第十一話 滅ぼしの星 前編






 運命の相手に出会ったら、見えない雷が全身を貫くのだという。
 心を奪われ、呼吸を乱され、もう元の自分には戻れないのだと。

 初めてシュルトに会ったときがそうだった。魔法使いとして王城で暮らす腹違いのラーフェの兄。
 群青色の髪と紫の双眸。似たようなつくりなのにふたりはまるで違っていた。妹である自分には彼ほど凄まじい魔力はなかった。
 朝焼け色の瞳に映る世界もきっと別々のものだろう。それが無性に切なくて。

 優しく聡明なシュルト。ラーフェだけが大切だと囁いてくれるシュルト。
 彼が欲しくて堪らなかった。たまの面会だけでなく、ずっとふたりで過ごしたかった。

 初めの願いはごく単純なものだったのに。

 災厄なんて知らない。
 破滅なんて知らない。
 彼が一体何を見て、何を諦めて「殺してくれ」と言ったのか。

 何もかも破壊し尽くし赤と黒の滅びが通り過ぎた後、残ったのは虚無だけだった。






 ******






 ノーティッツの奪還に失敗したベルクたちがどうやって飛行艇に再突入するか、ああでもないこうでもないと話し合っていた頃、兵士の国では勇者の都への潜入作戦が話し合われていた。
 取り戻したオリハルコンがひとつ。クライスから返却される予定のオリハルコンがひとつ。一応この場には三つに分かれた聖石のうちふたつが戻っている状況だ。
 一刻も早くこれらを元の位置に収めるべきであるという考えは皆一致している。問題はどうやってアペティートの監視を掻い潜り、都入りするかということだった。
「ワシが見回りしとった分には、言うほど王都に兵はおらん。ヴィーダからあそこは危ないて聞いとるんやろな。どちらかっちゅーと鉱山やら麓の街やらで軍人はウロウロしとる。ただあの戦列艦っちゅう腹立つ船は二、三隻必ず浮かんどるわ。海から近づくんは難しいと思うで」
「おお……なんか久しぶりだなバール」
「ちょっと会うてへんだけで忘れんといてくれるか!?」
 神鳥にこめかみをつつかれマハトは「悪い悪い」と詫びる。地図を開いていたクラウディアが海路に大きく×印をつけた。
「確かにこちらの大陸の船では彼らと渡り合えませんね。都につく前に船を壊され海に投げ出されるのがオチです」
「……かと言って陸路も厳しいだろう。湖の街近辺は侵攻を防ぐのにまだ水浸しなのでないか? アペティートがこちらに来る道もないが、我々が都に向かう道もない」
 弟に応えてディアマントが言う。確かに彼の指摘した通り、国境を越えぐるりと北上するにしても今度は水の障壁が立ちはだかっているのだった。
「兵を連れて移動するのは諦めた方が良さそうですね。……やはり今回は少数精鋭で空路を取りましょう。風魔法を操って都に入れそうな者は何名いるのです?」
 イヴォンヌの問いにマハトは背後の賢者を見上げた。椅子の背もたれに寄り掛かっていたヒルンヒルトが「ディアマントひとりだな」と短く返答する。
「風を使って移動するには少々距離がありすぎる。だがまあ問題ないよ、私が転移魔法で運べば済む話だ。百人と言われるとちょっと待てと断るところだが、十人そこそこなら魔力の範囲内さ」
「……ありがとうございます! とても助かります」
「礼には及ばん。それに今は私も宮勤めの魔導師みたいなものだしね」
 含みのある賢者の笑みに我知らず頬が引き攣る。要するに血の契約のせいでマハトに従属することになったから、王妃も彼の力を好きに使えということなのだろう。心強いのは心強いけれど先のこと思うと気が重い。ヒルンヒルトとの契約をアラインに知られたら爆笑されそうだ。まあそれも、無事に再会できればの話なのだが。
「じゃあ結局ぼくたちだけで行くことになるのかな? ぼくとゲシュタルトとイヴォンヌと、ヒルトとマハトと、クラウディアとディアマントと……」
「せやからワシのこと忘れんとってや! マハトもアンザーツも冷たいわ!!」
「あ、ごめんごめん。それからバールと……」
 私は駄目ですわよねとしょげるウェヌスにクラウディアが慰めの言葉をかける。いつもなら女同士で励まし合うのはエーデルの役目なのだが、彼女は未だ所在が知れなかった。あるのはヴィーダによって連れ去られたという情報だけだ。
「ひとつお願いがあるの。いいかしら?」
 まとまりかけていた話を止めたのは無言で末席に座っていたクライスだった。
 皆の視線が一気に彼女に集中する。また自分も連れて行けと申し出てくるつもりだろうか? 何を考えているか読めない女をアラインの側に同行させたくはないのだが。
「転移魔法は私に使わせてちょうだい」
「……!?」
 クライスが告げたのは予想だにしないひとことだった。ビブリオテークで聞いた噂では、彼女はずっとアペティートに軟禁状態で、かけ落ち先のドリト島と祖国ビブリオテークにしか訪れたことはないはずだ。転移魔法では行ったことのある場所へしか飛べないはずではなかったか。
「……勇者の都がどこか知ってるわけ?」
「ええ、わかるわ。この三日月の端でしょう」
 ゲシュタルトが鋭くクライスを睨みつける。細い指で地図を差し示す賢女に感情の変化は見られない。
「だが単なる地理知識だけでは位相を定められまい。失敗すれば全員で亜空間を彷徨うことになる。それでも君の魔力で転移を行いたい理由は何だ?」
「……」
 大事なことはまただんまりかといい加減腹が立った。大賢者だか首長の娘だかヴィーダの恋人だか知らないが、こちらもいつまでも温厚ではいられない。そろそろ一喝しておくべきだろうか。
 マハトが口を開くと同時、クライスの声が音を刻んだ。「それでヴィーダをおびき出せるわ」と。
「空間転移を扱える魔法使いなんてごく限られている。破滅の魔法の元に私の力を感じ取れば必ず来るはずよ。あなたたちだってオリハルコンが必要なんでしょう?」
 それ以上のことを話す気はもうないようだった。瞳を逸らした彼女を横目に皆で顔を見合わせる。ゲシュタルトなどは露骨に「こんな女の魔法で移動するなんてイヤ!」という顔をしていた。
「ヴィーダの捕獲は確かに急務だが、君の転移は非常な危険を伴う。私は反対だな」
 ヒルンヒルトの対応もあっさりしたものだった。質問するだけしておいて、この性悪ははなから取り合うつもりなどなかったらしい。
「……危険でないとわかればいいのね? 証明はできるわ。ここへなら飛べるからついてきて」
 だがクライスもまったく退かなかった。彼女が示した指の先にあったのは、驚くべきことに魔王城だった。これには室内もざわついた。
「それは賢者の力を使って魔物狩りに荷担していたということか?」
「いいえ、あれは私の預かり知らないことよ。そもそも父は私が魔法を使えるようになったと気づいていなかったし、何かの指揮を任されるほど私は信用されていないわ」
 彼女の言には一応説得力があった。ビブリオテーク内でのクライスの立場は酷く危うい。いつ言いがかりをつけられて追放されてもおかしくはなかった。モスクの中にヴィーダが現れたのも、彼女が手引きしたせいではと囁かれていたほどだ。
(だからこっちも警戒してるわけだけどな……)
 クライスが何を目的としているのかわからない以上、誰の味方であるかも見通せないのだ。せめてそこさえハッキリすれば協力し合えるかもと思うのに。ヴィーダを殺そうとしているのは単なる痴情の縺れなのか、それとも他に理由があるのか、何も語ろうとしない人間を信用できるほどこちらもお人好しではないのだ。
「うーん……。ねえ、魔王城へ飛べるのはどうしてって聞いてもいい? ぼくらには君のことがわからなさすぎるんだ。ひとりで何か頑張ろうとしてるなら力になるよ。内容によるとは思うけど……」
「……」
 アンザーツと共に全員でクライスの返答を待った。納得のいく答えが返ってこないなら彼女の希望を聞き入れるわけにいかない。
 ふう、とクライスは憂いの息を吐く。どうやら観念して胸の内を打ち明けてくれるようだ。
 夕暮れ色の眼差しはどこを見つめているのだろう。視線は遠くにじっと注がれている。
「前世で因縁のあった場所だからよ。……あの城の玉座の真上で破滅の魔法は発動したの」
 クライスの左手が右の甲に刻まれた星を引っ掻いた。
 初めて彼女の心情が垣間見えた気がする。強い悔恨はマハトの肌にも伝わってきた。
「あれは私たちがこの世に生み出してしまった。だからどうしても甦るのを防ぎたいだけ」
 思わぬ告白に会議室は静まり返った。大賢者の刻印もあんな魔法の元凶ならば頷ける。
 前世――前世か。マハトにとっては馴染みの深い言葉だ。ムスケルが死ぬまで抱えていた苦悩はマハトにも浸透していた。彼女にとってもおそらく無視できるような代物ではないのだろう。
「……力になってほしいことなんかないわ。頼まなくてもあなたたちはヴィーダからオリハルコンを取り戻すつもりなんでしょう? さあ、後は転移の安全証明だけね。魔王城についてくるのは誰?」
 私だろうなと答えた声はやはりこちらの賢者のものだった。万一転移による事故が起きても対応できるのは彼ぐらいなので反対するつもりはない。一切ないのだけれど。
「それは俺も行くってことだな……?」
「無論そうだ。死ぬときは一緒だぞ、マハト」
 ゲシュタルトがお気の毒にと笑うのをなんとか堪えて聞き流す。
 仲間だからこその発言だろうに何故この男はこんなに胡散臭いのだろう。嬉しくない。



 それからすぐにクライスは宣言通り魔王城の尖塔に飛んだ。城内と繋がる階段は途中から崩れ落ち、翼のない者は外部に露出する天辺まで到達できなくなっている。
 真っ黒に煤け、影となって残る魔法陣の痕跡を見てヒルンヒルトが顔をしかめた。よほど良くない魔法らしい。
「今度破滅の魔法が出現すれば、この大陸どころか世界中を壊して回るでしょう」
 長い時をかけあの魔法はまた力を蓄えてしまったと彼女は呟く。口調こそ淡々としているが滲む嘆きは消し切れていなかった。
「その前に戦乱が人々を痛めつけるかもしれないけれど……」
 褐色の指で円陣を描くとクライスは付近の海の光景をその中に映し出した。ビブリオテークの紋章を掲げた船が十隻、二十隻、否、もっとそれ以上か――魔王城北東の岬を通り過ぎて行くのが見える。大船団を率いるのはビブリオテーク首長、アヒム・トリト・ビブリオテークであった。
「……父はシュロスを落とすつもりだわ。急ぎましょう」
「シュロス?」
 耳慣れない単語にマハトは尋ね返す。「あの都の古い名前よ」とクライスが答えた。勇者の国という呼称が定着するようになるまでは、あそこは祝福の国と呼ばれていたのだと。
(……ああそっか。破滅の魔法が発動したのって勇者がいなかった時代なんだっけ)
 勇者はツエントルムが生み出した英雄だ。天界ができる前は勇者もまた存在しなかった。当たり前のことなのに不思議で仕方ない。マハトの中では勇者のいない世界の方が考え難かった。
(アライン様、もうすぐオリハルコン届けに行きますよ)
 時代は移り変わっていく。アンザーツの血は途絶え、勇者と讃えられる者も唯一無二ではなくなった。
 これから世界がどうなっていくのかはわからないけれど、今この世界が必要としているのが誰なのかはわかっている。これから自分はその人を助けに行くのだ。
(ちゃんと戻ってきてくださいね……!)
 願いが届くように祈る。魔法は使えなくても、身体を張ることと仲間を増やすことはできる。勇者の力になれるはずだ。ムスケルにはできなかったことも、今ならば。






 ******






 どうしよう、なんだか頭がこんがらがってきた。
 相談相手のマハトもいないしちょっと途方に暮れそうだ。

 破滅の魔法の先にあったのは何百年も昔の都。アラインを「招かれざる客人」と称した子供はこの時代にはまだ来るべき滅びが訪れていないと言った。
 状況を飲み込むのには時間を要したが、過去へタイムスリップしてしまったことに間違いはなさそうだ。一体どうしてこんな事態に陥ったのだろう。熟考するにはやや冷静さを欠いている。ともかくそう、まずは帰る方法を探さなければ。
「……ん? もしかしてこの時代で破滅の魔法の発動を止めれば、僕たちの時代からも魔法は消えてなくなるんじゃない?」
 王立魔法機関の馬車が去った脇道で、アラインは小さな気功師に尋ねた。この幼い少年が本当に気功師と呼ばれるような人間であるのかは知らない。ただ便宜上名前が必要だろうとそう呼ぶことに決めただけだ。彼には決まった呼称すらないようだったから。
「終わった時代に干渉してもあなたの世界は変化しません。過去はひとつしか存在しませんが、未来は無数に枝分かれしています。その枝がもう一本増えるというだけですよ」
「あ、そうなんだ……。よく知ってるね。君って何者なのかな?」
「何者だと思いますか?」
「……」
 気功師は笑みも姿勢も崩さずにアラインに問い返した。答える気がないというよりは、ちゃんと考えれば答えは導き出せるはずだと見守る教師のようだ。
 薄暗い影の落ちる建物の間から大通りの明るさを仰ぐ。さっきの馬車の男――シュルトと言ったか。彼の右手には五芒星が刻まれており、気功師は自分が彼に力を与えたのだと話していた。ただの子供だとは勿論アラインも思っていない。しかし元大賢者という答えはあまりに短絡すぎる気がする。
「……ちょっとわからないな。でも今まで会ったことのある人とは誰とも違う感じだ」
「私もあなたのような方に出会うのは初めてですね。時空を越えるその力はどこで身につけたものですか?」
「えっ?」
 問われてアラインは目を丸くした。ふと気がついたらこんな時代にいただけだ。今の今まで破滅の魔法に仕組まれた何らかの作用で飛ばされてきたのだろうと推測していたのに。
「時空を越える力が、僕の……?」
「ええ、あなたの力であるように見えます。そんな特異な魔法使いを見るのは初めてです」
 気功師はアラインが自分の力でここへ来たのだと言い切った。だがこちらはまったく身に覚えがない。空間を瞬間移動する転移魔法ならこれまで何度も使っているけれど、時間に関連するような高次元の魔法は魔道書の記述でさえ見たことがなかった。
「ま、まさかぁ!」
 そう否定するや、即座に「間違いではありません」と否定し返された。
「試してみるといいでしょう。干渉する気がないのなら遠くからこっそり覗けばいい」
 疑うアラインに彼が提案する。実際もう一度時間を移動してみればいいと。
「の、覗くって何を?」
 気功師の言っていることはよくよく理解できなかった。
 微笑から思惑を読み取ることもできないし、正直言って不安しかない。
「さあ? それを決めるのはあなたの力です。けれどもしあなたが選んでこの時代にやって来たのだとしたら、目にするものはおそらく破滅のルーツでしょうね」
 気功師は小さな手でアラインの腕を引いた。刹那の後、都の景色は楕円に切り取られ闇の底へと遠ざかる。
 アラインたちは星のない夜空にふわりと浮かび上がった。重力から解放された不可思議な感覚。こんな力はやっぱり知らないと戸惑いはますます強くなる。
「本当にこれって僕の力なの? 君の力ではなくて?」
「私が私のために所有している力などありません。誰かに譲渡すべき力の一時的な器となることはありますが、今はこの通り空っぽですよ」
 右手の甲をこちらに見せつつ気功師は首を振った。やはり言っている意味はよくわからなかったが、彼は本当にこの時間旅行の仕掛け人ではないらしい。
「でもそれじゃ僕、いつこんな力を……」
「自分のものでないのなら誰かから受け取ったのではないですか? 或いは何かから」
「誰か? ……何か?」
 こちらの様子など意に介した風もなく気功師は宙を流離う。真っ暗で何も見えない、底や天井があるかさえわからない空間を。
 どこまで行っても周囲には闇しか見えず、平衡感覚も危うくて、アラインは急に心配になった。理のわかっていない魔法を使ってしまったから、何か失敗したのではなかろうか。
「待って!」
 叫ぶと同時、重力が再発生して落っこちる。生温い地面に両手をついて呼吸を静めるアラインに気功師は「着きましたか?」と尋ねた。

「何? 着いたってどこに――」

 瞬く間に地面が色づく。アラインの足元に広がったのはどこかの家の食事風景だった。四人がけのテーブルに父親と母親らしき男女が座っていて、湯気の立つスープを啜っている。その横では群青色の髪の子供がひとりぽつんと所在なく立ち呆けていた。






 ――薄気味悪ィ、変な子供を産みやがって。
 機嫌を損ねると男はそう言う。こいつは本当に俺のガキかと。
 ――お前に変な力があるからいけないんだ。あたしは何も悪くない。
 男が喚くと女は泣き出す。こんな子供なら産むんじゃなかったと。
 平気でシュルトを化物などと呼ぶくせに、外面ばかり良い両親には早いうちから失望していた。
 「手のかからない子供で」とか「ご飯を食べるのも忘れるくらい読書に熱中して」とか耳にする度に期待することの空しさを覚えた。
 手がかからないのではなく無視されているだけだ。食事もろくに与えてもらえず空腹を紛らわせているだけだ。
 大人はみんな嘘つきだ。家の外では本当のことなんか何ひとつ言わない。シュルトの身体にはたくさんの傷と消えない痣があるけれど、「坂で転んて」と母が笑えば誰もそれ以上聞かなかった。シュルトが違うと言おうとしても聞きたくないと目を逸らした。魔法使いなんかとは関わりたくないと言いたげに。
 いつから自分で傷を癒すようになったのだったかな。両親の暴力に気づいてほしくてわざと残していたそれを。
 いつから他人に魔法を向けることを考え始めたのだったかな。越えてはいけない一線だと頭ではわかっていたのに。



(……なんだこれ……)



 俯瞰の位置にあったアラインの目線はいつの間にか子供のそれと一致していた。幼い魔法使いは酷い環境に置かれていて、その苦い感情がじわじわ心に伝染してくる。
 シュルト。あの王立魔法機関の男だ。
(魔法も使ってないのにどうして……)
 闇属性の術はおそろしく繊細だ。他者の意識を乗っ取るよりも他者の心を垣間見る方が難しい。余程近しい存在でなければ拒絶反応で互いに苦しむことになる。眠っている相手の意識に潜り込んでいるのならまだしも、生きて動いている、それも魔法使い相手にどうしてこんなことができるのだろう。
(……僕と彼に何らかの関係があるってこと?)
 疑問に答えてくれそうな相手は今この視界からは見えなかった。思考する間に時は進んで、少しシュルトの背が伸びる。けれど相変わらず身体は痩せっぽちだった。両親の罵声と嘆息は一層彼を傷つけていた。






 ある日いつものように頬を張られ、顔の半分がみるみる腫れ上がった。父は「子供は親に従うものだ」と教育したが、既にシュルトにとって親などという存在はその意味を失効していた。
「おい、外でその変な術使ったりしてねえだろうな? ったく気持ち悪ィ……、いつ死ぬんだよお前」
 心ない言葉に少しずつ膨れ上がっていた怒りが暴発する。口から血を垂らしたままシュルトは両手に炎を宿らせた。こんな大掛かりな魔法を編んだのは初めてで、一緒に暮らしていた彼らも我が子にここまでの術が扱えるとは思いもよらなかったらしい。尻餅をついた男はしばし呆然とした後でみっともなく命乞いを始めた。
 助けてくれ、悪かった、これからは優しくする。親の尊厳などかなぐり捨てて媚びへつらう彼を見ていたらいっそ哀れで、怒りもすっかり冷めてしまった。罵詈雑言や暴力さえなくなればそれでいいか。そう息を吐きシュルトが炎を掻き消したとき、青褪め震える男はただの男に、泡を吹く女はただの女になっていた。
 父親とか母親とかいう生き物には何ら望みをかけてはいけない。それが人生で学んだ最初のこと。
 約束通り数日は穏やかな日が過ぎた。家族揃って食事をし、新しい服も買ってもらった。もしかするとこれから先は今までよりうまく付き合っていけるかもしれない。淡い期待を抱いた翌日、王城からの迎えが来た。
「陛下は強い力を求めておいでだ。今よりずっといい暮らしができるし、その方が君のためにもなる。さあ、わかったら我々とおいで」
 父は白々しく涙ぐみ「元気でやるんだぞ」とシュルトを追い出した。
 魔法が金で売られたのだ。体よく厄介払いされた。そんなことは子供でもすぐに理解できた。
 誰がこんな連中の、屑みたいな両親の思い通りになるものか。
 捕えようとする腕を振り払いシュルトは風を纏って逃げた。誰も自分を知らない街に行きたかった。
 ――それから何ヶ月くらい経ったのだろうか。シュルトはあまり治安の良くない街にいて、魔法を使って盗みをしながら生きていた。
 路傍の暮らしは快適ではなかったが、特別不愉快なこともない。身汚い少年少女は自分の他にもたくさんいたし、何よりその他大勢のひとりでいられた。魔法使いであることは他の誰にも知られたくなかった。ただ魔法が使えると言うだけで忌み嫌われ、ないもののように扱われるのはもうたくさんだった。
 魔法の素養を持つ人間は世界にもごく僅かだそうだ。その中でも強い魔力を持つ者はもっと希少なのだと言う。
 風を操り、水を凍らせ、手も使わずに土の形を変えるような人間は最早人間ではないらしい。ずっと昔はそんな魔導師がたくさんいたのだそうだけれど。
「なぁシュルト、今日の収穫わけてもらえないか? 妹が熱出して……うまいもの食べさせてやりたいんだよ」
「……別にいいよ」
 コソ泥仲間の少年が無心に来るのは珍しいことでもなくなっていた。中には兄妹でスリに手を出している者もいて、仲の良い家族がいたものだと驚かされる。それとも兄弟姉妹というものは親とは違うものなのだろうか。手を取り合って生きていけるものなのだろうか。
「ありがとうな、助かるぜ」
 林檎をふたつ投げ渡せば少年はほっと頬を緩めた。「いつもどうやって盗んでるんだ?」と聞かれたが、「適当」としか答えられなかった。
 ひとつ何かを盗るたびに手が慣れてゆき、罪悪感は薄まった。それと同時に自分が許し難い悪人にも思えてくる。やはり父母の言うように己はろくでもない化物なのかもしれない。いくら善意で果実を分け与えたとしても、もとは他人から奪ったものだ。誰も誉めてはくれないだろう。
 盗人になり果てても肉親が側にいてくれる仲間が酷く羨ましかった。誰と話しても秘密を打ち明けることはできず、結局シュルトはひとりだった。生まれたときからずっと。
 雪の降る寒い日だった。仲間しか知らないはずの廃屋に、やつれた母がやって来たのは。
「シュルト……母さん迎えに来たのよ。一緒に帰りましょう」
 泣き崩れた彼女を見て少しだけ動揺した。優しげな言葉に動けなくなった。母は父を伴っていなかったし、温かい腕に自分を抱き締めてくれたから。
「父さんが勝手にお前を城へやろうとして、母さんやっと目が覚めたわ。もうあんな人とは暮らしていけない。これからはふたりで生きていきましょう。……ね? シュルトは嫌?」
 母はすべて父が悪いと捲くし立てる。今までシュルトに辛く当たってきたのも、そうしなければもっと酷いことになっていたからだと。
 違和感は覚えたが、初めて感じる母の温もりがすべてを曖昧にした。
 彼女の手に引かれ馬車に乗り、これからどこへ行くのと尋ねる。からからと車輪が回っていた。振り返れば街を離れていく馬車を裸足の兄妹が見送っていた。
「母さんの生まれ故郷よ。大丈夫、父さんはついてこないからシュルトは安心していいの」
 ついたら起こしてあげると言われ、母の胸に寄り掛かる。そんな風に眠ったのは初めてだった。

「――……」

 目が覚めるとシュルトは暗い地下室にいた。足には鉄の枷が嵌められていて、側にはあの日シュルトを迎えに来た城の使いが座っていた。
「ったく手間かけさせやがって。大人しくしてりゃ食うにも着るにも困らないってのに。あんな親元にいるよりよっぽどマシだと思うがね俺は」
 父も父なら母も母だ。どう足掻いても自分に夢は見させてくれないらしい。いくら積まれたのか聞けば良かった。そうしたら自分にも、それだけの価値はあるのだろうと思えたのに。
「……今日から何をさせられるわけ?」
 鎖の先の重りは子供の力では動かせそうになかった。風魔法で浮かせるにしても魔力の減りは尋常でなさそうである。
 使者の言う通りどこにいたって家よりはマシだ。金はもう彼らの懐だろう。ならこれ以上抵抗したところで意味がない。
「魔法使いの処遇なんぞ知らんよ。これからお前は王様に会って、軍のどこかの部隊に組み込まれるのさ」






 アラインの意識がシュルトの意識からペラリと剥がれ、暗闇に引き戻される。どうやらまた時間を移動するようだ。
 一年、二年、三年、――今度はどれくらい過ぎたのだろう。眼下に覗いたシュルトは十二、三歳くらいの容姿になっていた。光の届かぬ地下に個室を与えられており、皮膚には血の臭いが染みついている。笑顔はなく陰鬱そうだ。
 時計を確認したシュルトが部屋を出ていった後、アラインは机とベッドと本棚しかない彼の私室に降り立った。
 本当に不思議だ。こんな風に見知らぬ時代へ飛ぶことができるなんて。
 ともあれ何年経過したのか確かめるため、積み上げられていた記録帳を手に取ってみる。そこには日付だけでなく、魔法の種類と誰を何人殺したかまで詳細に記されていた。
「……!」
 アラインは思わず顔を顰める。一番下層の帳面と比べると七年ほど過ぎているのが知れた。類稀な魔法の才能を、シュルトは暗殺者として磨かされているらしい。
(可哀想に……。まだあんな年齢なのに……)
 壁に貼られた地図には知らない国の名前が並んでいた。だが大陸の形はなんとなく今の三日月大陸と似ている。辺境の国と魔界を合わせた領土にはルイーネ、兵士の国と勇者の国を合わせた領土にはシュロスと綴られていた。兄弟国なのか紋章は揃いの鷲で色違いだ。
(ふうん、昔の勇者の国ってこんなだったんだ)
 次にアラインの目に映ったのはドアに彫られた黒鷲のエンブレムだった。黒はルイーネ、白はシュロスの色である。これには「えっ!?」と目を瞠った。初めに会ったのが王都でのことだったし、てっきりシュルトはシュロス側の人間だとばかり思っていたのに。
(ってことはここはルイーネ? あれ? でもあの馬車の紋章は白鷲だったような……)
 もしかしてシュルトはそのうち祖国ルイーネを出て行くのだろうか。こんな汚れ仕事に手を染めておいて、足抜けなんてできるのだろうか?
(よくわからないけど、ややこしそうな境遇だぞ……)
 シュルトについても気がかりだし、気功師の言っていた破滅のルーツについてはもっと気がかりだ。それがシュルトのことを指しているなら、このまま彼を見張っていれば未来で破滅の魔法を封じ込めるヒントとなる行動を取ってくれるかもしれない。
「……」
 意を決してアラインは扉を開く。ドアの先は広い書庫になっていた。シュルトの部屋は魔道書保管所の奥にあったらしい。
「えっ!? ここってまさか……」
 既視感にぱちぱちと瞬きを繰り返す。そこはどう見ても魔王城の地下だった。何度も視察に訪れている場所だ。今更見間違うはずもない。
(……本当に勇者や魔王が生まれる前の時代なんだ……)
 物は試しと転移魔法で書庫の端まで移動してみたらあっさり成功した。時代が違っても認識が確かなら転移は可能らしい。それなら誰かに見つかっても大丈夫だろう。自信を得たアラインは城の奥へとずんずん進んだ。こうなったらもうヤケだ。開き直って見られるもの全部見て帰ってやる。
「っと……!」
 一階に上ると意外な人物と遭遇した。あちらは兵士に伴われ城に入ってきたところで、こちらは遠目に確認しただけだったが、ヘラヘラと愛想良く笑っているのはどう見てもシュルトの父親であった。
 他人事ながら「うげっ」と眉根を寄せる。まだ縁が切れていなかったとはシュルトも気の毒に。あの親では相当苦労させられているだろう。
「面会人を通します!」
「許可する。通って良し!」
 通行証を持った衛兵が門番に敬礼し、通路の奥へ消えて行く。シュルトの父と小さな女の子もその後に続いた。
(妹……かな?)
 群青色の髪を三つ編みにした幼女。黒を基調とした城で明るい髪はよく目立つ。
 ふむ、とアラインは喉を鳴らした。うまく移動できるといいのだが。
 ふたりの向かった先は中庭だろうと予測できた。玉座の間へと向かうなら中央階段を使うだろうし、迎賓の間も商人を待機させる小部屋もここより入り口側にあるからだ。
 果たしてアラインの考えは正しかった。見下ろした中庭にはシュルトたち親子が三人で向かい合っていた。冷徹な表情に複雑な感情を隠した少年は父を一瞥して眉間の皺を濃くした。
(あ、またか)
 俯瞰の視界が吸い寄せられる。意識が勝手に彼に寄り添おうとする。
 このトレースはどこへ続く?
 先はまだ見えない。






 ******






「はあ……」
 ビブリオテークでクライスの攻撃を受けて以来、ヴィーダはすっかり塞ぎ込んでいた。別に付いて来たくて付いて来たわけではないのだが、こうも相手に覇気がないと苛立ちを通り越して心配になってくる。エーデルは盛大に溜め息をつき、ぼんやりカメオを眺める男に収穫してきた果実をぶつけた。いつまで未練たらしく恋人の肖像画など見ているのだ。行動するならさっさと行動すればいいのに。
「痛いよエーデル……」
「当たり前でしょ! 痛くしてるのよ!」
「優しくないんだね……。まあ君も怒ってて当然か。ぼくのせいで戦争になってるんだもんね」
 グダグダうだうだと腐った男ほど鬱陶しいものはない。沸き立つ怒りに本当に吹き飛ばしてやろうかと考えてしまうが何とか思いとどまった。エーデルの中にも一抹の同情心はある。もし恋人に殺されかけたら、己とて今の彼など目でないくらい落ち込むだろう。世界規模での争いの発端となった男に甘いかもしれないが、二年も友人をやっていたのだ。できればあまり不幸になってほしくはなかった。勿論相応の責任は果たしてもらいたいとも思っているけれど。
「……それでどうするの? もう一度クライスに会うの? 会わないの?」
「……」
「……」
 沈黙するヴィーダをちらりと覗き、駄目ねこれはと一時放置を決める。魔物の血が流れていることでエーデルもかなり苦悩したが、あの頃の自分はここまで拗ねていただろうか。
「ハァ……」
 気分転換に窓の外を眺めればビブリオテーク軍の炊き出しの煙が見えた。
 エーデルたちは今ドリト島に隠れ潜んでいる。たまたまヴィーダの家が集落から外れたところにあったので今まで見つからずに済んでいるのだ。大賢者の力を使い、彼が家ごと幻術の中に隠しているのかもしれないが。
「……君こそ国に戻らないのかい? ぼくのことなんか放っておいたっていいんだよ?」
「何言ってるの。まだあなたからオリハルコンを返してもらってないでしょ」
「悪いけど返す気はないんだって。強い力を持ってなきゃぼくたちは自由でいられないんだ。絶対渡さない」
「けどその自由ってクライスと一緒にいるための自由でしょ? だったらこの時点で全然意味なんてないんじゃない?」
「い、嫌なこと言うなぁ」
「その自分だけが傷ついてますって顔もやめて」
「……」
 改めてヴィーダと話してみてわかったことが幾つかある。彼はかなり身勝手だ。クライスのことしか考えていないし、クライスさえ良ければいいという考えが根底に染みついている。エーデルやクラウディアにも似たような面がなくはないが、何が彼と違うのだろう。それとも違うと思っているのは自分だけで、傍から見れば我々は似た者同士なのだろうか。なんだかそれも釈然としない。
「……クライスには会うよ。誓いを思い出したとか言ってたけど、前世のことは前世のことだ。ちゃんと話し合えばわかってくれるはずだ」
 強い光が蒼い瞳に戻ったと思ったら、一瞬後にはまた萎れた。夢の中以外でも過去の出来事が甦るらしく、ヴィーダは少し辛そうだ。
 気功師に渡された大賢者の力。アラインのは前世の記憶など掘り起こさなかったのに、彼らの五芒星は記憶にまで干渉している。単純に巨大な魔力というわけでもないようだ。
 縋るような目で見るくせに、ヴィーダは前世で何があったか決して話そうとはしなかった。ただ多分、ろくでもない過去なのだろうという予感はした。
「破滅の魔法かぁ……」
 笑ってほしいだけなのになとヴィーダが呟く。
 それから彼はすっと立ち上がり星の刻まれた左手を掲げた。

「……勇者の都に彼女が来たみたいだ。君も行くかい?」

 蒼い眼差しはまだ揺れている。愛していないと言われることが怖いのだろう。その可能性のあることが。
 転移の光が周囲を包んだ。エーデルの伸ばした腕をヴィーダは紳士らしく受け止める。
(これからは君のような混血が増えるのが理想――か)
 どうしてかヒルンヒルトの言葉を思い出した。
 種族が違っても、住む国が違っても、仲良く暮らしていければいいのに。
 肌の色が違うとか、お前は魔物だろうとかいうくだらない偏見がなくなれば。
 争いになる理由はそれだけじゃないこともわかっているけれど。






 ******






 嫌になるほど転移は正確だった。こちらの大陸にさえ渡ってしまえば感覚的に飛べるようになるだろうとは推測していたが、己が未だに前世に囚われたままだという事実を突きつけられている気がする。
 クライスが飛んだのは古い時代に大図書館のあった場所だった。元々そこはシュロスの王城の一部であった。建物が老朽化したために書庫を残して他は取り壊されてしまったのだ。
 すべてを更地に戻さなかった理由は簡単だ。地下に聖石を隠していたから。冥界の出口を塞ぐオリハルコンの結晶――、まさかそれが破滅の魔法の重石になってくれるとまでは思いも寄らなかったけれど。

「……ここに杖を投げ入れればいいのですね?」

 今や勇者の屋敷”跡”と成り果てたそこに性別不詳の王妃が立つ。
 屋根や壁はほとんど残骸すらなくて、地面に開いた巨大な穴と、底に溜まった赤黒い光が異彩を放っていた。
 この地一帯にかけられていた幻術はクライスが解いた。魔法の主は今アペティート軍に拘束されているそうだ。そんな危険を冒してでも人の目に触れぬよう封じておくべきだと断じてくれたことに感謝する。
 これは我々の過ち。罪と罰の象徴だ。
「いきます……!」
 イヴォンヌの手からオリハルコンの聖杖が離れた。杖は真っ直ぐ、噴き出す前のマグマにも似た魔法に向かい投げ込まれる。先端が魔法に触れると表面が波打ち、聖石はずぶずぶと破滅の内部に沈んでいった。しばらく眺めていたけれど反応は皆無。ただオリハルコンが視認できなくなっただけである。
「……これでアラインは帰ってこれるようになるのでしょうか……?」
 やや不安げに王妃が尋ねた。「わからないわ」と答えたのは側にいた聖女の霊だ。
「せめてもうひとつ元に戻せれば……」
 イヴォンヌはそうクライスに目線を寄越すが見なかったふりをする。
 この短剣はまだ返せない。彼と決着をつけるまでは。
「封印に関しては静観するしかないな。それよりもヴィーダだ。ここへ来るという話だったろう?」
 もうひとりの霊体がそう言ってクライスを振り返った。彼もまた高い魔力を有した賢人である。
「……」
 右手の五芒星を見つめ、対となっている力の所在を確かめる。
 どこにいてもわかるというわけではない。それでも相手が隠そうとしていなければ感知するのは容易かった。
「もう来てるわ」
 クライスの声に全員武器を取り身構えた。顔を上げると何もない空が歪んで黒く濁る。その濁りの中から現れたのはひと組の男女だった。ひとりはよくよく見知った男。ひとりは竜の翼を広げた暗い肌の女。
「エーデル!!」
「ヴィーダ……!!」
 金髪の兄弟がキッと上空を睨みつける。アンザーツやマハトも臨戦態勢だ。
 周囲には構うことなくクライスは風を纏った。首裏に隠したオリハルコンの短剣を手に恋人と対峙する。
 向かい合ったヴィーダは悲愴な顔をしていた。そんな風に気を引いたってもう無駄なのに。
「……この目に破滅の魔法を見て、あなたを殺す決意がもっと固まったところよ」
「クライス!!」
 騙されない、今生こそは。彼が何を言っても必ず殺す。そうしなければもう後がないのだから。
 雨雲を天に集めたクライスは高く腕を掲げ、聖石に雷を宿らせた。バチバチと弾ける火花が暗くなった視界を照らす。濃灰の曇天が裾野を広げる。
 誓いを果たす。今日こそ必ず。
「ちょっと待って!」
 不意にエーデルと呼ばれた女が大きく翼を揺らした。一歩前に飛び出して、何を言うかと思えば「もう少し話し合えないの?」などとのたまう。彼女には前回も邪魔をされた。こちらの事情など何も知らないくせに、同情だけで割り込んでこないでほしい。記憶と力が戻った今、クライスを止められるものなどありはしないのだ。
「あなたに関係ないでしょう」
 短剣を振り抜くと同時、雷撃はヴィーダに襲いかかった。衝撃波がエーデルを吹き飛ばしたが気にせず間合いを詰める。似たような大きさのオリハルコンを握り締め、ヴィーダは防戦に回った。彼が持つのは切り裂くタイプの短刀で、クライスが持つのは突き刺すタイプの短剣だ。似通っていたとしてもやはり違う。はじめこそ同じ生き物だったのかもしれないけれど。
「どうしてぼくを殺そうとするんだ!? 君の言っていた誓いってなんなんだ!?」
 この期に及んでわけがわからないという意思表示をしてみせる彼に、苛立ちよりも諦めを強く感じた。思い出しているくせに答えを導き出せないなんて。
「わかっているんでしょう? 私たちが何なのか。どうしてあんな魔法が甦ろうとしているのか……!」
 無数に浮かべた炎の塊を次々ヴィーダに向けて放つ。攻撃は結界に退けられ消滅するが、頭上から落とした魔法には気づいていなかったようだった。直撃を受けたヴィーダが空中でよろける。畳みかけるべく火球で追撃する。だが彼は転移によってうまく逃げおおせていたらしい。真後ろに気配を感じ振り向くと光魔法で回復済みのヴィーダがこちらを見つめていた。表情から察するにまだ反撃しようという気は起きていないようだ。――でもそれは彼が優しいからじゃない。そんなことはとっくに悟っていた。
「……破滅の魔法はあなたと私の魂を嗅ぎつけて地表まで這い出てきたのよ。私たちのせいで封印が解けてしまったも同然だわ」
「……」
 恋人は何も言わない。都合の悪いことは直視したくないのだ。それがクライスの言であってもだ。
 思えば昔から彼はそうだった。ずっとずっと昔から。
「もうあんなものに振り回されて生きるのは嫌なの。破滅や滅亡なんてものとは縁を切りたいのよ……! 一体何度世界を壊してきたと思っているの? それなのに私があなたを殺そうとする理由がわからない? 私たちさえいなくなれば、あの魔法も動きを止めると知っているくせに!!」
 巻き起こした突風にヴィーダは耐えた。彼の前で声を荒げるなど初めてだった。あの国では一切の感情を捨てて過ごしてきたから。
 ドリト島に移ってからもそうだった。笑ったり泣いたりしなかった。見かけだけ自由でも仕方がなかった。

「あなたを殺して私も死ぬわ。……今度こそ滅びの運命を脱するの」

 それが誓いよとクライスは短剣を振り翳す。刺突は同じ聖石の刃によって妨げられた。ガキンと剣戟が虚空に響く。






 よろめきながら羽ばたくエーデルの元へディアマントは飛び急いだ。
 ビブリオテークで離れ離れになって以来ずっと心配していたので、ひとまず五体満足な様子にホッとする。少々ヴィーダにほだされている風なのが引っ掛かったが、憐憫の情の強い女だからそれはまあ良しとしよう。今はそれよりも気にかかることがある。
「あの連中は一体何の話をしているんだ? あのふたりがいなければ破滅の魔法が止まるというのは本当か?」
「あたしも初めて聞いたわよ。大賢者の力と何か関係あるのかしら? ヴィーダは前世の夢を見るみたいだったけど……」
 もう割り込める雰囲気じゃないわねと上空を見つめてエーデルが嘆息する。大賢者同士の激しい戦いはまさに嵐そのものだった。七色の魔法が縦横無尽に空を駆ける。爆風に煽られた都の建物は一部音を立てて崩落した。
 こんなの嫌だとヴィーダの絶叫が響き渡る。説得できる相手かどうかも最早彼には判別がつかないようだった。

「今のぼくらには力がある! たとえ破滅の魔法が発動したってふたりで生き残れるじゃないか! 生まれてからずっと国同士の争いに苦しめられてきたんだ。世界なんてどうなったって構わないだろう? ぼくは君以外の人間が何人死のうとどうだっていい!! あんな魔法のこと放っておけばいい!!!!」

 ディアマントの隣でエーデルががっくりと項垂れた。「あの馬鹿……」とぼやきながら戦慄く手で額を抑えている。
 どうやらヴィーダは恋人と世界を秤にかけて、恋人の方を取ったようだ。その選択自体はディアマントにも理解できる。だが甚大な被害をもたらすとわかっている強大な魔法を放っておけばいいと言い切ってしまうのは少々どころでなく問題だろう。しかもクライスの方は危機を回避するために自ら死ぬとまで言っているのに。
「なんでああなのあの男……!? あれじゃ話し合いになるわけないわ。自分の言いたいこと言ってるだけだもの……!!」
 エーデルは甚く立腹している様子だった。だがこの距離からでは何を叫んでも届くまい。ひとまず地上へ降りようと告げるとしょげた顔をしてついてくる。
「エーデル! 無事で良かった……!」
「クラウディア……っ」
 感動の再会を果たすふたりを横目にディアマントは咳払いした。別にいちゃいちゃするなとは言わないが、先に考えるべきことがあるだろう。
「どうする? クライスに加勢すべきだと思うか? 物騒なことを口走っていたようだが」
「彼らをふたりとも殺してしまえば破滅が止まるなんて後味の悪い話ですよね。アラインさんは嫌がると思いますよ、そういう勇者らしくないこと」
「……だろうな」
 どうしたものかと明滅を繰り返す天を仰ぐ。大魔法の応酬で目が眩しい。
 クライスはどんな気持ちでヴィーダに攻撃しているのだろう。彼女とて本音では他の道を探したいのではないのだろうか。少なくとも、本当に殺意があるならもっとやりようがあるように思うが。

「あなたはいつもそう……! 私のためにと言いながら私の望んでいないことをする。生まれ変わっても何ひとつ変わってない…!!」
「ッ……!!」

 彼女の罵倒にヴィーダが怯んだ。その隙を突きクライスは無数の氷柱を放つ。氷柱の次は炎の矢、その次はかまいたち。怒涛の波状攻撃である。

「城から逃げようと言ったときもそう。私はいつ死んだって良かったのに、あなたのために生かされた。新大陸へ渡ると決めたときもそう。私、あなたに頼んだ? 自由になりたいから戦争を起こしてと言った? ずっとその逆だったでしょう!?」

 クライスは怒っているようにも見えたし、わかりあえないことを嘆いているようにも見えた。対照的にヴィーダの方はどんどん口数が少なくなっていく。どちらかと言えば饒舌な男であるのに、今は完全に彼女に気圧されていた。

「君のためだって死体を積み上げられて、本気で私が喜ぶと思ってたの? そんな馬鹿げた幸せをくれるつもりでいたの? 私にはあなたの愛が信じられない……!!」

 息つく暇もなかった攻撃が唐突に止んだ。ヴィーダはすべてかわしきっていたけれど、少し肩で息をしていた。表情には疲労より狼狽が見て取れる。

「本当に私を愛してるなら、私の意志を尊重して。一度くらい私の願いをあなたが叶えてよ……!!」

 雷鳴が轟く。クライスの叫びと共鳴するように。
 一緒に死んでと乞われてもヴィーダは頷かなかった。彼はただ苦しげに眉根を寄せるだけだった。











 瓦礫に埋もれた街にまた瓦礫が降り積もる。そろそろアペティートの見張り兵にも見咎められている頃だろう。恐ろしくて近寄ってこれないだろうとは思うが警戒するに越したことはない。彼らと戦闘になる前にアラインが脱出してきてくれればベストなのだが。
 アンザーツは生家の敷地にできた蟻地獄を見下ろした。レギの杖を飲み込んだまま破滅の魔法は微動だにしない。禍々しく凶暴な力をまだ身の内に溜め込んでいる。
「……ねえ、クライスはどうしてあれを止めたいのかな?」
「え?」
「どういうこった?」
 大賢者同士の戦闘に割って入ることもできず、手持無沙汰な仲間たちが怪訝な表情を見せた。ゲシュタルトもマハトも問いの意味がわからないという顔だ。
「だって彼女は勇者でも何でもないんだよ? 自分のために生きるなら、それこそヴィーダの言うように破滅の魔法なんて知らんぷりするんじゃないかと思うんだけど」
「……それもそうだな……」
 最初にヒルンヒルトが同意した。やりたくなければ勇者なんてやめてしまえとアンザーツに言ってくれたのは彼だった。
「自分の命を捨てて、恋人を殺してでも守りたいものがあるってこと?」
 ゲシュタルトが「そんな風には見えないけど」とクライスを見上げて呟く。イヴォンヌとマハトは顰め面のままだんまりだ。どうも破滅の魔法に関しては不透明なことが多すぎる。あのふたりの事情を含めて。

「彼女は運命を変えようとしているのですよ」

 と、そのとき見知らぬ誰かの声が響いた。
 いつの間に現れたのか、ヒーナの民族衣装を着た青年が間近に佇んでいた。
 布に隠れて顔の造形はわからない。否、顔など最初からないのかもしれない。異形の者だけが纏う空気で何者なのかはすぐに見当がついた。――レギの言っていた気功師だ。クライスやヴィーダに五芒星を与えたという。
「……運命?」
 問い返しつつ剣を構える。マハトがイヴォンヌを庇って前に立ち、ゲシュタルトが結界を張った。
 だが気功師は特にこちらと敵対する気はないようだ。呪文を唱える様子もなく、ただ上空のふたりを仰ぎ見ている。
「ええ、運命です。もっと正確に言えばその澱みですが……」
「悪いが我々にもわかるように話してもらえるか? あまり気の長い方ではなくてな」
 攻撃魔法を掌に宿したヒルンヒルトをアンザーツはそっと制した。仕掛けたところでおそらく無意味だ。レギから彼は不死なる者だと聞いている。どこまで本当かは知らないけれど。
「吹き溜まりをご存知でしょう? 流れ、回帰するものは必ずどこかに澱みを生み出す。川の流れが澱むよう、運命もまた澱むのです。あなた方はそれを星と呼んでいるはず」
 星――、確かにレギがそう言っていた。疑うことから抜け出せない己の星はきっと疑心暗鬼なのだと。

「誰しもひとつは己の宿命を持っています。ですが大抵は弱きもの、他に強いうねりがあれば容易く飲まれ巻き込まれていく。同じ業を背負い続ける魂もごく稀です。普通の運命は他者のそれに触れ変化していくものですから。……けれど中には、どれだけ時代を経たとしても変わらない、そういう不変の澱みがあるのですよ」

 気功師の言葉はある種の預言であった。あのふたりが何度も同じ星の下に生まれてきているのなら、同じ数だけ彼らの運命が繰り返されてきたはずだ。クライスの言う滅びの運命が。

「彼らの魂はふたつでひとつ。別々の時代に生まれたときは他の人間と同じよう何の変哲もない人生を歩むけれど、ひとたび出会えば必ず結びつき世界を破壊する意志となる。星を落とすには彼ら自身の手で破滅を回避し互いの縁を切るしかありません。クライスの選んだ方法が無理心中ということでしょう」

 あまりに淡々と語られるので聞いているこちらの頭が痛くなってくる。要するに、彼らが死ぬか世界が死ぬかの二択しか用意されていないということではないか。
「だったら何故ふたりに手を貸した? お前は最初から彼らのさだめを知っていたのだろう?」
 止める間もなくヒルンヒルトが空を裂いた。逃げられないよう四肢の一部を切断するつもりだったようだが、風は気功師をすり抜けて真後ろの商家に直撃する。平然と浮かぶ彼には傷ひとつない。すべてが元のままだった。
「手を貸したわけではありません。彼らのための力を保存し、引き渡したというだけで」
 マハトやクラウディアに取り囲まれても気功師に焦りの色は皆無だった。決して捕らえられず、傷つけることも叶わない。やはりこれは人ではないのだ。

「私はただ運命の流れる先を見届けるだけの意思なき存在。肉体も魂も持たない、澱んだ力の器に過ぎません」

 神かと尋ねたディアマントに気功師は首を振った。神はもういないのですと。
 砂の城が崩れるように気功師の形が歪む。さらさらと細かな粒が風に消え、彼はいなくなってしまった。まるでもう見るべきものはすべて目にしたと言わんばかりだ。頭上では今もヴィーダとクライスが魔力を削り合っているのに。
 ――ドオンと耳を劈く砲撃音が響いたのはそのときだった。
 ハッとして海を見やればアペティートの戦列艦が沖に向かい何発も大砲を撃っている。水平線にはビブリオテークの船団が見えた。
 時間をかけすぎたのだ。じきにここも戦場になるかもしれない。
「ヒルト、アラインの封印を守って! ディアマントとエーデルは上だ!!」
 賢者ふたりの空中戦を避けつつアンザーツは天高く舞い上がる。クライスたちは一瞬ちらりと海の様子を確かめた後、また魔法合戦を再開した。そんなものに構っている暇はないということか。
 ビブリオテークは船団を二つに分けて進んできていた。前方で砲撃を受けているのはおそらく囮だろう。本命は東から船首を狙う主力艦だ。アペティートの船もビブリオテークの船も砲台は左舷にしかない。無防備な頭を攻撃されればひとたまりもないはずだ。
(折角レギが戦争を止めるように呼びかけてくれたのに……!!)
 悔しさで歯を食いしばる。急いで海へ向かおうとしたアンザーツを引き留めたのはディアマントだった。
 強くこちらの肩を掴んだ彼が南方の空を見上げて眉根を寄せている。何と尋ねようとしてアンザーツもあんぐり口を開いた。
 鉄の塊が浮いている。たくさんの虫羽を震わせて。

「飛行艇だ、多分。ノーティッツの言っていた……」






 ******






 知らなかった。
 悲しいとか、つらいとか、感じすぎると飽和してしまうものなんだって。
 いつも楽しかったから。
 何か腹の立つことがあってもすぐに忘れられたから。
 ――あいつの隣では。

 床に放り出していた腕を誰かが取って袖を捲る。どうやら投薬の時間らしい。
 あれきりずっと脱力したまま起き上がれずにいた。
 視界は暗く、何も映そうとしていない。四肢は緩んで一切の行動を拒絶している。
 もう動きたくなかった。脅されていることもどうでも良かった。
 いつでも一番に守ってきたものを守れなかったのだ。
 自分の手で壊してしまった。
 大事だったのに。
 誰よりも、何よりも。

「……おい、薬は打てたか?」
「はい。今終わりました。ビブリオテーク船が見えたそうですね?」
「じきに俺たちも参戦するぞ。魔法使いにちゃんと準備させておけよ」
「わかりました!」

 誰かの声が耳鳴りに変わる。頭の奥でこだましてうるさい。
 もう嫌だ。これ以上どこへ連れて行く気だ。
 こんなことには耐えられない。
 支えになっていたものまで失って。

(帰りたい……)

 「どこに?」と自問の声がする。
 母の待つ我が家でも、王の待つ都でもないだろう。帰りたかったところは。

(帰れない……)

 ひとつしかない自分の居場所。
 ここだと決めてもう何年も過ぎた場所。
 どこにもない。
 どこを探したって、もう。
 だって。

「はっ……、ぅ……っ」

 呼吸が乱れ、汗が噴き出す。昂揚感などあるわけもなく心は真っ黒に塗り潰された。
 強い暗示をかける薬だ。いくら理性で理解していても防衛効果などありはしない。
 胸の底を引っ掻き回され一番痛む傷を暴かれる。
 帰れるわけがないという事実を突きつけてくる。
 だってあいつは――ベルクはぼくが殺してしまったんだから。

「……なんだ? そいつ様子がおかしくないか?」

 心臓が早鐘を打った。息が苦しくて肺を叩いた。けれどどちらの手にも力が入らない。
 バッドトリップなら何度か経験済みだ。でも今回のは段違いだった。
 止められない。悲しくて悲しくて、いっそ壊れて楽になりたくて、他にどうしようもない。

(ベルク……)

 ぼくが駄目にしてしまったんだ。
 ぼくがあいつをちゃんと見れなかったから。あいつから目を逸らしたから。

(ベルク、ころした……、ぼくの魔法で――……)

 ニコラが死んでしまったこと、なんて話せばいいのかわからなくて逃げたから。
 ぼくが、全部。
 ぼくが……。






「ッ……あああぁぁぁぁあーーーーー!!!!!!!!!!!」

 爆発音と慟哭はほぼ同時に館内に響き渡った。間を置かず通路が煙に巻かれ、吹き飛んだ格子扉の反対側に燃え盛る炎が映る。
 収監部屋から飛び出してきたのは特務隊のひとりだった。いつも捕虜に薬物を打っている女だ。彼女はハンスのすぐ脇を走り抜けて行き、総司令官に「大変です!!」と報告した。
 一体何が起きたというのだろう。水の入った樽を担いで問題の部屋に駆け込むと、火の海と化した室内に誰かが横たわっているのが見えた。
 魔力が暴走するものだという知識はこの時点ではアペティート軍の誰にもなかった。制御不能の炎が鉄の壁を舐め、ゼファーを墜落させようとしている。わかったのはそれだけだった。
「あいつがやったのか……!?」
 今までは利口な操り人形だったからだろう。流石のブルフもしばし呆けて立ち尽くしていた。
 こんな空の上で、しかも魔法による出火だ。鎮火は容易なことではない。
「水だ、水をもっと運べ!! おい、お前は人質を連れて来い!!」
 視覚的なショックを与えて正気に戻そうというのだろうか。ハンスはブルフに簡易牢の鍵を渡された。緊急事態の報せを受けて艦内の兵たちが続々と集まってくる。バケツリレーで消火活動が始まった。
(ノーティッツさん……!)
 居ても立ってもいられずにハンスはその場を駆け出した。
 あの異国の魔法使いを苦しめる元凶となったのはそもそも自分だ。どうしても気になって何度も様子を窺おうとしたけれど、今日までずっと勇気がなくてできなかった。
 ちゃんと逃げろと言えば良かったのだ。あのとき、監視塔ですれ違ったとき。
 廊下からちらりと覗いた魔法使いは起きているのに眠っているようで、暗い瞳には何も映していなかった。ハンスが通りがかっても誰かわからなかったようだ。罵るくらいしてくれて良いのに。
 荒れた炎が術者の身体を取り巻いてもまったく反応せず、彼はもう死んでしまおうとしているようだった。
(くそ……! 何やってるんだオレ……!!)
 ドリト島で暮らす家族を盾にしてきたのはブルフだ。ハンスの言葉を半分嘘と知りもしないで協力してくれたのはノーティッツだ。
 報復を恐れてなんてことをしてしまったのだろう。彼本人のことだけじゃない。魔法使いの作らされた呪符はもっとたくさんの人間を殺すだろうに。
(でもオレにはどうしようもない……)
 階段を駆け下りて牢の鍵を開ける。人質の夫妻に銃を突きつけ「出ろ!」と命じながら、内心酷く狼狽していた。
 これからどうなってしまうのだろう。直接戦場に出なくていいよう通信兵になったのに、人殺しにはなりたくなかったのに、本末転倒だ。
(卑怯なことをしたからだ……)
 ブルフに正義などないとわかっていたのに、怖くて逆らえなかったから。
 もう取り返しなんてつかない。魔法使いは死んでしまうに違いない。

「うわ……ッ!」

 廊下に出ると先程より数段濃くなった煙が行く手を阻んだ。黒い肌の夫妻もハンスもげほごほと咳き込む。身を屈めたところで無意味だったので、嵌め殺しの窓を長銃で叩き割り外の空気を肺に吸った。
 そのときだった。眼下の雲に妙な影が映り込んでいるのに気がついたのは。
「……!?」
 見上げると青い羽の巨大な鳥が飛んでいた。
 その背中から船に向かって飛び降りてくる人影がある。
「あ……っ!!」
 ドリト島で魔法使いにおぶってもらったことを思い出した。そうして空を飛んでもらったことを。
 新大陸は不思議の国だ。アペティートでは起こらないことが起きても少しもおかしくない。
 ハンスは踵を返し、船尾へと向かった。外から取りつく場所があるとすればそこしかなかった。手狭ながら出入口の前には足場がある。

「――」

 その男は鉄製の扉を蹴破り突入してきた。右手には白く輝く剣を持ち、強く迷いのない目をしている。
 枯れた声で夫妻が男の名を呟くのが聞こえた。
 勇者なんて言葉は知らなかった。
 けれど己でも知らぬ間に、ハンスは「助けてください」と懇願していた。






 勝算や考えがあって踏み込んだわけではない。飛行艇から火が吹くのが見えたから、これが最後のチャンスだと直感したまでだった。まさか扉を開けてすぐに島の知人に会うとは思わなかったけれど。
「あれ!? ニコラのとこの……!?」
「あ、ベ、ベルクさん……っ」
 痩せ細った夫妻の顔には疲弊の色が滲んでいた。彼らの後ろでアペティート兵が銃を取り落とす。何故か助けてほしいと乞われ、続いて降りてきたツヴァングと共に男の事情を聞かせてもらった。
「魔法使いが……、ノーティッツさんが死にそうなんです。炎が勝手に船を焼いて、それで」
 オレのせいでと兵士は喉を震わせる。家族を助けてもらったのにと。
 そう聞いて合点がいった。おそらく彼はディアマントが島まで送り届けたハンスとかいう兵士なのだろう。まだ軍に所属していたとは知らなかった。この状況で自分のせいなどと口走るということは、大なり小なり後ろめたい真似をしてくれていそうである。
(死にそうってなんだよ、あの馬鹿!)
 だがそれ以上は詳しく聞いている暇がなかった。どう見ても人質にされていたのであろうニコラの両親をツヴァングに預け、ベルクは煙の充満する廊下をじっと見据えた。奥の方で時折ちらちら光るのは火炎の振り撒く火の粉だろうか。
「どうなってるのかわかんねぇけど、とりあえず行ってくるわ」
「おい! ひとりで行く気か? さっきの二の舞になるんじゃないのか!?」
 ツヴァングは夫妻をラウダに乗せるまで待てと言うが、幼馴染の一大事と聞いて大人しくしていられるほど暢気な性分ではない。ただでさえこんなに遅くなってしまったのだ。もし魔力をコントロールできなくなるほど正気を失くしているのなら、それこそ自分がひとりで行ってやらねばならなかった。
「あいつ他人に格好悪ィとこ見られんの嫌いなんだよ。……ここまで付き合ってくれてありがとうな」
 苦笑いでツヴァングを振り返る。嘆息を返した青年に背を向けて、ベルクは深く腰を落とし剣を構えた。
 祈るなんて柄じゃない。でもそんなものであいつを助けられるなら、いくらだって祈ってやる。
(だから頼むぜオリハルコン……!)
 放ったのは道を開くための一閃。
 濁った空気は剣圧に押しのけられ、一瞬視界がクリアになる。
 燃えている部屋がどこなのかはすぐにわかった。皓々と朱に光って、まるで自分はここにいるんだと主張するかのようだ。
 突然の侵入者に驚き戸惑う兵士たちを次々と薙ぎ払い、混乱に乗じてベルクは進んだ。途中何度か発砲されたが頬を掠める程度で済んだ。
(元に戻れるよな、俺たち……)
 虚ろな顔の幼馴染を思い返して唇を噛む。
 ウェヌスが寝ぼけたことを言って、ノーティッツがにやにや笑う。
 そんな日常に早く帰りたいんだ。






 痛くない。
 熱くない。
 もう何も感じない――。

(……ベルク……)

 鉄を溶かす冷たい炎をじっと見ていた。一切の思考を放棄して。
 兵隊たちは何事か叫びながら懸命に火を消そうとする。
 何だか気に入らなくて、無性に腹が立って、魔力を注ぎ直したら余計うるさくがなりたてられた。
 頭の奥までガンガン響く声なのに、なんて言っているのかは聞き取れない。
 同じく目の前にある顔も、誰の顔だったか忘れてしまった。

 ――ハヤクヒヲケセ? 何のこと?

 何もわかりたくなかった。考える意味もなかった。
 だって今までずっと己の頭脳はあの男のためにあったのだ。
 ならもう何を考えたところで仕方がないじゃないか。
 耳元で舌打ちが響く。
 扱いかねる危険物なら処分した方がマシだと判断したのだろう。胸倉を掴んでいた男はこちらの頭に銃口を押し当てた。
 恐怖はなかった。ああ死ねるのかと安堵の気持ちが湧き上がってきただけだった。
 術にもよるが、こんな炎は主を亡くせばすぐ消える。賢明な判断だ。
(冥界に行けば会えるかなあ……)
 あいつにも、ニコラにも。
 怒られたり無視されたりはしないだろうか。
 それよりも自分の方がふたりから隠れてしまいそうだけれど。
(何にもできなかったや……)
 残った人質はどうなるのだろう。オリハルコンは。アラインは。兵士の国は。ベルクの子供は。
 でももう考えるのも億劫だ。早く全部が終わってほしい。終わりにしてほしい――。

「そこまでだ!」

 耳によく馴染むその声は半分幻聴じみて聞こえた。
 引き金を引こうとしていたブルフの身体が部屋の奥まで吹き飛ばされる。
 こんなのは幻だ。都合の良い白昼夢だ。
 来るわけないのだ。あいつはさっき死んだのだから。
 だってほらまたわからなくなった。
 現れた男は影のままだ。ぼくの炎では彼の顔まで照らせない。






「……しぶといねぇ王子様。魔法使いでもないくせにどうやって戻ってきた?」
 唇から垂れた血を拭いつつ、ブルフが身を起き上がらせる。廊下にいた兵士たちは全員伸したが室内にはまだ武装した男が何人も残っていた。
 総司令の目配せで唯一の出口が塞がれる。炎はまだ赤々と燃えている。
「空飛んだに決まってるだろ? 帰るから兵を退かせよ。それとも壁に大穴開けられたいか?」
 睨み合ったのは一瞬だった。足元で急に苦しみ出した幼馴染に気を取られ、注意が逸れてしまった。
「……ッ!!」
「ちっ……!!」
 連続で発射された弾丸を剣の腹で弾き返す。ノーティッツを庇いつつ、神鳥の剣が生み出す風圧でブルフを牽制した。当然のことだが相手は一対一でなど勝負を進めてはくれない。すぐさま兵に「撃て!」と命じ、ブルフは窓側にいた数人に一斉射撃を開始させた。それもなんとか刃を返して凌ぎ切る。だが矢継ぎ早に壁側の兵にも銃を向けられ顔を顰めた。
「――!!」
 距離もないし間に合わない。痛みを覚悟した瞬間、強い旋風が室内の何もかもを吹き飛ばした。
「うわああぁ!!」
「ぎゃあーッ!!!!」
 巻き込まれた兵士が壁や天井にぶつかって転がる。ブルフもこの状況に応じきれていないようだった。
 風の中心にいたのはノーティッツだった。目を覚まして手を貸してくれたのかと喜ぶが、すぐにぬか喜びだったと知れる。
 蹲る幼馴染の顔は真っ青だった。とても意識があってやっているようには思えない。ただの暴走だ。
「魔法使い!! その男を殺せ!!!!」
 ブルフの声にノーティッツは明らかに反応した。びくりと肩を震わせて浅い呼吸を繰り返す。
「ノーティッツ!!」
「……ッ、……ぅぁ……っ!!」
 命令を聞くように刷り込まれているのだろうか。宙に浮いた右手は何かの陣を描こうとして小刻みに揺れた。額を抑えていた左手は真下にずれて、幼馴染の視界を覆い隠してしまう。
「ノーティッツ、おい! やめろよ!!」
 叫んでも手は止まらない。風もまだ止まなかった。煽られた火が勢いを増し、壁と床を焦げつかせている。熱はじりじり水分を奪って喉を焼いた。息苦しいし、煙は目に染みるし、あまり長くここにいるのはまずそうだ。
(まだ俺が誰だかわかんねえのかよ……!!)
 完成に近づく魔法陣を睨んで歯噛みする。
 十年来の付き合いなのにままならぬものだ。ウェヌスが記憶を失くしたときもえらくやきもきさせられたけれど。
「……いいぜ、だったら殺してみろよ。命預けるなんざ初めてのことでもねぇもんな」
 白旗を上げたつもりで無理矢理笑った。
 必死こいて呼びかけて何をやっているんだ俺は。そこじゃないだろう、本気出さねばならぬところは。
 思い出させたいのならいつもの自分を見せればいいだけだ。背中なんてガラ空きで構わない。
 目的を履き違えるな。今やらなきゃいけないことはこいつを正気に戻すことじゃない。ちゃんと連れて帰ることだろう。
「あんま暴れんじゃねえぞ、相棒……!」
 痩せた幼馴染の身体を担ぎ上げると同時、風魔法が完成して真空波がベルクの肩を切り裂いた。噴き出した大量の血で手が滑るのが難儀だったが気にせず剣を持ち直す。
「殺せ!!!! 早く!!!!!!」
 背中を掴むノーティッツの手が炎を纏い、激痛と共に皮膚が爛れた。
 それでも両足の力は抜かず、しっかりと幼馴染を抱えたまま前へ進む。
 三十六計逃げるに如かずだ。外にさえ飛び出せれば後はラウダがなんとかしてくれる。
「クソガキが……! 止まれ、貴様!! こっちにゃまだドリト島から連れてきている人質がいるんだぜ!!」
「ああ、悪ィけどそれもう解決済みなんだわ」
「……!?」
 ブルフの行動は早かった。己の不利を瞬時に理解した男は、隠し持っていた呪符を取り出しベルクに向けて発動させた。最早ノーティッツを回収する気もないようだ。この切り捨てるべきものを即切り捨てる躊躇のなさが彼の才覚のひとつなのだろう。

「――……ッ!!」

 だが小爆発は脆くなっていた壁の一部を吹き飛ばしただけだった。必要としていた脱出口をわざわざ近くに作ってもらえて、こちらとしては有り難いのひとことだ。
「貴様どうして……!」
 致命傷どころか火傷ひとつ負っていないベルクの姿にブルフは目を瞠った。ノーティッツの魔法でできた傷も綺麗に塞がり、服と鎧に痕跡が残るのみである。
「勇者ってのは不死身なんだ」
 裂けた袖の隙間から内側に貼り付けた回復用の呪符を見せてやると、ブルフは銃に残った弾丸を間髪入れず撃ち込んできた。壁面の穴に倒れ込むようジャンプして最後の一撃をひらりとかわし、空中にダイブする。
「っしゃ! 任務完了だぜ!」
 落下と共に近かった雲はどんどん遠ざかっていった。煙を噴き出す飛行艇も同じく小さくなっていく。
 ノーティッツの手はまだ高温を保っていた。何かあったときのためにとクラウディアから貰った呪符はさっきので効力が尽きたらしい。増幅していく肩の痛みに思わず呻き声を上げる。
「……おいクソノーティッツ。いい加減わかれよ、俺だよ」
 こちらの声が聞こえていないのか返事はない。それが嫌に不安を誘った。まさか一生このままなんてことはないと思うが。
 視界の端にラウダが旋回してくるのが映る。ともかくこれでは拾ってもらうのも危なっかしい。心の中で悪いと詫びつつ物理的に眠ってもらうことにした。
「……ッ」
 首裏に手刀を繰り出すとノーティッツの魔法は消えた。ずり落ちていかないように腕を伸ばして胴体を支える。
 確かに取り返したはずなのに焦燥は胸にこびりついたままだった。
 早く名前呼べよ、馬鹿。






 ******






 航行は順調、すべて予定通りだ。沈みゆくアペティートの戦列艦を見据えてアヒムは司令官を呼んだ。
 いかに優れた兵器を持っていても使う者の頭がなければ脅威には成り得ない。このまま勇者の国に入り、まずは都を制圧する。それからヒーナに横槍を入れられる前に、あの国の連中を追い出してやるのだ。
「首長、港に入るのはちょいと危険です。どういうわけか知りませんが魔法使い同士がやり合ってるようですぜ」
「何?」
 詳しく尋ねようとするも大きな声では言えない話らしく、インゴは長い単眼鏡を手渡してきた。彼の手が指差す方に筒の先を向け稲光の源を探す。
 ――魔法使いとやらはすぐに見つけられた。ひとりは金髪の青年で、もうひとりは亡き妻と瓜ふたつの娘だった。どうも妖しげな術を使えるようだと部下から聞いてはいたが、空まで飛べるとは知らなかった。
「……ありゃあヴィーダ皇子とお嬢さんじゃあないですかねぇ……?」
 インゴに単眼鏡を押しつけ返すとアヒムは操舵室に急ぐ。足音に戸惑いと怒りが滲み出ているのを自覚して、眉間の皺はより濃くなった。
(馬鹿者が……! 何故あんな男と密会を……!)
 敵対し、憎み合っているならば良い。だがあのふたりはドリト島で一緒に暮らしていたという噂もある。もし同胞を裏切るようなら血を分けた娘とて許すわけにいかない。
「船を動かせ。この一隻でいい、できる限り港に接近させろ」
「どうするおつもりで? 首長」
「……いざというときには私が引導を渡さねばならん。銃を持て。一番射撃距離の長い物だ」
 忌々しい。アペティートはいつも暴虐に奪って行く。制海権も、妻も、娘も。
(決してなびくなと教えたはずだぞクライス……!!)
 記憶の中の娘はずっと七つの頃のままだ。年若くして逝った伴侶も。
 おそらくアヒム自身も十五年前から変われていないのだろう。そして祖国も同じように。
 ビブリオテークがアペティートを許す日は来ない。
 それがわからぬ娘ではないと思いたかった。






 ヴィーダとクライスの死闘にはなかなか終わりが見えなかった。
 同じ大賢者の力を持つふたりだが、魔法の扱いに長けているのは明らかにクライスであった。ヴィーダが結界を張っても構成が単純であれば攻撃しつつ分解してしまう。とは言え守りに徹する彼よりも彼女の方が消耗は激しかった。何度か大技を繰り出しているが、すべて転移魔法で回避されている。先に魔力が底尽きた方が敗北するだろう。それがヴィーダならとどめを刺されるのと同義であった。
「……まだ終わりそうにねえな。よく魔力がもつぜ」
「量だけならツエントルムの方がまだ上だよ。だが質的に特殊であるのは間違いないな」
 アンザーツに頼まれた通りヒルンヒルトは破滅の魔法の傍らにいた。マハトとイヴォンヌもアラインの安全を第一に置いて、武器を抜いたまま海と空を交互に睨んでいる。
 近づいてきていた飛行艇は進路を乱し蛇行していた。黒煙が上がっているので何か事故でもあったのだろう。寄らないでいてくれるならそれに越したことはない。
 海戦も決着がついたようだ。空からの援軍も間に合わず、三隻の戦列艦しか持たなかったアペティート軍はビブリオテーク軍の攻撃に到底耐えられなかった。
 溺れるアペティート兵の救助に向かったエーデルを追って、ディアマントとクラウディア、バールも飛び立っていったところだ。あまり誰彼構わず手を差し伸べるのはどうかと思うが、諭したところで従う娘ではないだろう。
 気功師は姿を消したままである。
 ただ灰色の空を背景に、ふたりの賢者が戦いを続けている。

「もうやめてくれクライス……!! 君が破滅の魔法を消し去りたいのはよくわかったから……!!」

 涙混じりにヴィーダが叫んだ。その声を聞いてもクライスの冷たい表情は変わらない。

「わかったってどういうこと? 死んでくれる気になったの?」
「違う、そうじゃない! こんな風に殺し合わなくたって生きてふたりで幸せになれる道があるはずだろ!? ねえ、それを探すのじゃ駄目なのかい? これからは誰も傷つけない方法で君を守るって約束するから……! お願いだからふたりで死ぬなんて言うのはやめてくれよ……!!」

 必死の説得にも彼女はまったく応じる様子を見せなかった。前世の記憶があるゆえだろうか。確信を持ってクライスは首を振る。

「そんなものないわ、ヴィーダ。私たちが死んで無縁になる以外、運命を消し去る方法はないの。……それにあなた誤解してる。私が欲しいのは幸せなんかじゃない。破滅と関わることのない人生よ」

 どうしてそれがわからないのとクライスが問う。
 愛する君を幸せにしたいだけだとヴィーダが答える。
 傍で見ているだけのヒルンヒルトにもふたりが食い違っているのがわかった。ヴィーダが彼女に注いでいるのは紛れもない愛情だけれど、クライスの望みは完全に彼に無視されている。ああいう愛も存在するのかとある意味で感心した。

「あなたの言う幸せってなんなの? 私は早く終わらせてしまいたい……! あんな魔法がある限り、いつまでも怯えて暮らさなきゃいけないのよ、私たち……!!」
「だから死ぬ以外のやり方を探そうって言ってるんじゃないか! 愛してるんだよ、本当に。ぼくは君を失くしたくないんだ……!!」

 いい加減にしてと怒声が空に響く。否、罵声だったか。
 ヴィーダの「ぼくは」という言葉がクライスの逆鱗に触れたらしい。多分今までもヴィーダはヴィーダのやりたいように彼女を愛してきたのだろう。勝手気侭に情熱を押しつけてきたのだ。
 嫌なことを思い出させる男だな、とヒルンヒルトは眉を顰めた。押しつけたのはまったく異なるものだったが、己も妻には優しくしてやれなかった。

「だいたい破滅の魔法を発動させたのはあなたじゃない!! また私の願いをなかったことにするつもり!? ラーフェ――いいえ、シュトラーフェ!!!!」

 怒号と同時、クライスの右手がヴィーダの腕を強く掴む。あれでは転移魔法でも逃げられない。防護壁を組成するヴィーダの目の前で特大の破壊魔法が膨らんだ。膨張した球は熱を帯び、光を放ち、空を真っ白に染め上げる。
「あれはまずいな。我々も退避するぞ」
 大急ぎで作った結界にイヴォンヌとゲシュタルトを引き入れる。
 身を屈めた直後、都の真上で大爆発が起きた。
 眩い光にあらゆる色が掻き消される。轟音で何も聞こえない。
 アラインを取り込んだままの古い魔法が鈍く反応を示したことには、まだ誰も気づいていなかった。








(20121216)