第八話 星の分岐と迷いの勇者






「よっしゃ、お前ら昨夜はよく眠れたか?」
「はい」
「ああ」
「……」
「体調は万全だな? 便所に行きてー奴はいねぇな?」
「大丈夫です」
「問題ない」
「……」
「おいツヴァング、頷くか首振るぐらいしろよ。それとも本当に熱でもあんのか?」
「くだらない質問にいちいち付き合っていられるか!」
「あぁ、まあそんだけ元気ならいいや。んじゃ行こうぜ」
 アペティート軍西方部の中規模基地に潜入する準備が整い、ベルクたちは揃って丘を降りた。
 吹き上げる湿った潮風は冷たい。この辺りは荒地が多く、海もあまり綺麗ではなかった。だからであろう、基地に隣接する街はいつ訪れても活気がなかった。不景気と戦争に対する不安で住民の転居が後を絶たないのだ。川上の工場が稼働停止するまでは汚染排水による健康被害も深刻だったという。ここ数年で半ばゴーストタウンと化した街だった。

「え、あ、うわああーー!!!!」

 悲鳴は唐突に轟いた。壁の外側から基地に接近しようとしていたベルクたちの足がぴたりと止まる。早くも勘付かれたかと焦ったが、どうやらそうではなさそうだった。
 声の出どころは街の真ん中にある時計塔だった。そこの番人が西に異なものを見咎めたらしい。
 間を置かず街中にガンガンと警鐘が鳴り響き、一瞬にして異様な空気が立ち込めた。今日この基地の調査が終わればさっさと引き上げ帝都を目指すつもりだったのだが。
「ラウダ、街に何があったかちょっと見てきてくれねえか?」
「わかった」
「まさかビブリオテーク軍が攻めてきたんじゃ……」
「かもしれません。ですが思ったよりずっと早いですね。本土上陸は辺境から魔法使いを引っ張って来てからだと予測していたのですが」
 肉体と分離している神鳥は一瞬で空高く舞い上がり、すうっと旋回して再び地上へと降りてきた。やはりツヴァングの危惧したように、ビブリオテーク軍と思しき黒軍服の集団が街に迫っているという。
「一般市民は荷物を抱えて逃げ出している。この分だと基地の方も騒がしくなっていそうだな」
 クラウディアが「潜入は少し待ちましょう」と提案した。ベルクとツヴァングもそれに頷き、一旦身を隠せそうな茂みまで引き返す。間もなく基地でもばたばたと足音が響き始めた。
「兵が出てきたぞ!」
 隊列を組み街へ進むアペティート兵たちをツヴァングが指差す。チャンスだな、とベルクとクラウディアは目配せし合った。
「兵の少なくなった今の間に基地の探索を行いましょう」
「地下牢ひとつと地下倉庫ひとつだったな、ラウダ?」
「ああ、西棟と北棟だ。一階の渡り廊下で繋がっている」
 その二箇所で見つからなければノーティッツはこの基地にいないものと思われる。ったく手間かけさせやがるぜとベルクは毒づいた。無事に再会できたら飯のひとつも奢らせなくては。
「一応コートは脱ぐなよ。基地にもある程度の人数は残してるはずだからな」
 薄紫の軍服の襟元を正しながら注意を促せば、ツヴァングは「こんなものまで闇市で買えるとはな」と眉根を寄せた。アペティート軍はあまり下っ端を大事にしていないのだろう。手に入れた軍服はおそらく脱走兵の物だった。前線に近づけば近づくほど逃げ出す者は増えるようだ。
 粗方の兵が出て行き静まり返った基地の内部に送り届けてもらうと、ラウダにも自分の身体を取ってくるように伝えた。無防備な肉体が戦闘の巻き添えを食って怪我でもしては大変だ。
 神鳥は薄青く光る羽を広げて昨日までの野営地に戻って行く。ラウダと別れたベルクたちは早速西棟の地下階段を降りて行った。
 夜でももう少し騒がしいだろうと思うくらい人がいない。兵士はほとんど街の防衛に駆り出されたようだ。階下はどこにも見張りすらおらず、若干拍子抜けだった。代わりに牢の中にも誰もいなかったが。
「……なんだか変じゃありませんか? 誰も捕えていないと言っても防衛上のポイントにはひとりふたり配置されているべきでしょう?」
 クラウディアの抱いた感想とベルクの所感は一致していた。敵襲を受ける恐れの少ない辺境の基地ならまだしも、ここはすぐ戦場になってもおかしくない場所である。指揮官はど素人なのだろうか? 敵に基地を制圧されれば戦いにくいなんてものではない。即敗北だ。なのに守りが手薄すぎる。
「よくわかんねえな……なんかの策かもしれねえけど……」
 ぼやきながらまたしても「あいつがいればなあ」と考えてしまう。ここ数年はノーティッツに頭脳労働を任せきりでいたので回転が鈍りに鈍っている。経験でなんとかできることならひとりでもなんとかできるが、こんなときはやはり隣にいてほしい。
「今はそれより次の倉庫の確認だろう。さっさと終わらせよう」
 螺旋階段を上り始めたツヴァングをベルクは思わず羽交い絞めにした。暴れようとするので手で口を覆い、静かにしろとジェスチャーする。クラウディアも青年の横で人差し指を突き立てた。
 複数の誰かが通り過ぎていく足音が響く。壁に張りついて聞き耳を立てる僧侶の姿に、ようやくツヴァングも状況を察したようだった。
「馬の用意はいいか?」
「はい」
「裏門にビブリオテーク兵は来ていないな?」
「はい、大丈夫です」
 コツコツと五種類くらいの靴の音が混じる。偉そうな口調からして上層部の人間のようだ。
 裏門とはどういうことだろう。指令を下しに前線へ向かうわけではないのか?
「……」
 足音が完全に聞こえなくなってから、クラウディアがベルクを振り返った。またしても怪訝そうな顔つきで。
「……今のちょっと掠れた声、通信兵のヨハンです。ちらりと栗毛も見えました、間違いありません」
「通信兵? なんでそんな奴が持ち場から離れるんだ?」
「んぐぐっ! むぐっ!!」
「あ、悪ィ」
 パッと手を離すとツヴァングがその場にしゃがみ込む。どうも窒息しかけていたらしく、ゼエハアと懸命に酸素を吸い込んでいた。
「こっの馬鹿力……!」
「だから悪いっつったろー?」
 悪びれもせず宥めるベルクにツヴァングは余計憤慨した。どうやって頭を冷やしてやるべきか悩んでいると、傍らでまた悪徳僧侶が何事かほざき始める。
「そう、そうなんですよ。ヨハンもなかなかの馬鹿力で、相手をするのが大変でして……」
「あのな? だからな? スレッスレの冗談言うのやめてくれる?」
「そんな。わたしはこの場の雰囲気を良くしようとしただけですのに」
 アラインと言いこの僧侶と言い何か吹っ切れたらしいのはいいけれど、絶対に方向性を間違えている。勇者の国はやはりどこかおかしな国だ。
「まぁいいわ、倉庫見に行こうぜ倉庫」
「おや、お疲れですかベルクさん?」
「誰のせいだと思ってんだ!?」
 そうして移動した北棟の地下倉庫でベルクたちは思わぬものを発見することになった。長細い四角形の紙に独特の紋様が描かれた札。三日月大陸にはよくある呪符を。
「……どういうこった?」
 今度こそわけがわからずベルクは問う。誰に答えを聞けばいいかもわからないまま。
 見間違いなどあるわけがない。これはノーティッツの呪符だ。それが何故か、爆発物を収めていると思しき樽のすべてに貼り付けられている。
「戦場で使うつもりには見えませんね」
「ええ、これじゃ持ち出すときに引火しますよ」
 見張りの兵はまたしても不在で倉庫には鍵すらかかっていなかった。これが何を意味する符号なのかわからず頭を抱える。
 だが状況はベルクに考える暇すら与えてくれなかった。倉庫の入り口が突然燃え上がり、壁を伝っていた導火線に火がついたのだ。
 銅線の先には火薬の詰まった特大の爆弾が置いてあった。基地を半分吹き飛ばせそうなほど大きな弾薬が。――本気で意味がわからない。
「な、何故だ!? これは一体……ッ!!」
「切ってください! 水魔法は使えないんです!」
 反射的に腰のオリハルコンを抜いて飛び込んでいた。神鳥の剣で壁ごと導火線を切断すると、炎はそこで燃え留まる。
「……っ」
 なんだって自軍の基地にこんな自爆装置みたいなものを仕掛けているのだ?
 上層部らしき連中も、通信兵も、もしやわざと基地を捨て逃げ出したのではないか?
 思い浮かんだ可能性をふたりに伝えようとしたときだった。爆音が遠くでこだました。
「街からです!!」
 クラウディアが駆け上がるのに続いてベルクとツヴァングも倉庫を飛び出す。北棟の塔を昇り、見晴らし台のある階で立ち止まった。
 街の西端が崩れている。古くなりすぎ誰も住んでいなかった建物や住人のいなくなった家、潰れた商店などが一直線に倒壊していた。
 明らかに人為的で工作的な爆発だ。ベルクは無意識に拳を握った。
 もしかしてあいつの呪符が悪用されたのではないのか。
「ラウダ!! ここだ、街まで乗せてくれ!!!」
 ちょうど森から飛行してきた神鳥を見つけ、大声で叫んだ。こんな胃の軋む怒りは初めてだ。
(あいつの魔法で人殺しなんかさせるかよ……!!)
「待ってくださいベルクさん、行ってどうするつもりなんです!?」
「ビブリオテークの肩でも持つつもりか!?」
 降りてきた神鳥を前にふたりが問いただす。だがそれに答えたのはベルクではなくラウダだった。
「……おかしなことになっているぞ。ビブリオテーク軍が魔物を連れている」






 ******






 兵士の国の王城に来客が現れたのは昼過ぎのことだった。ばさばさとドラゴンの羽音に似た音が響いたかと思ったら、バルコニーに二匹の魔物が舞い降りたのだ。見た目は幼い少年と少女。だが皮膚の鱗や耳の形、瞳の色で魔性の眷属であるのはすぐ知れた。城内は一時騒然となった。
 このときウェヌスは夫と友人の安否を占っている最中だった。近頃庭師として雇われた元盗賊ヴルムの世話する薔薇庭園で、紅い花弁を千切っては放り、千切っては放りしていた。ベルクに置いて行かれてからというもの何も手に着かず、溜め息ばかりが増えていた。
「ウェヌス様! ウェヌス様ー!」
 衛兵の声に呼ばれてウェヌスがふと顔を上げると、少し髪の伸びたユーニが「うああああああん!!!!」と飛びついて来るところだった。豊かな胸に彼女を抱き止め「まあ、まあ」と驚き目を瞠る。
「どうされたのです? あなたは魔王城にいたのでは?」
「びええええええええええ!!!!!!」
「困りましたわ。ああ、どうか泣き止んでくださいまし」
 力いっぱいぎゅうとユーニを抱きしめると泣き声は呻き声に変わった。苦しいと少女が訴える前に、トントンと赤毛の少年に肩を叩かれる。
「離セ」
 どういうわけか少年の額には鏡の破片が埋まっていた。風貌もどことなくある人物を彷彿とさせる。
「まああ……!」
 パッとユーニを解放すると少年は無言で彼女を引き取った。そこで人型に化ける魔力が切れてしまったのか、一匹の小さな蜥蜴の姿に変わる。生まれ変わりという事象を目の当たりにするのは初めてで、とても感慨深かった。やはり魂は思う相手の側に生まれ変わるのだ。
「あのねえ、ボクお城にたくさん人間がきてこまってたの。ファルシュのいすは隠したけど、魔物がたくさん連れてかれちゃった……」
 ユーニは悲しげに泣きべそをかく。彼女の訴えを耳にしたウェヌスの周囲にはクエスチョンマークが飛び交った。
「……ええっ!? 魔王城に人間が立ち入ったというのですか? 本当に?」
「うん、茶色いひとたちがね、こわい武器を持ってきてね」
 怖かったよとしがみついてくるユーニの背中をウェヌスは優しく擦ってやる。一体どういうことなのか、目を点にしながら。
「すみません、そこの方。早急にウングリュク陛下と連絡を取る手筈を整えていただけますか?」
 衛兵に依頼すると、彼は既に用意できていると答えた。同じ件で辺境側からも通信が入っていると。






 ******






 前回はヒーナの奇襲が想定されておらず、ビブリオテーク首都付近の海上には二隻の巡視船しかいなかった。
 今回は迂回してやり過ごすわけにいかなさそうだ。十数隻の戦列艦が並んだ水平線を眺め、レギは薄笑いを浮かべた。
「海で足止めできれば良かったのだろうがな」
「どうするつもりなの?」
「突っ切るさ。我々には気功があるのだからね」
 言うが早く、レギはオリハルコンの杖を掲げる。風属性のある気功師たちが一歩進み出て同じように手を構えた。他の気功師たちは全員身を低くして強風に備える。
 アンザーツの物言いたげな表情は敢えて無視した。止めたいのなら実力行使で止めればいいのだ。ここまで来てレギが自ら踏み留まることなどないのだから。
 死んでも離すなよと真下の舵取りに言いつけて術を発動する。帆に強い追い風を受け、船はぐんぐん速度を上げた。
 波を切って走る音のなんと軽快なことだろう。駿馬のごときスピードにビブリオテーク船の連中は意表を突かれたようだった。大砲の弾がまるで見当違いのところへ飛んで行く。レギの船が起こした波で転覆しかけた船もあった。
「悪いが上陸させてもらうぞ!」
 ビブリオテーク船とのすれ違いざま、今度は水属性持ちの気功師たちを立ち上がらせる。魔力を通した高波に乗り、入り組んだ海岸線も切り立った崖も、桟橋も漁港も悠々飛び越えてしまう。やはり気功は優れた力だ。

「さぁ着いた。ではここを拠点に攻略を始めることにしよう」

 ふわりと船を降ろしたのはビブリオテークの首都を臨む草原の真ん中だった。霧に霞む外壁のもと、首長アヒムがこちらをきつく睨んでいる。彼の後ろでは兵士たちが各々武器や陸上兵器を構えていた。
「レギ、誰も殺さないで」
 懇願の台詞に振り返り、アンザーツを一瞥する。
「それは戦争を止めろという意味? わたしはまだ安心を得られてはいないよ?」
 問い返すと彼は小さく違うと言った。戦は起こしても命を奪うなとは甘い話だ。
「わたしを殺せば気功師たちは止められるさ」
 腕を広げて隙を作るもアンザーツにその気はないようだ。
 わたしが彼の仲間をも葬り去ろうとしているとわかれば少しは幻滅するだろうか。






「ちょっとあれ、アンザーツじゃない?」
「……本当だな。ヒーナへ行くとは聞いていたが皇帝に付き添って戻ってくるとは知らなかった」
 悪霊ふたりのひそひそ話を耳にして、マハトは「はあ?」とヒーナの軍船に目をやった。帆柱に備え付けられた物見台には確かにふたりの若者が並んでいる。ひとりは前回宣戦布告をしに来た少年、ひとりは祖国の先代勇者だった。
 なんだなんだ、とっ捕まったのか、それともまさか懐柔されたのか。
 アンザーツにこちらへ戻ってくる気配はまるで見られない。早く離脱しなければこちらの首長がいつ攻撃命令を出すかわからないのに。
「例の獣どもは準備いいか?」
「できています」
「ならば放て。二度と奴らを都に踏み入れさせるな」
「はっ!」
 危惧した矢先、アヒムが高々右手を掲げる。第一陣が掛け声と共に走り出した。砂の道から牧草地である原っぱへ。
「おい、アンザーツはどうする」
「自分のことは自分で何とかするだろうさ。彼の意思であそこにいるなら理由など後で問えばいい」
 賢者の返答にマハトは斧を取り身構えた。放っておいていいのなら備えるべきは気功師たちの攻撃だ。
「イヴォンヌ様、離れないように……」
 言いかけた台詞は最後まで口にできなかった。聞き覚えのある遠吠えが草原に響いたから。
 目を疑った。ビブリオテーク兵の引いてきた大きな鉄籠から飛び出したのは、魔界や辺境に生息するヴォルフの群れと半鷲半獅子のグリュプスだった。
「っな……」
「何故魔物がビブリオテークに!?」
 イヴォンヌも目を白黒させている。ヒルンヒルトはアヒムを見やって「意外に食えんな」と呟いた。
「辺境が魔術師を寄越さない代わりに自ら戦力を狩りに行ったのか」
「わざわざ魔界まであんなの捕まえに行ったの? 物好きねえ」
 もしやビブリオテークに来る前にすれ違ったあの船が密航船だったのだろうか。ウングリュクはこのことを知っているのか?
 魔界で猟を行ったとなれば立派な領土侵害である。あそこは今、三国の共同管理下にあるのだから。
 薬でも嗅がされているのか普段より凶暴そうな狼たちは一直線に気功師たちへ向かって行く。迎え撃つレギはと言うと、不敵な目つきで笑っていた。






 風を纏わせればこんな距離は一瞬だ。首都に攻撃を仕掛けることなど実に容易い。だが今日はその前に、ひとつなすべきことがある。
 街門の前に立つ兵の中からレギは白い肌の者を探した。屈強な男がひとりと少女と見紛う青年がひとり。そして彼らを守るようにして半透明の霊体がふたりくっついている。
(あれがアンザーツの仲間か)
 目星をつけるとレギは気功師たちを飛ばせた。素直に待ち受けてやる必要もないだろう。
「あなたの仲間はあなたより先に死んでしまったのかな?」
「……レギ?」
「何らかの道具を依代に存在しているみたいだね。あなたと違って殺しても死なないということはなさそうだ」
「……何を言ってるの?」
 質問には答えず足元まで迫った敵兵どもを風で薙ぎ払う。気功を持たない人間は脆弱だ。ヒーナと対等に渡り合おうと思えば戦列艦を何隻用意しても足りない。
「アヒムは面白い兵隊を見つけてきたな」
 魔力を帯びた獣の群れに半鳥半獣の合成獣。さて、どこまで楽しませてくれるのか。
「魔獣と兵士はわたしが直々に相手となろう。お前たちはあのふたりを始末するように」
 船とアンザーツを守らせる分だけ残して残りの兵には街門へ向かうよう指示を出す。百人超の気功師軍が一斉に襲いかかる形だった。男の霊がヒルンヒルト、女の霊がゲシュタルトだろう。彼らは気功師の魔法攻撃を巧みにかわして反撃に転じた。
 レギが何を狙っているのかアンザーツにはただちに知れたようだ。瞠られた黒い双眸が戸惑いに揺れている。
「どうして……!?」
「さあ、どうしてだろうね」
 はぐらかしたまま甲板に乗り上げてきた狼どもを一匹ずつ燃やしていく。
 前回はしてやられた街からの砲撃も、自軍に打撃を与えることはできなかった。前線に風の陣を敷き、飛んでくる弾に上昇気流を与えればすべて海まで通り過ぎてしまう。対処法さえ見つかればどうということもなかった。






 クラウディアたちと別れてから早七日、いや八日か。エーデルとディアマントは迷いに迷って砂の都まで辿り着いた。通信可能な鏡は手渡されていたし、親切な辺境の王にも「海が見えたら左から波が来るように北上して……」と幼児向けにも程があるアドバイスを貰っていたのだが、行き過ぎたり行かなさ過ぎたりして先刻ようやく到達したのだ。
 ヒーナからの制裁を受けたという首都はあちこちに瓦礫が積もっていた。ヴィーダはもうここへ来てしまったのだろうか。昨日の時点でイヴォンヌからの連絡はなかったので、間に合ったと思いたいけれど。
「また気功師とかいうのが襲ってきているようだな。我々が見たのとは別物らしいが」
「ええ、早くヴィーダの恋人を見つけなくちゃ……」
 クラウディアの予測では次に彼が現れるとしたら恋しい女の元でしかないだろうとのことだった。エーデルもそう思う。今度こそ捕まえてオリハルコンを返してもらわねば。アラインや都の人たちのためにもだ。
 翼を畳んで降り立ったのは要人の住居と政治機関が集まるモスクだった。ここでなら最近ドリト島から戻った女性について尋ねることができるのではと思ったのだ。
 しかしどうやら今は避難住民でごった返しているらしい。兵士たちも手伝いの女たちも忙しそうで、とても何か聞けるような雰囲気ではなかった。仕方なくエーデルたちは人気のない寺院裏に引っ込む。
「どうする? ディアマン……」
「――ヴィーダ?」
 静かな声が響いたのは直後だった。いつの間にそこに現れたのか、ひとりのビブリオテーク人女性がエーデルたちを睨み据えている。寺院の裏と言っても僅かな緑がある他はすぐ高い壁が迫っていて、奥にも出入りできそうな扉はないのに。
「あなたなんでしょう、ヴィーダ」
 女性は強い口調で問うた。わけがわからずエーデルは彼女と間合いを取ろうとする。
 褐色の肌に銀髪。パフスリーブの長いワンピース。どこかで見た覚えのある格好にハッと目を瞠る。カメオの肖像に描かれていた人だ。ヴィーダの隣に並んで。

「……ッ!!」

 突如巻き起こった旋風にエーデルは吹き飛ばされた。同時に足元の影がどろりと歪み、金髪の青年が顔を出す。
 隠れていたのか。無事に敵国を旅するために。
「君を迎えに来たんだクライス。今度こそ一緒に行こう……!」
 ヴィーダが差し出した手にはやはり五芒星が刻まれていた。彼の申し出に首を振り、髪を払ったクライスの右手にも。
「あなたとは行かないわ」
 断絶の言葉にエーデルは息を飲む。ディアマントを振り仰ぐと彼も驚いた顔をしていた。国のしがらみや思惑があるのだろうが、まさか恋仲である女の口からそんな台詞が飛び出そうとは思わなかった。手に手を取ってオリハルコンごと逃げられても大いに困るけれども。
「どうして!? 君だってあの人から力を貰ったんじゃないのか? もう何も怖がることなんかないんだ。誰にも脅かされずにふたりで幸せに暮らせるんだよ……!!」
 ヴィーダは半ば無理矢理クライスの腕に掴みかかった。思わずふたりの間に割り込みエーデルは彼を怒鳴りつける。何を勝手なことばかり言っているのだと怒りで頭が熱くなった。
「あなたのしたことが原因であちこち争いが起きてるのよ!? いい加減にして! オリハルコンをアラインに返して!!」
「君に何がわかるんだ!!!!」
 魔法がエーデルを吹き飛ばす。すかさずディアマントが結界を張ってくれたがくらくらと目眩が残った。
「ぼくらがどれだけ我慢してきたか、ただの自由を得るためにどれだけのことをしなくちゃならなかったか、何も知らないくせに……!!」
 血を吐くようにヴィーダが叫ぶ。抑圧されてきたことは事実だろうが、それでも他者を踏みにじる行為は許せない。一発お見舞いしてやるわと拳に力を入れたそのとき、ヴィーダの頭上に雷が落ちた。
 ディアマントではない。ましてエーデルでもない。恋人を攻撃したのはクライスだった。表情すら変えることなく。
 なんでとヴィーダが呟いた。雷は直前で相殺されていた。
 わからないのはエーデルたちも同じだった。「国が違うから一緒に行けない」までは理解できるとして。
「……アペティートが戦争を始めたこと……そんなに怒ってるの?」
「それもあるわ。でもそれだけじゃない」
 クライスの魔法は止まらなかった。彼女の周囲に浮き上がった球状の雷光が音も立てずにヴィーダを狙って飛び回る。
 彼らはふたりとも同じ気功師から大賢者の力を授かったのだろうか。一体どうしてヴィーダたちが受け取り役であったのだろう。
「昔のことならもう思い出したんでしょう? 星が教えてくれたはず、今の私たちが生まれるよりもっと前のこと」
 生まれ変わりかとディアマントが呟いた。クライスの攻撃はヴィーダひとりに向かっている。攻撃にも転じられず、皇子は防戦一方だった。
「生まれ変わりって、誰の!?」
「私が知るか」
 クライスの放った魔法弾のひとつが当たり、モスクの壁が崩れ落ちた。何事かと集まって来た巡回兵らがエーデルたちまで取り囲む。だがそんなことは意に介した様子もなく、クライスは更にヴィーダを攻め立てた。バチバチと両腕に雷を宿らせて。
「……っ」
 既視感のある光景にエーデルは胸を詰まらせる。もう忘れたいのに思い出してしまう。ツエントルムの魔法に意識を乗っ取られ、クラウディアが襲いかかってきたときのこと。
 ヴィーダはあのときのエーデルと同じに動揺しているようだった。当たり前だ。恋人だと思っている、世界で一番大切な人に攻撃されて、平静でいられるわけがない。
「……私は誓いを思い出したの。今生でこそあなたを殺さなくちゃいけない。破滅の魔法が甦る前に……!」
 雷が彼女の手を離れる前に、翼を広げて飛びかかった。ヴィーダを庇おうとか助けなきゃとかそんなことは露ほども考えていなかった。身体が嫌だと反応しただけだ。
「邪魔するつもり?」
 容赦なく灼熱の炎がエーデルに浴びせられる。腕で庇って後ろに退くと、入れ替わるようディアマントがクライスを抑え込んだ。腕を取られた彼女は大男を退けようと次々火球を生み出しぶつける。
「悪いがそんなものでは死なん」
 クライスの注意が余所へ向いている隙にエーデルは立ち尽くすヴィーダを揺さぶった。
「何ぼさっとしてるのよ!?」
 気がつけば周囲はビブリオテーク兵だらけだった。思いもよらぬ魔法合戦に突入のタイミングを逸していたのがエーデルの叱咤で全員我に返る。だが兵士たちは誰もエーデルに触れられなかった。ヴィーダが転移魔法を発動させたのだ。
 ハッと気づいてディアマントが手を伸ばしてくれたが一歩遅かった。エーデルはそのままヴィーダの魔法に巻き込まれ、モスクから強制退去させられた。






 狼も合成獣も、おそらくアンザーツの話していた魔物という生き物だろう。魔界にはもっと骨のある者もいるのかもしれないが、ビブリオテーク軍が捕えてきたのはあまり大した相手ではなかった。無論レギにとってはの話だが。
「ただの気功師であればこの攻撃も効いただろうに。残念だったな」
 呆気なく片付いてしまった魔獣たちに治癒と幻惑の術をかける。弾切れになった途端お飾りと化す哀れな武器しか持たない一般兵ならこの獣たちで相手は十分だった。
 瀕死の魔物にレギの気功はよく効いた。立ち上がったヴォルフたちはあっさりアヒムに反旗を翻し、坂を駆け上がっていく。グリュプスは空からビブリオテーク軍に反撃を開始した。
 怒号混じりの叫び声、哀れな悲鳴。断末魔はまだないようだ。野原を見渡せばあちこちから火の手が上がっていた。船の周りには誰もいない。レギの隣に歯を食いしばるアンザーツがいるだけだ。
 明らかに狙われていると勘付いたか、大柄な戦士と華奢な青年は敢えて防衛の列から離れたようだった。人海戦術で波状攻撃を仕掛ける気功師たちを押し退けて、強引にこちらへ突き進んでくる。そこに息も絶え絶えだったグリュプスを甦らせた。
「絶妙のタイミングだ。うまく引き離せたよ」
「レギ……!」
 グリュプスの後ろ足が戦士に爪を向ける。補助しようとした青年は気功師に囲まれたため退避せざるを得なくなり、海に面した崖の方へとずるずる追い詰められていった。
 戦士の方は霊体に気功師たちの相手をさせ、本人はグリュプスと対峙することに決めたらしい。なかなか腕に覚えがあるようで、折角活力を取り戻した魔物だったのにあっという間に翼と足をもがれてしまった。
「あちらはまだ大丈夫そうだけど、崖に行った方はどうかな?」
「……ッ」
 黒いドレスの女の霊が忌々しげに舌打ちしている。どうやら彼女が依代の持ち主に力を与えているようだ。
 中の下くらいの気功師相手ならあの青年でも何とか勝負になりそうだが、多勢に無勢のこの状況では戦力にすらなれていない。ビブリオテーク軍にしてみれば、彼が集中して襲われているおかげで敵兵を討ち取る僅かな勝機を得られているわけだが。
(だがそれも魔物返しで封じたし、今回は圧勝だな)
 崖の端まで追いつめられた異国の青年を眺めつつレギはふうと息を吐いた。少し大人数を連れすぎたのか、心身に疲労を感じる。否、疲労というか一抹の空しさか。
「……どこへ行くんだいアンザーツ? あちらの味方に着くのかな? わたしに刃を向ける?」
 仲間を助けに向かおうとした友人に釘を刺す。ぎくりと肩を強張らせ、アンザーツが振り返った。
「レギ、止めて、こんなこと……」
「あなたの頼みでもそれはできない。たとえ気功師様として命じられるのであっても」
 ぐらぐら揺れるアンザーツの黒い瞳。友達になろう、力になりたいと言ってくれたときの強さはそこから失われているように思う。
 レギを刺したときの姉はどんな顔をしていたっけ。今の彼よりもっと酷い顔だったかな。
「……あなたがヒーナに来てくれて、何年かぶりに楽しく過ごせた気がするよ。あなたは無償でわたしと友達になると言ってくれ、心の中まで見せてくれた。だけどそれでも安心することはできなかったんだ」
 何故なのか唇には笑みが刻まれていた。多分諦めの笑いだろう。あとは自嘲の笑いと虚勢の笑いしか知らない。アンザーツのおかげで他にも思い出せたものがあった気がするが、どうせまた忘れてしまうに違いなかった。
「レギ……」
 焦燥の滲んだ眼差しがこちらを向く。生来彼は優しい気性なのだろう。どうしようもない奴と見限ってしまえば楽なのに、こんなときまでこちらの話を聞こうとするのだから。
「わたしはね、自分の身内に憎まれ恨まれ蔑まれるうちに、人として失くしてはいけない部分を失ってしまったんだ。誰かの好意を信じたり、誰かに好意を持ったりすることが全然できなくなってしまったんだよ。……クヴ・エレの背中にたくさん傷があるのを知っていた? あなたはわたしと彼を親密だと言ってくれたけど、全部わたしのつけた傷さ。小さいのも大きいのも浅いのも深いのも、嫌な目に遭うと当たり散らして彼が逃げて行かないか試すんだ。狭量で嫌な奴だよ。こんなわたしとあなたが友達でいてくれるのか酷く自信がない。――だからあなたのことも試すんだ。わたしがあなたの仲間を殺しても、まだ笑いかけてくれるのかどうか」
 向けられたアンザーツの表情は呆然としていて、どこか傷ついているようだった。
 早く呪いを吐けばいい。大臣のように罵ればいい。なんてぬくもりのない人間だと。
「……わたしの中にはただ猜疑があるのみだ。だからこそ早く安息を得たい。そう思う心以外はとっくの昔になくなってしまったんだ、アンザーツ。気功師様であるあなたにすら疑いを抱くのだから、この疑心暗鬼こそがわたしの星なのかもしれないね」






 気功師の起こした風に吹き飛ばされ、イヴォンヌが崖から墜落しそうになる。それを何とか地上に引き戻し、ゲシュタルトは唇を噛んだ。
 一体何なのだこの魔術師集団は。ビブリオテークに戦を仕掛けてきたくせに、どうして自分やヒルンヒルトばかり狙うのだ。
「そんなに死にたいなら黄泉の果てまで送ってあげるわ……!」
 ぶつぶつと魔族時代に覚えた破壊呪文を諳んじてやると、近くにいた気功師十数人が吹き飛んだ。その場で気絶したのも何人かいるが、意識がない程度では彼らは止まらない。白目のまま向かってくるのでせめて瞼を閉じろと念じる。
(魔法の威力が落ちてる……)
 相手が多すぎるのと狙われすぎているのが主な原因だ。最悪戦いの最中に魔力が切れるかもしれない。リボンさえ無事なら明日には復活できるけれど、もし引き裂かれるようなことになったらイヴォンヌとの契約が切れてしまう。
(流石に新妻が男から戻れなくなったらアラインに怒られるわよね)
 こんな血筋に生まれついたのに、アラインはとても優しくていい子だ。みすみす嫌われたくはない。――それに。
「っく……、はあぁっ!!」
 へろへろの風魔法でイヴォンヌがまた崖からひとり墜落させる。魔力切れはこちらの方が深刻そうだ。元々の素養がない割に頑張っている方だとは思うが。
「何かおかしいわよこの連中。あなたさっきから懐ばかり狙われてない?」
「……そんな気が、はあ……、いたします……っ」
「嫌な感じね。まるで魔道具に反応してるみたい」
 古い装飾品は魔力を帯びやすい。あの馬鹿賢者の首飾りのよう最初から魔道具として作られたなら尚更だ。欲しがるのはわかるけれど、物によっては持ち主以外が所有していても無意味な物だってある。ゲシュタルトのリボンがその一例だ。
「奪うというより……壊そうとしているような……っ」
 今度は火属性の気功師がイヴォンヌに炎を向けてきた。結界でやり過ごすけれど、いつまで凌げるか正直不安だ。せめてムスケルやヒルンヒルトと合流しなければ。
(アンザーツは何をしてるの?)
 恋人はあのレギとかいう若い皇帝と話し込んでいるようだ。信じてはいるけれど、余力があるなら早く助けにきてほしい。
「……もう!」
 正面に目を戻せば気功師はまた増えていた。海に落とした者もどうやら這い上がって来たらしい。
 ぜえぜえと息切れしているイヴォンヌにムスケルのところまで走れるかなど聞いても無駄なのは目に見えていた。ここの始末は己が全部つけてやらねばならないだろう。契約を交わした以上はどんな相手にも責任を持つべきだ。
「あの……、魔道具なら、リボンじゃなくても欺けると思いますか?」
「え? 何か持ってるの? そりゃ海にでも投げ捨てれば喜んで全員ダイブすると思うけど」
 そうですか、と返答するとイヴォンヌはきっと気功師を睨みつけた。そうしてゲシュタルトが止める間もなく左手の指輪を抜き取る。――目が点になった。
「ご覧なさい! お前たちの欲しいものはこれでしょう!」
 イヴォンヌは一瞬迷いを見せたが思いきり振りかぶって指輪を海面に叩きつけた。瞬間、気功師たちはまるで光に集まる羽虫のようにドボンドボンと波の間に飛び込んで行った。
「な、何してるのあなた!? 今の結婚指輪でしょ!?」
「もしものときのために呪文を刻んであると夫が話していたので……」
「そういうことじゃないわよ!! 馬鹿じゃないの!?」
 綺麗に敵のいなくなった崖をイヴォンヌは駆け足で引き返す。だがその足取りはフラフラで、ヒルンヒルトたちの元へ行くよりどこかに隠れた方が賢明と思えた。敵はまだそこかしこに溢れているのだ。
「……も、元は私の我侭でお付き合いいただいているんです。あなたには無事に天界へ戻っていただかないと、夫に会わせる顔がございません。私の持ち物が役に立って良かった……」
 信じられない。だからそれは、そんな身体になってまで助けたいアラインから貰ったものではないのか。確かにリボンを傷つけられればゲシュタルトも無事ではいられないが、だからと言って……。
「っ……さっさと隠れるわよ!」
 それ以上何か言うこともできずゲシュタルトは都の外壁を指差した。この間ヒーナに攻められた際に崩れた部分が補修されきっていないのだ。どこからか街に戻れるはずだった。
 しかしその見通しは甘かったらしい。ヒルンヒルトを襲っていた気功師たちの一部がこちらに集まってきて、たちまち囲まれてしまった。
 どこから沸いてくるのよと悪態をつく暇もない。ビブリオテーク兵はヴォルフや別の気功師の相手に必死で助けに入ってなどくれそうもなかった。
 風の刃がイヴォンヌに放たれる。彼女は苦肉の策として身体を丸め防御した。懐に入れたリボンを傷つけさせまいとしているのだ。
 出現させた結界が音もなく掻き消える。こんなときに魔力が底を尽くなんて世の中どうかしている。
「イヴォンヌ!!」
 叫んでもどうにもならないことはわかっていた。アンザーツの姿は遠く、影を見ることもできなかった。






 役立たずなんて自分を責めたところで状況は変わらない。
 何か力になりたいと、自分でこの地にやって来たのにまだ何もできていない。
 オリハルコンを取り返すどころか、力を貸してくれている人を守ることも。
 ずたずたに刻まれた背中はもう痛みを感じなくなっていた。冷たいものが流れているのはわかるけれど、感覚が麻痺している。
 気功師の腕がイヴォンヌの肩を掴み、強引に起き上がらせた。懐から紺地のリボンが抜かれるのを見てハッと覚醒する。体当たりでなんとか奪い返したそれに何本もの手が群がった。
 知らない間に夢を見てしまっていたのかもしれない。アラインの冒険譚と同じことを自分ができるわけもないのに。
 勇者の妻だからと気負いすぎていたのかも。心のどこかで同じように戦えたらと願っていたのかも。
 全部自分の我侭と思い上がりだ。王族なんて言ったって普通の人間と変わらない。特別な強さなんてない。
 でもこのリボンだけは、ゲシュタルトだけは守りきらなければ。
「イヴォンヌ、回復なさい!」
 ぶるぶるとイヴォンヌは首を振った。胸と腕でリボンを必死に隠しながら。
 嫌だ。自分の魔力が切れたらゲシュタルトが霊体すら維持できなくなるかもしれない。怒鳴られても嫌われても言うことは聞けない。それにもし自分が死んでも、リボンを引き裂かれたのがその後なら彼女に迷惑はかからないはずだ。契約が無効になってからなら。
「イヴォンヌ! この馬鹿姫!!」
 ゲシュタルトは少し涙声になっていた。アラインの言っていた通り、口は良くないが優しい女性だ。
(アライン……もう会えないのかしら……)
 けれど彼は死者の国をも訪れたことがあるという。ならばきっと一度くらいは顔を見に来てくれるだろう。あの人も、とても優しい人だから。

「――姫!!!!」

 声がして、最初は幻聴だと思った。
 白いマントが風になびく。同じ風に吹き飛ばされて気功師たちが動かなくなる。失神させても立ち向かってきた彼らなのに、どんな魔法を使ったのだろう。
 癒しの術がすぐにイヴォンヌの全身を包んだ。ゆっくり半身を起こしてみるがどこにも痛む箇所はない。リボンにも皺がついただけだった。
 背中を向け、横顔すら見せないでいる剣士の名前を震える声で呟いた。

「アライン……?」

 剣士はオリハルコンのレイピアを鞘にしまってイヴォンヌを振り返った。黒髪に青い瞳、それは間違いなく夫の顔だった。
 どうしてと尋ねれば困りきったよう目を伏せ笑う。
「ごめん。ここで会ったこと、他の誰にも言わないで」
「待っ……!!」
 引き留めようとした手は空を切った。ゲシュタルトも理解できないという顔をしている。破滅の封印の中にいるはずの彼が何故こんなところに現れたのか。
 誰かがオリハルコンを戻してくれたのだろうか。でもそんな話は聞いていない。
「今の、本当にアライン……?」
 ぼそりとゲシュタルトが言った。風はついさっきまで彼のいた場所――転移し消えた勇者のいた場所で、緩くとぐろを巻いている。






 どうにかグリュプスは仕留めたものの、気功師たちの勢いは衰えることを知らなかった。動きも前回のような揃いに揃った動きではない。多分あのレギという皇帝が様子を見ながら適宜命令を変えているのだ。ビブリオテークはビブリオテークで平気でこちらに大砲を向けてくるし、俺ごと殺す気かと思う。同胞でなければ死んでもいいなど人間同士で正気の沙汰じゃない。
「おい、砲撃が来るぞ」
「っまたかよクソ!!」
 文句を垂れつつマハトは斧を振り回して退避する。火薬の詰まった爆弾でないのがまだ救いだった。
 何度か倒れている気功師がいないか見てみるのだが、回復役を務めている者がいるようで皆ピンピンしている。こちらも魔法はヒルンヒルトが跳ね返すのでダメージらしいダメージは負っていないが、これではキリがない。アンザーツがあの皇帝を止めてくれれば万事解決しそうなのに、どういうわけか彼はレギを攻撃することができないようだった。
「しかし、まずいな」
「ああ!? 何がだ!?」
「彼らが執拗に我々を狙う原因に気づいてしまったんだが……」
「おお!? なんだなんだ!?」
 それがわかればいくらでもやりようがあるではないか。襲い来る気功師たちを振り払い薙ぎ倒しつつマハトは尋ねた。
「どうも私の魔法石を破壊しようとしているようだよ。何か彼らを怒らせるような真似をしたかな?」
「はあ!? なんで!?」
「それはわからない。ただほら、全員君の逞しい胸筋ばかり狙って魔法を撃ってきているだろう?」
 言われてみれば確かにそうだった。炎も氷柱もかまいたちも粘土弾も雷玉も全部胸元めがけて放たれていた。一撃必殺で心臓を潰そうとしているのだと思っていたが違ったのか。
「そう考えると姫君と我々だけが標的となっているのも納得だと思ってな」
「……っつーかそれ本気でまずくないか?」
 何故この賢者は余裕気味にそんな話ができるのだ。今現在大砲でも物理攻撃でも魔法跳ね返し攻撃でも動きを止められない敵に囲まれているのだぞ。何か逃げ道でも思いついているのか。
「逃げ場もないし、本当にまずい」
「やっぱまずいのかよ!」
 表情に出せよと思うがヒルンヒルトの鉄面皮は今も昔も変化なかった。
 これはせめてビブリオテーク軍と一緒になるべきかと思うが、ヴォルフの群れを駆逐するのにてんやわんやしている彼らを見るに合流したところで無意味だと悟る。相手側に回復手段があるなら即死以外は効果がない。
「もうひとつまずいことを言ってもいいか?」
「まだあんのか!?」
「ああ、ある程度カモフラージュはしていたつもりだが、私が鏡の術を用いているとそろそろ勘付かれてもおかしく……と言うか今勘付かれたな」
「お、おお……!?」
 勘付かれるとどうなるのだ。そう尋ねようとしたら気功師たちから答えを見せつけられた。
 レギの杖の振りが変わる。気功師たちは光属性を持つ術者から肉体強化の魔法を受けると急に蹴りやパンチを繰り出してくるようになった。
「すまんが霊体では対応不可能だ。頑張って避けてくれ」
「そういうことかよ!!」
 腕に数人ぶら下げたままマハトは拳を振り回し暴れる。魔法で集中攻撃されるより一気にきつくなってしまった。子供たちに愛される保父さん状態だ。マントを後ろから引っ張って首を絞める者もいれば、膝に飛び蹴りしてくる危険な奴もいる。子供と呼ぶには全員大きすぎるけれど。
「うおおおおおおおおおおおッ!!!!!!」
 両腕をクロスさせ、腕を引っ張っていた気功師同士の頭をぶつけさせる。間を置かず今度は足に纏わりついていた気功師たちを踏みつけ引き剥がした。そんなしょうもない攻撃に紛れて魔法を唱える小賢しい者もいた。そちらはヒルンヒルトが対応してくれた。
 だが如何せんこの数の暴力だ。今までは攻撃されてもほぼ無意味だったから良かったが、これは効く。かなり効く。
 疲弊による一瞬の隙を突き、またマントに飛びつかれた。コノヤロウと勢いをつけ前屈みになり背中から地面に叩きつけてやる。
「っはぁ……、はぁ……、今のは疲れたぞ……っ」
「逃げに転じた方が良かろうな。走れるか?」
「ん? あ、ああ」
 貴重な魔力を使って賢者は体力を回復させてくれたらしい。レギから距離を取れと言ってヒルンヒルトはマハトの背中にぴったりくっついた。
「お前魔法使って大丈夫なのか?」
「そうでもしないと大丈夫じゃなくなるから使ったんだ。早く行け」
 こくりと頷き走り出したコンマ二秒後、マハトは胸の違和感に気づいて立ち止まった。カランコロンと鎧の中で音がしている。これは本当にまずい展開になってきたのではなかろうか。
「さっきのあいつ、首飾りの紐切りやがった!!」
「なんだと……!?」
 胸当ての中に手を突っ込んでいる暇はない。かといって走って逃げてどこに落としたかわからなくなるのはもっと良くない。結局マハトはその場に留まることになった。できるだけ小さな動きで気功師たちを投げ飛ばすが、魔法石を奪われるのは時間の問題だった。
「おい、あの石壊されたらどうなるんだ!?」
「良くて冥界行き、悪くて永久消滅だ」
「え、えいきゅ……!?」
 なんだってこの男は重い話題をさらりと告げるのだ。今のトーンだと今夜のおかずはシチューだぞと言うのと変わらない。
 気功師たちは体術と魔術を更に巧みに組み合わせてマハトを狙ってきた。ヒルンヒルトも右とか左とか右右上とか言ってくれるがじわじわ追い詰められていく。
「霊体を保つ魔力さえあれば石が壊れても無事でいられるが……、あの少年、これだけの人数を同時に操る力量の持ち主だ。それも強い闇属性――その気になれば肉体にも魔法にも守られていない無防備な魂ぐらい粉砕できるかもしれん」
 おいおいと突っ込む余力すらもう残っていない。ヒルンヒルトは相変わらず無表情のまま「別れの言葉を伝えておくべきかもしれないな」などと言い出した。縁起でもない、やめてくれ。
「アンザーツは何やってんだよ!!」
 肩で気功師を跳ね飛ばし、落としていた斧を拾う。賢者と懇意であるはずの先代勇者にまだ目立った動きは見られなかった。








 やめてくれと何度口にしただろう。同じ数だけ無視されて、攻撃は未だ止まない。
 レギは本気でゲシュタルトやヒルンヒルトを消し去ろうとしていた。ふたりが魂を定着させている魔道具に傷でも入ったらと思うと今すぐ飛び出したくて堪らない。
 でもできなかった。ここでレギを置き去りにしたら、彼にはもう誰の言葉も届かなくなってしまう。
 どうすればいいかわからずに気ばかり焦った。
 どんな言葉なら伝えられるのだろう。心の中を見せても信じてもらえなかったならどうすれば。
「本当にこんな方法しかないの? 試すなんてしなくたってぼくの気持ちは変わらないよ!」
「それでもひとの心は変わる。あなたが敵にならない保証はない」
 レギは頑なだった。ひとりぼっちの時間が長すぎて、その呪縛はあまりに強固なものとなっていた。
 ぼくはどうだったっけ。ぼくはどうやって今の自分に辿り着いたんだった?
 自分のことが信じられなくて、自分にちゃんとした心があるのか信じられなくて揺れていたとき、どんな言葉をかけてもらった? どんな風に側にいてもらった?
(ヒルト……)
 半身のごとき友人はマハトと背中合わせになって気功師の攻撃を凌いでいる。雀の涙ほどの魔力しかないくせに、置いて行ってくれるなと留守番を嫌がった。いつからお互い淋しいなんて思えるようになったのか。
 つらいときも、苦しいときも、己がそれを自覚すらしていなかったときも、彼は黙って助けてくれた。いつも味方をしてくれた。ゲシュタルトやムスケルが敵になっても、死んで肉体が滅びても。
 レギが必要としているものも同じだろう。わかるのにままならない。レギさえ信じてくれるならきっと全部上手く行くのに。
 嘆きは全部裏返しだ。信じられないとレギは言うけれど本当はそうじゃない。信じたいのだ、たったひとりでも心から誰かを。
(行けないよ……)
 細い細い蜘蛛の糸はこの手に握られている。自ら断ち切るわけにいかない。だって彼はまだやり直せるはずだ。
「そろそろ王手かな」
 束になりマハトに圧し掛かる気功師たちを冷淡な目でレギは見つめる。隙だらけの所作はまるでアンザーツを挑発するようだった。やってみろ、その瞬間わたしたちは友達でもなんでもなくなるのだと言うように。






 思えばムスケルの時代から、自分は何の役に立ってきたのだろうか。
 魔法の才能があればなと考えたのは一度や二度ではない。腕力と体力しか取り得がないのに敵には操られるし、ゲシュタルトには泣き落とされるし、強敵と対峙したときだって勝敗を決めるのはいつもヒルンヒルトが扱うような大魔法だった。今も自分に風属性さえあればこの窮地を切り抜けられたのに。
(肝心なときに駄目だな俺は……!)
 気功師の細腕を叩き折りながら内心毒を吐く。肩で息をするマハトに彼らは容赦などしてくれない。簡単には剥ぎ取れない頑丈な鎧でなければ既に魔法石は奪われていただろう。
 引き倒されて乗っかられたら終わりなのはわかっていた。向かってくる者は腰を落として投げ飛ばす。それでもすぐに新手に囲まれを繰り返し、酸欠状態になっていた。握力もなくなってきているし、いつ膝をついてもおかしくない。
「……もう下がっていろ」
 ぜえぜえとみっともなく息切れするマハトを庇うようヒルンヒルトが前に立った。群がる気功師たちを突風で吹き飛ばし、僅かな突破口を開く。だが今ので彼も残量切れのようだった。
「死人のために生きている君が犠牲になる道理はない。今のうちに石を捨てるんだ」
 賢者はやはり淡々と告げた。じっと前方のアンザーツとレギを見据え、視線を逸らさないまま。
「んなことできるかよ!!」
 ふらふらになりながら斧を杖代わりに後退する。
 砲撃と足跡でぐちゃぐちゃになった草原。ヒルンヒルトは真っ直ぐそこに立ち、微動だにしなかった。
「魔法石を放れば奴らはそっちに引きつけられる。その間にゲシュタルトたちと合流して立て直せ」
 だから、そんなことしたらお前消えちまうんじゃないのかよ。無理言って付いてきたなら最後まで責任持てよ。なんでもかんでも大事なことは勝手に決めちまいやがって。少しは他人を頼ることを覚えたかと思ったのに。
「死んでようが生きてようが関係ねえだろ!? 俺が見捨てると思うのか!? 見くびるんじゃねえッ!!!!」
「待っ……!」
 制止しようとした腕は霊体であるがゆえにすり抜けた。再び起き上がり挑んできた気功師たちに目一杯斬りつける。光魔法の効果のせいで致命傷には至らないが。
 ああそうだ、こいつらも操られてるんだよな。できれば絶命させたくはない。だけど自分の仲間と秤にかけたとき、俺はこっちを選んでしまうんだ。もう二度とばらばらになるのは嫌だから。
「……ッ」
 倒れた気功師のひとりがマハトの足首にしがみついた。駆け出しかけた勢いが余って思い切り地面に叩きつけられる。
「マハト!!」
 何もできずに見ているだけのヒルンヒルトなど初めて目にしたかもしれない。表情の崩れぬ男は僅かだけ目元に焦りの色を浮かべた。
 このぐらいでくたばるかよ。足元の気功師の頭を掴まれていない方の足で蹴り飛ばす。横にぐるんとひと回りして他の連中の攻撃を避ける。なんとか立ち上がると無我夢中で拳を振るった。手近な場所にいた気功師のひとりを抱え上げ、放り投げ――拍子にポロリと何かが転げた。
 直後、丘に乗り上げた船の上から弾丸のごとく光が飛んでくる。すぐ横で何かが弾けた。弾けたのは魔力を帯びた紅い石だった。ぱりんと乾いた音が鳴る。

「――……」

 思わず賢者の姿を探した。気功師たちは糸の切れた人形のようぴたりと動きを止めていた。さっきまでの押し合いへしあいが嘘のようだ。
 元々半分透けていたヒルンヒルトの身体は更に薄くなっていた。苦笑いで「君は見逃してもらえそうだな」などと言うので殴りそうになってしまう。
 だから天界に残っていろと言われたんだろう。仲間の助言には耳を貸せよ。
 なじる言葉は到底声にならない。良くて冥界行き、悪くて――こいつなんて言ってたんだっけ。
(冗談だろ……)
 消えゆく賢者を前になす術もない。気に病むななんて言われても頭が受け付けない。
 どうやって助けたらいいんだ。俺には魔法も何も使えないのに。
「ヒル……」
 あっとそのときマハトの脳裏にゲシュタルトの言葉が閃いた。思い出せたのは奇跡に近い。彼女がイヴォンヌと契約を結んだ際に述べた講釈、それが甦った。
 契約は大きく分けて三種類。ひとつは言語による制約を設けて結ぶもの、他には肉体の一部と引き替えに力を得るものと、生き血を魔力に変えるものがあると。
 霊体を維持する魔力さえあればとヒルンヒルトは話していた。魔法なんてものとは無縁の自分でも、もし少しでも足しになるのなら。
「血の契約ってやつ結べないのか?」
 腰のナイフで自らの頬を切り裂きマハトは賢者に問う。ヒルンヒルトはもうそよ風にさえ掻き消されてしまいそうなほど頼りない存在になっていた。
「……本気で言っているのか? あれは生半可な覚悟で結ぶものじゃないぞ?」
 半ば叱りつけるような言い草にカチンときて怒鳴り返す。
「消えかけてるくせに気にしてる場合か!! 助かるんならさっさとしろ!!!!」
 本当にやきもきさせてくれる男だ。この期に及んでためらう素振りを見せるので、ずいと血の流れる顔面を近づけた。
「後悔するぞ」
 だが感謝すると付け加え、ヒルンヒルトが朱に触れた。
 生ぬるい風がつうと傷口を撫でた後、辺りは眩い光に包まれた。






「……百年ぶりだな、ここまで魔力が満ちるのは……」

 指の先まで浸透する己の力を確かめてヒルンヒルトは口角を上げた。
 風景と同化しかかっていた霊体はくっきりと濃い輪郭を持ち、普通の人間と然程変わらぬ密度になっている。流石に精神体と同じレベルとまではいかないが、力を振るうだけならなんら問題なかった。
 よくぞこれほど追いつめてくれたよと拳を鳴らすヒルンヒルトに傍らの戦士が「悪霊モードだ……」と呟く。仕方あるまい。生前ですら善良とは言えぬ人間だったのだ。仇なす敵に情けをかけられようはずもない。
 結論から言えば、少ない魔力しか持ち合わせないで地上に降りたのは失敗だった。アペティートがどんな近代武器を持ち出してこようと霊体を攻撃するなど不可能だ。そう高を括っていた面があるのは否めない。何か不測の事態が起きても自分のことならどうとでもできると楽観視していた。こんな風に狙われる羽目になるとは露ほども考えなかった己のミスである。
 胸には静かな怒りがあった。自分と、そしてレギに対して。
 この私に血の契約まで結ばせたこと、たっぷり後悔させてやろう。






 賢者の唇が「死ね」と呪詛を刻むのを見てレギはハッと杖を掲げた。
 先刻まで微々たる魔力しか纏っていなかった霊体は今やレギと同等の力を備えてこちらと相見えている。否、レギの方が気功師たちを酷使していた分消耗は大きかった。まともにやり合えば重傷では済まされない。
 すぐさま操り人形たちにヒルンヒルトを攻撃させたが賢者は一笑に付しただけだった。轟々と大気を揺るがす大竜巻にレギの配下はすべて飲み込まれ空高く巻き上げられる。あそこから脱出できる者はまずいないだろうと思われた。
(契約を切ってその分を回せばまだ……)
 五百人分の言語制約はレギの魔力の半分を食っている。それさえあればまだこの悪霊に太刀打ちできるかもしれない。――だけど。
(切ってまた結び直すのか? 容易じゃないぞ? 彼らの大半はわたしに騙されたようなものなのに……)
 手駒がなくなれば国内での安全も脅かされる。気功師たちはレギの生命線なのだ。どうあっても契約を打ち切るわけにはいかない。
(だがそれでは勝ち目が)
 迷いは判断を鈍らせた。ヒルンヒルトは竜巻を空に浮かべたまま一瞬で船まで移動してきた。あまりに間合いを詰められるのが早すぎて、時間を止められたのかと錯覚したぐらいだった。
 氷のごとき双眸にははっきり殺意が窺える。白い指先が空中に小さな陣を描き、そこから漆黒の破壊魔法が出現した。
 最早蛇に睨まれた蛙だった。防御もできず、ただ目の前の男を見上げるしかできない。
 死を確信した頭は凄まじい速さで回転した。景色は異様にゆっくり流れた。
「祈りは済んだか?」
 ここで自分は終わるのだろうか。
 誰も信じられないとすべてを踏みにじってきた報いがこれなのか。
 気功だけに頼って、気功の力だけを信じて、他のものから目を逸らし続けてきた自分への。
 ヒルンヒルトの腕がレギに振り下ろされる。結界など張るだけ無意味だった。逃げることさえできなかった。ただ目を瞑り死が通り過ぎるのを待つことしか。
 これでお終い――そのはずだったのに。

「…………」

 爆風と衝撃で甲板は同心円状にめり込んでいた。その中心でレギは尻餅をついていた。真上にはアンザーツが被さっている。
 庇ってくれたのだ。理解できた事実はそれだけだった。彼の胸の内なんてわからなかった。
 いくら気功師様だって賢者の全力の攻撃を受けて無事なはずがない。抉れた脇腹に細かな光が少しずつ集まってきて、深い深い彼の傷の表面を舐める。
 呻き声と脂汗とで思考が飽和した。狼狽したのは賢者も同じらしかった。
「何をしているんだ君は!」
 助け起こそうとした仲間の腕を撥ね退けてアンザーツは頭だけ賢者に振り返る。そうして信じ難い言葉を口にした。
「攻撃しちゃ駄目だ……!」
 ヒルンヒルトは余程腑に落ちなかったらしい。目を吊り上げて「私がこいつに殺されかけたのを見ただろう!?」と訴えた。
「わかってるよ! ぼくだって平気じゃなかった!! でも駄目だ、レギとは友達になったんだから……!!」
 アンザーツは再びレギを守るように覆い被さった。こちらに魔法を向けることができず、賢者は立ち尽くす。
 馬鹿じゃないのか。まだ友達なんて言えるのか。レギがこの手で魔法石を破壊したのは確かなのに。ヒルンヒルトだってほとんど消滅しかかったのに。
「……」
 気がついたら彼に回復の術をかけていた。普通の人間とは異なる彼に普通の気功が通じるのかは知らなかったが、何かせずにはいられなかった。
 術がどこかに染みたのだろうか。ぽろりぽろりとアンザーツは丸い瞳から涙を零す。彼の宿した漆黒は夜空のそれとよく似ていた。喜びも悲しみも分け隔てなく抱きしめる闇のとばり。頬を伝うのは透明な流れ星。
「レギももうやめようよ……」
 落ちてくる滴が綺麗すぎて、またざわりと胸が掻き立てられる。聞いちゃ駄目だと傷だらけの過去が叫ぶ。この人はわたしとは違うんだ。皆から大切にされて、愛されて、本当に裏切られたことなんてないんだと。
 信じない、聞かない、好きになんかならない。最初から諦めていれば、憎まれたって平気な顔ができる。ほらやっぱりと笑うことができるのだから。

「心がないなんて嘘だよ……」

 歪んだ顔のアンザーツ。欠陥品のわたしとは正反対の優しい人。その彼が絞り出すように声を吐き出す。
「そう思ってた方が楽だから、傷つかないでいいから、自分に勘違いさせてるんだ。普通の人のことなんかわからないって自分から拒んで、信じてなんかもらえないって勝手に決めつけて、自分のこと弱くてどうしようもない人間だって思い込んで……、そこから外れたらもっと酷いことになるって自分で呪縛かけてるだけなんだ。自分のこと好きじゃないから」
 闇魔法も介してないのにすらすらとよく言い当ててくれる。まるで自身も同じ経験をしたかのように。
 必死な彼を見ていても冷めた感情しか出てきてくれない。成長しすぎた不信感はレギを捕えて離さない。
 ああでも彼は、アンザーツは、己の所業を怒るどころか泣いてさえくれているのに。
「本当はレギだってわかってるんだろ? レギの欲しい安心はこんなことで手に入るものじゃない。だけど手を伸ばすのも怖いから、他のもので我慢しようとしてるだけだって……!」
 放っておけないんだと抱き締められて、幼い頃に戻った気がした。
 あの頃当たり前に持っていたものはどこへ行ってしまったのかな。大切な人を大切だと素直に思えた自分は。
 もう考えるのも億劫だ。殺してくれないかなと賢者を見やれば興が殺がれたかヒルンヒルトは嘆息しながら腕を組んでいる。アンザーツは飽きもせずレギの服を湿らせていた。
 ――ないよ、心なんか。
 気功師たちの自由を奪ったとき、悪気も罪悪感もなかった。虐げられた分だけ誰かにやり返してもばちなんか当たらないと思った。自分には敵しかいないから、思いやりなんて無駄なものだと捨ててしまった。
 早くすべてを屈服させてしまいたかった。誰にも脅かされたくなかった。誰のことも考えたくなかった。
 何も、何も、何も、何も。

(……これ以上傷つけられたら生きていけないから、自分を守ろうとしたのかなあ)

 裏切られ続けるよりは誰も来ない薄ら寒い場所にいる方がましだから。炎は部屋を暖めてくれるけれど、レギの身を焼く凶器にもなるから。
「いでっ! ちょ、おい、なんだこいつ!」
 ふと見上げると甲板に上ってきた戦士に瓦礫を投げつけ応戦しているクヴ・エレがいた。ただの侍従で戦闘訓練などさせていないのに、一心不乱に板きれや樽を投げつけている。
 やっぱり頭が悪いなと呆れてしまった。背中には生涯消えない傷だってあるのを彼は忘れてしまっているに違いない。

「……もういいよアンザーツ。あなたの言いたいこと、少しわかった気がする……」

 試しても試してもこのやり方では終わらないのだ。
 クヴ・エレにつける傷がどんどん深くなっていったのは自身の恐れが増していたから。
 こんな酷いことをされれば今度こそ逃げるだろうと自分を見限るように仕向けて、己の猜疑心の正しさを証明してみせたかったのだ。アンザーツの言う通り、願いはずっと真逆のところに存在したのに。
 ずるずると這い出すとレギはヒルンヒルトの竜巻を鎮めた。賢者はアンザーツに目配せしただけで特に何もしてこない。
 気功師たちに傷を癒させ、ゲシュタルトたちを襲わせた者も、ビブリオテーク兵と争わせていた者も、すべて引き揚げさせた。
「……明日改めて訪問するとアヒムに伝えてもらえる?」
 こちらの依頼にアンザーツはこくりと頷く。
 土の術と水の術を併合させ船を海に移動させると耳に届くのは波の音だけになった。
 彼の涙が伝染したのだろうか。泣いている理由もわからないのに、嗚咽はいつまでも止まなかった。






 魔法使いを借りられぬ代わりに三日月大陸の獰猛な魔獣を連れて来たものの、ヒーナの気功師どもにはまるで通用しなかった。いよいよ首都を落とされるかと内心かなり焦っていたのに、レギが大して何もしないうちに退いていったのはアヒムにとって意外な展開だった。
 海へ逃げた気功師軍を追うべきか追わざるべきか、決断に迷う。そうこうするうちにモスクから兵が走ってきて「アペティート第三皇子、ヴィーダの襲撃を受けました!」などという報告を聞かされた。
「怪我人などはありません。ただこう言っては何ですが、クライス様が手引きしたのではないのかと……」
 アヒムはじろりと兵を睨む。
 あの娘が敵国の皇子と只ならぬ仲にあるとはまことしやかに囁かれている噂話だ。しかしこんな下級の兵にまで浸透しているとなれば問題だ。
「国を売るような娘なら私が直々に手を下す。だが罪を裁くには確たる証拠が必要だろう。不用意にくだらないことを口にするな」
「も、申し訳ありません」
 引き下がった兵と入れ替わりに前線の半分を任せていた指揮官が戻ってくる。苛立った気分のまま「損害はどうだった?」と尋ねると、指揮官は曖昧な表情で「それが……」と言葉を濁した。
「死者も負傷者もゼロです。その、ヒーナの気功師たちが帰り際に治癒の術をかけていったようで……」
「なんだと?」
 わけがわからずアヒムは眉を顰める。
 それではなんだ。ヒーナは本当にただ戦争に対する警告だけを行いに来たのか?






 ******






 ぶすっといかにも不機嫌そうに賢者は頬を膨らませる。アンザーツが絡んでいるときだけはマハトにも彼の表情が読み取れた。
 ごめんねと先代勇者が頭を下げても今日はなかなか許したと言いそうにない。喧嘩をするのはヒルンヒルトとゲシュタルトだけだと思っていたのだが、彼らでも諍いになることがあるようだ。
「……私が消されかけたのにあんな少年を庇って。そんなに新しい男の方がいいのか?」
 妙に引っ掛かる言い方だがアンザーツもゲシュタルトも突っ込まないのでスルーする。多分深い意味はない。気にしたら負けだ。
「だからごめんってば。……レギって昔のぼくやゲシュタルトと似てるんだもん。なんだか他人事じゃなくて」
 しょげ返った先代勇者と唇を尖らせたままの賢者を順に一瞥すると、ゲシュタルトは呆れたように長い息を吐いた。
「それで消滅しかけたあなたのためにムスケルが契約してくれたの? ……ああ、なんて可哀想なのかしら。よりにもよってあなたと血の契約? 潔く死んであげた方が良かったんじゃない?」
「君も酷いことを言うな。そこは仲間が助かって良かったと涙するところだろう?」
「残念だけど同情の涙しか出てこないわね」
 普段と同じ軽口の応酬なのに、今日だけは「わかったからやめろ」と仲裁できなかった。勢いで成立させてしまったけれど、血の契約の詳細についてはマハトもまったく知らないのだ。
「……なあ、そんな変な契約なのか? 日常生活に支障あるか?」
 恐る恐る尋ねてみるとふたりの魔法使いはくるりとこちらに向き直り、呼吸ぴったりで説明を始めてくれた。
「そうね、まず契約はどちらかが死ぬまで続くわ」
「今回は私が既に霊体だから君が天寿を全うするまでだな」
「……な、長いな。もしかして四六時中俺の周りをウロウロするのか?」
「特別な命令がなければそうなるわねー」
「ああ、それに今後は君から魔力を供給してもらわねばならない」
「ええ!? 俺魔法使えねーぞ!?」
「使えなくてもいいのよ。毎日この馬鹿に輸血してあげればいいだけだし。……あなたこれからは悪霊じゃなく吸血鬼を名乗るべきじゃない?」
「誰が上手いこと言えと頼んだんだ」
「ま、毎日……。貧血になりそうな話だな……」
「いいことだってあるんだぞ。ほら、契約をしたおかげでマハトには触れられるようになった」
「それの何がいいことなの?」
「つまりこれを応用すれば私にも地上の料理が食べられるかもしれない」
「なあ、それってお前にとってのいいことだよな? 俺じゃねえよな?」
「駄目ね、やっぱり悪いことの方が多いわ。第一血の契約は他者の介入を極端に拒むもの。あなたたちふたりとも今後一切誰とも新しく契約できない運命なのよ。ああ、本当にそれが一番可哀想!!」
 くじけずに頑張るのよとゲシュタルトに励まされるがどういう意味なのか皆目見当もつかない。物理的に接触できるのが楽しいらしくペタペタ鎧に触れてくる賢者は無視して「けど俺は魔法使いじゃねえし、これから誰かと契約を結ぶなんてまずないと思うんだが」と聞いてみる。
 気まずそうな表情を見せたのはイヴォンヌだった。ちょんちょんとマハトの肩をつつくと王妃は言いにくそうに声を詰まらせた。
「あの……私とアラインの結婚式を覚えていますか? クラウディア様の前で、結婚証明書にサインをしたでしょう……?」
「ええ、そうでしたね。……えっ?」
 まさかと思ったがそのまさからしい。誰を見ても居た堪れなさそうにマハトから目を逸らすので、さあっと血の気が引いた。後悔するぞとはこういうことだったのか。
「婚姻は最も一般的な契約だよ。魔力を介すわけでなくとも何故かカウントされるのだ」
「なんでカウントされるんだよ!? おかしいだろ!?」
「魔法というのは不思議なんだ」
「賢者がそれ言うんじゃねえよ!!!!」
 涙目のマハトにゲシュタルトが「安心して」と半透明の手を添える。こちらは賢者の手と違いマハトの背中をすり抜けた。
「遡って他の契約が解けてしまうことはないから、アラインとの主従関係はこれからも貫けるわ。良かったわね」
「そうだとも。今現在このような状態で契約しましたということが重要なのだ。……現時点で君が妻帯者なら私の罪の意識ももう少し和らいだのだが、すまないな……」
 ヒルンヒルトはしおらしく頭を下げた。どうやら本気で申し訳ないと思っているようだ。
「私ももう君の側で暮らすしかなくなったし、輿入れしたつもりで尽くさせてもらうよ」
「馬鹿! 三つ指つかれても嬉しくねえ!!」
 草原にマハトの声がこだまする。アンザーツはひとりのほほんと「みんな無事で良かったあ」と涙を拭っていた。全然無事じゃねえ。全然無事じゃねーから。
「まあ考えようによっては悪くないんじゃない? この馬鹿は本来の力で戦えるようになったわけだし、勇者の国にとっては大きな戦力になるでしょ」
「あ、ああ……まあな……」
 ゲシュタルトがそんな風に言うとは意外だった。祖国のことはすっかり嫌いになってしまったと思っていたのに。
「ふふ。こいつあなたが命じればなんでもするわよ。普通は魔術師の方が契約主になるものだけど、あなたが彼を助けた形だものね」
「えっ」
「……まぁそうなるな。契約というのは主従がはっきりしているんだ」
 僅かばかり不安げに賢者は眉根を寄せる。そんな彼を見てゲシュタルトはおかしそうに笑った。それからふと神妙な表情を浮かべ、「魔力が戻ったなら頼みたいことがあるんだけど」と声を潜める。

「海に落ちた指輪って見つけられるかしら? 失せ物探しくらいなんてことないでしょ?」

 問いかけを耳にするや否や、ぱっと顔を上げイヴォンヌは信じられないと瞬きした。聖女はまだぎこちない態度でいたが、天界で見せた頑なな冷たさはどこにも感じられなかった。
「全部許したわけじゃないわよ!」
 凄むように睨みつけ、ゲシュタルトはリボンの中へ戻っていく。わかりやすい照れ隠しにマハトはほっと頬を綻ばせた。アンザーツも、ヒルンヒルトもだ。だが一番嬉しそうに笑ったのは、やはりイヴォンヌだった。







(20121115)