第十二話 滅ぼしの星 後編






 気の遠くなるほど長い時間、私たちふたりは対となる存在だった。
 光と影、男と女、加速するものと抑制するもの。
 それでいて常に同じ記号を有していた。
 あらゆるものの崩壊、繰り返しの環、罪と罰――。
 一体ふたりでいくつ滅ぼしてきただろう。
 小さな国も大きな国も、果ては世界の理まで。
 近づいてはならない相手だったと気づくのは、いつも遅すぎる。






 ******






 彼女との出会いは唐突だった。そして宿命的であった。

「あたしラーフェと言うの。……あなたがあたしのお兄さん?」

 群青色の髪と明るい紫の瞳。シュルトとよく似た容姿の少女。
 兄という言葉で思い出したのはあの裏街の兄妹だった。親に捨てられた後も助け合って生きていた。
 ラーフェはきらきら目を輝かせてシュルトの掌を握る。温かく小さな指。母の温もりを思い出し、反射的に突き飛ばした。
「……っ!!」
 振り払われたことがショックだったのか、幼い妹はわんわん泣き出した。会うのを楽しみにしていたのに、と父の膝に縋りつく彼女は演じているようには見えない。年相応に子供らしく、けれどそのせいで困惑した。
 なんなのだこの生き物は。本当に自分と血の繋がった妹なのか。
「大丈夫、お兄ちゃんはビックリしただけさ。ほら、もう一度話しかけておいで」
 父の方は相変わらずわかりやすい猿芝居だった。どうせまた金のために連れて来ただけだろう。王城側の目論見などこの男を見ればすぐさま窺えた。今のうちにシュルトを懐柔しておこうというのだ。
 成長したシュルトは既存の部隊だけでは御し切れない存在になりつつあった。火、水、風、土、雷、光、所謂七属性のうち六つを自在に操れる魔法使いは自分ひとりだけだった。ルイーネの王トビアスが目に見えぬ足枷を増やそうとしたのも頷ける。
 だが確か父と母はとっくの昔に別れていたのではなかったろうか。妹が生まれていたなどという話は聞いたこともない。
「ねぇシュルト、仲良くしてね。お母さんは違うけど、あたしのこと好きになってね」
「……」
 どうやら父は新しい女と新しい家庭を築き直したものらしい。一家は上手く行っているようだ。その証拠にラーフェは屈託なく笑った。
 魔法の才もなく、両親に愛され、ごく平凡な人生を歩んでいる妹。半分は同じ血が流れているはずなのに、自分とはあまりに違う。
 見なかったことにして記憶から消してしまえば良かったのだろう。けれどもう掌に残った彼女の温度を消せそうになかった。
 妹――。それはどんな呪文より特別な響きを持ってシュルトの内側に入り込んでしまったから。
 彼女なら自分を思ってくれるだろうか?
 魔法使いでも。人殺しの技術ばかり身につけてきた自分でも。
 汚れたところのない彼女に薄ら期待してしまう。
「しばらくふたりで遊んできなさい」
 黒い冠をかぶった王がそう命じた。にこりとも笑わずに。
 それからラーフェは月に二度ほどシュルトの前に現れるようになった。






「さぁかくれんぼをしましょ。中庭から出ちゃ駄目よ、探すのを諦めたら怒るから」

「今日は追いかけっこをするの。必ず捕まえてね。鬼は順番交代よ」

「難しくて読めない本を持ってきちゃった。あたしにもわかるように教えてちょうだい」

「三つ編が女の子の流行りなのよ。編み方はわかる? あたしシュルトに結ってほしいな」






 天真爛漫を絵に描いたような妹はとても可愛かった。彼女との面会時間は暗殺訓練ばかりさせられているシュルトにとって唯一の安らぎだった。
 ラーフェは言う。シュルトのことが大好きだと。甘い瞳と甘い言葉で鮮やかに心を縛りつけてしまう。
「ひと目でわかったの、特別という言葉は兄さんのためにあるんだって。ねえ、シュルトはあたしが好き?」
「……うん。とても好きだしとても大切だよ」
 兄妹で交わすような会話ではなかったかもしれない。でも彼女といると嬉しいことがたくさん起きた。
 誕生日にプレゼントを貰った。会えない日は手紙を送り合った。同じ色の髪を少しだけ切って交換して、布に包んで大切に持ち歩いた。手を繋いだ。輪唱した。お別れのキスをした。ひとりではできないことを一緒にやってくれるのはラーフェだけだった。
 彼女はよく泣きよく笑う。シュルトも時々それに釣られる。
 世界が変わった。明るい光が差し込んだ。
 トビアスがどんな苛酷な命令を下しても、ラーフェを思えば耐えられた。妹は魔法使いを恐れなかった。染みついた血の臭いごと彼女は自分を抱き締めてくれるのだ。
 愛しさを募らせながら、シュルトは初めて人を殺した日のことを思い出す。あれはまだ城に来て間もない頃のこと。己にとって命は無価値で、人生は無為なものだった。軽んじられることに慣れてきたから、相手の生死を軽んじるくらい何でもなかった。――でも今は。
 逃げることは多分いつでもできたのだろう。けれど今までそうしなかったのは、少なくとも城には自分の居場所があったからだ。魔法が求められていたから。でもそれはそこまで強い動機ではなかった。王はふらふら波間を漂うシュルトをもっと確実に捕まえておきたかったのだろう。トビアスの策は見事に功を奏した。シュルトの心は塗り変えられた。
 「お前にはいつかシュロスの王を殺してもらう」と告げられたとき、持ち出されたのはやはりラーフェの話だった。
「きちんと言うことを聞かないと、あの娘をどうするかわからないぞ」
 ラーフェに心を縛られたシュルトはトビアスの命令にも簡単に縛られた。
 今までは抗う理由がないという理由でやってきたことを、妹を傷つけられたくないという理由でやるようになった。
 従順になったシュルトに王はとても安心したらしい。ラーフェと出会った一年後、ついにシュルトは敵国の君主を殺害せよと命じられた。

「闇に乗じてクリストハルトを討つのだ。いいな、シュルト」

 楽しい時間ほどあっと言う間に過ぎてしまう。
 きっと妹とはもう会えない。よぎった予感は確信に近かった。
 王を殺せば戦争になるだろう。戦争が終われば魔法使いは用済みだ。ラーフェを盾に、今度は自分の命が奪われるのだ。意思ある兵器は同時に脅威でもあるから。
「……はい。行ってまいります、王様」
 そうとわかっていても頷くしかできなかった。
 あの子はまともで、親にも友人にも愛されて生きている。攫って逃げるわけにはいかない。魔法使いの自分が、城の外で彼女を幸せにできるわけがないのだから。






 風を乗り継いでやってきたシュロスの都は白く荘厳だった。夜の闇にも負けぬ白亜はルイーネのそれと真逆である。祖国には冷たい暗灰色しかない。
 塔よりも高い教会、海を臨む巨大な城。都の姿を見ただけでわかった。戦争をしてもこの国には勝てないと。
 でもそれは魔法使いがいなければの話だ。シュルトはもう己の才能の稀有を理解していた。より強く有能な魔導師を従えた国こそが勝利するのだと。
 シュロスの王クリストハルトは強い求心力と牽引力を併せ持っていると聞く。そんなトップがいなくなれば必ずや混乱が生じ、付け入る隙が生まれるに違いない。暗殺の成功は祖国の優位を揺るぎないものにするだろう。
 辺境の国ルイーネと祝福の国シュロス。いつから二国の仲が拗れ出したのかは定かでない。だが今の国王の代になってから特に険悪になったという説に同意しない者はいなかった。元を辿れば同じ血族のふたりなのに、協議や交易、二国で催す祭りの指揮、様々な場面で王たちは火花を散らした。
 シュロスの王は若い頃ルイーネの城で暮らした期間があるらしい。かの国に降りかかった王位継承問題で身辺が危うくなったため、緊急に避難してきたのだという。クリストハルトとトビアスはその頃から反りが合わなかったようだ。隣国と隣国の王について語るとき、トビアスは必ず眉間に濃い皺を作った。
 彼の殺意を今夜シュルトが代行する。



「なんだ、まだ子供じゃないか」



 とっぷりと暮れた夜、寝室の灯りは消えていたのにクリストハルトは眠っていなかった。空っぽの寝台を破壊した真空波はすべてシュルトに跳ね返ってきて、腕や身体に幾つも深い裂傷ができた。飛び退って傷を癒す己と向かい合うように、王は腰かけた椅子を斜めにずらした。
「こちらへおいで。菓子をあげよう」
 小さいが豪華な造りの机には綺麗な四角い箱が置かれている。手招きする彼はトビアスと同い年のはずだが、随分若々しく見えた。活力に満ちた表情がそう思わせるのであろうか。
 それにしてもどうして襲撃がばれたのだろう。暗殺を強行すべきか迷うシュルトに王は悪戯っぽく笑った。
「今夜は大切な客人が来ると聞いていたからな。寝ないで待っていたんだ」
「……?」
 クリストハルトの視線の先には宙に浮かんだ少年がいた。シュルトよりは少し小さく、見たことのない異国の装束を纏っている。どうも彼が王に危険を知らせたらしい。攻撃を避けるための呪符があちらこちらに貼られているのもこのときに気がついた。
「どうぞ、お先に王と話を」
 平坦な声は高くも低くもない。笑みを刻んだ口元以外顔もわからなかった。ただ少年の右手に描かれた黒い五芒星がやけにシュルトの目を引いた。
「君はトビアスに頼まれて私を殺しに来たんだろう? なに、恐れることはない。正直に打ち明けたまえ」
「……」
 クリストハルトの手にした箱からは甘い香りが漂う。蜜の塗られた菓子など目にするのは初めてだ。毒入りかもしれないと警戒し、キッと睨みつけた。
「うーん、やはり答えにくいかな。要するに私は君と交渉したいのだが。なあ、トビアスではなく私につく気はないか?」
「え……?」
 明け透けな物言いをする王にシュルトはぽかんと口を開いた。まさか命を狙う相手にそんな勧誘を受けるとは考えもしていなかったのだ。今まで殺してきた人間だって、命乞いこそすれど味方につけなどと口にしたことはない。
「……」
 シュルトは首を横に振った。自分はもうトビアスに一番大切なものを掌握されてしまっている。命令に反することはできなかった。
「裏切れない理由があるなら言ってみるといい。出来得る限り協力すると約束しよう。私は優秀な魔法使いを求めているし、あの男よりは人道的で寛大なつもりだ。まあ、同胞に対してのみだがね」
 クリストハルトはハハハと笑うが何が面白いのかはわからなかった。戸惑うシュルトに詰め寄ることはせず、王はゆっくりと返答を待つ。決定権はあくまでこちらにあるようだ。
 言うことを聞かないのならこの場で殺すと言わないのは、そうするリスクを知っているからだろう。意志なき決定は容易く覆る。ただの配下ではなく、寝返らない部下が欲しいのだ、この男は。
 漠然とイメージしていたシュロスの王と実際のクリストハルトには随分なギャップがあった。君主など所詮トビアスと似たり寄ったりだと思い込んでいたのに、どうしてか彼はシュルトの話を聞こうとする。
「あの男のやり口は下劣でわかりやすい。人質を取られたか? 呪符を身体に入れられたか? 利用価値がなくなればあいつは容赦なく切り捨てるぞ。嫉妬深いし、疑り深いし、情も薄い。今の間に離反した方が賢明ではないのかね?」
「……」
 切り捨てるという言葉にシュルトはぐっと詰まった。軽率に決めるべきことではないが、シュロス側につけば少なくともしばし身の安全は図れる。シュルトという戦力なしに戦いを挑むほどトビアスは無謀ではなかろうし、こちらの弱みなど知りもしないクリストハルトが強引な命令を与えてくるとも考え難い。戦争が起きるか起きないかわからない微妙な状況が続くのが魔法使いには一番良いのだ。用済み扱いされないためには。
(でも無理だ)
 シュルトはやはり首を振った。自分がルイーネを捨ててしまったらラーフェに何があるかわからない。あんな父親の元だけれど、折角毎日楽しくやっている彼女の幸福を壊したくない。
「彼の考えは変わらないようですよ、クリストハルト」
 天井付近に浮かんだままの子供が言った。呼ばれた王も嘆息し、がっくりと肩を落とす。
「……そのようだな。残念だよ、いい魔術師が手に入ると思ったのに」
 交渉の終わりが見え始めるや否や、クリストハルトは鋭く双眸を尖らせた。一度退くべきだと告げる本能に従ってシュルトは風を纏う。
 王はともかくあちらの子供は得体が知れない。捕まる前に逃れなければ。
「魔術師? いいえ、彼はそんなものではありません。これから私の渡す力で大賢者になるのです」
 踵を返したシュルトの眼前に顔のない少年がいた。一瞬前まで確かに誰もいなかったのに。
 白いバルコニーと濃紺の夜空。満月を背負った子供が右手を突き出す。黒い星の刻まれた右手を。
 シュルトには有無も言わせなかった。
 ただひとことだけ、「これはあなたの持つべき力と記憶です」――そう告げただけ。

「……ッ!!!」

 五芒星が強く輝き闇に弾ける。
 リボンのように少年の手から飛び出したそれは瞬く間にシュルトの右腕に取りついた。
 増幅して行く魔力の中へ否応なしに飲み込まれていく。こんなところで気絶するわけにいかないのに。

(……なんだこれ……?)

 頭の中で見知らぬ国と見知らぬ人物が駆け抜けた。
 そこには今のシュルトが生まれる前の時代が映っていた。
 憎むべき前世、恥ずべき前世。魂に刻まれた罪の記憶。
 何故かシュルトは終わりの時によく立ち会う。
 大きな終焉の直接的な引き金になってしまう。

(……なんなんだこれ……!)

 泣き叫ぶ悲痛な声が折り重なる。
 たくさんの死がシュルトの上に降り積もる。
 誰かが側で泣いていた。そのひとりだけ誰だかわかった。同じ魂を知っていた。

(ラーフェ……!)

 届くはずのない過去に手を伸ばす。
 もう決して変えられないものに。
 通り過ぎてしまった星に。

 ――そう、星だ。最初に星を壊したのだ。
 次は精霊たちの楽園を。
 その次は人間に生まれ変わって小さな国を焼き尽くした。
 何度も、何度も、出会う度に必ず破滅を引き寄せた。
 あの子とふたりで。






 目を覚ましたシュルトはまだ王の寝室にいた。
 月は西の空にあり、東の山は仄かに明るい。

「……自分が何者か思い出せましたか?」

 問いかけてきたのは異国の少年だった。力の器として存在し続ける人外の者。かつて地上に精霊がいた証。
 流れゆく運命の澱みを示すのが彼の役目だという。楽園が消え、精霊が消え、人の歴史が始まったときからずっとそうしてきた。 前の生でもその前の生でもシュルトは彼に力を託された。そうして新たに得た力で生まれ故郷を亡ぼしてきたのだ。

「私のすべきことは終わりました。ではまた機会があればお会いしましょう」

 気功師は煙のように掻き消えた。肉体や精神という概念を逸脱しているから、彼はどこにでも現れることができるし、どこからもいなくなることができる。だがそんな超越者であっても説明はできないのだ。何故こんな運命がシュルトに架せられているのかは。
 項垂れたまま動かないシュルトをクリストハルトが一瞥する。鞘から抜いた刀身を手元に光らせながら。

「もう一度だけ聞くが、私につく気はあるか?」
「……ある」
「なら敬語を使え。私が君主でお前は部下だ」

 心変わりの理由を王は尋ねなかった。もっともそれを聞いたところで彼には理解できなかっただろうが。
 古代の知識より前世の記憶より重要だったのは、妹が出会ってはならぬ半身だったという事実だ。
 自分と彼女はふたり揃うと死神になる。太古の昔からそう宿命づけられている。どんなに幸せを願っても届かない。最後には我が身ごと世界を破滅させる――そういう星の支配下にあるのだと。
(戦争は駄目だ……)
 前のときも、その前のときも、いつも何が発端になるかわからなかった。今度こそ我々は完膚なきまでに地上を嬲り尽くすかもしれない。
(ラーフェの側にいるのも……、駄目……)
 思い合えば思い合うほど滅びは加速してきた。どうしてかなんて知らない。ただそうなっているのだとしか。
 愛しても全部壊してしまうくらいなら初めから諦めていた方がいい。
「おい? どこへ行く?」
「……一度ルイーネに戻ります。後始末をしたら、またここに」
 ぐるぐると脳内を駆け巡る記憶に吐きそうになりながらシュルトは転移魔法を唱えた。大賢者の力はすぐに使いこなせた。
 破滅を回避しなければ。
 忌わしき運命から逃れなくては。
 頭にあったのはそれだけ。
 国のためとか誰のためとかじゃない。生まれ変わってもついてくる強固な呪いを解くためだ。
 だってあんまりではないか。ただひとり愛する魂と出会ったときだけ破滅が呼び起こされるなんて。
 この星を落とさぬ限り、我々には永遠に幸福など訪れない。






 夜明けの空が薄紅に染まり始めていた。
 懐かしい生家には知らない女と大嫌いな父親と愛しい妹がすうすう眠っていた。
 見た目には仲の良さげな一家である。シュルトが魔法使いでさえなければここに混ざることができたのだろうか。……だとしても結局いつかはひとりになったのだろうが。
 悲鳴が漏れないように父の顔面に掌を押しつける。最初からあまり幸せでなくて却って良かったかもしれない。こうして躊躇なく肉親の頭蓋を砕くことができるのだから。
 魔力は血の繋がった者になら譲り渡すことができる。その逆も然り、術さえ知っていれば奪うことも可能だ。
 万にひとつも大賢者の大いなる力が己以外に渡ってはならかった。シュルトの支配を逃れた途端、この力は破滅に向かって走り出すかもしれないからだ。
 押し潰した頭部から血塗れの右手を離し、小さく息をつく。
 ここへ来る前に知る限りの親戚と母の住居を順に回った。ラーフェのいるこの家が最後だった。
 命じられた殺人ではない。己の意志で、己のために、命を奪う側に回ったのだ。これで自分も言い訳できぬ殺人者となった。

「……シュル…ト…」

 囁きに驚いて目を瞠る。だがそれは妹の寝言だった。
 あどけない表情に胸が痛む。本気で破滅を回避するつもりなら彼女もこの手にかけなくてはならない。
 ラーフェは破滅に最も深く関与しているが、その運命にはまるきり無頓着だ。放置すれば何も知らぬまま彼女が引き金を引くことになるかもしれない。
 澱みとは繰り返しのことを言う。今生で滅亡を呼ぶということは来世でも滅亡を呼ぶということだ。その連鎖に終止符を打ちたければ、破滅と関わらないで終わる「縁切り」の生がどうしても必要なのだ。
「……」
 伸ばしかけた手をそれ以上進ませられずいるうちに決心は揺らいだ。できることなら非業を背負うのは自分ひとりでありたかった。彼女と共に宿命から解放されるためとはいえ、守りたい命をどうして自ら殺めねばならない?
 生きていてほしい。笑っていてほしい。どんなに遠く離れていても。
 だって次に生まれ変わったとき、もう彼女とは巡り会えないかもしれないのだ。破滅との繋がりを消すということは、この魂の絆を断ち切るということだから。
 せめて現世でだけは、彼女を想うことを許してほしい。

「ラーフェ……」

 そっと彼女の頬に指を添え、シュルトは力の一部を切り離した。僅かでも魔法が使えるならトビアスが彼女を殺すことはあるまいと思った。あまり力を与えすぎることはできないけれど。

「ありがとう。短い間だったけれど、とても楽しかった……」

 もう一度胸の中で彼女の名を呼ぶ。昨日までとは違った印象を持つその名前を。
 ラーフェというのは単なる音の羅列ではない。これが意味を持つ精霊言語だとわかる者は稀だろう。それでも、誰にも意味など読み取れなくとも、彼女の授かった名は彼女の生に強い影響を及ぼす。
 ラーフェは強欲、シュルトは罪。破滅を呼ぶには相応しすぎるふたりではないか。
 けれど最早会うこともない。

「……兄を探してはいけないよ。別々の国で生きるんだ。それが君のためだから」

 さようなら。
 別れの言葉は床に落ちて消えた。






 ラーフェとは隔たれた。これで自分は正真正銘のひとりぼっちになってしまった。
 父を殺したのは自分だといずれ彼女も知るだろう。城へ行っても会えなくなった理由とともに。
 すぐにシュロスへ帰る気にもなれず、シュルトはふらふら明け方のルイーネを飛んだ。
 路上暮らしをしていた街にやって来たのは偶然だ。あの兄妹が市場へ向かう姿を見つけたのも。

「――」

 衝動的に彼らの前に舞い降りていた。ひとつだけ聞いておきたいことがあったから。

「……シュ、シュルト? お前どうして?」
「あの女に居場所を教えたのはお前たちか?」
「あ……っ、いや、その……」

 返答は待つまでもなかった。身なりを整えて余りある金は受け取ったのだろう。でなければあんな生活を送っていた子供がふたり、真っ当な職を得られるはずがないのだ。

「これは林檎の利子だよ」

 腕のひと振りで彼らは簡単に吹き飛んだ。
 許せなかった。己と同じでないことが。
 できるなら自分だってラーフェの手を取り生きたかったのに。






 クリストハルトはシュルトを歓迎してくれた。何でも望め、何でも自由だと言ってくれた。だが本当に欲しいものは絶対に手に入ないとわかっていた。滅亡の足音を近づけぬよう生きるのが最優先だった。
 間違ってもルイーネがシュロスへ侵攻することのないように、シュルトは軍事力を誇示するための魔法機関を創設し、国中から魔法使いを掻き集めた。
 隣国でも魔力を有する人間の扱いは最悪だった。金を出すと言えば親は進んで我が子を差し出した。子供たちには大抵虐待の痕跡が見え隠れして、怯えた眼差しと目が合うと酷く気分を害された。
 十名ほどの人員を得て何とか組織が形になった頃、シュルトは笑うことを覚えた。ヘラヘラと馬鹿のように笑っていれば、強く警戒されなかったからだ。
 普通の人間にとって、魔法使いは己と同列に置きたくない、蔑むべき生き物だった。その位置にきちんと収まりご機嫌取りをしていれば、存在くらいは許してもらえた。
 解り合えるかと思っていた魔法使いたちからもシュルトは奇異の目で見られた。賢者の力はあまりに異質で、掌くらいの炎を操るのがやっとの魔術師からすれば、やはり自分は化物だった。
 生まれ育った国を遠く離れたせいなのか、孤独であることを思い知る瞬間が増えた。ラーフェを思ってもラーフェはいない。無事を確認したくて転移魔法を使おうか悩む日もあったが、ひと目会えば自分を止められなくなりそうでやめた。連れて帰ってしまったら元の木阿弥だ。破滅を回避するために祖国を裏切ったのに、彼女と離れられなければ意味がない。
 戦争の気配もまだなくなってはいなかった。争いを起こせば取り返しのつかないことになると何度かクリストハルトを説得してみたが、彼は決して是と言わなかった。明るく快活に見えた王も結局トビアスと同じで根は執念深い。どんな確執があるのかシュルトには知る由もなかったけれど、いずれ彼がルイーネを屈服させるつもりであるのはありありと知れた。
 以前に生まれた小国は七日間も炎に焼かれ全滅した。今度はどんな終わりが忍び寄っているのか考えるだに恐ろしい。
 本当は争いごとには関わりたくなかった。もし戦争が起きたとき最前線に立つことになったとしたら、自分も滅びに荷担したと見なされるのではないか。それでは運命を断ち切れないのではないか。そんな不安がいつまでもシュルトを脅かした。それでも二国から監視の目を解くのはもっと怖かった。






 ツエントルムの噂を聞いたのはシュロスに移った五年目の冬だった。まだ五つにもならないこの幼子は、生まれたときに魔力が強すぎ母体を殺しかけたという。自分と同じ、否、それ以上の資質を有した者かもしれない。詳細を知るごとに彼への期待は高まった。
 ラーフェのいない穴は大きかった。ずっと何かで空虚を埋めたかった。ツエントルムなら同じ孤独を分かち合ってくれるかもしれないと思ったのだ。身勝手な話だけれど。

「じゃあ行きましょうか、ツエントルム。もうひとりはどこにいるんです? 別の部屋ですか?」

 魔法使いには珍しい黒髪黒眼の少年を迎え、シュルトは久々に上機嫌だった。
 ツエントルムは双子だった。しかも片割れは殆ど魔力を有していない。符号の合致に笑みが零れる。
 この子なら本当に自分とそっくりの存在になれるかもしれない。ラーフェとはもう一緒にいられないけれど、せめてひとりではなくなるのだ。
 シュルトはにこにこ愛想良くふたりに接した。ツエントルムもオーバストもまだ幼く、手懐けるのは簡単だった。自分を抱き締めた母の腕を思い出しながら、最初はとびきり優しくしてやった。美味しい食事を与えて、温かい寝床を与えて、誉めておだてて。最初だけは。

「言語制約の契約が完了しました。君の自由はもう私のものです、ツエントルム」

 呆然とする魔法使いの目を覗き込む。足枷よりも重い鎖が彼を捕えた。

「簡単に説明してあげよう。君の持つ魔力は凄まじいけれど、頭の方はまだ子供だからね。これから君は私の命じたことすべてに従わなければならない。そして我が王立魔法機関を抜けることも許されない。もしこれを破れば君の大事なオーバストは死んでしまうことになるよ」

 王立魔法機関に属するどんな人間にもこんな契約をさせたことはない。彼らは自分がここ以外で生きられないことを知っているし、裏切りはシュルトによる死の制裁を意味している。足抜けなどという事態は起こり得ない。
 ツエントルムに忠誠を誓わせるにも、本当は他にいくらでも方法はあった。ただルイーネの王が自分にしたことを再現したいだけだった。彼をよりシュルトに近づけるために。
 クリストハルトの了承は得ていた。王はシュルトに親切だ。「それがお前の望みならやりたいようにやれ」と言ってくれた。



「――自分と同じ人間を作る、か。考えたこともなかったが、そういうことなのかもしれないな。……私もあいつがどうあっても自分とは違うということを、ただ許せないだけかもしれない」
 王は時々シュルトを私室に呼びつけて愚痴を零した。相談役が欲しいけれど大臣連中にはろくなのがいないらしい。ろくでもないからと城を追うのはトビアスと同じだからやりたくないとも話していた。
「未熟な証拠だ。自分の考えすら自分でコントロールできん。民のためには戦争などすべきでないと思う一方で、勝つために必要な戦力を集め続けている。あいつに会うともう駄目なんだ。やはり叩き潰すべきだと心が騒ぐ。大臣たちも少しずつ戦に賛同し始めているよ」
 シュルトは王にツエントルムの存在を極力伏せておくよう頼んだ。彼という兵器の保有が露見すれば二国の仲は完全に修復不可能となるだろう。それを危惧しての判断だった。
 王と同じく己の中にも相反するふたりの自分がいた。ツエントルムと同じ道を共に歩もうとする自分と、もしものことが起きたとき、彼に破滅をなすりつけられないかと探る自分。
 運命が国同士の争いに傾いているのなら、受け皿を挿げ替えてしまえばいい。いつしかそんな考えが芽生えていた。
 動物を殺させ、囚人を殺させ、浮浪者を殺させ、ツエントルムに――トルムという名の殺人者に人殺しの術を教え込んでいく。もっとうまくやれ、もっとたくさんやれ。自分が聞かされ続けた言葉を彼に吐き出し続けた。
 ツエントルムはよくやっていた。片翼を失わないために、自ら血の雨に打たれた。数年が経ち、オーバストが貴族の家に養子に出され、兄のいない場所で笑うようになっても、献身的に尽くす姿勢は変わらなかった。
 やがてツエントルムは十五歳になった。面会に来た彼の弟はこれまでと様変わりして、兄への関心が薄まっていた。
 オーバストは恋をしたのだ。血生臭い暮らしを続ける兄を置き去りに。

「ごめん、ツエントルムにはこんな話わからないよね」

 悪気のないその言葉にツエントルムが絶句するのを盗み見ていた。彼が弟に追尾の魔法をかけたのも、手を出すことなく見守った。
 ――間もなく訪れた絶望がツエントルムを打ちのめす。双子の生のあまりの違いに彼は泣き崩れた。

「嫌なら殺せばいい」

 初めて生まれた彼の殺意をシュルトは大切に手に取った。
 望んだのは孤独と罪だ。魔法使いの孤独、そして、我がために犯した殺人。

「こっそりやればオーバストにはばれないさ。そうだろうトルム?」

 憎い女を、彼からすべてを奪おうとした女を、ツエントルムは雷で撃った。
 ああ、これでようやく彼も「こちら側」だ。彼は今シュルトと同じところまで堕ちてきたのだ。

「……オーバスト……」

 けれど喜びは束の間だった。どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。
 ツエントルムはシュルトを激しく憎悪していて、同じだからと寄り添ってくれる気配など皆無だった。
 彼の心は己が片翼しか求めていなかった。彼にとってそれ以外のすべては無意味で無価値なものだった。



 ――シュルト。



 唐突に異母妹の記憶が甦る。
 彼女のくれた言葉と眼差しが。甘い思い出が。



 ――大好きよ。いつまでもあなただけ。



 何年も無駄なことに心血を注いでしまった。ツエントルムに惨いことをした。
 自分と同じ人間など作っても仕方なかったのだ。
 そんなことをしてもラーフェ以外を求めていない本心を思い知るだけだったのに。
 打ち明けようと思っていた半生をツエントルムに語る気はすっかり失せていた。
 彼の憎しみの対象で在り続けることが、引き返せないところまで引き込んだ彼へのせめてもの贖罪だった。






 いよいよ戦争になるだろう。クリストハルトがシュルトに告げる。
 シュロスに来てもう二十年の歳月が過ぎていた。両国間で不可侵条約を結ぶことは最早諦めていた。
 シュロスがそうしたように、ルイーネも軍属の魔術師を十倍以上に増やしていた。戦う意志を持つ者の元に武器は揃ってしまったのだ。長い時をかけ、集められるだけの力が。

「運命は加速を始めました。すべて滅びに向かい動き出しています」

 出撃の前日、気功師がシュルトの元を訪れた。彼に会うのは三度目だった。二度目の邂逅はツエントルムに出会う少し前、王都で奇妙な若者を見かけたときだった。あの青年が何者だったかは今もわからずじまいだ。大賢者の力を象徴する五芒星を宿していたから、単なる旅人ではないと思うが。
 招かれざる客人などと呼ばれていたが、それは寧ろ己とラーフェを示す言葉のようである。繁栄を極めた大地に舞い降りる災厄。決して招待したい生き物ではないだろう。――けれど。

「殺戮を成すのは私じゃないよ。まったく別の魔法使いだ」
「……そうでしょうか?」
「ああそうだ。私は滅亡になど関わらない」

 気功師に放った雷はそのまま彼を通り抜ける。何事もなかったかのよう彼は笑み、すうっと消えて行った。






 ツエントルムはシュルトが予測した以上の働きを見せた。彼はさっさと役目を終えて、さっさと死にたがっていた。無理もあるまい。自分が彼にそういう人生を与えてしまったのだ。
 たったひとりでツエントルムは何百人も何千人も葬り去る。幸せな者も不幸せな者も、ルイーネに生まれた者はすべて彼の手にかかった。
 魔法機関に秘蔵っ子がいることくらいはトビアスも嗅ぎつけていただろう。だがここまで桁違いの魔法使いだとは思いもしなかったはずである。大賢者の力を持つシュルトよりツエントルムの魔力は強大だった。どの戦闘もシュロスの圧勝に終わった。そうして戦争の始まった半年後、国土の三分の二を失ったルイーネはシュロスに休戦を申し入れてきた。

「今更になって兵を引けだと? 馬鹿げている。最初に国境線を越えたのはあちらの国軍だ! そもそも踏み荒らされた貧しい土地でどうやって賠償を果たすつもりなのだ? あの男からは今、何もかも奪い尽くしてやらねばならん!!」

 王の怒りには手がつけられなかった。説得はどう考えても不可能だった。
 シュルトは一度だけ闇魔法で王の夢を覗いたことがある。クリストハルトはルイーネの王城で幽閉に近い状態にあった。自由の許されぬ管理下でも彼は強く誇り高くあろうとしていた。そんな彼の側に、いつしかひとりの女が寄り添うようになった。しかし今、彼女はルイーネにもシュロスにも生きていない。
 公私を混同するような愚か者では本来ないだろう。無慈悲な祖国の王にしてもそうだ。それでも一度根ざしたものは胸の底の恨みを吸い上げて毒花を咲かせる。花は枯れても種を落とし、新たな憎しみを芽吹かせる。
 止められないのだ、人の心は。

「……不穏な情報を得ています。ルイーネは禁術とされる古代魔法を掘り出したとか」
「それがどうした? 我が国にはお前とツエントルムがいるではないか!」
「勝利のための魔法ではありません。相討ちするための……あらゆるものを無に帰す魔法です」

 捕えた魔法使いからその言葉を聞いたときは耳を疑った。王城の地下に溜め込まれた古い魔道書の中にそんな術の記載があっただろうか。シュルトとてすべてに目を通したわけではない。もしかすると王族にだけ伝えられた秘密の呪法なのかもしれない。だが確かに破滅の魔法は存在するという。
 すぐに明らかにせねばならなかった。
 その術を使うのが誰なのか。

「私はこれからルイーネに潜入してきます。念のため、王は都にお戻りを」

 嫌な予感しかなかった。シュロスの勝利や敗北など最早どうでも良かった。
 気功師の声が耳の奥で響く。すべて滅びに向かい動き出している。認めたくないその予言。
 転移魔法はシュルトを黒い城まで運んだ。暗澹とした少年時代を過ごした岩の城。その尖塔の天辺には赤黒く発光する魔法陣が敷かれていた。
 結界を見張る女の髪はシュルトと同じ群青だった。瞳の色は紫。
 見間違えるはずもない。たったひとりの肉親を。魂の片割れを。

「ラーフェ……」
「シュルト? シュルトなの?」

 軍隊が出払っているからか、彼女が信用されているからか、周囲には誰もいなかった。
 三つ編を振り乱してラーフェが駆けてくる。白い頬を伝った滴が石床に染みを作った。
「ああ、やっと会えた。あなたが来るのをあたしずっと待っていたのよ……! ねえ、どうしてシュロスへ行ったの? どうしてあたしを置いて行ったの? 父さんたちを殺したのは本当にあなたなの?」
「……」
 彼女の問いにはひとつも答えられなかった。足元に広がる魔法が本物の災いであるのかどうか、ただそれだけが気にかかった。
 冗談であってほしい。よりにもよって破滅を招こうとしているのが彼女だなんて。
「……今でもあたしを好きでいてくれてる……?」
 号泣するラーフェの涙を拭うこともできない。
 立ち尽くすシュルトの耳にかつかつと階段を上る足音が届く。
「トビアスだわ」
 見つからないうちに逃げてとラーフェは捲くし立てた。あなたが来たことは秘密にしておくからと。
 報復として殺されないようシュルトが渡した魔力のせいで、彼女はこんな術まで覚えたのだ。
 やはりあのとき殺しておかなければならなかった。
 彼女も、自分自身も。

「月が出たら家に来て……! お願いシュルト、来てくれなければあたし何をするかわからないわ。あなたと一緒にいられない世界ならどうなったって構わないのよ……!!」

 何をしているのだろう。
 何をしてきたのだろう。
 自分は一体何を。






「シュルト……!!」
 真っ暗な部屋で二十年ぶりに彼女の抱擁を受ける。柔らかな肢体からは女特有の甘い香りがした。
 何をどう彼女に説明すればいいのだろうか。我々ふたりに架せられた苛酷な運命を、力も記憶も持たぬ彼女にどう理解させれば。
 気の遠くなるほど古い時代から、私たちは死の鎌を背負って生きてきたんだよ。
 始まった世界を終わらせるために生まれてきたんだよ。
 いつも、いつも、愛したものも憎んだものもふたりの手で滅してきたんだ。
 私たちが望まなくてもそうなってしまうんだ。
 ――幸せの絶頂から突き落とされたこともあった。絶望の中で自ら世界の死を望んだことも。
 けれどいつも、いつでも、この呪わしい宿命から解き放たれたいと願っていた。
 破滅の轍から抜け出して、普通の幸福を手に入れたいと。

「殺してくれ……」

 君が殺してくれ、と呟く。何もわからなくていい。ただ祖国を裏切った敵として。
 もう疲れた。心の奥底で怯えながら生きるより、今ふたりで死んでしまった方がきっといい。破滅の魔法を発動させるより早く死ねば、この運命もきっとここで断つことができる。
 初めからそうしていれば良かった。二度と会わないと決めて別れても、結局こうなってしまうなら。
「何を言ってるのシュルト? ねえ、それよりも降伏して。あの黒髪の魔法使いを止めて……! そうすればきっとトビアスもあなたを許すわ。あたしたちふたりで一緒に暮らせるはずよ」
 ラーフェの語る夢物語は実現しない。少なくとも今生では絶対に不可能だ。あそこまで形になってしまった破滅を止めるには、もうふたりとも死ぬしかない。
 すべては滅びに向かい動き出している。気功師の言う通り。
 一歩ずつ確実に、すぐそこまで迫っている。
 捕まってしまう。
「一緒に死のう、ラーフェ……。生まれ変わって幸せになるんだ。今度こそ……」
「……」
 頭の中はかつてないほどにぐちゃぐちゃだった。自分がどうしたかったのか、どうして彼女の側を離れたのか、それさえ忘れてしまいそうだった。
 死ななければいけない。一刻も早く死ななければいけない。滅びに追いつかれる前に!
 それしか考えられなかった。彼女と会話する余裕もなかった。
「殺してくれ」
 もう一度同じ言葉を口にする。
 自分がラーフェを殺すことはできなかったから、ラーフェに自分を殺してほしかった。そうして一緒に命を断って、繰り返される悲劇に幕を降ろしてほしかった。

「……わかったわ。だけどシュルト、ひとつだけあたしのお願いを聞いて。そうしたらあなたはあたしが殺すから――」

 捨てた祖国に戻るつもりも、シュロスの都へ戻るつもりもないことを彼女は察してくれたらしい。
 温かい涙がシュルトのローブに染み込んでいく。顔を上げたラーフェは大きな瞳を潤ませたままじっとこちらを見つめた。
 交差する視線。短い沈黙。彼女のかかとが床から離れ、代わりにふっくらとした唇がシュルトの唇に近づく。静かに吐息を塞がれる。

「あなたが好き。初めて会ったときからあなた以外は何もいらなかった。あたし、ずっと……!」

 掠れた声に「シュルトは?」と尋ねられる。愛しているという返答を彼女は待っていたのだろう。でも言えなかった。彼女の手を取り逃げることもできないのに、言えるわけがなかった。死んでくれと頼むのと同じ口で愛を囁くなど。
 ラーフェがローブに手をかける。上から順にボタンを外していく。






「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

 最初で最後の夜が明けると彼女は泣き崩れた。
 長い髪に編み込まれていた呪符には魔力を吸引する作用があった。右手から消えた五芒星はラーフェの手の甲に移っていた。
「トビアスが言ったのよ。もしもっと強い力を得てくれば、なんでもひとつ望みを叶えてやろうって。あたし、あなたといられるようにお願いするわ。だから死ぬなんて止めましょう? ふたりで生きていく道が必ずどこかにあるはずよ」
 その選択はあまりにも見当違いで笑うこともできなかった。
 死以外の何も求めてなどいなかったのに、彼女にはそれがわからなかったらしい。――否、わかっていて無視したのだ。シュルトから彼女に願いを伝えたのはこれが初めてだったのに。
「……何故命まで吸い尽くしてくれなかったんだ?」
「だって、あなたを殺すなんてあたしにはできない……!」
 涙する彼女に奪われたのは魔力だけではなかった。とっくに攫われていた心と、そして。
「シュトラーフェ……私の名前を盗んだね」
 組み変えれば意味と力を失う精霊言語。騙して無理矢理引き剥がしたから、ふたつの音が歪に崩れてしまった。
「……っ」
 裸のままで彼女は泣く。どうしてもあなたが欲しかったのよと。
 虚ろになった自分では彼女の涙も強い瞳も受け止めてはやれなかった。
 強欲は罪を食らって形を変えた。
 これは一体何の暗号だ。
 この先の何を示している。
 シュトラーフェ。罪と対を成すその言葉の意味は罰だ。

「私を愛しているのなら、決してあの魔法を使わないでくれ」

 僅か残された力で風を呼び、窓から飛び出した。自分さえいなくなれば彼女も生き長らえようとは思わないだろう。
 愛した者と添い遂げる生き方は選べなかったのだ。せめて死に方くらいは自分で選びたい。
 何日も風に煽られ、吹き飛ばされ、傷つきボロボロになりながらシュルトは自軍の元へ戻った。
 昇り始めた太陽が東の空を赤く照らす。薄紫の千切れ雲が荒涼とした大地を見下ろしている。



「あの国には妹を残していたんだ」



 独白めいた台詞になった。星を失くした右手の甲を凝視して、ツエントルムはぴくりとも動かなかった。
 彼ならばひと目見ただけでわかっただろう。もう彼を縛りつけていた言語制約は効力を失っていると。
 報復を果たすときが訪れたのだ。彼から幸せを奪った悪魔に対して、思うまま恨みをぶつけるときが。
「……こうならないよう親も親戚も友人も皆殺しにして寝返ったのに、彼女だけは調子が狂う」
 知っていたはずだ。血で繋がった者同士なら魔力を分かち合うことができると。
 なのに彼女を殺せなかった己の甘さがすべてを狂わせた。
 世界は滅ぶかもしれない。滅びないかもしれない。もう自分にはわからない。ただ彼女が破滅の魔法を手離してくれるよう祈るだけだ。
「あの子が殺してくれなかったから仕方ない。トルム、君で我慢しておくよ――」
 ツエントルムは両手に白い熱の塊を生み出した。十五年間蓄積された彼の怒りが暴虐な魔法に姿を変えて襲い来る。
 鏡に写したようにとまではいかないけれど、確かに彼はもうひとりの自分だった。
 せめて君は幸せにおなり、ツエントルム。
 世界はやがて君を中心に回転し始めるだろう。君の名がそう示しているように、きっと。






(あ……!)

(駄目だ、シュルトが死んでしまう……!)






 ――息を飲んで見ているしかできなかった。
 ツエントルムがシュルトを焼き払い、骨まで溶かし尽くすのを。
 これは過去だ。もう変えられない出来事だ。わかっていても手を出しそうになってしまう。異邦人であるアラインが割って入ってもどうしようもないのに。
(ツエントルム……)
 オーバストから聞いていた昔話よりもっと酷い。こんな生を歩んでいたなんて知らなかった。こんな風に戦争の道具にされて、他人に操られていたなんてことは。
 だが糸を手繰っていた男もまた運命に翻弄されて息絶えた。何が悪であったのか、簡単には判別などつけられない。

「――殺したの?」

 間を置かず、賢者が消えた朝焼けのもとに三つ編を乱したラーフェが現れた。
 不釣り合いなほど幼い声がぽつりと呟く。
 どうしてあたしからシュルトを奪ったの、と。
 嘆きはやがて絶叫に変わった。失意と激昂が彼女に滅びのまじないを唱えさせた。
 三日月の端で破滅が目覚める。赤黒い球体はごろりと転がりルイーネの都を跳ねた。はじめこそ緩やかであったけれど、坂道を転がる雪玉のように、それは次第に威力と速度を増していく。術者であるラーフェは喪失の強いショックで我を失くしていた。
「こんな世界いらない……。こんな世界許さない……!!」
 シュルトの思いは彼女に届かなかった。結局ふたりは繰り返しの悲劇から逃れることができなかったのだ。
 散々に喚き散らして泣いた後、ラーフェは逃げ惑う人々とは逆方向に歩き出した。
 災厄は大陸を一周し、最後はツエントルムの手により地中深く封印された。
 生存者はほんのひと握りだけだった。






 気がつくとアラインはまた重力のない暗闇の中を漂っていた。時間移動の感覚にもそろそろ慣れてきて、降り立つべきポイントを見通せるようになってきている。左手はまだ小さな気功師と繋いだままだった。
「……破滅のルーツって、そういうことだったんだね……」
 他に何も言えなくてそう呟く。魂も人格も持たない少年は「ええ」と抑揚のない声を返した。
「君はどうして教えてあげなかったの? 何が滅びに繋がっていたのか」
「それを伝えるのは私の役目ではないからです。私とて未来のことなど知りもしません。運命の流れや澱みを生み出しているのはあなたたちなのですよ。私は見えたままのことを伝えているだけです」
「どうして僕らにそんなことを話すんだ? 君にそう頼んだのは誰?」
「……」
 この問いに気功師はわかりませんと首を振った。いつから彼が存在するのか、いつまで存在しているのか、どうして生まれてきたのかは覚えていないのだと。
「昔、楽園と呼ばれる精霊たちの暮らす大地がありました。魔法というのはすべてその時代の名残です。これが私の一番古い記憶ですが――あなたへの答えにはならないでしょうね」
 近づいて目を凝らしても気功師の顔はよく見えない。笑っている口元だけがはっきりしていて他は曖昧だ。人に在らざる者なのに、どうして人の形をとったのか。どうして人に寄り添うのか。
 楽園とは一体なんだ? シュルトが五芒星から得た記憶の中にもちらりと出てきた。
「どこにあったの? それって……」
 気功師は微笑んで眼下を指さした。闇の中に浮かび上がるのは海底火山の眠る内海と、輪を描き切らない月の大陸だ。
「少し喋りすぎましたね。さあ、そろそろ目的の時代が見えるのではないですか?」
 早回しに時が進む。
 首の皮一枚で何とか繋がった世界は復興を目指し奮闘していた。
 ラーフェは死に切れなかったらしい。集落の隅に身を落ち着けた彼女の傍らにはシュルトと彼女によく似た小さな女児の姿があった。彼女は時と共に成長し、母から大いなる力を受け継ぐ。

(あ……)

 ラーフェの娘は聖女として崇められた。山門には彼女のための神殿が建ち、魔法の加護を当てにして更に人々が集まった。大切な賢女を守るべく巫女たちが教育され、神殿は巫女に管理されるようになった。ラーフェの娘もまた女児を産んだが、その子は力を受け継がぬまま放逐された。

(わかった気がする……。どこに続いてるのか……)

 何十年、何百年という時を過ぎても血は途絶えなかったのだ。連綿と今日この日まで続いてきた。アラインの生きる時代まで。
 彼らの瞳の薄紫は何世代も経て髪の色に変わった。
 魔物に襲われ死に瀕した女が通りがかった旅の一座に我が子を託している。
 血に汚れても女は美しく、彼女の抱いた赤ん坊も彼女の面影を色濃く残していた。
 死に際の呟きは我が子につけた名であろう。青い唇の刻んだそれはアラインもよく知る大賢者の名前だった。

(だからこんなに同調したんだ――)

 シュルトと同じ血、同じ力を有していたから。
 だから。

「そろそろお別れのようです。あなたとはいずれまた会う機会もありそうですが……」

 さようならという気功師の声にハッと面を上げた。左手はいつの間にか何もない空間を掴んでいた。
 きょろきょろと周囲を見渡してみるが少年の姿はどこにもない。代わりに遠くに光が見えた。赤黒い空間に沈み込んでくる聖石の輝きが。
 どうやら誰かがオリハルコンの一部を取り返してくれたようだ。






 ******







 都を照らした光の洪水が消えた後、空には傷だらけのクライスとヴィーダが浮かんでいた。
 互いに手にはオリハルコンの短剣を握り締め、血の滴るままぜえぜえと息を切らしている。
 最大限の攻撃と防御で魔力は空っぽになりかけていた。
 どうして殺せないのかしらと自嘲の念が湧き出てくる。
 決意ならしたはずなのに。次こそこの手で運命を変えてみせると。
「とどめ、刺せてないじゃないか……。君だって本当は死にたくなんかないんだろう……?」
 半分笑って尋ねるヴィーダにクライスは首を振った。
 死を恐れているのは自分ではない。生きようと訴えて、逃げて、破滅に足首を掴まれるのはいつも。
「死にたくないからじゃないわ」
 十五年、いつ何が起きてもわからないアペティートの城で暮らしてきた。
 他にビブリオテークの人間はおらず、何をするにもひとりぼっちで。
 心ならずっと死んだままだった。母は先の戦争でクライスの避けた矢に撃たれて死んだ。故郷に帰ることもできず、周囲に気を許せる相手もなく、静かに感情を棄て生きてきたのだ。
 ヴィーダがどんな人間かなど最初からわかっていた。
 勝手な男。誠意を勘違いしている男。
 そんな男でもクライスにとっては唯一の味方だったのだ。
 いつも側にいてくれた。
 いつも好きだと囁いてくれた。
 仕方がないではないか。動脈を断ち切ろうとする指が震えても。
「平気で手にかけられるわけないでしょう? 私だってあなたを愛しているのに……!」
 遅すぎる。
 いつもすべてを思い出すのは忘れ難い思い出ができてからだ。
「クライス……」
 溢れる涙にヴィーダが目を瞠る。クライスを抱き締めようと近づいてきた彼の目の前で短剣を振り上げた。
 無防備な背中に銃弾が浴びせられたのはそのときだった。

「――……」

 鉛の軌道を確かめれば斜めに見下ろした海に祖国の船が浮かんでいる。硝煙の燻ぶる長銃を手にキッとこちらを見据えているのは他でもないアヒムだった。
 父は裏切りを許さぬ男だ。敵国の皇子と通じた娘など、最早娘ではないのだろう。

「……ほら、こうなるのよヴィーダ。破滅に付き纏われている限り私はこうなるの。憎まれた方が世界を憎みやすいから。不幸な方が不幸を願いやすいから」

 皮膚の寸前で止まっていた弾は波の間にぽとりと落ちた。
 こんな風に自分たちの星も墜落させられればいいのに。

「運命が変わらない限り私たちも変われない。……それでも一緒に死んではくれないの?」

 恋人は答えない。どうしても首を縦に振ってはくれない。
 彼の「愛している」は違うのだ。
 彼の愛は、ただ手に入れたいという欲にすぎない。
 昔から何も変わっていない。
 何ひとつ。






 王都にやってきたときと同じ転移魔法でクライスは姿を消した。おそらく魔力が尽きたため一時的に退却したのだろう。
 イヴォンヌたちのいる場所からふたりの様子はよくわからなかった。海辺で何が起きていたのか。
 それよりも破滅の魔法の内側でちかちかと明滅している光の方が気がかりだった。白く透明な聖なる輝き。まさにオリハルコンの持つ――。

「これ……戻ってくるんじゃない? あの子」

 ゲシュタルトの台詞にイヴォンヌはびくんと肩を震わせた。
 期待して駄目だったとき落ち込みそうだからあまり考えないようにしていたのに。
 大体本当にアラインがこの中にいるのかどうかもまだ不明だ。夫はビブリオテークでイヴォンヌの窮地を救ってくれたのだから。
「エーデルに残っていてもらうのだったな。オリハルコンを共鳴させられたかもしれない」
「あー、そうだな。ひとっ走り呼んでくるか?」
 そう言ってヒルンヒルトとマハトが沖に向かうべく風を集め始めたときだった。「オリハルコンならここにもあるぞ」と声が響いたのは。
「ベルク!! おお、ラウダにツヴァングも!!」
「あら、良かったじゃない。相棒くん無事だったのね」
 兵士の国の勇者は彼らしくない苦笑いで返答を濁した。背負っていた幼馴染を街路に降ろすと腰元の剣を抜く。
「で、どうすりゃいいんだ? ヒーナの皇帝が持ってたっていう杖はもう放り込んだんだろ?」
「封印の側に立ってくれるだけでいい。確か君は絶望的にお祈りが下手くそだっただろう」
「会っていきなりこきおろすのやめてくんねえかなぁ……」
 ぶつくさ文句を言いつつもベルクは穴の縁に立った。
 同じ勇者の称号を冠する彼とアラインは強い友情によって結ばれている。それを証明するかのごとく、ベルクが近づいた途端神鳥の剣は薄い光を纏って輝き出した。
「なあ、ところであいつ本当にあの中にいるのか?」
「はぁ?」
「何を言っているんだ君は。我々が何のためにオリハルコンを取り返しに行ったかわかっているのか?」
「いや、わかってんだけどよ。どうも帝都であいつに助けてもらった気がして……」
 えっと思った。
 ベルクもイヴォンヌと同じ経験をしたのだろうか。会うはずのない場所で彼と出会ったと?
「一瞬だったし見間違いかもしれねえんだがな」
 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、聖剣は輝きを増し破滅の魔法の表層を照らし出す。光はやがて一点に収束し、くっきりと濃い楕円になった。

「――ぷはぁっ!!!!」

 魔法の中をどう泳いできたのだろう。最初に右手が突き出てきて、次に頭が這い出てきた。結婚式のときと同じ衣装のままアラインは宙に浮かび上がる。腕にはちゃんと自分の盾を携えて。
「アライン……!!」
 歓喜のあまり駆け出そうとしたらゲシュタルトに危ないと怒鳴られた。まったく足元を見ていなかったことに気づいて急ブレーキをかける。ふと見れば破滅の魔法へ続く大穴が目前にあり、冷や汗を掻いた。
「もう! 手間のかかるお姫様ねぇ」
 アラインはまず自分の抜け出てきた封印を確認し、次にベルクの元へと降り立った。久方ぶりの再会に勇者たちは安堵の表情を浮かべ合う。
「色々ありがとうベルク」
 夫の声を耳にしてまた泣きそうになってしまった。ああ、本当に帰ってきてくれたのだ。
「良かったっすよアライン様……! もうこっちは寿命の縮む思いでしたよ……!」
「あはは、ごめんごめん」
「ご無事で何よりです! あの、おれの不始末で……申し訳ありませんでした!」
「いや、ツヴァング君のせいじゃないよ。遅かれ早かれ復活してた魔法だと思うし」
「積もる話はまた後でだな。とにかく元気そうで良かった」
「うん、僕も頭の整理が追いついてないや。何がどうなってるのか、あれからどれくらい経ってるのか、ゆっくり教えてもらってもいい?」
 マハトとツヴァング、ヒルンヒルトも彼を囲む。アラインはラウダにクラウディアたちを迎えに行かせると、遠巻きに見つめていたイヴォンヌを振り返った。

「ところでマハト、あの人は? 何だかすごく見覚えがあるんだけど……」

 その言葉に、ゲシュタルトと一緒になって目を瞠る。契約のため青年の姿となっているイヴォンヌが、夫にはひと目で見抜けなかったらしい。
 まさかわからないはずないだろうという思いだった。だってビブリオテークで助けてくれたとき、確かに彼はイヴォンヌを「姫」と呼んだのだから。
「どういうこと……? やっぱりあのときのアラインは偽者だったんじゃない……?」
「……」
 耳打ちに頷くことはできなかった。
 どうなっているのか本当にわけがわからない。
 あのとき会ったアラインも、今ここにいるアラインも、イヴォンヌには夫本人にしか見えなかった。







(20121218)