辺境の都MAP


 魔王城の大広間、配下を集めた紅髪の男が「辺境の都への侵攻準備が整った」と告げる。
 その瞬間、あちこちで歓声にも似た雄叫びが上がり、黒竜の姿に転じた司令塔に続き高い空へと飛び立っていった。
 それにしてもおびただしい数の軍勢である。リッペはごくりと唾を飲む。窓から見上げた赤い空の一面は魔物の翼で真っ黒に染まっていた。あれが一斉に人間の街を襲うと思うと血沸き肉躍る。とは言え自分がイデアールの傘下に入るわけにもいかないが。
 はあ、とリッペは嘆息した。ハルムロースの雑用係になって以来、くだらない命令を聞くばかりでずっと暴れ足りない。あの男が機を窺って確実に相手のとどめを刺すタイプなのは見ていればわかるが、魔物とは本能的に人間を殺したくて仕方がない生き物なのである。あんな多勢で攻め入るのなら己も参戦したかった。嬲り殺しの楽しさを味わうチャンスだったのに。
 が、許しを乞うべき相手は未だ魔王城に戻る気配なしだ。元気でいるならいいのだが、こう音信不通が続くと心配になってくる。ハルムロースの安否ではなく、主にあの男に化けている己の身の安全が。

「あなた次のご主人様を探した方がいいんじゃない?」

 と、背後で響いた女の声にリッペは冷や汗を垂らしつつ振り返る。魔王の玉座を狙う魔族のひとり、ゲシュタルトだ。
 この女は先日魔力をほとんど空にして戻ってきた。たまたまイデアールが不在だったため何事もなく済んだようだが、一体何があったのか不思議である。そこまでの戦いをしなければならない相手がこの女にいるとは思えなかった。
「いやあ、そのお」
「ハルムロースならイデアールなんかよりよっぽど厄介なのに引っ掛かったみたいよ」
 何か知っている風にゲシュタルトは話す。その口調にはどこか怨念めいたものが滲んでいた。
 黒いドレスを翻し、彼女はそのままリッペの脇を通り過ぎる。そうして蝙蝠を呼びつけて、イデアールたちの去った方角――辺境の都へ向けて消えていった。



 ******



 魔の国に近いぶん魔物が多いと聞いていたのだが、辺境の旅路は至ってのどかなものだった。荒野には強い風が吹いているものの、見通しは良く野宿にも適している。たまに現れる魔物も地中に根を張る植物タイプのものばかりで、そう苦戦はしなかった。
「……なんか変だよねえ」
「ああ、なんか変だ」
 ノーティッツとベルクが話しているのをマハトは一歩下がったところで見守る。ふたりもこの遭遇戦の少なさに違和感を持っているらしい。
「魔物がいた気配はある。けど今はたまたま留守にしてるって感じだな」
「うん、あんまり油断しない方が良さそうだ」
「まああ……! ベルクもノーティッツも頼もしくなりましたわね! 流石ですわ!!」
 キラキラした瞳で仲間を見つめるウェヌスだけが圧倒的に浮いていた。緊迫という文字は彼女の辞書にないのだろうか。
「このふたりに任せておけば旅は安全かつ快適なのです! ご安心なさってくださいね、マハトさん!!」
「あ、はあ……どうも」
 パーティにいつもと違う人間が混ざっているからか、ウェヌスのテンションは山のように高かった。さながら参観日で張り切る新任教師のようである。ほら、うちの生徒はこんなによくできるんですよ、ほらほらというオーラが迸っていて、マハトは彼女の扱いに手を焼いた。女神は本当にベルクたちが大好きらしい。
「しっかしこう戦ってねえと腕がなまるな。久々にルール無用の実戦勝負でもするか?」
「おっ、いいねいいね。最近お前とそういうのしてなかったもんな」
 腰かけていた岩から立ち上がり、若者ふたりは砂を払った。何が始まるんだろうかと眺めているとウェヌスの「始め!」という合図とともに突然ノーティッツが焚き火の燃えかすを蹴り上げる。灰が舞い上がり、堪らずベルクが咽た瞬間ノーティッツは煙幕の中に身を隠した。
「えっ、なんだ? これ訓練なのか?」
 マハトの問いにウェヌスがこくりと頷いた。「剣のみではベルクが圧倒的に優勢ですので、目潰しと急所攻撃以外は何でもありというデスマッチ方式なんだそうですわ!」などと明るく解説してくれる。
 それにしてもあの少年には驚きだ。実戦勝負と言われてから煙幕を張るまで一度も焚き火を見なかった。視線が動いていればあの蹴りは予測できたかもしれないが、なかなか末恐ろしい。
「甘いぜノーティッツ!!」
 ブワ、とベルクが剣圧で風を起こした。砂煙が一気に吹き飛び、身を屈めていたノーティッツの姿が露わになる。
 これは側にいると危ないなと判断するとマハトはウェヌスの手を引き少し離れた岩影まで退避した。
「わはは! 腕が落ちたんじゃないか? 居所が丸わかりだ!!」
「なんの!!!」
 飛びかかってきたベルクの顔面にノーティッツが隠し持っていた砂を浴びせる。「うお!」と叫んだもののベルクは怯まず、そのまま剣を振り下ろした。しかし一瞬目を閉じてしまったため攻撃は外れ、空しく土を抉る。
 ノーティッツは間合いを取るべくベルクから離れた。だが腰に結わえた連射機能付きボウガンですぐさま攻撃に転じてくる。ベルクは剣の平たい面を前方に向けるとすべての矢を弾き返した。けれどひとつだけ呪符の巻かれた矢があったらしく、ボウッという燃焼音とともに彼の手元で火柱が上がる。
「あっつ!!!」
 火傷したじゃねえかと怒声を響かせベルクはグローブが燃えているのもお構いなしにノーティッツに突進する。途中左右へのジャンプを織り交ぜ揺さぶりをかけるのも忘れていなかった。
「おま! 手ェ燃えてんだからちょっとは躊躇しろよ!!」
 悪態をつきつつノーティッツは二枚目の呪符を取り出す。今度は風魔法らしい。攻撃に使うのかと思ったら、彼は自分に魔法をまとわせフワリとベルクの後方に飛んだ。
「あっくそ!! 逃げ方が卑怯なんだよ!!!」
 振り返ったベルクが慌ててきょろきょろ周囲を見渡すがノーティッツの姿は見つけられない。マハトも彼を見失い、「あれ? どこだ?」とあちこちに目をやった。
「そこか!!!」
 ベルクの声でノーティッツが先程剣に抉られた地面に隠れていたのがわかる。そこに隠れるという発想も機転が利いているが、人ひとり身を隠せる穴を開けてしまう攻撃力にも感嘆する。
「ちょろちょろしやがって、てめえ! もう逃げられねえぞ!」
「おいおい、足元に気をつけろよ」
 涼やかな声の後、ベルクがすっ転ぶのが見えた。使用済みの護符が進路方向に薄ら土を被され置かれていたようで、思い切り足を滑らせたらしい。指をさし笑うノーティッツにベルクの投げた神鳥の剣がクリーンヒットした。
 流儀も仁義もない戦闘訓練はその後十五分ほど続いた。アラインがこういう色に染まる前にパーティが別れて良かった。口には出さずそう安堵する。
 別に彼らを否定したいわけではない。これはこれで十分アリだと思う。ただ勇者の戦い方ではない。間違いなくない。
(こっちのパーティは仲良いなあ)
 楽しげながら本格的なバトルを繰り広げるふたりと、白熱した様子で彼らに声援を送る女神。歳が近いからだろうかと考えて、いや違うなとかぶりを振る。
 イックスに対しても、ハルムロースに対しても、クラウディアに対しても、自分はずっと警戒を解けないでいた。多分それが原因だ。年齢は関係ない。
 辺境の都には十日足らずで到着した。都付近で壊滅状態の農村群を目の当たりにしたときは流石にベルクたちも口数を減らした。国土全域が魔物の襲撃に遭うというのは凄まじい災禍であったろう。それでも都は堅牢な五角形の城壁を堂々聳えさせていた。






 こういうとき、こいつも王子様なんだよなとノーティッツは不思議な気分になる。街の正門を守る門番に「誰だ? どこから来た?」と問われ、「ベルク・フロー・トリウムフ。兵士の国の第三王子だ。父上から話がいってないか?」と長い本名を名乗る幼馴染を見て、ノーティッツはひとり「うわぁ」と零した。真面目な顔で王族をやっているベルクなど冗談にしかならない。笑ってはいけない場面だと思うほど腹筋が引き攣れてくるから困る。
 王印付きの勇者免許書は他国では身分証明書代わりになった。照会する間ここでお待ちをと通された石造りの簡素な部屋で、耐え切れずノーティッツはぶほっと噴き出す。
「お前いつまで笑ってる気だよ? いい加減にしねえとぶっ殺すぞ」
「だっておま、父上って、父上って! ひひひ!」
 いつもヒゲ親父だの筋肉馬鹿だの好き放題言っているくせに父上ってと転げていると、本当に手刀が飛んできた。どうやら向こうも久々に王族意識が戻ってきて気恥ずかしいらしい。
「……けど都は思ってたより大丈夫そうだな。鎖国状態にするって聞いてたから心配してたんだが」
「ああ、そうだなあ」
 ノーティッツはちょいちょいとウェヌスを呼ぶと紙に五角形を描いて街の構造を説明し始めた。
 辺境の都は別名魔法都市とも言われるほど魔法使いの多い街だ。王城では名うての宮廷魔導師たちが都を守るべく働いている。街全体を包む結界も過去に彼らが考案したらしい。
「巨大魔法石を磨いて五角形の各頂点に配置してあって、街もそれに合わせる形で区画整理されてるんだよ。商業施設は商業施設、研究施設は研究施設って感じで」
「まあ、整然としておりますのねえ」
「魔法使いにとっては面白い街らしいから、後で観光できるといいね」
「ええ! 楽しみですわ!」
「魔法……魔法か。俺には無縁の話だな……」
 何の属性も持たず、魔法を扱えないベルクが遠くを見つめて黄昏を背負う。同じく魔法属性のないマハトも沈黙を保っていた。
「お待たせいたしました、ベルク様! 王城へご案内させていただきます!!」
 と、複数の兵士がやってくる足音とノック音が響いた。特に不審者と疑われることもなく、ベルクが本物の王子であるという証明がなされたらしい。
「王城か。これって一度呼ばれたらなかなか帰してもらえないパターンだよな? 悪いんだがちょっと抜けさせてもらって構わないか? 街で武器を見ておきたいんだ」
 申し訳なさそうに尋ねるマハトにベルクは「いいんじゃね?」と了承した。戦士は水門の街でクヴァドラートと戦った際、愛用の斧を消失している。一応今は代替品として別の斧を使っているが、もっといいものがあれば早めに欲しいということだろう。
「んじゃついでに宿の手配も頼んでいいか? 先に泊まるとこ決めとかねえと、それこそ俺らも帰してもらえねーかもしれねえし」
「ああわかった。アライン様たちが遅れて到着するってこと、王様に話しておいてくれよ」
「おう! じゃあまた後でな!」
 正門前で離脱したマハトを見送り、ノーティッツたちはてくてくと王城を目指し歩く。
 城は街の中心にあった。城壁が円を描くよう城を囲んでおり、見るからにあそこにも魔法が仕掛けられていそうだった。



 招かれた王城では早速国王ウングリュクがノーティッツたちと面会してくれた。丸い背凭れの玉座に坐すのは、長い白髪と豊かな顎髭を持つ聡明そうな初老の男性である。王様と聞いて思い浮かぶタイプの王様だった。外に出る用事がなければ運動着で公務をこなすと囁かれている自国の王と違い、金色に光る冠をつけ、古いながらも豪奢なビロードのマントを羽織っている。「マトモそうな陛下だなあ」と隣のベルクも感心していた。ちなみにウェヌスはベルクから「粗相すんなよ、何も喋るな」と約束させられ、ずっと口にチャックをしている。
「よくぞ来られた、若き王子よ! そなたのことは御父上からも聞いておるぞ。何でも魔法には頼らず己の拳ひとつで盗賊団を壊滅させたり魔物どもを蹴散らしたりしておるそうだな?」
「あ、いや、単に魔法は才能がねえってだけで」
「勇者として旅に出るとは豪気でないか! まぁまぁ、まずはゆっくりお身内と話されるが良かろう」
 ウングリュクはにこにこ笑い、侍従に大きな姿見を持ってこさせた。毒林檎とお姫様のお伽話に出てきそうな細かな装飾が施された鏡である。覗き込めば波打つように鏡面が揺らぎ、徐々に人の顔の形になった。
「お、親父!?」
 驚いたことに映っているのはベルクの父、つまり兵士の国の王だった。遠く離れた場所にいる人物と通信できる魔法らしい。なんと素晴らしい技術だろう。
『おおベルク! どうだ、元気でやっとるか?』
「げ、元気だけどよ。あーびっくりした。旅先で連絡取れるなんて言ってなかっただろ?」
『言ったらお前スルーするだろうが! 思春期まっさかりで家族と絡むのが恥ずかしいのは仕方ないが、たまには無事かどうかの報告ぐらいせんか!』
「したって! しただろ! 国境越えるときは流石に水門の街から手紙を」
『馬ッ鹿もん!! あんな汚い字が読めるか!!!』
「親なら息子の字くらい読めろよ!!!!」
 他国の王の前で堂々と親子喧嘩を始めるふたりにノーティッツは思わず溜め息を吐く。いや、ベルクらしいと言えばベルクらしいし、兵士の国らしいと言えば兵士の国らしいのだが。
『まぁ良いわ。お前の活躍の噂はわしの耳にも届いとるぞ。盗賊千人狩りだの魔物一万匹斬りだの』
「おい……それ絶対尾ひれついてるぞ」
『喜んだ反面、そこまで野蛮に育てたかのーと母さんとも嘆いておったのだ。やっぱりお前だけ乳母の子と取り違えたんじゃないか? とな』
「余所の宮殿でそういうスレッスレの話題やめてくんねえ!?」
『スレッスレなのはお前の王宮での立場だろう。お前、貴族の令嬢たちに何と言われておるか知っとるか? 限りなくゴリラに近い野性の王子、デコピンでもされようものなら頭蓋骨陥没のうえ脳挫傷必至、見初められたくないから帰ってくる前に結婚相手決めておこう運動まで巻き起こって』
「うるっせえええ!!! もう切るぞ!!!!!」
 ばさ、とベルクが鏡に布を掛け直すと魔法が途切れ、謁見の間が静まり返った。
「くっくっく……、相変わらず兵士の国は楽しげだのう!」
 ウングリュクはベルクを咎めることもなく面白そうに笑う。朗らかな王様で助かった。
「それにしてもいいタイミングで来訪してくれた。宮殿内を案内させるから、良ければ色々見て回ってくれ。――ノルム、頼んだぞ」
 はい、と高い声がして控えていた侍女のひとりが顔を上げた。白い手には長い樫の杖を所持しており、宮廷魔導師であるのが知れる。ノルムは濃い青の髪をサイドでまとめた二十代後半くらいの女性で、魔導師用の黒いローブがよく似合っていた。
 ベルクが後から勇者の国のアラインも合流する旨を告げるとウングリュクは更に喜んだ。何か困り事でもあるのかなと訝ったが、説明はすべてノルムから受けてくれとのことだったので、ノーティッツたちは王の間を退出した。



 魔法国家の城だけあって、王城はかなり特殊な構造をしていた。まず外観は完全なシンメトリー、あちこちの窓に魔法陣が描かれており、魔物の襲来に備えているようである。内部は四階建てで、一階に厨房や兵舎、公務室、大広間、謁見の間が、二階に客室や衣装室が、三階に王族の私室があった。四階には偉大な魔導師たちの肖像画が飾られており、広々としたフロアを占領する形で大きな魔法陣が敷かれていた。
「これが私たちの防衛の要です。街全体を覆う結界が魔物の侵入を阻み、民の暮らしを守ってくれています。万が一敵に結界を破られても、五つの大魔法石とこの城の結界があれば、民を守りながら戦うことができるのです」
 ノルムは誇らしげに解説した。以前魔物たちの大襲撃を受けたときも都の結界は崩れず、近隣の街を含む多くの人々の命を救うことができたのだと言う。
「そりゃすげえな。んな大掛かりな魔法初めて聞くぜ」
「ええ、ですが……」
 表情を曇らせ、ノルムは辺境の国がじわじわ追い詰められている現状を語った。一定水準以上の自衛手段を持たなかった街はことごとく滅ぼされ、生き残っているのはこの都と神殿のある山門の村、国境のオステン村だけなのだと。最も憂慮すべきは荒野の古代遺跡群が魔物の手に奪われたことで、もし古い魔法を解析し操ることのできる術者が敵側にいた場合、都の結界が破壊される恐れもあるそうだった。
「魔物たちはいずれまたやって来るでしょう。見張り塔から常に兵士と魔導師が周囲の様子を探っていますが、ここ数日、魔物たちの活動はピタリと止んでいます。何かの前触れでなければいいのですが……」
 魔法陣と肖像画を交互に見ながらノーティッツはごくりと息を飲んだ。王様がいいタイミングで来てくれたと言ったのはこのことだったのだ。近く大きな戦闘になるかもしれないから勇者の力を借りたいと――。

「…………」

 そのときふと信じ難いものを目にしてノーティッツは足を止めた。
 魔法陣を取り巻くよう飾られた肖像画はどれも歴代の宮廷魔導師長らしい。そのうちのひとつに完全に釘づけにされる。なんだこれはと頬が引き攣った。
「おいベルク……えらいもん見つけたぞ……」
「あ? なんだ? えらいもん……って……」
 ノーティッツの指差す先を見てベルクも言葉を失う。
 橙色に燃える長い巻き髪、挑発的な緑の瞳。魔導師のローブを好き勝手に着崩した女はどう見ても、どこをどう見ても。
「えええ!? イヴォンヌさんじゃねえか!?」
 ベルクが叫んだのはノーティッツの母の名だった。下町で酒場兼食堂を経営する女亭主。母はそれ以上でもそれ以下でもない。高度な魔法を使っているところなど当然見たこともない。なのに何故こんなところに絵など飾られているのだろうか。
「まあ、イヴォンヌさまをご存知なのですか? この方は今この国を守っている守護魔法陣の基礎を築いた方なのです。残念ながら放浪癖が酷く、国内外問わずウロウロされた挙句に兵士の国の男と駆け落ちしてしまったのですが……。国を出られる前にご自身の魔力の大半を残して行ってくださったのですよ」
「へ、へえ……」
「そ、そーなんすか……」
 引き気味のベルクとノーティッツにノルムは「?」と首を傾げる。
「魔力分離の研究では第一人者と言っても過言ではありませんね。普通魔法使いは自分が体内に溜められる魔力分しか魔法を使うことができませんが、イヴォンヌさまは呪符の原理を応用して魔力を体外に溜める技術を開発されたのです。おかげで我々はこのように強力な結界を維持することが……あら? そう言えばノーティッツさま、どことなくイヴォンヌさまとお顔が……」
 ノルムがまじまじノーティッツの顔を覗き込んだときだった。
 城壁の向こう、街と荒野を隔てる外壁がドォンというけたたましい音を立てて崩れ落ちた。



 ******



 首飾りの塔の最上階。地下から昇ってくる人の気配を感じ取ってヒルンヒルトは顔を上げた。
 三つの塔と魔王城、勇者の都は強い魔力で結ばれている。前回の古代神殿ではゲシュタルトの邪魔が入って失敗に終わったため、ここから魔王城と交信できないか試しに来たのだ。侵入者を拒む強力な結界さえなければ、転移魔法で直接赴くこともできたのだが。
 百年前と違い、魔王ファルシュは一切の自我を失くしている。彼が己の肉体を分け与えた者――即ちイデアールに、早々にこれまでの経緯を打ち明け協力を仰がねばならない。肉体が滅びれば魂もいずれ消滅する。もしイデアールが人間に挑み、殺されることになれば、今までやってきたことのすべてが水泡に帰してしまう。
(ファルシュが息子に事情を説明しておいてくれれば助かったのだがな……)
 そういうわけにもいかなかったようだ。魔王城で話し合った時点でおそらくギリギリだったのだろう。生まれてきたイデアールは父の苦悩など何も知らずに育ったわけだ。だからこそ彼は父を亡霊にした人間を苛烈に憎んでいる。
(イデアールに退けと諭すより、勇者候補らに彼を倒してはいけないと諭す方が早いか?)
 ヒルンヒルトは書を閉じて祭壇から背後を振り返った。魔法陣の輝きがこの最上階まで届いている。もう誰か到着するようだ。

「あ、あれ……!?」

 依代とした賢者の知人が先客に目を丸くした。最初に現れたのはアラインという名の少年。彼は自分の血を受け継ぐ人間でもある。
「あーっ! ヒルンヒルト!! ジブンこないだはよぉやってくれたなあ!!」
 と、その傍らから神鳥バールが猛然と向かってきた。先日ラウダに頼まれて風を起こしたのを根に持っているらしい。
「やはり追いかけてきたか。だから逆効果だと言ったのに、ラウダも素直じゃないからな」
「何を知った顔で言うとんねん!! っちゅーかラウダ! あのアホどこや!?」
「彼はアンザーツと都へ向かったよ。魔物たちの様子がおかしいので気になると言ってね」
 アンザーツの名を出すとバールはピタリとくちばしでつつくのを止めた。アラインの方も神妙な面持ちでこちらを見つめている。
「……やっぱりイックスがそうやったんか?」
「ああそうだ。百年前に私が彼を封じた。目覚めてからは別の名を名乗るように言い添えて」
 答える間にも次々と彼らの仲間が上がってくる。知った者もいれば知らない者もいた。中には非常に興味深い者も。
「ハルムロースの身体は無事なのか?」
 アラインの問いにヒルンヒルトは頷いた。定着はほぼ完了し、今は見た目もヒルンヒルトそのものになっている。眼鏡はつけておらず、髪は薄紫、目は水色だ。憑依を解けばすぐに元に戻るだろうが、暫く先になるだろう。自分には肉体が必要だし、あまりこの男に動き回られても困る。
「心配してやる必要はない。知らないようだから教えてやるが、ハルムロースは魔王城で暮らす高位魔族だ。魔王の座を狙う一環として君に近づいた。自分が禁呪を受けたことにも気がつかなかったか?」
「え……?」
 ふわ、とアラインの間近まで飛ぶと、ヒルンヒルトは人差し指を少年の心臓に突きつけた。
「無理に力を抉じ開けられて損傷しかけている。魔法を浴び過ぎると立っていられないほどの激痛が襲うぞ」
 魔剣士との一戦を思い出してかアラインは息を詰める。彼を庇うよう再び神鳥が羽ばたいて、ヒルンヒルトは半歩下がった。
 フロアには五人の若者が並んでいた。名前がわかったのは三人。アライン、クラウディア、オーバスト。新参者はふたりだった。きらめかしい黄金の髪の青年と、褐色の肌と魔物の眼を持つ少女。
 成程な、とヒルンヒルトは薄く笑った。魔王城との交信は結局できそうにもないが、他に大きな収穫が得られた。
「なにわろとんねん!! ジブンら何を始める気ィしとんのや!!」
 わからないことだらけでバールは憤慨し通しだった。顔を真っ赤にしてヒルンヒルトを睨んでくる。
「別に悪企みをしているわけではないさ。だが天から使者まで遣わすとは、我々の所業に神とやらも相当焦らされているようだな」
「せやからそれを説明せえっちゅうねん!」
「まあ待て」
 ヒルンヒルトは最上階から見える空の一角を示す。青空に浮かぶ黒ずんだ塊を。
「ゆっくり話して聞かせてやりたいところだが、そうも言っていられないようだ。見えるか? あの魔物の大群が。――方角は南だ。辺境の都へ向かっている」
「……!?」
「何あれ、全部魔物なの……!?」
「来る気があるなら転移魔法の連れにしてやるが、どうする?」
「……! 都にはベルクたちがいる。僕らも加勢に行かないと……!」
 提案にアラインは緊張したまま頷いた。やや頼りなげな面はあるが、いつも真っ直ぐ進もうとする健気な若者だった。
 ゲシュタルトの娘を引き取り、やがて己の妻とした後、こんな人間に血が繋がるとは思いもしなかった。自分自身は最後まで世界や人類のためになど生きられなかったのに。



 ******



 爆発が起きたのは魔道具店で新しい斧を購入した直後のことだった。
 粉塵舞い踊る大通りをマハトは駆ける。手には真新しいバトルアックスを持って。
 購入理由は簡単だった。魔法耐性があり、そう簡単に壊れないと言われて即決したのだ。今まで使っていたものよりひと回りほど大きく多少扱い難くはなるが、倍以上の威力を発揮できるのも魅力だった。
(結界があるって聞いたがどうなってんだ!?)
 外壁を破壊されるなどということは市民たちもあまり想定していなかったようで、人々は悲鳴の中を逃げ惑っている。その波を掻き分け、ともかくマハトは現場へ急いだ。
「落ち着いて! 市民の皆さんは所定の避難場所へ急いでください!!」
 そこへやって来たのは甲冑に身を包んだ兵士と長い杖を持った魔法使いたちだった。彼らの姿を見るや、さっきまでパニック状態だった人々が落ち着きを取り戻す。押し合いへしあいしていたのが規律を守って進むようになり、巨大な魔法石の据えられた建物の中へ足早に逃げ込んでいった。
「俺は旅の者なんだが、良ければ協力するぜ」
 そう申し出ると兵士は「おお、もしや勇者殿の? ありがたい、では一緒に来てくれ!」と隊列にマハトを混ぜてくれた。
 緊迫した様子で部隊の者は空を見上げている。同じように頭上へ目を向け、マハトは愕然と目を見開いた。
 雨雲が出たのかと思うほど暗い。その理由は空を埋め尽くす魔物の軍団にあった。結界に空路を塞がれ街に入ってくる者はないが、絶望的なほどの数で王都を取り囲んでいる。
「大変です! 敵の中に結界に干渉してくる魔族がいます!! 何匹か街の中に魔物が――!!!」
 先遣隊の報告にぞわりと背筋が凍らされた。



 駆けつけた裏門のすぐ側には抉じ開けられた穴が見えた。侵入したという魔物たちは魔法部隊によって既に撃破されているようだ。だが穴の向こうで結界を崩そうとしている男には仕掛けた攻撃をことごとく跳ね返されているようだった。
 立っていたのはドラゴンの耳を持ち、紅い髪と金の眼をした魔族の青年。ひと目見た瞬間、マハトはエーデルを思い出した。似ている。あの紅髪の少女と。
「あの男を倒せ!! これ以上結界の穴を広げてはならん!!!」
 怒号が響き、何十という兵士たちが一斉に男へ向かう。その第一波に、穴から顔を覗かせた火吹き蜥蜴が炎の息を吐きかけた。
(危ない!)
 だが炎は彼らに届く前に凍りつき、さらさらと砂のごとく流れる。魔法部隊による後方支援のおかげだった。
 やはり魔法国家を名乗るだけはあるなとマハトは感嘆の息を漏らす。穴はまだマハトの背丈くらいの直径にしか達しておらず、大きな魔物は一、二匹ずつしか侵入できない。狙い撃ちにされるとわかると敵も尻込みし始めた。
 魔法部隊の面々は各々の杖に炎を灯し、火の属性がない者は風か雷を宿らせた。結界の穴に向けて全員で魔法を放ち、男を葬り去ろうと言うのだ。
 対抗して、あちらからもヴォルフの群れが飛び出した。小型だが俊敏な動きをする狼タイプの魔物である。何人かが襲われ、堪え切れず杖の先の魔法をぶつけた。
 マハトは兵士たちに混ざり、魔導師の防護に務める。魔法が発動するまでの間、入り込んできた魔獣たちを懸命に追い払った。
「一斉放射用意!!撃てええええッ!!!!」
 司令官の合図で穴が炎に包まれる。風と雷で威力を増したそれは、結界に綻びを作り出している男に直撃したようだった。
(どうだ?やったか?)
 煙の奥にマハトは目を凝らす。斧でヴォルフの胴体をかっ捌きながら、穴が塞がっていることを願った。こんな広い都で市街戦など考えたくもない。
 だが敢えて避けなかっただけあって、魔族の男は平然とその場に立ち続けていた。
「……この程度か。やはり人間は脆弱だな」
 鼻で笑うと男は掌をぐっと結界に押しつけた。まるで穴を開けるコツがわかってきたとでも言うように、触れたところから次々と大小の爆発を引き起こす。
「さあ、これでどうだ?」
 強烈な光と熱が全身を包んだ。伏せた身を起こしマハトが前方に目をやると、裏門周辺の結界は外壁の一角と共に綺麗に消し飛んでいた。あれよと思う間もなく魔物たちがなだれ込んでくる。辺りは騒然となった。
 兵士や魔法使いたちが応戦するが、形勢はたちまち逆転した。あまりにも敵の数が多すぎた。マハトも必死で武器を振り回すが、どれくらい持ち堪えられるかはわからなかった。
「さて、それでは私は王城へ向かう。この辺りは任せるぞ」
 軽やかな仕草で男は地面を蹴る。王城へ向かうとの言葉通り、翼を広げて一直線に街の中心へ消えていく。あまりの速さに誰も追うことができなかった。
「グオオオオオオオオオ!!!!!」
 更に地中から巨大な竜が姿を現す。炎のような赤い身体と八つの頭を持つそれは、明らかに他の魔物とは一線を画していた。
 大気を震わす吼え声と灼熱の炎が浴びせかけられる。氷魔法が放たれたが、溶かされたのはこちらの攻撃の方だった。
(やっべえ……ッ!!!)
 そのときだ。強い風が吹き、迫りくる炎を押し戻した。

「ヒュドラか。あれはかなり手強いぞ」

 間近に響いたのは聞き覚えのある声。
 マハトがすぐ横を覗くとイックス――否、アンザーツと呼ぶべき青年が剣を構えるところだった。






 城をも揺るがす轟音に宮廷魔導師長ノルムは弾かれたよう階段を下り始めた。彼女に続いてベルクたちも地上へ駆ける。都が攻撃を受けたのに間違いなかった。
 一階まで下りるとウングリュクが兵士たちに指示を出し、街へ送り出しているところだった。
「陛下! 俺たちも加勢するぜ!!」
 叫んでベルクは城門を飛び出す。ノーティッツとウェヌスも後に続いた。
 隊列を組んで急ぐ王国軍の横を駆け抜けながら、空に翼を広げた無数の魔物たちを睨みつける。飛べるタイプがあれだけいるということは、地上や地下にもそこそこの数がいるはずだ。魔界中の魔物を掻き集めてきたのではないかと思うほど都を囲む敵は多い。
「結界が破られたらヤバイどころじゃないぞあれ」
 口調こそ飄々としていたが、ノーティッツの顔は青ざめていた。女神であるウェヌスでさえ。
「おい、大丈夫か?」
 心配になって彼女に声をかけると女神は両手で口元を覆った。敵に取り囲まれた恐怖で吐きそうになっているのだろうか。
(くそ! お前がそんなデリケートな女かよ!)
 そう毒づくベルク自身徐々に表情が強張ってくる。一匹一匹は強敵と言うほどではないかもしれないが、数が暴力的だった。そのうえ前方の兵士が「結界の一部が損傷している!! 魔物たちが入りこんでるぞ!!!」などと叫び出す。
 さっき城で聞いたもしも話が完全に現実となり始めていた。せめてアラインたちもいてくれれば助かったのだが、いないものに頼るわけにいかない。
「あ! そういえば戦士の兄ちゃんは!?」
「マハトさんなら武器がどうのって言ってたから、裏門側の商業地か魔法研究施設辺りにいると思うけど……」
「あの煙が出てるの裏門じゃねえのかよ!?」
 舌打ちしたい気分でベルクは速度を上げた。
 別れずに城まで同行してもらえば良かった。マハトに何かあったらアラインに申し訳が立たない。
「……もう駄目ですベルク……っ!」
「ああ!? ど、どうしたウェヌス?」
 額を真っ青にしてウェヌスが滅多にない弱音を吐く。涙を溜めた目で見上げてくるのに驚いて、ベルクとノーティッツは立ち止まった。
「口をきくなと言われていたので息を止めていたのですけれど……! もう限界ですわ!!」
 はあはあと息を吸い込むウェヌスにベルクは無言で渾身のツッコミを入れた。ノーティッツも止めなかった。
「これから戦いに行くっつうのにホンット余裕綽々だなお前はーーーー!!!!!!」
 自分たちに今ひとつ緊迫感が足りないのは絶対にこの女のせいだと思う。これで緊迫感を持てという方が無理だと思う。
 ウェヌスは「あなたが私にそうしろと命じたのでしょう!?」と怒っていたが、もはや叱る気も起きなかった。
「はは、いつも通りだ」
 再び走り出したノーティッツが笑う。まったくこの女神様はとぼやきながら、ベルクも肩の力が抜けるのを感じた。
 巨大な火柱が噴き上がったのは直後のことだ。
「うわあああ!!!! 結界が破壊されたぞーーーー!!!!!」
 そんな悲鳴が耳に届いた。見上げると街を包んでいた結界の五分の一ほどが跡形もなく消し飛び、開いた口から吸い込まれるよう魔物たちが侵入を開始したところだった。



 ――近辺は数分と待たず魔物の気配に満たされた。数合わせで連れて来られたのだろうなという雑魚もいれば、一撃では死なない骨のある奴もいた。切っては捨て、切っては捨てを繰り返すも一向に数は減らない。水牛の群れにでも放り込まれた気分だった。
「ノーティッツ! あんまウェヌスから離れんなよ!!」
「わかってるよ!!」
 回復役である女神を守りながら襲いかかってくる魔獣や魔虫を薙ぎ倒す。辺境の兵士たちも善戦していたが、多勢に無勢、こちらの劣勢は明らかだった。支給品の傷薬はあっという間に消費され尽くした。にっちもさっちも行かなくなった兵士から順にベルクの周囲へ退避してくる。彼らを励ましつつベルクはひたすら剣を振るった。
「大丈夫ですか、みなさん!!」
 と、そのときうねる炎が魔物たちの第一線を退けた。さっき置いてきた部隊が追いついたのだ。
「おお、ノルム様だ!! 魔法隊が来たぞ!!!」
 援軍の到着にわあっと歓声が起こった。
 魔法使いたちの放った炎が敵を焼く。氷が魔物の足を縫い止め、雷が行く手を阻んだ。背中を狙われそうになれば、土魔法で形成された壁が兵士たちを守った。癒しの魔法は風に乗り、広範囲の味方を治癒する。
 ベルクはヒュウ、と口笛を鳴らした。辺境の軍隊は役割分担がはっきりしていて統率が取れている。素直に心強い。
「撤退の準備をお願いします!! 結界の損壊を受け、陛下は籠城作戦をご決断なさいました!! 繰り返します!! 撤退の準備をお願いします!!!」
 魔法を放ち、魔物たちを圧倒しながらノルムが叫んだ。その命令に兵士たちは即座に三人組を作って退却を始める。兵士ふたりに対し魔法使いひとりの編成が緊急時の基本らしい。ますます訓練が行き届いているなと感心した。
「ベルクさま、ノーティッツさま、ウェヌスさま、あなたがたも一度ご退却を!」
 ベルクたちの姿を見つけた魔導師が駆け寄ってきてそう告げた。
「籠城して策はあるのか?」
 じわじわ消耗するだけじゃないのかと尋ねるとノルムは「大丈夫です」と自信ありげに笑った。魔物とは戦い慣れているのだろう、彼女に怯んだ様子は見受けられなかった。
「ベルク、危ない!」
「っとぉ!!」
 ノーティッツの射た矢がベルクの背後に迫っていたヴォルフを貫いた。このところノーティッツは剣だけでなく槍やら弓やら投石機やら、様々な武器を扱う。曰く、凡人は臨機応変にやらなければ生き残れないそうだ。
「道を開けます! 城までお急ぎを!!」
 ノルムの翳した杖の先から真空の刃が乱れ飛ぶ。群れを成していたヴォルフたちはキャウンキャウンと鳴き声を上げ逃げ出した。
 が、今度はまた新手に囲まれる。赤紫色の毒々しい毛並みをした巨猿がベルクたちに飛びかかってきた。
「おいベルク、お前の親戚だろ! なんとかしろよ!!」
「親戚じゃねえぇぇ!!!」
 ノーティッツが呪符を投げ、巨猿の肩に炎を撒く。丸太並に太い腕をベルクが斬り落とすと巨猿は毛を逆立てて暴れ狂った。間髪入れずその頭にバスタードソードを叩きつける。
 一匹ずつ戦闘不能にしていくが、本当にキリがない。城まで無事に退却できるかどうかもわからなくなってしまう。
「ウェヌス、離れんじゃねえ馬鹿!!」
 女神の腕を掴み自分の側に引き寄せると、彼女を狙って拳を振り上げていた巨猿の鳩尾に蹴りを入れた。ノルムの雷撃が魔物を打ち、ぷすぷすと煙が上がる。
 魔物は更に数と種類を増やした。空から戦況を見つめていた連中も大半が都に降りたようだった。
(水門の街の五千匹だって何週間かかったかわからないのに、何匹倒せっつうんだよ!?)
 動けるうちは動くつもりだが最後まで立っていられるのだろうか。
 くそ、と眉をしかめたとき、ウウウウーという高い音が都中にこだました。

「伏せてください!!!」

 ノルムの声に反応したのは頭というより本能だった。
 ベルクはウェヌスを抱え込むと地面すれすれまで身を伏せる。敵前ではあまりにも無防備な体勢だ。たがその判断は間違っていなかった。
 空から地上を見下ろす者があったとしたら、さぞかし見物だったろう。
 五角形の街の頂点に据えられた巨大魔法石、それが同時に光線を発射した。ちょうど五芒星を描くように。
 ドオオオオオオオオンと地面を揺らし凄まじい音が轟いた。そうして光が通りすぎて行ったと思ったら、建物も魔物もすべて消し炭と化していた。五つの大魔法石と、中央に聳える城だけを残して。

「……」

 見渡せばあれだけいた魔物たちの大半が死に絶えている。生き残った者も瀕死に近い。瓦礫の下からノーティッツが這い出てきて「うわっ!」と叫んだ。
 この国とだけは何があっても戦争はしない。ベルクはひそかに心に誓った。
「参りましょう、ベルクさま。あれは何発も撃てるような代物ではありません。城が落ちれば我々は終わりです……!!」



 ******



 灰と粉塵、瓦礫にまみれた都を見渡しアラインは呆然と立ち尽くした。
 滅茶苦茶だ。人も魔物も無事な姿の者がいない。マハトやベルクたちは生きているのだろうか?
「多分都の人たちは、お城か魔法石の塔のどれかに避難してるわ」
 唯一の現地人であるエーデルがそう教えてくれなければ辺境の都は滅びたものと思い込んだかもしれない。
「城周辺に砲撃の難を逃れた魔物が溜まっているようです。あそこにもまだ大きいのが」
 オーバストが上空から裏門方向を指差した。ちらりとそちらを向いたヒルンヒルトが「百年前の再来だな」と呟き風に身を浮かべる。
「ヒュドラか……。あちらには私が回ろう」
 言うが早く、賢者は凄まじいスピードで崩れかけた外壁を駆け跳ねていった。あっという間に姿が見えなくなり、正門にはアラインたちだけが取り残される。
「よくわからんが強い敵が襲ってきているのだな? となれば大物は城にいると決まっている。私は先に行くぞ!」
 黄金の粒でできた翼を広げるとディアマントもパーティから離脱した。「おひとりでなんて危険です!!」とオーバストが必死に彼を追いかけていく。
 勝手な行動を取らないでくれと叫ぼうとして、アラインはハッとその場から飛び退った。地中に潜んでいた何かがボコボコと顔を覗かせたのだ。
 それはハンババと呼ばれる、獅子の牙、野牛の肉体、ハゲタカの爪、蛇の尾を持つ強大な怪物だった。
 アライン、エーデル、クラウディアがそれぞれ身構える。ハンババは先程の砲撃でたてがみを燃やされており、甚くご立腹のようだった。






 都全体を貫いた白い光はあらゆるものを塵にした。崩落した建物の重みで潰された魔物もいる。辺境の人間は警告音を耳にした時点で身体を伏せ無事なようだったが、それにしても凄まじい威力だった。
 だがその光を受けたはずのヒュドラは脚に穴が開いたというのに依然炎を吐き続けている。
「くそ……ッ!」
 マハトは斧を握り直して赤竜の腹に斬りつけた。皮膚は固いが鋼鉄というわけではない。ただ切り裂くことはできるのにダメージらしいダメージを与えられず、こちらが消耗するばかりだった。
 アンザーツは器用に竜の身体を蹴りながら剣で頭を狙っていた。首を落とせばとりあえず炎は吹けなくなる。頭が八つもあるため追い詰めるまで時間はかかるが、着実に弱らせようという算段らしかった。
 地面には既に三つ、動かなくなった頭部が転がっている。他の兵士や魔法使いたちがほとんど力を使い果たして蹲る中、アンザーツはひとり衰えなかった。
 剣速はマハトの眼でも追うのがやっとだ。抉った部分が浅ければそこに風を送って引き裂く。ひとつひとつの判断が早く的確だった。魔王を倒した勇者なのだと納得するしかなかった。
 彼は時折マハトに回復魔法をかけてもくれた。こちらを振り返らない頼もしい背中にアラインを重ねてしまい、酷く複雑な気分になる。主人はまだこの男ほどの強さはないけれど。
(いつか置いて行かれる……)
 女の言葉は暗示のようだった。こんな非常時だというのに、マハトの思考にまとわりついて離れてくれない。
 グオオオオというくぐもった叫びとともにヒュドラの四つめの頭が落ちた。と同時に、外壁を伝って薄紫の長い髪の男が駆けてくる。男は胸の前に指を突き出し円を描くと、離れたところからヒュドラの腹を爆発させた。
(魔法使いか? けど兵士たちと着てるものが……)
 整い過ぎなほど整った顔立ちの魔術師はフードつきの色褪せたローブをまとっていた。胸元にぶら下がる魔法石の首飾りも、辺境の部隊とは異なる装備品である。
「アンザーツ! 無事か!?」
「ヒルト!」
 問いかけに応えてアンザーツが男の名を呼んだ。マハトはぴくりと肩を揺らし、再び男の顔を凝視する。
 どことなくハルムロースに似ていた。しかもヒルトという呼び名。あれが賢者を乗っ取ったという大賢者なのか。

「――来たわねアンザーツ、ヒルンヒルト」

 ぞっと全身に悪寒が走った。
 誰もいなかったはずの背後に気配を感じる。冷たい氷のような、燃え盛る炎のような、冷酷な憤怒の気配。
「……ッ」
 恐る恐るマハトが振り向くと兵士の都で会った女がそこにいた。
「ゲシュタルト……!」
 アンザーツが女を見つけて剣を止める。
 足首まで隠す漆黒のドレスに身を包んだ元聖女は薄笑いを浮かべ、ヒュドラに回復魔法をかけた。たちまち四つの頭が復活し、赤竜の傷が元通り癒える。
 漲る力に狂喜してヒュドラは八方に灼熱の炎を吹いた。
 ヒルンヒルトがアンザーツを庇い、ゲシュタルトがマハトを結界に包み込む。
 手に負えないと断じたか、残っていた兵たちは足を引き摺り退散した。
「懐かしい顔ぶれが揃ったじゃない。……ねえムスケル?」
 ゲシュタルトはマハトにそう呼びかける。昔話をしましょうか、と長い杖を振り翳して。
 ヒュドラはアンザーツとヒルンヒルトだけに襲いかかった。何の魔法を使ったのか、今度は切っても切っても傷口が塞がり再生してしまう。
 彼らに味方しなくてはと思うのに、足が彼女の側を離れなかった。
 昔話?ムスケル?一体何のことだ?
 バールは自分を先祖の生まれ変わりだと言っていたが、それと関係あるのだろうか?
 でもどうして。前世のことなど自分は何も覚えていないのに。
 覚えていないはずなのに――。













(20120609)