クヴァドラートが破損したらしい気配を感知しイデアールが魔剣士を城へ呼び戻すと、寡黙な騎士は簡潔に謝罪を述べた。任務を遂行できなかったことを恥じているのか、跪いたまま一向に顔を上げようとしない。もっとも頭部にあった漆黒のアーメットは抉られ、大半が消し飛んでいたのだが。
「……魔王の座を狙うだけはある、か。一筋縄ではいかなさそうだな」
「次は必ず」
 律義な性格のクヴァドラートは回復も済んでいないのにもう城を出て行こうとする。「待て待て」と呼び止めるとイデアールは損なわれた頭部に魔力を送った。すると甲冑に開いた穴がみるみる埋まり、新品同様になる。本当に全快するまではまだしばらくかかるだろうが、とりあえず見た目の痛々しさはなくなった。
「そのまま行っても結果は同じだろう。これを使え」
 イデアールは持ち手に菱形の魔法石が嵌め込まれた長槍を投げ渡した。柄の部分は細い血管のような筋が浮かんで波打っており、濁った魔力を帯びている。こちらも彼と同じ古代魔法の産物だ。
「クヴァールの槍、という。人間に持たせれば仲間割れを始めるだろう」
「御意」
 魔剣士はかつかつと踵を鳴らして退出した。
 クヴァドラートのような魔物――いや、魔道具がもっとあれば人間を滅ぼすことなど容易いのに。我々ではどうしても大地に力の大半を持って行かれてしまう。
 辺境の城にはまだああいう類の道具が多数守られているはずだ。早いうちに手筈を整え、もう一度仕掛けに行かねば。



 ******



 鍛冶屋と武器屋の立ち並ぶ、ここ大鉱山の街は二度目である。だがそんな様子はおくびにも出さず、ハルムロースは宿の椅子に腰を下ろした。
 前回ここへ来たときは女神との邂逅があった。ベルクたちはあれからこの近辺で大量に魔物を駆逐したらしく、今でも人々の噂にのぼるようだ。廃坑に棲みついていた魔物たちが一掃され、住人たちは以前よりすこぶる快適に暮らしているらしい。そんな話を小耳に挟むとアラインの顔が青くなるのがまた面白かった。勇者が勇者に劣等意識を持つなんて興味深い。
「……先生、ちょっといいか?」
 大通りに面した宿の二階、窓辺で街の様子を見下ろすハルムロースにマハトがこっそり声をかけてきた。入り口に立ち、誰も廊下を通りはしないかチラチラ気にする素振りを見せる。何か秘密の相談らしい。
「どうぞお掛けください。……おや? あなたもでしたか?」
 戦士がそっと扉を閉めると彼の背後から青銀の鳥が飛び出してくる。神鳥は塔を守る番人だが、特に大きな魔力を持つわけではないようだ。バールにはハルムロースが魔物であることもまだ見破られていなかった。
「これを見てほしいんだ」
 荷袋の底からマハトは何やら古そうな手紙を取り出した。戦士ムスケルの署名があり、百年前に書かれたものだとわかる。肩にとまった神鳥と一緒にひと通り読み終えると、「で、これがどうしました?」とハルムロースは持ち主に尋ねた。
 アライン以上にこの戦士には不安があるようだ。取り乱すほどではないが、ご主人様に勇者らしさが感じられないと言われたことを地味に引き摺っているらしい。
「逆にそれをどう思うか、先生たちに聞きてえんだよ。伝説じゃアンザーツは天界に召されたことになってるが、その手紙を見てるとどうも疑いたくなる」
「ふむ、バール君はどうなんです? あなたはアンザーツと会ったことがあるんでしょう?」
「そう言われてもやなあ……。ワシ百年ずっと寝とったし、アンザーツが天界におるかもって話かてさっき聞いたとこやもん。けどこれから勇者候補がぎょうさん出てくる思うてワシに教えてくれたんは神様やし、そんときアンザーツの話なんか出てこおへんかった。天界に召された云々は人間の後づけくさいなあて思うけど」
「この手紙だけでは何とも言い難いところです。マハトさんには何か仮説がおありなんですかね?」
 正面に座る戦士に問いを投げかけると、彼は苦渋の表情を浮かべた。どうやらマハトの頭にあるのはあまり考えたくない可能性のようだ。
「……俺はもしかすると、勇者の家系はひとつじゃなくなっちまったんじゃないかと疑ってんだ。アンザーツが都に戻らなかった理由があちこちに現地妻を作ってたから、とかだと、アライン様以外に勇者候補がいることも一応は頷けると……」
「成程、一理あります」
 うんうんとわざとらしくハルムロースは頷いた。そういった下世話な推測は己とてしなかったわけではない。というか、一番有り得そうな話だった。魔王を倒した英雄なら隣国の王族に手をつけることも容易かろうし、ベルクがその血を継いでいたとしても何ら不思議はない。勇者向きだと言われたクラウディアにしてもそうだ。出自不明と聞いているが、盾の塔のすぐ側で育てられたことは勇者との因果関係を匂わせる。――だが。
「せやろか? あいつそんなスケコマシ人生歩みそうには見えへんかったけどなあ」
 ぼやく神鳥を同時に見上げ、マハトと目を見合わせた。
 そう、引っ掛かるのはバールの言だ。アンザーツは最後の勇者になりたいと話していたと言う。その意味が明らかにならねば真実は確定しないのだ。
「けどイックスの連れてる鳥がホンマにラウダやったとしたら、イックスがアンザーツの子孫やっちゅう可能性は高いと思うで」
 今更ながらハルムロースはリッペを恨んだ。あの下僕がきちんとアラインを監視してさえいれば、イックスがどんな男か詳しく知ることができたのに。
 死霊の書にかけた術では盗聴くらいが限界だ。ベルクたちもイックスとは接触しているようだが、いかんせん情報が少ない。
 水門の街、か。そこへ向かえばこの目で彼の正体を暴くこともできるだろう。また新しい楽しみが増えた。



 資源豊かな鉱山の麓、熟練の職人も多く、装備を整えるにはうってつけの街なのに、通常の買い出しと武器類の研ぎ直しが終わると一行は早くも大鉱山の街を後にした。焦っている焦っている。早歩きのアラインに、ハルムロースは底意地の悪い笑みを浮かべる。
 塔を降りてからのアラインは目に見えて気落ちしていた。けれど消沈していることに触れられまいと、毎日必死で取り繕っている。
 同情などというお優しい感情は生憎持ち合わせていない。だが懐かせておくなら今のうちかもしれないと、そう打算が働いた。早く勇者としての自信を持ちたい、不安につきまとわれるのはたくさんだというアラインの表情にはありありと隙が窺えた。

「アライン君、クヴァドラートを覚えていますか?」

 その晩パーティは水門の街へと続く森の中を進んでいた。夜はあまり強行軍が敷かれることはないのだが、今日は毒沼が行く手を塞いで仮の寝床にできるような足場が見つからなかった。もう少し先まで行ってみようというアラインの指示に従い、ハルムロースたちは空に月が浮かんでもまだ歩き続けていた。
「クヴァドラートって、あの中身のない鎧の騎士だよな?」
 青い目がハルムロースの隣で瞬く。
 敵が出たときいち早く魔法を放つ自分とリーダーであるアライン、後衛のクラウディアとしんがりを守るマハトがそれぞれ二人組になることは、移動中には珍しくない。休める場所、落ち着ける場所を探しながら、やや後方にいる戦士たちに会話を聞き咎められぬよう、ハルムロースは声を潜めた。
「そうです。今はまだ魔装を直すのに手間取っていると思いますが、ちょうど我々が水門の街に着く頃あちらも傷が癒えるはずです」
「また追い払うよ。少しは僕も強くなったし」
 勇者として、とは彼は言わなかった。言えなくなってしまったのだろう。適性があるかないかも宙ぶらりんな現状では。
 他の勇者候補たちに追い抜かれるかもしれない。そんな恐怖は今まで彼の中になかったはずだ。勇者の血を引く人間が勇者になるのは当たり前。勇者は唯一無二の存在。彼の信じてきた理はもはや当てにならなくなってしまった。
 こんなときだから特別な秘密を打ち明けることが彼を喜ばせるのだ。
「あの騎士は魔王ファルシュの息子、イデアールの右腕です」
 呟くとアラインの表情が固まった。思わぬところで飛び出した大物の名に驚愕しているようだ。
「本当か? あれが魔王の一味?」
「ええ。黙っていて申し訳ありません。むやみに驚かせたくなかったもので」
「でもどうしてハルムロースがそんな奴に狙われて……」
 疑念の浮かんだアラインを安心させるようハルムロースはにこりと笑った。前に命を狙われている理由を尋ねられたときは、色々あってとしか答えなかったのだが。
「魔王城に入ったことがあるからです」
「え……えええ!?」
「しー、静かに。アライン君にだけ教えるんですからね」
 ハルムロースは人差し指を立てて騒ぐなとジェスチャーした。
 魔王城に入ったというのは別に嘘ではない。入ったどころか地下に関しては我が聖域だ。確かに敢えてアラインが誤解するよう話しているのだが、詐欺行為に関してはすべて騙される方が馬鹿なのである。
 愚かな彼は案の定、事と次第に尋常ならざる興味を示した。ハルムロースはまず魔王城へ潜入した証拠として簡単な間取りから説明する。
「あの城の最上階には玉座があります。そこがいわゆる魔王の間ですね。それからすぐ下にイデアールの部屋があり、あとはガラ空きです。勇者が襲ってきたとかでなければ出入りは少ないみたいでした。別棟にも強力な魔族が住んでいましたね。そっちはあまりよく見ませんでしたけど。……私は空間転移魔法を研究中だったんです。術の力を試すつもりで辺境から魔界へ飛んでみたんですよ。実験は成功でしたが、ある意味失敗でした。私はイデアールに侵入者とみなされ、今も追われる身です。……まあ返す物を返せば許してくれるのかもしれませんが」
 言いながらハルムロースは懐から死霊の書をちらつかせた。アラインに「それは?」と尋ねられるのを待って、「魔王城で盗んでしまった禁書です」と返答する。
「凄まじい力を持った魔道書ですよ。あそこにはこんな本が五万とありました。うっかり読み込んでしまわなければ見つかる前に帰ってこれたんですけどねえ」
 あははと笑うがアラインは笑ってくれない。ハルムロースは「というわけで」とまとめに入る。
「アライン君。あなたがどう思っているかわかりませんが、私のような人間でも魔王城に辿り着くことができたんです。あなたが勇者向きかそうでないかなんてこの際関係ありません。魔王を倒した人間が勇者と呼ばれる、ただそれだけのことじゃないですか? だったらあなたが世界中の誰よりも強くなればいい話。一緒にクヴァドラートと戦ったとき、私は確かにあなたはまだまだ強くなると感じましたよ。……いつか私と肩を並べるくらいにね」
「……ハルムロース……」
 うん、と小さな呟きが漏れる。まだ少し頼りなげな肩を叩いてやれば、アラインは「平気だよ」と頬を緩めて答えた。
「私はあなたに期待しているんです。勇者にではなくアライン君に」
 甘い言葉を囁きながらハルムロースはほくそ笑む。
 人間を弱らせる一番の方法は裏切りだ。たっぷりと甘やかし、ぐずぐずに蕩かせてから手を離してやればいい。それだけでいざというとき勇者の力を半減させられる。
「アライン様?」
 と、親密そうに話しているのが引っ掛かったのか、後方にいたマハトが小走りに寄ってきた。そのままアラインは従者の方と話し始める。
 わかっていないなとハルムロースはひとりごちた。今のアラインにとってあの戦士と向き合うことは苦痛でしかない。彼を勇者にするべく剣を教えた男。アラインを焦らせるものは、そういう祖国の民からの期待なのに。
(しかし一体どういうことなのでしょうねえ……)
 分家の出である自分はともかくアラインは勇者の直系。何故彼が勇者の気配をまとわないのかわからない。ヒルンヒルトやゲシュタルトの血が色濃く出ているということなのだろうか?それとも本当にアンザーツが血にまじないをかけたのか。
 アンザーツの娘を産んだゲシュタルト。その娘を娶ったヒルンヒルト。――禁じられた魔法について多くの書物を残したのは、勇者より寧ろ大賢者だ。もしかすると血筋への仕掛けは、ヒルンヒルトの手で施されたのかもしれない。



 数日が過ぎ、水門の街まではもう一日二日という距離になった。その間も魔物は容赦なく襲いかかってきたが、迎え撃つアラインの戦いぶりはこれまでで最も頼もしいものとなっていた。皮肉なことに、勇者に向かないと評された危機感が彼を必死にさせているのだ。
 元々アラインは剣の才能にも魔法の才能にも恵まれている。ハルムロースが覚醒を手伝ってやったこともあり、彼はめきめき腕を上げていった。その目覚ましいレベルアップぶりは本人も自覚しているようだ。
 いよいよ街が近づいてくると、クヴァドラートが来るかもしれないという緊張がパーティ内に漂い始めた。家ひとつ軽く吹き飛ばす魔剣士の力は全員が目の当たりにしている。姿を見かけた時点でクラウディアが防御強化の魔法を、ハルムロースが物質破壊の呪文を唱える手筈になっていた。
 不意に生き物のざわめく気配がしてハルムロースたちは足を止めた。クヴァドラートかどうかの判断は一瞬で済む。彼なら出現時に物音などさせない。
 複数の足音に紛れて話し声がした。ずるずる何かを引き摺る音も。更に獣の死肉が放つ悪臭まで漂ってくる。
「討伐隊でしょうか?これほど徒党を組んでいるのは珍しいですね」
 クラウディアはそう言い背後を見回した。
 雑多な音はどんどん大きくなり、やがて二十人から三十人近くの人間が魔物の骸を担いで現れる。アラインたちは警戒を強めたが、ハルムロースはすぐにピンと来て死霊の書に手を触れた。
 間違いない。ベルクたちだ。
 討伐隊の先導がこちらに気づくのにそう時間はかからなかった。それもそのはず、一番前を歩いていたのがベルクとノーティッツのふたりだったのだ。彼らがハルムロースの顔を忘れるはずがない。
「っあああああ!?」
 素っ頓狂な大声が森中にこだました。ベルクはハルムロースを指差すと「てめえ!! こんなところにいやがったのかハムヤロー!!!」と掴みかからん勢いで駆けてくる。
「やあやあ、お二方ともお久しぶりです。ご健在で何よりですねえ。見たところ五体満足、健康そのもの! やはり私の目に狂いはなかったようです」
「やあやあじゃねえ! よくも俺らに呪いの本なんざ押しつけてトンズラこいてくれたな!? 今すぐ返してやっからもう絶対に何があっても二度と手放すんじゃねえぞ!?」
「あれー、どこかで見た顔だと思ったら騙し上手のハルムロースさんじゃないですかー。平然と笑っていられるなんて見上げた神経ですねー」
「はっはっは。嫌ですよ騙すだなんて人聞きの悪い。あなた方にあの本を預ける理由は明確にお伝えしたはずなんですがねえ?」
「ふっざけんなよ!? 断る隙も与えず姿くらましたのはてめえだろうが!!」
「そうですか? でもウェヌスさんは人が困っていたら助けてあげるのが勇者の務めだと仰られていましたよ?」
「そうですねー、ぼくたち親切ですからねー、呪いなら解いて差し上げたんですよ? でも新たに別の呪いを呼び込む可能性もあるそうですねー。そうなったらぼくたちもう知りませんからねー」
「人に厄介事押しつける輩なんざ永遠に呪われてろ!!!」
「あっはっはっはっは」
 唐突に始まった笑顔と暴言の応酬に周囲の人間はぽかんと口を開いた。ハルムロースはいきり立つベルクを無視してアラインたちにふたりの紹介を始める。
「こちらは勇者ベルク殿、そしてこちらがご友人のノーティッツ殿です」
「なに穏やかに説明してんだゴルァ!!!」
「ぼくたちまだ怒ってるんですよー? 謝罪が先なんじゃないですかー?」
「いや、これはどうも申し訳なかった。おまけに呪いも解除していただいたそうで。いやーやっぱりおふたりは頼りになります!」
「心がこもってねええええーーーー!!!!」
 ハルムロースはベルクの腕に揺さぶられるに任せた。がっくんがっくん頭が揺れたが表情は一ミリも崩さない。前後運動を続けたまま「で、こちらが勇者アライン殿、お供のマハト殿、クラウディア殿です」ともう一方のパーティを紹介する。
「ん? 勇者? ……アライン?」
 ぴくりと耳を反応させてベルクがハルムロースを解放する。
「もしかして、伝説の勇者の子孫ってやつ?」
 そのときその場には壮絶に微妙な空気が流れた。勇者と名乗る自信を喪失しかけているアライン。アラインをちらちら見ながら黙っているマハト。マハトに倣い物言わぬクラウディア。対して討伐隊の面々は全員が兵士の国の男、つまり勇者とその出身国に対抗意識を燃やす連中ばかりである。敵視とまではいかないが、値踏みする視線に囲まれたのは言うまでもない。
「俺はベルク。こっちはノーティッツ。街に帰ったらあとふたり仲間がいるんだが、もし良けりゃ後であんたに会わせていいか? いやーしかし助かったぜ! 実は人手不足で困ってたんだ。詳しいことは歩きながら話すがよ、そっちも辺境目指してんだろ? しばらく協力し合うことになるだろうからよろしくな!!」
 先程までの剣幕はどこへ行ったのか、一転してベルクの態度は好意的なものに変わった。
 人手不足というのはこの大集団と何か関係があるのだろう。だがまあそんなことはどうでもいい。
「あ……、僕はアライン・フィンスター。辺境というか、魔王城を目指してる途中だ。えーと、とりあえず、よろしく」
「ん! よろしく!」
 ふたりの勇者が友好の握手をかわす。
 ベルクは討伐隊の中心人物になっているらしく、その握手以後は張り詰めた空気も緩和された。
「実は水門の鍵を閉めてもらわねえと向こう岸に渡れねえんだけどよ、町長のオッサンが魔物五千匹の死体が交換条件だって言っててな……」
「ご、五千!?」
 アラインとマハトが同時に叫ぶ。成程そんな数の死体を積もうと思ったら人手は幾らあっても足りるまい。疲労の色濃い顔を俯かせ、隊列を成す男たちは次々肩を落とした。
「今やっと四千五百まで漕ぎつけたんだが、怪我人続出リタイア続出、勇者免許捨てて実家に帰るヘタレ続出でな。助っ人が増えてくれて、本当にありがてえよ」
 ベルクによれば討伐隊は東西に向かうふたつのグループに分けられているらしい。その一方の頭をベルクがやっているとのことだった。
「おいハムヤロー! てめえも迷惑料として魔物退治に参加してもらうからな?」
 ぎろりと睨みつけてくる少年にくすくすと笑みが零れる。アラインになくてベルクにあるものの筆頭はこの我の強さだろう。勇者として申し分ない心根の強さを彼は有している。
「もちろんですとも」
 ハルムロースは快く承諾した。
 このときはまだ、これ以上の出会いが訪れるとは予感もしていなかった。



 神鳥の剣を手に入れたのは兵士の国の王子ベルクだと聞いていたので、その本人に握手を求められたとき、アラインは頭が真っ白になってしまった。
 快活そうな、湿っぽい悩みとは無縁そうな、からりとした人物だった。水門の街へと進む道すがら、自分と彼のあまりの違いに愕然とさせられた。
 ベルクは当たり前のように己の剣ひとつで戦う。勇者は魔法も使えなければいけないと一生懸命勉強していた自分はなんだったのだろう。苦手なことはほぼ全部ノーティッツに「任せた」と預けてしまうし、平気で周囲の人間を巻き込んでこき使う。それなのに誰もベルクに文句を言わなかった。どころか「ああいう奴がいてくれて助かる」と本気で口にするのだ。
 何でもできる品行方正な優等生。それが勇者の国でアラインが求められてきたことだった。価値観が違うと言い聞かせても腑には落ちない。
 けれど結局は認めざるを得なかった。道の途上、人食い蜂の大群に出くわしたとき、真っ先に切り込んだのはベルクだった。息の合った幼馴染がすぐさま補助の体勢を取り、ふたりが的確な指示を飛ばす様を目の当たりにして、アラインは少なからず落ち込んだ。
 こんな大人数の仲間たちと、なんとぴったり呼吸を揃えて戦うのか。彼らの言う通り動いていれば敵を仕留められるという絶対の信頼が討伐隊の男たちから感じ取れた。積み上げてきたものあってこその信頼だろうが、ほんの四人の連携に四苦八苦していた自分とは違いすぎる。そもそも祖国にとって勇者とは単純に民の守護者だった。民を率いて戦う勇者が、トルム神の求めている新しい勇者なんだろうか。
 魔法などなくともベルクは強かった。剣のみに打ち込んできただけあって、腕力もタフさもアラインよりずっと上に見えた。細かな技術面だけはこちらが少し上手に思えたけれど、多少の粗さなどベルクは気にも留めていなかった。
 適材適所に他人を放り込む才能に長けているのだろう。ベルクの元では誰もが実力以上の力を発揮できるようだ。
 ――衝撃だった。これが兵士の国の勇者。
 何匹かの巨大蜂を斬り倒した後、アラインは少し離れて戦うベルクたちを振り返った。
 戦士や武道家が魔虫を引きつける間に、ノーティッツたち魔法使いが罠を張る。けれど誰も自分の作業に没頭しておらず、仲間が危なくなったと思えばすぐ応援に駆けつけて、言葉などなくとも彼らは通じ合っていた。その中心にいるのは間違いなくベルクだった。
「同じである必要はありませんが、随分参考になるのではないですか? 彼は自然体なんですよ。勇者という概念に縛られていないんです」
 いつの間にか隣にきていたハルムロースに囁かれ、そういうことかと納得する。
 アラインが自分を中途半端に感じるのは理想が高すぎるからだ。剣も魔法も超一流、勇者というのはそうでなければならないと強く思い込んでいる。アンザーツのように、アンザーツのようにと。
 だから自分より秀でた人間を見るとたちまち自信を失くしてしまう。今の自分が不安で仕方なくなってしまう。それはおそらく魔王を倒して本物の勇者になる日まで続くのだろう。諦めるしかない。そういうプレッシャーが当たり前の血筋に生まれてしまったのだと。
 自由なベルクが少しだけ羨ましく、妬ましかった。
 あの粗野な強さを多分アラインは手に入れられない。
「顔はぶっさいくやけど、まぁワシを倒しただけはあるな。顔はぶっさいくやけど」
 ぼそりと周りに聞こえない声でバールが茶化した。彼なりに励ましてくれているらしい。
「アライン様、俺たちも加勢に」
「……ああ」
 アラインはマハトと共に駆け出した。下手に入って戦列を乱したくはなかったが、ベルクなら上手く使ってくれるだろう。
 マハトやクラウディアは彼をどう思ったのだろうか。アラインより勇者らしいと感じただろうか。――聞くのが怖い。



 水門の街に辿り着くと、夜だというのに大勢の人たちが窓や玄関から顔を覗かせ、討伐隊の帰還を祝福してくれた。初めてこの国の都を訪れたときも驚いたものだが、国民の気質としてお祭りムードが好きらしい。
「おい大将! 今度は何匹やってきたんだ!?」
「ゴールが見えてきたね!! ほら、うちのパテあげるからもうひと踏ん張り頼んだよ!!」
 わあわあと通りは騒がしく沸き立つ。まるで英雄の凱旋だ。
 多少気圧されながらもアラインはベルクの隣を歩いた。こんなセレモニーは祖国でも何度か経験済みのはずなのに、どんな顔をして歩いていたかまるで思い出せない。
「西の部隊は帰ってるか?」
「ああ、日暮れ頃に帰還してきたぜ。今頃酒場でできあがってんだろ!」
 ベルクの問いに町民らしき青年が答える。知り合いかなと思ったが、別にそうではないらしい。細かいことを気にしない大雑把さは逞しくも感じられた。
 街の人々からこんな風に受け入れられているベルクをすごいとは思う。だがこれは彼のスタイルであって、自分の目指すところは違うはずだ。アラインがなりたいのはやはり、すべてを超越する強さを持った勇者だった。子供の頃、何度も繰り返し読んだアンザーツの伝説。憧れてやまなかった勇者に並びたい。
 思った瞬間、イックスの顔が浮かんで振り払った。
 彼でさえ神鳥の盾を濁らせてしまったのに、どうすれば不適合の自分が勇者に近づけるのだろう。本当に、あんな診断は何かの間違いであってほしい。
「それじゃ俺らと同じ宿に荷物置きに行くか。あっちの部隊の頭にも会わせてえけど、酒盛りの真っ最中じゃなんだしな。今日のところはゆっくり休んでくれ。痛い亭主のやってる店だが、まあ居心地は悪かないぜ」
 ベルクに連れられアラインたちは元盗賊ヴルムが経営する「一輪の白薔薇亭」に宿泊することとなった。そのネーミングセンスにはマハトもずっこける。ちなみに改名を要求するまでは「小鳥たちの囀りのための美しき白薔薇の園」だったらしい。どんな建物なのだろうと少々身構えたが、外観は真っ当な宿屋だった。
 ベルクの仲間たちはこの時間帯だともう眠っているらしく、こちらも会うのは明日ということになった。引き合わせてどうするつもりなのか意図ははかりかねたけれど、どうも床に伏せっている僧侶が理由であるらしい。
「じゃあ明日の朝また起こしに来るわ」
 ぱたんと扉が閉められた後、ゴテゴテの装飾品が散りばめられた室内を見渡し思わず皆で嘆息した。淡いピンク色の壁紙も花柄の絨毯も、流石に似合うのはクラウディアしかいない。
「……ひとまずお言葉通り、今日はもう休みましょうか」
 可憐な花のごとき僧侶がそう言って、続き部屋の個室に下がった。次いでマハトもやれやれとベッドに腰を下ろす。
「なんかあのベルクって、想像してた男とちょっと違いましたね。王子様だってんで、もっと線が細いのかと思ってましたけど」
「兵士の国の王族だし、心身ともに鍛えられてるんだろうな。リーダーシップもあるし、ちょっとのことでへこたれなさそうだし、バールが認めたのもわかるよ」
「……アライン様」
 咎めるようなマハトの視線に知らず自嘲の笑みを刻む。少し卑屈になっているのかもしれない。
「勇者っちゅーてもピンキリやで。ジブンはジブンでがんばったらええんとちゃうん?」
 神鳥の言葉には「わかってるつもりだよ」と返す。寝そべった寝台の羽根布団は抜群の肌ざわりだった。こんな精神状態では眠れないかもと心配だったのに、ゆるゆる眠気が襲ってくる。
 なんだか疲れた。
 今日のことだけじゃない。剣の塔へ行ってからずっと。
 強くなれたと思うたび、また別の何かに打ちのめされる。他人を思う余裕すらない。勇者ってこんなんじゃなかったはずなのに。
「寝るんすか? アライン様?」
「……うん、そうする……」
「ジブン服くらい着替えなアカンで! シーツ汚れてまうで!」
「……うん……」
 眠くてバールが何を言っているかわからなかった。
 明日はベルクのパーティと顔合わせをして、それから討伐隊を仕切っているもうひとりの男に会う。
 ――男はイックスと言うそうだ。アラインと同じよう、青銀の鳥を連れていると聞いた。
(全部明日だ……。考えるのは明日……)
 無理矢理自分に言い聞かせ、アラインは固く瞼を閉じた。
 まだすることがあるというハルムロースは寝床に入ったアラインを気遣い一階のロビーへ降りていった。マハトとバールは横になる準備を始めたようだ。もうアラインに声をかけてくる者はない。
 ベルクのことで一番羨ましいのはノーティッツとの信頼関係かもしれない。
 あんな風に気軽に人を頼れたら、もっとお互いの距離が近ければ、そうすればこの鬱々とした思いを誰かに打ち明けることができるのだろうか。これ以上失望されたくないなんて怯えずに。






 さて、とハルムロースは息を吐いた。無事に街までついたはいいが、長期滞在となるのならクヴァドラートの襲撃に備え、できるだけの準備をしておく必要がある。彼のような魔道具は壊すのに手間がかかる。追い払うだけなら重傷を負わせればいいが、完全に機能を停止させようと思うと正しい手順を踏まなければあっさり復活されてしまうのだ。
 ハルムロースは魔法陣を作るのに手頃な場所がないものかと夜の街をうろついた。商店街を通り抜け、緩やかな坂を下り、河に向かって歩を進める。
 戦地となるのは明白なので、人家に近すぎるところはよろしくない。一応今は人間のふりをしているし、アラインの仲間という肩書になっている。かといって街を離れすぎると今度はそこまで誘導するのが面倒だった。
 水害対策として土嚢の積まれた街外れまでやってくると、ハルムロースは立ち止まり、いくつか候補にピックアップした広場や畑を思い浮かべる。順当に考えて、先程通過した、長いこと使われていなさそうな訓練場が適切だろう。弓の的が並べられたそこには十分なスペースと目隠しになる建物があった。他に新しい訓練場でもできたのか、取り壊すのが面倒で放置されているのかは知らないが、誰も来そうになかったし、罠を敷くには最適の場所だ。
 ハルムロースは星空の下を引き返した。
 こうして人間の街にいると昔のことを思い出す。科学少年だった自分はしょっちゅう屋敷を抜け出して、昼は動物解剖に、夜は天体観測に、目付役を困らせるほど熱中していた。あれはもう何十年前になるのか。
 アラインたちについて行くことでどれほどの情報を得られるかはわからない。亡霊となった魔王のことも、複数の勇者たちのことも、知りたいことは腐るほどある。正体を明かすのは魔王城についてからになるかもしれない。
(……それにしても妙な土地だ)
 対クヴァドラート用の魔法陣を銀の杖で拵えながら、ハルムロースは夜空を見上げた。
 この街はまるで磁石だ。誰かがここに魔物を呼び込んでいるとしか考えられない。五千匹もの魔物が大陸のこちら側に、それもひとつの街の近辺に、普通固まっているはずがない。イデアールが命じたにせよ数が膨大すぎる。他に元凶があると考えた方が自然だ。
 町長はいち早く危険を感じて水門を開いたという話だが、川の流れに押し流されなければもっとたくさんの魔物たちがここいらを練り歩いていただろう。ハルムロース自身、何か引きつけられるものを感じて仕方ない。
「岸辺の方……?」
 呟きと共に暗闇に沈んだ水面を見やる。木々の向こうではごうごうと濁流の音が響いていた。
 他人の気配に気がついたのはそのときだ。いつからそこでそうしていたのかわからないが、ひとりの青年がハルムロースの魔法陣を覗き込んでいた。
 反射的に身構え後ずさる。紅いマントの青年は腰の剣をどうこうしようとはしていなかったが、ひと目見た瞬間、彼に得体の知れぬ脅威を感じた。

「これ――……」

 青年は酷く驚いて丸い目を震わせている。バールとよく似た青銀羽の鳥のおかげで剣士が例のイックスであるのが知れた。
 黒い髪、黒い瞳、青い鎧。アラインも似たような格好をしているけれど、放つ雰囲気は露ほども似ていなかった。こちらの方が遥かに人間らしくない。
「どうしてそこに結界を?」
 発されたのは奇妙に上擦った声。微かな期待の入り混じる、何かを確かめようとするような。
「何故って……ここは視界が開けていますし、戦いやすそうです。それに魔物を呼び込んでいる力の源がすぐ側にある気がしたので……」
「わかるの?」
 イックスはハルムロースの目の前までやって来て、無遠慮に上から下までじっくり観察した。杖を持つ左手を握られ、あまりに容易く触れられたことにぞっとする。
「半分しか人間じゃない」
 言い当てられた瞬間ハルムロースは飛び退った。即座に人化の術を解き、黒い翼を闇に広げる。
 なんなんだこの男は。危険すぎる。すぐに排除しなければならない。
「ラオトロース・ラヴィー……!」
「待った。戦う気はないんだ」
 最上級の水魔法をイックスに向けようとしたときには、彼はもうこちらの懐まで飛び込んでいた。物理法則を疑うスピードだ。少なくとも肉体に囚われる者は、こんな風には動けない。まさかとハルムロースは唾を呑んだ。
「貴様も精神体か!?」
 返答はなかった。だが彼の沈黙と穏やかな微笑みが代わりに問いの答えをくれる。
「……さっき君のことを思い出してた。そうしたら本当に君が現れて、とても驚いたよ」
 この男は何を言っているのだろう。誰が何を思い出していたと?
 生憎こちらに彼と出会った記憶などない。こんな男、一度会ったら忘れるはずもなかった。

「いつまでも友達でいてくれてありがとう、ヒルト」

 パキンとどこかで音が鳴った。
 崩壊音だ。ひびが入って砕け散るガラス細工と同じ音。
 否、溶け出した氷の音だったかもしれない。
「……ああ、まだうまく話せないんだね? それならまた会おう。できれば近いうちに」
 イックスの指がそっと手から離れていく。
 微動だにできないままハルムロースは彼の行為を見つめていた。
 ヒルト――ヒルンヒルト。知らぬ者などいない、かつての大賢者の名前。先代勇者と共に旅した。
(何がどうなっている……?)
 亡霊は、精神体となったのは魔王だけではなかったのか。
 何故、どうして、彼の魂まで未だ地上に。

「アンザーツ……!」

 衝動的に名を呼ぶと男は懐かしそうに目を細めた。
 見覚えないはずのその顔が、酷く胸を焦げつかせる。



 ******



「昨日までで合計四千七百三十二体!!! あと二百六十八体!!!!」
 よっしゃあああというベルクの叫びでノーティッツは目を覚ました。連日の戦闘で疲れているのだから、たまにはゆっくり寝かせておいてほしい。
 のそのそと起き出し寝巻のまま表へ出ると、報告係の役人がちょうど町長の屋敷へ引き返すところだった。
「あ、お疲れ様ですノーティッツさん! すごいですね! 破竹の勢いってこういうことですね!! このまま行けば一週間後には辺境の村へ船が出せますよ!!!」
 頑張って下さいと握手され、まだ眠い瞼を擦りながら「そっちもご苦労さまです。」と見送る。今やベルクとイックスには街中の期待が寄せられていた。
「っしゃ! 遠征した甲斐があったぜ。残りがこの数なら後は街近辺の狩りだけでいける!!」
「強力そうな助っ人も来てくれたしね。ハルムロースは別として、三人ともいい人そうだったし」
「おう。さっさとウェヌスに他にも勇者がいるってことを認めさせて、討伐に出掛けるぜ!」
 ノーティッツは手早く着替えを済ませるとベルクに続いて部屋を出た。アラインたちの宿泊部屋はひとつ上の階にある。ノックをし、返事を待って扉を開けた。
「うーっす! よく寝られたかー?」
 出会ってまだ三日の相手にこの挨拶、大丈夫かなとノーティッツの方が気を遣う。
 同じ勇者という共感からか、ベルクは早くアラインと打ち解けたいようだった。ばったり出くわした小遠征の帰路でもしょっちゅう話しかけていたし、相手にもその好意は伝わっているだろう。
 だがアラインはお国の違いもあってかベルクに気後れしている節があった。勇者の子孫というので不遜な我侭お坊ちゃんか、オールマイティの超人を想像していたのに、実際の彼は至って普通の少年に見える。剣や魔法の腕前は確かに優れているけれど。
(っていうか、胡散臭さで言えばこの子の方が胡散臭いよな……。いい人そうではあるけど……)
 ノーティッツはチラと部屋の隅を窺った。絶世の美少女と言っていい僧侶が大人しく椅子に座っている。だが男だ。アラインから彼の性別を教えてもらったときは「サラブレッド勇者でもそんな冗談言うんだあ」と本気にしなかったくらいだった。
「宿を教えてくれてありがとう。ご飯おいしかったよ」
「部屋の飾りつけに関しちゃいっそグロテスクだったがな……」
 アラインとマハトの感想に頷きつつ、本日の予定をベルクが告げる。変更はなく、パーティメンバーの紹介後、イックスに会いに行くので決まりだった。アラインたちの朝食はもう済んでいるらしい。ベルクが廊下へ出ると、ウェヌスの部屋まで皆ぞろぞろついて来た。
「ウェヌス、オーバスト、入るぜ」
 ノーティッツはドア係として討伐隊の新人たちを室内へ促す。そのとき不意にハルムロースの顔色が悪いのに気がついた。昨日まではふてぶてしいほどの態度だったのが、今朝はそう言えばひとことも口をきいていない。
「眠れなかったのか?」
「……いえ、別に」
 気遣ったはずの言葉にも素っ気無い返答。今日はへらへら笑ってかわす元気もないようだ。
「朝まで死霊の書を読み返していただけですよ。ただの寝不足です」
 言い訳じみた台詞を残してハルムロースも部屋へ入った。妙だなと違和感を覚えたが、気にしないことにしてノーティッツは扉を閉めた。






 全員部屋に入ったのを確かめると、ベルクは寝台で横になったウェヌスを「うちの僧侶だ」と紹介した。長いこと伏せっているため――否、不貞寝生活を続けているため、生気がなくやつれている。パッと見だけならどんな重病人かと勘違いされそうだ。
 寝込んでいる理由もかなりくだらない。天界人にとって神具は大事な宝物なのかもしれないが、それだけのことでよく一ヶ月近くも落ち込んでいられるなというのがベルクの本音であった。ぐったりしている暇があるなら少しぐらい回復役を担ってほしい。オーバストもウェヌスにつきっきりで、戦力は半減どころではなかった。
 客人たちに会釈はしたものの、ウェヌスはまだきょとんとしている。昨日帰った時点でグースカと寝こけていたので他の勇者を連れてくる旨はまだ話していなかった。事前に伝えたら伝えたで、また大暴れしてあちこち引っ繰り返すのでないかという不安もあった。だがもうそんなことも言っていられない。
「ベルク、この方たちは……? まぁ、ハルムロースさん、お久しぶりでございますわ……」
「おう、聞いて驚けよ。そこのごつい兄ちゃんが戦士マハト、別嬪さんが僧侶クラウディア、そんでこいつが勇者アンザーツの子孫、勇者アラインだ!」
 もうほとんど荒療治のつもりでベルクは言い切った。ウェヌスは一瞬目を丸くして、それから金切り声で「何を慣れ合っているのですうううう!!!!!」と叫び出した。くそ、駄目だったか。やっぱり暴れた。
「だーから前にも言っただろうが! 俺は別に俺以外の勇者がいてくれても全然気にしねえし寧ろ助かるぐらいなんだよ!! いい加減てめーの勇者ごっこに付き合わされんのはごめんだっつってんだ!!!」
「ひどい、ひどい、あんまりですわ! 私がどんな思いであなたの僧侶になったのか、ちっともわかってくださってませんのね!? 私にとって勇者はあなたひとりだと何度も何度も言っておりますのに!!!」
「だからその妄執を捨てろって言ってんだよ!! 神鳥の剣が鞘から抜けねえ理由だって話したろ!? 納得しろよ!! 適任は他にもいるんだっつうの!!」
「いやですうううううう!!!!! 絶対にいやああああああああ!!!!!!!!」
 ああ、この手も駄目だったか。ブチ切れそうになりながらベルクは長い溜め息を吐いた。
 呆気に取られる面々に「悪い」とひとこと詫びを入れるとアラインたちには部屋を出てもらう。後のフォローはノーティッツがやってくれるだろう。
 尖った針のような目で睨んでくるウェヌスにベルクはできるだけ落ち着いた声音で話しかけた。ここまで自分を手こずらせた女はこいつが初めてだ。
「……頑張ってんのは俺らだけじゃねえんだ。なあ、誰が勇者でも構わねえじゃねえか。もし俺が勇者になれなくても俺は戦うし、ノーティッツだってそうだぜ。それでも俺が勇者の剣を持ってねえと、ホントに駄目なのか?」
「…………」
 この件に関してはオーバストも口を挟まないと決めているようで、目線を向けても何の反応も返してこない。ウェヌスは泣きながら「だって……、だって……」と繰り返すだけだ。
「私、信じてるんですもの……ベルクこそ真の勇者だと……!!」
 またこれか、と項垂れたい気持ちを押さえ、理性を手繰り寄せる。
 お前のその態度じゃ信用されてると思えねえよ。
 喉まで出かかった言葉をベルクは飲み込んだ。これ以上泣かれたくはない。






「すみません。ちょっと仲間内で揉めてまして……」
 深々と頭を下げ謝罪するノーティッツにアラインたちは慌てて手を振った。
「い、いや、気にしてないから」
「アラインさんの仰る通りです。それよりベルクさん、大丈夫でしょうか?」
「すっげえ剣幕だったな、あの綺麗な女の子」
 ベルクのパーティが荒れているとはアラインにも意外だった。もっと明け透けで仲の良いイメージをしていたのに。
「ふたりとも譲らないので、ずうっと平行線で……」
「はあ……」
「なんか大変そうだな」
 ノーティッツによれば、事の発端は剣の塔で入手したオリハルコンが輝きを失ったことにあるらしい。ベルクの手にした神鳥の剣が明らかに完全性を欠くのを見て、あのウェヌスという子は卒倒してしまったそうだ。「神具を持つことは勇者の第一条件」と頑なに信じているため、剣が鞘から抜けないことも、ベルクが平然としていることも、どうしても認められないらしい。
「余所の勇者を連れてきて現実を見せつければ何かしら考えも変わるかと思ったんだけど……甘かったみたいだ。気を悪くさせてごめん」
「ううん……」
「いえ……」
 アラインは思わずクラウディアと顔を見合わせた。僧侶も珍しくおかしそうに笑いを堪えている。多分同じことを考えているのだろうなと、ふたり同時にマハトを見上げた。
「誰かと行動がそっくりだよな」
「ええ、同感です」
「……へ? お、俺っすか!?」
 剣の塔で勇者らしさが云々という話を聞いた後、マハトは心底不服そうだった。本人は顔に出ないよう努力しているつもりのようだったが、こっそりバールに苦言を呈していたのは知っているし、ハルムロースにも何か相談していたようだ。マハトもまた「勇者はアライン様だ」という揺らがぬ信念を持ってくれているのだろう。
「俺はあそこまで過激でも露骨でもないっすよ!」
「どうだかなあ」
「言葉にしなくとも伝わってくるんですよ」
 クラウディアにまで苦笑され、マハトはうぐぐと声を詰まらせた。そのやりとりに思うところがあったのか、今度はノーティッツがこちらの事情を尋ねてくる。
「そっちも他の勇者に会ったりしたの?」
「いや、今回が初めてだよ。けど剣の塔には上ったから。そこで聖獣に、他にも向いてる人間が何人かいるって言われてさ」
 話しながらチクリと胸を指す痛みにアラインは気がつかないふりをした。はっきりと勇者の気配を感じないと言われたことは、まだ自分から口には出せなかった。
「ええっ? 驚いたな、あそこの番人って言葉を話せたんだ。そうかあ、本家本元がそんなこと言われたらショックだったろ」
「うん。でもベルクを見てたら落ち込んでられないなって。自分が勇者かどうかなんて気にしてる場合じゃない。街を守ることや魔王を倒すことのほうが大切だ」
 嘘だ、とアラインは心の中で否定する。
 なに綺麗事を言っているんだ。勇者になりたくてなりたくて仕方がないくせに。
(魔王を倒した人間が勇者と呼ばれるだけ……)
 ハルムロースの言葉がぐるぐる頭を回った。
 だとしたら自分もベルクと慣れ合うわけにいかないのではないか?彼を出し抜いて先に魔王にとどめを刺さないと、本当に勇者と呼ばれることを諦めなければならなくなるのでは?
 汚い自分に吐き気がした。こんなことを思う人間だから、トルム神はアラインを認めず、他の勇者候補を用意したのではなかろうか。それが真実に思えて辛い。






 アラインたちのやり取りに加わることもなく部屋へ戻ると、ハルムロースは机に向かい死霊の書を紐解いた。
 ぱらぱらとページを捲る。そして降霊に関する項目について再読した。
 イックスが本当に精神体なら、彼が自分をヒルンヒルトの名で呼んだことには計り知れない意味がある。奇しくもアラインの一件で、かの大賢者が禁呪を使った可能性がないか検討していたところだった。
 亡霊として玉座にしがみつく魔王ファルシュ、神具を扱えぬ勇者候補たち、塔から消えた聖獣、勇者の資質を備えない勇者、そしてアンザーツ――。すべての中心に彼がいる。そう思えて仕方ない。
 ヒルンヒルトを呼び出すことさえできたなら謎は一気に解明できるはずだ。そもそも己があの一万を越える蔵書の中からたった一冊、この死霊の書だけを持ち歩いているというのが宿命的だ。
 降霊術は簡単ではない。成功させるには適した場所と適した器が必要だ。だがその条件も、己の推測が正しければ既にクリアしている。
 放っておいても魔物たちが集まる街。そんな場所にあるものは一体なんなのか。おそらくあの国境の河には――。

「大変だああーーーー!!!! 街の外壁がどんどん崩されてるぞおおおおーーーーーー!!!!!!」

 カンカンカンカンとけたたましく鳴り響く警鐘にハルムロースは強く眉根を寄せた。
 ガラガラ、ドンドンと煉瓦の崩れる音に混じって女子供の悲鳴が届く。騒ぎはたちまち大きくなり、武器を持った男たちが街の南方へ向かっていった。
 窓辺からその光景を見降ろして舌打ちする。
「私は今最高に機嫌が悪いんですよ……。こんなときにのこのこやって来たことを後悔させてあげましょう、クヴァドラート!」
 白薔薇亭からアラインやベルクが飛び出して行くのを見送ると、ハルムロースは黒衣を翻し部屋を後にした。人の思索を邪魔するとは本当に無粋な輩だ。






 悲鳴の先のそのまた先へ駆けつけて、ベルクたちが目にしたのは道端に倒れた男たちと散乱した武器、そして悠然と佇むひとりの甲冑騎士だった。見るからに魔法効果のありそうな黒い長剣を右腕に掲げ、魔剣士は辺りの物を手当たり次第に薙ぎ払っている。
「奴はどこだ」
 おそらく誰か標的がいるのだろう、低い声にそう問われた。最初はアラインのことかと思った。だが本家勇者を目の前にしても魔剣士の態度は変わない。それで今度はイックスのことかと思い直した。
「誰探してんのか知らねえけど、いちいち物壊す必要あんのかよ? 直すの誰だと思ってんだ?」
「存ぜぬ」
 言うが早く、魔剣士はぐっと間合いを詰めてくる。振りかぶる動作は剣のサイズと同じで大きい。叩きつけるかぶった斬るかの二通りなら避けるのは簡単だ。
「気をつけろ! 剣圧だけで岩を砕くぞ!」
「おっ? 助言サンキュー!!」
 どうやらアラインは一度あの黒騎士と戦ったことがあるらしい。忠告通り風の流れに触れないように攻撃をかわすとベルクの代わりに付近の木々が吹き飛んでいった。
「ノーティッツ、援護頼む!」
「あいよ!!」
 敵に向かって駆ける背中に補助魔法がかけられる。あの剣圧に対抗するためひとまず防御力を上げてもらった。薄くて固い透明の殻がベルクを包む。先刻までより頬を撫でる風は優しく感じられた。
「うらっ!!!」
 ベルクは大胆に相手の懐へ飛び込んだ。剣と剣のぶつかり合う音が煉瓦の街に響く。どうせ自分の得意分野は力押ししかないのだから、下手な小細工は必要ない。押し負けた相手の肘が曲がったのを見てベルクはにやりと口の端を上げた。
「もひとつおまけだ!!!」
 間髪入れず胴に打ち込む。だが鎧の凹んだ感触はあったものの、生身の肉体に衝撃を与えた感じはなかった。本能的におかしいと察して後ろへ跳ぶ。
「あいつ中身なくねえ!?」
「ああ、空洞だよ。そういう魔物らしい。外側に魔法が効かないから、前のときは兜を飛ばして甲冑の中に直接魔法を注いだと思うんだけど」
「っかー! しち面倒くせえ野郎だな! 他に倒す方法ないのかよ?」
 頭を掻きむしる間にノーティッツが新しく攻撃の威力を上げる魔法をプラスしてくれる。ともかく最初は打ち合いで凌ぐしかないということか。
「わりいけど俺は魔法使えねえぞ。トドメ刺すのに必要なら、そっちで準備してくれねえか? ノーティッツもそこまで大層な魔法使えるわけじゃねえからよ」
「ハルムロースを呼んだ方がいいならぼくが行ってくるけど」
 ノーティッツの申し出にアラインは首を振った。
「いや、僕がなんとかする。兜でも腕でも、甲冑に隙間さえ開けてもらえれば」
 頼もしい台詞にベルクは頷いた。ちょうどそこへ騒ぎを聞きつけたクラウディアとマハトも追いついてくる。
「うっしゃ、戦士の兄ちゃん! 俺らの出番だぜ!!」
 叫びながらベルクは器用に魔剣士の突きを跳びかわした。相手の型、相手の呼吸、読むのは昔から得意である。魔剣士の攻撃は決してかわせぬものではなかった。
 だが受け止めれば剣は重く、上手く逃げねば風圧に姿勢を崩される。隙を見せれば致命傷は免れないと直感した。表面上はベルクが優勢であるものの、それがいつまで続くかも正直微妙なところだった。
(中身がないってのが卑怯だよな……!!)
 甲冑だけで動いているならきっと疲労はしないのだろう。こちらの体力いかんによっては戦況が逆転するおそれがある。さっさと決着をつけなければ。
「はあッ!!」
 掛け声とともにマハトの戦斧が振り降ろされた。上手く相手の首根っこに当たったが、兜を吹き飛ばすまではいかない。逆に黒剣の先から溢れた光に腕を焼かれてしまう。
「ぐあッ!」
「マハトさん!!」
 クラウディアの治癒魔法が眩い光の粒となり宙を舞う。回復役がいてくれるのは素直に有り難かった。ウェヌスが非協力的な今、そこがベルクたちの生命線だ。
 だがホッと安堵したのも束の間、魔剣士の剣がベルクに向けられた。受け流すか弾き返すか、逡巡する間に切っ先が弧を描く。

「!?」

 避けたはずの長剣が唐突に目の前に現れて、ベルクは膝を落とし仰け反った。間一髪で攻撃はかわすが今度は足元がぐにゃりと歪む。
「なん……っ!?」
 遠目からノーティッツに状況を教えてもらおうとして、ベルクは声を失った。
 断絶されている。空間が、あちらとこちらに。黒々とした異空間が自分と幼馴染の間に横たわっていて、何ひとつ聞こえない。
「殺す」
 いや、それは違った。冷たい声なら間近で響いた。ありったけの力を込めて魔剣士の脇腹を砕こうとしたがままならず、どころか腹にきつい一撃をもらってしまう。
 やばいぞと頭は冷静に現在の状況を訴えた。
(これ死ぬかも……)
 左手を腹につけると水っぽいもので服が濡れていた。ついさっきまでそこにいた光属性の持ち主は誰もいない。
 魔剣士は更に剣を躍らせベルクを完全に暗闇の中へ閉じ込めてしまった。
 蹲るわけにはいかなかった。それにそこまで広い空間でもないようだ。
 魔剣士が腕をゆっくり持ち上げる。受け止めきれなかったらマジで死ぬなと思いながら、ベルクは腰に括りつけていたもうひとつの剣を横に向けた。

「――……ッ!!!!」

 オリハルコンはどうやら折れなかったようだ。冗談ではすまないほど重い衝撃が過ぎ去った後、魔剣士はベルクを異空間に残したまま自分だけ消え失せた。完膚なきまでに叩きのめされ息の根を止められなかっただけ幸いか。
 血の臭いが周囲に充満する。痛みに意識が飛びそうになる。
(止まらねえ……)
 闇色の壁を引き裂こうと刃を突きつけたけれど、何の手応えも感じなかった。
 最悪な死に方だな。そう悪態をつきながら、ベルクは両手で傷口を押さえた。






 なんだ今の。ベルクはどうしたんだ。
 どうすることもできないまま、突如空に浮かんだ黒い卵をノーティッツは見上げた。呆然としている自分の横でアラインたちもぽかんと口を開いている。
「まさかあの中にいるのか? 手が出せねえじゃねえか!」
 マハトが叫ぶ横ではクラウディアが必死に真空波を起こす呪文を唱えていた。しかしいくら風が卵の表面を裂いてもすぐに溝が埋まっていき、中の様子を知ることすらできない。
「よくわからないけど固まってた方がいい。各個撃破するつもりかも」
 自分で言っておいて寒気がした。それじゃあ今まさにあの中にいるベルクはどうなっていると言うんだ。
 だが図らずもノーティッツは幼馴染がただならぬ窮地にあることを知ることができた。謎の物体から魔剣士が出てきたとき、夥しい量の返り血が付着していたからだ。
 あれはベルクの血だと自覚したとき、自分の中で何かが切れるのがわかった。
 後先考えず切り込みそうになったのを、冷静になれとなんとか踏み止まらせる。
 ベルクを助ける最良の方法はなんだ?あの意味のわからない卵に対処できそうな人間は?
(……ウェヌスとオーバスト!)
 思いついた瞬間身体は走り出していた。身を翻したノーティッツにアラインが「どこへ!?」と声をかける。
「仲間を連れてくる! ちょっとの間持ち堪えてくれ!!」
 それだけ告げると後はもう迷いなどなかった。己の人生でこんなに急いだことはない。それくらい速く、ノーティッツはヴルムの宿へひた走った。
 あの血の量ではきっと一分一秒を争う。こんな旅に連れ出しておいて自分より先に死ぬなんて、絶対に許さない。

「ウェヌス、来てくれ!! ベルクが死ぬかもしれない!!!」

 開け放った扉の奥でウェヌスは「えっ?」と瞬いた。半ば攫うようにしてノーティッツは彼女の腕を取り寝台から引き摺り降ろす。
「ベ、ベルクが死ぬかもとはどういうことですの? 一体何が……」
「やはり街で何かあったのですか? 先程も鐘の音が……」
「いいから早くしてくれよ!!!」
 自分でも驚くくらいの焦り声だった。できるだけ悪い可能性を考えないようにして、ノーティッツはウェヌスたちと来た道を引き返す。
「あれは亜空間の結界ですね。しかも完全に塞がれています」
「ノーティッツ! ベルクはあの中にいるんですの?」
 ウェヌスの顔があからさまに歪んだ。頼むからどうにもならないなんて言わないでくれよと願いながら、ノーティッツは南の街門へと急いだ。






 クヴァドラートのひと振りで状況は一変した。彼の剣は空間を切り裂く力を持った魔剣であり、魔剣士はその力をフルに活用すると決めたようだった。
「奴を出せ」
 ハルムロースのことを指しているのは知っていたが、はいそうですかと素直に答えるわけにもいかない。アラインたちはひたすら剣をかわし続け、魔法の障壁でジリ貧の戦いを続けていた。
 せめてまともな遠距離攻撃ができればいいのだが、あの甲冑が完全に術を無効化してしまうため、アラインの炎も目眩ませ程度にしか使えないでいる。決定的な一撃など繰り出せそうもなかった。
(穴を空けられればいいだけなのに……!)
 いっそ跳びかかってやろうかと思うが、ベルクの二の舞になっては時間稼ぎにさえならない。ハルムロースが気づいて助太刀に来てくれるのを待つしかなかった。こんなことなら皆が無事でいる間にノーティッツに行ってもらうのだった。
「……奴を出せ!」
 焦れたらしい魔剣士が再度斬りかかってくる。クラウディアの風魔法とアラインの火魔法で炎の壁を築き上げると、目標を見失ったクヴァドラートにマハトが横から斧を食らわせた。
 あちらこちらにどす黒いひずみが生まれている。触れれば異空間に囚われるかもとクラウディアが言うので、足場には細心の注意を払わねばならなかった。
「マハト!!!」
 と、魔剣士に近づきすぎた戦士が跳ね飛ばされるのが見えた。刃ではなく振り払おうとした腕をもろに食らったようである。倒壊しかけた民家にマハトは頭から突っ込んでいく。
 石瓦の崩れる嫌な音がした。間髪入れずクラウディアが駆けつけ、瓦礫の中の従者を探し始める。
「アライン! ベルクはまだ出てこないか!?」
 そのとき仲間を呼びに戻っていたノーティッツが戦場に復帰してきた。だがそこにハルムロースの姿は見られず、アラインは少なからず落胆する。
「まだあの中だ。このままじゃ間合いも詰められないし、何か作戦を立てないと……」
 くそ、と拳を握るアラインの後ろに今朝会ったばかりの僧侶と凛々しい面立ちの青年が並んだ。彼女はベルクとあんなに激しく言い争っていたのに、今は青ざめ心配そうに黒い卵を見上げている。
「あの剣士は次元を断ち切り、また繋ぎ合せる力に長けているのですね? オーバスト、どうですか? あなたに塞げそうですか?」
「……小さな傷口程度のものなら。ですがあの卵はひとつの空間として完結しています。あれは私の力だけでは」
「構いません、とにかくまずできることを。ノーティッツ、ベルクは神鳥の剣を携えていましたか?」
「貴重品だからね。肌身離さず持ってるよ」
「わかりました。では私がそれに呼びかけます。不完全でも神具は神具、きっと勇者に加護を与えてくれるはずです……!」
 直後に見た光景は、アラインたちの今までの旅が霞んで消えてしまいそうなほど衝撃的なものだった。
 跪き、首を垂れ、胸の前で手と手を合わせて祈る聖女から、神々しいまでの白く美しい光が溢れる。
 僧侶として最高クラスの人間でなければ神と通じる本物の祈りはできないと、母から聞かされたことがあった。本当に選ばれた人間でなければそういった術を体得することもできないのだと。
 更に驚かされたのはオーバストという青年だ。「あの、非常事態ですから構いませんよね?」と断ると、彼は背中に半透明の翼を広げ、天を舞った。先程まであちらこちらに出現していた次元の裂け目は彼の剣によりたちまち埋められていく。
「貴様……!」
「うわわ!」
 ガキンと金属音が響いた。クヴァドラートはオーバストを目下の敵と断じたらしい。剣を振り上げ彼だけに的を絞って攻撃を始めた。翼の生えた青年は一見不器用に飛び回りながらそれらを回避する。
 あまりのことにアラインは暫く口がきけなかった。地上では地上で異な光景が繰り広げられている。聖女の祈りは彼女を眩い光の中に包み込んだ。呼応するよう卵がどくどく鼓動を打つ。バールが小さく「女神様や……」と呟いたのが耳に入って、アラインは彼らが本物の天界人なのだと理解した。
 道理で自分が勇者として認めてもらえないわけだ。神様が側についているなんて、ベルクこそが勇者に相応しい一番の証ではないか。それでもまだ他に何人も候補がいる?だったら自分は勝負すらさせてもらえないのか?
「くそ、卵の方はまだ駄目か。ウェヌス、ぼくにも何かできることないか?」
「ありません。私とて神具に呼びかけるだけが精一杯です。せめてもうひとつ、神鳥の首飾りなり、神鳥の盾なりがここにあれば……」
 アラインは目を見開いた。背に負ったまま使っていない黒ずんだ盾に手を伸ばす。
「これがあればいい?」
 僧侶たちに神鳥の盾を差し出すと、ふたりは揃って目を丸くした。まさか都合良く手に入るとは思ってもいなかったのだろう。こちらもこんな状態で盾が必要とされるとは予想外だった。
「お、おお!? アライン!! ありがとう!!!」
「ああ、これさえあれば大丈夫ですわ! ベルクを救い出せます!!」
 ウェヌスとノーティッツはアラインの手から盾をふんだくり、前方にそれを並べてもう一度祈り始めた。
 いつしか清らかな白い光がぽう、ぽう、と浮かび上がって神具を淡く染めてゆく。
 なんて綺麗なんだろう。アラインは戦闘中であるのも忘れて神鳥の盾に見入った。
 オリハルコンは一時輝きを取り戻し、溢れた力を空に浮かんだ卵へ送り始める。幾筋も幾筋も、銀とも金ともつかぬ光を。

「……さて、それではそろそろ我々も反撃開始ですかねえ」

 と、背後から聞き慣れた賢者の声がした。振り返れば銀の杖を手にした男が不敵な笑みを浮かべている。
「ハルムロース!」
「あの魔剣士を永久にガラクタにするために、効果十倍の魔法陣を用意してきましたよ。あとはあなたに追い詰めていただくだけですが、行けますか?」
「……ああ行ける! 任せてくれ!」
 半分以上はベルクのパーティへの対抗意識で、残りも己の意地と矜持だけで頷いた。このまま敵に何の反撃もできなければ、酷い劣等感に苛まれるのは明らかだったから。
 泥まみれの心を隠し、精一杯の虚勢で叫ぶ。
「クヴァドラート!! 次は僕が相手だ!!!」






 ふう、と息を吐きノーティッツは周囲を見渡す。
 瓦礫の中から掘り起こされたマハトはクラウディアと並んでアラインたちを追いかけていった。あちらのパーティとオーバストが魔剣士を引きつけ戦場を移動させてくれた形だ。残されているのは黒い卵とウェヌスと自分、三人だけ。
 清らかな光が降り積もり、内側からも神具の加護に切り裂かれ、やがて卵はぱんと弾けた。ボロボロになったベルクの身体がやっと放り出されてくる。
 まだ生きているらしいとすぐ判別はついた。顔色は悪かったけれど、頬や額に生気が感じられたから。
 血は幼馴染の胴まわりを赤一色に染めていた。涙を浮かべ、「死んでは駄目です」とウェヌスが繰り返す。所詮違う世界の住人なのに、本当に相思相愛なのだから。
 ウェヌスはベルクに癒しの術をかけ続けた。それ以上は効果がないとノーティッツが止めても続けた。薄らと固い瞼が開くまで。
「……泣いてんじゃねえよ阿呆……」
「ベルク!」
 ウェヌスはベルクの肩口に顔を埋めてわんわん泣いた。普段タフな幼馴染がこんな死にそうな大怪我をしたのは初めてだから、気持ちはわからないでもない。ウェヌスがいなければ自分が似たようなことをしただろう。
 だけどベルクの右腕が、優しく彼女の髪に触れたのは。
(あーあ、だから止めたのに)
 ノーティッツは知らず苦笑いを浮かべていた。少年期の終焉を勝手に痛感して。
 いつまでも友達と遊んでる方が楽しいタイプだと思ってたのになあ。ついにこいつも恋に落ちたか。
(相手が相手だけど、祝福はしてや……)

「――おい、いつまでやってんだ? 退け、邪魔だ馬鹿」

 ん?とノーティッツは首を傾げた。およそ愛の言葉とはかけ離れた物言いに。
「あの鎧野郎はどこ行った? クックック……こんな目に遭わせてくれた礼ってもんを、今からたっぷりしてやらなきゃなあ」
 完全に切れたケタケタという悪役全開の笑い声を響かせながら、ゆらりとベルクは立ち上がった。
 まさかまた戦いを挑みに行くつもりなのではなかろうな。どれだけ不屈のファイターなのだ。
「魔剣士でしたらあちらへ移動していきましたわ!」
 そしてウェヌスも何故そんなキラキラした目でベルクを見つめている。今さっき死にかけた男に対して何とも思わないのか。もう少し大人しくしていてほしいとか、今は身体を労わってほしいとか。
「あっちだな? よしわかった。行くぞノーティッツ、あいつの兜は絶対に俺が落とす!!!」
「ああッ! それでこそベルク! たったひとりの私の勇者ですわ……!!」
 ああ、そういうノリ。そういうノリなのね。






 ハルムロースの指示に従い飛び続けるオーバストを追いかけて、クヴァドラートも突き進む。その魔剣士をさらに後方からマハトは全速で追いかけた。
 空に目印があるのは有り難いけれど、一体あれはどういう原理の魔法なのだろう。すぐ横を走るクラウディアに「あっちの兄さんも賢者か何かか? 空飛べるなんてすげえ魔法使いだな」と零すと、僧侶はマハトに「人ではないかもしれませんね」と返してきた。
 人ではない。そう聞いて思い浮かぶのはふたつだけだ。人間に敵対する魔の眷属、或いは人間に加護を与える天の住人。
「少なくとも風をまとって戦うことのできる、類稀な魔法使いだと思います。マハトさんの言うように賢者と呼んで差し支えないかと……」
 ごく、と喉が嫌な音を鳴らした。ベルクたちはあんな男を連れているのか。こちらにもひとり賢者はいるが、彼は一時的な同行者であり得体の知れない部分も多い。はっきり仲間だとは言い難かった。
 アラインはベルクに勝てるのだろうか。不安がマハトの胸に迫る。
 一対一で勝負をしろというのではないが、勇者としての功績を比べられたとき、パーティの総合力を比べられたとき、主人の方が勇者に相応しいと証明できる自信はなかった。マハト自身はどこまでもアラインについて行くつもりだが、自信なさげな彼を見ているのは辛い。この戦いでクヴァドラートを退けて、なんとか元気を出してほしかった。
「止まったようですね。アラインさんの炎が見えます」
 クラウディアの見上げた先には森と古い建物があった。砂利の敷かれた広い庭と的場を見るに、どうやら弓の訓練場のようである。
 空間を切り裂く剣がまたも振りかざされ、天に大きな亀裂が生じた。オーバストがそれを埋めるのに手間取る隙に、魔剣士は地上のアラインに斬りかかる。ハルムロースは魔法陣の中央でぶつぶつ呪文を唱えていた。
 クラウディアはアラインに素早さを上げる光魔法を唱えた。ステップを踏んで主人は長剣の切っ先をかわし、魔剣士の足に斬りつける。ガキンと高い音が響いた。
 やはり直接攻撃は相手が硬すぎあまり効かないようである。マハトの側まで退いてきたアラインが「前より硬くなってる」と吐き捨てた。
 オーバストがいてくれるのでさっきよりは敵の攻撃が怖くない。腕力なら任せてくださいと大見栄を切り、マハトは両手で斧を握った。勢いをつけて走り、正面からクヴァドラートに叩きつける。
 クラウディアによる腕力強化が間に合って、戦斧は甲冑に深々と刺さった。小さいながら胸部の破片が地面に飛び、鎧剣士に穴が開く。
「……どうだ!」
 喜んだのも束の間、胸の穴から凄まじい磁力が発生した。「離れてください!」と上空からオーバストの声が聞こえ、マハトは反射的に飛び退る。
 危機一髪、魔手からは逃れられたようだった。鎧の内側から流れ出た黒い気体がぶわ、とクヴァドラートの周囲に広がり、また収束する。刺さったままだったマハトの斧は霧状の異空間の餌食となり消失した。
「ああ!? あの野郎、ご先祖様の斧を!!」
 吼えるマハトに魔剣士は表情のないアーメットを向ける。更に言えば、あちらは食らったダメージなど気にも留めていないようだった。
「マハト、下がれ! 武器もないのに戦える相手じゃない!」
 そう言ってアラインがマハトの脇を駆け抜ける。ちらりと斜め後ろを見やるがハルムロースの呪文はまだ終わらないようだった。
 主人の言うことはもっともだが、勇者の供として指をくわえて見ているわけにいかない。戦おうとして武器がなくなるのは二度目だな、と胸中で舌打ちした。見習い戦士でもないのに情けなさすぎる。それとも単に運が低いのか。
(くそ、訓練場なら武器のひとつくらい置いてないのかよ!?)
 どたどたと広場に隣接した建物へ走り、かつて弓矢が揃えられていたと思しき籠を覗く。しかし中は空っぽで、使えそうなものは何もなかった。備え付けの棚も全滅だ。早くアラインに加勢したいのに。
 旅に出て彼は強くなった。もはや追い抜かれてしまったかと危ぶむくらい。
 兵士の国に向かう洞窟ではマハトが囚われてもうろたえず戦った。兵士の都でクヴァドラートとまみえてからは、驚くべき剣技と魔法の上達があった。
 本人は自分は弱い、まだまだだと感じている節があるけれど、マハトにしてみればそれは異常な成長だった。十年かけて彼に教えてきたことは、この旅に換算すれば十日分にも満たないのでないかと思う。
 悔しかった。アラインが悩む素振りを見せるたび苦しかった。力不足なのは彼ではない、指導してきた自分の方だ。なのに聖獣さえアラインは勇者に向かないのでないかと言う。
 何とかしてやりたかった。けれどマハトに賢者のような力はない。武でアラインに奉仕できぬならここにいる意味がないのに。
「……ッ、ぐ!!!」
 そのとき突然不穏な呻き声が響いた。嫌な予感がしてマハトは的場へ駆け戻る。
 見れば魔剣士と切り結んでいたはずのアラインが胸を抑えて転がっていた。まさかあの長剣に貫かれたのかと冷や汗をかくが、そうではなく、主人は唐突に力を使い果たしたようだった。
「アライン様!?」
「おや、困りましたね。兵士の都で無茶をしたツケが今頃巡ってきたようです」
 光る魔法陣に杖を走らせながらハルムロースがそうぼやく。何のことだと問い詰めるよう睨みつけると「あれはいけません。クラウディアさんの光魔法が連続しすぎて内部反発を引き起こしています」などとよくわからない分析を始めた。
「どうすりゃいいんだ!?」
「戦線離脱させて休ませるほかありませんね」
「そっちの魔法陣は!?」
「まだ魔力を注ぐ必要があります」
「ッ……!!!」
 マハトはクヴァドラートに体当たりするつもりで身構えた。理屈はわからないが、ともかくアラインをこの場から遠ざけねばならない。
 必死だった。考える余裕なんてなかった。目の前に魔法石の嵌め込まれた槍が転がっているのを見つけたとき、何故弓の訓練場にそんなものがあるのか、どうしてさっきは見つけられなかったのか、疑問に思うことさえしなかった。
 マハトがクヴァールの槍を掴むと、魔石は妖しく煌めいた。






 胸が痛い。息が苦しい。目が霞む。
 白い砂利の上に膝を突くと、アラインは気力だけで魔剣士と睨み合った。
 手は痺れ、剣を持つこともままならない。相手の攻撃もかわせる気がしなかった。
 己の体はどうなったのだ。どうして急にこんな発作が起きたのだ。
 考えてもわからない。癒しの魔法をかけようとしていたクラウディアが魔法を止めてアラインの脇に手を入れる。僧侶はこのまま自分を引き摺り退避しようとしているようだった。そこへクヴァドラートが突っ込んでくる。
「駄目です! あなたはこちらです!!」
 オーバストが雷を放ち魔剣士の気を逸らす。後方の安全を確かめてクラウディアは足を速めた。
「避けてくださいアライン様!!」
 と、今度はそこにマハトの叫び声が響き渡る。動揺の滲む声音に薄らと瞼を開けば戦士の右手に禍々しい槍が取りついていた。柄から伸びた細い触手が肘まで絡んでいる。従者に何か不測の事態が起きたのだ。
 クラウディアは逃げるのをやめ、アラインをその場に横たわらせた。呪われた武器を手にしたマハトをじっと見つめ、ゆっくりと杖を横に向ける。
「クラウディア、アライン様の剣で腕ごと斬り落としてくれ! この槍お前を攻撃するつもりだ!」
「わたしにマハトさんの腕を落とすほどの力はありませんよ。心を強く持ってください。自由を渡してはいけません」
 ふたりが危機的状況だと言うのにアラインは指先ひとつ動かせなかった。
 マハトとクラウディアでは圧倒的にクラウディアが不利だ。普段サポートに徹しているし、体格も何もかも違いすぎる。
 息切れしたままアラインは腰のナイフに手を伸ばした。剣を持って戦うことはできずとも、マハトに隙を作るぐらいと歯を食いしばる。
「アホ、休んどけ。クラウディアにはワシがついてたる!」
 バールの青い翼が羽ばたいた。クラウディアを守護するよう神鳥は彼の肩に舞い降りる。――勇者向きだと絶賛していた彼の肩に。
「くそ!! 遠慮はいらねえぞクラウディア!!!」
 槍に動かされるままマハトはクラウディアに突進した。杖よりはるかにリーチが長く、棒として振り回しても破壊力の高い武器だ。アラインは目を窄めて戦況を見守った。
 クラウディアははじめ真空波で槍を切り裂こうとした。けれど紅い魔法石が反発し、攻撃を撥ね返したため早々に策を変更した。自らに速度強化の魔法を施し、襲いくる魔槍をひたすら避けて、僧侶はマハトから武器を引き剥がすタイミングを狙う。勝負するのなら確かに足で上を行くしかない。だがクラウディアの体力がどこまでもつか疑問だった。風魔法や光魔法を何度も駆使し、魔力とてそれほど多く残っていないはずだ。魔法効果が切れれば一気に分が悪くなる。マハトの視界を遮るようにバールが翼で邪魔してくれているが、神鳥が斬られてしまわないかヒヤヒヤした。
「アライン? 大丈夫か!? あのふたりなんで戦ってるんだ!?」
 遠くから聞こえた声にアラインは眉をしかめた。倦怠感と酷い眩暈でまだ顔も上げられない。だと言うのにもうノーティッツたちが合流してきたらしい。
 無理矢理起き上がろうとしてアラインは肘を折った。途端ぐにゃりと視界が歪む。身体が言うことを聞いてくれない。
「マハトが変な槍に……」
「槍? あのいかにも呪われてそうな感じのか? よし、ぼくも応援に行くよ!」
 アラインの傍らに膝をついたノーティッツは、それだけ言うと剣を抜き走り出した。
「待って……、ベルクは……」
 無事かどうか聞こうとしただけなのに、耳に届いた彼の声はどこまでもアラインを打ちのめす。
「おう、後は任せとけ」



 死闘の決着はごくあっさりしていた。
 樹木の枝を踏み台にして空中に舞ったベルクは最後にオーバストを踏みつけると、大きく振りかぶってクヴァドラートの頭部に剣をめり込ませた。
 なみなみ魔力を注がれた魔法陣の一角に魔剣士は墜落し、ハルムロースが物質消滅の呪文を唱え終わる。
 自ら生み出した異空間に逃れようとクヴァドラートは足掻いたが、「俺の怒りがたった一撃で収まるか!!!」というベルクの叫びとともに再び魔法陣の中央へ吹き飛ばされた。
 まさか神具をバットのように振り回す人間がいるなんて――。隣国の勇者は型に嵌まるということを知らないらしい。
 直後、垂直に噴き上がった真っ黒な魔力は魔剣士を跡形もなくこの世から消し去った。
 槍の方はと言うと、ノーティッツとクラウディアの挟み撃ちによりなんとか取り押さえられたらしい。ノーティッツがマハトに足払いをかけた隙を突き、クラウディアが呪いの槍の柄を持つと、槍は今度は彼に取りつこうとしたそうだ。だが付け入る隙がなかったのか、逆に呪いの源である魔法石が浄化され壊れてしまったとのことだった。

(……いいとこなしだったな、僕)

 自嘲の笑みを口元に刻み、マハトの肩に身体を預ける。
 戦士は戦士で操られたのがショックだったのか、ばつの悪そうな声で「すんません」と謝罪してきた。



 ******



 一難去ったその翌日、早くも付近の魔物討伐を再開しようとするベルクたちを引き留めたのは町長一行だった。白髪の小男が両手を揉みつつ擦り寄ってきて、あんなに強い魔物まで撃退してもらい非常に感謝しているなどとのたまう。
「我々もね、目が覚めたんですよ。いくら危険を避けようとしても、襲われるときは襲われるんだって……。なので覚悟を決めて水門を閉じてみようかな、と」
 ある程度街に戦力となる人間を残してくれるなら今すぐ水門の鍵を渡してもいい。そう町長は営業スマイルを浮かべた。
 おそらく体のいい厄介払いだろう。あの魔剣士が誰かを探していたのは明らかだった。これは自分たちがそういうものを呼び込んだと思われたに違いない。
「まあいいや。だったらアラインたちも誘って舟を出しちまうか」
 ほとぼりの冷めた頃再び水門を開く気満々の町長に形ばかりの礼を述べると、ベルクはノーティッツと宿に戻った。
 この街の自衛策は正直どうかと思う。だがそれを非難したところで意味などない。正常な河川管理を望むなら、自分たちがさっさと魔王を倒して世の中を平和にすればいい話なのだ。

「辺境の国へ渡れるぞ〜!」

 そう持ちかけるとアラインたちは二つ返事で「それじゃ一緒に」と頷いた。ただひとり、ハルムロースを除いては。

「……残って少しやりたいことがあります。短い間でしたがお世話になりました。またどこかでお会いしましょう」

 引き留めようとしたアラインたちを振り切って、ハルムロースは前と同じに手前勝手に去っていく。イックスも知らぬ間にどこかへ消えてしまったようだし、まったくふざけた男ばかりだ。結局舟に同乗したのは十数名だった。



 ******



 水量が減り、水位が下がると、思った通りそこには洞窟の入口が現れていた。おそらく町長はこの遺跡を隠していたのだろう。魔物はここに安置された彼の肉体に引かれてくるから。
 賢明な判断だ、とハルムロースはひとりごちる。
 普通の魔物は生まれ落ちた瞬間から人間を憎み始める。それは魔物の本能だ。そして当然、憎悪の向かう相手の最たるは勇者だった。
 勇者もまた魔物を屠る使命を持って生まれてくる。殺し合うため両者は近づき合うけれど、確かにこれでは魔物の溜まり場になる一方だったわけだ。

(ああ……、私はここを知っている……)

 初めて訪れる洞窟で、ハルムロースは奇妙な幻視に囚われていた。
 男が見える。
 ひとりは勇者で、ひとりは賢者だ。



 ――さあヒルト。ここにぼくを眠らせてくれ。



 腕を広げてアンザーツが笑う。少しだけ申し訳なさそうに。
 それを見つめる賢者の顔は自分には見えない。強張った背中しか。



 ――やっぱり駄目かな。躊躇うようなら君にも悪いし……。



 ――違う。そんなことじゃない。君のためなら何でもすると言ったろう。



 ――それじゃあどうしてそんな顔を?会えなくなるのを惜しんでくれるの?



 沈黙。静寂。
 いや違う。
 耳鳴りがする。すぐ側で誰かが呼んでいる。
 瞳を凝らしてハルムロースは前を見た。そこには首を振る賢者の後ろ姿が映っていた。



 ――いいや、私はきっとまた君に出会う。そしてそのときこそ、必ず君を救うと約束する。わかるか、これは約束だ。決して違えることない私と君の契約なんだ。



 わかるよ、と優しい声。
 たくさんのものを諦めて、それでもなお他人の幸せを願う彼の声。
 覚えている。
 私ではなく私に流れる賢者の血が、忘れることを許可していない。



「……待ってたよ」



 急に現実の声が響いてハルムロースは目を開けた。
 振り返る。泣きたくなる。どうしようもない喜びに。



「アンザーツ」



 酷く心が揺さぶられた。友の名を呼ばずにはいられず、左胸を掻きむしる。
 ここにいるだけで意識が浸食されていく。己よりもっと強くてひたむきな意志に飲み込まれる。



「アンザーツ……」



 血が沸いた。
 ヒルンヒルトの霊体は絡みつくようハルムロースの内側へ入り込み、かつて彼が己の子孫に残した、累々と続く禁呪と同化していった。
 即ち憑依による肉体の乗っ取りを。



「会いたかった、君に」



 ハルムロースは――否、ヒルンヒルトは腕を伸ばした。
 そうして昔と同じよう、友人が微笑みかけてくれるのを見て、満足したように頷いた。












(20120602)