右回りに左回りに、回って回って回り返して、旋舞は激しさを増す。巫女が軽やかに跳ねた。宙で動きが止まった瞬間、ぼくの背筋が震えた。肌が粟立つ。神が巫女の身体に降臨したかと思った。巫女は静かに降り立つと同時に再び後ろに跳躍して魔物の攻撃を避ける。魔物が広場を襲った。観衆と旅芸人の一座の者たちは散り散りになって逃げていく。座長らしき人や団員の中に犠牲者が出たみたいだけど、巫女は表情一つ変えなかった。氷の彫刻のような表情のまま、氷の魔法を放っていた。次々に魔法を繰り出すのに、その動きは神秘的な舞を踊り続けるかのように、その表情は神託を伝える巫女のように。


座長が亡くなり団員たちが散り散りになり、一人残された巫女は広場にぽつんと立ち尽くしていた。ぼくより背が高い巫女を見上げて、これからどうするのかと聞こうとしたところで、ぼくは口を噤んだ。氷の刃で射抜かれたかと思うほどの冷え切った目。こんな目を持つ者をぼくは一人しか知らない。それはぼくだ。巫女はぼくと同じ目をしていた。カランコロンと氷がぶつかる音が聞こえた。

「行くあてがないなら一緒に行こう」

頭の中に鳴り響く氷の音が何なのかはぼくにはわからなかった。ただ、ぼくは巫女に、初めて他人に興味を持ったのだと思う。差し伸ばしたぼくの手を巫女が取る。氷は割れることなくカチンと綺麗な音を立てて静まった。



    ※    ※    ※    ※



巫女は、ヒルンヒルトは女性ではなかった。親代わりのような座長から巫女の衣装で舞うように、巫女のような神聖さを保つように命じられていたらしい。だからか、ヒルトは感情というものを知らないようだった。「あなたが男で良かったわ」と心底ほっとしたようなゲシュタルトと、「ちくしょう、男かよ!」と悔しがるムスケルを、どうでもいいだろうという目でヒルトは見ていた。
ヒルトは笑わない。ムスケルとゲシュタルトがヒルトのそんな態度が苦手だと言うので、ぼくは彼を笑わせようとした。
「ある蛇が仲間の蛇に聞いたんだ。なぁ、俺たちって毒蛇だよなって」
「それがどうした」
「その蛇が言ったんだって。いやぁ、俺さっき舌を咬んじゃって」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・それで?」
「いや、だから、毒蛇がね」
一緒になって沈黙を続けていたムスケルとゲシュタルトが、はっと気づいたように二人で顔を見合わせてから笑い始めた。あれ、ちょっと二人が笑うタイミングがおかしかった気がする。それに何か不自然な笑い方のような気がするけれど、気のせいかな。
ヒルトは一切表情を変えずに「そんなことより」と言って、机の上に地図を広げた。


最近、本当に最近の話。ときどき白い夢を見るようになった。白い空間にぼくは立っているのだ。隣にはムスケルとゲシュタルトがいた。ちょっと不自然な笑いをする二人の横にもう一人いた。取り澄ましたような表情のヒルトが地図を広げる。古びた地図に描かれた三日月型の大陸が浮かび上がって地図から離れて消えた。そこには何も描かれていない古びた紙だけが残った。どういうこと、とヒルトに聞こうと顔を上げたらヒルトはいなかった。ムスケルもゲシュタルトもいなかった。ぼくだけが残された。何もない白い空間に一人残されたことに急に心細さを感じていたら、ものすごい音が聞こえた。ムスケルのいびきで目が覚めた。


新しく仲間になったヒルトや自分たちの武器や防具を揃えてから、勇者の国と兵士の国の国境を目指した。国境の洞窟の入口でゲシュタルトが「薄気味悪いわ」と怯んだけれど、ぼくはその暗闇が少し心地良いなと思った。最近、妙な白い夢を見るからだと思う。ヒルトが灯した小さな明かりを頼りに暗闇を進んでいくと、道が二手に分かれた。奥の様子は見えない。ムスケルが「左だな」と言うと「根拠は」とヒルトが聞いた。「勘だ」という答えに、ぼくの溜め息が洞窟に響く。結局どちらが正解かはわからないので、ムスケルの言うとおりに左の道を進んだ。
その選択は誤りだった。左の道はさっき歩いていた道より起伏が激しい。足元が覚束ない暗闇の中、高低差に気づかなかったのか、ムスケルが足を踏み外して盛大に転んだ。巻き添えを食らいそうになったゲシュタルトをヒルトが支える。危なっかしいなぁと思っていたら、ぷにっと何かを踏んだ。何かわからなくて、ぷにぷに踏み続けていたら「シュウウ」と息を吐くような声が聞こえると同時に巨大なものが飛びかかってきた。ぼくは後ろに飛び跳ね、剣を構えた。

「元旅芸人の男が仲間の勇者に聞いたそうだ。彼らは毒蛇だろう、と」

ヒルトが片手にパチパチと小さな雷のようなものを発生させながら静かに言った。

「その勇者が言ったんだって。いやぁ、ぼくさっき毒蛇の体を踏んじゃって!」

毒蛇と思われる魔物の一体を剣で切りつけると魔物の体液が飛び散り目に入った。焼けるような痛みで目が開けられない。残る数体の毒蛇を倒すためにヒルトが雷魔法を使っているのか、ドーンドーンと激しい音が聞こえる。
「おい、あのバカ!こんな狭いところであんな魔法を使ったら洞窟が崩れるぞ!」
ムスケルはそう叫びながら応戦しているようだ。ゲシュタルトがぼくに解毒魔法をかけてくれた。痛みが引いて目を開けると戦闘を終えたらしいムスケルがヒルトに説教をしていた。ヒルトは反省していない様子で「壁の耐久強度と魔法威力は計算している」と言う。口をへの字にして何かを言いたそうにしているムスケルの背中を押して先に進むと出口の光が見えた。



国境を越えて兵士の国に降り立つと、ヒルトを除くぼくたちは一様に目を丸くした。ぼくとムスケルは勇者の国を出るのは初めてだった。神殿に籠っていたゲシュタルトは言うまでもなく。勇者の国との違いに驚くぼくたちにヒルトが教えてくれた。舗装されていない道は沢山あるし、魔物も勇者の国より一回り以上身体が大きいから油断するなと。ヒルトは僕らのパーティーのブレーンだなと思った。ゲシュタルトは癒しの花で、ムスケルはムードメーカー。ぼくは何だろう。
旅芸人として各地を回っていたヒルトは歩き慣れているらしい。岩がむきだしの道も、道だか小川だかわからないような状態の道も、慣れた様子で歩いていく。
温暖な気候の勇者の国に対して、兵士の国は寒暖の差が激しい国だとヒルトが教えてくれた。見たことのない蔓植物を指に巻きつけていたらヒルトがその果実には毒があると言うので慌てて離した。


長い坂を上ると砦町に着いた。岩山の上に築城された砦が町を見下ろすように聳えている。すぐそこに見えるのに複雑に入り組んだ路地のおかげで辿りつけない。数人の子どもたちが寄ってきて道案内をしてくれた。後で聞いた話だとヒルトは子どもたちに金銭をたかられるんじゃないかと思ったらしいけれど、そんなことはなかった。子どもたちはぼくたちの武器に興味を持って集まってきたらしい。神鳥の盾に「かっけえ!!」と歓声を上げ、ムスケルの体を見て「マッスルボディ!!」と叫んでいる。ムスケルの周りを子どもたちが取り囲む。離れたところからムスケルを見守るぼくを見て、一人の子どもが「お兄さんは強いの?」と聞いてきた。ムスケルが「そのお兄さんは俺より強いんだぞ」と言うと、今度はぼくの周りに子どもたちが集まってきた。ヒルトは涼しげな顔で少し離れたところを歩き、ゲシュタルトはなぜか羨ましそうな顔でぼくに群がる子どもたちを見ている。
勇者の国の子どもたちも元気だけれど、兵士の国の子どもたちはもっと元気で人懐っこいような気がした。大人はもっともっと元気なようだけれど。砦の上には沢山の大砲があって、それらが全部勇者の国に向いていることに苦笑した。埃を被った大砲が使われる日は来るのだろうか。「勇者の国の奴らが攻めてきても大丈夫なんだよ!」と子どもたちは埃を被った大砲を誇りに思っているらしい。
兵士の国では何かと勇者の国と競おうとしていることを知った。攻撃は最大の防御ですと言わんばかりの大砲を見て、兵士の国のイメージがすっかり固まった。勇者の国には盾の塔があって、兵士の国には剣の塔がある。それぞれが互いの足りない部分をカバーし合って大陸を魔王の手から守っていければいいのになと思った。
その晩は自国の勇者になろうとする子どもたちを夢に見た。
「俺はどんな魔物も一撃で倒す強い勇者になるんだ!」
「僕は文武両道の立派な勇者になるんだよ!」
うんうん、かっこいい、かっこいいね。みんな勇者になれるといいな。ぼくも子どもたちから憧れの目で見られるような立派な勇者にならなきゃな。
巨大な蔓植物のような魔物が出てきて、蔓が子どもたちを絡め取った。僕は剣を振り下ろして蔓を切り落とす。
「お兄さん勇者なの!?かっこいいね!!」
ありがとう。
剣をしまうと靄が出てきて子どもたちの姿が消えて、辺りが真っ白になった。
また白い夢だ。勇者として確かに存在していたかと思えば、急に白い靄に包まれることがある。ムスケルたちを探したけれどみつからなかった。白い空間にはぼく一人だけが残された。やがて目が覚める。



剣の塔への道のりは盾の塔のときほど大変ではなかった。ヒルトが大抵の魔物を蹴散らしてくれた。元旅芸人なのになんでこんなに強いのだろう。ムスケルが腕が鈍ると言うので途中からムスケルを先頭に進んだ。剣の塔に着き、盾の塔のとき同様に階段を上ろうとしたらヒルトに待ったをかけられた。強い魔力を地下から感じたらしい。ヒルトの言うとおりに地下に行くと隠し通路の奥に魔方陣があった。何の魔方陣だろう。
「なるほど。さすが神具が守られている塔だな。外敵の侵入を拒みつつ――」
「おい、一人で納得するな。何だ、この魔方陣?」
「つまり、こういうことだ」
そう言ってヒルトが魔方陣の中に歩を進めた。
淡い光がヒルトを包む。元踊り子のヒルトの体がふわりと宙に浮かび、そのまま上空に消えていく。上空に消えるヒルトを見てムスケルが「なんだって!」と叫ぶ。ゲシュタルトはきょとんとした顔で上空を見上げている。
「すごい。さすが元踊り子ね。あんなに高くジャンプできるなんて。ところで彼はどこに行ったのかしら」
「たぶん、これは最上階へ上がるための魔方陣なんだと思う」
「そうなの。魔方陣って便利ね・・・・・・え?・・・え???」
盾の塔で魔物を倒しながら必死の思いで階段を上ったのは何だったんだと文句を言うムスケルと、「ひどい・・・」と呟くゲシュタルトと共に、ぼくは魔法陣で最上階に上がった。


一気に景色が変わった。外には雲の海が広がる。雲の流れる速さが地上から見たときと全然違う。一体この塔は何階建てなんだとムスケルが呆けた調子で言った。
「封印の影響が塔全体に及んで、姿を覆い隠しているんだろう」
そう言うヒルトは祭壇の前にいる。祭壇に近づくにつれ、地下の魔方陣とは比べ物にならないほどの強い力が肌に伝わってきた。
祀られた剣を前に三人に視線をやると全員が頷いたので、ぼくは手を伸ばして剣を取ろうとした。瞬間、突風が吹き、ムスケルが軽く吹っ飛んだ。ゲシュタルトはぼくが守った。ヒルトは舞うように着地した。軽く吹っ飛ばされたムスケルが体勢を立て直して武器を構える。
中央に誂えられた祭壇の前に風を纏った青い鳥獣が現れた。緩やかな風に包まれた緩やかな体型の鳥。あまり容姿のことを言ったら失礼だろうから詳細は省くけれど、ムスケルが「なんて不細工な・・・!」と言ったから、そうなのだろう。
ムスケルの言葉の意味がわかったのか、鳥獣は「ひゅぐりおおびゅりゅりゅ!(※訳不能)」と凄まじい雄叫びをあげて右翼を振り下ろした。バシーンという衝撃音。鳥獣は見たこともない武器を持っていた。まるで踊り子が持つ小道具の扇子のような。
「あの武器は一体・・・」
「あれはハリセンというものだ」
元踊り子のヒルトが教えてくれた。ヒルトも“ハリセン”を持って踊ったり戦ったりしていたのだろうか。
「びゅげるひゅりい!」
鳥獣は吐き捨てるように言うとムスケルから顔を背けた。ヒルトとぼくを上から下まで舐め回すように見て少し迷った様子を見せてから、鳥獣はぼくに狙いを定めて攻撃を繰り出してきた。ゲシュタルトには見向きもしていなかったことから、女性は攻撃対象外なのだろうか。ヒルトの外見で少し迷っていたようだった。あれ、そうなると、どうして最初に容姿を悪く言ったムスケルより先にぼくが攻撃対象になったのだろう。「なんで俺は無視されてんだ?」とムスケルも首を傾げる。
奇声と見事なハリセン捌きでぼくを追い詰めようとする鳥獣とは話し合いができる雰囲気ではなかった。ヒルトのことを男性だと認識したのか何なのか、ヒルトにも攻撃を仕掛けてくる。なぜかムスケルは無視され続ける。ぼくとヒルトを見る鳥獣の目つきは穏やかではなく憎らしいものを見るかのようで、容赦なくハリセンを振り下ろしてくる。
「俺を無視すんなぁ!!!」
お前もそんなに悪くないけど最後でいいわみたいな、なんかよくわからんがそんな目で俺を見るな、とムスケルが具体的なことを叫びながら鳥獣にバトルアックスを振り降ろすが、強靭な皮膚に撥ね返される。
「この野郎!おいっ、この不細工な鳥を焼き鳥か冷凍保存にしてくれ!」
それを聞いて鳥獣はサンダーバードのように雷を発生してもおかしくないほど怒り狂った。
言われたとおり焼き鳥にするつもりなのか、ヒルトは両手から火球を放った。鳥獣はハリセンで防いだので焼き鳥にはならずに済んだがハリセンが燃えた。ハリセンを燃やされた鳥獣は更に怒り狂ってヒルトに攻撃を仕掛ける。氷のような目をしたヒルトは今度は冷凍保存にするつもりだったのか、鳥獣を周囲の大気ごと凍らせようとした。しかし鳥獣は逃げ足が速い。ヒルトとぼくと無視され続けるムスケルは、外見によらず意外としぶとい鳥獣相手に苦戦した。
「一筋縄ではいかないな」
「あんにゃろ、俺に見向きもしねえ!」
「話し合いは無理なのかな」
お喋りと攻撃で鳥獣の気を引き付けている間にゲシュタルトが呪文を唱える。あれは敵単体を眠らせる呪文だ。鳥獣の重たそうな瞼が下りて、やがていびきが聞こえた。見た目どおり、ムスケルのいびきより酷かった。
「どうすんだ?寝てる間に剣って持っていってもいいのか」
「いや、一応起きるまで待とうよ」
「いつ起きるのかしら」
「・・・・・・」
ぼくたちに囲まれた鳥獣は鼻提灯を出しながら眠っている。ぼくは鳥獣に無断で持ち帰ることはしないけれども、とりあえず剣を手に取ろうとした。触れた瞬間、剣の光に目が眩んだのか何なのか突然視界が真っ白になって、ぼくは気を失った。
「ア・・ザ・・・・!?」
誰かが名前を呼ぶような気がしたけれど、それが誰の名前なのかわからなかった。


目が覚めると心配そうな顔をしたムスケルとゲシュタルト、相変わらず表情が読めないヒルト、さっきまで鼻提灯を出していた鳥獣がぼくを見ていた。
「あれ、ぼくどうしたの?」
「わからないわ。貧血かしら。膝から崩れ落ちて少し眠っていたのよ」
鳥獣は「きゅるきゅる・・・(※訳不能)」と言って姿を消した。最後までムスケルを相手にせずに。最後にぼくを見て「頑張りや」という顔をしたような気がするが気のせいだろう。
あれ、剣はどうなったんだろう。ムスケルに聞こうとしたら右手が何かに触れた。光に包まれた剣だ。ぼくは勇者の証の剣を手に入れた。神鳥を象った柄のある、白く輝く剣。柄の神鳥はさっきの鳥獣とは違う鳥だろう、似ても似つかない。鞘には力の象徴の紅玉、精神の象徴の蒼玉、調和の象徴の緑柱が嵌め込まれ、この世のものとは思えない美しい輝きを放っている。ゲシュタルトとムスケルが優しく微笑んだ。



    ※    ※    ※    ※



大きな都でも小さな宿場町でも、短い時間だけれどゲシュタルトは単独行動を取ることがあった。理由を聞こうとしたらムスケルに「野暮だから聞くな。女の子 にも色々と準備が必要なんだよ」と言われた。何の準備さ、とムスケルに聞いたら「買い物とか」と言うけれど、買い物なら僕たちと一緒にすれば良いんじゃな いかな。
もうすぐ日が暮れるというのに、午前中に出かけたゲシュタルトは宿に戻らなかった。何かあったのかもしれない。ムスケルが椅子から立ち上がって、そのまま動きを止めた。その頬を軽く掠めて壁に弓矢が突き刺さる。矢柄には手紙が結び付けられていた。
「ゲシュタルトからの手紙かな」
「アンザーツ・・・本気か?」
ムスケルが薔薇の刻印の手紙を開き、ぼくはそれを覗き込んだ。薔薇の香りが広がった。

――お前の女は預かった。帰して欲しくば大鉱山の裏手にあるカジノの里に来い。   ヴァイスより

「お前の女って何のこと?ヴァイスって誰?」
ぼくが聞くとムスケルも首を傾げる。ヒルトは何も言わずに地図を開いた。正式名称はカジノの里という名前ではないけれど、小さな集落が大鉱山の裏手にある。ゲシュタルトは何者かに捕まって、そこにいるのだろうか。

愛と欲望の渦巻くカジノの里へようこそ。三つ編みおさげの幼い少女は無邪気な笑顔でぼくの頭に手作りの花冠を乗せてくれた。少女が微笑みながら手のひらを上に向けてぼくに迫る。少女の口から出た言葉は花冠の値段だった。それも宿屋に一泊できそうな額の。
「ぼったくりの町だ」
ムスケルがぼくに真ん中を歩けと言う。先頭も最後尾もダメ、村人に話しかけるな、声を掛けられても返事をするなと。よくわからないけれど、聖水が都の十倍の値段だったりするから、変わった村だなと思った。
ムスケルが村人にヴァイスの居場所を聞いたら薬草が五百個ほど買えるお金を渡せば教えてやると言われたらしい。この村は腐ってるとムスケルが憤慨しながら戻って来た。 お金のことを除けば普通の村だと思うけれど。世界征服を夢見る子どもたち、こちらにウインクを飛ばしてくる露出の激しい真っ赤なルージュのおねえさん、料理用の包丁を持ったまま外に出てしまったらしいお茶目な奥さん、薔薇の香りがする荒々しい男。
包丁を持って「浮気者!殺してやる!」という叫び声を発しながらお茶目な奥さんが走っていった方向とは反対の方から、薔薇の香りがする男が現れた。
「たかが火遊び一つで大袈裟な。・・・おい、ヴァイスさまがお待ちだ。ついてこい」
薔薇の香水が流行っているのだろうか。男の案内で入った薔薇屋敷にはむせ返るような薔薇の香りが広がっている。薔薇のコサージュがついた真っ白いバルーンカーテン、薔薇の絵が描かれたティーポットとカップ、薔薇のクッキーに薔薇のジャム。薔薇、薔薇、薔薇、薔薇。どれも白い薔薇だった。
「待たせたな、俺がヴァイスだ」
ヴァイスという名の弁髪のいかつい男が一輪の白薔薇をぼくに差し出す。この町では誰からも物を貰うなとムスケルに言われていたので困ってしまった。ヴァイスはぼくの髪に棘抜きの薔薇を挿した。ぼくは花瓶ではないのに。
「ねえ、ゲシュタルトはどこ?」
「心配すんな。あの嬢ちゃんには何もしねえ。ちぃっとばかし眠ってもら――」
ヴァイスの頭に見慣れた杖が振り下ろされた。鈍い音がして倒れたけれども彼の意識はまだあるようで、口をパクパクさせている。
「ごめんなさい。黙って捕まるわけにはいかないの」
おどおどしながら杖を振り回す彼女の後ろは死屍累々。いや、まだ生きているかもしれないけれど、ヴァイスの手下たちが折り重なって倒れている。ゲシュタルトは魔法で一時的に自分の身体機能を高めたり、相手を眠らせたりしたのだろう。
「ゲシュタルト!無事だったか!」
「怖かったわ、ムスケル・・・」
そう言いながら杖を振り回すゲシュタルトは神殿にいたころより強くなっていると思う。
「・・・帰ろうか」
「待ってくだせぇ!」とピクピクしながら言うヴァイスが少し気の毒になりながらも無視して帰ろうとしたら、ゲシュタルトに倒されたはずの手下たちがぼくたちに群がり「助けてくだせぇ!」と口々に叫ぶ。ぼくたちは夕飯を用意してもらう代わりに彼らの話を聞くことにした。

この村は元々貧しく大鉱山の町への村民流出による過疎化に苦しんでいたけれど、カジノリゾートを作ることによって都市部から観光客を呼んで息を吹き返すことができたこと。この村には桃薔薇と白薔薇グループの二つのカジノがあり、競い合うことでカジノの発展に寄与してきたこと。争いながらも上手くバランスが取れていたのに、なぜか突然桃薔薇グループがプロの勝負師を雇って自分たちを本気で潰そうとしてきていること。
「内輪揉めに、どうして俺たちが巻き込まれなきゃいけないんだ・・・」
ムスケルが薔薇の紅茶を一口だけ舐めて、カップを置いた。
「風の噂ですげえ魔法を使える奴らがいるって聞いたんだ。魔法が使えるんならイカサマもできるんじゃねえかと思ってよ。あいつらに潰される前にこっちから潰しにかかんねえとよ」
「ぼくはそんな魔法は知らないけれど。ヒルトは知ってる?」
「さあな」
そんなわけで僕らには無理だよと帰ろうとしたら、もし奴らを潰せたらレアアイテムをやるからと泣きつかれた。ここでしか手に入らない貴重なアイテムだよと言われると、つい引き受けてしまうのが勇者の習性らしい。気づけば承諾していた。
ゲシュタルトはもちろんのこと、ぼくとムスケルもギャンブルには縁がなかった。ヒルトは少しならわかるらしい。僧侶のゲシュタルトに留守番を頼み、男三人でカジノに乗り込むことになった。衣装はヴァイスたちが貸してくれた。ぼくたちの任務は桃薔薇グループのカジノで勝ちまくって奴らをぼこぼこにすることらしい。でも、これって勇者の仕事なのかな。
黒いスーツを着たぼくたちは村の西側にある桃薔薇のカジノに入店した。大理石の床、ピンクの螺旋階段、豪華なシャンデリア、随所に見られるピンクの薔薇の花。
スロット、ルーレット、ポーカー、バカラ、ブラックジャック、モンスターバトル。何にしようかなと辺りを見回し、ぼくとムスケルはモンスターバトルを選んだ。どちらのモンスターが勝つか賭けをするゲームだ。ヒルトはルーレットを選び、ぼくたちは一時間後に合流する約束をした。
ぼくらは倍率は気にせず、モンスターの体調と属性差だけを考え、最後は勇者の勘で自分が賭けるモンスターを選んだ。彼らの体調はなんとなくわかるのだ。僅かな仕草で判断できる。一度も負けることなくコインが貯まっていった。ぼくらの周りに人だかりができる。そろそろ一時間が経つかな。ヒルトの様子を見に行った。ルーレット台の周りには人だかりができていた。人波を掻き分け、 ようやく中心に辿りつくと、涼しい顔したヒルトがバレないように巧妙にイカサマをしていた。本当に誰も気づかないような些細な風を玉に当てているのがわかった。
それってズルだよと言おうとしたけれど、ぼくが何を言おうとしたのか察したらしいムスケルに口を塞がれた。ぼくたちに気づいたヒルトがゲームを切り上げようとしたとき、フロアにヒールの音が響き渡り、ピンクの薔薇がモチーフのカクテルドレスを着た美しい女性が現れた。その女性のために道が開けられる。有力者であることが一目でわかった。おそらく桃薔薇のリーダー。
「あなたたち、白薔薇のヴァイスに雇われた者ね。香りでわかるわ。薔薇の香りだけど私たちの香りとは違う、品のない香り」
「ねえ、どうして白薔薇のカジノを潰そうとしているの。競い合って、だから栄えてきたんだよね」
「あいつは裏切ったのよ。私たちの夢を、私の純情を!」
「何の話だ!」
野太い男の声がフロアに響いた。中折れ帽とサングラスを装着した男がぼくたちの前に現れ、帽子を取った。中には弁髪頭が隠されていた。白薔薇リーダーのヴァイスだった。
「ヴァイス・・・!」
「ローザ!」
二人は睨み合ったまま動かない。ローザと呼ばれた女性の方は頬が赤いけれど風邪でも引いているのだろうか。
「あなたが!この村の発展のために恋愛なんかに現を抜かさず頑張ろうって言うから!世界一のカジノリゾートにしようって二人で約束したのに!それなのに女なんか作って!」
「ちょっと待て、女って何の話だ!」
話がよくわからない。ムスケルが「オチが痴話喧嘩だと・・・?」と言ったけれど、ますます意味がわからない。ヒルトを見ても軽く首を振るだけ。
あなたは最近指輪を買ったじゃない、ファッションに気を使うようになったじゃない、シュバルツから聞いて知ってるんだからとローザが半べそでヴァイスに詰め寄る。「よそ者の女の香りがするわ!」とヴァイスのシャツの匂いをかいで号泣し始めた。もしかしてゲシュタルトの香りだろうか。
「それは違うわ」
その香りの元凶(被害者?)のゲシュタルトがいつの間にかそこにいた。ゲシュタルトは白薔薇模様の可愛らしい一冊のノートを掲げる。
「ごめんなさい。なぜか勇者の旅の習性で机の上を調べてしまったの。ヴァイスの日記よ。ここに全ての真実が」
そういえばぼくらは人の家の本棚や壷など気になるところを調べる習性がある。なぜだがわからないけれど。
「おい、やめろ!」
ゲシュタルトは続ける。
「ここにあるのは愛の言葉だけ。一人の女性への愛の言葉だけが綴られているの」
ヴァイスがゲシュタルトから取り返そうとした日記をムスケルが奪った。
「これを彼女に読んでもらわなきゃ話が進まないだろう」
そう言って、ぼくには何のことだかさっぱりわからないけれど、日記はローザに渡された。ローザは震える手で日記を開き、沈黙した後、その場に蹲ってしまった。
ムスケルがなぜか溜め息を吐いて帰るぞと言ったので、ぼくたちは帰ることにした。その後のヴァイスとローザがどうなったのかは知らない。

「三角関係だったらしいわね」
何の話と聞くと「ヴァイスとローザとシュバルツ」とゲシュタルトは頬を染めた。ローザに懸想する桃薔薇ナンバーツーのシュバルツという男が、彼女にあることないことを吹き込んだらしい。なんだかよくわからないけれど、好きなら好きって言えばいいのに。
ヴァイスの屋敷に戻って旅立とうとしたときに、ヴァイスの手下の一人がぼくたちに鍵をくれた。
「地下の宝箱の鍵です。お頭からあなたたちに渡すように頼まれました」
地下の宝箱には薔薇の彫刻が入った斧が入っていた。ムスケルに良かったねと言うと「薔薇の斧って・・・」と頭をガクッとさせて喜んでいた。
里の入口まで行って振り返ると、遠くで白とピンクの花びらが混ざり合って舞うのが見えた。お祭りでもあるのだろうか、楽しそうだな。もうちょっと混ざりたかったけれど、そろそろ先に進まなければいけない。薔薇に囲まれた愛と欲望のカジノの里を後にした。ぼくたちに移った、ふんわりとした薔薇の香りを楽しみながら。ぼくたちは大鉱山の町を目指して歩く。



    ※    ※    ※    ※



勇者の国と兵士の国の境にある洞窟。毒蛇を倒した後で、旅が終わったら何をしようかとムスケルに聞かれた。ほの暗く長い、入り組んだ洞窟に出口の光が差し込む。

「魔王を倒したら都に帰って、可愛いお嫁さんをもらいたいかな」

ムスケルは「そうだよな」と大きく頷き、ヒルトは関心なさそうに地図を確かめる。ゲシュタルトの顔は見えなかった。そうだ、あのとき、眩しい光に遮られて。

――ゲシュタルト?

ゲシュタルトの姿が見えない。ゲシュタルト、どこ?
見回しても真っ白い空間しか広がっていなかった。目を閉じるとほのかに薔薇の香りがした。香りを追って走った。一番強く薔薇の香りを感じたところで光を掻き分けるように手を伸ばすと、光は白とピンクの花びらに変わって、中からゲシュタルトの手が現れた。息を切らしながら手を握るぼくにゲシュタルトが首を傾げる。

「どうしたの、アンザーツ?」

すごい人混みだから、迷子にならないように、とか何とか言い訳した気がする。ゲシュタルトは顔を伏して「ありがとう」と蚊のなくような声で言った。
ぼくはそんな彼女をみつめて微笑む。可愛いゲシュタルト。けれど迷子になるのは彼女ではない。ぼくの方が彼らからはぐれていってしまうような、そんな不思議な感覚を覚えた。
大鉱山の町は資源豊かで装備を揃えるのにうってつけの町だ。現時点での最強装備を揃える。ちょっと待っててと言って彼らから少し離れた。アクセサリーショップで彼女に似合うものを購入した。正確には似合うというより、身につけていて欲しいなと思ったものを。
夜、ゲシュタルトをバルコニーに呼び出して、彼女の髪に先ほど買ったリボンをつけた。月明かりがなければ夜の闇にとけてしまいそうな紺色のリボン。彼女の髪と服の色は、あの白い光に紛れてしまうんだ。もう薔薇の香りは消えた。ぼくとムスケルとヒルトとゲシュタルト、みんなが纏っていた同じ薔薇の香りは消えてしまったんだ。香りで彼女をみつけることができないのなら、ぼくは光の中でこのリボンをみつけてみせる。光に負けない色のリボンを。

「うん、似合ってる」

ゲシュタルトはヴァイスを見るときのローザのように忙しなく表情を変えて、最後はぼくをみつめて小さく微笑んだ。




海岸沿いの温泉付き療養地で一泊してから水門の町に向かうことにした。湯治のために長期滞在するお客さんもいれば、日帰りで遊びに来る家族連れもいる。ぼくたちのように旅の途中に寄る者もいる。美肌効果のある美人の湯は若い女性に人気があって、女の子だけで来ているグループもあった。ムスケルが幸せそうな顔をしてそのグループを見ている。
宿はゲシュタルトだけ部屋を分けている。男部屋で、ムスケルが先ほどゲシュタルトから隠れるように土産屋で購入した“おっぱい饅頭”を食べる。「お前にもやるよ」とムスケルがおっぱい饅頭をヒルトに差し出したけれど断られていた。
「ヒルトはこんなエッチなものに興味ないよね」
「さあな」
相変わらずヒルトは興味が無さそうな顔でこちらを一瞥して、また書物に視線を戻した。
「なんだなんだ。お前も男の子だろう?おっぱい饅頭食えよ!」
「いらない」
「ノリ悪いな!」
なんだか楽しそうね、とゲシュタルトが僕たちの部屋のドアを開けた。おっぱい饅頭を両手で鷲掴みするムスケルを見たゲシュタルトは林檎のように顔を真っ赤にして、無言でドアを閉めて戻っていった。

久しぶりに温泉に入る。ムスケルとは以前入ったことがあるけれど、ヒルトと入るのは初めてだから少し楽しみにしていた。ヒルトが男湯の暖簾を潜るのを見てムスケルが「やっぱり・・・だよな・・・」と肩を落とす。
ヒルトの胸にはお饅頭のようなおっぱいはついていなかった。
「ヒルトはやっぱり男の子だったんだね」
改めてそう思ったぼくが声を掛けると、ヒルトは「何を今更」と一人でさっさと行ってしまった。
ムスケルがなぜか「ぶふぉっ!」と噴き出した。ひいひい言いながら笑うおかしなムスケルと一緒に体を洗って露天風呂に入る。湯気が立ち上がる温泉。一面の真っ白い湯気を見て一瞬背筋が凍った。ムスケルとはぐれないよう、ぼくはムスケルの側にくっつき、ずっと声を掛け続けた。いつもより饒舌に。

「ムスケルは何人兄弟だっけ」
「ムスケルの座右の銘ってさ」
「ムスケルの得意分野は」
「ムスケルの好きな人のタイプってさ」
「ムスケルがさっきヒルトにあげようとしたお饅頭さ、あれ――」
「アンザーツどうしたんだ。今日はやけに饒舌だな。ヒルトか。実は俺、あいつが苦手なんだ」

ヒルトはもう温泉から上がったらしい。ムスケルはこっそりぼくに教えてくれた。ヒルトの何を考えているのかわからないところが、感情の起伏が感じられないところが苦手らしい。
驚いた。ぼくはヒルトのあの冷え切った目に強く惹かれたのに。たぶん、自分と同じものをヒルトに感じたのだと思う。ぼくは温泉に入っても、心まで裸になることはできないし、心の奥まで温まることだってできないのだ。勇者の服の脱ぎ方なんか知らない。ぼくはいつも笑っているけれど、それは勇者としてのぼくが笑っているのだ。本当は何が楽しいのかなんてわからない。悲しいという感情もわからない。怒りもない。ただ真っ白い、のっぺらぼうの顔したぼくが勇者の仮面をつけているだけ。きっとヒルトもそうなんだ。彼も心を動かされることはないのだ。初めてヒルトを見たとき、カランコロンと氷がぶつかる音が聞こえた。ぼくとヒルトの氷は、この温泉に入れても決して融けない。

「アンザーツ、お前のことは信頼している。裸の付き合いもしたし、隠し事は無しだぜ」
「うん。ムスケル、ぼくたちの間に隠しごとは無しだよ」

ぼくは卑怯なのかもしれない。




兵士の国の最北端にある水門の町、ここから辺境の国の最南端にある水門の村へ渡る。船に乗ったぼくたちを町の子どもたちが見物する。正確には水門が開いたり閉じたりする様子が見たいのだろう。実のところ、ぼくも水門というものを初めて見た。石の色と緑色のツートンカラーの壁に首を傾げる。
水門が開けられ、水がこちらに流れてきて漸く理解した。この緑色は苔なんだ。この苔の上の部分まで水位が上がったところで船が出発するらしい。ムスケルもゲシュタルトも興味深げに水門の開閉を見守る。子どもたちから歓声が上がる。相変わらずヒルトだけが無関心な様子だった。
水位の上昇とともに勇者としてのぼくが押し上げられる気がした。船が進む。舵を取るのは誰だ。それは勇者だ。確かにそこにあるはずの苔はすっかり見えなくなった。綺麗な緑色だったけれど、もはや誰も苔の存在など気にしていない。
勇者たちは水門を潜って辺境の国へ渡るのだ。


「アンザーツ!」

気づけば船が激しく揺れていた。鯨のような大きな魚が船の周りをぐるぐる泳いで渦巻きを作っている。
いつの間にこんな怪物が船の周りに。
いや、いつの間に船は水門を潜っていたんだ。
今は考えても仕方が無い。あの怪物を倒すだけだ。船を丸呑みしそうなほど大きな口には鋭い巨大な牙。体はぼくたちの防具より硬いんじゃないかってほど強固な鎧のような鱗で覆われている。見た目どおり頑丈な鱗がムスケルの斧を跳ね返す。怪物は口から炎を出し、鼻から怪しげな煙を吹く。巨大な尻尾が船を襲う。一見すると厄介な敵だった。炎ももちろんだけど、怪しげな煙は見るからに怪しげだから何とかしたかった。
船から吹っ飛びそうになるゲシュタルトを強く抱き寄せる。細い体を震わせながら、それでもゲシュタルトは杖をしっかり握り締めて敵の魔法を封じる呪文を唱えた。ヒルトが補助魔法でぼくの攻撃力を二倍にしてくれた。ヒルトにゲシュタルトを託し、ムスケルと視線を交わす。彼は何も言わなくてもわかってくれる。信頼できる仲間の戦士が尻尾を攻撃して敵の気を逸らした瞬間、勇者は剣を怪物の脳天に突き刺した。

「いきなり強い敵が出てきてビビったな。・・・アンザーツ?」

ぼくは怪物の脳天に突き刺さった剣を呆然としながら見ている。
誰がこの怪物を倒したんだ。
剣を抜き、返り血を浴びたぼくをゲシュタルトがタオルで拭いてくれる。
ありがとうと言いながら、ぼくはゲシュタルトを抱き寄せ髪を撫でた。リボンの感触を確かに感じた。

ぼくはここにいる。



    ※    ※    ※    ※



辺境の国で最初に降り立ったのは水門の村、正式名称はオステン村というらしい。ぼくは勇者の国から出るまで肥沃な大地で育った農作物しか食べたことがな かった。この村は不毛とまではいかなくても痩せた土地だった。生命力が強いらしいカボチャやサツマイモはよく見かけるけれど、トマトや果物は育たないらしい。カボチャの黄色い花に魅かれた。色あざやかな花がそこら中に咲き乱れる勇者の国では見向きもされない地味な花だろう。カボチャの花以外はくすんだ色合いの集落だった。これが辺境の国なのか。
オステン村で夜を迎える。村長に挨拶に行こうとムスケルと二人で向かおうとしたらゲシュタルトに呼び止められた。村長は悪い人ではないけれど酒癖が悪いらしく、ゲシュタルトやヒルトが絡まれたら困るだろうと思って二人を置いていこうとしたのだけど。
「彼と二人で残るのは少し居心地が悪いの。私も連れていってもらえないかしら」
「え、ヒルトと何かあったの?」
「ううん、何かあったわけではないし嫌いというわけでもないけれど、少し苦手なの。一緒に旅をするのは平気だけど、二人きりになると気詰まりする気がして」
ぼくは心底驚いた。ムスケルも以前ヒルトが苦手だと言っていた。どうして。だってぼくたちは本質的には変わらない。
「なんていうのかしら。お人形のように綺麗で、お人形のように感情が読み取れなくて」
ぼくもそう思う。ヒルトのあの極端なまでの感情の不動、ぼくはそこに逆に居心地の良さを覚えたんだ。同じだなって思った。ぼくと彼は似ているのだ。ぼくは" 勇者”だから平和な日常の一コマに笑うし、人が死んだら泣くのだ。けれど“ぼく”はどうなのだろう。ぼくが笑ったり泣いたりすることは今までにあっただろうか。ムスケルやゲシュタルトの目からは“勇者”も“ぼく”も同じに見えるのだろう。だから彼らはぼくのことを苦手だと言わない。寧ろぼくに好意を持って接してくれているのかなと思う。

もし、もしぼくがヒルトと同じだと知られたら。
もしぼくがお人形のようなものなのだと知られたら。
ムスケルやゲシュタルトはぼくと一緒にいてくれるのかな。
変わらずぼくを慕ってくれるのかな。
ぼくを嫌わないでほしい。
ぼくの傍にいてほしい。
光の中にゲシュタルトの紺のリボンがぼんやりと見えた。
ぼくは、君たちともっと一緒にいたい。
前触れもなく髪に触れられてゲシュタルトは驚いたようだったけど、ぼくはもっと驚いたんだ。
ああ。ぼくは、彼らが好きなんだ。



真っ白い夢の中で頭がたくさんある紅い竜が言った。

――禁断の果実を食べるか。

食べたらどうなるの。

――この白い夢から抜け出せる。

・・・ぼくはこの夢が怖いと思っているよ。けれど逃げるわけにはいかないんだ。

だってぼくは、勇者だから。


ぼくは気づいたときにはゲシュタルトたちに回復魔法をかけていた。
「・・・今ぼく何してた?」
紅い竜が倒れている。勇者は竜を倒したのだろう。
――ぼくは?
ぼくは何してた?
「魔物を倒して、ゲシュタルトに回復魔法をかけていた。どうした、頭でも打ったのか?」
ぼくはゲシュタルトの髪に触れている。だけど、ぼくが触れていたのは怪我をしてぐったりしているゲシュタルトではない。オステン村で、ぼくと一緒に村長の家 に行くと言ったゲシュタルトの髪だったはずだ。なぜ彼女は怪我をしている。ぼくたちはいつのまに場所を移動して、いつの間に魔物と戦っていたんだ。
夢を見る時間がだんだん長くなっている。長い時間、記憶が飛ぶ。
ぼくは自分がまた光の中に入っていってしまう気がして、ヒルトの顔が見えるうちに何か言いたくて。つい彼に話してしまった。
「これ以上進めないかもしれない」
勇者が弱音を吐いたのではない。これはぼくの弱音だ。勇者のぼくが遠ざかっていくのを感じた。
どういうことだとヒルトが表情を変えずに言うので、ぼくは時々自分のしたことがわからなくなると、それだけ伝えた。
勇者の仲間であるヒルトに心配をかけたくなかった。勇者は魔法が使えるからヒルトを仲間に誘ったのだろう。ヒルトもそう思っているようだ。でもぼくは違った。ぼくと同じ目をしたヒルトに側にいてほしかったんだ。ぼくは勇者とぼくの間にある溝に気づいて、それを隠しながら、彼らと旅を続けている。初めて弱音 を言うぼくに、ヒルトから見たら“勇者”に、ヒルトはどう思っただろう。恐る恐るヒルトを見ると、出会ったときと同じように眉ひとつ動かさず聞いてくれた。
ヒルトと話していると、ときどき、自分自身に話をしているような気がする。ヒルトは他人だけど、自分自身を映す鏡のような存在に感じるときがある。こんな話をしたらさすがのヒルトも気分を害するかもしれないので言わないけれど。
「でも、ちょっと疲れてるだけだから大丈夫だよ」
ぼくは自分に言い聞かせるようにヒルトの目を見て言った。



荒 野の遺跡地帯を抜ける。地上では100年周期で大規模な地殻変動が起きている。この辺りにはかつて都があったのだ。辺境の国では魔法とか名前は忘れたけれど鋼とか、ロストテクロノジーの発掘・調査に力を入れているらしい。ぱっと見る限り、ここでは神殿や邸宅などの建物跡が発掘されている。
辺境の都は宮廷魔術師によって魔物から守られていた。しかしここからは違う。遺跡に棲みつく魔物は勇者の国や兵士の国の魔物とは桁外れに強い。そんな魔物を倒しな がら勇者たちも強くなっていく。勇者が強くなればなるほど、神具がある首飾りの塔に近づけば近づくほど、ぼくがどんどん遠ざかっていくのを感じた。
ぼくには読めないけれど遺跡には石碑もあった。石碑には勇者らしき者が魔物を倒しているような絵が彫られていた。かつて勇者がこの地で魔物を倒したのだろうか。その勇者は魔王を倒した後はどうなったのだろうか。

――このままぼくはどうなっていくんだろう。

辺境の都でヒルトに初めて弱音を見せたとき、ぼくはヒルトの腕を掴んだ。心配させたくないので無理して笑った。ヒルトはぼくのこめかみに手のひらを当てて小さな傷を治すために癒しの光を当ててくれた。ヒルトの光は真っ白い例の光とは違って、あたたかかった。

ねえヒルト、もう一度、君の光を。

首飾りの塔に近づけば近づくほど、例の光がぼくを追ってくる。

ねえヒルト。
本当は少し怖いんだ。
光がぼくを追ってくるんだ。
ヒルト、どこ・・・。


塔では最初から最後までほとんど記憶がなかった。おぼろげに覚えているのは最後の神具を手に取った瞬間に何かが破裂するような音が聞こえたこと。
次に意識が戻ったのは魔物との戦闘後だった。仲良くなりたくて冗談を言って打ち解けようとしているのにヒルトの反応が冷たくて落ち込むムスケル。そんなムスケルを慰めるゲシュタルト。一人で先に行ってしまうマイペースすぎるヒルト。
ああ、久しぶりだ。
みんな変わってないなあ。
でも、次にみんなに会えるのはいつだろう。
ヒルトがぼくをちらりと見た。相変わらず表情から感情は読み取れない。
ヒルトが例の光に包まれて見えなくなった。ムスケルとゲシュタルトも見えなくなった。
まだだよ。まだぼくはみんなと一緒にいたいのに。
ヒルト、ムスケル、ゲシュタルト・・・。



今度は夜だった。意識を取り戻したぼくが最初に見たのは星空だった。ぼくたちは野宿をしているらしい。みんなは寝ているようだった。みんなは気づかないのか、ぼくの様子がおかしいことに。勇者のぼくがうまくやっているからだろうか。
“勇者”はもうぼくに自由を譲らないくらい強くなっている。ムスケル、ゲシュタルト、ヒルトの寝顔を見ながらぼくは決めた。ぼくはぼくの意識があるうちに“勇者”への抵抗を試みよう。
ぼくは激しい勢いでぼくの意識を支配しようとするものと戦いながら、星空が映る湖の中に入った。星の光は綺麗な光。暗い水面にも心が落ち着く。ちょっとでも油断すると水面が真っ白い明るい光に包まれそうになるから、ぼくは夢中で水を掴もうとする。これは水だ。あの光なんかじゃない。

「アンザーツ!何をしている!!」

ぼくは“勇者”に勝ったのだ。ヒルトもぼくと同じくほとんど水の中だった。ぼくがにこっと笑うとヒルトが一瞬息を飲んだ。
「気でも狂ったか」
とっくに狂ってるんだよ、ぼくは。
「まだ正気に戻れるか確かめようとしたんだよ」
ぼくの背中に腕を回して歩いていたヒルトが急に立ち止まった。
ヒルトの名前を呼ぶ。彼は何かを言おうとしたけれど声が出ないようだった。彼らしくもなく動揺しているのだろうか。
「…勇者であるのが嫌なんじゃないんだ。だけどこのままじゃぼく自身は一体どこへ消えてしまうんだろう」
消える。そうだ。ぼくは消えてしまうんだ。
ヒルトの前から、ぼくはいずれ消える。
ヒルトが声を震わせ、搾り出すように言った。
「いつから記憶がおかしいんだ?」
ヒルトに心配をかけないように、なんてことはもう無理だった。もう誤魔化しはきかない。
「君と会った頃くらいかな」
ヒルトと初めて会ったとき、ぼくと同じ目をした彼を見たとき。
氷がぶつかる音がしただろう?
ぼくたちの氷は融けないって思っていたのに、どうしてヒルトの氷の目は今にも融け始めそうな様子なのかな。
結局、ヒルトはぼくと違うのかもしれない。
彼にもぼくの深部を覗くことなんてできないのだ。
ぼくは世界でたった一人。
いずれあの光に完全に支配されて、消えていくだけ。
「・・・何とかする。きっと放っておかない方がいい」
何とかって何だろう。
ねえヒルト。



物心ついたときには、ぼくはもう勇者だった。
世界を脅かす存在である魔王は100年周期で生まれ、勇者の国は100年ごとに勇者を輩出する。それはちょうどぼくの世代だ。数百年前から連綿と続く勇者一 族に生まれたぼくは生まれたときから、いや、生まれる前から勇者だったのかもしれない。ぼくは一族に、そして王家に大事に守られ育てられた。
剣技を磨いたり魔道書を読むのに忙しく、なかなか同世代の子どもと遊ぶことはなかった。それでも時々ぼくを誘う子どもがいたので、鍛錬の合間に遊びに付き合うことがあった。晴れた日に外で影ふみをしたり、シャボン玉で遊んだり、勇者ごっこをしたり、それはきっと勇者にとって必要な時間だったのだろう。おかげで 社交性を身につけることができた。アンザーツはちょっと世間知らずだねと言われたことがあったけれど、とくに勇者としての資質に関わる程度のものではないと考えたので気にしないことにした。
ぼくは思考も行動も勇者であった。人々から信頼され、尊敬され、協力を得られるような存在でなければならない。仲間に忠誠を誓われ、戦いの中で指揮をとることができるよう、強いカリスマ性を持たねばならない。そんな勇者は唯一無二の存在であり、勇者以外に世界に平和をもたらすことができる者はいない。ぼくは人々の期待を一心に背負って勇者として魔王を倒す。そして来るべき100年後の再度の魔王の誕生に備え、勇者の家系を後世へ存続させて繁栄させる使命があった。
何をしなければいけないとか、何をしてはいけないとか、勇者としての価値観に反する行為を自分に禁じて生きてきたけれど、それはぼくの意思だった。無理やり勇者のレールを走らされたわけではない。生まれたときから勇者だったぼくには自然な道だったのだ。
勇者は泣かない。勇者は逃げない。勇者は諦めない。

いま思えば、ぼくは生まれたときから眩しい頂のない光の坂道を上りながら、同時に眩しい底のない光の中に落ちていったんだ。
どうしてぼくは少し怯えているのかな。どうしていまになって、生まれたときからぼくの半分を形作る光が少し怖いと思うようになったのかな。
勇者とは英雄であるはずだ。それなのにどうして一瞬でも、ぼくを脅かす無意識の脅威だと感じてしまったのだろう。
ぼくは勇者だ。勇者が勇者に脅威なんて感じるはずがない。
でも、それならどうして、どうしてぼくは少し怯えているのかな。


ぼくが初めて自分の光が普通じゃということに気づいたのは旅が始まる少し前だった。勇者として旅立つことが決まったとき。ああ、ぼくは本当に勇者として旅立つのだなと思ったとき。そのとき初めて自分の光を強く実感した。頂も底もない眩しい光の中にいる感覚を時々感じながら旅を始めた。ちょっと不思議な感覚だったけれど、特に気に留めることはなかった。
すぐにムスケルに出会って仲間になってもらった。戦士としては十分に強く、伸び代も存分にあった。そして何よりおおらかな性格で、年はほとんど変わらなかったけれど兄のようにぼくの面倒を見てくれた。世間知らずなぼくに代わって市場で交渉してくれたり、危ない橋を渡ろうとしたぼくを止めてくれたりと何かと頼りになった。ムスケルも勇者としてのぼくをとても慕ってくれていた。
やがて立ち寄った神殿でゲシュタルトに出会った。聖女のゲシュタルトは何を思ったのかぼくたちの旅に同行したいと言い出して周りを困らせた。おとなしそうな感じの女の子なのに一体どうしたわけか、破門覚悟でぼくたちについてきてしまった。ムスケルは笑いながら「まあ、いいんじゃないか」と言い、その言葉にゲシュタルトは少しほっとしたようだった。ぼくは女の子を危険な旅に連れていって大丈夫かと不安に思ったけれど、ゲシュタルトは自分の怪我は自分の回復魔法で治すと言うし、実際に彼女の魔法の力はぼくたちにも必要な力だった。
盾の塔を攻略したときには、ぼくたちはすっかり息の合ったパーティになっていた。盾を手にしたとき、強い光に包まれ、一瞬だけ意識が飛んだような気がした。一瞬だったのでムスケルとゲシュタルトは気づいていないし、言う必要も無いと思った。
ただ、影ふみの遊びを思いだした。オニに影をふまれないように逃げていたぼく。ぼくはいま、光をふまれないように少し逃げたのかもしれない。ムスケルとゲシュタルトに光をふまれないように。この光はふまれて困るような光なのだと気づいた。きっと、気づかれてはいけない光なのだ。
旅を続けて、勇者はムスケルやゲシュタルトたちと共に笑い、悲しみ、怒り、様々な感情をときにぶつけ合いながら信頼関係を築いてきた。けれど、そこにぼくはいたのだろうか。 ぼくは一緒に笑ってはいなかったのだと思う。彼らに光をふまれないように、光の中に紛れようとした。光の中に紛れようとした結果が、勇者として彼らと共に笑うということだったのかもしれない。

勇者としてムスケルとゲシュタルトの隣で笑いながら、ぼくは光に気づかれないように少し離れたところから彼らを見ていた。もしも何かの間違いで彼らが振り返ったとしても、ぼくの顔は光に遮られて見えなかっただろう。ぼくにも自分の顔が見えないけれど想像することはできた。

そうだ、こんなふうに凍りついたような顔なんだろう。
きっと、こんな氷みたいな目をしてるんだ。
ヒルト、ぼくと一緒に旅をしよう。
ぼくと一緒に来てくれないか。
ヒルト・・・。



「一週間ほど、この村に滞在しよう。君は少し休め」

勇者は少し休むことにした。勇者が休むとぼくは少しだけ楽になり、意識が浮上するようになった。この先は酒が飲めなくなるかもしれないから今のうちにたらふく飲もうぜとムスケルが誘い、ヒルトが素っ気無く断る。ゲシュタルトは村の娘に貸してもらったリリアンでシュシュを作って心を休ませている。そんな彼らを見て穏やかな気持ちになった自分に気づき、恐怖に襲われる。ぼくは何をやっているんだ。ここに長居してはいけない。もう彼らの体は十分に休めたはずだし、先に進まなければ。ぼくは、勇者は魔王を倒さなければいけないのだ。
「進もう」
そう言ったのは勇者かぼくか。
ゲシュタルトはリリアンでシュシュを編み終わったらしい。そのシュシュを村の娘にプレゼントして、ぼくらは先に進んだ。自分用に編んだシュシュじゃなかったのと聞くと、ゲシュタルトは「私にはアンザーツに貰ったリボンがあるから」とはにかんだ。
ぼくは紺のリボンをつけたゲシュタルトの後姿をしっかりと目に焼き付けた。このリボンを再び見ることはできるのだろうか。魔物との戦いが始まったら、もうぼくは――。


山門の神殿がある村に着き、少し意識が戻った。魔物の血に触れると勇者が強くなり、村などで休むと“ぼく”が少し戻ってくるらしい。ゲシュタルトのリボンを再び見ることができてほっとした。小さく息を吐いたぼくに珍しくヒルトが声を掛けてきたので、つい弱音のようなものを言ってしまった。
「覚えていることもあるんだよ。だからだんだんわからなくなる。自分の選択したことなのか、勇者の選択したことなのか」
ヒルトは黙って側にいてくれた。もしかしたらぼくのことを少しは心配してくれているのだろうか。気のせいかもしれないけれど。
ぼくが再び光の中に入りそうになったとき、ヒルトは少し遠出をしてくると言って、どこかへ行ってしまった。気がつくとぼくは真っ白い光の中にいた。なんとなく、もうぼくはヒルトたちに会えない気がした。ぼくはもう勇者でしかないのだろう。勇者のぼくしか彼らには会えないのだろう。
そうか。この真っ白い光が“勇者”の正体なんだ。
ああ、本当に真っ白だ。見渡す限り、真っ白な光。ぼくの手も足も光の中に消えようとしている。ぼくはこのまま光になって消えてしまうんだね。ぼくが消えても勇者が魔王を倒してくれる。だから、これでいいんだ。これでいいはずなのに、どうしてぼくは光の中にゲシュタルトのリボンやヒルトの氷が融けかかったような目を探してしまうんだろう。最後にムスケルのいびきが聞きたかったなと、どうでもいいことを考えていたら、光の一部がシャボン玉のように舞い上がった。シャボン玉を掻き分けるようにして、ヒルトが息を切らしながら現れる。
「呆れた強がりだよ、君は」
君こそ、なんで息を切らしているのさ。なんでシャボン玉で遊んでいるのさ。その手の五芒星は何なの。君らしくない。ぼくに会うためだけに命がけで賢者になるなんて。君らしくないよ。
ぼくはきっと、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく悲しくて、どうしようもなく弱かったのだろう。けれど魔王を倒すためには弱さを認めることなんかできない。
ぼくはヒルトに泣いて縋ったりしない。助けてなんて言わない。
ヒルトに思いを全てぶつけてしまう前に、ぼくは勇者の仮面をつけて性懲りも無く笑った。



    ※    ※    ※    ※



花道を作る町の人々に揉みくちゃにされながら代々の勇者の墓がある洞窟を出る。勇者の旅立ちを祝して、果てしなく広がる青空に真っ白な大量の風船が飛ばされた。ぼくはその中の一つとなって空から勇者を見守っている。ぼくは勇者と共にいたはずなのに、気づけばどんどん上空へ飛ばされていた。雲よりも高く、首飾りの塔よりも上空へ。
どうしてぼくは空を飛んでいるのだろう。ぼくは勇者のはずなのに、勇者は地に足をつけているのに、どうしてぼくは空を飛んでいるのだろう。勇者が強くなればなるほど、ぼくはどんどん上空へ上がっていく。勇者と共に歩いているムスケルたちの姿はもうとっくに見えなくなった。ぼくはそろそろ割れてしまうんじゃないか。でももうちょっとだけ、もうちょっとだけ。

「そんな夢を見たことがあるよ」

夢ではぼくは割れていなくなってしまったんだけど、今回はヒルトが来てくれたね。きっとヒルトがぼくをみつけて風船の紐を引っ張って、地上に戻してくれたんだ。

「いや、風船なんて無かったよ。アンザーツ、君の心象世界には風船なんて無かった。空も無かった」
「じゃあ何があったの?」
「だから、何も無かったんだ。圧倒的な白い闇に呑み込まれそうな君をやっとのことでみつけた。今日は随分時間が掛かったよ」
「ヒルトにここで会うのは何回目かな?」
「片手では足りないだろう。今日は昨日より時間が掛かった。明日も明後日も来るよ」


ヒルトは毎日のようにぼくを探しに来てくれた。ヒルトに会う度に気づく。彼の氷がだんだん融けていく様子に。彼の心が育つ様子に。
ヒルト、フリーズドライって知ってるかい。
ロストテクノロジーの一つでね、お湯をかけると柔らかくなって食べられるようになるんだ。
「私をからかうな。私が変わったって?だとしたら君のせいだよ。君がこんなところに一人でいるから」
ヒルトは今日も肩で息をしている。彼らしくなく額に汗をかいて。
ヒルトが光を、勇者を払いのけるたびに、ぼくの感情も少しずつ育っている気がした。ヒルトがぼくにお湯をかけてくれている気がした。
「私はケトルではない」
ヒルトとこんな風に冗談を言い合える日が来るなんて思いもしなかった。皮肉にも、それは真っ白い光の中で。ぼくはヒルトにみつけてもらう度に欲張りになっていった。もっと自分を保っていられたら。みんなと最後まで行けたら。
けれどぼくは知っているのだ。魔王を倒せば勇者がぼくを飲み込んで、ぼくは誰にも気づかれずにひっそりと消えてしまうことを。
そんなことを考えながら、ぼくはヒルトに笑いかける。勇者が世界を平和に導く、そのためにぼくは生まれてきたんだ。それがぼくの生きがいなんだよ。だってぼくは勇者だから。
ヒルトがぼくの腕を高く持ち上げた。袖の端を握り締めていた指を直視させられてもぼくは動じない。

「呆れた強がりだよ、君は」

そのセリフ、前にも聞いた気がするな。
ヒルトの手が僕の頬にやさしく触れてくる。ぼくはヒルトのその手首に手を添えて「ごめん」と呟いた。光がぼくの周りに集まり出す。
「君を旅に誘ったとき、なんてぼくと似ているんだろうと思った。君ほど感情の動かない人をぼくは見たことがなかったから。・・・だからこんな、賢者になってまで助けようとしてくれるとは思ってなかったんだよ」
命がけでぼくを助けに来るなんて思うはずがない。魔王を倒して世界に平和が訪れて、それで終わりでいいじゃないか。ぼくを助けて何のメリットがあるんだ。

「アンザーツ、君のためなら何でもする」

ヒルトはぼくを守ってくれると言う。ぼくを守りたいのだと言う。
ぼくは救いなんか全く期待していないのだと自分自身に言い聞かせた。期待なんかしたらダメなんだ。
そう言い聞かせながら、ぼくの頬に触れてくるヒルトの手を心のどこかで求めていたのかもしれない。



「魔王を倒したらどうする?」

久しぶりに意識が浮上したぼくにムスケルが聞いてくる。
「魔王を倒したら都に帰って、可愛いお嫁さんをもらいたいかな」
勇者は未来の魔王を倒す自分の子孫を残さなければいけない。
魔王城を目前にゲシュタルトに会えて良かった。
「星を見に行こう」
そう言って彼女を連れ出し、雷に打たれた大木を越えて夜の湿原を二人で歩く。月明かりしかない道を、沼に落ちないように手を繋いで。星はあまり見えなかったけれど、代わりに白い小さな花が暗濃色の湿原に揺れていた。真っ暗な湿原から見上げた夜空に浮かぶ月は一人ぼっちだ。けれど、今はまだ一人じゃない。ぼくはまだ一人じゃない。不安を拭うようにゲシュタルトの手を握る手に力を入れた。

「魔王を倒して都に戻っても側に置いてくれる?私のことを愛してもらえる?」

泣かないで。ゲシュタルト、泣かないで。
ぼくはとっても嬉しいんだよ。君が言った相手は勇者かぼくかわからない。君の中での区別は無いのだろう。でも、それを聞くことができたのは、ぼく自身の方なんだ。だからぼくは嬉しいんだよ。
驚かないで。怖がらないで。ぼくは君が好きなんだ。ぼくはね、君たちと旅をして、はじめて人を好きになったんだよ。勇者ではなく、ぼく自身がはじめて人を好きになったんだ。
ゲシュタルトはいつも僕を護ってくれて、癒してくれて、見守っていてくれた。感謝してもしきれないんだよ。ぼくはずっと君と一緒にいたい。だから。

「うん、ずっと一緒にいよう」

ゲシュタルトの震える唇に口づけた。ゲシュタルトに触れたのは一瞬だけだった。すぐにぼくは気づいたんだ。彼女とずっと一緒にいることになるのは勇者の方だ。ぼくではない。
一瞬だけでもまるで天界にいるような心地になっていたけれど、ここは魔の国なのだ。勇者は魔王を倒し、ぼくはひっそりと消えるのだ。
こんな冷え切った心をゲシュタルトに気づかれないように、ぼくは優しく微笑む。目が潤み、頬が染まったゲシュタルトと手を繋いでムスケルたちのところに戻った。彼女にはずっと幸せな気持ちのままでいて欲しい。勇者ではなくぼくがゲシュタルトを好きなんだという、その真の意味に彼女が気づくことはないのだろう。けれど、これでいいのだ。ゲシュタルト、ぼくは君に真実を言えない。ぼくとヒルトの二人だけの秘密になってしまったけれど。どうか許して。そして幸せになって。
ぼくという人間がいたことを覚えててくれるのはヒルトだけになるだろう。しかしそれでいい。ぼくはムスケルとゲシュタルトを悲しませたくなんかない。



魔王城の辺りに轟く雷鳴。これが最後の戦い。雷鳴に怯えているのか、魔王との戦いに緊張しているのか、震えるゲシュタルトの肩をムスケルが叩く。魔王を倒して国に帰るぞ。ええ、魔王を倒して一緒に国に帰りましょう。二人がぼくを見る。ヒルトも振り返ってぼくを見る。
「行こう」
一緒に帰ろうとは言えなかった。

「それでお前は完全な勇者となったのか?」

魔王は剣を構えるぼくにこう言った。のどに剣を突きつけられた気分だ。息を飲み、魔王の言葉を頭の中で反芻する。魔王のファルシュはぼくの現状に気づいているのだ。ファルシュが強制転移の呪法を発動させて、ムスケルとゲシュタルトがどこかに飛ばされた。人払いなのだろう。ファルシュはヒルトを眺めて頷く。ファルシュはヒルトのことをぼくの生命線だと言った。間違いではない。ぼくはヒルトがいなければとっくに消えていたはずだ。いま、こうしてここにいることが奇跡に思える。ファルシュは話を聞いて欲しいと言う。油断するな。こいつは魔王だ。けれど、その魔王のファルシュはぼくが完全な勇者ではないことを知っている。もしかしたら、ぼくより知っているのではないか。汗が一滴頬を滴り落ちる。ファルシュは油断ならなくて、ムスケルとゲシュタルトが無事でいるかも気がかりで、焦りだけが募る。
ファルシュの諦めきった眼差しに見覚えがあった。ヒルトの眼差し?
いや、鏡に映ったぼくの眼差しだ。どうしてファルシュはぼくと同じ目をしているんだ。どうして今にも消えてしまいそうな目をして魔王の玉座に座っているんだ。
ファルシュは信じられないようなことを言った。真っ黒い闇がファルシュに迫っていると。ぼくが真っ白い光に塗り潰されかけているのと同じように、ファルシュも黒い闇に消されてしまいそうなことを。
ヒルトがぼくを守るように前に立つけれど、ファルシュは構わず話を続けた。
自分も含め、歴代の魔王は天変地異の呪いなど知らないと。天変地異は勇者が魔王を滅ぼすことによって発動する古代魔法なのだと。
ファルシュが何を言っているのかわからない。誰が何のためにそんな魔法を用意したんだ。
ヒルトがファルシュの話を切り捨てて杖に魔力を溜め始める。まだだめだ。ヒルトを制して魔王と話を続ける。魔王の城で玉座に座りながら、ファルシュは驚くべき視点で天変地異の秘術の正体をぼくに説いた。
神様が?
神様が地上を管理するために?
人も魔物も関係なく奪われる多くの命。
百年に一度の大災害で破壊される文明。
遺跡に眠るロストテクノロジー。進まぬ技術。
ファルシュが言うには、ぼくたちは神の操り人形なのだそうだ。神具を通して神はぼくを勇者に作り変えてきたのだと、勇者と魔王が戦ったところで世界は救えないのだと。
ぼくは神の手のひらで踊らされているのか。それとも魔王に騙されているのか。

「別の方法を、別の未来を選び取ろうではないか?」

いくら身に覚えがあったところで差し出された手を簡単に取るわけにいかない。勇者の真っ白い光、魔王の真っ黒い闇、揺れるぼく。ヒルトがファルシュの心の中を確かめさせろと言って、魔王の手に触れた。
漆黒の闇の中で、ぼくとヒルトは知った。魔王がぼくと同じ苦しみを受けていたことを。闇に呑み込まれそうになりながら懸命にそれに抗っていたことを。
ぼくのところにはヒルトが来てくれたけれど、ファルシュには誰かいたのかな。一人ぼっちで戦っていたのかな。孤独な魔王の声が聞こえる。ぼくはもう何も言えなかった。人と魔物の生態系は神に完全に管理されていた。世界を支配する神のもとで、勇者と魔王は何て無力なのだろう。

「…どうしたらいい?」

しぼり出すような声で問うと、「死んではならん」と。
魔王と勇者は死んではいけない。勇者は魔王を倒したふりをして物語を一旦終わらせる。神の支配から逃れるために勇者は精神と肉体を分ける。そうファルシュは提案してきた。
勇者は死んではいけない。魔王を倒すのは形だけで、真に倒してはいけない。
そんなばかな話があっていいのか。
ぼくは魔王を倒すために勇者として生まれてきたんだろう?
魔王を倒して世界に平和をもたらし、国に帰ってお嫁さんを貰って、後の勇者となる子孫を残して。
そのために今まで勇者として戦ってきたんだろう?
完全な勇者の光に呑み込まれてしまっても良いのだと。
世界に平和が訪れるのなら、ぼく自身はどうなっても良いのだと。
消えてしまうことは怖くはない。
そう自分自身をも欺きながら。

ゲシュタルトとムスケルの足音が近づいてくる。白い光がその場所を空けろと、ぼくを押し潰そうとする。ヒルトが魔王に向けていかずちを放つ。ファルシュに当たるいかずち。ぼくの内部にもいかずちが走る。勇者と魔王の宿命を終わらせ、肉体と精神を分けて己を封印するか。話を聞かなかったことにして魔王を倒して勇者として仲間たちと国に帰って平和に暮らすか。
ゲシュタルトたちが合流した。魔王を倒して世界に平和をもたらすために彼らはここに来た。
ああ、一瞬でも、ぼくはなんて愚かなことを考えたんだ。
そうだ。ぼくたちは平和な世界のために戦ってきたんだ。
それだけが勇者の使命。
勇者が魔王を倒した瞬間、天変地異の魔法が発動し、大災害が引き起こされる。100年に一度繰り返される勇者と魔王の無意味な戦い。
だったら勇者が選ぶ道は一つしかないじゃないか。

――ぼくが最後の勇者にならねばならない。

ぼくは魔王に止めを刺した。
なんて壮大な茶番劇。



    ※    ※    ※    ※



勇者一行は帰路に就く。まるで風のように、魔王ファルシュが勇者アンザーツに倒されたという報せは世界中を駆け巡った。勇者は行く先々で盛大な祝福を受ける。勇者は終始笑顔で、だからぼくも終始笑顔で応対した。
神殿でも、その麓の小さな村でも歓迎される。この辺りでヒルトはぼくのために賢者になってくれたんだった。アンザーツという勇者の精神世界を知ったのは彼一人だけだった。ヒルトはずっと何かを言いたそうな顔でぼくを見る。彼ほど感情の動かない人間は見たことがないと思っていたのに、どうしてだろう。今はヒルトの感情が手に取るようにわかる気がした。それほどまでに彼の目は変わった。時々ヒルトがぼくに手を伸ばそうとしているような感じがしたけれど、ぼくはひらりと身をかわした。
ゲシュタルトは長い戦いが終わって緊張も解け、以前よりもっとやわらかい、文字通り花のような笑顔を見せるようになった。リリアンで編んだシュシュをつけた村の女の子と再開して手を取り合って喜んでいる姿は、勇者の仲間というより普通の少女のようだった。ゲシュタルトは時々ぼくと目が合うと俯いてしまうのだけど、それでもぼくがみつめつづけていると、ようやく真っ赤な顔を上げて困ったように笑うのだ。
ゲシュタルトにプレゼントしたリボンは紺色だけど、それでも戦闘で少し汚れてしまったようなので新しいのを買おうかと聞いた。アンザーツに新しいものをプレゼントされるのは嬉しいけれど、でもこれは大事な思い出の品だからとゲシュタルトは愛しそうにリボンを撫でながら言う。
ムスケルがピュウと口笛を吹き、ゲシュタルトはハッとした顔をして小走りで逃げてしまった。
「ゲシュタルトの唇はやわらかかったのか」
「どうだろう。触れたのは一瞬だったからよくわからないよ」
かまをかけただけなのに、とムスケルがなぜか元気が無さそうに呟いた。



魔王が倒されたことになっているからか、魔物の姿は一気に減った。特に何の苦労もなく首飾りの塔に着き、ラウダに再会する。ラウダが大地の形を見ておきたいから後でまた来て欲しいと言うので神具は渡せなかった。ぼくのなかの例の光が明滅する。神具を手放すなと言いたげに。神具を持ったまま塔を下りると、ようやく光は落ち着いた。
船に乗って辺境の国から兵士の国へ渡る。だんだん勇者の国が近づいてくる。ムスケルたちの顔もどんどん生き生きしてくる。ぼくはヒルトの顔は見なかった。視線が合ったら微笑み返した。それだけだ。
カジノの里でヴァイスとローザに再会した。驚くべきことに二人はぼくたちが旅立ってから夫婦になったらしい。ゲシュタルトとローザが女の子同士の会話で盛り上がっている。プロポーズの言葉は何だったとか、結婚式はどうだったとか。ローザが着た純白のウェディングドレスを見せてもらって、ゲシュタルトがうっとりとした表情で「素敵、素敵」と何度も言う。
「ずっと好きだった人と純白のウェディングドレスを着て結婚式を挙げるって、なんて素敵なのかしら」
「ゲシュタルトちゃんも着ればいいじゃない!好きな人はいないの?」
ローザに聞かれてゲシュタルトはぼくをちらっと見て「秘密・・・」と答えるのがやっとだった。ヒルトが女の子二人の話を遮るように、そろそろ行かないかと言った。
「ゲシュタルトちゃん。国に一度帰ったら、また遊びに来てね。ヴァイスにはまだ内緒なんだけどね、実は来年家族が増えるの」
「家族?」
「うん。お腹にね、いるみたいなんだ」
ゲシュタルトは首を傾げて数秒経ってから何か小さく叫ぼうとして、ローザに口を塞がれていた。
「まだ言っちゃダメ!彼の誕生日に教えるつもりなんだから!」
カジノの里を去ってからも、ゲシュタルトはしきりに「いいなぁ。素敵・・・」と何度も無意識に呟いているようだった。

「好きな人と結婚して、好きな人の子どもを宿すって、どんな気分なのかしら・・・」



兵士の都で体育教師のような王様に歓迎され、魔王打倒の記念格闘大会にムスケルが参加した。この国の人間はマッスルボディが好きらしく、勇者一行の中で一番体格の良いムスケルに女の子たちの黄色い声が飛ぶ。
「ふっ。やっと俺の時代が来たな」
もてる男は辛いぜ、とか何とか言ってる隙に一本取られてムスケルは負けてしまった。
ゲシュタルトがくすくす笑う。ぼくもいつものようにアハハと笑って、ヒルトだけがいつものように冷めた目をして。いつものように、いつものように。
砦町の埃をかぶった大砲には「祝!魔王撃破!」と垂れ幕が下げられている。この町の子どもたちに以前のように囲まれ、「これが魔王を倒した武器か!かっこいい!」と騒がれた。
兵士の国と勇者の国の国境の洞窟に入る。ヒルトがぼくに「大丈夫か」と聞いてきた。
「ふふ。大丈夫だよ」
ぼくほど心と表情にギャップのある人間はいないのではないだろうか。それでも、いくらギャップがあろうとも、ぼく自身が消えていなくなってしまったとしても、勇者としてのぼくしか残らなくても。アンザーツとして彼らの側にいたい。ムスケルと剣の腕を磨き合って、ゲシュタルトをお嫁さんにして、ヒルトとは・・・ときどきお酒でも酌み交わせたらいいな。あんまり飲んだことはないけれど。
彼らとずっと一緒にいたかった。新たな旅に出ても良い。彼らと共に――。肉体と精神をばらばらにして封じたら彼らには二度と会えない。再びぼくが目覚めるようなことがあったとしても、彼らはこの世にいないかもしれない。勇者のぼくが封印されさえすれば、次の勇者は生まれない。世界は平和で、天変地異も起きないんだ。わかっているのに、彼らと一緒にいたいと思ってしまう自分に絶望する。

自分の幸せばかり願うぼくなど消えてしまえ!

洞窟を抜けるとそこは勇者の国。勇者の国に降り立った瞬間、ぼくは勇者に自由を奪われた。



目覚めたとき、ぼくは魔方陣の上にいた。ヒルトが何重にもかけてくれた魔方陣。小奇麗なヒルトは髪を乱して目の下に隈を作っている。必死にぼくを呼び戻すために、そんな格好をして。ぼくはあのヒルトにそこまでさせなければ目覚められないほど勇者の好きなようにさせていたのか。
ぼくは震えながらヒルトの肩に縋った。
「このままじゃ駄目だ」
震えるな、堪えろ。ぼくは行かなければいけないんだ。最後の勇者にならなければ。
ヒルトは何も言わなかった。何も言わずにぼくの震えが止まるまで傍にいてくれた。


勇者の都では凱旋パレードがぼくたちを待っていた。馬車に乗って勇者は人々に手を振る。溢れんばかりの歓声、歓声、歓声。
「すっげえな!」
「恥ずかしいわ」
「・・・・・・」
「みんな、ありがとう!」
凱旋の宴は三日三晩催されるらしい。デザインはほとんど同じだけれど新品の衣装を用意される。武器は綺麗に磨かれた。舞を披露しないかと国王に言われてヒルトが困っていたようなので、彼は足を痛めているんですと言っておいた。
「すまない、助かった。ところでアンザーツ――」
「ムスケルたちはどこかな」
ヒルトに微笑み、何かを言われる前に離れた。バルコニーから城の中庭を見下ろす。ゲシュタルトがぼくに気づいて手を振った。ムスケルがケーキ皿を持ってきてゲシュタルトに手渡す。ムスケルの口に生クリームがついていたのか、ゲシュタルトに指摘されて恥ずかしそうに拭う彼が笑った。ゲシュタルトも楽しそうに笑ってる。ムスケルもぼくに気づいて、降りて来いよという仕草をする。

――そこに行けたらどんなにいいか。

ぼくは曖昧に笑ってその場を離れた。
むかしむかし、あるところに世界を脅威に陥れる魔王がいました。勇者は旅をしながら仲間を増やし、魔王城で力を合わせて魔王を倒しました。世界に平和が訪れました。めでだしめでたし。
(それで勇者はどうなったの?また新たな旅に出たの?それとも勇者の国で静かに暮らしたの?)
勇者は国から出て行くんだよ。
(どうして?また旅に出たの?魔王を倒した仲間と一緒に?)
違うよ。勇者はたった一人で国から出ていくんだ。
(勇者はどこに行ったの?外の国で幸せになったの?家庭を築いたの?)
勇者は結婚しないし子孫を残さないんだよ。
(勇者が子孫を残さないなんて。また魔王が現れたら誰が戦うの?)
先のことは勇者にはわからないけれど、今はこうするのが最善だと勇者は思ったんだ。
(勇者は幸せになったの?)
幸せって何だろう。世界に平和が訪れることが勇者の幸せなら、その勇者は幸せになったんだと思うよ。

「もう戻りません。勇者は子孫を残しません。勇者の血筋がいなくなっても国民が騒がないように、よろしくお願いいたします」

国王は悲しみ、何度も引き止められたけれどもぼくは城を去ることにした。ゲシュタルトたちには何も言わずに。彼女には幸せになって欲しい。ムスケルも。ムスケルも幸せになって欲しい。ぼくがいなくなったら、彼女たちは悲しむだろうか。それは、勇者がいなくなったことへの悲しみだろうか。それともぼく自身がいなくなったことへの――。
結局ぼくは何一つ大事なことを言えなかったんだ。勇者の微笑みの後ろに凍りついた顔したぼくがいること。勇者の光に押しつぶされそうなぼくがいること。これから勇者がどこに行くのかを。
宴の途中で城を抜け出し、ラウダを呼んだ。


勇者の国について勇者に自由を奪われ、ヒルトに見つけ出してもらってから、ヒルトのぼくを呼ぶ声が何度も聞こえたけれど返事はせずに無視して逃げ出した。「アンザーツ、大丈夫か?アンザーツ?」
大丈夫かどうかすら、ぼくにはわからないんだ。
ぼくはヒルトにみつけてほしくなかった。ゲシュタルトやムスケルと、そしてヒルトとずっと一緒にいたいなどと、自分の幸せばかり願って勇者の道から逃げ出そうとする自分なんて、みつけてほしくなかった。
賢者になってまでぼくを探しにきてくれたヒルト。そのヒルトにも何も言わずにぼくは行く。ごめん、ごめんね。
辺境の国の首飾りの塔にぼくは引き篭もった。ここにいたらきっとヒルトがぼくを――。
ぼくがラウダに寄り添って眠っていたら、やがてヒルトがやってきた。ぼくをみつけてくれるのはいつも彼だった。
「だいぶ探したの?」
「探したけれど予想の範囲内にいてくれて助かった。光の中の君はどこにいるのかさっぱりわからなかったからね」
「ヒルト、ごめんね。ありがとう」
ぼくはヒルトにみつけてほしかったのかな。
泣き方なんかわからないはずなのに、ぼくは本当は泣きたいのかな。
でもダメだよ。ぼくは勇者なんだから。勇者が泣いたらダメなんだよ。
再び横になった。ヒルトも「気持ち良さそうだな」と言って、一緒にラウダに寄り添って眠りについた。



魔王城に向かってムスケルたちと旅をしている途中、辺境の都では長い時間意識を勇者に明け渡していた。「これ以上進めないかもしれない」とヒルトにこぼした夜、ムスケルが宿屋の本棚で面白い本をみつけたと言って、ぼくのベッドに腰掛けた。
「あ、えっちな本じゃないからな!そうじゃなくて、これこれ」
「天空の帆船?」
ムスケルが持ってきた本の表紙には空に浮かぶ帆船の絵。空飛ぶ帆船で失われた楽園を捜し求める天空人たちのお話らしい。
「この帆船は昔、天空の湖に浮かんでいたらしいんだ。空には小さい国が一つあって――」
ムスケルが本に夢中になるなんて意外だなと思いながら、ぼくは「うんうん」と相槌を打つ。
「なあ、魔王を倒して国に帰ってしばらく休んだら、この空飛ぶ帆船を探す旅に出ないか?ゲシュタルトもこういうロマンチックな話が好きだろうしよ」
「うん、面白そうだね。でもね、ぼくは地上が好きなんだ。この地に生きる人たちが好きだし、ぼくもずっと皆のそばに在りたいんだよ」
その後、ムスケルが何と言ったかはよく覚えていない。普段本を読まないムスケルが息抜きに読んだり夢物語を話したりするなんて、魔王城が近づき緊張しているんだなと思った記憶がある。
ゲシュタルトも相当緊張していたはずだ。意識を取り戻したときに横を見ると、ムスケルが上手くまじないが唱えられないゲシュタルトをフォローしていた。そういえば、こうした様子は何も辺境の国に着いてからの話ではない。序盤の勇者の国でゲシュタルトを仲間にした頃から、ムスケルはいつもさりげなくゲシュタルトを支えていたんだ。

「ゲシュタルトはどうもお前が好きらしい」

そう言うムスケルはどうなのかな。ぼくがいなくなっても、きっとムスケルがゲシュタルトを慰めてくれるし、幸せにしてくれるんじゃないかな。
「アンザーツは?アンザーツはゲシュタルトのこと、どう思ってんだ?」
ゲシュタルトが恥ずかしそうな顔して、ぼくをちらちら見る。
「魔王を倒して都に戻っても側に置いてくれる?私のことを愛してもらえる?」
・・・・・・好きだよ。ぼくはゲシュタルトが好きだよ。ずっと側にいて欲しい。

「嘘つき」

嘘つきアンザーツ。
都に戻っても側に置いてくれるなんて嘘じゃない。
私のことを愛してくれるなんて嘘じゃない。

嘘つきアンザーツ。
仲間だと思ってたのにな。
お前ならゲシュタルトを幸せにしてくれると思ったのによ。

嘘つき。嘘つき。

嘘じゃない。君たちの側にいたい。君たちとずっと一緒にいたいって思うぼくは、ここにいる。
ぼくはここにいるんだよ。

あなた誰?
あなたなんか知らない。
返してよ、勇者のアンザーツを返してよ!

お前は誰だ?
お前なんか知らない。
勇者のアンザーツはどこに行ったんだ?

ぼくはアンザーツだよ。
ムスケルとずっと一緒に旅をしてきた仲間で、ゲシュタルトのことが好きなアンザーツだよ。

嘘つき。
私のことを愛してくれるのは勇者のアンザーツだわ。
あなたじゃない。
私が愛しているのも勇者のアンザーツよ。

俺とずっと一緒に旅をしていたのも勇者のアンザーツだ。
お前じゃない。

あなたじゃないわ。



「・・・ツ。・・・アンザーツ」
ヒルトの声で目が覚めた。五芒星の刻まれた彼の右手、その温もりがぼくの頬に添えられている。
「だいぶ魘されていたようだが」
夢を見たんだ。でも、あれは本当に夢だったのかな。
ムスケルもゲシュタルトもきっと怒ってる。勇者のアンザーツを返せって、きっと怒ってるよ。
「夢だよ、アンザーツ」
ねえ。闇魔法でぼくを深い眠りに誘うことはできるかな。こんな夢なんか見られないほど、深い深い眠りにさ。
「・・・目を閉じろ」

おやすみ、アンザーツ。



玉を転がすような音が聴こえた。体全体でその音を感じながら瞼を開けると、吟遊詩人みたいに楽器を奏でるヒルトがいた。薄緑の髪に紺のローブはいつも通りだけど、手にしているものは銀の杖ではなく、膝に乗るほどの小さな竪琴。
「うるさいか?」
「ううん、全然不快じゃないよ。たぶん、ぼくは好きなんじゃないかな、その音色」
「私もおそらく嫌いではない」
旅芸人の一座で楽器を習ったんだとヒルトが言った。聞かれても滅多に語らない自分の身の上を、今度は星が流れ落ちるように弦を弾きながら。楽器は色々経験したけれど、この竪琴が一番長い付き合いになったって。
「妬けるね」
ぼくの戯れの言葉を受けて、竪琴はおどろおどろしい旋律を奏で始めた。嫉妬に狂った女の歌だとヒルトが言った。
「君は口を開いたかと思えば彼らの話をする」
彼らというのはムスケルとゲシュタルトのことだろう。
「妬けるよ」
辺境の都に立つ塔、雲の上にある最上階。月明かりと竪琴の音だけがそこにあった。



ヒルトが読み込んでいた凶器にもなり得そうな分厚い魔道書を足に落としてしまった。痛くて生理的な涙が出そうになって堪える。痛覚はある。でもそれだけなんだ。それくらいしかぼくにはわからないんだ。
悲しいとか寂しいとか、嬉しいとか楽しいとか、そんな感情はたぶんわからない。勇者としてそういう感情を表に出したことがあったかもしれないけれど、ぼくがその感情を理解できるか自信は無かった。でも勇者がいたから。だから問題は無かったんだ。問題無かったはずなのに。
ぼくは欲求に関しても鈍くて。何がしたいのかわからなくて。この先どうしたら良いのか誰も教えてくれなくて。
勇者としてどうすべきかはわかっていたけれど、ぼく自身がどうしたいのかはわからなかった。
ゲシュタルトとムスケルにすべて伝えてこようかと考えたりもしたけれど、その度に思い留まった。
ぼくは自分がわからない。ぼく自身にすらわからないぼくを、彼らがわかってくれるのか、もし拒絶されたらと考えると怖かった。
ムスケルなら、あの真っ直ぐで仲間思いの優しいムスケルなら、ぼくみたいな不安定で得体の知れない奴よりずっとゲシュタルトを幸せにできる。

「・・・ムスケルの側にいた方がゲシュタルトは幸せになれるんじゃないかな」

そんなことないよって、ムスケルやゲシュタルトなら言ってくれるのに。ヒルトは魔道書から目を上げて、ちらりとぼくを見ただけだった。ヒルトは元から無口だったけれど、もしかしたら沈黙を利用することでぼくの真意を汲み取ろうとしているんだろうか。それとも無責任なことを言いたくないだけか、口を開くのが面倒なだけか。いずれにせよヒルトの沈黙は怖くなかった。ぼくが何を求めているのか、ぼくにはわからなくてもヒルトがわかってくれたらいいなと思った。ぼくはヒルトに甘えていたんだ。

「都に戻ったらそう伝えてくれ。幸せになってほしいって・・・」
ぼくのこの一言でヒルトはきっとわかってくれる。

「・・・伝えておく。彼女が少し羨ましいよ」



この塔に閉じこもる前にラウダとぼくだけで再度魔王城を訪れた。ぼくを待っていてくれたのか。ファルシュはぼくに世界を続けてくれと言い残し、それから、魔王が目を覚ました。
ファルシュともっと話したかった。
ぼくの側にムスケルやゲシュタルトがいたように、ファルシュにも誰か大事な人がいたのかな。
勇者としてのぼくではなく、ぼく自身を探しに来てくれたヒルトのように、魔王ではなくファルシュ自身を求めてくれる人はいたのかな。
魔王が攻撃呪文を唱える。火球がぼくに向かって飛んでくる。それはファルシュの怒りでも涙でもなく、魔王が当然にして持つ勇者への殺意の証。
突然魔王の間の扉が開き、小さな魔物の女の子がふらりと倒れこんできた。彼女を巻き添えにすればぼくを殺すことができたかもしれないのに。ファルシュの魔法がぴたりと止まった。その隙にラウダに拾われ、ぼくはラウダの羽に掴まって魔王城を後にした。ファルシュは彼女を傷つけたくなかったのかな。ぼくがゲシュタルトを傷つけたくないのと同じように。

ねえファルシュ。
世界を続けよう。彼女たちが笑って暮らせる平和な世界を。
そして勇者と魔王の、この悲しい物語はぼくたちで終わらせよう。



「君に頼んでいいかな」

ぼくが最後の勇者になるために。勇者として生き続けるために、ぼくを封印してくれ。

ヒルトが俯いて、五芒星の刻まれた手を握り締める。このために賢者になったわけではないのにと言いたげに。
残酷な選択肢を彼に与えていることはわかっている。自惚れでなければ、ぼくに出会ってヒルトは少し変わった。ぼくにだけかもしれないけれど、ヒルトの感情が少しわかるようになった。
「・・・やっぱり駄目かな。ヒルトが嫌なら仕方がないけど・・・」
ヒルトがぼくの手首を掴む。その力が徐々に強くなっていき、痛みを感じてきた。これはヒルトの痛みなのかな、ぼくの痛みなのかな。
行くなって言いたいの?
行きたくないって言いたいの?
ヒルトの手ってこんなに温かかったっけ。氷の瞳もすっかり融けちゃって。
「何だってやるさ、それを君が望むなら。―――君のためなら何でもする」
なんて熱烈な告白だろう。
ぼくはぼくのために何かをするなんてことはできない。
ヒルトのためなら何でもするなんてこともできない。
ぼくは勇者で、平和な世界のために生き続ける。そのために生まれて、そのために生きている。
「ありがとう」
ヒルト、ありがとう。
ぼくのために尽くしてくれてありがとう。
完全な勇者になる前にぼくをみつけてくれてありがとう。
このありがとうっていう気持ちは、ぼくの気持ちなのかな。それとも勇者の気持ちなのかな。
そんなことすらわからないぼくの側にいてくれて、ありがとう。



それからヒルトはぼくを封じるのに適した土地と魔法を探し始めた。ラウダの青く美しい羽に寄り添ってヒルトの帰りを待つ。今度彼が戻ってくるときは、ぼくが眠りにつく土地をみつけたとき。ラウダがぼくの体を撫でるように羽をやさしく揺らす。ヒルトがぼくの頬に手を添えるときのように、ラウダのやわらかい羽に頬を寄せた。
何百年と神具を守ってきたのだと神鳥のラウダは言う。
「百年ごとに現れる勇者を何人も見てきた。そのなかで、最後の勇者になると言ったのはお前だけだ」
最後の勇者であるぼくが眠りについたら神鳥たちはどうなるのだろう。
「我々は天界で禁を破り、その罰として塔を守護する役目を与えられた。いずれにせよ塔からは離れられない」
今までは勇者が神具を返却し、神鳥としての役目が終えると次の勇者が現れる百年後まで眠りについていたのだという。
一体、ラウダは天界でどんな禁を犯したのだろう。
「魅せられたんだ」
何に?
「地上に、大地に」
そう言ってラウダは丸まった。
「ぼくも地上が好きだよ」
この地に生きる人たちが好きだし、自分もずっと皆のそばに在りたい。
ぼくとラウダは少し似ているのかもしれない。
ラウダには昔の記憶が無い。失われた何かが地上にあるのだろうか。だから魅かれるのだろうか。
ラウダは神の言いつけに背いて罰を与えられた。
ぼくも神の意思に背いて、最後の勇者となる。
ムスケル、ゲシュタルト、ヒルト。
眠りについたらもう会えない。
ぼくに与えられる罰は孤独、なのかな。

「ようやくみつけた。君を封印する場所が。私と君は塔から降りる」
ヒルトが帰ってきた。

辺境の国と兵士の国の境にある深い河の祠でぼくは眠りにつくらしい。ヒルトは塔に閉じこもって、ぼくを封じるための魔法の完成に力を注いだ。賢者のヒルトにしかできないこと。ぼくを眠りから覚ますために賢者になったのに、ぼくを眠らせるために賢者の力を使うのだ。
どれだけの昼と夜をこの塔で過ごしただろう。
あと何回、月明かりの下でラウダの羽に寄り添って眠るのだろう。
まもなく、世界から勇者が消える。




兵士の国と辺境の国の国境を隔てる河、その河岸にある洞窟の前に来た。勇者の国と兵士の国の境にある洞窟では、勇者の光に怯え始めていたぼくは暗がりに安心していたっけ。今のぼくは暗くても明るくても、どちらでも良い。光も闇も届かない深い深い眠りにつくのだ。
この洞窟の中を完全に水で満たして氷付けにするのだという。
氷付けかあ。ヒルトとぼくらしいな。
ヒルトなら絶対に融けない氷を作ってくれるだろう。ぼくが誰にもみつからないように。
厚くて硬くて冷たい氷のなかでぼくは眠る。
ぼくの氷が融ける日は来るのだろうか。
もし、もしもそんな日が来たら、その氷の中から出てくるのは誰だろう。
ぼくだといいな。
勇者ではなく、ぼくが目覚める日が来たら良いな。
ヒルトたちが生きている間にそんな日が来るとは思えないけれど。
けれど、勇者とその仲間たちが守った平和な世界を、ぼくも見てみたいな。




「―――さあヒルト。ここにぼくを眠らせてくれ」

腕を広げて笑うぼく。何でもないことなんだよ。だからヒルトが気に病むことはないんだよ。ヒルトはぼくの前でだけかもしれないけれど、ずいぶん表情を出せるようになったね。ヒルトのそんな顔が見られるのは世界でぼくだけなんじゃないかな。ぼくが眠りについたら、彼もまた氷の瞳を取り戻しちゃうのかな。勿体ないな。もうちょっと、ムスケルやゲシュタルトと打ち解けるヒルトが見たかったな。
ムスケルやゲシュタルトがここにいたら、彼らは必死に止めてくるだろう。あのヒルトですら、ぼくとの別れがこんなに辛い。
やっぱり駄目かな?
躊躇うようならヒルトにも悪いし・・・。
「違う。そんなことじゃない。君のためなら何でもすると言ったろう」
ぼくのために何でもするヒルトは、勇者のぼくのために、その手でぼくを封印してくれる。そこにどれほどの葛藤があったか、ぼくにはわからない。けれど、ヒルトの顔がすべてを物語っていた。
・・・それじゃあどうしてそんな顔を?
会えなくなるのを惜しんでくれるの?

静かだなあ。
ヒルトにはぼくの声が聞こえるの?
ぼくには聞こえない、ぼくの声が聞こえるの?

「いいや、私はきっとまた君に出会う。そしてそのときこそ、必ず君を救うと約束する。―――わかるか、これは約束だ。決して違えることない私と君の契約なんだ」

わかるよ。
ヒルトはぼくのためになら何でもしてくれる。
ぼくのために命をかけて賢者になってくれたね。
ここで待ってたら、また君に会えるかな。
また会いたいな。
約束だよ、ヒルト。


もう手すら伸ばせない。瞼を開けることもできない。
光がぼくの体から出ていこうとするのを感じる。
これでいい。

「必ず君を救うよ、必ずだ」

薄れゆく意識のもとで、ヒルトの声だけが鮮明に聞こえる。

うん。約束だよ、ヒルト。

それまで、おやすみ。





(完)



カルムさんからいただいたアンザーツ小説です(;ω;)
文の美しさと諸々でハンカチをおともに拝読させていただきました。
ありがとうございました……!!!