法だの勇者と魔王の自我の話だの聞いておらん!」と不快感を露わにする。
「聞かされていなかっただけという可能性は?」
押し黙ったディアマントにクラウディアは真っ直ぐな目を向けた。笑顔は少しも崩さぬまま。
「……何が言いたい?」
低下していく室内の気温に比例して緊迫は高まる。
クラウディアはついと目線をアンザーツへ向け直ると「先に申しあげておきますが」と前置きした。
「わたしはあなたを殺すよう神に仰せ遣いました。天から来たというこの方たちがそれを知らなかったのは事実です」
「……随分あけすけに言うね」
やや目を瞠ったアンザーツにクラウディアはにこりと笑いかける。「殺意があるわけではありませんから」と。
「うん、クラウディアの言う通りかな。神様がそれぞれの人にそれぞれの役割だけ伝えてるなら、ぼくらに全容が見えてこないのも仕方がない。ウェヌスたちが反論できないならぼくらは一旦魔王側の話を信用することになると思うけど」
どうだろう、と幼馴染に問われてベルクは返答に窮した。
アンザーツが何を考えているかわかったと思ったら、今度は神様とやらが何を考えているかわからなくなってしまった。天変地異云々が事実か事実でないかによって選択はまったく異なってくる。
「本当に何も知らねえのか?」
改めてウェヌスに尋ねるも、女神は「申し訳ございませんわ……」としょんぼり項垂れるだけだった。
「他にも何か神の手によって隠されていることがあるかもしれませんね」
クラウディアの言にまたオーバストが顔を歪める。その態度が気になりベルクが声をかけようとしたときだった。彼は自ら「いえ、私が存じております」と口を開いた。
「……アンザーツの話したことは事実です。トルム神は古代魔法の秘術を使って何度も世界に災害をもたらしています。ですが、ですがそれはトルム神自身の生きたかつての大地が、人間同士の争いにより滅びてしまったからです。再び同じ過ちを犯さないよう一定の管理を行っているだけで……!」
オーバストの話したことに一番驚いたのは天界のふたりだった。神様というのはとかく秘密主義らしい。自分の身内にすら大事な話を共有できないような輩は、正直ベルクの信頼には値しなかった。
「んじゃ神様は俺らに魔王を退治させて、今度こそ天変地異を引き起こそうとしてたってことか?」
答えられないオーバストを皆が複雑そうに見守る。
矛盾するかもしれないが、今の話をウェヌスが知らなくて良かったと思った。知っていて今まで笑って側にいたのだったら、怒りも悲しみも通り越してどうかなりそうだ。
「ともかく我々の成すべき第一は魔王と勇者の血肉を保存することだ。アンザーツの肉体は既に私が封じたし、憂慮していた魔王側の血も今ここにある。――エーデルと言ったな?悪いがしばらく行動を共にしてもらうぞ。君が魔王の血を継いでいるのは明らかだからな」
イデアールとエーデルが似ていると思ったのは錯覚ではなかったようだ。次から次に新しい情報が入ってきてベルクの頭では処理が追いつかない。
「……そうやって魔王と勇者の血を守って、最終的にはどうなるの?」
エーデルがヒルンヒルトに問いかける。賢者は「生命体が増えれば一個体の魔力含有率が下がって、何百年後かには魔物と人間が共生できる環境になるはずだ」と答えた。
おお、とベルクは顔を上げた。ぐるぐる回っていた思考回路が今のひとことで実にスッキリ整理される。
「それいいじゃん。丸く収まってる感じだぜ」
争わなくていいようになるならそれが一番だ。単純明快な答えである。
「だから、トルム神の元々いらした世界はそうだったんです!」
声を荒げたのはオーバストだった。
「あなた方がどう決意されようと神の意志は変わりません。綻びた理なら修正するだけで……!」
俯いたまま自分の胸を引っ掻いているオーバスト。どう見ても彼は混乱していた。神様のことはわからないが、その混乱の原因がどこにあるのかはわかってやれる気がした。
「……お前は神様が何もかも正しいと思ってんの?」
ベルクの言葉にオーバストは息を飲み込む。
それがわからないから言えなかったんじゃないですか、と苦しげに彼は呻いた。
「目先のことだけを考えるなら天変地異などない方がいい。……でもあの方はこの大陸の滅びゆく様を今でも克明に覚えています。管理しなくてもいいなどと、私にはとても言えません」
室内には妙な空気が流れ出していた。
この地に生ける者としては天変地異などもってのほかなので、勇者と魔王の血は守る。これはもう決定事項だ。魔物たちは大人しい獣になるまであと何回も生まれ変わらなければならないらしいから、襲ってくる敵は倒す。これも決定である。
アンザーツたちはできればイデアールに父の意志を伝えて説得したいそうだったが、これについては誰もが「無理だろうな」と諦めていた。何も知らなかったとは言え、彼は都を襲撃し、甚大な被害をもたらした。こちらも派手に応戦しているし、和解は難しいだろう。
問題はパーティに混ざった天界人たちだった。神の意向を重視してこちらとは敵対するという可能性が少なくない。思い留まってくれれば有り難いが。
「ウェヌス、お前どうすんだ?」
耐え切れなくなりベルクから聞いた。異様な緊張が襲いかかってきて鼓動を早める。
女神は黙り込んだ。神の言いつけで地上へ降り立ったウェヌスの立場を思えばその沈黙は当然のものだった。
「私は……今はあなたの僧侶ですわ、ベルク」
ウェヌスの笑った顔を見て情けないくらい安心した。立っていたら膝が抜けていたかもしれない。
それはノーティッツも同じだったようで、ああ良かったと大げさに胸を撫で下ろしている。
妹の出した答えにディアマントは嘆息したが、否定するようなことは言わなかった。オーバストも「おふたりの考えを尊重します」と控えめだ。好戦的な態度で出られたらどうしようかと思っていたのでひとまずホッと息を吐く。
「てことは当面の問題はあの戦士の兄ちゃんだな」
ゲシュタルトにさらわれたアラインの従者マハト。早く彼を救い出したいし、アンザーツたちも昔の仲間とは因縁があるようだ。バールによればマハトは戦士ムスケルの生まれ変わりで、それゆえゲシュタルトに連れ去られたらしい。
「ああ、いずれにせよぼくらは魔王城を目指すことになる」
アンザーツの言にベルクはこくりと頷いた。そしてここまでまったく会話に入ってきていないアラインを振り返り眉間に皺を寄せた。落ち込む気持ちはよくわかるし、それについてとやかく言いたくはないけれど。
おい、と声をかけようとしたときコンコンとドアがノックされた。呼びに来たのはノルムだった。
「ベルクさま、頼まれていたものの準備が整いました。どうぞいらしてください」
「あ、おう、サンキュ。……悪い、俺ちょっとこいつと出てくるわ」
ベルクはアラインの腕をぐっと掴むと引き摺るように歩き出す。失意の勇者はどこへ行くのかとすら聞かない。こちらを見つめるアンザーツが心配そうな顔をしていた。
ウングリュクに頼んでいたのは勇者の国の王との通信だった。ベルクが父と話したあの鏡があれば、アラインに直接自国の王と話す機会を設けられると考えたのだ。幸い魔道具や貴重品は大半が地下に納められていたのでノーティッツの暴虐から逃れることができていた。
「失礼いたします。ベルクさまとアラインさまをお連れしました」
内密の話だと言ったからだろう、通されたのは人気のない通路の先にあるこじんまりした部屋だった。鏡の前にウングリュクが待っていて、こちらへ来いと手招きする。
「……一応私は席を外すが、何かあったら呼んでくれ」
「すんません陛下。ありがとうございます」
他国の事情に首を突っ込むなど後々ろくなことにならない。本来ならこんな通信を独断で行うべきではない。わかっていてもベルクはアラインを放っておけなかった。
だってこいつは国益のために騙され続けてきたのだ。辺境の国とは戦争したくないと思ったが、勇者の国はまったく逆だ。できるなら一発国王の顔をぶん殴ってやりたい。
「アライン、いいか? 今からお前んとこの王様呼び出すからな」
「……」
アラインが小さく頷いたのを見てベルクは鏡にかけられた布を取り去った。ぼんやり波打っていた表面が徐々にはっきりした輪郭を持ち始める。映ったのは疲れた顔をした老齢の男だった。
「……お初にお目にかかります。俺は兵士の国の第三王子ベルクです」
一応と思い挨拶するが、王はベルクの顔など見ていなかった。項垂れたアラインの姿に釘づけになり、しばらくすると玉座に深く座り直して俯いてしまう。
「単刀直入に聞きますけど、アラインがアンザーツの血筋じゃないってホントなんですか?」
王はぴくりとも動かなかった。ただ何かに耐えるようじっと静寂を貫いた。
アラインも似たようなものだ。目を瞠ったまま王を凝視し、微動だにしない。
嫌な空気だった。
誰も彼も傷つくしかないような。
『……知ってしまったのじゃな。わしの祖父……シャインバール二十一世がゲシュタルトを汚させたこと……』
隣国の王は両手で顔を覆った。その姿は酷く弱々しく見えた。
多分、たったひとりの勇者に頼って生きてきた結果がこれなのだろう。この国は間違っている。
『死に瀕した父からこの秘密を聞き、何度もそなたに打ち明けようと思った。……だができなかった。真実を伝えたそなたの両親は絶望し、偽りの重さに耐えきれず死を選んでしまった。もしそなたまでそんなことになったらと思うと、どうしても言えなかったんじゃ』
アラインが大きく目を見開く。震えることさえ忘れて彼は王の懺悔に呆然とした。
「父さんと母さんが?」
だって事故じゃと掠れた音は最後まで聞き取れなかった。
苦々しくベルクは眉をひそめる。嘘で塗り固められた勇者の名前に虫唾が走った。
『わしはずっと、そなたの旅立つ日が怖かった。辺境の都が襲われてもすぐにはそなたを見送ってやれなかった。……そなたが行ってしまってからは、そなたの訃報や帰還に怯えて』
軽蔑してくれと王は言う。そんなことで解決できる問題ではなかろうに。
答えられないアラインにシャインバール二十三世は鼻を啜りながら話した。
『すまなかった、本当に。辛ければもう旅などやめて、そのまま帰ってこずとも構わぬ。そなたの好きに生きてくれれば……』
「ふざッけんじゃねえぞ!!!!!」
我慢し切れずベルクは叫んだ。鏡の向こうの王に掴みかからん勢いで。
「こいつがどんな気持ちでここまで来たかわかってて言ってんのか!? 今までどこのどいつのために戦ってきたか!!! 全部あんたらのためじゃねえか!!!!」
王はやはりベルクを見ない。アラインに対しすまなかった、すまなかったと繰り返すだけ繰り返して勝手に向こうから通信を切ってしまった。
「おい!!! ふざけんなよ!!!! おい!!!!!!」
鏡面を真っ黒に染めた後、鏡は普通の鏡に戻ってしまう。どこにも苛立ちをぶつけられず、ベルクは思い切り壁を蹴った。
後ろでアラインが膝をつく。ぺたりとその場にへたり込んだまま、彼は動かなくなってしまった。
「おい、平気か?」
平気なわけがないのはわかっているのにそう聞いてしまう自分が歯痒い。もっと気の利いた言葉をかけてやれたらいいのに。
アラインは剣の柄をぎゅっと握り締めていた。目の焦点が合わないまま「大丈夫、大丈夫……」と呪文のように繰り返す。
「これくらいのことで……。マハトを助けに行ってやらないと……」
呼吸が浅くなり始めたのを見て思い切り肩を揺さぶる。
あのときみたいに泣けばいいのにと思ったが、アラインの目は虚ろに揺れるだけだった。
******
地下空間の街を飛びながらバールはラウダの後に続く。
ついて来るなと言われるかもと思ったが、そんなことはなく揃って窓の桟に舞い降りた。
「……塔へ帰れと言ったのに」
「帰れ言われてホンマに帰るアホがおるかいな」
「天界へ戻れなくなっても私は知らないぞ」
ぶっきらぼうな物言いにバールはふう、と溜め息を吐く。彼は前より口が悪くなったのではなかろうか。
「ジブンはこのまま地上で暮らすんか? まあそれはそれでええかもしれんのう」
「そのつもりだがな。いつ消されるかはわからない」
誰にとは聞かずとも知れた。天界の者が神に逆らえばどうなるか――。
「……ま、十分長生きしたやろ。自分の好きなようにやって死ぬんやったらそれもええやん。ワシはこのまま旅を続けるで」
見守ってやりたい出来損ないの勇者もおることやしな、と笑うバールにラウダは小さく息をつく。
流れる空気に拒絶の色がないことを素直に嬉しく思った。やっと友人と再会できた気がする。
「それにしても、神と言うのはなんなのだろうな」
「ワシも思たわそれ。天界でも神殿に引き篭って出てこんかったやろ? 漠然と偉い方や偉い方や思てたけど、なんなんやろな?」
「元々人の世界にいたということは、あの少年の言っていたように本当に長寿の人間なのかもしれないな」
「……せやなあ……」
膨らむ謎に溜め息が出る。
天界における掟はたったふたつだった。
ひとつは地上を覗かないこと。
ひとつは神殿に立ち入らないこと。
特例的に側仕えを許された者も中にはいると聞いたことがあるが、それがオーバストなのだろうか?
どこかで外と繋がっているせいか、先程からずっと生温い風が吹いていた。
ついて来いと命ぜられるままオーバストはディアマントの後ろを黙って歩く。特に目的地があるわけではないらしい。
人のいない四角い丘までやって来ると、ディアマントはこちらを見もせず喋り出した。彼には珍しく淡々と。
「……オーバスト、私はあの女を殺さねばならんのか?」
魔王の血と肉が人間の女にも分け与えられていた事実に彼は衝撃を隠せないようだ。アンザーツの語る話に余計な茶々を入れなかったのは、そうする余裕もなかったためらしい。
「……魔王を滅ぼすにはその血も肉も魂も消滅させる必要があるのだろう? 私は父から魔王討伐を命ぜられた。父に背くという選択肢は私にはない。だったら……」
だったら、とディアマントは言葉を切る。隠しきれない彼の戸惑いにオーバストは唇を噛んだ。できればずっと何も知らないままでいてほしかったけれど。
「私に魔物殺しの話をしたとき、あの女が魔王の血を引いているかもしれないと知っていたのか?」
「……」
オーバストは答えられなかった。
知らなかったと言えば嘘になる。人間の少女で、素手で魔物と渡り合えるような者はまずいない。勇者でさえ武器を持って戦うのが普通なのに。
「……知っていたのだな? なら何故私にそう教えなかった?」
向けられた背中からディアマントの怒りが伝わってくる。かろうじて口に出せたのは「申し訳ありません」という謝罪だけだった。もっと何か言わなくてはとオーバストは焦って言葉を紡ごうとする。けれどディアマントに説明してやれることなど何もなかった。
ちらとだけオーバストを振り返り、苦い顔のままディアマントは飛び去ってしまう。
その姿が見えなくなるまで立ち尽くした。
(何故教えなかった……か)
本当にどうしてだろう。自分でも自分の心がぶれすぎていて呆れてしまう。
神の意に沿いたいのか、ディアマントに幸福であってほしいのか。
――本当の私はどちらなのだ。
自分の進むべき道がわからなくなったのは初めてだ。
こんなことは今までになかった。父である神を疑うようなことは。
地下の天井すれすれを飛びながらディアマントはエーデルを探した。見つけてどうするつもりかはわからなかった。ただ話がしたかった。
どこにあっても目立つ紅の髪は五分も飛べば見つかった。だが彼女の前に降りようとして、先客がいるのに気づく。クラウディアだった。
「……まさか自分が魔王の血縁だとは思わなかったわ」
初めから盗み聞きをするつもりだったわけではない。声が聞こえてきて動けなくなった、それだけだ。
エーデルはやや荒れていた。もう涙も枯れてしまったと自嘲気味に嘆いていた。
あれだけ強い力を有していながら何故悲嘆するのか不思議ではあるが、エーデルは普通の娘に戻りたいと考えているらしい。普通であってもそうでなくても彼女は彼女でしかないのに。
「……寧ろ良かったんですよエーデル。皆概ね魔王を生かす方向で考えているわけですし、イデアールが我々と敵対するならあなたは絶対に生き残らなくてはなりません。あなたを守りたい気持ちはわたしの中でいっそう強まりましたよ」
そんな彼女にクラウディアは優しく語りかける。
騙されるなと叫びたかった。人間は魔物を殺す。勇者のお告げを受けたならもっとそうだ。そいつはいつかお前に噛みつくぞと言いたかった。
だが声は喉奥に押し込められたまま、ディアマントの呼吸を苦しくするだけだ。
「魔王の血なのよ? 危険かもしれないわ。あたし、あなたに迷惑をかけることになるかもしれない。不幸にしてしまうかもしれない……」
不安そうな彼女をクラウディアがそっと抱きしめる。エーデルは目を瞠って、それからすぐ僧侶の肩に縋りついた。
雷に打たれたような衝撃が走った。ディアマントにはその光景を見下ろすことしかできなかった。
「クラウディア、あたし怖い。ほんの二年前までどこにでもいる平凡な人間だったのに、どうしてこんなことに巻き込まれてるの? あたし特別な人間なんかじゃないわ。魔王の血なんて言われてもわからない」
「エーデル」
「大それた望みなんて持ってないのよ。ただありきたりの、普通の幸せがあればそれでいいのに、どうしてなの。いつか魔物の血が誰かを、あなたを傷つけるかもしれない。なのに死ぬのも駄目なんて、あたし、あたしもう……!」
「エーデル!」
クラウディアは彼女の耳元で叫んだ。落ち着かせるよう華奢な背を撫で、僧侶は僅か身を離す。そうしてふたりで見つめ合った。
「わたしがあなたを守ります。あなたに与えられた魔の力を封印する方法も、必ず見つけます」
だから安心してくださいとクラウディアは笑った。エーデルの黄金の目から涙が溢れた。
一瞬の口づけがかわされるのを、どうしていいかわからないままディアマントはただ見ていた。
さっきまで胸の中を満たしていた靄はたちまちに消えてしまう。
代わりにもっと不可解な感情と、もうどうでもいいではないかという無気力が満ちた。
(思い出せ、何のために私は地上へ降りてきたのか……)
あんな娘のためではない。
決して。
精神体と言えど、力を使えば消耗はする。
ヒュドラとの戦い、ゲシュタルトとの邂逅で疲弊したアンザーツにヒルンヒルトは休めと言った。このうえアラインの心配までしてやる必要はないと。
偽の血統が続いてしまった責任を取らねばならぬとすれば、寧ろ自分の方だった。もう一度アンザーツに会うためだけに、正せたものを歪めたままにした。己の血にしか強い憑依の術はかけられなかったから。
「……ゲシュタルトはわかってくれるかな」
寝台に潜り込みながらアンザーツがぽつりと呟く。
彼のためにも勿論和解が望ましいけれど、ゲシュタルトがアンザーツを傷つけるなら自分は戦うことを厭わない。
だが敢えて何も口にせず、アンザーツには眠りの魔法をかけてやった。
この先で彼を待つものに穏やかで優しいものなど少なかろう。休めるときにゆっくり休んだ方がいい。
(……いや、恨まれているのは私かな)
自嘲の笑みを刻んでヒルンヒルトは寝室を後にした。これからラウダを探してどのルートで魔王城を目指すか相談しておきたかった。
魔王城にはイデアールの張った結界があるため転移魔法を使えない。企みが神に露見しているので聖獣ラウダトレスの翼も却下だ。通常ルートである岩山の洞窟は百年前に魔王ファルシュが勇者の到達を防ごうと埋め立ててしまった。何らかの手段を講じる必要があった。――だが。
ヒルンヒルトは廊下の途中で立ち止まると、くるりと踵を返して来た道を引き返した。今しがた離れたばかりの部屋に人の気配を感じたからだ。
「何のつもりだ?」
白いコートの背中に杖を突きつけながら問う。彼が天界人だということは元より、担いだ大剣に手をやっていることに警戒心が強まった。
ディアマントは眠るアンザーツの顔を眺めていた。窓は開いたままになっていて、そこから入ってきたのだとわかる。
「別に、この男の実力がどんなものか知りたかっただけだ。肉体が滅びぬ限り精神体は滅びんのだろう? そう目くじらを立てるな」
「だがダメージは負う」
笑った男にヒルンヒルトは静かに答えた。不快と怒りを滲ませた声で。
肩越しに睨み合ったディアマントの次の台詞は賢者を更に不愉快にした。
「……勇者を代替わりさせたくばこの男を殺せばいいわけか。その前に邪魔な腰巾着を始末する必要がありそうだが」
「所詮天の人間は天の言いなりということか。戦いたいなら表へ出ろ、相手になってやる」
バチバチバチ、と火花が散った。
ディアマントの剣とヒルンヒルトの稲妻がぶつかり合い、その余波で壁の一部が崩壊する。金髪を翻して彼はなおも突進してきたが、風を使ってひらりとかわした。近くの家に入っていた住人がなんだなんだと騒ぎ始める。
「街を傷つけるつもりはない。上へ行くぞ」
そう言って土魔法を構築するとヒルンヒルトは硬い天井に穴を開けた。ディアマントは魔法弾でヒルンヒルトを狙いながらついて来る。
瓦礫の山と成り果てている地上へ出ると、星も見えないほどの曇り空だった。月だけはかろうじて仄かな光を放っていたが、これならランプで照らされた地下街の方が明るそうである。
夜目の利きにくい中でディアマントの白いコートはよく目立った。的を探すのに印をつける必要もなかった。
あちらから向かってきたのだから遠慮は不要だ。氷の刃、炎の鞭、かまいたち、畳みかけるよう幾重にもディアマントを囲んで襲う。もっとスマートに戦うのかと思ったが、意外に彼はがむしゃらだった。投げやりとか八つ当たり的と言えたかもしれない。ただ暴れたいだけのようにも見えた。
「ちょこまかと鬱陶しい!!」
大剣はお飾りではなかったらしい。軽い魔法ならそれで易々凪ぎ払ってしまう。剣圧でこちらを両断しようと彼は高く剣を掲げた。
そこへ騒ぎを聞きつけた数名が地下から駆けつけた。
ヒルンヒルトによる業火の攻撃を、ディアマントを庇った男が竜巻で吹き飛ばす。オーバスト、彼も天界の人間だ。
「なに仲間割れしてんだよ!」
叫んだのはノーティッツという少年だった。それに対しディアマントは「仲間になった覚えなどないわ!!」と声を荒げる。
彼はじっと地上の一点を睨みつけていた。魔王の血を引く娘と、アンザーツを殺すよう頼まれた僧侶を。
「……今度会ったときは貴様らも敵だ」
行くぞオーバスト、と彼に呼ばれてオーバストはおろおろしながら結局は側に寄っていく。
飛び去ろうとした彼らめがけ特大の火球をぶつけてやろうとしたが、「やめてくださいまし!」とウェヌスに制されひとまず断念した。あまりやりすぎて折角得られた理解を失うのは惜しい。
「何があったの? あの失礼馬鹿男はどこへ行ったの?」
ふたりの姿が消えた夜空を見上げつつ、エーデルが動揺した素振りで尋ねた。
ヒルンヒルトが嘆息すると、濃い色の雲からぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
良かったんですかとオーバストが尋ねてもディアマントは強がるだけで本音を話してくれない。
「そもそも天界人が人間と戯れている方がおかしいのだ。私は父の神託通り魔王を殺す。ついでに勇者も、勇者候補もな」
そんな風に話すだけで、エーデルへの思いからはわざと目を逸らしているようだ。
(……魔物殺しの話などしない方が良かったか)
彼にこんな選択をさせるくらいなら、何もしなかった方がずっと。
もっともあのときはそこまで深く考えていたわけではない。ただディアマントが毎日山のように魔物を殺しているのを見て、これ以上強くなってしまうのが怖いと思っただけだった。
魔物を狩れば狩るほど、それが強い魔物であればあるほど、倒した者の手に入れる力は大きい。
相手がディアマントより強く、ディアマントを殺さないなら誰でも良かった。
(成長をお止めしたいと思ったのが誤りだったか……)
「オーバスト、貴様アンザーツの身体がどこにあるか見当はつくか?」
雨に打たれながらディアマントは羽ばたき続ける。けっしてオーバストを振り返らずに。
「……多分わかると思いますが……」
「そこへ連れて行け。まずは勇者の身体から潰す」
泣いているのだろうかと心配だった。
天の国でトルム神にディアマントを預けられてから、傷つくことのないように誠心誠意尽くしてきたつもりだったのに。
(勇者も魔王も殺してしまえばあなたは――)
零れかけた言葉を飲み込み、オーバストは不安を打ち消すようかぶりを振った。
クラウディアの言う通り、見張られているのは自分なのだ。
何も伝えることなどできない。
******
ディアマントとオーバストが出て行ったと聞いたときは、驚きとともにやっぱりかという気がした。ディアマントはウェヌスの兄だし、オーバストには随分世話になったので、剣を交えるような事態にならなければいいとは思うが。
ベルクは落ち込むウェヌスを見やって何とも言えぬ溜め息をついた。ともあれ天界人の離反により女神も微妙な位置に立たされてしまったのだ。なるべく目を離さないでやらねば。
(あちこち問題だらけだな……)
沈んでいるのはウェヌスだけではない。アラインもだ。ひとことも口をきかないレベルなので、もしかするとウェヌスより精神状態は危ういかもしれない。
辺境の都の正門だった場所で、群衆とウングリュクに見送られベルクたちは出発した。とてもじゃないが笑顔で手を振る気になどなれなかった。
今度の目的地は辺境の北部で唯一生き残っている山門の村だ。魔界へ続く道を塞ぐ神殿のある場所だった。
「新しい武器貰えて良かったね。その剣とか国宝級だろ絶対」
「ああ、そうだな」
いつもの調子で話してくれる幼馴染の存在が有り難い。
都の結界を張り直してなおノーティッツの魔力は有り余っているようだった。これからますます戦闘が厳しさを増すことを思うと本当に頼もしいレベルアップだ。伝説の勇者と大賢者が加わった大所帯のパーティなので、滅多なことはないだろうが。
「イヴォンヌさん、ただの女店主じゃねえとは思ってたけどスゲー人だったんだな。帰ったら逞しくなった息子の姿見て喜ぶんじゃねえ?」
「うーん、そうだねえ。国に帰るまで受け取った魔力が残ってればの話だけど」
ノーティッツ曰く、特殊な魔法を特殊な形で受け継いだので今回得た魔力は使い切ればなくなってしまうとのことだった。
「丸一日経過しても力が全部戻ってこないし、そうなると使いどころが悩ましいな」
「なんだ、シケてやがんな。まあお前がぶっちぎって俺より強くなるのも面白くねえけど」
「……そんな言い方するなよ。きっとこの方が良かったんだ。今まで通り地道な努力を積み重ねて強くなってく方がさ」
見上げた空は曇天。またひと雨来そうだな、と幼馴染も天を仰ぐ。
あの雲の上で自分たちを見下ろしている存在がいるのかと思うと鼻持ちならない気分だった。
(20120615)