第九話 ヒロイック






 夢を見た。
 三年前の旅の夢だ。主人であるアラインを置き去りに、ゲシュタルトの手を取ったときのこと。
 いくら肉体を乗っ取られていたわけでないと言っても、あのときの自分はやはり正気ではなかったと思う。
 今ならいくらか客観的にムスケルの記憶を捉えられる。憑依を解くべくヒルンヒルトに斧を向けたときも、前世の苦悩に雁字搦めにされていた。
 なんで何も教えてくれなかったんだとか、なんで黙って消えちまうんだとか。
 頼りにされていなかったのがムスケルとしては最もショックだったらしい。特に賢者に対しては、なんだってひとりでやっちまうんだろうと反発すら覚えていた。ゲシュタルトの娘を引き取った彼と、王都に帰った自分と、会おうと思えばいつでも会える距離にいたのに。
 まさかこうして自分が彼を助ける側に回る日が来ようとは。
 石を捨てろと告げた賢者は百年前の彼と同じなのだろうか。それともこの百年の間に、そんな殊勝なことを言えるようになったのか。少し尋ねてみたい気もする――。

「……」

 窓から差し込む光に薄ら瞼を開くと眼前に朝焼けの色が広がっていた。ラベンダーと同じ薄紫の長い髪。花ではないので香りはない。いや、あったのかもしれないが、それを認識する余裕はこちらになかった。誰だって起きぬけに隣で人が寝こけていればびっくりするだろう。
「な、何やってんだお前!!」
 驚いて跳び上がったマハトの声にヒルンヒルトはううんと目を擦る。「だって久しぶりにベッドで眠れると思ったから……」とかなんとか聞こえたが殆ど耳には入ってこなかった。
 契約の効果でマハトの触れているものならこの賢者にも触れることができるらしい。昨夜は早速夕食に出された羊肉やオリーブの塩漬けをねだられた。何が悲しくて悪霊にアーンなどとしてやらねばならないのか。こっちが契約主ではなかったのか。俺はお前の介護人じゃないんだぞ。
 言いたいことは色々あったが相手のペースに巻き込まれぬようグッと堪え、ひとこと聞かせるだけに留める。
「せめてどっちかひとりにしてくれるか……」
 背中の方ではすやすやとアンザーツが幸せそうに寝息を立てていた。こちらには後から「だってヒルトだけずるいじゃないか。ぼくも昔みたいに三人で雑魚寝がしたかった」などとわけのわからない供述をされた。
 朝からどっと疲れたが、ともかく朝だ。マハトは服と鎧を身につけると上から長いマントを羽織った。一応まだヒーナに対する警戒態勢は解かれていない。膝当てと肘当ては外さないまま斧を横に置いて眠りについていた。アンザーツはそんなことしなくても平気だよと言っていたが。






 明日訪問すると宣言していた通り、レギは侍従のクヴ・エレという男だけを連れてビブリオテークのモスクまでやって来た。マハトもイヴォンヌたちと共にそれに立ち会う。不審者扱いを受けて牢屋に放り込まれかけていたディアマントも、憮然とした面持ちで広間に佇んでいた。
 張り詰めた空気が首長アヒムと皇帝レギの間に漂う。いつ気功を使われるかわからないので軍人たちは初めから武器に手をかけていた。友好も信頼も感じられない対応だ。
 レギは一瞬アンザーツに目配せすると、少し腫れた目をアヒムに向けた。
「再三警告してきたことですが、アペティートに対する戦争行為を直ちにお止めいただけますか」
「……できないな。我々はもうあの国とはやっていけない。不利益な休戦協定を結ばされ、そのうえ何度も海を荒され、やりたい放題にやられてきた。責められるべきは寧ろあちらの方だろう? ヒーナが我々だけに制裁を与えた意図をこそ教えてほしいものだがな」
 交渉成立とはいかなさそうだと内心嘆息する。ここでアヒムが剣を収めてくれたなら、少しはゆっくりオリハルコン探しに専念できそうなのだけれど。
 最も危機的状況に陥っているのはアペティートでもビブリオテークでもなく勇者の国である。兵士の国や辺境の国だっていつ戦いに巻き込まれるかわからない。自衛のためと結んだ同盟だけれど、それだって戦況が変われば攻撃を受ける理由となってしまうのだ。
「勿論アペティートにも気功師軍を派遣します。ヴィルヘルム帝王には他国の資源を奪うのではなく内政を見直していただくよう改めて進言するつもりです。休戦に同意してくださるなら条件はヒーナが調整いたしましょう」
「前の皇帝もそう言った。そうして出来たのが役立たずの協定だ。それでもこれ以上同胞を喪うよりはと受け入れた我々が馬鹿だったよ、今はそう反省している」
「……父とわたしは違います。休戦が無理なら一時停戦を。まずは各国の代表で話し合いましょう」
 レギの態度は前回からかなり変わっているように見えた。ビブリオテークが戦争を止めようと止めまいとどちらでもよさげなスタンスだったのに、今は完全に戦争を止めさせるために動いている。アンザーツを盗み見れば、彼はさも嬉しげに黒い瞳を輝かせていた。
「できんものはできん! 十五年で積もりに積もった恨みもある。先の戦いを知らん子供と話し合って道が拓けるとも思えんな」
 頑ななのは寧ろアヒムの方だった。気功師たちが本気で来れば二日ともたず首都は落ちるとわかっているくせに、聞く耳を持とうともしない。戦争の動機がアペティートのような損得勘定にないから国中誰も止まれないのだろうか。
 平行線の話し合いに両者は睨み合うばかりだった。無言の時間がどれほど過ぎただろう。しばらくして口を開いたのはレギでもアヒムでもなくイヴォンヌだった。
「失礼ながら、アヒム首長。あなたもアペティートの協定反故を責められる立場にないのでは?」
「……なんだと?」
 俄かに起こったざわめきなど歯牙にもかけず、イヴォンヌは鋭く切り込む。可憐な外見に反して意外と根性が据わっているのだ、この人は。
「あなたがたの連れてきたあの魔物たちは何なのです? 三日月大陸は魔の国を禁猟区としているのに、こんなところにヴォルフやグリュプスがいるなどおかしいではないですか。事と次第によっては同盟の継続が困難になりますよ」
「……それなら我々にも言いたいことがある。一体昨日はどんな理由があってヒーナ側にお前たちの仲間が混ざっていたのだ? そこの男に至ってはクライスと格闘していたそうではないか」
 急に矛先を向けられたディアマントがムッと眉根を寄せた。頼むから余計なことは言わないでくれよとマハトはひとり冷や汗を掻く。だが心配は不要だったようだ。彼もこの数年で大人になってくれたらしく、アヒムを睨みつけるだけで済ませてくれた。
「格闘に至ったのは誤解あってのことと聞いておりますが? 我々もヴィーダに関しては捕えるべき敵と認識しております。こちらの者がひとり彼に攫われたのはご承知でしょう? ヒーナの件にしても、攻撃に加担したわけではありません。レギ殿は中立の立場を取ると仰られておりますし、我々とて不要な戦はなるべく避けたい。あの時点で様子見に回ったことが、同盟国の領土に踏み入り勝手に魔獣を狩る行為と比べてそう後ろ暗いことであるとは思いません。実際負傷者は出なかったではありませんか」
「結果論だ」
「かもしれません。しかしこちらはひとりの兵が判断に迷った末でのこと、そちらは首長が恣意的に行ったことでしょう。魔物を戦争の道具にしたいと頼んでも断られるとわかっていたからウングリュク陛下にもトローン陛下にもご相談なさらなかったのではないのですか?」
「……」
 よく口が回るものだと感心してしまう。昨日の時点でマハトはアンザーツやディアマントのことをどう申し開きするのか少々不安に思っていたのだが、流石はアラインの妃だ。アヒムはイヴォンヌを言い負かせるのは諦めたらしく、もっとわかりやすい脅しにかかって来た。
「……どうやら自分たちだけではアペティートに対抗できないという事実を忘れてしまったらしい。ビブリオテークが戦いを止めれば奴らはまた三日月大陸の侵略を進めてくるぞ? このまま魔法使いの軍勢を寄越さないつもりなら、今度はもっと大きな獣を連れて来なければなるまいな」
 アヒムは我々が矢面に立ってやっていると言わんばかりだ。軍人たちの目も次第に吊り上がってきて、いつ誰が刃を抜いてもおかしくない空気になってきた。
「どうしても侵攻をお止めいただけないのですね?」
 最終確認をするレギに首長はそうだときっぱり頷く。
「奴らの帝都を落とし、ヴィルヘルムを殺すまでは何があろうと止まるつもりはない」
「ではヒーナは三日月大陸と結びましょう。上下から気功使いに阻まれてはいかにビブリオテークと言えど、アペティートへ回す兵がなくなるでしょう」
「……!?」
 レギの台詞にアヒムが目を瞠る。マハトも驚き息を飲んだ。ドリト島のような満足に武力も持たない国未満の国を除けば長い間どこにも属さなかった大国が同盟を考えると言ったのだ。それも至極厄介な、魔法国同士の同盟を。
「本気か……?」
「即刻争いを止めていただけるならわたしの戯言で終わります。ただ三日月大陸にとっては願ってもない申し出でしょうね。気功師軍が援護するとなればアペティートも迂闊に手出しできなくなりますので」
「……」
 忌々しげに舌打ちするとアヒムはわかったと告げた。ヒーナがどこか特定の国につけばそれだけでパワーバランスが大きく変わってしまう。まして多数の魔導師を抱えた辺境の国が追従するとなれば、あっという間にビブリオテークは包囲される形となるのだ。
「ウングリュク陛下もあなたがたの魔界侵入を受け、一時的に援軍を帰国させると仰せです。今一度冷静におなりください。憎しみを晴らし、アペティートに勝利することだけが目的になっているのではありませんか?」
「……大きなお世話だ」
 首長は席を立ち配下数人と共に広間を後にした。一時停戦は受け入れたものの、戦争自体を諦める気はなさそうだ。おそらくまたアペティートに攻め入る何らかの手段を講じてくるに違いない。
「あなたがたにも……、昨日の非礼をお詫びいたします。申し訳なかった。それではわたしはこれで」
 足早に立ち去るレギを皆で黙って見送る。マハトの隣で躊躇う素振りを見せていた先代勇者に「行くならこっそりばれないように追いかけろよ」と助言してやると、アンザーツは小さく頷いた。






「レギ!」
 船に乗り込もうとする三つ編みの少年の名を呼べば、彼はくるりと踵を返す。笑うでも泣くでもない表情は必死に何かに耐えているようだった。心の底の蓋がずれて、溢れ出てきたものを静めているような――そんな顔。
「アンザーツ……」
「ありがとう、首長に戦争を止めるように言ってくれて」
 嬉しかったと告げた口元は勝手に綻んだ。そんなアンザーツを見てレギはますます複雑そうに瞼を伏せる。
「……安心したと思えたわけじゃない。昨日あなたに助けてもらった借りを返したまでだ」
 だからこれから自分がどういう立場を取るかはまだわからないよと彼は言う。それでいい、構わないとアンザーツは答えた。
「おかしな人だね本当に。どうしてわたしを嫌いにならないんだ?」
「どうしてって言われても……。悲しくはなったよ? レギはこんなに苦しそうなのに、なんでぼくには何もできないんだろうって」
 そう、とレギが小さく呟く。潮風がその声を掻き消そうと吹き荒ぶ。
 こちらを見上げた少年の目はまた少し揺れていた。でもそこには何かを掴もうとする一条の光が確かに差し込み始めていた。
「もしヒルンヒルトが消えていても同じことを言ってくれた?」
 嘘偽りない気持ちで「うん」と即答する。
「ぼく最近欲張りになったんだよ。ヒルトを復活させる方法とレギの不安を失くす方法、きっとどっちも一緒に探したと思うな」
 レギはそれ以上何も聞かなかった。お別れの握手をすることもなく甲板へ上がり、たくさんの操り人形を乗せて、ひとりぼっちの国に帰って行く。
 遠ざかり霞んでゆく船をただ見ていた。レギはこれから、今まで考えないように逃げてきたことと対峙していくのだろう。支えが必要になったときは呼んでくれるといいのだけれど。
「あ……っ!」
 そのとき曇り空の隙間から白い光が降りてきた。砂浜に突き刺さったオリハルコンの杖を手に取りアンザーツは満面の笑みを浮かべる。返してくれたんだ。
 見えていないのはわかっていても、なお懸命に手を振った。
 いつかまた会いたいと言ってくれるよね。






 イヴォンヌたち三日月大陸からの援軍はその日のうちに帰国船に乗ることになった。しかしレギの持っていたオリハルコンが戻ってきたとは言え、クライスとヴィーダの聖石は未回収のままだ。そこで誰をクライスの側に残すか皆で話し合っていたら、驚いたことに彼女の方から船に同乗させてほしいと願い出てきた。けれど何故そうしたいのか、大陸に渡ってどうするつもりなのかは教えてもらえなかった。
 それでも付いてきてくれた方が監視しやすいのは確かである。イヴォンヌが彼女の同行を認めると、ゲシュタルトも「別にいいんじゃない? 何か問題が起きたときはヒルンヒルトに処理させればいいのよ」と後押ししてくれた。
 力が無いなりに何かを成せたのだろうか。以前より和らいだ彼女の眼差しはどこかくすぐったい。早くアラインにも伝えたいと心がはやった。
(アライン……)
 戦場で会った夫は誰にも言うなとイヴォンヌに釘を刺してきた。魔法の中には誓約を破ると効果を失くすものもある。話すなというのは彼なりに考えあっての言だと思うけれど。
(でもゲシュタルトは、別人じゃないかと疑ってる……)
 根拠はイヴォンヌの契約が今も続いていることだった。ゲシュタルトは「アラインがイヴォンヌの正体を見破るまで」を今回の契約期間としているのだ。あのとき確かにアラインはイヴォンヌに「姫!」と叫んだ。あれが本物の彼だったなら、今頃イヴォンヌは元の姿に戻っているはずなのだ。
(……アラインの身に何事もなければいいのだけど……)
「まぁそう案ずることもあるまい。君さえ魔力供給を怠らずにいてくれれば、私もそれなりのことはできる」
 ハッとイヴォンヌは顔を上げた。まだ小会議の途中だったのに、つい思索に耽ってしまった。
 賢者の台詞にマハトはげんなり肩を落としている。敵に切られてついた傷なら仕方がないと思えるけれど、自分で自分の腕を切るのはストレスが大きいのだそうだ。
「なんだ? 傷ならいくらでも治してやるのに」
「そういう問題じゃねえよ……」
「うふふ、吸血鬼を養うのも大変ねえ」
「くそっ、お前絶対面白がってるだろ!?」
 イヴォンヌは胸中で戦士にごめんなさいと詫びる。アラインかもしれない男に会ったこと、彼にはまだ打ち明けられそうにない。






 ******






 遡ること約一日――。

 神鳥ラウダの告げた台詞にベルクとクラウディアはさっと顔色を変えた。
「ビブリオテーク軍が魔物を……?」
「マジなのか?」
「ああ、猛獣使いが軍に何人か混じっているようだ。ハルプシュランゲやらキマイラやらが街を闊歩していた。放っておけばアペティート兵は奴らに食い殺されるだろうな」
 ハルプシュランゲにキマイラか、とツヴァングは頭の中で繰り返す。どちらも魔界か辺境の国でしか生息していない怪物だ。半分ミミズで半分蛇なのがハルプシュランゲ、半分獅子で半分山羊、毒蛇の尻尾を持つのがキマイラである。図鑑でしか知らない魔物がすぐそこにいるという事態はゾッとしなかった。
「猛獣使い? ったくサーカスじゃねえんだぞ」
「アペティートほどの技術力はありませんが、ビブリオテークはカバーしてくる範囲が広いですね。まさか密猟されていたとは思いませんでした」
「あいつら元々ヤクザの集まってできた国だからな。アペティートがあまりにも筋通さねえからついに仁義を放り出したんだろ」
 成程とクラウディアが相槌を打つ。「任侠の国は兵士の国だけではなかったんですね」などと本気度の高い冗談を言うのでベルクが「泣かすぞ」と眉を顰めた。
「あっ、その発言セクハラですよ」
「妙な絡み方すんな! 悠長にしてる暇ねぇだろ、さっさと行こうぜ」
 呆れ半分に神鳥に乗り込むベルクに続きクラウディアも背に跨る。反射的にツヴァングの足も動いたが、どこへ行くのかはわかっていなかった。僧侶と神鳥は目的地について理解しているようだったが。
「これからどうするんだ?」
 ツヴァングが問うとベルクは「止める」とだけ口にした。だから何を止めるんだと苛立つ己にクラウディアの落ち着いた声がかけられる。
「魔物が人間を殺すのを止めに行くんですよ」
 えっとツヴァングは目を丸くした。ラウダもクラウディアもさも当然という顔でいるが、ツヴァングには何故そうする必要があるのかまったく見えてこない。
「だって魔物はアペティート兵を襲うんでしょう? いずれ勇者の国を取り戻すのに奴らと戦うことになるのは明らかです。放っておけばいいじゃないですか」
「そうもいかねー理由があんだよ」
 チッと馬鹿でかい舌打ちを響かせオリハルコンの剣を握るベルクにツヴァングはムッと眉根を寄せた。この男に愚鈍扱いされるのだけは鼻持ちならない。
「何のために俺らが魔界を隔離して魔物の保護活動やってると思ってんだ。好き勝手してくれやがって……!」
 怒りはツヴァングに向けられたものではなかったようだ。同盟国に対する不平を漏らすベルクの横でクラウディアが彼を宥める。
 それでもまだ理解不能という顔をしていたのだろう。僧侶はやや苦笑しながらツヴァングに説明を加えてくれた。
「魔物は本能的に人間を襲いますが、住み分けさえきちんと行えば命を殺めることはないんです。わたしたちはもう嫌なんですよ。人間が魔物を殺すのも、魔物が人間を殺すのも」
「それはわからなくもないですけど……、じゃあまさかアペティート兵を助けるってことですか?」
「まぁ行動としてはそうなりますね」
「おかしくないです!? おれたち国中めちゃくちゃにされてるんですよ!?」
 強い反発がツヴァングの中に巻き起こった。確かに自らの意思とは無関係に人間を憎んでしまう魔物は哀れだ。人を襲いかけているなら止めてやるべきだろう。だがそのために敵国の人間に手を貸すなど御免である。
「もうひとつ、呪符のこともある。十中八九ノーティッツのだ」
 いつになく真剣な面持ちでベルクは基地を振り返った。地下倉庫の火薬や爆発物に貼り付けられていた魔法の札。魔物だけでなくあれも戦争の道具にされようとしている。それを見過ごすわけにいかないとベルクは言った。
「自分の知らないところで自分の力が誰かを傷つけてたら嫌だろ。それが敵兵でも今は関係ねえってだけだ。納得できないなら手伝わなくていい」
 街が近づいてきたのかラウダが低空飛行に切り替える。魔物を捕縛するのには絶対的に人数が足りていないとわかっていて、どうしてこの男は突き放すようなことを言うのか。
(……なんでなんだよ……)
 従えと命じればいいではないか。仮にもそちらは一国の王子で、こちらはただの大臣の息子なのだから。金袋の件にしたってそうだ。必要だから奪った金だろうに、ツヴァングが嫌がったからなんて理由で封を閉じたままにしておくなど馬鹿げている。
(なんであっさり受け入れるんだ……?)
 そんな意見はおかしい、有り得ないと言えばいいんだ。
 勇者がふたりもいるなんておかしい、有り得ないと多くの民衆が口にするように、お前も――。
「……何をすればいいんだ?」
 自分が何を聞いているのかツヴァングには理解できなかった。この男に協力する気など更々ないのに。
 三日月大陸を離れた目的はアラインと祖国を救うことだ。それ以外にかまけている暇などない。わかっているのにどうして。
「俺は呪符を探して剥がす。クラウディアには兵士の回復と魔物の生け捕りを頼む。どっちの援護でもいいが、どうする?」
「呪符を剥がすなんてできるのか? 魔法が発動してしまうだろう?」
「作った奴がひねくれ者でな。手順さえ間違わなきゃイケると思う」
「……剥がす間は背中ががら空きじゃないか」
「まぁそうだな」
「……ッ」
「決まりですね。ちょうど一匹目の魔物も見えてきましたよ」
 涼やかな声でクラウディアが笑った。僧侶は軍帽を深くかぶり直し、キマイラの蹄に踏みつけられたアペティート兵の元へ軽やかに舞い降りる。死にかかっていた兵士には彼が天使に見えただろう。
「さあ、おいたはそこまでです」
 杖代わりの銃剣を掲げる僧侶を残し、ラウダは更に街の奥へと飛翔した。






 煮えたぎる感情をセーブするのは骨が折れた。とてもじゃないが冷静になどなれそうもない。
 七つの頃から一緒だったのだ。あの幼馴染の性格は自分が一番よくわかっている。
(どう使われるかもわかりゃしねえ呪符を、あいつが自分から書くわけねえ……)
 ディアマントはノーティッツがわざと捕まり続けていたように話したが、幼馴染の身に何かあったのは明らかだ。本気で早く迎えに行ってやらなくては、取り返しのつかないことになるかもしれない。
(まだ呪符で助かった。魔法陣なんぞ描かれた日にゃ指咥えて見てるしかできなかった)
 最初の爆発があった街の西側で止まってくれとラウダに指示を出す。ビブリオテーク軍は魔物を放って以降静観を決め込んでいるらしく、時折アペティート兵の悲鳴が聞こえてくる以外は静かなものだった。一般人も逃げ出した後で、街全体が幽霊屋敷の様相を呈している。
 ベルクたちを降ろした後、ラウダは再びクラウディアの元へと飛んだ。魔物の位置情報を掴んで知らせる役になってくれるらしい。
「おい、これじゃないか?」
 五分と経たず瓦礫の山と化した酒場の一角から呪符の燃え残りが見つかった。魔王討伐の旅の最中、ルール無用の対戦訓練において嫌というほど見てきた呪符だ。やはり幼馴染のもので間違いない。
「時限式だ。他のところも探そう」
 踵を返した瞬間影からしゅるりと蛇の尾が躍り出た。初めて遭遇する魔物に動転してツヴァングが思い切り剣を抜く。だからそれは最終手段だと青年を突き飛ばし、ベルクはハルプシュランゲの胴体を目いっぱい踏みつけた。
「グエェッ!! キシャー!!」
「うぉらっ!!!!」
 締め付けられる寸前に足を抜き、現れたミミズ頭と蛇頭を順番に殴り飛ばす。暗がりへ逃げようとした大蛇にジャンプしてしがみつき、今度は思い切り締め上げた。
「ツヴァング、そっちちゃんと抑えてろよ!!」
「え!? えっ!?」
 牙のないミミズ頭の方へ青年を向かわせると、己と同じ格好でハルプシュランゲを取り押さえさせる。そのまま力任せに蛇を引き摺り、弱ったところで固結びにした。眠りの魔法が使えないので些か乱暴ではあるが、ひとまずこれで悪さはできなくなっただろう。
「はぁ……あんた……、もう少し見映えとか……スマートさとかは……」
「るっせえな、そういうの苦手なんだよ。次行くぞ!」
 野蛮人とかゴリラとか言いたげな目線には慣れている。が、女だけでなく男からもそんな風に見られると少し哀しい。
 ――しょうがねーよな、だってベルクだもん。
 そう茶化すべき人物の不在に焦燥は増す一方だ。
 酒場の呪符は樽の蓋に貼り付いていた。本来単発でも相当な威力を発揮する魔法を爆薬だの燃料だのと組み合わせたということは、呪符だけでは火力が不足していたことを物語っている。街に貼られた札は何十枚とはいかないはずだ。
(あいつならもっとわかりにくいとこに貼るだろうしな)
 ノーティッツと呪符を仕掛けた人間は別人だ。その点にホッとすればいいのか焦ればいいのかそれすらわからなくなるぐらいには怒っていた。噛み締めた奥歯が鈍い痛みを訴えてくる。
(本当に好き勝手してくれやがって……!)
 次の呪符は燃え残りでなく完全な形で見つかった。発見場所は爆発地点から少し離れた空き家だった。住人はビブリオテークに襲われる以前から家を捨てていたようで、室内はかなり荒れていた。半分崩れた棚の側面に発火の札と導火線。ツヴァングの表情が強ばる。
「……時限式なんだろう? 大丈夫なのか?」
「流石にいつ発動するかまではわかんねーけどやるしかねえだろ。出入口見張ってろ」
 ゆっくりと片膝を突きベルクは呪符に両手を伸ばした。用意周到な幼馴染は敵に呪符を奪われたときのため、あらかじめ解除の術を組み込むようにしている。完全に魔法効果を消し去るにはまず左下を爪の先ほど捲り、次に右上を同じだけ捲る。後は一気に下から上に向かって剥がせばいい。効果を残したまま剥がす方法もあるが、そちらはもっと手間がかかるので今回はなしにした。
「よし、大丈夫だ」
「……っ! お、終わったのか?」
 ツヴァングはびくびくしながら何度も丸めた呪符を見ていた。こいつ信用してねえな、と火薬に飲料水をかけつつ嘆息する。床にへばりついていた導火線は念のため引き千切った。
「次行くぞ」
「ああ、――っと待て!」
 制止の言葉に息を潜める。腰を落として通りに面した壁に張り付くと、丁度窓の外をビブリオテーク兵が歩み去るところだった。
「……アペティート兵がうろついていたというのはこの辺りか?」
「見失ったみたいです。すみませんインゴ司令」
「まあいいさ。魔獣とやり合えるような輩はいたとしても少数だ。もっと数を減らしてから仕留めればいい」
「はい! ちなみに戦況は現在……」
 会話が遠ざかり気配が消えたのを確認し、そろそろと頭だけで外を見渡す。さっきのハルプシュランゲが斥候に見つかったらしい。他に兵士の影はなさそうだった。
「アペティートの軍服は脱いだ方がいいかもな。同盟国の王子がビブリオテーク兵に怪我させちゃ大問題だ」






 兵士を介抱しつつ魔物たちを眠らせろとはベルクも高度な要求をしてくれる。風の結界を張りながらクラウディアは薄らと目を細めた。
 無警戒に毒霧を吸い込んでくれるハルプシュランゲはまだしも、キマイラは賢く素早い。ビブリオテークにはよほど獅子の扱いに長けた者がいるのだろう。そうでなければ聖獣クラスのこの魔獣を檻に入れるなど不可能だ。
 鋭い爪を剥き出しにして襲いかかってくるキマイラを紙一重で避け、後ろ足と毒蛇の尾に真空波を放つ。周囲にいたアペティート兵たちは大半が逃げてしまったようだ。残っているのは重傷を負い動けない者、気絶した者ばかりだった。そうかと思えば離れた建物の窓にはこちらの様子をハラハラ見守っている腰抜けもいる。
(おかしい……)
 地下倉庫の爆薬を見たときも同じ違和感を覚えた。否、兵士たちを相手に情報収集していたときからずっと引っ掛かっていた。
(小隊長はいる。けれどそれより上の役職の人間が見当たらない。指揮官は何をしている?)
 アペティート軍はビブリオテーク軍に数で劣るわけではなさそうだ。にもかかわらず、現在まったく統制が取れておらず、皆ばらばらになってしまっている。ビブリオテークの連れてきた魔獣に対応できていないのは指示系統が乱れているせいではないかと思えた。
(どうしてこんな放置を……!?)
 キマイラは外壁や柱をうまく利用して着地することなく方向転換する。攻撃を受け流すべくクラウディアはまた銃剣に風を集めた。
 と、そのとき間近に大砲の音が轟いた。アペティート兵が付近の教会の鐘楼から援護してくれたものらしい。
(あれは砲兵のジョセフですね。勇敢で結構です)
 魔獣の怯んだ隙を突きクラウディアは眠りの魔法陣を完成させる。昔はこの程度の睡眠魔法、準備なしに唱えてしまえたのだけれど。
「クェェ……」
 猛烈な睡魔に襲われたキマイラは愛らしい鳴き声と共に突っ伏した。砂埃が巻き上がり、ケホコホと咳き込む。
 動かなくなった魔物を見てアペティート兵の何人かが建物の影から姿を現した。キマイラを取り囲み、とどめを刺そうと銃を向けるのを慌てて止めに入る。
「いけません、刺激を与えては! このまま眠らせておいてください!」
「……! き、君はマーガレット!? どうして僕らの軍服を」
 しまった、彼は第三小隊のアンドレだ。マーガレットという偽名で近づき散々飲ませて酒場の裏に捨ててきたのだ。深く詮索されないように気をつけねば。
「あなたたちが心配で街に残っていたんです。これは危険な魔物です。触れてはいけません」
 さあ怪我をした人はこちらへと慈愛に満ちた瞳で告げると傷ついた兵士たちがわらわら群がってきた。「よく効く薬です」と真面目な顔でただの飲料水を傷口に注ぐ。実際には魔法で治療しているのだが、おつむの足りない彼らはすっかり騙されてくれたようだった。この分ならさっきの風魔法も偶然で押し切れそうだ。三日月大陸の立場を悪くしないよう、魔法使いだとばれたくはない。
「ありがとうマーガレット……! でもここは危険だ。早く街の外へ逃げるんだ」
「そうだよマーガレット! ビブリオテークの蛮族どもが来る前に、早く!」
「マーガレット、生きてまた無事に会おうね!!」
 小指を立て愛想笑いを振りまきながらクラウディアは次の現場へと駆け出した。兵士が誰もいなくなると裏通りからラウダが出てきて「次の次の角を右に曲がるとハルプシュランゲが暴れている」と教えてくれる。
「全部で何匹くらいですか?」
「わからん。だがビブリオテーク側にあった鉄檻の数は二十だった」
「……あちらの兵も黙って見ているだけではないでしょうね。一晩は覚悟した方が良さそうです。肌に良くないので徹夜は嫌いなんですけど」
「そうか、お前も大変だな」
 神鳥からのつっこみはなかった。ふたつめの角を曲がるきっかり三秒前にかまいたちを形成し、自身より先に大通りを曲がらせる。
 誉められたやり方ではないが、魔物の数がそれほど多いなら仕方ない。不意打ち一発と本命一発、これが最も効率がいい。ハルプシュランゲと対面するのと光魔法を発動するのはほぼ同時だった。






 もう何枚くらい呪符を剥がして回っただろう。連続して見つけられるときもあれば、何軒探しても見つからないときもあった。時限爆弾そのものなのでミスなく素早く探し当てたいのに。
 ツヴァングもそうだがベルクもかなり苛立っている様子だった。魔物による足止めはあれ以降ないけれど、そうでなくとも作業のゴールがわからないのだ。否が応でも気は急いた。
 街の突き当たりからしらみ潰しに回って行って、もう数時間は経過しているのに中央広場の時計塔までまだ何本も通りがあった。最近まで人の住んでいたらしい場所は全部すっ飛ばしているのにこれだ。この調子ではすべての呪符を剥がすのに何時間かかるか知れない。せめてどういう法則で配置されているかわかればいいのに。
「……」
 そうか、その手があったなとツヴァングは拳を打つ。廃屋の窓を開いて今まで札を見つけた家や店を指差し確認していった。
「おい、何やってんだ?」
「ちょっと待て。考えごとしてるんだ」
 邪魔するなと手で肩を弾けばベルクはムッと顔を顰める。
「出すぎるなよ、兵士に見つかるぞ」
 その忠告だけ今は素直に受け取ることにした。壁に身を寄せまた人差し指を突き立てる。
「……そうか。多分わかった」
「わかったって何が?」
「もし呪符が発動して、爆発が起きたらどこに逃げるか考えてたんだよ」
「お前なあ、こっちはその爆発を止めるために……」
 途中でベルクは台詞を止める。ハッと大きく目を見開いて。
 ツヴァングたちの滞在する街は高い外壁に囲まれた楕円形の街だった。内部が炎上すれば外に逃げるのは難しい。街には水路が流れているが、今まで呪符を見つけた空き家やあばら家はその水路か別の小川、すべて水辺に隣接していた。熱に巻かれ、水を断たれた人間が向かうのはきっと炎の届かないところ――。
「メインディッシュは時計塔ってことか」
 ツヴァングは頷いた。あの建物なら煙の中でもよく目立つ。
 先にそっちへ回ろうという意見に異論はなかった。






 太陽が赤いのは夜が近いからだ。
 赤すぎる夕日に文句を言いたい気分でベルクはひた走る。
 嫌な予感しかしていなかった。ぞんざいに貼られた呪符を見て、あいつじゃないと高を括っていたけれど、もしそうじゃなかったら?
(フェイクだったのかもしれねえ……)
 これ見よがしに仕掛けられた呪符は巧妙な罠だったのかも。本当はもっと大掛かりな魔法を隠すための。
「なんだ貴様ら?」
 ビブリオテークの侵攻にいち早く気づいた時計台の麓ではアペティートの小隊が見張り番をしていた。マスケット銃を構えたふたりの兵士がぎろりとベルクたちを睨んでくる。
「逃げ遅れた町民か? ここは大事な区画だ、さっさと立ち去れ!」
 銃口を向けられても少しも怖いと思わなかった。ただ命がけでこんなものを守らされている人間が哀れでしょうがなかった。
「……ここ守り切ったら何倍の報償が貰えるって言われたんだ?」
「はぁ?」
「町民風情が何を知っている? 貴様、軍の人間か?」
 明らかに狼狽した軍人たちの脇をすり抜けベルクは剣を抜いた。木製の入り口を一刀両断にし、向かってきた兵士たちも柄で突いて昏倒させる。
 塔の中には上る階段と下りる階段があった。迷わず地下へ続く階段を選び、地下室の扉も叩き切る。

「――……」

 仄かな光を放つ円陣に目眩がした。到底飛び越えられなさそうな半径の魔法陣の中央に、呪符付きの爆薬がどっしり腰を降ろしている。
「ど……どうするんだあれは……?」
 ツヴァングの声は頼りなく響いた。
 あいつならこんなときでもなんとかとはもう思えなかった。明らかにこれはあの幼馴染の用意したものだったから。
(何やってんだよノーティッツ……!)
 ギリ、と歯を食いしばる。
 考えなくては。俺が、あいつのために、考えなくては。

「……アペティートの連中に呼びかけるんだ。上層部は完全に街を放棄して、残した軍ごとビブリオテークを殲滅する気だって」

 このままではノーティッツの魔法が大量の人間を殺すことになる。
 当人に殺意があるとは思えない。あるはずないのだ。戦わないで済むように、自分たちはずっとドリト島で働いていたのだから。
 日が沈む。鮮烈な光の残滓を空にこびりつかせて。
 やがてその上にも闇の幕が降りた。



 時計塔から駆け出すと、ベルクたちはアペティート兵の潜伏する建物に飛び込んだ。第何小隊か知らないが、一番偉そうにしていた男の胸倉を掴んで引き寄せる。
「おい、逃げる準備をしろ! このまま街に残ってたら危険だ!!」
「な、なんだお前は!? どこの人間だ!?」
「街中に爆弾が仕掛けられてるんだよ!! ビブリオテーク兵と心中したくなきゃとっとと撤退するんだ!!!!」
「爆弾? 心中? だから一体何の話をしている!? 中佐からそんな話は聞いていない!!」
 こっちは今化物の相手で忙しいんだと押し返されたところにハルプシュランゲのしなやかな体躯が伸びてきた。窓ガラスが割れ、壁が崩れ、そこら中が砂埃でいっぱいになる。
 銃撃の音が一斉に響き渡った。だが魔物はその程度では息絶えず、逆に身体をうねらせ地上の兵士を押し潰そうとする。
「頭だ、頭を狙え!!」
 小隊長の号令により至近距離から大砲が放たれた。だがうごめく敵には掠りもせず、背後の家屋を倒壊させただけで終わる。 ランタンの灯も爆風に掻き消された。濃さを増した土煙と宵闇の視界の悪さも相俟って、周りの様子はまったく見えなくなってしまう。
「おい、ここは俺たちに任せて逃げろ! 聞こえてるか!?」
 退け、退け、と怒号が響くもこちらの意思が伝わった気はしなかった。クラウディアの手が届いていない前線では混乱が場を支配しているようだ。
「話を聞いてくれるような状況じゃなさそうだぞ」
 ツヴァングの声に唇を噛む。
「くそっ!!!!」
 思い切り地面を蹴り飛ばすと、ちょうどこちらに忍び寄って来たハルプシュランゲの側頭部に直撃した。動きを止めた魔物に「大人しく寝てろよ」と言い捨てて先程のアペティート兵たちを追いかける。
 見も知らぬ、生まれも育ちも別大陸の男たちにどう言えば退いてもらえるのだろう。退却させねばならぬのはアペティート軍だけではない、ビブリオテーク軍もだ。
(全員街から追い出さねえと……!)
 やるべきことは明白なのに方法が浮かばない。刃を交える両軍に撤退を促す方法など。
 どうすりゃいいんだ。こいつら全員戦うのに必死すぎて、現物を見なきゃ爆弾があることさえ信じてくれないかもしれない。魔法なんかほとんど見たこともない連中に、あの魔法陣と呪符だけで事の深刻さをわからせられるのか?
「おいッ!」
 角を曲がろうとしたベルクの肩をツヴァングが思い切り掴む。そっちにアペティート兵がいたのかと思いきや、東のどん突きの壁にはまた別の呪符が貼り付けられていた。爆薬の入った樽にではなく、張り紙に紛れて煉瓦の壁に直接だ。
「土魔法……!?」
 発火だけじゃないのかよ、そう毒づいた瞬間頭の奥で何かが弾けた。
 おそらくこの札は火の海と化した街から誰も逃れられぬよう、壁の高さや厚みを変えるために貼られているのだ。
「……」
 使えると直感した。後は使いどころだけだ。
「ツヴァング、剥がすの手伝ってくれ」
 呼びかけた青年は生真面目な顔つきで頷いた。根っこはきっといい奴なのだろう。もう敵兵がどうだとかは少しも口に出さなかった。






 ビブリオテークの司令官は相当な慎重派らしく、断続的に魔物を使った攻撃を仕掛けてきていた。対するアペティート軍は対人用の陸上兵器でなんとか凌ぐ格好だ。
 海戦では幅を利かせているアペティートだが、内陸部での戦闘にはこれという花形兵器が存在しない。かの国の技術を発展させた亡き科学者が海沿いの街に住んでいたことも関係しているのだろう。要するに苦戦を強いられているのは終始アペティート側だった。
 ビブリオテーク軍は魔獣の檻を街に持ち込み、十分な距離を空けてから檻を開く。飢えた魔物たちは人間の臭いを嗅ぎ分けてアペティート兵に襲いかかる。そこへクラウディアが駆けつけて、魔物を眠らせ、兵士たちの怪我を治し、仕事が片付いた頃にまた新手が放たれる――その繰り返しだった。
 魔獣を恐れてアペティート兵は誰も街の西側へ行こうとしない。降りかかる火の粉を払うのに精一杯という感じだ。それでも上官の命令があれば違ったのだろうが、指令を下すべき人間は夜中になってもまだ見当たらなかった。突撃の掛け声どころか基地への撤退命令すらなく、これが防衛戦と言えるのか甚だ疑問である。
 やはりアペティートは兵士もろとも街を捨てる気でいるのだ。従軍年数が三年以下の新兵が目立つのも、出稼ぎで来ている兵が目立つのも全部そのせい。「ここは重要な防衛ポイントだから、援軍が来るまで残ってくれれば倍の給与を出す」とでも言われたのだろう。そんな肝心なところを聞きそびれているとは我ながら情けない。
「……終わりましたよ二十匹!」
 もう追加は遠慮してくれと祈りつつクラウディアは眠るキマイラの側で呼吸を整えた。早くベルクたちと合流しなければならない。アペティート軍の呪符はノーティッツお手製の品らしいし、彼も気が気でないだろう。
「……っ」
 ひとりきりの戦闘が続いてふらついた身体を神鳥が柔らかい羽で受け止めてくれる。
「少し休め。ビブリオテーク軍の動向が変わった」
 そう告げるとラウダはクラウディアを背に乗せ夜空に飛び立った。
「ビブリオテーク軍の?」
 見降ろしてみれば街の西側に陣を構えていた彼らが隠密に動き出す様が窺えた。おそらくは魔獣の駒が尽きたからだろう。疲弊したアペティート軍を畳みかけるため夜襲をかけるつもりなのだ。そんなこととは露も知らず、怪物の恐怖から解放されたアペティートの兵士たちは日中の疲れを癒していた。
(……今夜一晩もたないな、あれは……)
 指揮官の不在に彼らとて気がついているだろう。小隊長クラスの者は、不安げに同じ役職の人間を見つけては何事か相談し合っている。
「あ、すみません。あそこに降ろしてもらえますか?」
 クラウディアは路地裏にベルクたちを見つけて指差した。空を縫い、神鳥はさっと勇者の前で羽を閉じる。
 呪符はすべて剥がし終えたのかと尋ねると、ツヴァングが「四分の一くらいは多分……」と言葉を濁した。四分の一とはどういうことだとベルクを見やる。どうしてもひとつ解除できない魔法があるのだと勇者は言った。だから途中で呪符剥がしを断念したのだと。
「タイムリミットは多分明日の昼頃だ。それまでには何とかする」
「どうしてそう思うんです?」
「この街が落ちる前提で爆薬仕掛けるなら、俺はそうする。残した戦力が死に絶えた後、ビブリオテーク兵が喜び勇んで街の中まで入ってきて、基地の設営に取りかかる時間帯。それが一番効果あるだろ」
「成程」
 どうやらベルクの方でも上層部が西部を切り捨てたと確信しているようだった。ならば後はそれを兵たちに伝えて逃がすだけである。果たして簡単に聞いてくれるかどうかは別問題であるが。
「俺はあいつを人殺しにする気はねえ。悪いがもう少し付き合ってくれ」
 暗闇の中にあってなお強い眼光がクラウディアを射抜いた。
 アラインのようにひとりですべてを守りきる万能タイプの勇者ではない。けれどベルクには彼独自の引力が備わっていた。
 無意識のうちに感化される。絵に描いたような正しさとか優しさとかとは違うのだけれど、彼の手を取りたくさせられる。それはアラインにもアンザーツにもないものだ。
「間もなく大規模な戦闘が始まります。急ぎましょう」






 パーンと甲高い音がこだました直後、耳をつんざく大銃撃戦が始まった。アペティート兵たちが息を潜める建物を、黒軍服の兵士たちが取り囲む。無慈悲な弾幕にツヴァングと同い年くらいの若者が次々と倒されていく。ついにビブリオテーク本隊が動き出したのだ。
 身を隠して風を放つクラウディアの脇を駆け抜け、ツヴァングは出口でどくどく血を流す兵の元に膝をついた。吹き荒れる強風がビブリオテーク兵たちを怯ませ、彼らの隊列を乱してくれている。
「しっかりしろ!」
 弱った背中を助け起こしながら回復魔法を諳んじた。昔どうしてもアラインの旅に付いて行きたくて、死に物狂いで習得した術だ。結局一つの属性しか持たない自分がお供に選ばれることはなかったのだけれど。
「う、うう……。あれ、楽になった……」
「戦っても無駄だ。お前たちの指揮官は基地を捨てて逃げていった。ここにいても犬死にするだけだぞ!」
「なに……何を言って……。おれ金が……戦わないと……」
「だからもう戦う必要はないと言っているんだ! お前たちは見捨てられたんだ!!」
 真実を教えてやる自分の方が泣きそうになってしまう。
 初めはどうだっていいだろうと思っていた。アペティートの軍人が何人死のうと、どんな風に死のうと。でも街に貼られた呪符を見つける度に気が沈んだ。街を守るために残った兵は、街を破壊する魔法が仕掛けられているなんてまったく知らずにいるのだ。そのうえベルクやクラウディアの話では彼らに援軍は来ないという。ビブリオテーク側に「勝った」と錯覚させるための捨て駒にされるのだと。
 あんまりな戦略だろう。非人道的すぎる。勇者の国では有り得ない。
 一抹の同情心はツヴァングにアペティート兵が人間であることを自覚させた。己の中で変化があったとしたらそれだけだ。ベルクやクラウディアには魔物さえ同じよう尊重すべき存在として捉えられているのだろう。だから彼らが殺すのも殺されるのも嫌だと言ったのだ。
「私の……私の傷も止血してくれ……」
 今度は少し渋味のある男に呼ばれて跪く。ひと回り以上は年上そうだ。小隊の隊長格かもしれなかった。
「大丈夫か? 起きれるようになったら他の隊にも連絡してくれ。基地には誰も残っていない。逃げていいんだと」
 出血が止まると男は駄目だと首を振った。戦えるうちは戦うつもりだと。
「何を言って――」
「十五年前、私は奴らに母と妹を殺された! 仇を前に逃げるなどできん!」
 傷口が塞がるや否や、男は銃を手に飛び出して行った。呆然とするツヴァングの腕をクラウディアが強い力で引っ張り上げる。
「ここは危険です。今バックヤードに簡易の救護所ができたようですから、そちらへ回りましょう」
「……っ」
 なんなんだ。どいつもこいつも早死にしそうなことばかり言いやがって。
(全員一気に止めるんだろ……!! さっさとしないかあの男……!!!!)
 ベルクはラウダを伴って時計塔に向かっていた。まだあちらへは戦火が及んでいないとは言え油断できない。壁から剥がした土魔法の呪符を何枚も持って行った。どう使うかは説明してもらう暇もなかった。ただツヴァングとクラウディアには、できるだけ死人が出ないように頼むと言い残した。戦争なんかするもんじゃねえなと。
「怪我人だらけじゃないですか。まったく、わたしが凄腕僧侶であることに感謝してほしいですね」
 ひとりひとり手当てするのが面倒になったのか、クラウディアは物影からひっそりと癒しの風を送り込んだ。全快するとまた前線に突っ込んで行く馬鹿が増えるので絶妙の匙加減で止めている。
 時間が経つにつれ担ぎ込まれてくる兵士はどんどん増えていった。ビブリオテーク軍はもう街の半分ほどを制圧してしまったようだ。
 南に浮かんでいた月はいつの間にか随分西まで進んでいる。さっき夜になったばかりだと思ったのに、もう東の空は白み始めていた。
(この救護所にビブリオテーク兵が来るのも時間の問題か……)
「……!?」
 朝日が昇り始めたのと足元が大きく揺れたのはほぼ同時だった。
 ゴゴゴゴという地響きは瞬く間に大きな大きなものとなり、街の中心部に山が――文字通り土壁と小山が築き上げられた。まるでアペティート軍とビブリオテーク軍を分断するかのように。






 どうしてノーティッツの呪符や魔法陣がこんな形で残っていたのか、あまり考えたくもない事態になっている。だが考えたくないからと言って止まるわけにはいかなかった。見なかったふりをするわけには。
 後で再会したときにできるだけ良い報告を聞かせてやるのが自分のすべきことだろう。だからやはり彼の魔法で悪さはさせたくないし、戦争を回避する方法があるならそれに賭けたい。

「アペティートの連中も、ビブリオテークの連中もよく聞けよ!」

 一直線に盛り上がった土の更に上、時計塔の天辺でベルクは声を張り上げた。
 アラインのように上品に語ることはできなくとも、言いたいことをはっきり言うくらいはできる。
 突如出現した謎の丘に両軍はぽかんと口を開いていた。まさか彼らも紙切れ十数枚でこんな山壁ができるとは思うまい。
「アペティートの本隊はとっくの昔に帝都へ帰った。指揮官と通信兵は昨日基地からトンズラしやがった。この街に残ってんのはなんにも知らねえ一般兵ばっかりだ! あいつら負けるのを見越してここに馬鹿でかい時限爆弾を置いて行きやがった! アペティート! ビブリオテーク! お前らどっちが勝っても意味ねーぞ!! 生き残った方が街ごと消されんだ!!!!」
 ぐるりと見渡してみるけれど、全員まだ何を言っているんだという顔だった。皮膚の色から敵と断じたか、ビブリオテーク側からはドンと砲弾が飛んでくる。
 オリハルコンは軽かった。ベルクの気持ちに応じるよう、鋭く強くいてくれた。
 スパンと両断された鉄球に兵士の間でどよめきが走る。
「もういっぺんだけ言うぞ! ビブリオテーク! ここにいるのは殺してもしょうがねー下っ端の兵ばっかりだ!! アペティート! お前ら本体から切り離されて捨て駒にされたんだ!! 戦って死ぬだけ無駄だ、両方退け!!!!」
 頼むから止まってくれよと胸中で祈る。
 ビブリオテークからすれば指揮官が誰もいないなど信じ難い話だろう。アペティートにしても自分たちが置き去りにされたなど寝耳に水、信じたくないはずだ。そもそもよく知りもしない男の言葉に耳を傾けてくれるとは思えない。
 けれど今は、最も危険なこの場所で、身体を張ってみせることでしか訴えかける術がなかった。こんな土の山はその気になれば乗り越えられる。一旦街の外へ出て迂回してくる道だってある。戦いを止めるのは物理的な障害ではなく彼らの意志だ。
「嘘だ……」
 誰かが言った。「十倍出すって聞いたんだ。これが終わったら軍を抜けて静かな土地に引っ越すつもりだったんだ」と。
「ぬけぬけと……! 白い男には騙されん!!」
 別の誰かが言った。「十五年前とは違う。我々はお前たちを信じない」と。

「信じねえなら証拠見せてやる」

 言うや否やベルクは塔から飛び降りた。
 合図に従い時計塔の内部から神鳥が飛び出してくる。くちばしには燃える札の端を咥えて。その足に片腕で掴まり、半分だけ耳を塞いだ。


「――――……ッ!!!!!!」


 轟音が鼓膜を突き破る。高熱が朝焼けを焦がす。
 オレンジ色の火炎は天空の柱となって垂直上方に噴き上がった。あれが街に向いていたらという想像は誰しも容易かったろう。
 爆風の凄まじさに何十人と吹き飛ばされた。時計塔は綺麗さっぱり消滅し、盛り上がっていた土壁も一部がどろりと溶け出した。

「まだこんな爆弾がそこいらに残ってる!! 早く街から出てくんだ!!!!」

 最後の絶叫はちゃんと届いたのだろうか。
 汗で手を滑らせ、ベルクは街の西側に落っこちた。ビブリオテーク兵たちのウジャウジャしている方だった。
 次々と銃を向けられ思わず両手を上げそうになる。だが覚悟を決め、剣も抜かずにその場で胡坐をかいた。嘘ではないと証明する難しさを痛感しながら。
「……」
「……」
 どれくらいそうして睨み合っていただろう。殺すべきか捕えるべきか迷う兵士の間からドリト島で見かけた坊主頭が進み出てきた。アペティート人の島民を捕虜にはしたくないと言っていた男だ。
 周囲を取り巻いていた軍人たちが全員姿勢を正す。男はかなり高い地位にあるのだと知れた。
「……今の話、爆薬に関しては本当みたいだな?」
「アペティートの指揮官どもがいねーのも本当だよ。基地はもぬけの殻だった。あ、確かめに行くなら気をつけろよ。地下倉庫にも爆弾仕掛けてあったから」
「うーん、成程ねえ……」
 どうしたものかと言うように坊主頭は口元に人差し指を当てる。この男に話が通じなければお終いだ。事実確認さえ取れれば手荒な真似は控えてくれると信じたいが。
「いかにもブルフの考えそうな罠ではあるか。ただ、それと攻撃止めるかどうかは話が別なんだわ。わかる?」
「……どういうこった?」
「うちも十五年間アペティートには痛い目遭わされてきててね。兵卒だろうとなんだろうと軍人を見逃したりすれば反発が起きんだよ。キミはどこから来たの? ドリト島でも見た気がするけどあそこの島民? それとも新大陸かな? オレの勘じゃアペティートではなさそうだけど」
「……」
 どう答えるべきか逡巡していると、またばたばたと足音が響いた。男の部下が慌てた様子で駆けてくる。
「インゴ司令! インゴ司令! 首都から緊急の報せが!!」
「ああ? こっち今忙しいってのに、何?」
「それがその……、ヒーナの皇帝がですね……」
 詳細を耳打ちされた司令官は目を丸くして「あらら」と呟いた。どうやら本国で何かあったらしい。
「良かったなキミ、オレたち帰還命令が下ったみたいだぜ。アペティート兵にも手を出すなだと」
 わざとらしく男は派手に嘆息した。残念がっているように見せていたが、彼自身は一般兵には関心がなさそうだった。
 「引き揚げるぞ野郎ども!」と指示を出す背中にやっとホッとして立ち上がる。ビブリオテークの兵士たちは胡散臭そうにこちらを見ていたが、インゴという男が何も命じなかったからか、ベルクを捕えようとはしなかった。この辺りの統率されようがやはりヤクザの国だ。
「大丈夫か?」
 時計塔付近にいた兵士たちが誰もいなくなると、向こう側からラウダがこっそり降りてきた。この神鳥は本当に有能だ。ベルクの身分がビブリオテークにばれないように、今までずっと細心の注意を払ってくれていた。それも今回のことで台無しになったわけだが。
 彼が案じてくれているのはベルクの心身のことではない。わかっている。まずいことになってしまった。
「……ちっとやべえな。三日月大陸の人間だってことは確信持たれたかもしんねえ」
 せめて同盟に入っていない勇者の国の人間だと思われますように。でないと今度は兵士の国がビブリオテークにオトシマエつけろとどやされるかもしれない。
 見上げれば空は薄い水色に染まっていた。
 夜は一応明けたようだ。






 ******






 その日の昼過ぎのことだった。
 最初に拠点としていた丘の上でベルクたちが街の様子を眺めつつ身を休めていると、三十人近いアペティート兵が列をなして上ってきた。なんだなんだと目を瞠るベルクに彼らは敬礼のポーズを取る。
「……情報提供ありがとうございました。仰る通り基地は無人で、倉庫の他にも爆発物が設置されていました。東の砂漠を越えて本隊を追いかけようかとも思いましたが……どうも対ビブリオテーク用に地雷が埋められているようです」
 成程あの後アペティート軍は有志で見回りを行ったらしい。小隊長クラスの人間は戦場に指揮官がいないと気づいていたそうだが、最近軍に入った者や配属が変わってここへ来た者はベルクが指摘するまで上に尻尾を切られたなどとは微塵も思っていなかったようだ。
 「どちらに向かわれるのかは存じませんがお気をつけて」と兵士が言う。そのすぐ後ろに立っていた男は僅かですがと金の入った袋をくれた。

「お前らはどこ行くの」

 立ち去ろうとするアペティート兵に問いかけると彼らは力なく歩みを止める。さあ、と溜め息に似た声が返った。
 軍からは見放され、街にも基地にもまだ爆薬が残っていて、首都へ繋がる道は封じられている。近隣に頼るあてのある者は幸運だ。だがそうも行かない連中は多かろう。
 これもバレたら怒られそうだけどまあいいや。
 ふうと大きく息を吐くとベルクは彼らに声をかけた。
「うち来るか? 三日月大陸兵士の国。表向きは捕虜になるかもしれねえけど、三食人権は保障するぜ」
「え……」
 兵士たちが答える前にクラウディアに「いいんですか?」と眉を顰められたが、うちの王宮より開けっぴろげでアバウトなところはないだろう。ベルクがいいと決めたことは国王もいいと言うに決まっている。
 アペティート兵に金袋を突き返し、「行くとこない奴は残れ」と告げると皆その場に崩れ落ちた。中には泣き出した者もいる。
「すみません……。どうしたらいいか、本当は全然わからなかったんです……」
 戦争なんかするものじゃない。彼らを見て改めてそう思う。
 同じ言葉と同じ目線で話すことができるのだ。殺し合いをする必要なんてどこにもない。






 眠らせた魔獣と行き場を失ったアペティート兵たちを送還するため、街の沿岸に迎えの船を呼ぶことが決まった。通信鏡でやりとりするクラウディアを横目にツヴァングは物思いに耽る。
 前に自分がベルクの粗暴さを穿ったとき、アラインが言っていた。あの男のどういう点が勇者と呼ぶに相応しいか。

 ――僕は勇者になったけど、ベルクは最初から勇者だったんだよ。多分生まれたときからね。

 そんなわけあるかと聞き流した言葉が頭の中で回転している。今なら少しだけその意味がわかる気がした。
 アペティートの兵士たちは心のどこかでベルクを頼ってやって来たのだ。ツヴァングですら彼さえいればどんな逆境でも何とかなるような、そんな奇妙な心地になってくる。

「……えっ? エーデルが?」

 と、不意にクラウディアの声音が変わった。通信相手はトローンだろうか。エーデルがヴィーダと一緒に消えてしまったと聞かされて、僧侶は小さく息を飲む。
「……そうなんですね。オリハルコンが、ええ……」
 ベルクの両眼もさっと鏡に向けられた。目的のオリハルコンがひとつ手に入り、ふたつめを所持するクライスという女性も帰国の船に乗っているらしい。更にトローンは破滅の魔法の封印にオリハルコンを戻したいと話した。それはつまり、勇者の国の奪還に乗り出すということだ。
「ちょっと待ってくれ。俺はまだ帰れねえ、ノーティッツを助けるのが先だ」
『お前はそう言うと思っとったわい。好きにすりゃ良かろう。不肖の息子なんぞおらんでも大丈夫だ』
「いや、俺抜きでやってくれるのは実際助かるが、その言い方はちょっぴり傷つくぞ?」
『お前よりノーティッツの方がわしゃ心配だよ。ちんたらやっとらんで早く奪い返してこんかい!』
 通信が切れるとクラウディアは「わたしも一度三日月大陸に戻ります」と言い出した。ディアマントから詳しい話を聞きたいし、その方が次の動きも取りやすいとのことだった。
「お前はどうする? 故郷のことだろ、行きたいなら行っていいんだぞ」
 唐突に話を振られてツヴァングは返答に詰まった。勇者の国に潜入するなら勿論同行したいに決まっている。だが自分はマハトやウェヌスからこの男を頼んだと任されているのだ。クラウディアが帰ると言っている以上、魔法の素養をまったく持たないベルクを置いて自分が抜けるわけにいかない。
「おれは残ってお前を手伝う。そういう約束で来たんだからな」
「……ありがとよ」
 ばしんと肩を叩かれて、だが悪い気はしなかった。
 魔法の強さとか剣の強さとかじゃない。賢さでも気品でもない。勇者を勇者だと決定づけるものは。うまく言葉にできないけれど、こいつはきっと――。
「お、ラウダだ。偵察終わったみたいだな」
 小さな鳥の姿で舞い降りた神鳥はアペティート兵が固まって座っているのに驚いたようだったが、すぐにいつもの冷静さを取り戻してビブリオテーク軍の現状を報告してくれた。急に進軍を取り止めたのはヒーナが三日月大陸との同盟を仄めかしたためで、ひとまず彼らは今からドリト島に逆戻りするらしい。両軍の間に入った男が何者だったかについては「おそらく三日月大陸の関係者」というところで話が止まっているようだ。
「ま、王子じゃないのかとは一切疑われていなかったよ。良かったな、王族オーラが足りていなくて」
 あんまりなラウダの言い様にベルクは憤慨していたが、ツヴァングとクラウディアは腹を抱えて爆笑した。






 ******






 もう少し。
 もうあと少し。
 星と星が廻りあうまで。
 運命が黒く濁るまで。

「……クライスはかつての祖国へ帰りましたよ」

 告げた言葉に顔を上げたのは恋人に殺されかけた男。そのすぐ隣で強い生命力を宿す女がこちらを睨んだ。
 ビブリオテークからドリト島までは与えた力を上手く使って逃げおおせてきたらしい。転移魔法が扱えるなら十分大賢者を名乗れるだろう。
 空間に干渉する力。普通は持ち得ぬ強い力。彼らの星はいつも力と共にある。
「あなた何者なの?」
 女の方が気功師に尋ねた。だが答えたのは男の方だ。
「彼は昔からあちこちに現れるんだ」
 ちぐはぐな回答だった。女の方が知りたいのはそんなことではなかろうに。
 けれどまだ問いの答えを示すときではない。

「破滅の魔法と彼女があなたを待っています」

 気功師が姿を消すとヴィーダはぐっと拳を握り締めた。
 自分勝手な愛しか知らぬ男に女は優しく言葉をかける。
 ふたりで生きていきたいのなら、あたしたちの大陸で暮らせばいい。でもその代わりオリハルコンだけは返してと。
 聞いているのかいないのか、ヴィーダの眼差しはずっとカメオに注がれたままだった。
 愛しい愛しいと想いすぎて、いつもそうやって壊してしまうのに。彼はまたそんな自分に気がつかないでいるようだ――。







(20121120)