これで何度目の召喚失敗になるのだろう。呼びかけても呼びかけても配下は応じない。クヴァドラートが消滅したということを、そろそろ認めなければならないようだ。
 イデアールは抑制の効かない魔力を右腕から放出し、苛立ちと共に魔王城の一角を吹き飛ばした。崩壊音が不協和音となって辺りにこだまする。埃と煙が視界を覆った。
「イデアールさまこわいよう……」
 隅でユーニが涙目になっていたが、気づかう余裕などありはしない。
 クヴァドラートは腹心の部下だった。イデアール自らがこの世に生み出し、手塩にかけて育ててきた。彼からも自分に厚い忠誠を誓ってくれた。永遠に側に仕えるとさえ。
 ハルムロースは勇者アラインと行動を共にしていたという。敵の力を狡猾に利用し、あの男は刺客を退けたのだ。
 自分が最初に読み誤った。協力者の中に勇者がいるとわかった時点で退かせていれば、こんなことにはならなかった。
「……私は私に仕える者に対し責任がある。せめてその魂を慰めるため、できる限りの弔いをしてやるぞ、クヴァドラート」
 魔道具に魂などあるかとあの半人半魔は笑うのだろう。想像は容易かった。
 このままにはしておかない。ハルムロースも、人間たちも。
 イデアールはマントを広げバルコニーに向かった。クヴァドラートが消息を絶ったのは辺境との境にある水門の街だ。勇者らは国境を越え近づいてきていると考えた方がいい。
「イデアールさまどこ行っちゃうの?」
 不安げなユーニを一瞬だけ振り返り、連れて行くべきかどうか思案した。彼女もまた守りたいもののひとつであるのに違いはない。――けれど。
「辺境の都を落とす。そこで勇者どもを迎え撃ってやる」
「……またずっと帰ってこないの?」
「ああ。しばらくこの城を空けることになるが……気をつけて過ごせよ」
「イデアールさま!」
 イデアールが黒竜の翼を広げて空に飛び立つと、バルコニーから転げ落ちそうになりながらユーニがこちらへ手を伸ばした。
 まだハルムロースの帰還する気配はない。賢者の動きがわからぬ以上、ゲシュタルトが不用意な真似をするとも思えないし、ユーニはここに残しておいた方が安全だろう。魔王の間、最上階に潜んでさえいれば他の誰にも手出しはできない。
「どうしても会いたいときはこれを使え」
 イデアールは蓋つきの手鏡をユーニに投げた。距離はあっても魔道具で繋がることは可能である。少女が鏡を手に取ったのを見届けると、イデアールは魔物たちの協力を得るため彼らの棲み処に向かい飛翔した。






 曇り空を行く巨大な黒竜。その影が完全に消えてから、ゲシュタルトは腕組みを解いた。
 近頃ここ魔王城では普段にない動きが続いている。
 ハルムロースはまだアラインといるのだろうか。彼はいつまで人のふりをして人と交わっている気なのだろう。クヴァドラート程度であればいざ知らず、もしイデアール本人が刺客となるなら今度こそ無事では済まない。忠告し合う間柄でもないけれど、彼がどう出るつもりかくらいは知っておきたい。少しばかり会いに行ってやるか。
 ゲシュタルトは窓辺で杖を滑らせた。契約を結んで使役している蝙蝠を呼び、柔らかな背中に腰掛ける。
 昔も同じ空を飛んだ。あの頃は仲間たちと一緒に神鳥の背に跨っていた。
 神鳥の盾、神鳥の剣、神鳥の首飾り。すべてを手にした真の勇者は神の加護を得て魔王を滅ぼすことができる。
 そんな伝説になる前のアンザーツに、出会って、恋をした。
 帰れなくなっても良かった。側にいられれば良かった。ただの僧侶としてでも、必要としてくれるなら。
(……馬鹿みたいね。あんな嘘つきを信じてたなんて)
 ゲシュタルトは星のない夜空を見上げて目を伏せた。忘れたい記憶ほど何度も甦り心を苛む。
 初めて出会ったときの衝撃、彼の隣で戦った日々。時にはふたりで街を散策することもあった。特別な日に、特別な贈り物をしてもらうことも。
 舞い上がっていた。己の抱く感情にアンザーツは応えてくれているのだと、確かめたわけでもないのに思い込んで。
 何も知らないただの娘だった。愛し愛される幻想に囚われた、哀れで愚かな幸せ者。
 そう、それでもあの頃は確かに幸せだったのだ。
 一途に勇者を信じていた頃は。



 ――魔王を倒したら、都に帰って可愛いお嫁さんをもらいたいかな。
 最初にその台詞を聞いたのは勇者の国から兵士の国へ抜ける洞窟。まだ魔王の存在がそれほど現実的ではなく、呑気に「この旅が終わったら」という仮定の話に花を咲かせられた頃だった。
 ムスケルはアンザーツに大いに同意し、ヒルンヒルトは関心なさそうに地図を確かめ、ゲシュタルトはその可愛いお嫁さんになるにはどうしたらいいか本気で頭を悩ませていた。
 アンザーツにはひと目惚れだった。巫女の立場もすっかり忘れてのぼせ上がって、体よく勇者のお供として神殿を出してもらったのだ。実際は破門同然だった。姉には随分心配をかけたようだった。
 毎日彼といられるだけで幸せだった。彼の傷を癒し、彼を護り、彼を庇い、どんなに自分が傷ついても。元来そういう奉仕が当然であるよう育てられてきたのもあって、勇者に尽くすことはゲシュタルトにとって無上の喜びだった。それにアンザーツはパーティ内に濃い恋愛色を持ち込もうとはしなかったけれど、ふとしたときに手を握ってくれたり、こちらを見つめて笑いかけてくれたり、胸がこそばゆくなるようなひとときをくれた。
 自惚れでなければ想い合っていたと思う。日々の感謝と労いに混じって囁かれる言葉の中には、愛情と呼ばれるものを感じるときだってあったのだ。
 だからゲシュタルトは次第に彼が無口になっても、冒険が厳しさを増しているからだと信じて疑わなかった。出現する魔物が強くなり、以前より気の抜けぬ状況になっているからだと。
 アンザーツが目に見えておかしくなりだしたのは辺境の都を過ぎた頃だった。
 今までもどこか上の空な一面はあったが、特定の誰かとこそこそするような真似はしなかった。野宿での仮眠や街での買い出し、ふと気がつくと彼の隣にヒルンヒルトがいるようになった。小声で何か話し込んでいたり、深刻な様相で向き合っていたり、気になる場面にしばしば出くわした。とは言え遠くから眺めるだけだったので、彼らの方は気づいていなかったかもしれない。ゲシュタルトも少し引っ掛かる程度で特別気にしてはいなかった。
 しばらくすると山門の村に到着し、古い祠を訪ねたヒルンヒルトが試練を乗り越え賢者になった。その頃になるとムスケルも「最近あいつら仲良いな」と零すようになっていた。
 それはただの憶測であったかもしれない。けれどゲシュタルトはムスケルの抱く一抹の寂しさを感じ取った。自分たちにも薄々はわかっていた。けれど自覚することを避けていた。――彼らふたりに隠し事をされていると。
 ヒルンヒルトは元々賢者を志していたのではない。それが急に、死ぬかもしれない危険を冒して闇属性を手に入れてきて、何も思わないわけがなかった。火急に賢者とならねばならない理由があったのだ。だが闇魔法を必要とする差し迫った状況と言うのがゲシュタルトにはピンと来なかった。
 あれはまったく攻撃向きの魔法ではない。敵対する者が心を閉ざせば簡単に術を弾かれる。もし使い道を誤れば術者が精神を消失する可能性だってある。そんな危険な魔法だった。
 逆に言えば、互いに心を許した相手なら、悲しみを癒し、迷いを払い、望む方向へ導くことができるわけだ。けれどアンザーツは鋼の心を持つ勇者で、死の山を越え魔の国に足を踏み入れても臆することなどなかったし、ヒルンヒルトが闇魔法を何に使っているのかは結局わからずじまいだった。
 深夜に何度かヒルンヒルトがアンザーツに触れ、魔法をかけているのを見たことがある。ムスケルも見たはずだ。けれど彼は何も言わなかった。ゲシュタルトにはその気持ちがよく理解できた。
 聞いて教えてもらえなかったらという不安。
 打ち明けてくれるまで待ちたいという信頼。
 アンザーツは無口だった。よく笑って、よく話してくれたけれど、それはどこか表面的なものでしかなかった。
 ゲシュタルトは彼が無口になったと思っていた。



 魔王を倒したらどうすると、決戦間近のある夜にムスケルが聞いた。
 いつか言ったのと同じ台詞をアンザーツが囁いて、ゲシュタルトは秘かに期待した。
 旅の間に色々な街を訪れたが、彼にとって一番近しい女性は自分だという確信があった。この先も彼を思い、支え続ける役目は誰にも譲りたくなかった。
 ムスケルが取り計らってくれたおかげで少しだけふたりきりになれる時間があったから、その日は久しぶりにアンザーツと夜空を眺め語り合った。暗濃色の湿原に白く小さな花が咲いていた。大きな湖のほとりだった。
 魔界でも花は咲くのかと不思議な心地で見つめていた。
 アンザーツとの距離が近くて。隣にいるうちに痛いほど胸が切なくなって。
 魔王を倒して都に戻っても側に置いてくれるかと、自分を愛してもらえるかと――。
 熱に浮かされるまま何をどう聞いたのか。
 けれど見上げた彼は嬉しそうな顔で笑っていた。

 ――うん。ずっと一緒にいよう。

 口づけは一瞬のことだった。けれど生涯忘れられないと思うほど甘美だった。
 月明かりの滲んだ嬉し涙。
 あのまま死んでしまえたらどんなに幸せだったか。



 アンザーツはいなくなった。宴の熱狂も冷めやらぬうちに、勇者の都から忽然と姿を消した。
 約束は果たされなかった。「ずっと一緒に」は嘘だった。
 辛いことが、苦しいことがたくさんあって、もう死んでしまいたくなっても、それでも彼の帰りを待って、待って、待ちくたびれて。
 もう思い出したくもない。物語の後の物語。絶望しか与えなかった「めでたしめでたし」の続き。その終わり。
 扉を開いたのはヒルンヒルトだった。
 悪魔のような男。人でなしの賢者。こちらの思いなど知りもしないで。

 ――アンザーツを封印した。これは彼の決断であり、彼の希望だ。もうここに帰ってくることはない。……君にはムスケルと幸せに暮らしてほしいと言っていた。

 私を地獄に突き落とすには十分すぎたのよ。
 その隠し事も、アンザーツの嘘も。
 人が魔物に変わるほどの憎しみで染め上げるには。



 蝙蝠が止まったことにハッと気づいて周囲を見回すと、どうやら目的地である古代神殿に到着したようだった。
 魔力の強い辺境の国に建つ、人には知られざる土地である。堕ちたとはいえ聖女の力は健在で、ゲシュタルトは時々ここで探し物をした。祭壇の中央に聖水の溜まった水晶の器があり、特別な呪法を使うと求めるものの在り処を示してくれるのだ。
 とはいえ神殿も万能ではない。強力な封印のかかったものは見つけられないし、もし対象がある程度以上の術者であれば、自分が探されていることに勘づいてしまう。前回ハルムロースを探し当てたときも彼はゲシュタルトが来るのを予測していた。つまり奇襲をかけるには向いていない便利品ということだ。
(そう言えばここでアンザーツを探そうとしたこともあったわね)
 憎くて悲しくて情けなくて苦しくて会いたくて。
 あの頃の複雑に縺れ合った感情は、今は激しい憎悪となってこの胸に生きている。
 私は怒りをぶつけたいのだ。百年経っても消えない憤りを知らしめたい。勇者と呼ばれる存在たちに。
 だから魔王となることを望む。彼らと敵対することを望む。勇者が守ろうとした世界を、跡形もなく破壊し尽くすことを。

「――……」

 ゲシュタルトは絶句した。祭壇に降りようとしたら見覚えのあるふたりの先客を発見したのだ。
 ひとりはまさしく行方を探そうとしていたハルムロース。そしてもうひとりは。
 紅いマント、薄ら青く反射する鎧、しなやかな剣とそれを収めた革の鞘、黒髪、黒目、――忘れもしない、その変わらない微笑。
 脳裏に名前がよぎった瞬間、ゲシュタルトの中で何かが弾け飛んだ。
 暴発と言うべきかもしれない。感情と呼ばれるものの一切が、ただ一点に凝縮され、刹那の後に爆発した。



 ――アンザーツ――!!!!!






 結界を張るのがあと少し遅れていたら致命傷になっていた。甲高い声が勇者の名を叫び、次の瞬間膨れ上がった魔力の鉄槌が祭壇に打ち落とされた。
 土埃が舞い、壁や柱が砂となって崩れていく。身構えたヒルンヒルトとアンザーツの前に、怒り狂った女がひとり現れた。
 物語の結末はアンザーツも知っている。自分が彼に書き遺した通り、ゲシュタルトは魔の道を選んだと。だから初めて今の彼女と出会う彼にも、それがかつての仲間だということは判別できたはずだった。浅黒く変色した肌と、赤すぎる瞳を見ても。
「ゲシュタルト……?」
 驚きに動きが鈍るアンザーツを庇い、ヒルンヒルトは杖を翳した。彼は応戦するのを忘れてしまっている。そう断じるや否や、勇者の前に躍り出て魔法弾の攻撃をすべて撥ね返した。
 彼女は彼女でこちらがハルムロースでないことに気づいたらしい。深い恨みと憎しみの形相を見せると、かつて癒しのまじないを唱えたのと同じ声で「裏切り者!」と喚き散らした。
「裏切り者! 大嘘つき! よくも私の前に姿を見せたわね!? 殺してあげるわ! 殺してあげる!!」
 狂気の叫びが耳をつんざく。ちらと見やったがアンザーツは呆けてしまったようだった。それもそうだろう。かつて愛した女がこんなに様変わりしていては。
「生憎とまだ死ぬわけにはいかない。君の怒りはもっともだが、今はどうともしてやれないんだ」
「そんな話で止まれるとでも思っているの!? どうせまたふたりで私たちを出し抜く算段でもしてるんでしょう? あなたたちはいつもそうだったわね!! いつもいつも、私たちに黙って何もかも決めてしまうのよ!!!」
「落ち着いて聞いてくれるなら説明もするが……」
「今更でしょう!? のた打ち苦しんで死ねばいいわ!! それが一番私を落ち着かせてくれるわよ!!!」
 ゲシュタルトの持つ杖の先から凄まじい密度の魔力が迸る。激情に任せているためか、魔力切れとかそういう計算は何ら成されていないようだった。
 だがそのぶん威力は凄まじい。結界では持ち堪え切れず、幾つかの烈風がヒルンヒルトの腕や足を刻んでいった。
「ちょうど教えてあげたいと思っていたところなの。私の受けた苦痛や屈辱を……!!!」
 激昂したゲシュタルトは容赦というものをしてくれなかった。赤い瞳が肥大し、褐色の肌は鱗状になり、両腕には魔族の証である紋様が浮かび上がる。美しい足はなくなって、代わりに大蛇の下半身が現れた。人間の形態を忘れてしまうほど彼女は我を失っているのだ。
 ヒルンヒルトはアンザーツの腕を引き防御から退却の姿勢に転じた。直感的に危険だと断じた。先程までとは比べ物にならない攻撃が来る。
 推測通りゲシュタルトが繰り出してきたのは空間すら破壊する物質消滅魔法だった。彼女が扱える中では一番強く、術者への反動も大きい魔法だ。
(神殿ごと葬り去る気か?)
 竜巻に巻き込まれたよう細い柱から順に吹き飛ぶ。祭壇は既に跡形もなかった。屋根も壁もどれだけ持ち堪えられるものか。
 転移魔法で脱出を図ろうとするも、あの大魔法から身を守りつつなので思うように構築がはかどらない。かと言ってアンザーツに剣を振らせるのも酷な話だった。
 そう思っていたらその当人が意を決したよう顔を上げた。
「ゲシュタルト! 全部終わったらもう一度君に会うから! そのときはぼくをどうしてくれても構わないから……!!」
 心からの叫びだったろう。アンザーツの思いはヒルンヒルトには手に取るよう伝わった。我々には成さねばならぬことがある。すべてそのための布石であったのだから、今更やめるわけにはいかない。
「嘘つき!! お前の言葉が私に信用できると思うのかッ!!!」
「……っ!!!」
 漆黒の魔力の塊が襲いかかる。だが転移魔法の完成する方が早かった。できるだけ早く、できるだけ遠くへ。アンザーツの腕を取るとヒルンヒルトは古代神殿を離脱した。



 ******



 愛する女に刃を向けられ、さしものアンザーツも虚勢を張れぬほど落ち込んだようだった。木陰に座り込んだまま、先程からじっと地面を見つめている。肩にとまったラウダも少し心配そうだ。
 あの凄まじい怒りを受け止めようとする度量は認めるが、ヒルンヒルトとしてはあまり無茶をしないでほしい。和解には期待できそうもない。ゲシュタルトの怒りは深いところで凝り固まってしまっている。
「嘘つきか……」
 ぽつりとアンザーツが呟いた。どう慰めていいかわからず、ヒルンヒルトは横顔を見つめるにとどめる。
 確実でないことは言いたくなかった。大丈夫だなどと無責任なことは。
 彼と話をしているとしばしば迷いが生じる。言葉の無力さに打ちひしがれてしまう。思いを伝えるためのものなのに、少しもそんな機能を果たしてくれず。
 あのときもそうだった。アンザーツがファルシュの提案を受け入れると告げたときも。
 少しずつ光に汚染されていく自我を、アンザーツは多分本気で守ろうとはしていなかった。勇者なのだから仕方がないと、どこか割り切ったところがあった。それでもせめて最終決戦までは己を保っていたいと考えたのは、仲間である自分たちとなるべく長く一緒にいたかったからだろう。
 アンザーツにはわかっていた。魔王を倒せば二度と自身は帰らぬことを。
 一方ヒルンヒルトは魔王さえいなくなれば魔物と戦う必要もなくなり、徐々に彼が彼でいられる時間を取り戻していけるのでないかと期待していた。
 己の甘さに気がついたのは魔王と対峙したときだ。張り巡らされた罠を潜り、敵襲を退け、辿り着いた最上階で魔王ファルシュは白い玉座に腰をおろしていた。
 彼はしわがれた老人の姿をしていた。闇色の外套を着け、紫紺のローブをまとい、魔術師然としていた。
 何より印象深かったのは仄暗い両の眼だ。目が合った瞬間ヒルンヒルトはぞっとした。
 何故ならヒルンヒルトは彼をよく知っていた。――否、彼とよく似た存在を。



 魔王問答という言葉がある。その名の通り魔王との問答だ。アンザーツの前にも勇者の冒険譚はあった。無論その前にも。
 勇者と出会った魔王は必ず何か問いかけてくる。それは自分と戦うつもりかという意思確認のときもあれば、何故悪足掻きをしてまで人を生かそうとするのかという魔族側の純粋な疑問のときもあった。
 ファルシュはそのどちらでもなかった。剣を取り身構えるアンザーツにこう尋ねた。

「それで、お前は完全な勇者となったのか?」

 ヒルンヒルトの傍らでアンザーツが息を飲んだ。彼は魔王の言わんとすることを一瞬で理解したのだ。
 話の邪魔になると考えたのだろう。直後にファルシュは強制転移の術を発動させた。対応し切れなかったムスケルとゲシュタルトが別のフロアに飛ばされると、ファルシュはヒルンヒルトに向き直った。攻撃されるかと思ったが、もう何も仕掛けてこない。魔王はただ、じっくりとこちらを眺め、頷き、顔を戻しただけだった。
「その賢者がお前の生命線らしい。……運が良かった。まだ正気が残っているのなら、私の話を聞いてくれはしまいか?」
「……」
 アンザーツは答えあぐねた。ヒルンヒルトも警戒は解かず、ふたりのやりとりを見守る。まだファルシュの意図が読めなかったし、ゲシュタルトたちが無事でいるかも心配だった。
「信じる信じないはそちらの自由だ。まあ信じざるを得ないだろうがな」
 戦闘らしい戦闘が始まる様子はなく、辺りは不気味に静まり返っている。ファルシュはゆっくり玉座に凭れて虚空を見上げた。
 その表情には見覚えがあった。未来を諦め切った眼差しには。
「お前が私を倒しても倒さなくても、私はもうじき消えてしまう。……闇が私に迫っている。お前が光に潰されかけているように」
 ヒルンヒルトはアンザーツの前に出た。油断させておいて奇襲を仕掛ける狡猾な魔物も稀にいる。どうやって魔王がアンザーツの状態を知ったかは不明だが、彼を動揺させるには事足りるひとことだった。当然のごとく警戒は高まる。
「勇者よ、私は魔物であって魔物ではない。この玉座の元に生まれ、今日まで己が何者であるか追究の日々を過ごしてきた。どうやら私はある巨大な魔法の一部であるらしい。お前もまた人の中にあって人ではない。我々は同じ魔法の引き金なのだよ」
「……魔法?」
 アンザーツが魔王に聞き返す。突拍子もない話に思考がついていかなかった。魔物ではない?人間ではない?どういうことだ?
「勇者たちの冒険譚は幾つか知っているだろう。魔王はいつも勇者に倒される直前に、最後の力を振り絞って天変地異の呪いをかける。だがな、おかしなことに私はその術を知らないのだ。私だけではなく、歴代の魔王たちも知らなかった。――何故ならそれは勇者が魔王を滅ぼすことによって発動する古代魔法だったからだ」
 いよいよもって話がわからなくなった。ファルシュはつまり、自分を殺せば天変地異が起きると言いたいのだろうか?そんな遠回しな命乞いは聞いたことがない。
 馬鹿馬鹿しいと切って捨て、杖に魔力を溜め始めたヒルンヒルトをアンザーツが制す。彼の目は驚くほど真剣だった。
「誰が何のためにそんな魔法を?」
 勇者の問いに魔王が笑った。玉座に肘をつきながら。
「……天変地異の秘術は強力だ。人も魔物も関係なく多くの命が奪われる。我々が奪い合う以上の命がな。更に酷いのは地図の半分を書き変えねばならなくなるほど激しい地形変化だ。知っているか? もう何百年とこの大陸の技術がろくに発達していないことを。百年に一度の大災害が、文明を破壊しすべてを後戻りさせるのだ。辺境の荒れ地に幾つも崩れた遺跡があったろう? 今より遥かに優れた技術がそこに眠るのは何故だ? 人の歩みを妨げているものの正体は?」
 玉座から立ち上がると魔王は階段を下り始めた。長い白髪と衣を引き摺って、立ち呆けるアンザーツの前で止まる。
「そんな大がかりな魔法を仕掛けられる唯一の存在は?」
「……神様?」
 正解だ、とファルシュが言った。
 魔王の話は荒唐無稽なものだった。トルム神は大陸に巨大な魔法陣を巡らし、勇者と魔王を戦わせて定期的に天変地異を引き起こしているのだと言う。強い信仰を保たせるためか、数減らしをして地上の命を管理するためかわからぬが、おそらくは後者だろうとファルシュは断じた。
「管理って、そんなことしてどうなるんだ? 神様は何のために?」
「何のためにかは私も知らん。ただ言えるのは、神は我々を道具としてしか見ていないということだ。海の先を霧で隠して、人と魔物を閉じ込めて、愛するわけでも研究するわけでもなく、ただ繰り返しをさせている。我々は心を食われ操り人形にされかけているが、監視されているようには思えない。すべて自動的で、すべて型通りなのだ」
「型通りって? 何が?」
「勇者に定められた旅がだよ。神具をひとつ手に入れる毎にお前がまともでいられる時間は減ったろう? 盾も、剣も、首飾りも、歴代の勇者が皆その手にしたものだ。神具を通して神はお前を『勇者』に作り変えてきたのだ。……この最終決戦の地で、我々ふたりがこんな話をできるなど信じ難いよ。普通の魔王と勇者なら、この時点でひと欠片の意識も残していないはずなのだ。互いに希少な闇属性でも持っていない限りはな」
「……!」
 アンザーツがこちらを見上げる。ヒルンヒルトは何も言えぬままファルシュを見据えた。
 それでは魔王も、ヒルンヒルトが勇者に施すのと同じ方法で己を守ってきたということか。
「勇者アンザーツ、悲しいことだが我々が戦ったところで世界は救われない。それなら別の方法を、別の未来を選び取ろうではないか。私はこの世で最後の魔王になるつもりだ。お前も力を貸してくれ」
 ファルシュはアンザーツに手を差し伸べた。だがアンザーツは躊躇った。魔王の手を取るべきか、取らざるべきか、初めて選択に迷ったのだ。己がどの道に進むべきか。
 世界に平和をもたらすというただ一点において、アンザーツと「勇者」の考えは一致していた。だからこそ彼は自分が「勇者」に溶けきってしまってもいいと考えていた。
 けれど今、アンザーツの黒い瞳はたじろいでいる。分離し始めている。あの白い光と。
「操り人形と言ったな? 確かめさせろ、お前の心の中を」
 ヒルンヒルトがそう言ってファルシュを睨むと、魔王は「良かろう」と笑った。
 まだすべては信じ難かった。あまりに現実味のない話ばかりだった。魔王からの申し出も、神が用意したという仕掛けも。だが現実味のない世界なら、賢者の力を手にした日から、毎日、毎日、この目にしてきた。どこまでも真っ白で、何もない彼の世界を。
 意を固め、ヒルンヒルトは歩み出る。差し出された魔王の掌に己の指先を触れさせた。
 途端、漆黒の空間が広がる。アンザーツの精神世界とまったく同じ。違うのはそこにあるのが光か闇かと言うだけで。
 否、違うところはもうひとつあった。黒い霧の中に鏡があり、ファルシュはその中に閉じ込められていた。
 鏡に映る像は酷く歪んでいる。まるで鏡の方が捻じ曲がっているかのように。そうしていびつな魂をくねらせながら、ファルシュは懸命に浸食に抗っていた。
 十分だった。彼をこちら側と見るには。

「神は己の生まれた世界に似せてこの世界を創り上げた」

 ファルシュの声は頭上から注がれた。気がつくとヒルンヒルトは床に座り込んでいて、アンザーツが肩を支えてくれていた。
「人は善、魔は悪として地上は四つに引き裂かれた。即ち勇者の国、兵士の国、辺境の国、魔の国だ。神は人と魔物を憎ませ合って、どちらも数が増えすぎないよう生態系を整えた。それだけでは足りなかったので、三つの塔と二つの都を使い大地に巨大な魔法陣を敷いた。神鳥の塔と魔王城、そして勇者の生まれ故郷だ。天変地異が起こってもこれらの地だけは崩れたことがない。すべて結ぶと内海の海底火山を中心に五芒星が描き上がる――」
 淡々と語られる創世記は伝え聞くものとまったく異なる。魔王の言は信じるに足ると思うが、疑念は無視できなかった。
「どこでそれを知った?」
 ヒルンヒルトの問いに、魔王は不敵な笑みを浮かべ、己の玉座を指差した。
「私の神具が教えてくれた。長いこと呼びかけなければならなかったがな」
「……あれもオリハルコンなのか」
 呟いたアンザーツはまだどこか呆然としている。逼迫した表情で勇者は魔王に教えを乞うた。
「どうしたらいい?」
 降って湧いた最後の難問は、天変地異を起こさずに「めでたしめでたし」を迎える方法。
 ファルシュは答えを口にした。途方もない時間を要する、たったひとつの解決策を。
「死んではならん。死にさえしなければ我々が絶対唯一の『魔王』と『勇者』で在り続ける。大掛かりな魔法ゆえに、神でさえ一度任じた使命は解くことができんのだ。営みを続ければ人は増え、魔物もまた増えるだろう。そうすれば状況は変わる。大地を循環する魔力は有限だ。生命が増えれば一個体あたりの取り分は減り、いつか魔物もただの獣となる。この不毛な争いはそれで終わりにできるのだ」
 遠くから足音が響く。ゲシュタルトとムスケルが戻ってきたらしい。
 もうあまり時間がなかった。あのふたりに魔王の話が通じるとは思えないし、アンザーツにも迷いが窺える。いずれにせよ今すぐ決断できそうなことではなかった。
「ここにあるのは仮の体だ。存分に貫くといい。……どのみち物語は一度完結せねばならん。我々の内にいる『魔王』と『勇者』を欺くためにな」
 高らかにファルシュは笑った。光明を見出し運命に報復する手立てを得た喜びに。
 足音は更に近づいて、アンザーツが剣を取る。
「支配から逃れるには肉体と精神を切り離すことだ。私の魂は玉座の元を離れられぬよう縛られているが、お前はそうではない。お前はその勇者の血肉から離れることで安寧を得られるはずだ――」
 ヒルンヒルトは雷を放った。魔王の衣がぷすぷす煤けて、皮膚の一部が変色する。そこにゲシュタルトたちが駆けてきて、戦線に復帰した。
「待たせたな、無事だったか!?」
 最大の戦いは最大の茶番だった。
 アンザーツの戸惑いがひしひし伝わってくるようだった。
 彼は死んでも構わなかったのだ。自分自身は消えてしまっても、魔王を倒し、世界中の人々が喜び、ゲシュタルトとも彼女の望むまま――そんな終わり方でいいと思っていたのだ。それが。
 彼は多分こう思っている。
 自分が最後の勇者にならねばならないと。



 魔王ファルシュが勇者アンザーツに倒された。その報せは瞬く間に世界中を駆け巡った。
 行く先々で宴が催され、盛大な歓迎と祝福を受けた。アンザーツは終始笑顔だったけれど、ヒルンヒルトは気が気でなかった。
 あれほど自分の心と表情にギャップのある人間はない。悲しいとか苦しいとか、そういう弱さを訴えられない彼が見ていて辛かった。
 魔王の提案を受け入れるなら、おそらく彼はこの先の個人的な幸福をすべて捨ててしまわねばならない。魔力の塊である魔物と違い、人間が生き続けるには何らかの特別な手段が必要だ。しかもアンザーツが正気を保つためには心と身体を切り離しておかねばならぬという。
 次なる勇者を生まないための理想の形は、多分、アンザーツの肉体と精神をばらばらにして封じることだった。
 となれば当然ゲシュタルトと一緒にはなれない。ヒルンヒルトやムスケルとも、彼は永遠に断絶されるのだ。
 アンザーツはゲシュタルトたちにやはり何も打ち明けなかった。ヒルンヒルトも彼が教えぬのであればと沈黙を守った。
 見かけ上は魔王が退いたことになり、魔物との戦闘回数は大幅に減った。そのおかげでアンザーツの精神は概ね良い方向に安定しているように見えた。相変わらず爆弾を抱えているのに違いはなかったけれど、このまま勇者の都までは何事もなく帰還できそうだった。
 帰路の途上でヒルンヒルトたちは首飾りの塔へ寄った。アンザーツに悪影響だとわかっていたので神具などさっさと返してしまいたかった。しかし塔の主であるラウダは首を横に振り、今しばらくそれは預かっていてほしいと頼んでくる。曰く、神具とともに再び封印される前に確かめたいことがあるらしい。
 ヒルンヒルトとアンザーツは顔を見合わせた。もしや魔王を滅ぼしていないのが露見したのではと危ぶんだが、そういうことではなさそうだった。
「……大地の形を確かめておきたい。私のところには後で来てくれ」
 思うところがあったのか、アンザーツはわかったと了承した。
 結局剣の塔にも盾の塔にも神具を返却するのは凱旋の後でと決まった。アンザーツは「神鳥たちとは個人的に話がしたいから」と言った。魔王の話の裏付けを取るのかとヒルンヒルトは納得したが、後から思えばあれは「勇者」が主導権を奪われないため口にさせたのかもしれない。
 変調が起こったのは国境を越え勇者の国へ踏み入れた瞬間のこと。神の加護の強い土地だとわかっていたはずなのに、何の対処もできなかった。アンザーツはものの一瞬ですっかり「勇者」になってしまった。曖昧な笑顔のまま、誰に気づかれることもなく。
 ヒルンヒルトは己の失態を責めた。このまま彼が消えてしまうのでないかと焦った。
 真っ白な世界にアンザーツはほんの僅かも見つけることができなかった。光が強すぎて干渉できる時間は日に日に短くなり、必死に彼の名を叫んだ。何度も、何度も、頼むから返事をしてくれと。
 禁書を掻き集め、いくつも新しい術を考案し、なお表層に現れないアンザーツを潜在意識の奥まで潜って探し続けた。真っ白な世界。気が狂いそうな世界。どこにも何も見つからない世界で。
 やっと「勇者」を眠らせて、アンザーツの目を覚まさせたのは王城に着いてからだった。
 幾重にも編んだ魔法陣の上で、初めて人間らしく彼は震えた。ヒルンヒルトの肩に縋って「このままじゃ駄目だ」と呟いた。
 消えてしまうのが怖いんだとはそれでも言わない。ただただ彼は辛抱強く、広い世界を思いやるばかりで。
 その日アンザーツは宴の最中、ひとりで国王に会いに行った。もう戻らないと告げに行ったのだった。
 ゲシュタルトとムスケルはアンザーツがいなくなったことを翌朝になって知ったようだ。
 ふたりに何も言えなかった理由は、ヒルンヒルトにはわかっていた。
 ――本当は彼はどんなになっても仲間の側にいたかったのだから。



 予測した通りアンザーツは首飾りの塔にいた。大陸中でアンザーツを探しているのに誰も見つけられないので、どこか特殊な場所に引き篭っているのだろうとは思っていた。
「あれから順番に神鳥の塔へ行ったんだ」
 こちらに背を向けたままアンザーツはぽつりと零す。口調はいつもの彼そのもので、茫洋とした印象はない。
「クーはやっぱり全然話が通じなかった。バールに最後の勇者になりたいって言ったら変な目で見られたよ。ラウダとは色々話した。聖獣は今まで天変地異が起きてること自体知らなかったみたいだ。勇者と魔王が神様に操られてることも」
 パタパタ飛んできた首飾りの番人は神具を遺跡に埋めてきたと話した。ラウダは彼を塔に落としたトルム神よりアンザーツの方を信じたらしい。勇者ではないヒルンヒルトが単独でこの塔に踏み込めたのはおそらく彼の計らいによるものだろう。
「魔王城へももう一度行ってきた。約束したよ、必ずぼくらでこんなこと終わらせようって」
 振り向いたアンザーツは珍しく笑みを消していた。あんまり真っ直ぐこちらを見るので言葉を返すのも忘れてしまうほどだった。
 本気かとヒルンヒルトは聞きたかった。ただでさえ逸脱した生を、また大きく捻じ曲げてしまうのかと。
 このまま黙って魔王を倒したふりをして生きればいい。百年後には次の勇者がファルシュを倒してしまうだろうが、それこそ我々には関係がない。
 もう十分に働いたではないか。魔物が獣となるまでなど、それこそ何百年かかるかわからない。それまでずっと自分を犠牲にして生きる気か?お人好しにもほどがある。
「どういうことかわかっているのか? 君は魔族じゃない。勇者として生き続けるには大きな犠牲を払わねばならない」
「うん、多分わかってると思う。……ぼくが決めたことなんだから、本当はぼくがひとりでしなくちゃいけないとも思うんだけど」
 アンザーツは申し訳なさそうに「ごめん」と詫びた。それが無性に苛立たしかった。誠実なのか身勝手なのか、優しいのか残酷なのか。

「君に頼んでいいかな」

 そんな風にヒルンヒルトに乞う。
 よりによってこの自分に、彼を生きたままどこかへ封じろと。
「……」
 強く拳を握り締め、ヒルンヒルトは俯いた。
 少しでも彼の苦痛を和らげようと賢者になったはずなのに、却って彼にこんな選択肢を与えている。自分が彼を不幸にしてしまっている。
 見も知らぬ子孫や未来のために、彼が苦しむことはないのに。
「……やっぱり駄目かな。ヒルトが嫌なら仕方がないけど……」
 どこか躊躇うような友人の手首を掴んでヒルンヒルトは力を篭める。溢れそうになる激情を堪えて。
 自分の中にこれほど苛烈な思いが存在するとは知らなかった。そうしてそれを抑止する、絶対とも呼べる指標が生まれていることも。
「何だってやるさ、それを君が望むなら。アンザーツ、君のためなら何でもする」
 君が君自身のために何もしようとしないなら、私が君のために尽くそう。
 私が必ず君を救う。何年かけても、何百年かけても。
「ありがとう」
 感謝の言葉にヒルンヒルトは唇を噛んだ。彼を仲間の元へ帰してやるどんな方法も思い浮かばない己が憎かった。
 その日からヒルンヒルトはアンザーツを封じるに適した土地と魔法を調べ始めた。大陸の反対側ではムスケルが必死でアンザーツを探し回り、都ではゲシュタルトが彼の帰還を待ち侘びていると知りながら。



 それからしばらくアンザーツには穏やかな時間が訪れた。
 静かな首飾りの塔の中、誰と会うこともなかったけれど、ラウダの語り聞かせる天界や番人についての話が彼の心を慰めた。
 ヒルンヒルトは聖獣たちが塔に来た経緯を知らない。ただ番人に任じられた者は、天界では罪人に当たるらしいと推測できただけだった。
 ラウダはアンザーツのため彼の塔を提供した。ここなら人に見つかる心配はなかった。トルム神とも塔を任されて以来一度も会っていないと言う。
「確かにあの方はあまり地上が好きそうでなかった。勇者のこともずっと我々に丸投げだったよ」
 そう呟いて神鳥は目を細めた。
 封印の地を求める短い旅の合間にヒルンヒルトも辺境の塔へ立ち寄った。そんなときは動かぬ聖獣の翼にくるまり寝息を立てるアンザーツを見かけることが多かった。
 ラウダトレスはトルム神から授けられた、戦うための獣の身体だ。神に逆らうと決めた以上もう器には入らない方がいいだろう。ラウダのその意見には賛成だった。
 神鳥は不思議な生き物だった。小さな鳥の姿をしているとき、彼らは物質的な肉体を持たないが、霊魂や霊体であるわけでもないらしい。ヒルンヒルトが成そうとしている「精神体」とはこの状態に近いのでないかと思えた。
 辺境の国と兵士の国を隔てる深い河の祠を探し当てると、今度は自身も塔に閉じ篭り魔法の完成に力を注ぐようになった。
 闇魔法と光魔法を融合させる着想は既に得ていた。後はどんな風にそれを実行するかだけだった。
 刻一刻とそのときは迫っていた。
 世界から勇者が消える日。

「――さあヒルト。ここにぼくを眠らせてくれ」

 ごく短いやりとりの後、ヒルンヒルトはアンザーツを見送った。
 彼の魂と肉体がゆっくり剥がれ、術の一部に成り変わる。眩い光が彼の中から溢れて弾けた。次々空中に霧散し消えていくそれは、アンザーツを甚振り続けたあの光と同質のものだった。
 ヒルンヒルトは丁寧に彼の精神を取り出した。そしてそれを新しい膜の中にそっとしまい、百年目覚めぬ魔法をかけた。せめて彼が優しい眠りの中でまどろんでいられるよう。
 光が消えてすべて終わる。暗闇と化した洞窟の奥でヒルンヒルトは静かに泣いた。
 アンザーツは怒らない。
 アンザーツは憎まない。
 そうしてあらゆる苦難と試練を受け入れる。それがどれだけ悲しいことか。
 彼が消えて、ようやく実感が生まれたのだった。



 都へ戻るとヒルンヒルトはゲシュタルトの待つ王城へ向かった。
 アンザーツが身を隠してから既に一年が過ぎていた。
 事後報告になりはしたが、彼女にだけは勇者が戻らないことを伝えておかねばならない。アンザーツは側にいることができないから、どうか他の幸せを掴んでほしいと。
 扉を開くとゲシュタルトが座っていて、どこか虚ろにこちらを眺めた。他にどう説明すればいいかわからなく、ヒルンヒルトは事実だけを端的に告げる。
 アンザーツを封じたこと、彼は彼の意志で帰らないこと、――それから。
 ムスケルがひそかにゲシュタルトを思っていることはわかっていた。健気にそれをひた隠していることも。ああいう素朴な男とこそ一緒になるべきだと諭そうとして、ヒルンヒルトは異なことに気がついた。
 ゲシュタルトの影に隠れて何か大きな籠が見える。柔らかな布がいくつも重ねられ、カラカラ音の鳴る玩具が結わえられた。
 無意識に唾を飲み込んだ。良くないことが起きたのだと直感が告げる。

「ゲシュタルト……それは何だ?」

 わななく声で尋ねると、聖女は顔を歪めて笑った。

















(20120605)