第十三話 傷跡






 久しぶりに見たアラインの顔が別れる前と変わっていなくてホッとした。ノーティッツと同じように虚ろな眼差しを向けてきたらどうしようかと柄にもなく不安だったのだ。
 幼馴染は未だ眠りから目覚めることなく道端にうつ伏せている。何事もなくいつもの彼に戻ってくれればいいのだが。
「それで今はどういう状況なんだ? 全然人の気配がないけど、皆どこかに避難してるの?」
 アラインの問いに応えてベルクは簡単にこれまでの経緯を説明しようとした。神鳥の剣を鞘に戻し、目を合わせてこくりと頷く。
「破滅の魔法が発動しても大丈夫なように、住民は全員ウチと辺境の国で預かってる。けどその移動が終わらねえうちにアペティート軍が都を襲って来たんだ。連中、好き放題に鉱山を漁ってやがるぜ。ビブリオテークとも完全に戦争じょうた……」
 台詞の途中でひゅーんと風切り音が響いた。全員一斉に空を見上げる。どうやら接近していたビブリオテーク船が砲撃を開始したらしかった。
 威嚇か、或いは潜伏兵を燻り出すつもりなのだろう。重い鉄の塊が放物線を描き何十発と降り注いでくる。
 まだ何の話もできていなかったのに、アラインの行動は早かった。うねる旋風を身に纏い、あっという間に空高く駆け上がると、勇者は神鳥の盾を薄く巨大な膜に変化させ攻撃を海まで跳ね返してしまう。元々アラインの聖石は盾の形を取っているが、そんなにあっさり形状を変えられるものなのかと驚いた。
 ギリギリでオリハルコンの届かなかった区域には崩壊音が響き渡る。立ち昇った土煙に要らぬ意地と根性を発揮し、アペティートの飛行艇が軌道を変えようとしているのが見えた。火事はもう収拾がついたのだろうか。ゼファーの横っ腹で燻っていた黒煙は確認できなくなっていた。
「アライン! あの空飛ぶ船まで来たらややこしいぞ! 呪符を大量に積んでるはずだ!!」
「成程、上空からなら悠々攻撃できるってわけか。わかった、あっちは僕が何とかする。悪いけど、皆は海へ回ってくれないかな? 沖の船に関してはマハトの判断に任せたよ!」
「了解っす!!」
 王都の間近まで迫った飛行艇を睨み、アラインは街の南側へ飛んで行く。伸ばしかけた手を引っ込めてイヴォンヌがかぶりを振った。後でいい、もう少し落ち着いてから――、そんな思いがあることは推察するまでもない。
「悪いが俺はここに残るぜ。誰かが見ててやんなきゃならねぇだろ」
 傍らのノーティッツを顎で示してベルクは言った。飛行艇でアペティート兵から引き渡された顔馴染もいる。破滅の魔法は相変わらずおどろおどろしく発光しているし、見張り番は不可欠だろう。
「わかった。そんじゃイヴォンヌ様のことも頼む」
「私の守りは結構です! マハト、私も海へ参ります」
「イヴォンヌ様は駄目ですよ!! アライン様が戻るまでって約束だったでしょう。これ以上無茶してあなたに何かあったらアライン様が悲しみますんで」
「……っ」
 付いて行こうと駆け出したのを片手で制されイヴォンヌは立ち止まった。聞き分けてくださいと諭す戦士にそれ以上何も言えず、王妃は俯き唇を噛む。結局沖へはマハトとツヴァング、ヒルンヒルトの三人が向かった。
「つらいものですね……。足手纏いになるというのは……」
 自国を制圧されている現状ではそう感じても仕方がないのかもしれない。イヴォンヌの嘆きには多分に自嘲の念が込められていた。結婚式ではあんなに晴れやかな笑顔を見せていたというのに。
「別に、大事にされてるだけだろ。あんたの役目はそもそも戦うことじゃねえんだから。ひとりで王妃も騎士も魔法使いもこなす気か?」
「……そうですね、何でもひとりでこなそうと言うのは乱暴な考えです。ですがあまりに何もできず、不甲斐なくて」
 ベルクとイヴォンヌのやりとりにゲシュタルトの溜め息が挟まった。似た者夫婦だわねぇと。
「少なくともあの子はそれをやろうとしてるわよ? 勇者も賢者も王様も、他にも手を出しかけてるんじゃないの? 良いことか悪いことかは知らないけど、あの子を叱ったり支えたりしてあげるのがあなたの……やっぱり何でもないわ」
 注がれる視線に耐えかねゲシュタルトは台詞を中断した。ベルクの知らぬ間に刺々しかった天界での態度はどこかへ行ってしまったようだ。まさか王族であるイヴォンヌに助言しようとするところまで打ち解けるとは思わなかった。
(そうだよな。一ヶ月も二ヶ月もありゃ人間が変わるには十分だよな)
 少し嬉しそうに表情を和らげた王妃とは対照的に、ベルクの心中には翳りが差す。変化がいつも良いものであるとは限らない。ほんの少し離れていただけだなんて、幼馴染が目を覚ましたとき自分に言えるだろうか。遅すぎたなんて思いたくはないけれど。
「やはり私、ビブリオテーク船に乗り込むことにいたします。ここは王妃たる私からお引き取り願うのが筋でしょう」
「ちょっとイヴォンヌ!」
「連れて行って下さい、ゲシュタルト。この国が誰の国か、私の口で伝えねばなりません」
「……っ!! しょうがないわねぇ!!」
 他人が眩しくて後ろ暗いなど初めてだ。
 浜辺へ向かい走り出したふたりを見送ってベルクは力なく嘆息した。






 さてどうするという賢者の問いに、マハトは極力死人を出さずに帰ってもらうと即答する。
 自分は軍人だし、主君と国を守るためなら命を奪い合うことも厭わない。だがその主の意向がそういった対応から離れたところにあるのも知っている。であれば無用な争いは避けるべきだろう。おまけにビブリオテークは一応、兵士・辺境の国の同盟国なのだから。
「問題はどうやって追い返すかだな。二十隻か、確かもっといたはずだ。砲台を潰して戦意を喪失させるにしても何か策がなければ」
「あ、じゃあ波を起こすのはどうですか!? 海が荒れていれば舵がきかないでしょう!?」
 ツヴァングの提案にヒルンヒルトはほうと頷いた。真正面からぶつかり合う以外の考えが青年の口から出てきたことにマハトも目を瞠る。ついこの間まで頭も性格もガチガチだったのに。
「成程、それならひとまず射程距離外まで強制移動させられそうだ」
「大丈夫か? 魔力もつのか?」
 波を荒すなど素人のマハトが聞いても大掛かりそうな魔法だった。案じるこちらに賢者は涼しげな微笑を浮かべる。
「足りなくなったら補給に戻るさ」
「……」
 こいつは俺を燃料タンクか何かと勘違いしているのではなかろうか。返事の代わりにマハトは思い切り顔を歪めた。
「そんじゃ船はそっちで頼む。前線が混乱してる間に俺らはアンザーツたちと合流しとくぜ」
「ヴィーダはどうする? おそらく彼は魔力の大半を使い切っている。今なら捕えられるかもしれないぞ」
「うーん。そいつはエーデルに任せるか」
 了解の声とともにマハトたちを運んでいた風がふたつに別れる。ヒルンヒルトはそのまま沖へ飛び、マハトとツヴァングは砂浜に着地した。
 船から投げ出されたアペティート兵を拾っていたアンザーツ、クラウディア、エーデル、ディアマントがマハトを見つけて駆け寄ってくる。アラインが復帰したという話は既にラウダから聞き及んでいたようで、アンザーツには「これでひと安心だね」と労われた。「ホンマに良かったわ」と呟くバールの声も涙混じりである。そんな中、エーデルだけが随分と憤慨した様子で「ビブリオテーク船の男があの子を撃ったのよ!!」と捲くし立てた。
「もう、なんなの? どうして自分の娘に銃なんか向けられるの? 都にも大砲を撃とうとするし……! アペティートも無茶苦茶だけど、ビブリオテークも大概だわ……!!」
「エーデル……」
 平静を欠く彼女をクラウディアがなんとか宥める。この状況で提案するのは酷かもしれないと躊躇しつつ、マハトは今がヴィーダを捕縛するまたとない好機であるのを告げた。
「大賢者も魔力が尽きればただの男か。……オリハルコンも奪えるかもしれないな」
 行ってくると言うディアマントを引き留めたのはやはりエーデルだった。この戦時下で彼女は少し優しすぎる。勿論それがエーデルの長所でもあるのだが。
「だったらあたしも行くわ。もう、なんでか放っておけないのよ。あの馬鹿男」
 見上げた空にヴィーダの姿はなくなっていた。虚脱した彼は風を失い落下したらしい。
 海上ではヒルンヒルトが波を操り始めていた。賢者目掛けて鉄砲の弾が飛び交うが、当たり前に銃弾は霊体を通り抜けていく。
「わぁ、魔力が戻るとやっぱり凄いねヒルトは」
「そ、そうだな……。くそ……っ」
 悔しいがアンザーツの言う通り当てになる男だ。自分だって魔法が使えればあのくらいと思わなくもないが、コンプレックスを持ち出すとキリがないので封じ込める。
(役割分担だ役割分担。あいつはあっち、俺はこっち!)
 溺れて水を飲んだり傷を負ったりしているアペティート兵はまだまだたくさんいそうだった。アラインなら迷わずそうするだろうとマハトも海に入っていく。
 引き揚げられた兵の大半は暴れることなく大人しく縮こまっていた。アペティート国内で戦争をしたがっているのは上層部だけだというのが身に染みる。家族を養う給金欲しさに入軍したと思しき数人が「ここの配属なら安全だって聞いたのに」とか「殺し合いにはならないって聞いたのに」とか嘆くのが聞こえた。これでは軍人というより民間人だ。本当に、どうなっているのだあの国は。






 大自然に逆らうほどの魔力はなくとも、大自然の力を借りて放つ魔法なら僅かな労力を差し出すだけで事足りる。あの青年の言った「波を起こす」は風魔法で船を押し戻すより遥かに楽で効率的と言えた。実際には高波でなく別の事象を起こすつもりでいるのだが。
「では早々に立ち去ってもらおうか」
 突如船団の中心に出現したヒルンヒルトを見て黒軍服のビブリオテーク兵たちが騒ぎ出す。「気功師だ!」「魔法使いだ!」と指差す彼らの辞書に賢者という言葉は載っていないらしい。
「撃て! 撃てーっ!!」
「……ふん」
 肉体がないのでいくら物理攻撃を仕掛けられようと痛くも痒くもない。素通りするだけの銃撃は無視してヒルンヒルトは土魔法で海底の土と大岩をごっそり持ち上げた。太陽光が遮られ、辺りはほんのり薄暗くなる。
「わっ……! うわゎゎ……!!」
「退避!! 退避だーッ!!!!」
 賢明な船長は既にその場から船を離れさせていた。ばらばらに砕いた礫の刃で木造船に穴を開けてやったけれど、こんなものは前座に過ぎない。
 海は繊細だ。地形が崩れればそれだけで渦が発生し、船の操舵など不可能にしてしまう。
「急げ! 引き返せ! 船同士でぶつかるぞ!!」
 ゴゴゴゴと不穏な音を立てる大渦を避け体勢を立て直す船団に、ヒルンヒルトは続けざま火を放った。これは単なる時間稼ぎだ。彼らが対応に手間取る隙に、都の沿岸へ近づいてこれぬよう渦潮の発生ポイントをふたつみっつと増やしていく。
 苦し紛れに放たれた砲弾は何の意味も持たなかった。無駄撃ちはよせと止める指揮官のいる船はまだ恵まれている。
「諦めてさっさと退散することだ。私より数段手強い男も目を覚ましてしまったしな」
 一番手近にいた船の三十基ほどある砲台を見せしめ代わりに爆破させると船団は完全に沈黙した。中には降伏のポーズを取っている者もいる。
 残りは港に潜り込んだ一隻か、と都を振り返った視界に亜麻色の髪の青年が映った。そのすぐ隣には彼女を守護する仲間の霊が浮いている。
「おやおや」
 確か姫君はマハトに来るなと釘を刺されていたはずだ。止めるべきかどうか逡巡し、ヒルンヒルトは見なかったことにした。
 仮にも勇者が伴侶と選んだ女だ。余計な口など出さずとも大丈夫だろう。それにイヴォンヌは真っ直ぐ港の船に向かっていた。首長アヒムを乗せた主力船だ。剣も魔法もろくに扱えない彼女がどうやってあの男を追い払うのか、なかなか見物ではないか。
 ヒルンヒルトはこっそり空から地上へ降りるとイヴォンヌたちとは逆方向からアヒムの船に近づいた。






 空飛ぶ船を見るなんて初めてだ。鉄鋼でできた巨船が本当に雲の高さまで浮いている。画期的な乗り物だなとアラインは感心しきりだった。空飛ぶ人間がいることの方が、あちらの国では異常なのかもしれないが。
 飛行艇の前面は広い窓のついた操縦室になっていた。船は直下の対象のみを攻撃する仕様になっていて、真正面に敵が現れた場合の対策はしていないようだった。
 アペティート軍総司令官ブルフ・フェーラーの傍らに帝王ヴィルヘルムの姿を確かめアラインはにっこり笑った。詳細は未確認だが、他人の国で随分好き勝手に振る舞ってくれたようではないか。
「聞こえます? 陛下?」
 コンコンと硝子をノックすれば無作法にも銃口が向けられた。話し合う気などないようなので、こちらも遠慮なく武力行使に移ることにする。
 とは言え事を荒立てる気ではなかった。悪さをする子供には家に帰ってもらうというだけの話である。
「お久しぶりですね。ごきげんいかがです?」
 オリハルコンをレイピアに変えフロントガラスを突き破り、アラインは操縦席の手前に降りた。一瞬後には銃声が鳴り響いたが、弾はすべて皮膚に届く直前で止まる。ぱらぱらと鉛の粒が落とされるのに兵士たちは震え上がり、ヴィルヘルムは真っ赤な顔で舌打ちした。
「……っヴィーダに君は眠っていると聞いたんだがな」
「ああ、僕ならついさっき起きたところなんです。寝ぼけてますし、何のお構いもできませんので、今日のところはお帰りいただけますか?」
「お断りだ」
 バンと勢い良く開かれた扉の向こうには長銃よりもひと回り大きな銃火器を構えた兵士の列。拳くらいの鉄球が間髪入れずこちらへ向かい放たれる。
 だがそんな玩具でアラインを傷つけることはできなかった。結界の中に爆発物を閉じ込めてしまえば爆風すら漏らすことなく鉄片の四散する様子を観察できる。燃焼する赤とオレンジの炎を横目にアラインは両手を広げた。
「僕ね、科学というものにも興味があって、自分で色々調べてみたことがあるんですよ」
 バチバチと火花が弾け、雷光が室内を眩く照らし出す。高圧電流を己の掌に宿すアラインを見て兵の何人かが失神した。
 自信過剰気味の帝王とて流石にこれは死を予感しただろう。本当は殺意など露ほどもないのだけれど、かけるべき脅しはかけておかなければならない。勇者の国に手を出すということがどういうことか、今一度しっかり心に刻みつけてもらおう。
「機械って落雷に弱いらしいですね?」
 笑顔のまま真後ろの操縦席に両腕を叩きつける。アラインの手を離れた雷撃は瞬く間に飛行艇を駆け抜けて、あちらこちらの回路をショートさせた。
「……ッ!!」
「た、大変です! 計器すべて落ちました! 制御不能! 墜落します!!」
 傾き始めた船の中はすぐに悲鳴でいっぱいになった。バランスを崩し床を滑るヴィルヘルムが忌々しげにアラインを睨みつける。だがこちらはどこ吹く風だ。
「墜落はしませんよ。このまま帝都までお送りいたしますから」
 転移魔法はご存知でしょうとアラインは再び全身に魔力を集める。
 この飛行艇は果たして何人乗りなのだろう。今までも最大で十名程度の移動しか行ったことはない。けれど不思議に失敗する気はしなかった。
 気のせいではない。寝ぼけているのでも。――身体中に魔力が満ち溢れている。
(あの時間移動と言い、僕はどこから力を得たのかな?)
 現代に戻ってきたものの、まだわからないことだらけだ。
「さぁ行きますよ陛下!」
 黄色い魔法の光が飛行艇を丸ごと包む。
 窓の外に見えていた景色が三日月大陸のそれからアペティート帝都のそれに変わったとき、ヴィルヘルムは屈辱を抑えきれない様子でアラインを口汚く罵った。
「この化物が……ッ!! 人間のなりをした妖術師どもめ!! よくも私の栄光に水を差してくれたな!!!!」
「……」
「未開の国の王ごときが!! その術がなければ何も出来ぬくせに、偉そうに!!」
「……はぁ」
 なんだかなあと拍子抜けしてしまう。文明大国の帝王であってもこの程度か。
 この人、偉い身分に生まれついて、きっと勘違いしてしまったんだな。自分より尊い者などいないって。
 破滅の魔法を封じる前に持っていたアペティートへの警戒心は今やこの上なく薄らいでいた。その理由は簡単だ。己の魔力が以前の数倍にも膨らんで、軍事兵器を脅威に感じなくなったから。
 目覚める前にこんな無茶苦茶な転移はできなかった。海を越えるほど遠くへ、一気に何十人も。
(ああ、やっぱり僕は……)
「ッ死ね!!」
 操縦席にしがみついていたブルフが銃を突き出す。至近距離からの発砲に動じることなくアラインは小結界を張った。こんな不利な状況でなかなかの執念深さだ。感嘆に価する。
「わっ!!」
 かわしたと思ったが、男が撃ったのは普通の弾ではなかった。中に呪符を仕込んでいたようで、結界を越えてきた炎がアラインの頬を焼き焦がした。驚いた隙にまた何発か被弾してしまう。
「いったいなあ……!」
「……!!」
 今度は相手が驚く番だった。文句を述べつつ癒しの光を自らに浴びせる。あっという間に癒えていく傷を目の当たりにして、ブルフは攻撃を諦めたようだった。
 飛行艇にはすぐ動けぬほどの損傷を与えたし、王都からも遠ざけた。もうここに用はない。
「それでは陛下、お達者で」
 空飛ぶ船を穏やかに着水させたと同時、勇者の都へ帰還する呪文を諳んじる。
 足元には鉄板でなく守るべき街が広がった。ビブリオテークの国旗を掲げた軍船は一隻を除きすべて遠海へと押しやられている。
(ええと、後はあの船に出て行ってもらえればひと段落、かな?)
 風を捕まえてビブリオテークの戦列艦に近づくと、同じくそちらへ回り込もうとしていたヒルンヒルトが前方を横切った。目配せしてきた賢者が「静かに」とジェスチャーするので右に倣えで気配を消して降りていく。
 マストの天辺に身を隠し、眼下を覗けば甲板には何やら物々しい雰囲気が漂っていた。ビブリオテークの首長アヒムと司令官、ゲシュタルト、それにどこかで見覚えのある華奢な青年がぎろりと睨み合っている。
「ヒルンヒルト、さっきも聞いたけどあれって誰?」
「……見ていればわかるのではないか? 私からは教えられないよ」
 突き放す物言いに少々ムッとした。何日も、もしかすると何ヶ月も外界と触れてこなかったのだから、少しくらい親切に説明してくれてもいいではないか。それとも何か僕には伝えられない事情でも――。
(あっ)
 思い当たる節があり、アラインは足元の青年を凝視した。
 毅然とした態度で彼は――、否、彼女は船を退くように命令した。






「お引き取りを。ここはアペティートの属領ではなく勇者の国です。これ以上軍を進めることはまかりなりません」
「……なんだ貴様? 辺境の軍人ではなかったのか?」
 ビブリオテークの首長とこんな風に対峙するのは二度目である。もっと友好的な外交ができればと思うけれど、今しばらくは不可能であろう。アペティートとの対立が深まり、かの国は冷静さを失っている。
「ええ違います。この機に今まで名乗ることのできなかった非礼をお詫びいたします」
 イヴォンヌはぺこりと頭を下げ、自らの名を明かそうとした。だがそれはアヒムの嘆息によって蹴散らされてしまう。
「まったく……。魔法使いは寄越さんし、援軍に余所の国の男を入れるし、ウングリュクはとんだ食わせ者だな。だが貴様がこの国の、たとえ高貴な身分の人間であっても我々が兵を帰す理由にはならんぞ」
 戦争を始めた以上後には退けない。アヒムの双眸はそう言いたげだ。勝つか負けるか共に斃れるか、目に見える形で決着がつくまで止まれないのかもしれない。一度暴走を始めてしまったら。
「何故です?」
 イヴォンヌの問いをアヒムは鼻で笑う。その侮蔑はほんの数日でアペティートに国土を支配された国への嘲りに他ならなかった。或いは数百年もの間、濃霧に閉ざされ発展を得られなかった大陸への。いずれにせよ即戦力となる魔法使い以外のすべてが軽く見られているということだ。
「王もいない、民もいない国など国ではない。単なる土地から資源を持ち帰って誰が困る?」
 推測を裏付けるような首長の言葉に静かな怒りがこみ上げた。
 アペティートもビブリオテークも本質は同じだ。同胞以外は敵か搾取対象しかいないと思っている。同じ国の民からも利を吸い上げるアペティートよりいくらかましだと言うだけで、外から見れば似た者同士の二国である。
「それが魔の国に立ち入った本心ですか? 言葉を話す魔族とも出会ったでしょうに、あなた方には魔物たちが野の獣と同じに見えたのですね」
「だったらどうした? アペティートに滅ぼされた無人の国からアペティート兵を追い出してやろうと言うのだぞ? 感謝されてもいいくらいだと思うがな」
「ご助力は結構です」
「痩せ我慢を」
 国交のためとはいえこの不遜な男と二年も付き合ってきた辺境の王には頭が下がる思いだ。王妃としてはもっと柔和に接するべきなのかもしれないが、祖国を馬鹿にされていると思うとどうしても我を排除し切れない。イヴォンヌの隣でイヴォンヌ以上に目尻を吊り上げているゲシュタルトがいなければ、今頃アヒムに飛びかかっていたかもしれなかった。
(……そう、ひとりじゃないんだわ)
 私憤があっても力を貸してくれた人がいる。待ち侘びていた英雄の帰還も叶った。
 民のため、傷ついた国を一刻も早く立て直すのが王族としての己の使命だ。こんなところでもたもたしているわけにいかない。
「いいえ、我が王は今日ここに戻りました」
 イヴォンヌの声にアヒムは僅か目を瞠る。新王の不在については彼の耳にも入っているだろう。だが破滅の封印に関してはどこまで聞き及んでいるか不明だった。アヒムもアペティートの帝王もアラインが戻ってくる可能性など万に一つもないと考えていたかもしれない。
 けれど自分たちは違う。この地に住まう人間は、ひとり残らず勇者の不滅を信じていた。
「我々は勇者のもとに集う民、たとえ都が崩されようと、勇者在る限り国は潰えません」
 お引き取りをと強い語調で繰り返す。
 アペティートともビブリオテークとも違う国を、在り様を、どうにか彼に見せたかった。アラインが魔王や魔物を退ける以外の道を示してくれたように。
「……王が戻ったなどくだらんでたらめを。大方アペティート兵に殺されたのを隠そうとしているだけだろう?」
 退けと言わんばかりにアヒムが長銃の先をイヴォンヌに向けた。すかさずゲシュタルトが結界を構築してくれる。
 話を聞き入れ撤退してほしかったのに、アヒムの耳にイヴォンヌの言葉は届けられなかったようだ。

「僕ならここですよ?」

 と、そのとき頭上からアラインの声が降ってきた。いつの間にアペティートの飛行艇を追い払ったのか、白いマントを広げて悠々と甲板に舞い降りてくる。
「!?」
「初めましてアヒム首長。ようこそ勇者の国へと申し上げたいところなんですが……」
 夫がわざとらしいほどの笑みを作っているときは大抵本音とギャップのあるときだ。握手を求めることもせず、彼は「ほら、お仲間があちらで待っておられます」と水平線の彼方を指差した。見れば海には幾つもの大渦が発生しており、それらに阻まれる形で船団が右往左往している。
「……ッ、お前も気功師だったな……」
 今更舌打ち程度で怯む夫ではない。にこにこ笑って「いいえ、勇者です」とアヒムの発言を訂正する。
 経験か、本能か、首長もビブリオテーク兵たちもアラインには銃口を向けようとしなかった。戦っても勝てぬ相手だと直感で悟ったのだろう。
「この地にいるアペティート軍は僕らでなんとかしますから、首長は首長の国と民をお守りください。アペティートはどうやら空飛ぶ軍船を開発したようですし」
「……!」
 飛行艇の話はアヒムも寝耳に水だったようだ。空路からならヒーナの妨害を受けずに好きな土地を攻めることができる。ビブリオテークとしてはすぐに何らかの対応を考えねばなるまい。
「本当か?」
「さっきまで南の空に浮かんでいたのがそうですよ。誰かひとりくらい見た人間がそちらにもいるのでは?」
「……帰るぞインゴ。情勢が変わりすぎだ。戦略を練り直す」
 アヒムは眉間に濃い皺を拵えて部下にそう命じた。インゴと呼ばれた司令官が頷き追従する。
 船は間もなく岸を離れ、波の上をゆっくりと滑り出した。
「……それじゃ僕らも行こうか。マハトたち待ってるだろうし」
「あ、え、ええ」
 当然のごとくアラインはイヴォンヌに手を差し出す。まだ正体を見破ってもらっていないのにいいのかしらと怖々寄り添った。
「ごめんね。僕がいなかったせいで苦労させちゃったみたいで……」
「えっ……」
 夫の掌がイヴォンヌの左手を優しく包み込んだ。銀のリングをなぞる指は明らかに確信を持ってそうしている。
「あーら、陸に戻るには丁度良い風が吹いてきたわねえ」
 わざとらしくゲシュタルトが顔を背けたと同時、婚礼の続きのようにふわりと抱き上げられた。
「あの、アライン、この姿では」
「もう元に戻ってもいいでしょ? ね、イヴォンヌ」
「……!!」
 名前を呼ばれた瞬間身体の内側で何かが弾けて視界が光に覆われた。
 ハッと気づけば輪郭は元の通り丸みを帯び、胸にも弾力が戻っている。
「……アライン……」
 肉体の変化には慣れたと思っていたのに、安堵で胸が苦しかった。最悪一生このままでも構わないとさえ誓ったはずなのに。
 短くなった髪を見てアラインは落ち込んだ様子だった。また伸びますと微笑んで夫の肩にぎゅうと掴まる。
「じゃあ行くよ」
「はい!」






 ******






 ――また殺せなかった。
 いつまで続けるつもりなの。
 早く終わりにしたいのに。
 早く楽になりたいのに。

「……」

 冷たい聖石の玉座に血塗れの身体を預け、クライスは蹲った。
 ルイーネの城は今では魔王城などと不穏な名前で呼ばれているらしい。
 でも知っている。呪われていたのはこの城ではなく自分だったと。

(……ついに見捨てられたわね……)

 シュルトの父より随分ましな父だったのに、それでも駄目だった。
 敵国の皇子との密通は、アヒムには到底許せなかったのだろう。
 愛してはいけないものを愛してしまった自分が悪い。クライスをアペティートへやったのは他でもない父だけれど。

(ヴィーダもわかってくれない……)

 五芒星は彼の左手にも宿ったのに。彼だって破滅に関する記憶を取り戻したはずなのに。
 一緒に死ぬと言ってほしかった。
 自分にとってはそれが「愛している」と同じ意味だった。

(違ったんだわ)

 所詮彼の囁く愛など、人形を飾りつけるのと何ら変わらぬ行為だったのだ。
 そんなことはラーフェに力を奪われた朝に理解していたはずだったのに。

「……殺さないと……」

 今度こそ、どんな魔法を使ってでもヴィーダを殺さないと。
 どんな大きな、禁じられた魔法を使ってでも。






 ******






「……成程ねえ、僕のいない間にそんなことが……」
 隣国の王城で行儀悪く夕食をつつきながらアラインは嘆息する。料理の盛りつけられた皿を持ち込んだ会議室にはイヴォンヌ、マハト、ツヴァングら母国チームと、アンザーツ、ヒルンヒルト、ゲシュタルトら天界チームが集まっていた。この場にいないエーデルたちはされるがまま捕縛されたヴィーダの見張りに、ベルクとウェヌスは昏々と眠り続けるノーティッツの側についている。二羽の神鳥には引き続き勇者の国の巡回を頼んでいた。
「混乱に乗じてアペティートが侵攻してくるかもしれないなとは思ったけど、オリハルコンの破損だの、ヒーナの代替わりだの、気功師だの大賢者だのは考えつきもしなかったよ……」
「いやいや、考えついてたら逆に凄すぎですって」
「でも本当に、アライン様がお戻りになられて良かった」
「ええ。民の喜ぶ顔が目に浮かぶようです」
 マハトもツヴァングもイヴォンヌも心底嬉しそうに顔を綻ばせる。日付を見れば彼らと別れて二ヶ月余り経っていた。兵士の国と辺境の国、先代勇者たちが支えになってくれたとは言え、国民を守ってよく凌いでくれたなと感謝の念は尽きない。日頃から三国で仲良くしていて良かったなという思いもだ。両国の王には後でしっかり礼を伝えておかなければ。

「……で、これがヴィーダの持ってたオリハルコン?」

 白く輝く短剣を手にして皆に問う。流石に自ら手渡そうとはしなかったらしいが、ディアマントが聖石を奪っても彼は抵抗の素振りさえ見せなかったそうだ。マハトの報告によると、恋人に死を乞われたこと、今のままでは不遇な運命を変えられないことに失意を覚え、すっかり虚脱しているとの話である。
「レギのは長い杖だったよ。持ち主に合わせて結晶から形を変えてるってことは、ちゃんと意味があって三人の手に渡ったんだと思う」
 答えてくれたのはアンザーツだった。その横でヒルンヒルトが「そちらはいつ封印に戻すつもりだ?」と尋ねてくる。
 破滅の封印は今のところ三分の一のオリハルコンとアラインの魔法で十分抑え込めていた。戻すにしても急ぐ必要はないように思う。とは言えあの聖石が元々は冥界の出口を塞ぐ役割を果たしていたことを考えると安易に放置もできないが。
「……とりあえず、まだ考えさせてほしいかな。オリハルコンを戻しさえすれば破滅の魔法は安全だとも言い切れない気がするんだよね」
「どういうことです? 封印が解けたこととオリハルコンは関係なかったんすか?」
「ううん、それはないと思うけど」
 破滅の魔法が数百年間聖石によって蓋されていたのは事実だろう。ただオリハルコンが壊れたから破滅の魔法が出現したのか、破滅の魔法が出現したからオリハルコンが壊れたのか、原因と結果を履き違えては解決方法を見誤る。そしておそらく、いや、確実に後者の方が正解なのだ。ヴィーダの気配に引き寄せられてあの魔法は覚醒してしまった。一度目覚めてしまったものを眠らせるのに必要なのは、聖石でなく彼らふたりの死でしかないだろう。存在自体が破滅を引き起こすと言うのなら。
「つまりクライスの言ってた通り、恋人同士手を取り合って死んでもらわなきゃ都に人を戻すのも無理ってことね」
 ゲシュタルトの言にイヴォンヌががっくり肩を落とした。まだまだ勇者の国が抱えた問題は消えそうにない。
「うん、だから早いとこ何とかしなきゃいけない問題は三つかな。まずウチの街とか山からアペティート関係者に出て行ってもらうだろ。で、次は破滅の魔法が発動しないように策を講じる。最後にアペティートとビブリオテークの戦争状態も解消しなきゃね。兵士の国も辺境の国も同盟を結んじゃったし、僕も放ってはおきたくない。――ごちそうさま」
 積み上げた十数枚もの皿に手を合わせ、アラインはフォークを置いた。空腹感はなかったのだがここまでぺろりと平らげてしまった。
 実はまだ時差ボケも残っている。二ヶ月よりももっと長い年月を旅してきたから。
(厄介なのはやっぱり破滅の魔法だな……)
 大賢者の刻印を持つというクライスとヴィーダ。ふたりの前世を覗いてきたことはまだ誰にも打ち明けていない。
 心がリンクしていたせいか、彼らを滅して魔法を封じ込めようという気は一切起きてこなかった。それ以外にどんな方法で脅威を取り除くのかという難問は残るけれど。
「……人を殺めて国土の平安を保つなんて……」
 そんな行いはシャインバール二十一世と変わらないと妻が嘆く。罪を犯して得る安寧など民には与えたくないと。アラインもまったく同じ気持ちであった。治世者としても、勇者としてもだ。
「絶対に道はあるよ。僕も自分が納得できるやり方を探したい」
 己以外にも勇者候補がいることに怯え、必死で勇者らしくあろうとしていた過去が思い返される。
 自分に自信が持てなくなるような、自分を嫌いになってしまうような選択はもうしない。そう決めた。

「一度ヴィーダと話をして来ようと思う。そろそろ会話できる状態になってるといいんだけど」

 席を立ったアラインをマハトたちが見送る。すっかり夜の更けた廊下には点々とした明かりしかなく、前方は真っ暗だ。ヴィーダが軟禁されている一室に向かい歩き出すと、少しして背後から足音が近づいてきた。振り返れば短い髪を揺らした伴侶がこちらを追ってくるのが見えた。
「イヴォンヌ、どうしたんだ?」
「……あの! 私、あなたに話しておきたいことが」
 息せき切って彼女は告げた。口止めされていたけれど、本人になら聞いて構わないでしょうと。
「本人? 何の話?」
「あなたが私を救ってくれた話です。……本当に知らないのですか? アライン」
「えっ!?」
 寝耳に水とはこのことだ。イヴォンヌが教えてくれたのは、破滅の魔法や大賢者の出現などよりもっと想定外の話だった。
 ビブリオテークでヒーナと戦闘になった際、気功師軍に殺されかけた彼女をいるはずのないアラインが助けたのだと言う。ゲシュタルトも居合わせたから間違いではないはずだ、と彼女は主張した。声も姿も確かにアラインのものだったと。

「え? ちょっと待って。イヴォンヌが無事だったのは良かったけど、身に覚えが……」

 自分ではないと否定しながらアラインはハッとある可能性に思い至る。その閃きはまた別の閃きと細い糸で繋がり、手繰り寄せれば手繰り寄せるほど大きな確信へと変わっていった。
 時間移動の能力も、破滅の魔法も、ラーフェの系譜も、大賢者の力も――すべてがひとつの符号を示している。

(もしかして……、僕の力が急に増したのは……)

 愕然と目を瞠ったままアラインは立ち尽くす。
 どうしてすぐに気がつかなかったのだろう。そもそもオリハルコンの杖ひとふりであの魔法から戻ってこれるわけがなかったのに。
「……イヴォンヌ。それ皆にはもうちょっと黙っててもらえる?」
「アライン? どうしてです? やっぱりあなたに何か……」
 お願いと乞う声は掠れていた。
 こんなことまだ誰にも話せない。






 魔力が戻れば拘束など無意味だからとヴィーダには縄さえかけられていなかった。たとえ鎖で縛めるよう命じられても今の彼にそんなことをする気にはなれなかったと思うが。
 椅子に掛けたまま動かないヴィーダをちらと覗き見、エーデルは溜め息を押し殺す。窓際ではクラウディアが同じく彼を監視中で、扉の外ではディアマントが警備に当たっていた。
 見たこと、聞いたこと、感じたこと。胸の内でまだ渦を巻いている。
 一番ショックだったのはクライスを撃ったのが彼女の父親だということだった。
 破滅の魔法を封じるために恋人と心中しなければならず、親からは裏切り者扱いで、可哀想とか同情するとかいう言葉では表し切れない。呪う国の皇子と愛し合ったからなんだと言うのだ。争い合っている自分たちの方が悪いのではないか。
(……嫌だわあたし。自分と重ねてる)
 クラウディアに悟られる前に無理矢理思考を振り払う。どうしたんですなんて聞かれたくなかった。
 己に流れる魔物の血はとっくに受け入れたつもりだった。けれどまだ心のどこかで拒んでいるのだろう。誰より自分が魔物と人間は違うと思っているから。
(……自信がない証拠よね……)
 アラインとイヴォンヌの結婚式、素敵だった。ベルクとウェヌスも仲が良さそうで羨ましい。じゃああたしとクラウディアは?
 考え始めた途端、気分が塞がり憂鬱になる。
 優しいクラウディア。指輪と一緒に生涯愛し抜くという誓いをくれたクラウディア。
 嬉しかったけれど、その愛情の延長に結婚という文字があるのかは疑問だった。
 彼が僧侶だからじゃない。エーデルが己のこの血を続けていくべきか迷っているからだ。
 自分はいい。信じてくれる仲間がいるし、もし昨日まで親切だった人に石を投げられたとしてもクラウディアさえいてくれれば耐えられる。でも子供はそうではないだろう。――何かのきっかけでまた魔物と人間が対立し合うようになったら? 強い力を抑えきれず、暴走するようなことがあったら?
 悪い可能性ばかり考えてしまう。
 肉親に刃を向ける人間すらいる世の中では。

「入っていいかな?」

 と、不意にノックの音が響き、扉の向こうにアラインが姿を現した。
 破滅の封印の中という恐ろしげな場所に閉じ込められていたにもかかわらず、顔色も悪くなく健康そうである。表情がやや強張っているのだけ気になったが、多分ヴィーダへの警戒心からくるものだろう。
 ずっと俯いていたヴィーダもアラインの声には反応して僅かに顔を上げた。荒んだ両眼が勇者を捉え、ふっと自嘲の笑みを刻む。

「殺すなら殺せば?」

 薄暗い室内に抑揚のない呟きが落ちた。
 クライスの結論を変えられなかったことで彼も自暴自棄に陥っているのだ。「一度くらい私の願いを叶えて」という彼女の叫びは少なからずヴィーダを打ちのめしていた。
(究極の選択だわ。死ぬことでしか愛してると証明できないなんて)
 ヴィーダを見つめるクラウディアの眼差しは冷たい。いざとなれば彼は自分の命など捨ててしまえる人だから、きっと理解が及ばないのだろう。己が生き長らえる限り恋人の害悪となるとわかっているのに決断を下せぬ男の気持ちなど。自己犠牲こそが真実の愛だとはエーデルも思わないけれど。
「……シュトラーフェの意味は罰、か。わからなくもないな」
 ヴィーダの前まで歩み寄ってきたアラインが小さく囁く。何のことかわからず尋ねようとしてエーデルは口を噤んだ。
 動揺を露わにしたヴィーダが肩を震わせアラインを見つめ返している。見開かれた蒼い双眸に勇者は穏やかな笑みを向けた。
「これ、元は君たちのだったみたいだ」
 示されたのは彼の右手の五芒星。それだけで話が通じたのか、驚愕に凍りついたままヴィーダが後ずさる。椅子の脚と床が擦れて低い不協和音を奏でた。
「破滅の魔法の中にいる間、シュルトとラーフェの辿った道を僕も見せてもらったよ。確かに君は勇者の国に争いを持ち込んだけど、命で贖ってもらうつもりは毛頭ないんだ。今度は君の死が滅びへの引き金になるかもしれないし」
 ただ逃げないでほしいんだ、とアラインは続ける。静かだが強い響きをもって。
 シュルト? ラーフェ? 誰のことだ?
 それがあの魔法に関わったというヴィーダとクライスの前世なのか?
「明日また皆で集まって、これからどうするか話し合おうと思う。それまでに君自身がどうしたいのか考えておいてくれ」
「……」
「これ、一応返しとくね」
 ヴィーダの返事も待たず、アラインはオリハルコンの短剣をテーブルに置いて踵を返した。夜も遅いがこれからエーデルたちに己の見聞きした古い時代の話を聞いてほしいと言う。
「部屋の見張り番、もう要らないよ。たとえここから逃げ出したって自分の運命からは逃げられないんだから」
 しばらく会っていなかったせいだろうか。なんだかアラインがアラインでないみたいだった。
 元々激しい気性の持ち主ではないけれど、落ち着きすぎていて逆に怖い。まるで波のない海のようで。
(そうよ。ヴィーダに会ったらもっと怒ると思ってたのに)
 ついさっきまで勇者の帰還は喜ばしいことだと思っていた。でも何故か今は不安が掻き立てられる。
(隠し事してたときのクラウディアみたい……)
 心臓がざわついて、知らず知らず異常がないかオリハルコンのアンクレットを確かめていた。
 アライン、何か変なことを考えているのではないといいけれど。



 その夜勇者の口から語られたのは幾度となく繰り返されてきた滅亡の話で、クライスや気功師の言葉を証明するものだった。
 シュルトとラーフェの置かれた境遇はなんとなく今の状況と似ている。
 大陸中を巻き込む戦争、歪んだ親子関係、大賢者の魔力、敵対、死を乞う半身。
 材料は出揃ってしまったのかもしれない。
 赤黒い光が脳裏にちらつきエーデルはギュッと拳を握った。
「……クライスもヴィーダも精霊言語に属する強い名前を持ってる。このままいけば間違いなくすべてが破滅に向かうと思う」
 アラインによればふたりの名前はどちらも「繰り返し」を意味しているのだそうだ。
 一体いつそんな知識を得たのかとヒルンヒルトは眉を顰めたが、アラインが意に介す様子はなかった。
「甘いって言われるかもしれないけど、過去を見てきた僕としては、あのふたりでひとつの結論を出すべきだと思うんだ。……ばらばらにじゃなくて、必ずふたりで」
 そう締め括り、アラインは話を終えた。
 「それでも彼らに死んでもらうほか道はないように思うがな」という賢者の言葉に返答する者はいなかった。






 ――ねえクライス、どうしたら笑ってくれるの。
 君に出会った日からそれだけを考え続けてきたのに。

(あなたはいつもそう。私のためにと言いながら私の望んでいないことをする……、か)

 アラインの残していった短剣に手を伸ばし、ヴィーダは短く息を吐く。
 縦長の細い窓には月明かり。ひっそり静かな夜の気配はどこか彼女を思い出させる。

(何やってきたんだろう、ぼく……)

 最初は純粋にクライスが喜んでくれることをしたかった。
 女の子の間で流行している服や人形をプレゼントして。
 でも彼女はみすぼらしいメイドみたいなワンピースにしか袖を通さなかったし、人形を飾ることもしなかった。
 わからなかった。何をすれば嬉しいと思ってもらえるのか。
 ――いつの間にかわからないのが普通になって、考えなくなっていたのかな。
 何を願っているか知るより、身の危険を取り除く方が重要になって。

(ぼくなりに君を守ろうとしてたんだよ)

 いつかふたりで幸せになれると信じていた。
 おとぎ話の王子と姫のよう、君を救いさえできればと。
 ラーフェだってそうだ。シュルトとふたりで生きていく道を探したかっただけ。

(そんなにぼくは勝手な男だったんだろうか)

 たったひとりへの思いを貫くために他のすべてを切り捨てられるのが愛じゃないのか。
 初めてクライスが愛していると言ってくれたのに、ちっとも喜べない。
 死ぬよと言えば笑ってくれる?
 想像してみても唇は凍ったまま動かないけれど。

「……クライス……」

 逆手に握った短剣が震える。
 喉を掻き切ろうとしても、心臓をひと突きにしようとしても、彼女の泣き顔が離れずにどうしてもできなかった。
 ぼくはまだ君を笑顔にしていないよ。
 確かに愛し合っているのに、そんなのはおかしいじゃないか。






 ******






 まだ眠い目を擦り、ウェヌスはううんと伸びをした。昨夜はアラインの話を聞くのに遅くまで起きていたので瞼が半分開かない。無事に夫が帰ってきて、敵軍に捕らわれていたノーティッツも戻ってきて、ホッとした一日ではあったのだけれど。
「ハッ! こうしてはおれませんわ……!」
 簡単に身支度を整えて私室から飛び出す。一時間も二時間もかけて侍女に髪を梳かされるのなど今日は待っていられなかった。
 一介の参謀長としては破格の待遇で、ノーティッツは王族用の寝室のひとつに寝かされている。ベルクも酷く幼馴染を心配していて、昨夜は同じ部屋に泊まると毛布を持ち込んでいた。
 ふたりを起こさないようにそうっとドアを押し開き、広い部屋に忍び込む。ドシンと何かにぶつかって転びそうになったところを抱きとめられた。
「きゃっ……!」
「うおっと! お、お前そのどんくせーのなんとかならねーのか……?」
 呆れた声は夫のものだった。てっきりいびきをかいて眠りこけているものだと思っていたのに、ちゃんと着替えて顔も洗った後のようである。寝間着にローブを羽織っただけの自分とは雲泥の差だ。
「早起きなさったのですね……!」
 感心するウェヌスにベルクは三白眼を細めた。お前見てると緊迫感が和らぐわ、と言われたが多分これは誉められていない。
「アラインが朝から会議するって言ってたろ」
 だから起きたと言わんばかりのベルクにウェヌスは返す言葉を飲み込む。
 彼はいつまで自分を額面通りにしか受け取れない女だと思っているのだろう。起きたのではなく眠れなかっただけだなど、見ていればすぐにわかるのに。
「では私、その間ノーティッツに付いておりますわ」
「ん……、悪ィな」
 気の弱っている夫を見るのは実は初めてだ。アラインやノーティッツは「ウェヌスが大変なときはベルクも大変だよ」と笑っていたけれど、自分には笑い飛ばせそうもない。
「……いっぺんも目ェ覚ましてねえ。周りが暗いとなんか死んでるみたいでな、何回か脈取っちまった」
 淡々とした調子の声は逆にベルクの不安を象徴するようだった。
 囚われている間に何があったのか、ノーティッツが話してくれない限りわからないのもまた恐ろしい。
 今までずっと三人揃えば怖いものなしだと思っていたのに。






 会議室にはアラインの話していた通りヴィーダも姿を現した。座っているのは気心の知れたいつものメンバーだが、諸悪の根源である男の登場で流石に全員沈黙する。歓迎ムードは無いに等しい。ただそんな状況でもベルクの頭は半分しか回っていなかった。
(いつまで寝てんだよあいつ……)
 もう安否の心配をする必要はないのだから気にかけすぎかもしれない。胸中で悪態をつくのにもいい加減飽きてきている。だが昨晩の苦しげな寝顔を思い返すと居ても立ってもいられなかった。勝手は承知だがなるべく早く切り上げて部屋に戻ってやりたい。
(いつものニヤケ面ひと目見るだけでいいんだけどな)
 自分の足が地に着いていない自覚はある。決めなければならないことは多々あるのに精神的に追いついていない。会議の内容がどうであれ、どうせ後から参謀長のご意向を確かめてやらねばならぬのに。そんな風に投げやりになってしまう。
 隣に腰を降ろしたエーデルが「大丈夫?」と労ってくれたが曖昧に頷くしかできなかった。本当に、さっさと目を覚ませというのだ。
(……起きてもあのままってことはないよな……)
 一番の懸念はそこだ。飛行艇で見た幼馴染の暗い面差しを脳裏に浮かべてゾッとする。
 失神する直前まで魔法でベルクを攻撃してきていたし、ウェヌスのときのように記憶喪失くらいは覚悟しておかなければならないかもしれない。

「早速でなんだけど、ヴィーダはどうしたいか決まった?」

 始めようかとの声もなく話し合いは始まった。アラインが切り出した途端、室内には異様な空気が流れ出す。
 夜に全員で集まったとき、それとなく互いの意思確認は済ませていた。イヴォンヌは敵国の人間であっても殺して解決という考えはなし。マハトとツヴァングはトップの意見に従う所存だがヴィーダへの不信は根強いようだ。クラウディアとディアマントも基本的にはアラインに決断を委ねている。同情的なのは今のところエーデルとアラインのふたりだけだった。先代パーティは三人とも静観の構えである。
 破滅の魔法は勇者の都に埋もれているのだし、どうやって解決するかは勇者の国の人間が中心になって決めればいい。個人的にはそう思っている。ただやはりノーティッツの件もあり、ベルクもヴィーダに肯定的にはなれなかった。
 例の魔法に関わっているのがヴィーダだけで、死なねばならぬのもヴィーダひとりだったなら、もう少し過激な意見が出ていたのかもしれない。皆が忍びないと思っているのは自ら命を断ってでも破滅を止めようとしているクライスのことだった。

「……ぼくは彼女を死なせたくない。たとえ彼女がそう望んでいるのだとしても、ふたりで死ぬなんて絶対嫌だ」

 震える声が重く沈む。
 冷たい視線が幾つもヴィーダに突き刺さる。
「でも死ぬことでしかあなた方の運命は変わらないのでしょう? 思い通りに現世を生きて、来世に問題を持ち越すことは、クライスさんの願いとは正反対という気がしますけれど」
 大人しそうな顔をしているくせにクラウディアの発言は容赦ない。遠回しに心中しろと追い詰めている。最終判断はアラインに任せても、そこに辿り着くまでは徹底してヴィーダの排除に回る気なのだろう。破滅の魔法を封じ込める手段が他に見つからない限り、血生臭い展開は避けられないから。
 損な役回りだ。ヒルンヒルトもそうだが、こういうとき悪役になってくれるのはいつも一番冷静な人間である。
「ぼくが幸せにしたいのはクライスなんだよ……! もし来世で出会えたとしても、それはもう彼女じゃない。ぼくだってラーフェの記憶を持っているけどラーフェじゃないんだ。二度と破滅の魔法を呼び覚ましたりするもんか……!!」
 五芒星の宿る左手をヴィーダは強く握りしめた。
 しいんと静まり返った部屋に再びクラウディアの切り返す声が響く。
「でもあの魔法はもう動き出してしまったのではないのですか? クライスさんの口ぶりでは、あなた方が望む望まないに関わらず、いずれ殻を破って地上に現れてしまうのでしょう?」
「……っ」
「ねぇアラインさん、アラインさんもそう仰っていましたよね?」
「……そうだね。現時点では、だけどね」
 にこりと笑う僧侶に勇者は半分だけ微笑み返す。胃の腑が冷えるやりとりだ。
 だがクラウディアの言っていることも一理あった。もし本格的に破滅の魔法が発動すれば、それこそ何人犠牲が出るかわからない。そうなる前に対処しなくてはならないのだ。今あるものを守るためには。
 一を犠牲に九十九を助けるか、迷って百を死なせるか、いざというとき選択されるべきなのは前者だろう。そして今が多分、その選択を成すときなのだ。
「クライスさんの願望は、あなたが彼女の提案を受け入れ頷いてくれることにあるのでは?」
 クラウディアがヴィーダに「うん」と言わせようとしているのはありありと見て取れた。この男の同意さえあれば自分たちが彼を殺したのではなく彼が自決したのだという形にできる。胸の悪い話だが、これだってきっとアラインやエーデルのためにやってくれていることだ。そうとわかるだけに誰も僧侶を制止できない。反論はヴィーダの口からしか出てこなかった。
「……でも! 生きて幸せになる方法が何かあるかもしれないだろ!? 彼女を救えるならぼくなんかどうなっても構わない。ただそれは、来世の彼女のためじゃなく今の彼女のためなんだ。今のクライスにぼくは笑ってほしいんだよ。死ぬしか希望がないなんて認めたくない……! 生きて幸せになる道を探すのが間違ってるなんて……!!」
 アペティート軍を引き入れたことの責任は取る、と彼が呟く。だけどクライスだけは助けたいんだと。
「破滅の魔法さえなくなれば彼女は解放されるはずだ。そのためなら何でもする。あの魔法を消滅させる方法を、彼女が死なずに済む方法を、どうかぼくに……、どうかぼくと……っ」
 唇を噛んでヴィーダは深く腰を折った。俯いた頭は上がらない。
 皆に目配せされてアラインが何か言いかけたときだった。爆発音と共に向かいの城壁が一部吹き飛んだのは。

「……!?」

 敵襲かと勘違いしかけたけれど、煙を上げているのがノーティッツの部屋だと気づくと一目散にベルクは駆け出した。異常事態の発生にアラインやクラウディアも後を追いかけてくる。
 あの馬鹿がやっとお目覚めになったのだ。いや、まだ頭だけは夢の中に置き去りかもしれない。頼むから正気に戻っててくれよ、ノーティッツ――。












 冷たく固い床じゃない。
 背中にあるのは柔らかな感触。

(……どこだここ……)

 馴染みはないが見覚えのある天井に嘔吐感がせり上がってきて顔を背けた。
 広い窓には嫌になるほど青い空が映っている。
 寝台の中で視線だけ動かし周囲の様子を確かめる。
 壁に掛けられた肖像画がノーティッツの目に留まった。

(あ……)

 それは一代前の国王と王妃の油絵だった。この国の王族らしく筋骨隆々としたトローン四世に美しい妃が抱き上げられている。

(ぼく、いつ、帰って)

 急に心臓が激しく痛み出しノーティッツは身を丸めた。
 肺が空気を吸い込むのをやめ息ができなくなる。

「……ッ、ぅ、……っうぅ」

 目の前にある光景は王城の一室であるはずなのに、何故か飛行艇での一幕が鮮明に再生される。
 低いブルフの声。風を起こせという命令。吹き飛ばされていく人影。

(こ……殺し、……た…………?)

 己の名を呼ぶベルクの声が耳元でこだました。呼応するよう声にならない悲鳴を上げる。
 殺した?
 何?
 ぼくが?
 誰を?

(――誰を?)

 冷静になろうとすればするほど頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 順序良く並んでくれない記憶の破片は粉々だ。
 ああ、そうだ火だ。
 炎に巻かれて死んでしまおうと思ったのに、どうしてまだ生きているんだ。

「ノーティッツ、落ち着いてください!!」

 絶叫は耳に届かず魔力がまた暴走を始める。
 何から逃げようとしているのだろう。ただ酷く恐ろしい。

「ノーティッツ!!!!」

 女の声が後ろから追ってくる。追ってくるから壁際に逃れる。
 ――呼ばないで。見ないで。聞かないで。
 叫びたいのに声が出ない。
 慟哭の代わりに魔法が部屋と壁を破壊した。

「……っ、……、ぁ、はぁ、……ッ」

 息も絶え絶えにノーティッツは床に転がる。全身が恐怖に支配されていて、指ひとつまともに動かせない。
 焦げた絨毯に女が跪いた。温かい光を纏う掌が火傷した頬にそっと添えられた。

「私がわかりますか、ノーティッツ」

 ぽろぽろと額に落ちてきたウェヌスの涙が冷たかった。
 何か言わなければならない。はいかいいえか答えなければ。
 早く、早く。
 彼女の問いに答えなければ。

「おい、大丈夫かウェヌス!? ノーティッツは!?」

 炎の燻ぶる部屋の中にもうひとつ声が増える。
 落ち着きかけていたものが再び揺すぶられ、反射的に後ずさりしていた。

「う、ぅ、うぁあ……っ!!」
「ノーティッツ?」

 見ないように、見えないように、這いつくばったまま目を逸らす。
 ――ずっとこれから逃げようとしていたんだ、ぼくは。

「ノーティッツ!! こっち見ろよ!!!!」

 怒号と同時、頬を張られて目を瞠る。
 ベルクの黒い目が真っ直ぐこちらを向いていて、彼を殺していないことだけはなんとか理解した。
 生きている。……死んでいない。死んでいない。

「ベルク……」

 名前を口にした途端、また墜落するような錯覚に囚われた。
 どうしても目を合わせられなくて、胸を掻き毟りながら床にうつ伏せる。
 気持ち悪い。
 見たくない。

「うーーー…………」

 ウェヌスが癒しの魔法をかけてくれているのがわかったが、そんなもので気分が回復するわけもなかった。発火は一向に収まらず、いつの間にか己の皮膚を爛れさせている。
 見かねた誰かが眠りの呪文を唱えてくれたようだった。意識が暗闇に落ちていく感覚でノーティッツはやっと一抹の安堵を取り戻す。
 帰って来たくなかった。
 何もできなかったのに。












「……なんだよこれ……」
 穏やかな寝息を立てる幼馴染を見ていても少しも胸を撫で下ろせない。ノーティッツの身に何が起きているのかベルクにはさっぱり理解できなかった。否、理解したくなかったが正解か。
 神妙な顔つきでアラインが呟く。捕虜にされている間、かなり惨い扱いを受けたのかもと。
「……」
「……」
 静寂が重すぎて誰も二の句を告げなかった。
 言い出し難そうにヴィーダが「相手によっては薬物を使うこともあるけど」と内情を打ち明けた。
「薬物って……」
 乾いた笑いしか出なかった。それでは今のは何らかの中毒症状ということか。
「毒消しの魔法を試してみましょう」
「ええ、やってみますわ」
 クラウディアとウェヌスがノーティッツの傍らに膝をつき順番に光魔法を唱え始める。
 会議どころじゃないねとアラインは一時解散を告げた。
 言葉が頭に入ってこない。
 なんでこいつが俺を見て泣くんだ。






 ******






 さっき南中した太陽がもう随分西に傾き始めている。呆然としたまま気づけば何時間も過ごしていた。
 何度かノーティッツの様子を見に新しい部屋へ行ったが、どうもベルクが近くにいると容体が安定しないらしい。昼過ぎに目を覚ましたときは水も飲んで簡単な会話にくらい応じたそうだが、全部ウェヌスが教えてくれた話だった。今は少し熱が出てきているようだ。

「ベルク、ちょっといい?」

 四時の鐘が間近で響く。時計台の頂上に陣取っていたベルクの元にひょいとアラインが顔を覗かせた。
 会議は明日仕切り直すことになったとの連絡に「ああそう」と気の抜けきった返事をする。
 冷静になろうと思って風に当たりに来たはずなのに、人と話すとまったく効果が上がっていないのを実感した。
 腸が煮えてしょうがない。
 あの男、もっと叩きのめしてやれば良かった。
「……夜じゃなくていいのかよ。集まれると思うぜ、あいつ以外は」
「うん、明日で十分だ。僕もあんまり一気に色んなこと決めすぎるの怖いんだ」
「ああ、お前も戻ってきたばっかだもんなあ……」
 梯子をよじ登ってきたアラインがベルクの反対側に腰を降ろす。しばらく無言で都に差す夕日を眺めていた。
 同盟のこととか、避難民のこととか、話し合っておくべき案件はいくらでもある。でも今は自分の世話だけで手一杯だ。「勇者」なんてご大層な名前で呼ばれて、たくさんのものを守れるようになった気がしていたのに。
「……ヴィーダの言ってたことどう思う? 破滅の魔法のことでも、アペティートのことでもいい。聞いておきたいんだ」
「……」
 どうにかクライスを生かして幸せにしてやりたいという話か。今の今まですっかり忘れていた。あの男の希望を踏まえた上で破滅の魔法の処置を考えるという段取りだったこと。
「正直頭にきてる」
 端的に述べるとアラインは「そう」と頷いた。それも仕方がないねと言うように。
 ヴィーダが勇者の都を滅茶苦茶にしなければノーティッツが敵軍に捕まることもなかった。具体的に何をされたかなど考えつかないし、考えたくもないけれど、決して脆くはない幼馴染が自分の魔力も制御できなくなるほど痛めつけられたのだ。どうしてこちらだけがあの男の願いを聞き届けてやらねばならないと憤ってしまう。
「俺だって戦争はしたくねえ。破滅の魔法もなんとか他の方法で封じ込められないかって思ってる。……けど! もしあいつがずっとあのまま、どっか壊れたままだったら……! 俺にはアペティートが許せねえよ……!!」
 床に叩きつけた拳がビリビリと痛む。代われるものなら今すぐにでもノーティッツと代わってやりたかった。
 憎んでも恨んでもなんにもならないから、命あるものすべて共存していこうと、三年前の旅の終わりに散々考えて決めたはずだった。 なのにどうしても怒りが消せない。――消せないんだ。






「……それではわたしは一度エーデルのところへ戻りますので……」
「わかりましたわ。手伝ってくださってありがとうございます、クラウディア」
 パタンと扉の閉じる音と去っていく足音にノーティッツは薄く眼を開いた。
 眠りから覚める度にじわじわと現実感が戻ってきている。しかしそれは決して良い回復ではなかった。

(……どうしよう……)

 混濁させられていた理性が我が身に降りかかった災難を次々と明確にしていく。
 視界の靄が綺麗に消えて、見たくなかった事実をまざまざ突きつけられた。

(……怖い……)

 ブルフの放り投げた女の子を。何百枚と量産した魔法の札を。耳元で囁く男の声を。思い出しては吐きそうになって身を捩る。
 震えが止まらないのは多分高熱のせいじゃない。喪失感と自己否定の念で叫び出しそうだ。

「大丈夫ですか? ノーティッツ? ……ベルクを呼びましょうか?」
「……っ」

 身体は無意識に首を振った。あいつと向き合うのが嫌だって、話したくないって拒んでいる。
 早く伝えなくちゃいけないのに。
 ぼくのせいでニコラは死んでしまったのだと。

「う……、ぅっ、……、っうぅー……」
「ノーティッツ、苦しいんですの? ノーティッツ?」

 ウェヌスの白い手が必死に背中を擦ってくる。呼びかけの声も涙混じりでなんだか可哀想だ。
 戻らなきゃ。早く彼女のよく知る自分に。ベルクの隣で笑う自分に。
 そうでなきゃぼくは……。






 勇者の国の城と違って簡素な石造りの廊下を歩いていると、曲がり角で兄が待ち構えていた。
 ここ最近の彼は人の顔色に敏くなったとしみじみ思う。落ち込んだり苛々したりしているとき、必ずと言っていいほどディアマントはクラウディアの元に現れた。
「看病は終わったのか?」
「……ええまぁ」
 クラウディアが立ち止まらなかったので、ディアマントものしのしと後から付いてくる。「これからエーデルの部屋へ行くんですが」とやんわり同行を拒否すれば、「会議でのお前の発言なら別に気にしてなさそうだったぞ」とお節介な答えが返ってきた。
「誰かを生け贄にして解決することにならなければいいとは言っていたがな。今ユーニたちと遊んでいる。一応元気そうだ」
「……どうも……」
 午前中の話し合いでは確かに少し言いすぎたかなと反省している。ヴィーダにではなく他の面々に対してだ。自分は冷酷なたちだから、ああいうことを口にするには適任だ。しかし仲間内から引いた目で見つめられるとやはり傷つく。別にヴィーダがどうなろうと、クライスがどうなろうと、本心では知ったことでないが。
 所詮他人だ。破滅の魔法がエーデルを傷つけるなら彼らが消える方を選ぶ。勝手という意味では寧ろヴィーダに近いのかもしれない。
「あなたはどうなんです? 彼女と同じように、愛し合う恋人たちは皆幸せになるべきだと思いますか?」
「どうでもいい」
 ディアマントはきっぱりと即答した。そんな無意味なことに思考を割く余地はないと。
「私は本来どの国の人間でもない。アラインたちに恩義があるから協力しているまでの話だ」
「……他人事みたいに言うんですね」
「実際他人事だろう。生まれ育ちのせいか知らんが地上のことは外側からしか考えられん。――だがお前も世話になっている国ぐらいは守る気でいるのだろう?」
 だったら己の冷たさに劣等感や罪悪感など持たなくていいと、そう続けられクラウディアは言葉を失くした。
 半分の血か、或いは情か。いつからこんなに見透かされるようになったのだろう。エーデルにさえ見せない裏側を。
「慰めてくれるんですか、兄さん。あなたには貧乏くじばかり引いてもらっているのに」
「ふん、別にあの女のことだってお前に乗せられたのではない。私が乗っかってやっているのだ」
 それだけ言うとディアマントは進行方向を変え渡り廊下から夕暮れ空に羽ばたいていく。
 生きて幸せになる道を探すのは間違いじゃない、か。
 死を決意して愛しい人を守ろうとした自分は未だにこうして生きている。否、勇者の手によって生かされた。
 あんなに大きな魔法相手ではヴィーダもクライスも死ぬしかないのでないかと思うが、それとは真逆の未来もどうしてか有り得る気がするのだ。
 勇者とは、多分、奇跡を起こせる者だから。






 嘆息は思いがけず大きなものになってしまった。
 また明日やり直すよとアラインに会議の延期を伝えられてから、ずっと同じ思考に嵌っている。
「どうした? 疲れでも出たか?」
「いや、前世の記憶を持ってても前世とは別人っていう……ヴィーダの言ってたアレの意味考えててな」
 回復魔法をかけようとした賢者の手を遮ってマハトは椅子に座り直した。
 今日は結局何ひとつ決まらなかった。ただヴィーダに自害する気はないとわかっただけだ。
 クライスもヴィーダも例の五芒星から力と記憶を得たらしい。自分のときはゲシュタルトの魔法だった。
 一気に大量に思い出して、一時的に人格が混ざり合って、それからはゆっくり重なっていったのだと思っていた。
 今では随分ムスケルの記憶を客観視できる。だがそれは自分とムスケルが別人だからと言うよりは、古い記憶がちゃんと思い出になったからだという認識だった。
 ヴィーダの前世は女だったから差異が明らかなのだろうか? だがクライスの方は、前世の失敗に囚われて雁字搦めになっているように思う。
 あの状態はあまり良くない。仲間に武器を向けてしまった己の経験から言っても。
「……意味も何もないだろう。君とムスケルは別人じゃないか」
「えっ……ええ!?」
「遺伝が強いのか顔はそっくりだがね。中身はかなり違っているよ」
 予想外のヒルンヒルトの台詞にマハトは目を丸くした。自分ではムスケルと自分はかなり近い人間であるように感じているのだが。
「いや、んなことねえだろ。アライン様に敬語使ってアンザーツにタメ口きくのは立場の違いだし、ムスケルは多少がさつなとこあったけど、俺だって十九、二十の頃はあんな感じだったし……」
 こいつアンザーツ以外の人間は本当に全然注視してないんだなあと落胆に似た気持ちを覚えた。ゲシュタルトなんて今だに自分をムスケルと呼んでいるくらいなのに。
「だって君は私を嫌ってないだろう?」
「……は?」
 今度こそ何を言われたのか理解できなかった。
 ヒルンヒルトはいつもの鉄面皮で続ける。
「ムスケルは私のことを毛嫌いしていたからな」
 あんまり当然のように言うので返す言葉が見つからなかった。
 嫌いって。そりゃ確かに最後は喧嘩別れだったけれど。一緒に旅していたときでさえ滅多に喋らなかったけれど。
「……」
 黙り込んでしまったのを肯定と受け取ったのか、賢者は少しだけ苦い顔で目を逸らした。ついぞ見たことのない不安げな横顔にぽかんと口が開いたままになる。
「こんな契約を結んでもらうことになっただろう。何かのきっかけで……たとえば私の失言で、また君に嫌われやしないか少し怖いよ」
 初めてかもしれない。この男の口からこんな弱音を聞いたのは。

「……案外馬鹿なんだなぁお前……」

 ぽかんとしたままマハトは呟いた。
 なんてことだ。誤解していた。いつ訪れても天界は平和そうで、三人とも楽しそうだったから、自分たちが百年抱え込んでいた問題はすっかり片付いているのだと思い込んでいた。
 でも違う。イヴォンヌに冷たい態度を取っていたゲシュタルト然り、レギに説教したアンザーツ然り、そしておそらくこの賢者も根の深い何かを隠し持ったままでいる。
「ムスケルはお前が嫌いだったわけじゃねえよ」
 ただそう、上手く言葉が噛み合わなくて。すれ違って。小さなひびが深い裂け目に変わってしまっただけ。
 今ならそれがわかるのに、どうして昔は気づけなかったのか。
「お前のこと、わかりたくてもわかんなかったんだ」






 青銀羽の鳥が窓から飛び立っていく。ゆっくりラウダと話をしたのは久しぶりだった。
 勇者の都は静まり返って破滅の魔法以外に蠢くものはないそうだ。アペティート兵と鉱夫たちは無人の都に構うことなくフル稼働で採掘を進めているらしい。今のうちに取れるだけ取っておこうという算段なのだろう。「アラインに伝えておくよ」と約束すると神鳥は生真面目にまた見張りの任に戻っていった。あの魔法だけは早くなんとかした方がいいぞと言い残して。
「……嫌な感じだね。風が生温い」
 窓を閉じ、アンザーツはゲシュタルトを振り返る。テーブルには色褪せたリボンが置かれていて、彼女は傍らに半透明の身体を漂わせていた。
 イヴォンヌとの契約が切れてしまったから、できるだけ早く天界に帰った方がいいのだけれど、彼女はこれからどうするつもりなのだろうか。
「まぁまだ不穏な要素は残ってるわよね。でもあなたは手を出す気ないんでしょ?」
「それはね。ぼくらは百年前の人間だし、今の時代にあまり干渉すべきでないとは思ってる」
「私も同じよアンザーツ。アラインは戻ってきたんだし、あの子たちに任せておくのがいいと思うわ。ただ天界に戻るのは待ってちょうだい」
 最後まで見届けたいのというゲシュタルトの言葉には、以前にはない凛とした強さがあった。いや、より彼女らしくなったと言うべきか。
「……うん。そうだね」
 一緒に冒険をしていた頃より言葉遣いも態度も乱暴になったものの、根っこの優しさは変わっていなくて、それが嬉しい。アンザーツのついた嘘を許してくれたよう、彼女はイヴォンヌに流れる王族の血をも許そうとしている。もうずっと長いこと、深い傷が彼女を苦しめてきただろうに。
「それよりヒルンヒルトはどうするの? あの馬鹿、マハトが天界で暮らすんじゃない限りこのまま地上へ逆戻りよ?」
「うーん、それだよねぇ。……あれ? ゲシュタルト、いつの間にマハトって呼ぶようになったの?」
 きょとんと目を丸くして尋ねると、ゲシュタルトはへの字口で眉根を寄せた。何か思うところがあって呼称を変更したようだ。いつまで経ってもムスケルムスケルと呼ぶので少し気になってはいたのだが。
「……私ももう変わらなくちゃと思って」
 沈む夕日が室内を真っ赤に染め上げる。光が眩しくてアンザーツは目を細めた。
 これからまた夜が訪れ、朝が来て、何度繰り返していくのだろう。
 ひとりだった日、皆でいた日、ふたりになった日、そして。
「アンザーツ、私あの子たちに会えて良かったわ。アラインを見てると本当に救われるの。望んで産んだ子供ではなかったけど、廻り廻ってそれが私を助けてくれたんだって。……イヴォンヌも、ヴィーダを殺そうとはひとことも言わなかったでしょう。国を守るにはそれが一番確実な方法だと、私でさえ考えたのに」
 抱き締めたいときに限って抱き締められないのも宿命のひとつなのだろうか。ゲシュタルトに伸ばした腕は霊体をすり抜け宙を掴む。彼女は嬉しそうに笑ってくれたけれど。
「あなたと旅をしてた頃、楽しかったことたくさんあった。でも昔を取り戻すんじゃなく、先へ進まなきゃって……そう思ったのよ」
 うんと頷きアンザーツも微笑み返す。気持ちばかり寄り掛かってくる彼女に「早く全部解決して天界に戻れるといいね」と囁けば、「あっ! だからあの馬鹿のことどうするの?」と話題が一周する。
「残念だけどヒルトとはお別れかなぁ。たまに会いに来てくれるといいんだけど」
「……ちょっと随分あっさりしてない? あなたたち離れてて平気なの?」
「うーん」
 苦笑いのアンザーツをゲシュタルトは心配げに見つめてきた。「今までずっと片時も離れずって感じだったじゃない」との言葉にがっかりした気持ちが膨らんでくる。先へ進まなければならないのは彼女より寧ろ自分たちの方かもしれない。
「離れ離れになるのは淋しいよ。でももうヒルトをぼくの都合で束縛したくないんだ」
 百年前、自分と彼は双子みたいにそっくりな内面を持って出会った。凍りついた心と心は多分同じ温度でなければ触れ合えなかった。
 だけどたまたま、自分が最初にその雪原に踏み入ったというだけだ。ヒルンヒルトの心を融かしたものは他にもあったかもしれない。
「百年ぼくを待つために、ヒルトには犠牲にしたものいっぱいあったと思うんだ。ぼくがヒルトの『こうだったかもしれない人生』を変えちゃったんだよ。それはずっと後悔してる」
「……考えすぎね。あいつあなたのことが大事で大事でしょうがないだけよ?」
「うん、でも、やっぱりヒルトの人生はぼくのためのものじゃないから」
 氷が溶けて、雪原の景色は変わっただろう。アンザーツの中に巣食っていた冷たさも今では心地良い温度になっている。――だからもう「同じ」ではなくなったはずなのだ。
「それにまぁ、マハトならギリギリ許せなくもないって言うか、やっぱりそうきたかって言うか……」
「どういうこと?」
「昔っからムスケルってぼくのこと焦らすんだよね。ゲシュタルトも取られちゃうかもって怖かったし、ほんと」
「……そうなの?」
 百年前なら勇者にあるまじき感情だと蓋しようとした仄暗い嫉妬心も、脱勇者をしてからは素直に受け止められるから不思議だ。納得して勇者をやっていたつもりだが今となっては二度と戻りたくない。自分のために生きる喜びを知ってしまったから。
(もういいんだよ、ヒルト)
 泣けるぐらいには強くなった。側にいて守ってもらう必要もない。
 折角地上にいられるのなら、隠居なんかやめて今度こそ自分の幸せを追いかけたらいい。
 そう願う。最大限の友情を込めて。






 ******






 空にかかる紺色のヴェールが夜の到来を告げた。
 左手の五芒星にヴィーダは問いかける。クライスのために今から何ができるのか。
(ひとりじゃとても破滅の魔法を消し去ることはできない……)
 あの魔法は普通の魔法とは一線を画している。核となるのは術者の魔力だが、飲み込んだ生命を己が力に変え無限に膨れ上がっていくのだ。この数百年、冥界の出口でどれだけ魔力を溜め込んだか計り知れない。
 上空から勇者の都がある方角を睨み据え、どうすればどうすればとぐるぐる思考を巡らせた。
 大賢者の力を手に入れた瞬間は、これでもう彼女とふたり幸せになれるものと思ったのに。
(自分のことしか考えてなかった罰かなぁ……)
 糾弾するようなクラウディアの声を思い出し嘆息する。あの様子では彼らに協力を仰ぐのは難しいだろう。
 今までのツケだ。勇者の国を踏み台にしようとしていた自分が信用してもらえるはずがない。
(アラインがぼくの希望を聞いたのだって、彼がシュルトに同情したから……)
 間違っていたのかもしれない。
 ひとりで彼女を救おうとしたことも、何を犠牲にしてもいいと誓ったことも。
 エーデルにでも、アラインにでも、最初からすべて打ち明けておけば良かった。助けてほしいと言えば良かった。そうしたらきっと何か違っていたろうに。

「……何? ぼくに言いたいことでもあるの?」

 人外の気配に気づきヴィーダは虚空を睨みつける。
 風に靡くヒーナの装束。顔布の下で刻まれる微笑。
 彼を信じられないと思う日が来るなんて。

「あとひと月です」

 人差し指を突き立てて気功師は静かに預言した。
「放っておいても破滅は目覚め、世界を巡り始めるでしょう」
「……」
 息を飲む。もうそれだけしか時間もないのか。
「待ってくれ! どうしたら死なずに運命を変えられるんだ?」
 縋るように尋ねるけれど、気功師はヴィーダに答えてはくれなかった。
 影の消え去った夜空には無数の星が瞬いている。








(20121230)