辺境の国と兵士の国を隔てる国境の河は、水門の閉鎖により一時その流水量を減少させた。だがごつごつした岩場が随所に潜み、渡河の難所であることに変わりはない。ベルクたちは船に詳しい人間を中心に据え、中型の三段櫂船で慎重に漕ぎ進んでいた。
 対岸はぼんやり見えているものの決して近くはない。岩に邪魔され穏やかに流れることのできない水が、時に激しく船体を打ちつけ手元を狂わせた。おまけにもうひとつ厄介なのは、水中にも魔物の気配があることだった。
「なんか嫌な感じだ。岸に着くまで何もなきゃいいんだけど」
「ああ。とりあえず戦闘の心づもりだけはしといた方が良さそうだな」
 ベルクは幼馴染と目を合わせ、小さく頷き合う。生まれ育った都を旅立ち数ヶ月、この手の勘は外さないようになっていた。初めての船旅に「まあ、これが波ですのね!?」とはしゃぐウェヌスは逆に女神としての威厳を衰えさせている気がするが、パーティ全体としてはなかなか成長していると思う。
「気をつけた方がいい。勇者の国から兵士の国へ来たときもそうだったけど、国境を越えた途端、急に来るはずだから」
 少し離れて水面を見つめていたアラインが忠告してきた。ひとり旅の経験を持つクラウディアもこくこく頷いている。
 魔物と言っても体格の小さいものは遠巻きにしているだけで襲ってはこなかった。周囲に数匹潜んでいるのは気づいていたが、あちらはあちらで戦いなどに気を取られては自分が流されてしまうとわかっているのだろう。そういう意味ではここ一帯は休戦区域にあたるのかもしれない。
 が、アラインの言う通り、辺境の岸辺が近づくにつれてどんよりとした雰囲気が濃くなってきた。明らかに空気が違う。同じ川の水なのに、向こう側は色まで濁っているように見える。
 船内の緊張が高まり出した頃だった。誰かの「魔物だーっ!!」と叫ぶ声が響き渡った。
「くっそ! やっぱ来たか!」
 ベルクが剣を掴むと、今にも船体を持ち上げ引っ繰り返そうとする巨大クラゲが姿を現した。なんで川にクラゲがいるんだと突っ込みたかったが、その前に敵の触手が船首に絡んで甲板が傾いた。透き通った涼しげな身体が忌々しい。バランスの悪くなった足場をベルクは跳躍した。
「でやっ!!!」
 船に絡んだ触手のひとつを切断すると薄青い血が辺りを汚す。臭いもきついし最悪だ。他の触手もねとねとした毒液を滴らせており、グロテスクだった。
「ベルク、そっち呪符いくぞ!」
 ノーティッツの声と同時、巨大クラゲから煙が噴き出す。的が大きいので焼いた方が無難ということだろう。血に引かれて他の魔物まで寄ってくると確かに面倒だ。効果の短い魔法なら船に燃え移る心配もない。
 だが思ったように事は運ばなかった。ぬるぬるしたクラゲの体液が魔法効果を軽減するらしく、何度撃ってもあまり堪えた様子がない。そればかりかその巨体を思い切り船体にぶつけてきて、船ごとバラバラにしようとしているのが見て取れた。
(やべえ!)
 直感的にベルクは駆けた。船は頑丈にできているが何度もあんな体当たりをされてはかなわない。さっさと息の根を止めてしまわねば。船上だからとお上品に戦っている場合ではなかったか。
 助走をつけ、船の縁を踏み台に大きくジャンプする。勢いのままクラゲの頭に剣を突き刺すと、超音波かと舌打ちしたくなる悲鳴が耳をつんざいた。
「ッッるせええ!!!!」
 先程までと比べ物にならぬ激しさでクラゲは暴れに暴れる。ベルクは振り落とされそうになりながら剣を引き抜き、もう一度深々と突き刺した。
「ベルク、後ろですわ!!」
 振り返る間もなかった。「ギョアー!」だの「キョアア!」だの叫んでクラゲは触手をベルクに叩きつけてくる。剣を手放すことはなかったが、川面へ向かって真っ逆さまだった。くそ、まだとどめを刺していなかったのに。
「ベルク!!!」
 ノーティッツが助けに飛び込もうとするのが見えた。クラゲの方にはアラインが斬りかかっていく。彼のひと振りで魔物の巨体が傾いて、それが水面に叩きつけられて、衝撃で発生した大波が船と視界を覆って――やがて全身、水に包まれた。



 ほんの四つか五つの頃から、ベルクはしょっちゅう視察という名目で城の訓練場に出入りしていた。大人に混じって素振りをさせてもらったり、手合わせに参加させてもらったり、身体を動かすのが好きだった。
 最初は王子だからと委縮していた兵たちも慣れれば面白がるようになって、飲み込みの良いベルクにあれこれ教えたがった。使える技術も使えない技術も、いつ使うんだそれはという技術も、兵士にできることならばベルクも大抵同じようにできる。なので自慢ではないが、鎧を着けたままでもすいすい泳げるし、溺れた人間の応急処置だって熟知していた。
 だがどうやら「うーん、この状況で無事に岸まで辿り着けた俺ってすごい」と自分に酔っている場合ではなさそうだ。水中に見覚えのある紅いマントが広がっていたので思わず掴んで引っ張りながら泳いできたのだが。
「……男にはやらねばならぬときが来る、とは兵士長も言ってたがな……」
 人口呼吸は果たしてファーストキスに入るのだろうか。思春期真っ只中の己としては、これは由々しき問題である。
 目の前には呼吸を放棄して横たわるアライン。しかし心臓はちゃんと動いている。こういうとき自分にも回復魔法が使えればと心底思うが、才能がないものは仕方がない。男らしく潔く思い切って人命救助に励むべきだということは重々わかっていた。
「くっそー! やってやらあ!!」
 半ば投げやりな気合を入れてベルクはアラインに被さった。とりあえず気道の確保は終わっている。後は二、三発息を吹き込んでやれば目を覚ますだろう。というか二、三発で目覚めてくれなかった場合、こっちが死にたい。
 よーしやんぞ。俺はやんぞ。すっげえ抵抗あるけどやってやんぞ。
「……ベルク?」
「うおおおお危ねえ!!!!」
 鼻先数センチの至近距離で瞼が開き、ベルクは脊髄反射で飛び退いた。そして聞かれてもいないのに必死で「これはお前が息をしていなくて! 他にウェヌスも誰もいなくて!」と言い訳を始める。いや、実際言い訳でもなんでもなく事実なのだが。
「魔物を倒して、それから河に落ちちゃったのか。……なんか思い出してきたよ、ありがとう」
 アラインはのそのそと半身を起こし、疲れ切った顔で俯いた。溺れた後ってしんどいよなあとベルクも幼少時の経験を思い出す。気の毒に。鼻の奥など激痛のはずだ。
「いや、俺の方こそ目を覚ましてくれて助かったぜ」
 まだ心臓が変な動きをしていたが、少し休めば普通に動き回れそうなアラインの様子を見てほっとする。ノーティッツが一生ネタにしてくれそうな壮大な黒歴史はこの世に生まれず済んだようだ。
「どれくらい流されちまったかわかんねえけど、とりあえず河に沿って上流へ向かえばどうにかなるだろ。しばらくよろしく頼むな」
「うん。マハトたちも無事に岸に着いてたら探しに来てくれると思う」
 なんか変わった組み合わせになったなと、装備品を確かめながらベルクは頭の中で呟く。特にアラインが苦手なわけでも気を遣うわけでもないが、いつもの仲間がいないせいか妙に慣れない感じだった。それは向こうも同じらしく、開いた距離からぎこちなさが伝わってくる。やはり伝説の勇者の子孫と言えど、不慣れな相手には緊張するのかもしれない。
(まいっか。どうせこの先も魔王城まで一緒だろうしな。さっさと打ち解けとこ)
 ベルクが笑うとアラインも微笑を返してくれた。その落ち着いた表情を見ていると、「ああ、勇者って普通こういう奴のことを言うんだろうなあ」と思えた。






 クラゲの体からずり落ちて、ベルクが落水したのが見えた。思わず助けに行こうとしたら、今度は大波が押し寄せてきてウェヌスが流されそうになった。
 どちらを守るべきかなど一目瞭然だったので、ノーティッツは迷わずウェヌスの腕を掴んだ。ある程度のことならベルクは放っておいても平気なのだ。平気だとわかっていても平然とはしていられないが。
 新手が襲って来ないうちにと船は猛スピードで岸へ向かった。マハトがアラインを見捨てて行くのかと憤ったが、そっちの勇者は金槌なのかと言うと黙った。既に飛行可能なオーバストが「緊急事態ですよね?」とオロオロしながらふたりを探しに行ってくれている。船を停めて待つまでの対応は必要ない。
 ノーティッツもベルクを心配してはいるが、どうもあの戦士はそれ以上に心配症だ。勇者の国で生まれ育った本物の勇者なら神様の守護もあるし、河に流されたくらいでは死なないだろうと思うのだが。
 マハトはアラインが子供の頃からずっと世話役として側にいるのだと聞いた。長く一緒にいすぎると逆に不安になるのかもしれない。その姿が側にないときは。
(……アホか。何を考えてるんだぼくは)
 旅に出る前は思いもしなかったことを、この頃は考えてしまう。
 女神はあんなにぞっこんだし、どんな魔物相手でも怯むことを知らなくて。
 決して自分を卑下するわけではないけれど、ベルクは自分とスケールが違う気がする。今はまだ相方役に収まっているが、このままではいつかどこかで置いて行かれてしまうんじゃないか。
 杞憂だと思うものの、何故か振り切ることができない。
 ああ、都合良くパワーアップイベントでも起きてくれればいいのに。



 ******



 アラインが水を飲んでしまっていたため、出発は小休憩を挟んでからとなった。上流に向かって歩く途中、すぐ横の森から河から幾度となく魔物たちが襲ってきたが、撃退はさほど難しくなかった。アラインとベルク、ふたりも勇者が揃っているのだから当然だ。……自分の方は勇者と名乗っていいものか、この頃わからなくなりつつあるが。
 戦闘が終わるたびアラインは密かに嘆息した。ベルクの戦いぶりと迷いなさに。対クヴァドラート戦でも型破りだなと感じていたが、ともかく彼の剣技はアラインが習ってきたものと質が違いすぎる。ベルクにとって剣は切り裂く、叩きつける、突き刺すといった用途を持つだけの得物ではないらしい。槍投げの槍のように扱うこともあれば、突き刺した後その真上から踏みつけ楔の役目をさせることもあった。それを全部考えてやっているわけではないのが更にすごい。彼は天性の戦闘屋なのだ。しかも戦いの最中に自ら武器を手放すこともある。頭突き、体当たり、背負い投げは当たり前。どんな生態かも知れぬ相手を拳で叩きのめすのに抵抗がないのかと感心させられた。そしてその体術も非常に優れたものだった。
 アラインとは身体のバネが違う。ベルクは戦士と武道家両方の長所を併せ持っていて、こんな少人数の戦闘においても魔法を使えないことがハンデになっていなかった。寧ろ最初から呪文に頼らず鍛えたからこそここまでの肉体を得ることができたのだろう。本当に頭が下がる。
 焚き火の傍ら、赤く染まったベルクの腕に回復魔法をかけながら、アラインはめげそうになる気持ちをぐっと堪えた。何度同じ苦悩を繰り返せば気が済むのだろう。故郷を旅立ったときよりずっと強くなったはずなのに、今ひとつそれを実感できない、自信が持てない。
 バールに勇者らしさが感じられないと言われたから。
 クヴァドラートを自分の力で倒せなかったから。
 ベルクの方が優れて見えるから。
 水門の街でイックスと会えなくて却って良かった。あの完璧な剣士を見たら、今よりもっと落ち込んでいただろう。
「ありがとよ。あー、お前が魔法使えるおかげでマジ助かるわ。ほんと悪ィな」
「別にこれくらい大したことじゃないよ」
「呪文一切駄目な俺からすりゃ大したことだがなぁ。一度でいいからそんな台詞言ってみたいぜ」
 お世辞でもなんでもなくベルクは本気でそう言っているようだった。確かに魔法は便利だけれど、回復ばかりしているのでは僧侶と変わらない。自分が目指しているのはそういうサポート要員ではないのだ。
「とりあえず腹減ったし飯にしねえ? だいぶ流されたみてえだしな。合流するまでしばらくかかりそうだ」
「うん……」
 腰に提げていた袋から携帯食料を取り出すとベルクは食事の支度を始めた。沸かした湯に顆粒調味料を溶かしてスープにし、薄い干し肉を何枚か炙る。手際良く動くベルクを見ながらアラインは自分が川底に荷物を落としてきたことに気がついた。薬草や水筒が入っていただけで貴重品を紛失したわけではないが、更に気が塞ぐ。ベルクの逞しさと比べていかがなものだろう。
 折角準備してくれた食事はあまり喉を通らなかった。腹は空いているはずなのに胃が受けつけない。スープの温かさに鼻の奥がツンと痛む。
「そんだけしか食わねえの?」
 アラインの正面でもりもり肉を頬張るベルクに尋ねられ、曖昧な笑みを浮かべた。ベルクはアラインの体調が良くないと受け取ったのか、心配げな眼差しを向けてくる。
「まあ水飲んじまったしなあ。あの鎧剣士と戦ったときも心臓抑えて倒れてたし……」
「……」
 単純な気遣いが鋭利なナイフとなって胸を刺す。ベルクが「食わねえともたねえだろ?」と言うので、せめてスープだけでも飲み切ろうとカップを持ち上げた。
「そうそう、腹いっぱいでねえと始まんねえからな! ……って何か俺カーチャンみてえなこと言ってんな」
 ぶつぶつ自分に突っ込みながらベルクもズズッとスープを啜る。
「そういやあのときありがとうな」
 と、唐突に礼を述べられアラインは「え?」と尋ね返した。
「俺が変な空間に閉じ込められてたとき、お前が神鳥の盾を持っててくれたから助かったってノーティッツに聞いたぜ」
「……ああ」
 別に、どういたしまして。そう答えようとしたアラインの喉に言葉が詰まる。
 あれは本来イックスが持っているべきものだった。自分が有していたのはたまたまだ。礼を言われることではない。いや、礼など言われてはいけないのだ。
 アラインは俯ききつく眉根を寄せた。吐き気がして胃がムカムカする。我が物のように神具を持ち歩いているくせに、その輝きを取り戻すこともできていない。思えば思うほど劣等感に苛まれた。
 曇りのないベルクの双眸が目の前にあると思うと何も答えられない。少なくとも嘘で取り繕うことはできなかった。
「あれは僕の力で手に入れたものじゃないから……」
 血を吐くような思いで呟くと、ベルクは「ああ、そういやイックスが盾を取ったら黒く濁ったとか言ってたな。んじゃお前がイックスから盾を預かってたってことか」と独り合点する。
「別にこっちで紹介しなくても前から知り合いだったんだな」
「……うん。いきなりパーティからいなくなったからどこ行ったのかと思ってたけど、水門の街に来てたみたいだね」
「ああ、そんでまた急にいなくなったっぽいけどな」
 ベルクは何やらイックスに対しグチグチと零していた。どうも彼が魔剣士との戦いを手伝わなかったことに憤慨しているらしい。あんな完璧な人間によく文句が思いつくなと逆に意外だった。それに、イックスがいたらきっと自分やベルクにはほとんど出番など回ってこなかったはずだ。
「ほんっとあんな強いくせして肝心なときにいやがらねえとは!」
「……イックスは強いよね。どうしたらあんなに強くなれるんだろう」
「ん?」
「彼のこと考えると自虐的な気分になるよ。僕なんか勇者に向いてないんじゃないかって――」
 そこまで話すつもりはなかったのに、自分で抑え切れなかった。しまったと後悔してももう遅い。
 ベルクは見ないふりをしてくれただろうか。
 みっともなく俯いたままの自分を。土に滲んだまるい染みを。
「悪い、気にしないでくれ。なんでもないんだ」
 格好悪さで頭がいっぱいになり、早く誤魔化さなければと焦った。アラインは目元を拭うと無理矢理笑って顔を上げる。そうしたら驚いた顔のベルクと目線がかち合った。
「向き不向きとかあんの?」
 三白眼をきょとんと丸くして彼は聞いた。本当に不思議そうに。
「魔法が得意な勇者とか、剣術が得意な勇者とか、タイプが違うだけだろ? 俺とお前だって全然違うじゃん。目指してんならそのうちなれるって。腕磨くのにマイナス加算なんかねーんだからさ」
「……いや、でも」
「でも?」
「でも……勇者ってもっと……」
 迷わなくて、揺らがなくて、利己心なんてなくて、自己犠牲をも厭わない、そんな存在じゃないのか。
 かけ離れている。絶望的なほど今の自分と。
「でもなりたいんだろ?」
 あんまりあっさりベルクが聞くのでアラインは黙って頷くほかなかった。そうだよと胸の内で叫ぶ。
 なりたいよ。勇者になりたい。だけど全然上手くいかなくて苦しいんだ。苦しいのにやめられないんだ。不安しかないのに。希望なんて持てたって一瞬なのに。
「んじゃ平気だろ。辺境の国まで来たんだぜ? ちゃんと前に進んでるよ」
 ベルクは対岸の景色を振り仰いで笑う。
 薄らと張られた霧の膜の向こう側に、山や森、広大な大地が弓なりに続いていた。見えないくらいずっと先まで。
「あの一番遠いところから来たんだから」
 黙ったままベルクの指差す方角を見つめるアラインに彼はニッと笑いかける。不意に左手が伸びてきて、アラインの右手からグローブを奪った。
「年季入ってんな? 剣ダコ何個あるんだ?」
 何度も血豆になっては潰れた固い皮膚の表面が露わになり、アラインは戸惑いに声を失くす。
 どうしてライバルに励まされているんだろうとか、やっぱりベルクの思う勇者と自分の思う勇者は違うとか、色々なことがまた頭をぐるぐる巡ったが、先程までの閉塞感は不思議と和らいでいた。
「っていうかあんま気にしすぎたらハゲちまうぞ?」
「は……ハゲ!?」
 意表を突かれすぎて思わず叫ぶ。ベルクが真顔で「ハゲの勇者なんか決まらねえだろ」と言うのでぽかんとしていると、「そうやって素の顔してた方が気楽じゃね?」となんだかもっともらしいことを言われた。
「焦ったって魔王城は逃げねえんだし――」
 台詞の途中でベルクが口を閉ざす。周囲の空気が一変し、魔物の近づいてくる気配に緊張が高まった。
 投げ返されたグローブを嵌め直してアラインは背中の剣を握る。茂みの奥から現れたのはハルプシュランゲと呼ばれるミミズと蛇が合体した巨大生物だった。



 ふしゅるると生温かい息を吐きながらハルプシュランゲがミミズ頭を左右に振る。蛇頭の方は下方でとぐろを巻いていた。既に何度か見た魔物だが、他の敵よりずば抜けて生命力が高いのが厄介だ。剣に身体を両断されてもミミズ側と蛇側で平然と動き続けるし、焼き払うか細かく切断するしかない。どちらにせよ頭がふたつあるという面倒な怪物なので、ふたりでそれぞれを相手にした方がいいだろうとアラインはベルクを見やった。
「僕が蛇を片付ける! ベルクは……」
 ミミズをと続けようとしてアラインはベルクの異変に気がついた。何故か彼は目を丸くして敵のミミズを見つめている。一体どうしたと言うのだろう。さっきも倒した魔物なのに。
「ベルク?」
「うお、悪ィ! 俺がミミズか? そっちは任せたぜ!!」
 呼びかけるといつもの彼に戻ったのでアラインはひとまず戦いに集中することにした。
 うっかり蛇とミミズを分断してしまうと蛇側の動きが異様に速くなる。あまり剣は使いたくない。やはり魔法で焼き殺すかと炎を放つ準備をした。
 アラインは詠唱よりも魔法陣を作る方が好きだ。声の出どころで居場所を悟られたくないし、魔法陣なら自分と離れた場所に描き残すこともできる。
 剣で相手の注意を引きつつ魔法を発動させるタイミングを待った。表面のうろこが湿っているため外から焼いても大きな効果がないのだ。
 ちろちろと赤い舌を覗かせる蛇は狡猾で、アラインが己の間合いに踏み込んでくるのをじっと待ち構えていた。速さがあるので迂闊に距離を詰めるのは危険だ。
 ベルクはベルクでミミズの相手に難儀しているようだった。いつもの彼ならもう何発か叩き込んでいるはずなのに、そんな気配が微塵もない。蛇がミミズに気を取られた隙を狙おうと思ったのに当てが外れてしまった。
 どうかしたのかとアラインはベルクが心配になった。敵が出るまではいつも通りの彼に見えたが。苦戦しているなら逆にこちらがベルクのために隙を作ってやらねばならない。
(……行けるか?)
 自問しながらアラインは右足に力を籠めた。意を決し、剣を構えて前方に駆ける。ハルプシュランゲは鞭のよう身体をしならせ、空中を蛇行しながらアラインに襲いかかった。
(今だ!!)
 蛇の口が大きく開かれた瞬間を狙い、その口内に幾つもの火球を放り込んでやる。まともに火の玉を飲み込んだハルプシュランゲは焼け焦げる肉の痛みに悶絶して暴れ狂った。アラインは剣を持ち直して蛇の喉を縦に切り裂く。鋭い牙がこちらを噛み砕こうと迫ったが、頭を切り落とす方が早かった。
「っよし!」
 仕留めたことを確かめた後でアラインは頭を上げる。ベルクはまだミミズ部分と戦っているようだった。手こずるなんて珍しい。
 支援のため再び火球の魔法陣を浮かべる。もしかして彼は自分を勇気づけるために、わざととどめを譲ろうとしているのだろうか。気を遣わせすぎたかな、となんだか悪い気がした。
 炎はハルプシュランゲの縄状の体を舐め、めらめらと燃え上がらせた。肉体の水分が飛んで元気を失くしたミミズにベルクが飛びかかる。

「……」

 魔物が倒れ、地に伏せて、絶命するのを見届けても彼はまだ力を抜かないままだった。声もなく悲痛な面持ちでハルプシュランゲを見つめているので、アラインの息まで詰まってしまう。
 本当にどうしたのだろう。戦闘の前あんな話をしていたから、何か悪影響でも及ぼしたのだろうか。
 張り詰めた空気にアラインはどきどきと心臓を跳ねさせた。
 弱音なんか吐くんじゃなかった。ベルクにまでこんな思い詰めた顔をさせて。アンザーツの血を引いているくせに情けない――。

「びっくりした……。今の敵、カーチャンにそっくりだった……」

 アラインは「ん?」とベルクの台詞を反芻した。「カーチャンってなんだ? どういうことだ?」と。
「み……身内に似てるって案外うろたえるんだな。うおおお二度と会いたくねえ! 今の! もう死んだけど!!」
 振り返ったベルクと目が合って、時間が止まったような気がした。
 隣国の勇者は己の体感したおぞましさを何とかアラインに伝えようと手足をばたつかせている。もう動かないハルプシュランゲのミミズ頭に目を落とし、どう見てもミミズだな、としっかり確認し直し、最後にアラインは掌で口元を覆った。駄目だ、これは堪え切れない。

「あははは、あは、あははははっ、べ、ベルク、あはははは!!!」

 涙目で噴き出したアラインにベルクは「ああッ!? てめえ笑うんじゃねえよ!!!」と怒声を浴びせた。
「つーかお前ならノーティッツと違って笑わずに聞いてくれるかなってちょっと期待したのに!!! 言っとくけど俺、割と本気で悲しい気持ちになってんだからな!!?」
「か、悲しい気持ちなの? あははは、いや、ごめ、あはは、あはははは!!」
「だから笑うなっつってんだろうが!!!!!」
 あまりにも想定外すぎて、これは兵士の国独自のネタか何かかと疑ったが、ベルクの反応を見るにどうやらジョークの類ではないらしかった。
「勇者のくせに他人を笑うとは……!」
 などと言ってアラインの頬を抓ってくるので「だってミミズが母親に似てるとか言い出すから!」と噴き出しても仕方のないことを弁明する。
「ああ、お腹痛い……。久々にこんな笑った。今魔物に襲われたら僕戦えない」
 手の甲で目尻を拭い、まだ痛む腹筋を擦る。そんなアラインを不機嫌そうな目で一瞥するとベルクはぽりぽり頭を掻いた。
「ったく、イメージ狂うぜ。俺は本場の勇者ってのはもっと人間味のないヤローかと思ってたのに」
「え?」
「ああ? だって絵本でしか見たことも聞いたこともなかったんだぞ? それが悩んだり笑ったりして、なんつーか……」
 少しの間ベルクは唇を突き出し考え込んだ。続く言葉を探そうとしてああでもないこうでもないとうんうん唸る。そうしてやがて言いにくそうに、半ばこちらを睨みつけながら呟いた。

「俺は、お前みたいな奴が勇者で良かったって思ったよ」

 胸に生まれたのは安堵か喜びか、それともそれ以外の何かだったのか。
 アラインはベルクの言葉を心の奥にそっとしまった。誰の手垢もつけられぬほど深いところに。
 自分でも知らないうちに笑っていた。僕もだと泣きそうになりながら口にする。

「僕も、ベルクが嫌な奴じゃなくて良かった」

 憎めそうな相手ならきっと憎んでいたに違いない。認めない、排除してやると、渦巻く嫉妬と羨望に負けて。
 そうならなくて良かった。自分から「勇者」を踏みにじるような真似をしなくて、本当に良かった。
 すっきりした気分でアラインは剣を鞘に戻す。
 十分も歩くと腹の虫が鳴り、早々に二度目の休憩を取ることになった。



 ******



 ……四桁だ。ついに四桁の大台に乗ってしまった。
 のた打ち回りたいほどの悔しさでディアマントは身悶えた。森の切れ目から覗く、清々しいほど青い空が憎らしくてたまらない。固い地面に這いつくばって虫けら状態の自分が一層情けなくなってくる。何故自分は、何回やっても、何回やっても、この女に勝てないのだ……!!
「これであたしの千勝無敗ね。今日もご苦労さま」
 また少し紅くなった髪を翻してエーデルが近くの切り株に腰を下ろす。これ以上の手合わせを続ける気はないという意思表示だ。
 ぐぬぬと喉奥で唸りながらディアマントは半身を起き上がらせた。服や髪についた土を払い、動悸がするのを必死で抑え、何とか威厳と自尊心を取り戻そうと努める。
「貴様どうやってそこまで鍛えたのだ? 何か薬物でも服用しているのではあるまいな?」
 詐欺か反則かという強さを持ったエーデルにディアマントは詰め寄った。天界人たる自分がこうまで負け続けるなど普通に考えて有り得ない。オステン村に逗留を決めた日から日に三回は彼女に挑んでいるというのに、未だ満足な一撃を与えられた例もなかった。
「さあ、気がついたらこうなってただけよ。あたしの方が知りたいくらいだわ」
「……」
 エーデルはあまり自分の身上を話そうとしない。お喋りな村の若い娘たちと違って、毎日一緒に過ごすディアマントにさえ何も語ろうとはしなかった。彼女に魔物の血が流れているのは一目瞭然だし、そこに強さの秘密があるのだろうと切り込んだこともあるのだが。
 否定もせず肯定もせず、エーデルは「それがあなたにどう関係あるの?」と拒絶しただけだった。知りたいから聞いただけだと言えば、返事は「馬鹿じゃない?」のひとことで。
 孤独な女。孤立した女。羨ましげに村人たちの営みを眺めるくせに、求めようとはしない女。
 彼女は常に矛盾していた。それがどこか危うく、か弱そうにも見え、しかし挑んでみれば結果は毎度同じだった。彼女はやはり強かった。
「解せん」
 こんな不確かな生き物に完全無欠である天界人が勝てないわけないのだ。それなのに。
「原因究明が甘いんじゃない? 勝てないのは事実でしょ」
「……ッ!」
 あんまりバッサリ切られたので少しは言い返してやろうとディアマントがエーデルに顔を向けたときだった。暑さで開かれた彼女の胸元に、何かきらりと光るものが見えたのは。
 それは首飾り用の細い鎖だった。装飾品を身につけるなどという女らしい一面もあるのかと何の気なしに見ているうちに、ディアマントはおかしなことに気がついた。首飾りの鎖から微かに聖なる力を感じるのだ。天界に流れる空気と同じ――即ち神の加護を。
「……おい。貴様が首につけているものはなんだ?」
 まさかという思いでディアマントは腕を伸ばした。突然掴みかかられて驚いたエーデルが腕を払いのける。だがディアマントはおかまいなしに鎖を握り、服の下に隠れていた首飾りを引き出した。
「こ、これは……!」
 美しい神鳥のレリーフ、輝くオリハルコン。見間違いようもない、これは神鳥の首飾りだ。塔の番人とともに行方不明だと聞いていたのに、こんなところにあったのか。それにしてもどうしてエーデルが?
「離しなさい! それは大事な人から預かっているのよ。汚い手で触らないで!!」
「な……っ!? 貴様、誰の手が汚いだと!?」
 首飾りを奪い返した彼女の腕をぐっと掴むとディアマントは憤慨に声を荒げた。もとい、荒げようとした。
「触らないでって言ってるでしょ!!!」
 次の瞬間天地が大きく旋回した。所謂背負い投げと呼ばれる体術だったらしいが、そのときのディアマントには知る由もなかった。ただ千と一敗目が鮮やかに決められただけだった。
「き、貴様、その首飾りは、なぁ……っ!」
 真に勇者として認められた者だけが、とディアマントが説明しようとした瞬間、わあっと大きな歓声が上がる。村の方からだった。その唐突さも相俟って、思わずふたりは顔を見合わせる。どうやらオステン村に何かあったようだ。
「戻りましょ。いつもと様子が違うわ」
「待て、まだ私の話が終わっていない」
「後で聞くわよ。置いて行かれたいの?」
 エーデルはさっさと走り出して行ってしまう。チッと聞こえるように舌打ちを漏らすとディアマントも彼女の後に続いた。



 村外れの森から居住区の広場に戻ると、そこには見慣れない一団の姿があった。
 河を見れば二十人ほど乗り込めそうな船が浮かんでおり、向こう岸から来た連中なのだとわかる。渡河の途中で仲間がふたり水に落ちたらしく、彼らは捜索の手筈を整えたいと村長に掛け合っているところだった。
 水門が閉じたのか、とディアマントは少々意外に感じた。対岸の街が自己防衛を重視するなら魔王が滅びるその日まで身勝手な態度を貫くものと思っていたが。オステン村の人間が歓声を上げたのはこれで交易を復活させられるという喜びからだろう。実際今の彼らは生活の大半をエーデルの狩りに頼っていた。
(……ということはエーデルは最悪お払い箱だな。まあこの女はこの女で河を渡るつもりだろうが……)
 彼女には探し人がいると聞いている。どうしても会わねばならぬ人間がいるのだと。
 真摯な表情が何故か面白くなかったことを思い出して、ディアマントはふんと鼻を鳴らした。どうしてもとエーデルが言うなら、その探し人を見つける手伝いをしてやっても構わないが――。

「クラウディア?」

 不意に上擦った声が響いた。そちらに目をやれば、旅人の群れる中へまるで宝石でも見つけたかのよう駆け寄って行くエーデルの後ろ姿があった。
「クラウディア! クラウディアなの!?」
 人波を掻き分け彼女は進む。エーデルを迎えたのは少女とも少年ともつかぬ金髪の若者だった。
「エーデル……ですか? まさかこんなところで会えるなんて……!」
「クラウディア!!」
 いつもどこか張り詰めていた横顔には薄らと涙が滲んでいる。感極まったという風にふたりは再会を喜び抱き合った。

「……」

 一体どうして己は呼吸を止めているのだろう。
 何故こんな衝撃を受けねばならぬのかまったくわからない。
 ディアマントは目の前の光景をまるで異国のお伽話のように眺めていた。エーデルの瞳には歓喜の色がありありと浮かび、頬は上気すらしている。まるでそこいらの不道徳な村娘たちと同じように、彼女はクラウディアとかいう僧侶だけを見つめていた。
 なんだこれは。なんなのだこれは。
(私の前ではあんな顔を見せたことなどないくせに……!)
 意図せず足は踏み出していた。なんとしてもふたりを引き裂いてやりたくて仕方なかった。
 右腕を持ち上げ、前へ突き出し、彼女らの間に割って入ろうとしたそのとき。

「お兄様?」

 耳馴染みのある声が耳に飛び込んできた。
 相変わらず鈍臭そうな、この間の抜けた響きの声。
 妹がここにいるということは……。

「――」

 ちら、と目線を横に移すも暑苦しい従者の姿は見つからず、ほっと息を吐く。ウェヌスの護衛中だと聞いているが、そうか、今頃は流された同行者の行方でも追っているのかもしれない。面倒な相手と絡まず済むならそれに越したことはない。

「ディアマントさむあああーーーー!!!」

 だが安堵も束の間、頭上でオーバストの泣き叫ぶ声が聞こえた。しばらく会っていなかったせいか従者は感極まって号泣している。両腕を広げて急降下してくるのでディアマントは徒手空拳で相手を叩き落とした。
「やかましい!!! いいっ加減その鬱陶しい挨拶をどうにかしろ!!!」
「だっで、だっで久じぶりにお会いでぎだので、わだじうれじぐで」
「いちいち泣かんでいい!!!」
「おごごろづがいありがだぐぞんじまずううううう!!!!」
「貴様を気づかって言っているのではない!!!」
 額を土に擦りつけておんおん泣いている従者をそれ以上構うことはせず、ディアマントは妹に向き直った。一応兄として声をかけておいてやらねばなるまい。どんな不出来な女でも一応は神の子、血の繋がった妹なのだから。
「ウェヌス、お前はお告げさえ終われば天界に戻ると聞いていたが?」
「私にも色々あったのですわ。お達者そうで何よりです、お兄様。こちらが私の勇者ベル――……あっあああ!!! そ、そうですわ、ベルク! ベルクが実は河に落ちてしまって、私もその捜索部隊の一員としてああああ!!!! オーバスト!! ベルクは見つからなかったのですか!!?」
「よくわからんが落ち着け!!!」
 一喝した後もウェヌスはごちゃごちゃ言葉にならない言葉を叫んでいた。要約すると一緒に旅している勇者候補が戦闘中に落水してしまった、おそらく無事でいると思うが魔物の多い土地なので早く迎えに行ってやりたい、ということだった。
「私も近くを探してはみたんですが、さっきのようなクラゲやタコや殺人イルカに襲われて……。すみません、一旦合流した方がいいかと思いまして」
「アライン様も見つからなかったのか?」
「うっ……、お、お力になれず申し訳ありません……。あ、でも水面に血が浮いてるとかはありませんでしたよ!」
「早く川下へ探しに行きましょう。アラインさんもベルクさんも心配です」
 クラウディアとかいう気に入らない人間は、流されたもうひとりの勇者候補の連れ合いらしい。
 ハッとディアマントは鼻で笑った。船から落ちるなど自分には考えられぬ不覚だ。
「ふん、水上戦闘もろくにできずに勇者候補とは情けない。野垂れ死ぬのがお似合いだな」
 思ったままを口にすると、予想外に各所から批判の声が降り注いだ。
「なんってこと言いやがる!!」
 一番いきり立ったのは大柄な戦士だ。馬鹿のように大きな怒声を響かせてディアマントを睨みつける。
「あんたがウェヌスのお兄さん? 悪いけど、こっちは今仲間とはぐれて気が立ってんだ。世間の常識知らないことはわかってるけど、無神経な発言はやめてくれよな」
 抑えた声でそれだけ言ってきたのは栗色の髪の少年。こちらはこちらで凄まじい冷気を放つ目で見据えてくる。
「ゆっくり再会を喜んでいる場合ではありませんね。この辺りはヴォルフの大群がうろついているはずですから……」
「クラウディア、あたし手伝えることがあるなら手伝うわ。この辺りの森なら土地勘もあるし」
「助かります、エーデル。ありがとうございます」
「いいのよ。少しでもあなたの役に立てるなら、いくらでも使って」
 またふたりの世界を作り始めたエーデルとクラウディアをギッと睨み、ディアマントは毛を逆立てた。とろり蕩けた彼女の目つきが不愉快極まりない。
「待て、そんな連中に貴様の力を貸してやることはない。自分の仲間くらい自分たちで探せばいいのだ」
 口をついて出た言葉は更なる怒りを買ったようだった。
 エーデルはひとこと「救いようのない馬鹿ね」と告げると、付近の地図を受け取った数人の男と共に岸へ向かった。ウェヌスには「お兄様、冷たいですわ!」と非難され、オーバストには「私が一緒についていますから、後で皆さんに謝りましょうね」と窘められ、立場も何もあったものではない。
(私は天界人だぞ!? 何故人間ごときに、妹や従僕ごときにかような扱いを受けねばならない!?)
 沸々と腹が煮えたぎる。何よりエーデルの見下しきったあの表情。この自分があんななよなよした僧侶に劣るとでも言うのか?
(気に入らん……っ!!)
 ディアマントはぎりぎりと歯を噛んだ。
 初めて目にしたエーデルの娘としての華やかさが、酷く心をうろたえさせ、強烈に不快だった。



 ******



 アラインとベルクを探す捜索隊はエーデルを先頭にほぼ一列で進んでいた。辺境側の河岸はところどころ泥が混じり、沼と化しているところもある。歩き難さと心配で苛立つ一行の隙間を飛びつつバールは物思いに耽っていた。
 思い切って剣の塔を飛び出してきたものの、この先自分はどうするつもりなのだろう?
 百年の眠りについたとき、いつもその期間は夢の中で交信していた首飾りの神鳥は、うんともすんとも答えなかった。ア・バオ・ア・クーはバールが塔に落とされたときから狂っていて、最初から相手にならない。退屈すぎる百年を終え、やっと目を覚ましたと思ったら、トルム神はラウダが首飾りの塔を放棄した、次の勇者もさだまっていないと伝えてきた。
 おかしなことだらけだ。何百年も神具を守ってきたけれど、こんなに例外まみれだったことはない。
 マハトの推測通りイックスやベルクたち勇者候補が皆アンザーツの子孫だとしても、その中からひとりを選べば済む話で、こんなに何人も勇者候補が存在する理由になっていないように思う。
 そもそも何故ラウダは塔を捨てたのだろう?彼はバールと違って真面目な神鳥だったし、番人を嫌がる素振りも見せていなかった。聖獣などと呼ばれているが、自分たちが塔を守るのはそれが天界で禁を破った罰だからだ。入ってはいけない天の神殿に忍び込み、見てはならない地上世界を覗いたから。
 何故それが禁じられているのか誰も知らなかったけれど。
(ラウダの奴、アホなこと考えとんのちゃうやろな……)
 横手に広がる森は鬱蒼と生い茂り、陽の光さえ届かぬ場所も多かった。河と森の間は狭く、肉食の巨大植物や魚の化物が襲ってくるたび列が分断され足止めを食らう。ベルクへの信頼があるからかウェヌスとノーティッツはそこまででもないが、マハトの焦燥は深刻だった。ひとりで先々進みそうになるので何度もクラウディアに宥められ、そのたび眉間に皺を増やしている。余程彼の勇者が心配なのだろう。
 この戦士の魂は本当にムスケルとよく似ていた。生まれ変わりかもしれないと言ったがこの頃は確信に近い。仲間思いで、いつも影から皆を支えて。最後までアンザーツを探し続けたのも彼だったと聞く。どこにもいない勇者の代わりにゲシュタルトを守ろうとしたのも。
 アンザーツの伝説はバールにとっては悲劇である。魔王を退け幸せになるはずだったのに、仲間は皆ばらばらになり、ふたりも行方知れずになった。今度はそんなことが起きなければいい。
「魔物が多いね」
 二時間も経つとノーティッツも溜め息を漏らすようになった。少し歩けばすぐ魔物に襲われるのでまだ幾らも進めていない。このままでは合流が夜になるかもしれなかった。実力者ふたりの遭難とは言え危険かもしれない。大体、不細工な方は魔法が使えないのではなかったか。
「そうですわね……。せめてハルピュイアだけでも先を見てきてくださるとありがたいのですけど……」
 ん?とバールは声の主を振り返る。ばっちり目が合った女神ウェヌスは美しい笑みをバールに向けてもう一度囁いた。
「善は急げと申しますし、単独行動にはなりますが、ベルクとアラインさんを探しに行ってくださいますか?」
「……」
 ばれていないわけがないとは思っていたが、やはり正体は見破られていたようだ。まあ天界には自分のような神鳥が何百羽といるので当然か。バールは観念して旋回するとクラウディアの肩にとまった。
「女神はんもお人が悪いわあ。気ぃついてんのやったら先に言うてくれはったらええのに」
「あら、だってあなたも私に何も仰らなかったでしょう?」
「そらそうですけど……」
「それに私のベルクより、アラインさんがお気に入りのようですし」
「ちょ、ちょお! 変な絡み方せんといてくれません?」
「私は思ったままをお伝えしているまでですわ」
 つんとウェヌスはそっぽを向いたが顔は怒っていなかった。どちらかと言えば虚勢を張っている風で、早くベルクを見つけるために協力してほしそうに感じる。確かに自分なら魔物に襲わてもどうかなる心配はないし、彼らふたりの居場所がわかればそちらへ導くこともできる。
「え、何それ? なんで鳥が喋ってるの?」
「ま、まあ……」
 バールが普通の鳥ではないと知らなかったノーティッツとエーデルはぽかんと口を開いていたが、その辺りはクラウディアに任せておけば上手く説明してくれるだろう。「ほな行ってきますわ」と言い残すとバールは空高く飛び立った。



 長い河を一望できる高さまで来ると、バールは目を凝らしてふたりを探した。草木が生い茂っているせいで人探しは困難だけれど、幸いベルクは神鳥の剣を持っている。その気配ならなんとか見つけられそうだった。
(ああ、おったおった。なんやそんなに離れてへんやないか。しかもアラインも一緒やわ!)
 喜び勇んで空を降りかけたそのとき、バールの前をヒュッと青銀の光が横切った。同じ色の羽、同じ形の長い尻尾――、丸い目のバールとは対照的に、切れ長の瞳を持つ神鳥だった。
「ラウダ!?」
 突如現れた旧知の友に驚いて名を呼ぶと、ラウダは仄光る羽をはためかせながらバールに言った。まるで忠告するかのように。
「塔へ帰れ。候補者たちに肩入れするな。魔王城に勇者を送り出す必要はない」
 そんな言葉は理解できようはずもなかった。何百年と勇者に試練を課し続けてきた聖獣の台詞とは思えない。
「はぁぁ!? ジブン何言うとんねん、魔王倒さな人間滅びてしまうやないか! 魔物かてめっちゃ増えとんねんぞ!?」
 番人仲間と向かい合い、バールは顔をしかめる。以前から一途な堅物とは思っていたが、まさかこうもあらぬ方向に走り始めるとは頭が痛い。
「帰れ言うんやったらワシにわかるように説明せんかい!! 百年も心配かけさせよって!!」
 空中での睨み合いは数十秒続いた。
 誰に何を吹き込まれたのか知らないが、ラウダの目は本気だ。勇者に力を与えるのが使命のくせに勇者に力を貸すななど、一体どういう了見なのだ。
「……いずれ天へ帰るつもりなら知らない方がいい」
「は? ジブン天界に戻してもらうつもりないんか? 千年お役目務め上げて一緒に帰ろう言うてたやんか!!」
「私は二重に禁を犯した。どのみちもう戻れない」
「……」
 青い羽が揺れて煌めく。バールはだんだんムカムカしてきた。ひとりでわかった風なことを言って。
 ラウダに何か余計な入れ知恵をした馬鹿がいる。神鳥に接触できる者など勇者とその仲間しかいない。
 誰だ?アンザーツか?ヒルンヒルトか?ゲシュタルトか?ムスケルか?――それとも。
「勇者に肩入れすんな言うけど、お前がくっついてるイックスちゅうのはなんやねん!! そいつも勇者候補と違うんか!?」
 怒りのままにバールが問うと、ラウダはふんと鼻を鳴らして「お前もよく知っている男だ」と笑った。
「百年前、勇者たちに頼まれて魔王城まで飛んだことがある。洞窟が崩落していて城へ辿り着けないと言われてな」
「質問に答えろやボケ、イックスは何者なんや? 勇者の子孫か?」
「あのときから違和感はあった。私が塔に落とされるとき見た地上とは、あまりに地形が変わっていたから」
「それがどないしてん? 何の関係があんのや?」
 ラウダとは長いこと孤独を慰め合った友人同士だ。それなのに今目の前にいる彼との距離はあまりに遠い。

「我々は何も知らされていなかったのだ」

 呟きは風に吹かれて霧散した。ラウダは大きく羽を広げてバールの前から飛び去ろうとする。
「あっこのアホ!! 待たんかい!!!」
 すぐさま彼の後を追い、バールも風を切って飛んだ。
 ラウダは何を知ったと言うのだ。忠告を与えるぐらいなら教えてくれればいいのに。そうでなければこちらだって己の取るべき道がわからないではないか。

「――ッ!!」

 ラウダの行く手を遮るべく速度を上げる。だが追跡を邪魔するように強い向かい風が吹きつけた。
 風は魔力を帯びていて、そのまま薄い結界になる。どうやらこれ以上進ませる気はないようだ。
 魔法の放たれた方角を見下ろせば岸に立つ男の姿が目に映った。黒衣の賢者はこちらに指先を向けたまま神鳥をその肩に迎える。
「ハルムロース!?」
 あいつ何しとんねんと目を凝らし、彼の状況をもっとよく把握しようとしてバールは声を失った。
 右の手の甲に五芒星の刻印。あれは間違いなく大賢者の証だ。
「ヒ、ヒルンヒルト……!?」
 叫ぶと同時、また強い風がバールを煽って吹き飛ばした。思わず目を瞑り翼で頭を庇う。
「うおっ!!?」
 どすんと何かにぶつかったと思ったらベルクのイケていない顔面がすぐ側にあった。
「バール! 探しに来てくれたのか?」
 嬉しそうにアラインが寄ってきて、ベルクの肩に引っ掛かった爪を外してくれる。
 慌てて飛び上がり周囲をきょろきょろ見渡したが、ラウダたちはもうどこにもいないようだった。
「……バール? どうかした?」
 声は鉛のように重く、簡単には喉を通過してくれそうにない。
 ラウダだけでなくヒルンヒルトまで出てきたとなると、もう可能性はひとつしかなかった。
 イックスと名乗るその男こそが先代勇者アンザーツなのだ。






「アカンわ……。わけわからんくなってきよった……」
「うおお!? 喋った!!?」
 何やら思い悩んでいるらしいバールがぼやくのを見て、ベルクが引っ繰り返った。剣の塔の封印を解いた当人である彼の反応にアラインの方が驚く。てっきりバールのこの姿のことも知っていると思っていたのに。
「あれ? もしかして気付いてなかった? バールは剣の塔を守護してた聖獣なんだけど……」
「へ!? 聖獣!? これがあのデブス鳥!?」
 驚愕に目を瞠るベルクの腕を神鳥は鋭いくちばしでしきりに小突く。やはり容姿についてのあれこれはデリケートな問題だったらしい。
「いて! いてて!! わ、悪かったって!!」
「ジブンにだけはデブスなんぞ言われたないわ!! 戦うときは肉体が必要やから、神様のくれたあの身体使うしかないんや!! ホンマのワシの麗しい姿をよぉその目に焼きつけとけッ!!」
「わかった! わかったからつつくな!! いててて!!」
 怒りが収まるとバールはアラインの肩に戻ってくる。憤慨しきりの神鳥を横目にアラインはくすくす笑みを零した。
「災難続きだなあ、ベルク」
「お前も見てねえで止めろよな。お前んとこの鳥だろ?」
「いや、面白かったからつい……」
「なに楽しんでんだこの野郎!!」
 胸元を掴まれ揺さぶられても頬は緩みっぱなしだった。さっき思い切り笑ったおかげで胸のつかえは完全に取れてなくなっている。
 ベルクの言う通り、進むことはあっても引き返すことはないのだ。なら少しずつでも理想には近づいているのだろう。今はそれでいい。
「なんや知らん間に仲良うなっとるやん。面構えまで変わっとるし、やっぱり勇者の血筋だけあるなあ」
 感心した素振りで話すバールの言葉も素直に受け入れられた。昨日まで本当にうじうじしていたのに。
 焦っていたのだなと今更ながら反省する。皆にもさぞかし迷惑をかけてしまったに違いない。
「つーかこの鳥が聖獣ならイックスが連れてたありゃなんだ? 目つき以外はそっくりだったぞ?」
「……それは……」
 僕らにもわからないんだと答えようとしたら、先にバールが意味ありげに「その話もさっさとせなアカンな」と嘆息した。
「あ? 何? お前なんか知ってるの?」
「ワシも今さっき知ったんや。辺境の塔の神鳥に会うてな」
「えっ!?」
 アラインとベルクはまじまじとバールを見つめる。そう言えばベルクと衝突したとき、バールはどこからか吹き飛ばされてきたようだった。塔ではあの通り規格外の姿だったし、そういう飛び方もするのかなと失礼な誤解をしていたようだ。
「会ってどうしたんだ? 何か話したのか?」
 アラインの問いにバールは暫し押し黙る。考えがまとまっていないと彼は言い、全員と合流してから情報を整理しようと提案した。
「マハトたちは近くまで来てるのか?」
「せやな、魔物が出んかったらもう五分か十分で会えるやろ」
「おお、そりゃ良かったぜ」
 ともかくも勇者水入らずの時間は終わったらしい。
 早く仲間に無事な姿を見せてやりたかった。






「ちょっと苛々しすぎじゃないですか?」
 パーティ外のノーティッツにまで宥められ、マハトは小さく溜め息を吐く。
 そんなことは言われなくてもわかっているのだ。アラインの身を案じて気を揉み過ぎだなんてことは。
 ふたつも国境を越えてきたのだから、こんなところで命を落とすようなヘマはしていないと思う。だが一緒に流された相手がベルクというのが不安の元凶だった。
 アラインは今ただでさえ勇者としての自信を失いかけている。しないでいい比較をして落ち込む姿も何度か見た。そんな状態であの少年とふたりになって、ナーバスが悪化しないか心配で仕方なかった。クヴァドラートを撃退したのも結局はベルクとハルムロースの力だったと自分を責めるようなことも口走っていたし。
 先の戦闘ではマハトも大いに反省した。国境の洞窟以来の大失態だ。主人の力になるどころか、思い切り足を引っ張っただけ。クラウディアが呪いを撥ね退け槍を奪ってくれなければ、己のこの手でアラインを攻撃していたかもしれない。考えただけでゾッとした。

 ――わたしを操ることはできません。

 マハトの手にした魔槍の柄を掴んだとき、クラウディアの双眸には見たこともないほど鋭い覇気が宿っていた。やはりバールが勇者候補に推すだけはある。彼もまた強い精神力を持っている。静かな威圧にマハトは正直震えさせられた。
 確かにアラインにはああいった凄味や気迫はない。勇者として何か足りないと言われると、その部分かなという気もした。
 だが彼は勇者アンザーツの正統な後継者で、勇者となるべき人間なのに違いはないのだ。兵士の国の王子だかなんだか知らないが、あんな猿山の大将に負けてほしくない。
(いかん、また俺はこんな……)
 最近妙に周囲に対して攻撃的だとかぶりを振る。最年長者なのだから、本来はもう少し落ち着くべきなのだが。
 アラインを大事にしすぎなのだろうか。別に四六時中彼のことばかり考えているわけでもないけれど。
「……」
 マハトの脳裏に兵士の都で会った女の顔がよぎった。
 ふとした瞬間彼女のことを思い出す。魔性そのものの赤い瞳と「ムスケル?」と呼んだ声を。
 闇に堕ちた聖女。勇者アンザーツの妻。あれがきっとゲシュタルトなのだと日に日に確信は強まった。なのにまだ誰にもそれを打ち明けていない。
「……あら? あれじゃない?」
 と、先頭のエーデルが前方を指差した。茂みを掻き分けるようにして歩いてくる主人を認め、マハトは「アライン様!」と喜びの声を上げる。
「まあ、ベルクもおりますわ! ベルク! ベルク!!」
 ウェヌスが彼に飛びついて行くのを横目に、やっとマハトは胸を撫で下ろした。どこも怪我などしていないか確かめようとして、アラインの元へ一歩踏み出す。
「薬草も癒し薬も少ししか持っておりませんでしたし、私心配しましたのよ……!」
「おお、俺も最初ヤベーかなって思ったけど、こいつが回復魔法も万全だったからよ」
「うん。魔法は小さい頃からやらされてたからね」
「まああ! またしてもベルクがあなたのお世話になったのですね? 先日の魔剣士のことと言い、アラインさんには何かきちんとしたお礼をしなくては……」
「いえいえ、こちらこそベルクには助けられっぱなしだし、お気づかいなく」
 元気そうな――もっと言えば吹っ切れた様子のアラインを見て、マハトは足を止めた。
 なんだろう。何か近寄り難い感じがする。
 あのウェヌスという子は他の勇者候補などくそくらえという突っ走ったスタンスだったのに、急に態度が軟化しすぎでないか?
 いや、それよりも親しみの篭ったアラインの口調が気になった。
「いつもと違う組み合わせだったけど、案外楽しかったしね」
「あー、そうだな。お前の剣技見てると新しいコンビネーションを生み出せそうだなってのは俺もちらっと」
「いやそういう意味じゃなく、ベルク見てると飽きなくて」
「は?」
「だって倒した魔物に何言うかと思ったら、あ、あんなこと! あははは、駄目だ思い出したらまた笑えてきた、あはははは!!」
「あ、てめえ! それもう笑うなっつっただろ!?」
「神妙な顔してるから何事かと思ったのに、あはは! あははは!!」
 アラインの笑い声に皆は安堵の笑みを漏らしたが、マハトはひとり心中穏やかでなかった。
 何を言ってもどう励ましても深く沈んだままだったアラインが、本当に楽しそうにベルクと話している。
 仲良くするならそれはそれで構わない。勇者同士で争い合うのも不毛な話だ。理性ではそう思うのに。
(なんだこれ……?)
 どす黒い感情の波が押し寄せてきてマハトは愕然とした。

 ――でももし彼が本当の勇者になったら、あなたきっと置いて行かれるわ。

 試練の森でゲシュタルトの幻に囁かれた言葉が甦る。
 いつか置いて行かれるとは、いつかアラインに必要とされなくなるということだろうか。

















(20120604)