アペティート帝都MAP








 第十話 ノーティッツ救出作戦






 イヴォンヌたちを乗せた船が兵士の都に到着したとき、丁度別の船も外洋から帰還したようだった。
 アペティート兵らしき捕虜や眠る魔獣たちを降ろすクラウディアの姿にイヴォンヌが驚いて声をかけると、彼はベルクたちを残して先に戻らせてもらったと言う。
「ご無事で何よりです、司教様」
「ええ、イヴォンヌ王妃も」
 見知った人物との再会はほっと気分を和らげてくれた。しかしクラウディアの方はそうもいかなかったようだ。ビブリオテークで何があったか僧侶はディアマントに説明を求めた。ヒーナとの戦いについて、五芒星を持つ女性について、皇帝レギから返されたオリハルコンについて、ひとつずつ順番に語られていく。
「……ねえ、アラインに会ったことはまだ誰にも言わないつもりなの?」
 潜めた声でこっそりとゲシュタルトが尋ねてきた。賢者が探し当ててくれた指輪を見つめつつイヴォンヌはこくりと頷く。
 何度も思い返してみたが、やはりあれは本物のアラインだったように思える。ならば言わないでくれという彼の言葉を尊重したかった。己にはすぐに理解できない勇者としての思惑が夫の中に存在することに、一抹の不安や淋しさがないわけではない。だが自分はそんな男を伴侶とすると決めたのだ。愚直すぎると言われても、常に夫を信じる妻でありたかった。
「まぁあの子が破滅の封印を脱してこれたら、どういうことだったか聞けばいいだけだものね」
 ゲシュタルトも特にああしろこうしろとは強制してこない。なんだか温かく見守られているような気さえして、いずれ別れのときがくるのが名残惜しく感じられた。だからと言って流石に血の契約を結ぼうとまでは思わないけれど。
「ともかく、このオリハルコンの杖は早々に元あった場所に戻すべきだな。問題はどうやって都に潜り込むかだ」
 ヒルンヒルトの言葉に全員が頷いた。それでアラインが封印から解放されるかどうかはわからないが、破滅の魔法を抑え込むのはずっと楽になるはずである。
「ありがとな、アンザーツ」
「ううん。ぼくは何もしてないよ」
 礼を述べるマハトに先代勇者は首を振った。ヒーナの皇帝からオリハルコンを取り戻してくれたのは彼である。無理矢理奪い返すのではなく、レギの心が変わるよう辛抱強く耐えた結果だ。新しい友人について語ってくれたとき、アンザーツは「ぼくがまだ勇者だったらレギを倒してなんとかしようとしただろうね」と零した。そんなことはなかろうと思うのだけれど「勇者は一より百を取らなきゃいけない生き物だから」と言われると妙に納得してしまう。
 アラインにもそんな一面が見受けられた。しかも夫の場合は、犠牲となる一をまず自分に設定してしまうのが更に厄介だ。彼の身を案じる人間がどれだけいるか、わかっていないわけではなかろうに。
「あーら、私たちにはお礼はないのかしら?」
 塞ぎ込みかけたイヴォンヌの頭にゲシュタルトが透けた胸を乗せてくる。肩には彼女の白い腕が回された。と言っても身体は普通の霊体なのですり抜けてしまうだけなのだが。
「ゲシュタルトにもイヴォンヌ様にも感謝してるって。早くアライン様のところへ向かわないとだな」
 主君を思い口元を引き締める戦士にずきりと心臓が痛む。やはり彼にだけはアラインと会ったことを打ち明けておくべきだろうか。夫からもマハトには極力隠し事のないようにしていると聞かされているわけだし。
「私には何もないのか?」
「あぁ? あーはいはい、ヒルンヒルトもありがとうありがとう」
「なんだその言い草は。どうして私には投げやりなんだ」
 契約相手の賢者に絡まれる戦士を横目にイヴォンヌは小さく嘆息する。
 夫のこととなると冷静な判断ができない。言うなと釘を刺された以上は、やはり伝えられそうになかった。






 ******






 クラウディアと別れた後、ツヴァングたちはラウダに跨り一路アペティート帝都を目指した。
 空から眺めるアペティートの街並みは貧富の差がはっきり出ていてあまりいい気がしない。荒廃した地に低い屋根の並ぶスラムもあれば、対角には淡い色合いの貴族屋敷が群を成す。着ている服や持ち物も同じくだ。
 帝都が近づくにつれベルクは無口になっていった。彼の幼馴染が作ったらしい呪符は悪用されぬようあれからすべて回収した。よくよく探せば基地には火属性以外にも風属性や幻術の札があった。見つかったのはノーティッツが常用する魔法ばかりだったようだ。
「もうすぐだぜ。あのでかい城のあるのがアペティートの都だ」
 ベルクは顎で帝都を示す。古い水堀と外壁に守られた海沿いの大きな街だ。帝王ヴィルヘルムの居城が中央に腰を据え、そのすぐ北にふたつの高い楼観を有した軍港が両腕を広げていた。
「っとに手間かけさせやがって……!」
 この男がずっと怒っていたのだということに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。アラインと祖国を奪われ頭に血が昇っていたからだろうか。だがそれ以上にツヴァング自身がねじ曲がっていたように思う。見たままのものを見たまま受け止められていなかった。振り返ってみれば恥ずかしい話だ。
「無事でいるといいな」
 自然に出てきたその言葉に何故か自分で照れてしまう。ベルクはぱちくり目を瞬かせるとツヴァングより遥かに大人びた顔で「ああ」と片眉を下げた。内心は怒りと焦りでいっぱいだろうに。
「ディアマントがノーティッツから聞いたという飛行艇の話は覚えているか?」
 と、不意にラウダが下から話しかけてきた。神鳥は帝都からやや軌道を逸らし、人気のない森に降り立つ。
 飛行艇――空飛ぶ軍船のことだなとツヴァングは唾を飲む。本当にそんなものが存在するのか甚だ疑問だ。魔法の力も使わずに、人の技術だけで空を越えようなどと。
「多分完成してんだろうな。でなきゃあんな自国に誘い込むような危ない戦略取らねえよ」
「私もそう思う。上空からは視認できなかったから、どこかの工場か基地内に置いてあるのだろう。大きな建物は海辺にしかなかったから十中八九そこだろうな。……おそらくは彼も」
 ラウダの言う彼とはノーティッツに違いなかった。アペティートにとって魔法使いとは鉄も火薬も使わずに爆発物生産工場になれる逸材だ。同乗させないわけがない。
「情報収集はどうする? 今回はマーガレッ……いや、クラウディアさんはいないぞ?」
 ツヴァングの問いにベルクは一瞬思案したようだった。だがすぐに迷いのない目で「情報収集はしねえ。強行突破だ」と言い切る。
「なっ……!? 強行……!?」
「デカいのに乗り降りすんなら港が一番使いやすいだろ。怪しいのは監視塔だな。まずは東の楼観を攻める」
「も、もし飛行艇がなかったらどうするんだ?」
「ここは帝都だろ? 大事な施設をぶっ壊されたくなきゃ俺たちが暴れてるうちに向こうから出てくるさ」
 ニヤリとベルクは爽やかとは程遠い笑みを浮かべた。要するに見つけられなければ煙を焚いて燻り出そうというのだ。多勢に無勢で挑むことを理解しているのだろうか。
「飛行艇が帝都にある保証もないんだぞ!? ノーティッツさんだってもしかしたらまた別の基地に移されてるかもしれないのに……!!」
 無茶なことをして助けられなくなったらどうするんだと顔に書いてあったのだろう。ベルクはそれも踏まえた上で「時間がねえ」と呟いた。
「理由はわかんねえけどあいつは呪符を作らされてて、人殺しの道具にされかけてる。これ以上は俺がゆっくりしてられねえんだ」
「……」
 真剣な眼差しにツヴァングは何も言えなくなる。アラインならこんなときどうするだろうか。少なくとも強行突破を選ぶことはなさそうだが。
「お前の嫌いそうなやり方だけど、あっちの偉いさん人質にしてトレードって手もないこたない。犬死に覚悟で無謀に突っ込む気はねえよ。やる以上は結果残す」
「……わかった……」
 仕方がない。自らこの男の元に残ると決めたのだ。正しかろうが正しくなかろうが最後まで付き合ってやる。
「で、具体的にはどうするんだ? 三対何千何百かわからないぞ? 大体ロクな武器もないのに……」
「あ? 武器も防具も山ほど持ってるじゃねえか」
 おそらくまた奇抜な突入策を考えているのだろう。この男の悪人面にも慣れてきた。
 平和が戻ったその日には、彼に勇者らしい振る舞いというものを講釈してやらなくては。






 高い防壁に守られた帝都を眺め下ろし、ヴィルヘルムが薄く微笑む。その傍らでブルフは後ろ手に腕を組んだ。
 帝都の栄華をそのまま映し出したような大軍港には堅牢な二つの楼観が聳える。付近には三十隻を超える戦列艦が整然と並び浮かんでいた。 つい先日まで戦争の主役であった船は、今日から前時代のものとなる。既に大量の呪符と燃料が大型飛行艇「ゼファー」に積み込まれ、一時間後の出発を待つばかりとなっていた。
「報告ではヒーナがビブリオテークに気功師軍をぶちこんで、ビブリオテークはやむなくウチから兵を退かせたそうですけど……」
「ああ、私も聞いたよ。同盟は断ってくるし、休戦せねばこちらにも気功師軍を派遣すると脅してくるし、代替わりしても面倒な国だ」
「ビブリオテークは止まると思います?」
 ブルフの問いに帝王はにやりと口角を上げた。
 この男のことは嫌いではない。誰より征服欲が強いくせに、手に入れたものには最低限の興味しか示さない。工業革命期に散々甘い汁を吸った世代ということもあろうが、ヴィルヘルムは生まれながらの浪費家だ。しかも自分では何ひとつ新しいものを生み出さず、ただ周囲に手に入れて来いと命じるだけである。
 そんな地位に己も生まれてみたかった。才能ひとつでのし上がることも、まあ楽しいと言えば楽しいが。
「止まらんだろうよ。損得勘定もできない馬鹿どもの国だ。止まるぐらいなら我々と心中する方を選ぶだろう」
「……でしょうねぇ」
 先の大戦で斬り合ったビブリオテークの指揮官を思い出し、ブルフは眉根を寄せる。人間なんて強いか弱いか、偽善者かクズかの違いくらいしかないものだが、それでもあの国の軍人には筋を通そうとする輩が多いのは確かだった。騙され、傷つき、さぞかし恨みが溜まっていることだろう。ヴィルヘルムの言う通り、彼らは執念深く攻撃を続けるに違いない。
「だとしたらゼファーの初陣になるのは勇者の都でしょうね」
「ほう? 何故そう思う?」
「元々ビブリオテークは海での戦いを避けたがってたじゃないですか。奴らは戦列艦の大砲列が怖いんですよ。陸路からなら渡り合えると進んできたが、ヒーナに邪魔されドリト島まで引っ込むことになってしまった。本国に手を出せないとなれば、優秀な資源産出国を攻撃するのが一番ウチの痛手になりますから。ま、それで遠距離試験飛行の目的地にあの国を選んだわけですけどね」
 ヴィルヘルムは満足そうに喉を鳴らす。ブルフの予測がお気に召した証拠だ。
「成程、三日月大陸を北上する航路ならヒーナも横槍を入れられまいというわけか」
「ええ、魔法使いもそう言ってますし」
 「な?」とブルフはノーティッツの手枷につけた鎖を引いた。異国の青年はふらつきこちらの背中に寄り掛かる。呼吸は浅いがまだ正気の範囲内だろう。例の薬を常用していると一日に数時間程度しか思考活動ができなくなる。が、こちらとしては単純作業さえできるならそれで良かった。起きている間は延々呪符を作り続けるのがこの虜囚に与えられた仕事なのだから。
「……」
「んー駄目か。今日は口を利くのが難しそうですよ、すみません」
「良い良い。お前の捕まえてきた男のおかげで予定より早く飛べるのだ。感謝しなくてはな」
 皮肉たっぷりに帝王は笑う。
 そう、当初はまだ飛行艇の本格運用のために長い長い滑走路を用意しなくてはならなかった。それを土魔法とやらで行うでもなく、機体にちょっとした細工を施すことでこの魔法使いはあっさり解決してしまった。何も破壊されれば使えなくなるような道をわざわざ作る必要はないと言って。
 頭脳というのは得難い才だ。アペティートは素晴らしい人材を手に入れて、三日月大陸は多大な損失を被った。
 けれどこの男を完全に掌握したと思い込むのは早計である。いつなんどき何が起きるかは誰にもわからない。
「ゼファーにはお前も人質もちゃんと積んでやるからな」
 折角手に入れた上等の駒だ。解放してやる気など更々ない。
 聞こえているのかいないのか、ノーティッツの虚ろな表情は変わらなかった。






 ******






 ずっとフワフワ地面は揺らいで、夢の中に取り残されてしまったみたいだ。
 時折誰かが話しかけてくるけれどうまく返事をできているのかわからない。
 しっかりしろよと自分に言い聞かせていた言葉も最近はやけに遠くで響く。
 ここはどこ。
 ぼくはだれ。
 応えるように幼い声が「ノーティッツ!」と呼びかけた。
 知っている子だ。とても明るい女の子だ。
 なのにどうしてもそちらを向けない。
 振り返るのが怖い。



 ――怖い? 怖いなんていつぶりの感情だろう。
 恐怖は感じても足を縫い止めるようなものじゃなかった。
 死ぬかもしれない戦いだって何度も経験した。
 今更こんなに何に怯えているのかな?
 振り返れない代わりに両隣を覗いてみる。誰もいなくて泣きそうになる。
 そこにはいつも誰かがいてくれたはずなのに。
 崩れ落ちるようしゃがみ込むと眼前に生まれ故郷の景色が広がった。
 放浪癖のある母が父を亡くしてやっと落ち着いた兵士の都。薄汚れた店に不釣り合いな新しい看板を下げた食堂。
 小さい頃はなかなか友達ができなくて、ひとりで魔法の勉強ばかりしていた。たまに表に遊びに出てもガキ大将はノーティッツを仲間に入れてくれなかった。泣き喚くほど弱くもなく、寂しがりでもなかった自分は「それなら別に」と輪に入る努力もしなかった。それが余計癪に障っていたのだろう。そのうちすれ違う度に拙い罵詈雑言を浴びせられるようになり、時に拳を振り上げられるようになった。
 弱虫、ひょろすけ、父ちゃんがいないと女みたいに育っちまうぞ。
 芸のない揶揄にうんざりする日々。下町の入り組んだ路地に詳しくなったのは、彼らと出会う面倒を避けるために他ならない。魔道書も服の中に隠し持つようになった。兵士の国に魔法使いはほとんどいない。魔法の素質があったとしても、何故か皆こぞってマッスルボディを目指すのだ。魔法嫌いな彼らにこれ以上悪口のバリエーションを増やされたくはなかった。

「なあ、俺と組もうぜ」

 けれどそんな毎日も唐突に終わりを告げた。
 どこからやって来たのか知れない黒髪の少年がノーティッツに手を差しのべた。
「あのバカザル、この辺のガキ夕方までに全員倒したら大将降りてやるって言ったんだ。お前勉強ばっかしてんだろ? 頭いいなら知恵貸してくれよ」
 交わした握手の温かさは覚えているのに少年の顔は思い出せない。
 迷路のような地形と魔法での陽動、仲間割れを誘う呼びかけに大人顔負けの少年の剣術で、二時間かからず目標を達成してしまったことははっきり思い出せるのに。
「すっげー爽快だったな! また何かあったら頼むぜ!」
 誰かとハイタッチしたのなんて初めてだった。魔法だってお前の実力のうちだろうと言われたのも。
 懐かしい、嬉しいことが目の前をよぎるたび胸が苦しくなる。
 少年の顔は黒く塗り潰されたままで名前すら出てこない。
 喉奥から乾いた声がせり上がってきて音になる前に霧散した。
 助けてくれと言いたいのだろうか。早く来てくれと。
(いやだ……)
 言いたくないのに、そんな言葉は、本当は。
 ――だけど怖くて堪らない。
 またあの女の子の声がぼそぼそノーティッツに呼びかけ始める。
 右を見ても左を見てもやっぱり隣には誰もいなかった。






 ******






 考案した突入作戦は至ってシンプルだった。灯台の役目も果たしているであろう楼観に空高く羽ばたく神鳥の背中から飛び降り、風魔法を使って着地の衝撃を和らげるという、ただそれだけ。
 風の呪符はひとつしか見つからなかったのでツヴァングに回した。ベルクは叩きつけるよう神鳥の剣を振り、剣圧を利用して屋上に降下した。
 八階建ての塔は偶数階が渡り廊下で繋がっていて、見た感じ行き来可能なようである。逃げ道は多ければ多いほど有り難い。一応ふたりともアペティート軍のコートを着てはいるが、大っぴらに暴れるのなら防衛効果は薄そうだった。
「鍵がかかってるぞ! どうする?」
「なんてこたねえ、どいてろ!」
 出入口で奮闘するツヴァングを下がらせ問答無用で扉を破壊する。オリハルコンの切れ味はまったく鈍っていない。
「呪符の使い方大丈夫だな?」
「ああ、支援は任せておけ」
「っしゃ! じゃあそのへん片っ端から燃やしてってくれ!」
 ベルクの指示にツヴァングは次々呪符にこめられた術を解放していった。帰国前にクラウディアが使い方を指導してくれたおかげだ。呪符には様々な発動パターンがあって、時限式のものもあれば遠隔操作が可能なものもある。後者の場合は微量の魔力に触れさせればいいだけなので、魔力の絶対量が少ないツヴァングでも簡単に取り扱えた。後は攻撃を受けた際に効果を発揮するもの、破損の際に術が漏れ出すものなどだ。これらは魔法の素養がゼロのベルクでも恩恵を受けられる素晴らしいアイテムだった。
「大変だ!! 火が出てるぞー!!!!」
 楼観の最上階が燃えているのを発見したアペティート兵が大きな声で仲間を呼ぶ。ベルクはしれっと「わっかりました、水くんできまーす!!」とその場を抜け出した。小走りについてくるツヴァングの表情は毎度のごとく呆れ顔だ。
「もっとあちこち燃やしてくれ。魔法の炎は延焼し難いがなかなか消えねえ。そっちに人数を割かれるはずだ」
「わかった。あちこちだな」
 渡り廊下を駆けながらベルクはちらちら周囲を見回した。空飛ぶ船を置くのなら高い建物のてっぺんだと思ったのに、通信室や会議室、お偉方用の客室くらいしか見当たらない。
「あ、あいつだ! あいつが火をつけてるぞー!!」
 背中から指を差されたのに気がついて顔だけ振り向くと、ツヴァングが申し訳なさそうに「もう見つかった」と項垂れた。見通しの良い廊下なので燃える札なぞ撒いていれば目立つのは当然だ。生真面目そうな性格をしているし、隠れて悪さをするなんてことがそもそも得意でないのだろう。これは文句を言っても仕方がない。
「気にすんな。全力で逃げつつ呪符のバーゲンセールだ!」
「……わかった!」
 ガシャンと銃が構えられる音にベルクは足を止め振り返る。弾の速度、弾道、強度、いつか対峙するときがくるかもと戦えるよう身体に叩き込んできた。見極めは一瞬だ。銃口の角度を見れば避けるのは容易い。少なくともツエントルムやイデアールの攻撃よりは。
 身を低くして一閃、オリハルコンの刃を払う。銃声の轟いた直後、吹き飛ばされたのはアペティート兵たちの方だった。
「反撃される前に行くぞ!」
 ぽかんと口を開いたツヴァングの背を叩き走り出す。東の塔から西の塔へ。海と帝都の双方を臨む監視室の扉を一刀両断すると、そこにはひと月ぶりに見る幼馴染の姿があった。






 反対側の楼観で物音がするのに気がついて、ブルフは即座に拳銃を抜いた。ややあって薄く煙の立ち昇るのが窓に映る。騒ぎ立てる兵の声がだんだん大きくなってくるのに「侵入者ですかね」と息を吐いた。
「侵入者? どこからだ?」
「わかりません。しかし誰にも見つからず最上階まで入り込むとはなかなかだ」
 唯一の扉である前方の金属板に注意を払いつつヴィルヘルムを庇う形で後退する。先日取り付けたばかりの手動エレベータの鐘を鳴らすと、間もなく地階からいつでも乗って大丈夫だという返事があった。
「陛下は先に降りてください。俺と魔法使いは鼠を仕留めますんで」
「……ふん、予定時刻には遅れるなよ。操縦士には不測の事態だと伝えておいてやろう」
「これはこれは勿体無い。ではお急ぎを」
 鎖と滑車の擦れる不協和音を響かせて高貴な男を乗せた箱は小さく遠くなっていく。
 さて、とブルフはノーティッツの枷を外した。念のためにつけているだけなので拘束に特に意味はない。どうやら今から火の粉が降りかかってくるようだし、彼にはひと仕事してもらわなくては。
 気つけ代わりに小瓶の酒を含ませると魔法使いはゲホゴホ咽て腰を折った。正気に戻し過ぎてもいけないのが厄介なところだ。ちょっとやそっとのことで解ける暗示作用ではないが。
「は……、ッ……」
「いいか? 基地に敵が入り込んできた。殺すつもりで迎え撃てよ。しっかり頭を働かせてな」
 わかったかと確認するまでもなくノーティッツがこくこく頷く。魔法使いを起き上がらせ、再び前方に銃を構えた丁度そのとき部屋の扉が破られた。爆薬でも持って来なければ蹴り破るのも突き破るのも不可能な鉄の扉だ。それを侵入者はごくあっさり切り裂いた。直感で断じる。こんなことをするのはあのわけのわからない新大陸の連中に他ならないと。

「……ノーティッツ……!!」

 アペティートの軍服を着た黒髪の男が魔法使いを見て顔色を変えた。もうひとり、青臭さが残る紺色の髪の青年は背中を警戒しながらぴたりと男の後ろにつく。日焼けしているが肌はふたりとも白い。やはりビブリオテークではなく三日月大陸の人間だ。
「はは、大事にされてんだな。こんなとこまでお迎えに来てくれたらしいぜ?」
「……っ」
「おっと、混乱するのはやめてくれよ。お前は帰っちゃいけないし、あいつらは俺たちの敵だ」
 か細い声でノーティッツは「戦っちゃいけない」と囁いた。まさか知り合いとの再会で暗示が緩んだのではなかろうなと心配になる。もう少しきつく教えてやらないとわからないか?
「敵だって言ってるだろ? 戦わないといけないんだってわかるよな?」
「……ない……。まともに戦っちゃ……」
「ああ、なんだそういう意味か」
 ホッと胸を撫でおろし、ブルフは改めて侵入者と向かい合う。お仲間がこちらの手中にあるためか剣を向けてきている男はピクリともしなかった。わかりやすい表情だ。人質が男にとってどれだけ価値ある人間か雄弁に語ってくれている。
「で、あいつの何が危険だって?」
「……剣……オリハルコン……」
 ふうんと軽く喉を鳴らすとブルフは間髪入れず引き金を引いた。早撃ちにはそこそこ自信がある。けれど銃口を離れた弾は剣の腹に弾き返され天井に埋まった。三発撃った三発ともだ。常人では有り得ない反応速度である。
 黒髪の男はそれを機に一気にこちらへ飛び込んできた。だが残念ながら今の己には優秀なボディガードがいる。ノーティッツの唱えた風魔法で男は同胞ともども廊下まで押し戻され、呆然と目を瞠った。仲間に妨害されるなんてショックだ、信じられない――そんな顔だ。
「おい……、そいつに何しやがった……!?」
 答えてやる義務も責任もないけれど、怒りに震える他人の顔を拝むのは大好きだ。色んな奴を陥れてきた。積み上がって膨れた恨みの上で生きてきた。殺し合いも化かし合いも生まれながらの性なのだ。こんなやりとりは楽しくて楽しくて仕方がない。
「さあ? もう祖国に帰りたいと思えなくなるようなことかな?」
 一直線に突っ込んできた男の剣に策なんてものはなかった。強さを増した突風が今度は廊下の突き当たりまで敵を追い返す。援護に来ていた兵士たちまで一緒になって転んでいた。
「はは、こりゃ面白いや。なあ、追いかけっこでもするか?」
 ノーティッツの痩せた腕を掴んでブルフは階下へと進む。ああいう手合いを苦しめるのは何にも勝る享楽だ。ただ殺すだけでは芸がない。もう少し、そうだな、ゼファーの出発時間くらいまでは遊んでやるとするか。






 身を起こしてすぐベルクはツヴァングの袖を引いた。周囲で引っ繰り返っているアペティート兵が状況を把握する前に、再度廊下を突っ切りノーティッツたちの消えて行った階段を駆け降りる。
「なんッなんだあの野郎!! どこ行きやがった!?」
「多分あれだ、ブルフとかいう司令官だ。ディアマントさんが言ってただろう?」
 名前聞いてるんじゃねえよと叫びかけて喉奥に飲み込む。なんなんだ。本当に、一体何をしてくれたのだ。あの沈着冷静な幼馴染が怯えたように半分身を隠していた。焦点の合っていない目も、表情も、何もかもがいつものノーティッツからかけ離れていた。
(なんでもっと早く来てやれなかったんだ)
 せり上がる後悔に胃の腑がじくじく痛む。雑念を振り払うべくかぶりを振り、ふたりの後を追走した。今は考えている場合じゃない。
 石積みの塔の七階には一般兵しかいなかった。銃を構えようとしたのでオリハルコンの鞘で壁まで突き飛ばす。戦列艦の大砲でもなければこちらの歩みは止められまい。剣ひとつで銃撃をかわすベルクを見て兵士たちは明らかに怯んだ。築かれたバリケードを突破するのに難などなかった。追撃を防ぐためツヴァングも惜しみなく呪符をばら撒く。兵たちは炎の壁を越えては来れなかった。
 が、その後六階まで下りてすぐベルクたちは分かれ道に差しかかった。このまま西塔を下っていく階段と東塔に繋がる渡り廊下だ。
「危ない!!」
「ッ……!!?」
 足を止めた一瞬の隙を突かれ、身を隠していた兵のひとりに小型爆弾を投げつけられる。流石にこれは神鳥の剣でも威力を相殺できなかった。ツヴァングが回復魔法をかけつつ庇ってくれたおかげで額を少し切る程度で済んだが、こちらの動きを読んだような攻撃にチッと舌打ちしたくなる。分岐点に待ち伏せ。いかにもあいつの好きそうな作戦ではないか。
「うぉらッ!!!!」
 隠れる場所を残さないよう目いっぱい剣を振り回す。ベルクの怒りを吸収してオリハルコンは辺り一帯を吹き飛ばした。 砂埃が煙幕の役目を果たしてくれる間にどちらへ向かうべきか検討する。一方の通路にはこれ見よがしな魔法陣が輝いているが、一方の階段にはそういったものは一切見受けられない。
「あ、おい! そっちは魔法陣があるぞ!?」
「わかってらぁ!!!!」
 躊躇なく魔法陣の残された渡り廊下を駆け出すベルクにツヴァングが目を丸くした。走り幅跳びの要領で魔法陣を飛び越えようとしたけれど、やはり無駄な抵抗だったらしい。いくつも真空波が襲ってきて瞬く間に血まみれになった。が、風魔法の効果も一回きりであったようで、ツヴァングは至って平和に東塔側へ駆けてくる。
「大丈夫か!? 多少の回復はできると言っても限りがある、もっと慎重に……」
 最後まで小言を聞いている余裕などない。ツヴァングの腕を引き廊下を離れた瞬間天井に貼られていた呪符が火柱を上げた。
「熱ッ、ってあ! おい! 置いて行くな!!」
 少し焦げてしまった髪を撫でつけながら後続の青年が追ってくる。
「もっと早く走れ!!!!」
 ベルクの怒号が響いたと同時、誰も残っていない六階で高温の蒸気がとぐろを巻いた。寸でのところで階段に飛び込み事なきを得るも、踊り場に構築された別の魔法陣が上向きの強風を発生させる。吹き飛ばされぬよう壁に剣を突き刺してツヴァングの襟を掴んだまま数秒踏ん張った。どうやらこちらに休む暇を与えるつもりはないようだ。今度は七階から顔を出したアペティート兵が酒瓶の中身をぶっかけてくる。
「伏せろ!!」
 頭を庇って身を屈めた後ベルクは即座にコートを脱ぎ捨てた。ツヴァングにも同じようさっさと脱げと指示を飛ばす。案の定またすぐ火魔法の呪符が発動し、軍服はたちまち消し炭と化した。
 苛々する。こんなセコい手で相手をやりこめてしまう人間が誰かわかっているから。
 重傷こそ負っていないがひとつ判断を間違えれば簡単に死に至る。そういうことをあいつは今やらされているのだ。
 枝分かれしていない五階を突っ切り四階へ急ぐ。西塔に向かう渡り廊下にはまたわかりやすく一列に呪符が貼られていた。
「だからなんで罠のある方に進むんだ!?」
 ベルクの真後ろをひた走りながらツヴァングは叫んだ。
 なんでだと? そんなもの答えはひとつしかない。
「罠のある方にあいつがいるからに決まってんだろ!!!!」
 どうだっていい。焼かれようと煮られようと。何があっても連れて帰らなくてはならないのだ。あの馬鹿が取り返しのつかないことをする前に。
「――!!!!」
 と、そのとき土魔法の札が光って足元が大きく揺れた。ガラガラと音を立て、通路の床がごっそり抜け落ちる。咄嗟にジャンプし正面に残った廊下に飛びつくも、ツヴァングまでは拾ってやれなかった。砕けた石と一緒に落下して青年はどこへ行ったか見えなくなる。
「ツヴァング!!!! おい、ツヴァング!!!!!!!」
 呼びかけは一度しかできなかった。崩れ落ちた廊下の東でアペティート兵たちが戦列を組みこちらに銃を構えていた。転がりながら這い上がり、がむしゃらに剣を振って危機を脱する。三階から駆け上がってくる兵たちの頭を蹴り飛ばし、更に階下へ向かった。二階の床を踏んだのと、鉄格子の開く重々しい金属音が響いたのはほぼ同時だった。
「……」
 広い屋内訓練場には誰もいない。呪符も魔法陣もない。ただ足元から耳慣れないゴウンゴウンという音だけがしている。ベルクを追いかけてくるアペティート兵の声や足音は、地響きと言っていい轟音に完全に掻き消されていた。
 神鳥の剣をぐっと両手に握り直す。静かに大きく息を吸って、海に面した壁に向かい思い切り刃を叩きつけた。

「……これが飛行艇か……?」

 粉々に破壊された石壁の真下、楼観の地階から奇妙な形をした船が姿を現し始める。
 蜻蛉を太らせたらこんな形になるだろうか。丸みを帯びた黒い船体には幾つもの虫羽が備わっていた。
 楼観は海上に建設されている。空に近い最上階ではなく、海水を引き入れた格納庫に飛行艇は隠されていたのだ。
「逃げ場はないぞ!! おとなしく捕縛されろ!!!!」
 しつこい兵士たちに最後のひと振りをお見舞いし、脊髄反射で廊下の中ほどまで駆け抜ける。そこでベルクは急ブレーキをかけ、今度は先程開けたばかりの穴に向かい全力疾走を始めた。空飛ぶ船を逃がさぬために。

「っおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!」

 掛け声と共に進み始めた飛行艇の甲板目掛けて跳躍する。つるつるの装甲には掴める箇所などほぼなかったが、なんとか船尾にかかった梯子に指が届いた。

「っはぁ……、はぁ……、ギリギリだったな……ッ!!」

 ベルクの落ちてきた衝撃で大きく姿勢を崩したものの、大海原を滑走路にした飛行艇は徐々に速度を増してゆく。飛沫を上げ、波を弾き、やがて本物の鳥のように空高く浮かび上がった。
 戦争のためでなければこれほどの発明品はないだろう。人間を乗せて飛行できるのは神鳥やドラゴンだけだと思っていた。
 頬を撫でる風が冷たい。あっという間に船は雲と同じ高さまで到達する。振り返って見てみれば、帝都は既に遠く霞んでいた。
(ノーティッツ……)
 紙の玩具を飛ばして遊んだ子供時代などどうして思い出すのだろう。重量を軽くするより姿勢を維持した方が長く飛ぶのだと笑っていた。一番大きな双翼には幼馴染がバランサーと呼んでいたのとそっくりな重しがついている。
 梯子を伝いバルコニー型の船尾に降りるとベルクはドアを抉じ開け中へ入った。
 早く行ってやらないと。
 俺が行ってやらないと。

「――ようこそ飛行艇ゼファーへ。ここまで追いかけてこれるとは思わなかったぜ、王子様」

 出迎えに登場したのは短い銃を構えた司令官だった。こちらを向いていた銃口が静かに角度を変える。それは俯いたノーティッツのこめかみに強く押し当てられた。
「でも残念だったな。すぐにお別れだ」
 飛び降りろ、とブルフが命じた。底意地悪く口元をにやつかせながら。
「嫌だっつったら?」
 目は逸らさずに尋ね返す。柄に手をかけたベルクに反応して幼馴染は虚ろな表情を覗かせた。
 その途端、狭い通路を突風が吹き抜ける。鋼の廊下に剣を突き立て暴風に耐えるも勢いは衰えず、ノーティッツは術に力を加え続けた。
「おい!! 俺がわかんねえのかよ!? ノーティッツ!!!!」
「……、っ……」
 浅い呼吸を繰り返すだけで幼馴染はこちらを見ようともしない。増した風速に吹き飛ぶ寸前だというのにブルフは再びベルクに銃を向けてくる。
「じゃあな。来世で会おうぜ」
 パァンと銃声が轟いた。体勢が揺らいだと同時、風がベルクを押し出し空中に放り出す。
「ノーティッツ!!!!!!」
 結局一度も視線が交差することはなかった。いつもの顔でノーティッツが笑うことも。
 アペティートの軍服など着せられて、あれではまるきり別人ではないか。
「……ッ!!!!」
 とどめを刺すよう呪符付きの爆弾が空を切る。眼前で起こった爆発にベルクは咄嗟に頭を庇った。
 煙で息が吸えない。高熱が皮膚を焼く。
 だが一応五体満足ではあるようだ。あんな至近距離であったにも関わらず。

「――――……」

 薄目を開いたベルクの視界にふと白いマントがはためいた気がした。輪郭はぼやけていたし、雲か何かと見間違えたのかもしれないが。

(……アライン?)

 どうしてそう思ったのかわからない。ただ握り締めたオリハルコンはそこに勇者がいたことを証明するよう薄い輝きを放っていた。
 やがてポフンと柔らかいものが成す術なく墜落するベルクを優しく受け止めてくれる。
 神鳥の青い翼に掴まっているのは自分ひとりではなかった。ツヴァングの半泣きの顔を見て、自分も今こんな顔をしているのかなと反省する。落ち込んでいる暇などない。どうにかあいつを奪い返す方法を考えなければ。
「サンキュー、助かったぜラウダ」
「飛行艇と聞いたときからこの展開は予想していたさ。ツヴァングは思っていたより早く落ちてきたけれどな」
「面目ない……」
「このまま気づかれないように奴らを追ってくれ。まだチャンスはあるはずだ」
 わかったと了承を告げ神鳥は上昇を始めた。頭上の方が死角になるとのことらしい。
 飛行艇は帝都からほぼ真北の航路を取っていた。まさか三日月大陸に向かうんじゃないだろうなという推測は、どうやら当たりのようだった。






 ******






 ――耳の奥でまだ絶叫がこだましている。
 黒髪の、多分、知っている男だ。首から上に目をやることはどうしてもできなかったけれど。
 インク壺を倒したように男の顔は真っ黒で、思い出そうとすればするほど息が続かなくなる。
 いつの間にこんな隔たりができてしまったのだろう。当たり前に側にあったはずなのに。
「……」
 ブルフが船尾の扉を閉めて新しい鍵をかけた。操縦室から出てきた帝王が「賊は仕留めたのか?」とさっきの男の生死を確認した。
 生きているわけがない。よしんば爆発から身を守れたとして、この高さから海の真ん中に落ちたのでは。
 殺したのは自分だ。
 あの子を守れなかったのも。
「死んだでしょうね。ま、念のため警戒はしておきますよ」
 頬を伝って落ちた雫は足元で跳ねた。
 吹雪の中で立ち尽くす迷い人のよう全身の震えが止まらない。
(ベルク……)
 やっと紡げた名前にはもう意味なんてなかった。
 どこにもあいつがいないなら。
 自分が隣に立てないのなら。
(死んじゃったんだよ、ニコラ……)
 ぼくがのんびりしていたせいで。己を過信していたせいで。あんな小さな女の子が。
 なあ、お前もいなくなっちゃったのかな。
 もう手を差し伸べてはくれないのかな。


 ――俺と組もうぜ。

 ――知恵貸してくれよ。


 子供時代の幻が楽しげに脇をすり抜けていく。
 逆光がすべてに影を落としている。
 ああ、やっぱり真っ直ぐには、お前の顔を見れそうにないよ。







(20121130)