「――今から百年ほど昔のことです。地上は魔王ファルシュの脅威に晒されていました。街や村を繋ぐ道に魔物たちが現れるので、人々は壁の中に籠って怯えながら暮らしていたのです。畑も満足に耕せず、飢饉が起こり、弱い国から疲弊し荒廃していきました。人々は本当に困り果てていました。そこへ……」



 アンザーツの仲間として最後に旅に加わったのは、当時旅芸人として巡業していたヒルンヒルトだった。
 あれから何年経つのだろう。勇者の倦み疲れた精神は、少しはましになったのだろうか。
 頼まれた通り彼の肉体を祠に封じて、頼まれた通り誰にもその居場所を明かしはしなかった。
 ムスケルやゲシュタルトからすればヒルンヒルトの行為は裏切りそのものだったろう。けれどあのときはそうすることが最善だと信じた。そして今、その最善を確かなものにするべく勇者の傍らに己の魂を呼び戻したのである。
 禁呪と呼ばれる危険な古代魔法でも躊躇などなかった。血筋の者から己に近い波長の人間を選び出し、高位の魔法を身につけさせ、やがてこの地に辿り着くよう誘導し、力が及ぶのを辛抱強く待った。己の意志で動かすことのできる、新しい器を手に入れるときを。

「君の望んだ通りになった。誓いを守って魔王は亡霊となり、精神と肉体は分離されたまま……、百年経ったが誰ひとり君のような勇者はいない。今のところはね」

 語りかけながら指先で頬に触れる。そうすればそこに血肉の存在しないのがわかった。温もりも弾力もあり、精神体としてはかなり高密度に具現化できているけれど。
「……そうだな。ベルクなんかは見てて気持ちがいいくらいだ。本来は彼のような人間が勇者になるべきなんだろうね」
 アンザーツは――イックスと名を偽らせていた男は、薄らと目を伏せた。眠るように頬を寄せてくるのは昔ついた癖のままだ。
 初めてアンザーツの苛酷な運命を知った日、同じように彼に触れた。それからはずっと。
「昔と同じ症状はまだ出るのか?」
 神妙な面持ちでヒルンヒルトは尋ねる。苦しいときほど平気だと笑う人間なのはわかっていた。表情の観察は怠らない。
「ううん、身体を捨ててからは一度もない。君には散々心配させて悪かった」
 そう答えるアンザーツに昔のような影はなく、ヒルンヒルトはほっと息を吐く。
 祠は静かで、聞こえてくるのは河の流れる音だけだ。こうしていると百年前に戻ったような錯覚が起きる。
 あれはもう旅の終盤だった。ゲシュタルトやムスケルには己の異常を悟られたくないと、アンザーツは自分にだけその綻びを見せるようになった。
 賢者になろうと決めたのは彼の苦痛を少しでも和らげたかったからだ。炎や稲妻を操るだけなら旅芸人のままで十分だった。傷口を塞ぐ術も、普通の僧侶よりは高度な魔法を身につけていた。けれど彼の助けになるには魂の領域に踏み込まなければならなかったから。

「自我ならはっきりしてるんだ」

 自分自身の状態を確かめるようアンザーツが呟く。僅か開いた瞼の隙間で黒い目が泳いだ。
 憂いの表情にぎくりと指先が強張る。もう彼の口から悲しい言葉は聞きたくない。
「……ぼくは間に合った。でもファルシュはやっぱり駄目だったんだね。あの玉座にずっと縛られたままでいるんだ」
 アンザーツの眼差しが助けたかったと言っている。それはヒルンヒルトとて同じ思いだった。
 他には誰も知る者のない、勇者と魔王の激闘の真相。彼らの選択を見守った者として。



 ******



「……今ぼく何してた?」

 ぼんやりとしたいつもの笑い顔のまま、あの日アンザーツは己の成した所業を問うてきた。瀕死のゲシュタルトとムスケルに回復魔法をかけてやりながら。
 強敵だった。辺境の王城を占拠しようと魔物たちは次から次に襲ってくるし、それらの親玉に至っては頭を八つも持った最高位の竜族だった。
 炎に巻かれ、骨を砕かれ、けれど僅差で魔物の群れより我々の方が優勢だった。それは個々人の力量のおかげというよりは、決着がつくまでひたすら指示を出し続け、連携を支えたアンザーツの力によるものだとヒルンヒルトは感じていた。
 それなのに彼は覚えていないと言う。こんなに長い時間記憶が飛んだのは初めてだ、と薄笑みを浮かべるのだ。――彼の笑顔に違和感を覚えたのはそれが初めてだった。
 ゲシュタルトたちを使える寝台のある部屋へ連れて行くと、アンザーツは膝を折り、半分崩落した冷たい廊下に座り込んだ。どうしたのだろうと思ったが、隣に膝をつき覗き込んでも特に変わった様子はない。やはりいつもと同じに笑っている。
「……疲れたか?君も休んだらどうだ」
 肩を貸そうとしてヒルンヒルトは動きを止めた。アンザーツが首を振ったからだ。
 不審に思って再度表情を観察する。だがそこから読み取れるものは何もなかった。
 あまり理解を得られない話だが、昔から自分は他人の感情に疎かった。旅の一座に身を寄せていた頃、ヒルンヒルトは巫女装束で舞うことを命じられていた。「人でないように神聖に」が口癖の座長のもとで。
 心を消せ、欲を消せ、笑うな、泣くな、怒るな、悲しむな。物心つく以前から徹底的に教え込まれていたためか、勇者の旅に同行しているくせに他人に対する優しさなど欠片も持っていなかった。ムスケルやゲシュタルトが自分を苦手に思っていることだって知っていたのに、それを緩和しようという気も起こさぬほど。
 長いことヒルンヒルトは冷め切っていた。故郷も親も友人もなければ人を愛したこともない。この旅も、たまたま座長が死んだときアンザーツに拾われただけのものだった。
 だが別に仲間に迷惑をかけようと思ったことは一度もない。それなりの分別は持ち合わせていたし、誰かに対して嫌悪の念を抱くこともなかったからだ。
 明るくお節介なムスケル、純情で健気なゲシュタルト、勇気と優しさを併せ持ったアンザーツ。彼らならきっと魔王を倒してみせるだろう。その未来を、ヒルンヒルトも漠然とながら信じていた。

「これ以上進めないかもしれない」

 だからそんな弱気な台詞を聞くことになるとは思ってもみなかった。
 何度見つめ返してもアンザーツは普段と同じに笑っているし、それが却って薄気味悪い。
 怯んだ己にヒルンヒルトは少し驚いた。感情を刺激されるなど滅多にないことだった。
「……このままぼくはどうなっていくんだろう」
 はっきりとは聞き取れない、小さく低く掠れ声で、けれど確かに彼は言った。ヒルンヒルトの腕を掴んで。
「少しだけ話を聞いてくれないかな?」
 考える前に頷いていた。笑うしかしない彼が心細そうに見えた。
 戦いの中で裂けたのだろう、頬に赤い筋ができているのに気がつきヒルンヒルトはアンザーツのこめかみに掌を押しつけた。
 癒しの光を当ててやると左腕に食い込んでいた彼の指が緩んで離れていく。
 他人に触れられ、やっと自分がここにいることを理解し安堵したかのように。



 最初からアンザーツがそう多くを語ったわけではない。彼の症状の大半はヒルンヒルトが勝手に推測したものだ。苦しいときに彼は苦しいと言わなかったし、笑った顔以外あまり見せなかった。彼の状態を知るにはよくよく彼を分析しなければならなかった。
 魔物と対峙したり旅の指針を決めたりするとき、アンザーツには一種の記憶障害が発生するらしい。そうわかったのはしばらく経ってからのことだった。戦いに心奪われ、敵を倒すまで戻らない。行き先によっては最初から最後まで何も覚えていない場合もある。魔王城が近づいてきているプレッシャーかと思ったが、今更そんなことで怖気づく男だとは思えなかった。彼の強さはヒルンヒルトなりに理解しているつもりだった。逆に言えば、強く己を保てたからこそ口に出すのが遅れてしまったのかもしれない。
 アンザーツはいつもにこにこしていたが、いつもぼんやりしてもいた。もうしばらくするとヒルンヒルトは事態がもっと良くないことに気がついた。歩いているとき、食事のとき、見張りのとき、彼の行動の大部分が無意識による産物だった。――わかるわけがない。それはヒルンヒルトにしてみれば、まさしく普段の彼そのものだったのだから。
 同時に既視感を覚えた。神聖な生き物のようにと刷り込まれ、心を閉ざして暮らしていた昔のことを、どうしてか思い出した。
 辺境の塔の封印を解き、神鳥の首飾りを手に入れると、アンザーツの症状は一層悪化した。けれどまだ仲間内の誰もその深刻さを察してはいなかった。彼の中では凄まじい勢いで彼を支配しようとする意志が蠢いていたのに。
 ある夜ヒルンヒルトは野宿の寝床からアンザーツが抜け出すのを目にして後を追った。夢遊病のようにふらついていたし、武器も防具も持っていなかったからだ。
「アンザーツ?」
 呼びかけるとこちらを向いてにこりとしたが、それだけだった。歩みを止めようとしない彼にヒルンヒルトはついて行くより他なかった。
 そのうち森が少し開けて、真っ暗な湖のほとりに出た。アンザーツは歩く速さを少しも変えず冷たい湖の中へ入っていった。
 突然のことに唖然としたが、すぐにハッとして引き止めに向かう。ザブザブと水を掻き分け、濡れるのも構わず奥へ進んだ。
「アンザーツ! 何をしている!!」
 追いついたときにはヒルンヒルトの顎が湿るくらいの深さになっていて、アンザーツはほとんど水の中だった。とにかく岸に引っ張り出そうと勇者の肩に腕を回し、来た方向へ戻っていく。
「気でも狂ったか?」
「まだ正気に戻れるか確かめようとしたんだよ」
 ふざけた台詞が返されて、思わずその場に立ち止まった。
「……ヒルンヒルト」
 急に声が出なくなった。いつものアンザーツの声音とはほんの少しだけ違っていた。
 弱音を吐いたり、仲間に無用の心配をさせたり、そういうことを彼は良しとしない。
 それなのにそんな消えそうな声で呼ぶ。
 それなのに余計な言葉は胸にしまいこもうとする。
「……勇者であるのが嫌なんじゃないんだ。だけどこのままじゃぼく自身は一体どこへ消えてしまうんだろう?」
 そのとき初めて彼の精神に何が起こっているのか悟った。
 彼の意識を奪い、彼の記憶を穴だらけにしている存在が何か。
「いつから記憶がおかしいんだ?」
 問いかけた声は微かに震えていた。尋ねながら、自分が何に祈っていたのかヒルンヒルトにはわからない。けれどどうか酷い答えが返ってこないようにと望んでいたのは確かだった。

「君と会った頃くらいかな」

 アンザーツは笑っていて、それはいつもの彼と同じ顔だった。
 得体の知れない感情がヒルンヒルトの心臓を締めつける。このショックがどんな心の機微に分類されるかもわからないくせに、雷に打たれたよう暫し動くこともできなかった。
 彼ともうひとり「勇者」がいるのだ。彼の内側で育った「勇者」という人格が、アンザーツを淘汰しようとしている。
 そんな馬鹿なと思っても、否定しきることはできなかった。
 だってこんなに人間味の薄い男は他に知らない。ただ優しく、ただ勇敢で、他人のためだけに在るような男は。
(どうしてもっと早く言わない)
 怒鳴りつけそうになったのをヒルンヒルトはぐっと飲み込んだ。
 ――これが憤りというものか。怒りがこんなに強く心を揺さぶるとは知らなかった。
 アンザーツはもうずっと意識が混濁したまま旅を続けていたらしい。そんな素振りは露ほども見せず。

「……何とかする。きっと放っておかない方がいい」

 気がつくとヒルンヒルトはそう言っていた。
 このときはまだ根本の原因が何なのかを突き止めることはできなかったが。



 大きな戦いを終えた後にはいつもしばらく黙りこむ。アンザーツは宴の類にあまり姿を見せなかった。今まではそういう場所が嫌いなのだと思っていたが、実際のところは違ったらしい。「勇者」との齟齬を他人に見せまいとして隠れていただけだった。
 魔界へと続く死の山を越えるべく、一行は更なる力を求めていた。けれどこの状態のアンザーツに戦いを続けさせるのは決して良いことだと思えなかった。表面上はいつもと変わらぬ彼なのに、変質は着実に進行している。
 わかるのは魔物と戦わせてはいけないということだけだった。試しにある村で一週間程度の休養を取ってみた期間がある。そのときは魔物の血に触れないでいるだけでかなり楽だとアンザーツの方から言ってきた。
 命を奪い続けてきた魔物たちの恨みかもしれない。記憶の欠落も、「勇者」らしく振る舞おうとする勝手な無意識も。

「覚えてることもあるんだよ。だからだんだんわからなくなる。自分の選択したことなのか、勇者の選択したことなのか……」

 ぽつりぽつりと苦痛の断片をアンザーツが言葉に滲ませるようになった頃、ヒルンヒルトは賢者の祠を訪れた。そこには前時代から生きる老賢女が坐していて、大賢者を志す人間を待っていると言われていた。
 祠は山門の神殿を越えた、更に奥深くにあった。試練も兼ねてひとりで行かねばならないと聞き、身ひとつで岩山を登ることにした。
 国家が認める賢者というのは七つの属性のうち五つ以上の魔法を扱う者を指すらしい。そういう意味ではヒルンヒルトは生まれながらの賢者だった。火、水、風、土、雷、光。六つの魔法を自在に操り放つことができたけれど、今必要なのは最後のひとつ、闇属性の魔法だった。
 それは肉体に干渉する光魔法と相反し、精神に干渉する。アンザーツの自我を取り戻すには、どうしてもその属性を得なければならなかった。
 絶壁の上に祠はあった。ヒルンヒルトは風をまとって遥か高みに舞い降りた。朽ち果てかけた祠の奥に朽ち果てかけた女がいて、「よく来たねえ」と干乾びた唇を舐めた。
 属性とは持って生まれた性別のようなものである。男が女に、女が男になれぬのと同じに、新しい属性を増やすことは普通できない。六つも属性を持っている時点でヒルンヒルトは百年に一度いるかいないかの大魔法使いになれると言われた。アンザーツがヒルンヒルトを誘ったのはそこに惹かれてのことだと思っていた。
「闇属性が欲しい」
 端的に告げると老賢女は糸のような目を細める。
「失敗すれば死ぬよ。成功してもろくなことにならない。覚悟は?」
 問われても怯むことはなかった。もとより生への執着は薄い。幸福への執着はもっとだ。闇魔法を使えるようになってアンザーツの元へ帰ることしか考えていなかった。
「構わない。どうすればいい?」
「……あたしの代わりにこれからはあんたが大賢者と呼ばれるんだ。こちらへおいで、あんたがあたしを取り込むことができたなら、望む魔法も手に入るだろう」
 真っ暗な祠の奥にヒルンヒルトは歩を進めた。
 老賢女は枯れ枝のような手をこちらに向けて真っ直ぐ伸ばしてくる。
 濁った魔力。透き通った光。それが空中に五芒星を描きだす。
 ヒルンヒルトも右手を差し出した。そうして脈々と引き継がれて来たに違いない、膨大な力を受け取った。

「――……」

 突き落とされた深淵の闇から目覚めて起き上がると、老賢女は消えていなくなっていた。痛みを感じ右手を見れば手の甲に五芒星の黒い刻印が残されている。どうやら成功したらしい。試練と言うのであれを倒せだのこれを手に入れろだの命じられると思っていたのに拍子抜けだ。否、老婆のあの物言いからすると、真の試練はこれから訪れるのかもしれない。
 ヒルンヒルトは祠を出て適当な魔物を探した。すんなりと我が身に馴染んでいる闇魔法を放ち、何ができるようになったのか確かめる。それがアンザーツの役に立つものかどうか。
 滅多に笑わぬヒルンヒルトだが、この日だけは薄笑みを浮かべた。
 賢者とは即ち愚者なのだろう。一握りの智を得るために他のすべてを捨てられる、そういう人間を賢者と呼んでいるだけなのだ。



 仲間には何も告げていなかった。少し遠出をしてくるとしか。夜になり宿を取っていた山門の村まで戻ったとき、ゲシュタルトたちは呆けた顔でヒルンヒルトを出迎えた。
 属性が増え、魔力も大幅に増したから、聡い者ならどこへ行っていたかぐらい簡単に見当がついただろう。
「少しくらい相談してくださったら良かったのに……」
「ほんっと突発的だよなあ」
 ゲシュタルトの溜め息とムスケルの苦笑いを擦り抜けて、ヒルンヒルトはアンザーツの事後承諾を求めた。賢者なんか連れて行けないと言われても今更どうしようもできないが。
「無事で良かった。あまりひとりで無茶しないでね」
 拒絶でも否定でもない言葉に束の間安堵して、それから不意に怒りが込み上げる。いつもいつも、ひとりで耐えて何も言わないのはどちらの方だ。
 賢者の力は想像以上に働いた。働きすぎたと言ってもいい。
 ヒルンヒルトは迷うことなくアンザーツの潜在意識に干渉した。誓って言うが他意はなかった。自分にそんな口をきくのならそちらも今ここで本音を打ち明けてしまえばいいと、そう思っただけだった。ゲシュタルトやムスケルは本気で彼を案じてくれるはずなのだから。

「……」

 けれど見えたのは圧倒的な白い闇だった。何もない、ただ光だけが際限なく溢れた異様な世界。普通なら拠り所となっている人や場所、深層心理を象徴する何かが映し出されるはずなのに。
 この何もない空間こそがアンザーツの精神世界だと気づくまで随分な時間を要した。
 光に埋もれ、輝きに喘ぎ、押し潰されそうになりながら、いつしかヒルンヒルトは必死でアンザーツを探していた。
 真っ白な世界の中、たった一点落とされた影を。消えそうになりながら踏み留まっているそれを。

「アンザーツ……」

 ヒルンヒルトの目の前で、アンザーツは笑っていた。
 愕然と立ち尽くす。
 もうこれだけしか「君」は残っていないのか。

「……先のことを相談したい。少し時間をもらえないか」

 世界が白から宿に戻る。
 喉まで突き上げているものを堪えながら、ヒルンヒルトはそれだけ聞いた。
 ゲシュタルトやムスケルに打ち明けられる段階などとうに過ぎていたのだと、やっと理解した。



 夜になり、寝静まった宿の一室で、ヒルンヒルトはアンザーツを横に寝かせた。
 催眠状態にしておいてから再び精神世界の扉を開く。そこはやはり暴虐な光に埋め尽くされたままで、アンザーツは根気よく探してやらねば見つけられないくらい小さく小さくなっていた。
 ヒルンヒルトは草刈りでもするように辺りの光を払いのけた。それらはふわりと舞い上がり、シャボン玉のよう呆気なく弾け飛ぶ。手当たり次第払いのけるうちにアンザーツの影だったものは明確な形を持ち始めた。
「……これってあまり良くないんじゃないか?」
「良くないのは君の状態だ。ここまで酷いとは聞いていなかったぞ」
「……言って困らせたくなかったんだ。ぼくは旅をやめるつもりはないし、誰にもどうにもできないことだと思ったし」
「だが私には言ったではないか、これ以上進めないかもしれないと。やめたいならやめればいい、勇者など。誰も君を責めることはできない」
「……」
 違うよ、と声がする。アンザーツは意外にはっきりした瞳でこう続けた。
「『勇者』は旅を全うするし、ぼく自身もそう希望してる。だけどこれ以上『ぼく』の方が皆とは行けないかもって言ったんだ」
 ヒルンヒルトは無性に苛立った。感情に振り回されるなんてことは初めてだった。
「世界を平和に導くことがぼくの使命で、ぼくの生きがいなんだよ」
 アンザーツはまるで聖人然として言う。そのために生まれたのだからそのために生きられることが幸せだなんて、嬉しそうな顔をして。
「消えてしまうのは怖いけど、死ぬわけじゃないし。誰かが悲しむわけじゃないなら構わないんだ」
 殴ってやろうかと拳を握る。そんな遺言めいた言葉を聞きにきたわけではないのだ。
 ただ彼が苦しそうに見えたから、自分がどうにか癒してやろうと。
「……嘘をつくのはよせ。ここは君の心の中だぞ。誤魔化そうとしたってすぐわかる」
 ヒルンヒルトは左腕を高く持ち上げた。袖の端を握り締めているアンザーツの指をはっきり示すため。
「呆れた強がりだよ、君は」
 嘆息しながらヒルンヒルトはアンザーツの頬を抓った。
 この期に及んで泣きもしない。喚きもしない。
 周囲にはまた無遠慮に光が集まり出す。
「ごめん」
 謝罪の声に目を伏せて、次の彼の言葉を待った。
「君を旅に誘ったとき、なんてぼくと似てるんだろうって思った。君ほど感情の動かない人をぼくは見たことなかったから。……だからこんな、賢者になってまで助けようとしてくれるとは、全然思ってなかったんだよ」
 ごめんとアンザーツがもう一度詫びる。
 ヒルンヒルトは頷かず、ただ彼の前に佇んでいた。



 アンザーツとの友情がどんな形で深まっていったか、ゲシュタルトたちは何も知らない。アンザーツは彼らに何も話さなかったし、ヒルンヒルトも教えなかった。
 彼の魂を喰らおうとする無意識を牽制するのが己の役割となった頃には、彼を守れるのは自分しかいないと思うようになっていた。
 故郷も親も友人もなければ人を愛したこともない。そんな自分に、生まれて初めて守りたい友人ができたのだ。
 君のためなら何でもする。そう誓うヒルンヒルトにアンザーツはただ微笑んだ。
 救いなどまったく期待していないとうそぶきながら。











(20120602)