とてとてと可愛らしい足音がしたかと思うと、「それ」はぴょこんとイデアールの膝に飛びついた。顔を見ずとも誰かはわかる。魔王城を棲み処とする小鬼の娘ユーニだった。
 辺境の国を攻め始めて以来、イデアールは居城を留守にすることが増えた。流石に名のある魔導師たちを数多く揃えているだけあって、まだあの国も都を滅ぼすには至っていない。古代遺跡群のある荒地を手中にした時点で目的の大半は達しているが、さっさと陥落させてしまいたかった。
 魔物たちを軍勢として統率する力があるのは魔王の血を引くイデアールだけだ。人間たちと戦おうと決めたときから覚悟はしていたが、やはり忙しい。実力はあっても監視と指導が必要な幼い集団は珍しくなく、悩みの種は尽きなかった。同じ敵に向かう者同士、手を取り合えば地上から人という種を一掃することも不可能ではないと言うのに。
「イデアールさま、つかれてるの?」
 舌足らずな発音でユーニが問う。玉座を摸した椅子に腰かけたイデアールの足元で少女は心配そうにこちらを見上げた。薄紅色の大きな瞳が揺れている。その震えを和らげるよう、できるだけ優しく彼女の短い髪を撫でた。
「あのね、ボクね、イデアールさまにお話したいことがあったの。でもイデアールさま、つかれてるならやめておこうかなあ」
「話? なんだ?」
 ユーニはふるふる首を振って小さな掌で口を塞いだ。何も話そうとしないので「こら」と声を低くして叱る。魔王城で起きた異変ならどんな些細なことでも知っておきたい。
「ふえーん、おこらないで! あのね、えっとね」
 額の角に手をやりながらうんうん悩んで言葉を選ぶ幼い少女を見ていると、張り詰めた気持ちも自然に緩んでくる。
 ユーニは弱い魔物だ。本来この魔王城に棲みつけるような高位の存在ではないのだが、何故かイデアールが生まれたときからここにいる。おそらく父ファルシュが呼んだか連れてきたかのどちらかなのだが、ユーニはその頃のことをあまり覚えていないらしい。それに、出会った頃の彼女はこうして話すこともままならなかった。
 戯れに口をきくための魔力を与えてやってから、ユーニはイデアールによく懐いている。配下に指示を出すときは流石に姿を隠させるが、それ以外の時間なら膝に乗ろうが足に掴まろうが好きにさせていた。付き合いの長さゆえか、まったく警戒しないでいいのが良かった。この城にはいつ自分の寝首を掻きに来てもおかしくない半人半魔がふたりもいる。
 暇なとき、彼女はいつも城内をウロウロしている。それでイデアールの元へ予期せぬ情報を持ち込んでくることもしばしばだった。平然と魔王の間に居続けることができるのも彼女だけだった。父ファルシュは実の息子である己でさえ攻撃してくることもあるのに。
「あのね、ハルムロースのにおいがしない気がするの」
「ハルムロースの?」
「お城にはいるみたいなんだけど、けむりのでる草をすってたり、カードであそんでたり、ヘンなんだよ」
「……それは確かに妙だな」
 ふむ、とイデアールは思考を巡らす。煙の出る草というのは人間の嗜好品だろう。カード遊びに興じるよりは黴臭い書庫に籠りきりの方がハルムロースらしい気もする。何の実益も伴わない享楽を好むのは、どちらかと言えば彼の連れている小間使いのイメージだ。
「いつからかわかるか?」
「んっと……ちゃんとわかんない。でも、このごろずーっと!」
 表情には出さずに驚く。ごくたまにあの男が人間の街へ買いつけに行っているのは知っていたが、今まではすべて日帰りだったはずだ。
 この城では長いこと三つ巴状態が続いてきた。魔王の亡霊が消えるまでは付け入る隙など見せぬものと思っていたが。
「あ! おつきさまがまんまるい日はいたよ! ……前の前のだけど」
 ユーニの口ぶりから考えるにハルムロースは一ヶ月以上ここへ戻っていないのでなかろうか。それだけの時間魔王城を離れるに値する理由があるなら、それが何であれ知っておきたい。更に言えば、余裕ぶってブラブラしているライバルをひとり消してしまう絶好の機会である。魔王城で一戦交えればそれこそ直後をゲシュタルトに狙われかねないが、遠くに出かけてくれているなら好都合だ。
「クヴァドラート、いるか」
 イデアールは腹心の部下に呼びかけた。何もない暗闇が一瞬鈍く光り、全身を甲冑で固めた魔剣士が姿を見せる。
「ここに」
 恭しく跪く魔剣士を一瞥すると、イデアールは淡々とした口調で「ハルムロースを殺せ」と命じた。
「始末する前に奴が何を狙って動いていたかも探っておくんだ」
「御意」
 数秒後にはクヴァドラートはフロアから姿を消していた。
 特殊な力を持つ男だ。彼ならハルムロースを見つけ出すことも、追い詰め屠ることもできるだろう。
「イデアールさま、ボク役に立った?」
「ああ、いいことを教えてもらった。礼を言う」
「……!!」
 大喜びで部屋を跳ね回るユーニを眺め、イデアールは片眉を下げた。微笑ましいとは多分こういうことを言うのだろう。
「わあい、わあい、またくるね!」
 とてとてと足音が遠ざかって行く。少女が見えなくなる前に、イデアールは護身用の防御魔法を唱えておいた。
(人間は皆滅ぼす。父や同胞のためにも)
 勇者を退け、魔物のための国を作るのだ。
 そうすればいつかユーニもこの城の外へ連れ出してやれるかもしれない。






 ――今誰か出て行った。目を閉じたままゲシュタルトは遠い気配を探り当てる。
 あれは魔剣士クヴァドラートか。であればついにイデアールも動いたということだ。
 薄暗い部屋の奥、毛並みの良い魔獣をソファ代わりにまどろんでいたゲシュタルトは気だるげに身を起こした。
(ハルムロースを殺すつもりなのね)
 あの男が魔王城を留守にしているのは己も気がついていた。イデアールとは大して絡んでいなかったようだが、あれでハルムロースはゲシュタルトにはしょっちゅう顔を見せに来ていたのである。戯れの付き合いでもピタリと音沙汰なくなれば不審にも思おう。ハルムロースは外で何かを見出したのだ。
(……勇者に関わる何かかしら)
 ゲシュタルトは血の色の瞳をきつく吊り上げた。過去を振り返ることは苦痛でしかない。だと言うのに未だ思い出はこの心を捕らえて離さない。
 アンザーツと旅したあの頃と同じような日々を、今は別の誰かが過ごしているのだ。それは無性に腹立たしい、許し難い行為に思えた。己が感じていた幸せを、こんなことになる前に与えられていた幸福を、その誰かに奪われている気さえする。
 愛していた。自分は確かに勇者と呼ばれた男を心から慕っていた。それが今ではどうだ。すべてに裏切られ、憎しみだけを糧に魔族として生き長らえている。とんだ笑い話だ。
(いいわ、ハルムロースが何を見つけたか、私も見てやろうじゃない)
 ゲシュタルトはくすりと口角を上げた。かつて極上の美貌と謳われたそのままの顔で。
 幸せに老いて、幸せに死にたかった。だがそれは勇者のためにかなわなかったのだ。ならば己が勇者に復讐したとして、誰が責められるものだろう。
 否、誰にも。たとえここにかつての仲間がいたとしても、責めることなどできはしない。



 ******



 何をどうやっても神鳥の剣は鞘から抜けず、またその尊い光も戻らなかった。輝きはせずとも使えればいいと思っていたベルクは「俺たちの労力はなんだったんだ!! 貴重な青春の時間を返せ!!」と憤ったが、それ以上にウェヌスの落ち込み様が激しく、今ではろくにその話題に触れることさえできなかった。
 意気消沈する女神を引き摺る形で水門の街に到着したのが今日。イックスなら剣の故障について何か知っているのではないかという淡い期待を抱いて、ベルク一行は街門を叩いた。原因の一端でも判明すれば、ウェヌスも少しは元気を取り戻してくれるだろうか。
「はあぁぁー……。はぁぁぁぁぁぁー……」
 このところ女神は口からエクトプラズムを吐き出してばかりいる。いつ見ても燃え尽きた灰のように真っ白で、非常に危なっかしい。だがこれでもかなり落ち着いた方だった。話しかければかろうじて人間の言語を取り戻しているのが確認できる。
 ウェヌスはベルクがオリハルコンを振りかざし「勇者参上!」と雄々しくポーズを決めるのを楽しみにしていたらしかった。そんな恥ずかしい真似はたとえ鞘から剣が抜けてもやらなかったと思うのだが。
 女神の価値観では勇者がすべてとなっているため一体どれほど沈んでいるのか見当もつかない。輝きを失くすどころか神具が武器としても使えないなんて、ベルクは勇者でないのかも――と、もしかするとそんな風に不安になっているのかもしれない。
 ベルク自身は剣が使い物にならないことを気に病んではいなかった。使えないものは使えないのだから仕方がない。すっぱり諦めるしかないだろう。神様の加護がなければ魔界に行けないわけでもなし、よくよく考えれば何も困ることはないのだ。
 しかしこうして目の前でずっと塞ぎ込んでいられるのには腹が立った。女神にとって意味があるのは勇者としてのベルクだけなのだろうが、勇者でなくとも己は己だし、性格や信念が変わるわけでもないのに馬鹿馬鹿しかった。
「とりあえずこの先はちょっと別行動だね。宿と酒場を中心にイックスって男が来てないか聞いて回らないと」
「そうだな。おい、聞いてたか? ウェヌス?」
「はひ……? ふへっ……?」
「駄目だこりゃ……」
「あの、ベルク殿、ノーティッツ殿。ウェヌス様だけでも宿でお待ちいただくのは……」
「まあこんなん状態じゃしゃあねえわな」
「迷子になられても困るしね。うん、そうしましょう」
 そんなわけでベルクたちはさっさと宿にウェヌスを預けてしまうことにした。繁盛していそうなところを適当に見繕い中へ入る。カウンターで受け付けを済ませようとして、ベルクはそのまま回れ右した。否、しようとしてオーバストにぶつかった。
「いらっしゃいませお客様。四名様でしょうかっ!?」
「……いや、無かったことにしてくれ。他を当たることにした」
「えええ!? そんな、酷いじゃないですか!! 泊まってって下さいよベルクさん〜!!!」
 隣の幼馴染を見れば彼もかなり引き攣った笑みを浮かべている。
 どうしてお前がここにいるんだヴルム。そして何故こじゃれた宿など経営しているんだ。
「俺たち心を入れ替えて真っ当な商売を始めたんですって!! この心意気を見てってくださいよ!!!」
「ええい放せ、鬱陶しい!! どうせまた客室を薔薇とかレースとかぬいぐるみとかで飾ってるんだろーが!! そんなところに泊まれるか!!」
「ああ、流石ですベルクの兄貴!! やっぱり兄貴には俺たちのことがすっかりわかってるんですね!!! 兄貴たちには特別デコりにデコった部屋をご用意いたしますんガフッ!!!」
「馬鹿か!!! さぶいぼ出たわ!!! いい加減その乙女趣味から脱却しろ!! そっちから先に足を洗え!!!!」
 元盗賊団頭領ヴルムと攻防を繰り返すベルクの肩をノーティッツがちょんちょんとつつく。目を合わせると幼馴染は無言で首を横に振った。どうやらベルクたちが騒いでいるうちにオーバストが部屋へウェヌスを運んで行ったらしい。女神は人間としての慣れない旅の疲れがどっと出て、今しがた静かに崩れ落ちたそうだ。
「他の宿を探すわけにいかなくなったみたいだぜ。とりあえずウェヌスをゆっくりさせてあげよう」
「チッ……! 宿の亭主がコメツブほども気に入らねえが仕方ねーな」
「おお、お泊まりいただけるんですね!? それでは早速お部屋へピンクローズティーをお持ちしマッ!!!」
「いいか! 一番シンプルな部屋、一番シンプルな料理、一番シンプルな接客!! これ以外俺は一切受け付けねえぞ!!!」
 歯を剥いて怒鳴り飛ばすといつぞやの恐怖が甦ったかヴルムはしゅんとして頷いた。
 案内されたのはツインの角部屋で、ここだけは改装前らしく普通の宿と同じような調度品が置かれている。枕に三重レースが編み込まれているとか、歩く度に「ニャン、ニャン」とふざけた音のする備え付けスリッパがあるとかいうこともなく、一応普通に寛げそうだった。
「さて、そんじゃイックスを探しに行くか」
「すぐ見つかるといいけどねえ」
 ベルクがノーティッツを連れ部屋を出て行こうとした矢先、「イックス?」と怪訝な声が廊下に響いた。
「イックスってあのべらぼうに強い剣士のことですかい?綺麗な青い鳥連れた、黒髪の」
 さっさと仕事に戻ればいいものを、好奇心たっぷりにヴルムが尋ねてくる。あまり会話を盛り上げたい相手ではないのだが、ぐっと堪えてベルクは問い返した。
「知ってんのか?」
「知ってるも何も、ちょいとした時の人ですよ。実はこの街の水門と関係ある話なんですがね……」
 ヴルムによれば「水門の街」とは名ばかりで、今は常時開門したままの状態らしい。隣国の国家機能が麻痺して以来、魔物が岸を越えて大量に渡ってくるようになり、苦肉の策として川を増水させっぱなしにしているそうだ。泳ぎの不得意な魔物はそれで大半諦めてくれるらしい。辺境の村との交流や川で採れる魚に資源、その他諸々諦めなければならないことは多々あったが、町民の命には代えられないという町長判断らしかった。
 おいおいとベルクは脳内で突っ込んだ。対岸の村の暮らしや辺境からの避難者はどうでもいいと言うのか。それに交易で成り立つ町が旅人の足まで封じてどうする。そんなものじわじわ死に絶えていくだけではないか。
「で、そこで剣士イックスですよ。どうしても辺境の国に行きたいから水門を閉じてくれって、奴は町長に掛け合ったんです。ここらには足止めされてる勇者免許保持者が何人もいますが、直談判に行ったのはあいつくらいでさあ。みんな町長の臆病加減にはほとほと困り果ててたんですがね」
「で? 結果はどうなったんだ?」
「いやー、それが見事なもんでした! ベルクの兄貴もお強いが、あの剣士もなかなかどうして! 町長の護衛をしてるゴロツキどもをばったばったと薙ぎ倒し、剣先を突きつけて『魔物が減れば水門を閉じる?』とこうですよ! いやー天晴れでした!! そして町長は魔物の死体五千匹分で手を打つと」
「は、はあ!?」
「ご、五千!!?」
 途方もない数字に一瞬目が眩む。まさかイックスはそんな約束を受け入れたというのだろうか。
「それが一週間前のことでさあ。町の連中、喜々として数えてますけどもう四百匹ぐらいになりそうだって話でしたぜ。他の奴らも手伝ってるらしいですがね、実質はイックスひとりの働きに近いって噂ですよ」
「……!!」
「……!!」
 恐れ入ったと言わざるを得なかった。ベルクたちも小銭稼ぎに毎日三十匹程度の魔物退治を続けたことはあるが、何をどうすればたかが一週間で四百匹もの魔物を討伐できると言うのだろう。更に辺境に接するこの地域でとなれば、魔物のレベルもかなり違う。
「……ん、待てよ。ということはイックスは確実にこの町で宿を取ってるはずだよな? ヴルム、彼が町の拠点にしているところってわかる?」
「いやぁよくぞ聞いて下さいましたノーティッツの兄貴!」
「……まさかこことか言わないよな?」
「惜しいッ!! 非常に惜しいですベルクの兄貴!!!」
 ヴルムはバンバンと己の膝を叩くと窓から見える正面の老舗宿を指差した。
「あれがうちの宿を蹴ったイックスの寝床です!!!」



 老舗宿で待たせてもらうこと数時間、俄かに通りが騒がしくなり、目当ての人物が町へ帰ってきたことがわかった。
 若い女の黄色い声や子供の歓声に混じって男たちの吼える声がする。今日は何匹狩ったとか、町長が擦り寄ってきてへいこらしだしたぞとか、そんな笑い声が酒場の方へ通り過ぎていき、やがて宿の玄関がギイと音を立てた。
「……そろそろ来てると思ったよ。剣の塔はどうだった?」
 にこりと笑いかけてきた青年にベルクは無言で神鳥の剣を放り投げた。挨拶らしい挨拶をしなかったのは少なからず警戒心があったからだ。自分より腕の立つ男相手に無防備に近寄って行くほど呑気な気分にはなれない。
 鞘から剣を抜こうとして、イックスは「成程」と真剣な面持ちを見せた。この男にもオリハルコンの刀身を取り出すことはできないようだ。
 ベルクとノーティッツは注意深く彼を観察する。イックスはおそらく最初から勇者の剣が不完全であると知っていたのだ。けれどどこがどう不完全であるかは知らなかった。だからこちらに剣の状態だけ教えてほしいと頼んだのであろう。
 怪しい、怪しすぎる。イックスはどこでオリハルコンの異常を知ったのだ?
「塔は君たちを受け入れたのに、神具は力を失っている。……神様は勇者を決めかねているのかな?」
「どういう意味だよ? あんた何を知ってんだ?」
「そのままの意味だよ。ぼくが手にした神鳥の盾は真っ黒に染まった。勇者に相応しい者であれば完全な形でオリハルコンを得られるはずなんだけどね。ぼくも君も、勇者になるには何かが欠けているのかな」
 えっと思わず声を零す。この男もまた試練の塔を上ったのか。それなら事情通であるのも頷ける。
「真っ黒に染まったってのはなんだ? あんた、勇者の盾を持ってんのか?」
 詰め寄るような口調で問うと「ぼくには必要なかったし置いてきちゃった」とイックスは答えた。「必要なかった」のは盾が神具として意味を成していなかったからだろうか。何の未練もなさそうに神鳥の剣を放り返してくる辺り、剣士は本当に神具の状態だけを知りたかったのだろうと感じる。
「一応だけど、君の方がぼくより神様の望む勇者像に近いんじゃないかと思うよ」
 特別複雑そうな顔も見せずイックスが言った。勇者に一番近い人間が完全な神具を手に入れるのだとしたら、それは確かに納得のいく仮説である。盾は黒く染まったらしいが剣はただ輝きを失っただけだ。完全性で言えばまだこちらに分がありそうである。
「オリハルコンのこと、ぼくも大して知ってるわけじゃないんだ。……そんなことよりこの先辺境の国へ向かうつもりなら、他に考えなきゃいけない問題があると思うんだけど」
 イックスはにこりとベルクに水を向けた。辺境の国と聞けば何を言われるかは大体想像がつく。
「流石に五千匹は骨が折れるから、手伝ってくれるとありがたいんだけどなあ」
 やや苦笑いに変わったイックスの表情は、やっと彼を普通の青年らしく見せてくれた。
 我ながら妙な感覚に囚われていると思う。目の前の男はどう見ても己と同じ人間なのに、何か違うぞと第六感がしきりに訴えかけてくる。生気がないとか死んだようとか、そういうのとはまた違って。
「じゃあ、明日からよろしく」
 差し出された右手を握り返せばそこには生きた温もりがあった。
 幽鬼のようだと、何故そんな風に恐れるのだろう。
(強い奴が増えるのは助かる。勇者大歓迎だって思ってたはずなんだがなあ……)
 小心者になったつもりはない。とすると心のどこかでウェヌスを気にしているのかもしれなかった。勇者候補の最下位ではないらしいということで、あの女が納得してくれればいいけれど。



 ******



 初めて訪れた隣国――兵士の国で、アラインは祖国との違いに驚かされっぱなしだった。
 勇者の国では余程の田舎でない限り街道は平らなものだが、こちらは道の真ん中に大きな岩が転がっていたり、池ほどの水溜まりができていたりする。途切れた道が少し先で復活するなんていうのもざらだ。出てくる魔物はひと回り以上身体が大きいし、国民すべてが日常的にこういう敵を相手にしているのなら「兵士の国」を名乗るのも納得だった。
 旅の経験豊富なハルムロースが草花の生態から気候風土、文化について語るのを、アラインはいちいち感心しながら聞いた。無知な己を恥じる思いと物知りな賢者への羨望は隠したまま。
 異国に足を踏み入れてからアラインの心はまた少しずつ上擦り始めていた。十六歳になる日を待ち焦がれ、やっと勇者としての旅を始めたのに、理想と現実は誤魔化しようもないほどかけ離れている。このままではご先祖様たちに申し訳がない。
 今となっては馬鹿みたいだが、自分は旅に出さえすれば万事上手くいくと思い込んでいたようだ。何故ならアンザーツの伝説には勇者としての彼の苦悩など書かれていなかったからである。彼がいかに魔物を退け、いかに魔王を打ち倒したかという行動についてしか書物では触れられていなかった。
(アンザーツも僕みたいに悩んだのかな……)
 彼のパーティにいたヒルンヒルトは博識で知られている。ゲシュタルトは神殿という名の温室育ちだし、ムスケルとアンザーツも冒険以前に祖国を出たことはなかったはずだ。最後に迎えた仲間には、やはり実際的な知識を期待していたのだろうか。
(アンザーツにも知らないことやできないことがあったのかな……)
 仲間に頼るのは恥ずべきことではない。それはわかっているけれど、自分はちっとも役に立っていないのでないかという不安は拭い切れなかった。
 国境を越えてからこっち、進路を決める話し合いでも戦闘でもアラインの影は薄くなっている。道をよく知る人間が先頭を歩いた方がいいに決まっているし、戦いは一番効率の良い方法でさっさと終わらせるべきだ。全体を思えば真っ当な旅をしている確信はあるのだが、いかんせんハルムロースが万能すぎた。三人のときに出来上がりかけていた連携がこの頃崩壊している。
(駄目だ駄目だ、他人のせいにするなんて!)
 溜め息が出た。剣も魔法も心構えも未熟な自分。こんな人間、果たして勇者と言えるだろうか。
「浮かない顔っすねぇ」
 ぽんと肩を叩かれて顔を上げるとマハトが心配そうにしていた。年上の余裕を感じるのも、憐憫の情を感じるのも悔しくて「そんなことないぞ」と虚勢を張る。
「仕方がありません。責任重大な立場ですから、我々よりずっと憂いも大きいのでしょう」
 悩めることはいいことです、とはハルムロースの言。アイテム街でも彼は勇者を讃えてくれたが、今はもう思い返すのも恥ずかしい。どう考えたってアラインより彼の方が強いのに。
「経験を積んで戦いや地理に明るくなれば、不安もなくなりますよ。わたしもそうでしたから」
「ク、クラウディア……!」
 僧侶は穏やかに彼のひとり旅時代について打ち明けてくれた。勝てないと見切りをつけて何度も敵前逃亡したこと、一時は逃げる技術しか学ばなかったこと、他人に路銀を分け与えすぎて後で困ったこと、教会を見つけては住み込みの短期バイトを申し込みなんとかやり繰りしたこと――。
「最初は周りの方に助けていただいてばかりでした。魔法や武器を本当に使いこなせるようになったのは、この国で旅を続ける最中でしたね。勇者の国は守られているぶん力が育ちにくいんです」
「それは言えますねえ。強い魔法、珍しい呪法を知りたいなら辺境へ行け、が魔法使いの間でも常識ですから」
「この先は否が応でも強くなるか、さもなくば死ぬだけです。わたしはいつアラインさんに追い抜かれるか戦々恐々としていますよ」
 清らかなクラウディアの声でそんな激励を並べられると、少しずつ「そうだ。やらなければ」と浮上してくるから不思議だ。彼の言葉には荒んだ心を癒し、落ち着かせてくれる響きがあった。これも天性の才能なのかもしれない。
「ああ、都が見えてきましたねえ」
 ハルムロースが見上げた先を同じように見上げると、平原に遠く霞んで王城のシルエットが浮かび上がっていた。荒く波打つ外海に面した砦。あれが兵士の都。見知らぬ土地に来たのだという実感がまた小さな胸を高鳴らせる。
「行きましょう、アライン様」
 同郷の戦士に頷き返し、アラインは足を踏み出した。
 あまりうじうじ考え込むのはよそう。心に決めてもすぐ小さなことで悩み出してしまうけれど。



 セレモニーでもなければ静かで慎ましい人々が多かった祖国の都と比べ、兵士の都はわいわい騒がしく、民衆は活気に溢れていた。兵士と職人、商売人の多い国だと聞いたことがあるけれど、その気質が街中に染み渡っているようだ。
 ごった返しの夕市には威勢の良い女たちが値切りの声を響かせ、少年たちは行儀悪く大股で闊歩する。大半の男が腰に剣を差しているのも見慣れぬ光景で、アラインはぽかんと口を開いた。都というのはもっと格調高く、貴族の馬車がカラカラと車輪を鳴らし、民は奥ゆかしく道の端を歩くものではなかったか。
「帯刀してる連中が多いけど、今日ってなんか特別な日なのか?」
 同じように驚いたらしいマハトがクラウディアに尋ねる。僧侶は笑って首を振った。
「いいえ、ここはいつもこんな感じですよ」
 いつもこんな感じ。その事実にまた驚き、そして感心する。この国はやはり国民総兵士なのだ。
 元気だなあと率直に思った。大人も子供も男も女も活力漲るという言葉がこんなにしっくりくる街はない。アイテム街も商人たちがパワフルだったが、兵士の都の放つ雰囲気にはもっとどっしりした頼もしさを感じさせられた。単にマハト級の筋肉男たちがウヨウヨいたせいかもしれないが。
「あなたの国とはまるで違って新鮮でしょう」
「うん、びっくりした。うちの都は白って感じだけど、こっちは赤茶色って感じだな。なんていうか、こう……強そう?」
 素直な感想にハルムロースは笑い声を上げる。雑踏を行き交う人々をかわしながら、アラインたちは宿を探してうろついた。
「お察しの通り、お人好しと心根の強い人間が多いところです。……が、ここでは迂闊に勇者を名乗らない方が賢明ですよ、アライン君」
「え? なんで?」
 助言の意味がわからず尋ね返す。隣ではマハトも神妙な顔になっていた。
「この国の人間は勇者の国とアンザーツが好きでないんです」
「え……」
 なんで、と。今度は声が喉に詰まった。
 勇者の国が好かれない理由も、アンザーツが好かれない理由も、アラインにはさっぱりわからない。だって彼は世界を救った英雄だ。それに、勇者の国と兵士の国は隣同士なのに。
「人間心理というものです。すぐ横に何もしなくとも神様に守ってもらえる国があって、何も思わない人がいると思いますか? 否ですよ。放っておいても畑の作物が育つような国はこの土地の者からすればただただ異常です。たったひとりの勇者がいるだけで、飢えも凍えも知らずにいられるなんて」
 ハルムロースの言葉はぐっさり胸を突き刺した。心臓が凍てつき、何を言われているのかわからなくなってくる。混乱しかけた自分を認識することもできなかった。
「あなたが国を出なければ一生知らずにいたことです。良いことですよ、あなたは今勇者に関する別の視点を得たんですから」
 賢者らしい物の見方だ。物事には必ず表と裏があり、ひとつの目では真実に到達できぬのだと教えられた気がした。
 衝撃は重かった。勇者を受け入れない人間もいるのだと、そんな考えは一度も抱いたことがなかった。生まれ育った国では絶対に有り得ない。
「つまりですね、アラインさん。勇者の国の民がアンザーツを誇りとするのと同様に、この国の方々は神の力に頼らず生きていることを誇りとしているんですよ。国によって尊いとされるものは違って当たり前でしょう?けれどそれが両者を隔ててしまうかと言えば、決してそうではありません。祖国は違っても人は愛し合うことができる、わたしはそう思います」
 アラインの動揺を和らげるようクラウディアが付け足した。一瞬瞼を閉じた彼の脳裏に誰の顔があったのか、まだアラインには知る由もなかったが。
「あんまりうちのアライン様をビビらせないでくれよ、先生」
「おやぁ? 私としては親切心で申し上げたつもりでしたが」
「そいつはありがてえけど、ただでさえ余所へ来て緊張してんだから」
「ふふふ、マハトさんは些か過保護気味ですねえ」
 場に和やかな空気が流れ始め、アラインは無意識にホッと息を吐いた。疎外されることには慣れていない。あまりおかしな事態にならなければいいのだが。
 そう思っていたら見透かした風にハルムロースが笑いかけてきた。
「大丈夫ですよ。ここの人たちはアンザーツを嫌っちゃいますが、その根底にあるのは憎悪ではなく対抗心ですからね。何故か張り合うのが大好きなんです、兵士の国の人間は」
「……そうなのか?」
「ええ、そうなんです」
 ハルムロースはもしかして、こちらの気持ちが右往左往する様を見て楽しんでいただけではないだろうか。ふと疑問が湧いてきたが、それは気づかなかったことにした。からかわれただけだなんて面白くない。

「――」

 と、往来のど真ん中で急に賢者が立ち止まった。マハトが彼の細い背にぶつかり跳ね返る。何故ハルムロースの方がびくともしないんだと突っ込もうとして空気が変わったのに気がついた。
 ピリピリしている。皮膚の表面が痛いくらいに。
(なんだ……?)
 周囲を見渡しても先程と変わったところは見受けられない。相変わらず街の人々は明るく楽しげで、日の陰り出した帰り道を皆急ぎ歩いていた。
「まったく一直線な行動しか取れない輩には困ったものです。よくぞこんな街中に現れたものですよ」
 ぶつくさとぼやくハルムロースの視線の先には何か黒い影があった。
 ぞわ、と背筋が一気に粟立つ。一瞬前にはなかったものが、今はアラインの目にもはっきり映っていた。
 誰だあれは。甲冑の騎士?さっきまであんな人間は――。

「殺す」

 低く重い囁きの直後、それはこちらへ真っ直ぐ飛んできた。全身を黒鋼の防具で固めた顔もわからぬ大男。振り上げられた長剣は凄まじい速さでハルムロースの心臓を狙う。
「ツィリュク」
 聞いたことのない呪文で黒騎士を撥ね退けると賢者は銀の杖を持ち直した。
 異常に気づいた人々が甲高い悲鳴を上げる。逃げ出す者もあれば、己の武器を抜き身構える者もいた。
「イデアールの命令ですか。たったひとりの刺客とは、私も案外見くびられたものですねえ」
 ドオンという轟音と共にアラインの間近で民家の壁が吹き飛んだ。突如現れた謎の魔剣士の一振りで、瞬く間に家屋がひとつ瓦礫と化す。
 いくつもの怒声と絶叫が重なった。崩落に巻き込まれた人を助けるため周囲の男手は一斉に崩れた家へ飛び込んで行く。その中にマハトやクラウディアの姿も見えた。
 アラインも手伝おうと身を翻したが、その直後第二波が別の一軒家を襲った。
 魔剣士は辺り構わず豪剣を振り回しているらしい。凄まじい剣圧が破壊の風と化しており、このままでは深刻な被害が出るのは明らかだった。
「ハルムロース!」
 賢者の名を呼べばちらりと彼が振り返る。
「あれの狙いは私だけです。というわけで私は少しパーティを離れますね」
 飄々と告げたかと思うと次の瞬間にはもう賢者は屋根の上だった。
 常人とは思えない軽やかなステップでハルムロースは街の中心から遠ざかって行く。魔剣士も彼にぴったりくっついて行った。
(ま、まさかひとりで応戦する気か!?)
 アラインは慌ててハルムロースの後を追った。いくら彼が飛び抜けて強い賢者とは言え、あれをひとりで相手するには骨が折れるに決まっている。
 がむしゃらにアラインは走った。土地勘もない入り組んだ下町ではハルムロースを見失わないようにするだけで精一杯だった。






 面白い。この自分を手にかけようとはイデアールも苛烈なことを考える。ハルムロースはクヴァドラートの切っ先をかわしつつほくそ笑んだ。
 仕掛けてくるならこのタイミングだと思っていたが、睨んだ通りだ。寄越してくるのも十中八九あの甲冑騎士だろうと読んでいた。
 三日月型のこの大陸は、国境にもなっている大きな河を挟んだあちらとこちらで相反する性質を持っている。魔界と辺境の国があるあちら側は魔力を放出し、兵士の国と勇者の国があるこちら側は魔力を吸収するようにできているのだ。そしてその性質は大陸の端に行くほど強くなる。
 神の加護と言われているのがまさにそれだった。勇者の国に弱い魔物しか出ないのは強い魔物もあの土地では力を奪われてしまうから。生命力に満ちた大地は当然作物を豊かに実らせる。そういうからくりなのだ。
 ハルムロースは半人半魔、力を奪われず好きな場所を行き来できる数少ない魔族である。イデアールではそうはいかない。だから彼はああいう特殊な魔物を送り込んできたのだ。有機生命ではない物質を。
「逃げるな」
 真っ黒な刃。古代魔法の力を帯びた呪いの剣が空を裂く。身体には当たらなかったが、周囲の空間が断絶されていくのがわかった。このままではものの数分で亜空間に閉じ込められてしまうだろう。
「何を企む?」
 クヴァドラートは短く尋ねた。企むなどと人聞きの悪い。自分はただこの世界に起きている異変がなんなのか知りたいだけだ。が、真正直に答えてやる義務もない。そんなことよりどうやって彼に反撃したものか、それが考えものだった。
(人に化けるのをやめればもう少しましな呪文を使えますが)
 その案は却下だ。自分はまだ人間ごっこを楽しんでいたい。しかし今扱える魔法の中で魔剣士の鎧を貫けるほど強力なものは思い当たらなかった。普通の魔法は彼には効かない。であれば物理攻撃を仕掛けねばならない。
「答えろ」
 怒気を孕んだ静かな声。イデアールへの忠誠心の高さに思わず嘆息する。命令ひとつでこうまで動いてくれるなら、主君冥利に尽きるだろう。もっとも自分にとっては細かな作業を請け負ってくれるリッペの方が重宝するけれど。
「……」
 いつの間にやら辺りは真っ黒に塗り潰されていた。ところどころの隙間から夕暮れ空が覗いているものの、ほとんど囚われかけていると言っていい。
「リヒト!」
 試しに光の呪文を唱えてみたが、まったく効果がなかった。どころか詠唱の間に剣圧で頬が切れてしまう。
「おやおや……」
 久々の血の臭いに興奮した。指先についた液体をペロリと舐め取ると、ハルムロースは魔剣士を涼やかに一瞥する。
 イデアールはこちらの性格をよくよく見抜いていると言えた。格下相手に自分が人のふりをやめるわけがないとわかっているのだ。
「答えろ」
 再三の催促にハルムロースは無視で返す。そもそも彼に勇者候補が複数いると説明したところでイデアールに報告できるとは思えなかった。せめて十文字以上喋れるようになってから出直してほしい。
 ざしゅ、と今度は肩を斬られて血が噴き出る。避けようにも閉じ込められつつある空間にスペースがないので避けようがない。回復をかける間にもう一撃食らいそうだったので、ハルムロースは癒しのまじないさえ口にしなかった。
(一気に勝負をかけようということでしょうかねえ)
 三つ巴状態に陥っている我々の一角を崩し、ゲシュタルトをも亡き者にしようと。だがそのためにはもっと手を打っておく必要があったのではないか?この程度のハンデでどうにかなるなど、甘く見てもらっては不愉快だ。
「イゾリーレン」
 ハルムロースは隔離の呪文を呟いた。古代魔法は同じ性質を有する亜空間と反発し合い、術を粉々に打ち砕く。
 魔剣士は反動でハルムロースと逆方向へ飛ばされた。かなり勢いがついていたし、舞い戻ってこちらを探すには少々時間を食うだろう。そう予測して細い裏道にトンと降り立つ。

「覗き見とはいいご趣味じゃないですか、ゲシュタルト?」

 にこりと笑むと黒のロングドレスをまとったひとりの女が鬱陶しげにハルムロースを睨み返した。
「……骨まで肩が裂けてるわよ。そんななりでよく余裕ぶっていられるわね」
 冷たく彼女は言い放つ。その口ぶりが楽しくて、ハルムロースはまた笑った。
「痛いという感覚自体が久しぶりで、つい楽しく」
「傷より先にその頭を治した方がいいんじゃない?」
 これくらいなら慣れた軽口だ。今日のゲシュタルトはご機嫌斜めなように見えたが、対応はいつも通りだった。
 我々はイデアールと違って仲がいい。そう思っているのはもしかすると己だけかもしれないが、ハルムロースはこの元僧侶を憎からず思っていた。それはそうだろう、アラインが遠縁の子孫なら彼女は己の曾祖母に当たる。しかしハルムロースはゲシュタルトに血縁関係を伝えてはいなかった。人間時代のことを闇堕ちした彼女が取り合ってくれるとは思えなかったし、秘密は秘密のままにして自分ひとりでわけ知り顔をしていたかったのだ。
 そういうわけでこのときもハルムロースはただの魔王城仲間として会話を続けただけだった。
「今頃イデアールは泡を食ってるところでしょうねえ。クヴァドラートが私を始末した瞬間、あなたを襲撃しようと考えていたに違いありませんから」
「言っておくけど手伝うつもりなんかないわよ? 私もあのお坊ちゃんと同じで、あなたがこそこそ動き回っている理由が何か知りたいだけ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「おやおや、切ないですねえ。あなたが手を貸してくだされば百人力なんですが」
「馬鹿言わないで。巻き添え食らいたくないからそろそろ離れてくれる?」
「ええ勿論。ですがその前に、誰かこちらへ来るようです」
 ハルムロースが振り向いた先には必死で駆けてくるアラインの姿があった。こちらの傷の具合を見て血相を変えているのが面白い。少年というのはなんと純真な生き物であることか。
「私の同行者ですよ。なんでも伝説の勇者の子孫だとか」
「――……」
 瞬間、目に見えてゲシュタルトの表情が曇った。深く眉根に皺を寄せると「気分が悪いわ」と告げて彼女はその場から消えてしまう。
 あの憎しみの目!なんて素晴らしいのだろう。時を越えて衰えぬものはなんであれ美しい。いつか彼女の「理由」も解き明かしてみたいものだ。
「ハルムロースッ!! だ、大丈夫か!?」
 焦り顔で癒しの魔法を唱えてくれるアラインに短く礼を述べ、ハルムロースは眼鏡を上げ直した。
 人化の魔法を解く気分にはまだなれない。だがクヴァドラートを追い払うには少しばかり力が足りない。
 なら選択肢はひとつだろう。ゲシュタルトが手伝ってくれないのなら、彼にお願いすればいい。
「アライン君、少々荒っぽい真似をしますが、嫌わないでくださいね」
「え?」
 ハルムロースはアラインの腕を掴んで引き寄せた。真っ直ぐに彼の青い瞳を見つめ、その内に眠る力を探り当てる。
 選んだのは攻撃強化の呪文でもなく防御強化の呪文でもなく、潜在能力を無理矢理引き出す禁呪だった。勇者なら放っておいても強くなる。そのように宿命づけられている。だったらこれも遅いか早いかの違いしかないのだ。多少肉体に負担を伴うが、構うことはないだろう。
「アン・ヘーレン・アン・エアケーネン・アン・レーゲン・アン・ゼーエン・アン・トヴォルテン……」
 殺意がこちらに近づいてくる。どうやらクヴァドラートに見つかったらしい。
 だがこの距離なら十分だ。

「アオ・フブ・レヒン……!」

 まじないが終わる。ぐにゃりと歪んだ、まだ安定しない魔力がアラインを包んでいる。
 瞬きもできずにいる少年を揺さぶってハルムロースは剣を握らせた。

「さあ、勇者の力を見せて下さい」






 なんだろう、とアラインは夢心地で考えた。
 身体がものすごく軽い。まるで背中に羽でも生えたかのように。
 それにいつもは心許無い魔力が、今は身体の奥からどんどん湧き出てくるようだった。
(敵がいたはずだ)
 何かが迫ってくるのを感じて前を見る。すると先程の魔剣士が剣を振りかざしたところだった。
(受け止められるな)
 何故かそう確信して刃を差し出す。鋭い剣戟の音が響き渡ったが、剣も己も無傷であった。
「……何者だ?」
 騎士に問われたが答えるところまでいかなかった。
 意識は冴えているのに酷くぼうっとしている。ぼうっとしていると自覚したら、急に吐き気を催した。おまけに次は目眩まで襲ってくる。
「名乗れ」
 苛立った敵の声。それすら頭痛を引き起こすのでアラインは剣で薙いだ。
 だがかわされる。相手も家を切り崩すだけのことはある。
 頭の中は緩慢なのに動くスピードはいつもの倍近かった。アンバランスさに更に酔った。
 気分が悪い。早く横になりたい。そう思いながら何発も相手に打ち込む。敵は少し怯んだように見えた。

「彼の名を知りたくば、その手で打ち負かせばいいでしょう。まああなたにそれができるとは思えませんが」

 裏通りの死角からハルムロースの声が響いた。
 ふと見れば賢者は魔剣士の背後を取っている。ずっとこの隙を窺っていたに違いない。
 金属のぶつかり合う激しい音がして、騎士の兜が地に落ちた。どうやらそれはハルムロースの仕込み杖で砕かれたようだった。
(あっ!)
 顔がない。気づいてアラインは目を瞠る。
 鎧の中は空洞だった。濃い闇が内側に広がるだけで、そこにあるべき人の姿はない。今更ながらそういう魔物を相手にしているのだと理解する。
「立ち去りなさい」
 ハルムロースの詠唱の声、そして。
 爆風に煽られたと思ったら、アラインはいつの間にか気を失っていた。
 指先も動かせぬほどの疲労に意識は落ちていく。自分では自分の体にどれくらい負荷がかかっていたのか知りようもなかったが。






 倒壊した民家に気を取られ、振り返ったときにはハルムロースもアラインも見失っていた。崩壊音や聞こえてくる悲鳴で大体の方角なら見当はついたが、ふたりを探し出すには骨が折れそうだった。
 マハトは舌打ちして大通りを駆け抜ける。見知らぬ国の見知らぬ都で人探しなどするものではない。
 瓦礫の山が塞ぐ道を越え、何とかアラインたちのいそうな下町まで辿り着いた。けれどまだふたりの姿は見えない。
(無事でいてくださいよ、アライン様……!)
 そうして再び走り出そうとしたマハトの腕が突然後ろに引っ張られた。
 絡まっていたのはそれほど腕力があるようには見えない女の細腕。何の用だ、急いでるんだと怒鳴ろうとしてマハトは声を失った。見覚えのある女だった。

「ムスケル?」

 震える声で女は先祖の名を呼んだ。紅い瞳がマハトを射竦めその場に磔にさせる。
 試練の森で見た幻とそっくりだった。肌と目の色こそ違ったが、見紛うはずもない美貌が彼女との関連を示している。
 女はしばらくマハトを見つめた後、苦々しい嘲りを含んだ笑みを浮かべた。
「……そう、あなたは生まれ変われたの。未練がなくて羨ましいわ」
 皮肉を言われたらしいのはわかっても、それがどういう意味かまではわからない。あんたは誰だと尋ねようとしてマハトは口を開いた。
 そのときすぐ近くで爆発音がこだました。たちまち広がる煙に巻かれ、ゴホゴホ咳き込んでいるうちに女はいなくなってしまう。

「……」

 今のはなんだったのだろう。どうして自分は曽祖父の名で呼ばれたのだ?
 前にも似たようなことがあった。あれは祈りの街でイックスに呼び止められたときだ。

 ――あ、ごめん。知り合いにそっくりだったから驚いて……。

 落ち着かぬ心臓を宥めるように何度か撫で、マハトは爆発の起きた方へと駆け出した。少し走った通りの向こうに気絶したアラインと、勇者を背負うハルムロースの姿を見つける。
 心配事ばかり増えていく、本当に。



 ******



 魔剣士とアラインたちの戦いぶりはたった一日で都中の噂になっていた。宿泊を決めた宿には「相手はどんな奴だった?」「どれくらい強かったんだ?」と尋ねてくる住人もいて、おちおち休めもしない。そういう客を相手にするのが嫌なわけではないが、同じことを代わる代わる何度も聞かれてそろそろマハトもうんざりしていた。アラインと違い、自分には従者スマイルなんて特技はない。こんなことならトローン四世の厚意に甘え、宮殿に宿泊させてもらえば良かった。
 ひっきりなしに客の訪れる宿を出て、マハトはぶらぶら人のいない裏庭へ向かった。静かなところで休みたかったし、あの魔剣士や黒い装束の女が何者なのか考えをまとめたかった。
 ハルムロースの言によれば、魔剣士は高位魔族の使役らしく、賢者の命を狙っているとのことだった。魔力を定着させた鎧に特殊な技法で簡易人格を持たせた魔物で、壊すことはできても殺すことはできないそうだ。今回はなんとか追い払ったに過ぎないらしい。詳しい経緯は折を見て話すと言っていたが、胡散臭いことこの上ない。いや、自分としても命の恩人になるべく失礼な言い方はしたくないのだが、それでもどうしても神経過敏になってしまう。
 賢者に負ぶさったアラインの様子が変だと感じたのは、彼がどう見ても昏睡状態にあったからだ。命に関わるほどの傷もなく、毒を食らったわけでもなさそうだったのに。
 直感的に呪術を疑った。あの魔剣士に何かされたのかと問うと、ハルムロースは首を横に振った。
 違和感と言えばそれだけだ。アラインに何かしたのが魔剣士でないのなら、残る可能性はあの賢者しかない。
(俺の考えすぎだといいんだが……)
 過保護、過干渉。それはハルムロースに指摘されるまでもなく自覚している。でもまだアラインは国を出たばかりなのだから、しっかり守ってやりたい。
 この十六年、実の息子のように大切に育ててきた。旅に出てからもアラインに対する忠誠の気持ちは変わらない。できる限り余計な苦労はさせたくなかった。勇者として経験を積んでほしいと思う心とは矛盾していても。
「あ、マハト」
 ふと前方から親しげな声がかけられ面を上げれば、寝ていたはずのアラインがもう剣の素振りを始めていた。驚き駆け寄り「身体はいいんすか!?」と叫ぶ。主人はやけにすっきりした顔で頷いた。
「なんかすごい調子良くってさ。お前、暇なら稽古の相手してくれないか?」
 爽やかに言われてもすぐには了解しかねる。何しろ彼は今の今までぶっ倒れていたのだ。
「本当に大丈夫なんすか?」
 念を押しても顔をしかめられるだけで、アラインはさっさと武器を取れと言わんばかりだった。なおもマハトが渋っていると「もういい!」と怒ってまた素振りに戻ってしまう。
「ちょっと見ておけよ」
 言うが早く、アラインは空中に剣を走らせた。するとスパッと小気味良い音を立て、数メートル先の木の枝が地面に落ちた。
「ええ!? すごいじゃないすか!! いつの間にそこまで鍛えたんっすか!?」
「自分でもよくわからないんだけど、さっき起きたらできるようになってたんだ」
 にこにことアラインは上機嫌だ。見ているとこちらもなんだか嬉しくなってくる。
「やっぱり強い敵と戦うのって、自分が強くなる近道なんだな。僕もっと実戦を積みたい。こんな気分久しぶりだ。もっと強くなれるってわくわくしてる。なんか、お前に剣を習い始めた頃のこと思い出すよ」
「アライン様……」
 そんな風に言われたら胸の辺りがむずむずしてくる。一緒に旅に出て良かったと似合わぬ感傷に浸ってしまいそうだった。
「ハルムロースが魔剣士はきっとまた来るって言ってた。僕らに遠慮してパーティを離れることはないって言っておいたけど、もしかするとこの先はひとりで行くとか言い出すかもしれないな」
「アライン様は嫌っすか?」
「うん……まだ別れたくはないよ。魔法も教えてもらいたいし」
 マハトとしては信用し切れぬ人間と組み続けるのは賛成しかねる。だがそれがアラインの希望なら従うつもりだ。
「じゃあ無理矢理でも俺が一緒に連れて行きますよ。どうせ辺境の国へ行くって目的は同じなんすから、人数は多い方がいいはずです!」
 にっと笑って親指を立ててみせるとアラインはまだあどけない顔を綻ばせた。
 彼の旅に大きな災いがありませんように。そんな願いに水を差すよう、脳裏にあの女の顔が甦る。憎悪に歪んだ真っ赤な瞳。
「……」
「マハト? どうした?」
「あ、いや、なんでも……」
 女のことは何故か誰にも話せなかった。まだあの森で見た幻覚を引き摺っているだけでないかとも思えたから。



 その夜、宿の食堂でテーブルを囲んでの話し合いが行われた。議題は今後のルート選択だ。どんな形で辺境の国を目指すのか、ひとまず四人できちんと決めようと言ったのはアラインだった。本当にたった一日で主人は随分逞しくなったように感じられる。
 ハルムロースは魔剣士の損傷具合から、数週間は何もできないはずだと言った。この隙に辺境へ渡ってしまいたいので真っ直ぐ西へ向かっていいかと聞いてくる。
 マハトとアラインは顔を見合わせた。伝説にのっとるのなら、アンザーツは兵士の国で大盗賊を打ち滅ぼし、剣の塔へ上ったはずだ。水門の街はその後に目指した場所なので、向かうにはまだ早い。
「この辺りに名の知れた盗賊の砦とかって……」
「ヴルムのことですか? 彼のアジトならとっくに焼かれたと聞きましたが」
 アラインの問いにハルムロースは事も無げに答えた。これには拍子抜けだった。なんとかという若者がこてんぱんに盗賊を打ち負かした話は割と有名らしい。
「それじゃあ剣の塔を探しに……」
「剣の塔? もしや神鳥の剣を手に入れに?」
 頷いたアラインへの賢者の返答は更に突拍子がなかった。
「あそこの封印は解かれましたよ。神具は残っていないはずです」
「えええっ!?」
 驚きのあまりアラインは後ろに椅子を蹴り飛ばした。マハトもぽかんと口を開く。
 信じられない。盾の塔ではイックスにお株を奪われてしまったので、今度こそ主人が挽回するチャンスだと思っていたのに。
「封印は解かれたって……。先生、まさかイックスって男か?」
 恐る恐るマハトが尋ねるとハルムロースは首を振った。
「違います。先程お話しした盗賊退治のベルクです。神鳥の剣は彼の手にあります」
「……ベルクって、もしかして兵士の国の第三王子の?」
「おや、それは知りませんでした。へええ、彼って王族なんですか。へえ、あれで」
 おかしそうに賢者がニヤつくのをマハトはギッと睨む。真面目な話をしているときぐらい真面目な顔を保ってほしい。
 それにしても勇者の塔の封印を解き、神具を得るとはどんな男なのだろう。まさかイックスの他にもそんな人間がいるなんて。
「封印って誰にでも解けるものなのか?」
 今度はアラインが詰め寄った。主人としては心中穏やかでないだろう。歴代の勇者の旅と比べてイレギュラーが多すぎる。また彼の悩み出さないか心配だった。
「いいえ、封印は勇者の資格を持つ者にしか解けません。ベルク殿には一度お会いしたことがありますが、彼は確かに勇者の器たる人物でした。彼だからこそ証を得られたのだと思います」
「……」
 アラインは言葉を失くし沈黙する。勇者装備が他人の手にあるという事実は彼にとって十分すぎる不安材料だった。昼間の笑顔などなかったように横顔が凍りついている。
「けど勇者ってのはそう何人もいるもんじゃねえよな? アンザーツの子孫はアライン様だけなんだぞ?」
 主人の代わりにマハトが問う。ともかくわかることをはっきりさせねば悪い想像にばかり傾きかねない。アラインは根が真面目なので、考え込むのは得意なのだ。
「ええ、ベルク殿にアンザーツの血は流れていませんよ。ですが封印の塔が彼に反応を示したということを無視するわけにもいかないのでは?」
 ハルムロースは何も言えないでいるアラインにちらりと目をやりこう続けた。
「私は賢者である前にひとりの研究者ですので、事実は事実として受け止め調査します。現地まで確かめに行きたいのであれば、道案内くらいはさせていただきますけど……」
 行くか、行かずに済ませるか、ハルムロースはアラインに決断を迫る。マハトとクラウディアはじっと彼の判断を待った。勇者の行くところならどこであれ自分はついて行くだけだ。
 どれくらいの間があっただろう。まだ幾許かの動揺は感じ取れたが、はっきりした返答が告げられた。
「何も残ってなくても行きたい。……何が起こってるのか知らなきゃいけないと思う。僕には勇者としての責任があるから」
 アラインは決めたと言うようもう一度力強く頷いた。その姿はやはり不思議に昨日までの彼と違って見えた。実力がつけば不安も消え去る――先日クラウディアが言っていた通りなのだろう。いつか自分の手助けすら必要としなくなる日が来るに違いない。寂しいけれど、彼は英雄になるのだから。



 ******



 もう少し苦労するかと思ったけれど、剣の塔への道のりはさほど厳しいものにはならなかった。勿論道なき道を行き、崖下りをするなどの大変さはあったものの、向かってくる敵を倒すことに関しては自分たちでも感心するほどあっさりしていた。
 ハルムロースが魔法で雑魚を一掃し、生き残った魔物をアラインとマハトが物理攻撃で始末する。反撃を食らったときは即座にクラウディアが癒しの術をかけてくれた。これが毎度の必勝パターンだった。
 仲間が四人になった当初から戦い方を変えたつもりはない。単純に互いの慣れと、個々の力が伸びた結果だろう。 まったくついていけていなかった賢者の動きが見えるようになったのは嬉しかった。ちぐはぐだったものが上手く繋がり始めた気がする。パーティの責任者であるアラインの喜びはひとしおだった。
 剣の塔に到着したのは三日月が満月になるくらいの頃だった。
 入口の前に立ち、その扉が開かれたままになっているのを確認する。本当に封印が解かれたのだ。中に入るのに扉を押す必要もなかった。
 以前イックスから聞いた古代建築の造りについてハルムロースに話してみると、賢者は「おや、そうなんですか」と珍しく驚いた顔を見せた。博学な彼でも知らないことはあるようだ。ただハルムロースはイックス以上の手際良さで隠された地下通路を見つけ出してしまったが。
 変な男だったなと改めて思い返す。どうしてイックスは塔の構造を知っていたのだろう。彼はハルムロースのような学者ですらなかったのに。
 そんなことを考えていたら、すぐ隣で胸を抑えた賢者が昂揚を隠し切れぬ様子で呟いた。
「感動ですね。長年あれこれ試しましたが、実際中へ入れたのは今回が初めてです」
「……前から塔のことを調べてたのか?」
「ええ。と言っても最近まではおそらくこの辺りにあるだろうという推測だけでした。勇者がいないと封印の塔は見つけることもできませんから」
 最上階へ行くためのゲートは隠し通路の奥にあった。盾の塔のときと同じように。
 上へ着いたらまた戦闘になるのだろうか。それとも試練を終えた聖獣は、今頃深い眠りについているのだろうか。
 何にせよ油断はしない方がいい。気を引き締め直し、アラインは剣の柄を握った。
 緑に光る魔法陣には最初にマハトが足を進めた。ふわりと浮いた屈強な体がそのまま天井へ持ち上げられていく。続いてはハルムロース。こちらも悠々飛んでいった。
「じゃあ次はクラウディアどうぞ」
「……はい……」
 陣の中へ入るよう促しているのに、何故かクラウディアだけは先へ行くのを躊躇った。どうも何か考え込んでいるようで、いつもに比べ笑顔が暗い。
「どうしたんだ?」
 心配になって尋ねると、僧侶は短い沈黙の後、意を決したようアラインに向き直った。
「アラインさんは……自分が勇者の役目を担うことに疑問を感じたことはありませんか?」
 普段の穏やかな表情はすっかり消えている。蒼い双眸にはじりじりした焦燥が滲んでいた。
 彼が何を知りたがっているのか、その真意もわからぬままアラインは気圧され答える。
「さ、さあ……、生まれたときから勇者になるのが当然だって育てられてきたから、考えたこともなかったけど……」
 アラインの持つ不安はクラウディアの問いかけたこととまるで正反対だった。勇者になるべくして生まれたのに、もしも満足な結果が残せなかったらどうしようと。そういうことならすぐ考えてしまうのだけれど。
「わたしにも、いずれ成すべきことがあります。でもそれよりも今は大切な友達に会いたいと、そう思うのは愚かなことでしょうか……」
 呟いたきりクラウディアは黙り込んだ。早くマハトたちを追いかけたかったが、彼をこのままにしておくわけにもいかない。
 逡巡して、アラインは僧侶の手を取った。ふたり一緒に風を生み出す魔法陣へと飛び込んでいく。
「魔王を倒して魔物が減れば、気兼ねなくその人とも会えるようになるんじゃないかな?」
 そんな慰めしか今は口にできなかった。クラウディアは友達に会うため辺境へ行きたいと話していた。その目的を果たしたら、やはりパーティから離脱してしまうのだろうか。それならできれば平和になるまで、探し人とは会えない方が助かるのだが。
 打算だらけの自分に嫌気が差してくる。勇者として最も不適格だと思うのは、己のこういう身勝手な一面だ。
 心から信じられる仲間に背を預け、戦いたいと願うのに。
 じっとり重い気分になる。己がこんな男では、どれだけの信頼を得ても、所詮上っ面の仲間にしかなれないぞと。



 最上階へ到着すると思いもよらぬ光景が待ち受けていた。
 中央に誂えられた祭壇の前に、何やら巨大な青銀の影が鎮座していた。ずんぐりむっくりした胴体にまるまるした翼が生えていて、首の上にはあまり洗練されたフォルムとは言い難い、毛羽立った頭が乗っかっている。垂れ下がった腫れぼったい瞼も、平たすぎるくちばしも、見る者に非常に残念な印象を与えた。お世辞にも美しいと言えそうなところは羽の蒼しかない。
(ぶ……不細工だな……)
 うっかり口を滑らせそうになり、慌ててアラインは唇を一文字に結び直した。まさかこの鶏とアヒルを融合させて横に伸ばしたような巨鳥がこの塔の聖獣なのだろうか。だが他にそれらしい雰囲気の生き物はいないし、ということはやはり……。
 ええーと思って他の皆を見てみると、マハトもハルムロースもええーという顔をしていた。こんなに誰かと気持ちがひとつになったのは初めてだ。
 だがクラウディアだけはアラインの後ろに一歩下がったまま、強張った顔で杖を握り締めていた。本当に急にどうしたのだろう。塔に来るまではいつも通りだったのに。
「ひゅぐりうぐぐぐりゅー……」
 寝言とも鳴き声ともつかない摩訶不思議な音声を発し、聖獣(仮)(まだ認めたくない)は欠伸をした。襲ってくる気配は見られないが、剣から手を放すのも間合いを詰めるのもまだ怖い。どうしたものかと思案に暮れていると、何の前触れもなくボーンという音が響き渡った。
「!?」
 音の出所に気を取られ、アラインはほんの少しだけ聖獣(仮)から目を離した。少しと言ってもほんの一瞬のことである。その一瞬の間に型崩れ鳥は視界のどこにもいなくなっていた。
 ――いや、いなくなったのではない。それは別の小さな生き物に姿を変えていたのだった。

「ジブンらよう来たのー。せやけどな、悪いねんけど剣はもうあらへんのや」

 祭壇には青銀の翼を持つ尾長鳥がとまっていた。先程までとはあまりに異なるスリムでコンパクトな姿の神鳥が。
 呆気に取られるアラインたちを一瞥し、彼はニッとくちばしを歪ませた。
「ワシはここの番人任されとる聖獣ハルピュイアのバールっちゅうねん。ジブンらも勇者候補やな? 前に神具を持ってった奴はぶっさいくやったけど、今度のパーティはえらい粒揃いやないか。まだ剣が残っとったらメッチャ本気出していてまうとこやったで! わははは!!」
 どの辺りが笑えるポイントなのかよくわからない。というか「神具を持って行った奴」というのは例のベルクのことだろうか。彼はこの聖獣に不細工呼ばわりされてしまう顔立ちだったのか。
 一応ベルクとイックスが同一人物である可能性も考えていたのだが、どうやらその線は消えたようだ。イックスの外見は少なくとも平均以上だった。いや、見た目の話で言うのならそれより気になることがある。番人バールの今の姿には見覚えがありすぎて。
「なんやキョトンとしとるのう。剣取りに来たんと違うんか?」
「いや、そうなんです、けど」
 構えすぎて思わず敬語になってしまった。けれどこちらの警戒心を彼は敬意と勘違いしたか、一気にご機嫌な態度に変わる。
「せやろ? ふふん、ワシの思った通りやったな。で、四人のうちどれが勇者候補なんや? ジブンは違うなー。どう見ても賢者の風格やし」
「それはどうも」
 バールはハルムロースの銀髪に足を引っ掛けくるくると弄んでいたが、それに飽きると今度はマハトに寄って行った。
「ジブンもちゃうなあ。っちゅーかジブン、双子か言うくらいムスケルそっくりやな!! よぉ顔見せてみ!?」
「戦士ムスケルならご先祖様だが……」
「ほおお? けどただの血縁とちゃうわ、もっと近い感じや。もしかしたらジブン、あいつの生まれ変わりかもしれへんで?」
「えっ!?」
「ま、ワシの言うこと適当やさかいあんま気にせんといてなー。神鳥言うても勇者を見極める以外は大した力あらへんのや。えーと、そしたら次の候補は……っと」
「あ、アライン様!」
 マハトが自分の名を呼んだのでアラインはすっと姿勢を正した。すぐにバールが羽ばたいてきて「うん?」と声を漏らす。
 何を言われるのだろうとドキドキした。心臓はたちまち駆け足になった。
 相手は聖獣だ。対峙した男が真の勇者であるかどうか審判を下す存在だ。
 勇者の剣を手に入れることはできずとも、彼に太鼓判を押してもらえれば――。
「……ジブンがこん中で一等の勇者候補なんか?」
「え、ええまあ」
「ホンマにホンマか?」
「そ、そうです」
 バールは気の毒そうに顔をしかめた。どうしてそんな憐憫の目で見つめられるのか、考える余裕はなかった。次いで言い渡された判決に、頭の中が真っ白になる。

「勇者の雰囲気っちゅうの? そういうのん限りなくゼロに近いで? そっちのカワイコちゃんの方が遥かに適任そうやわ」

 ――今、何を否定されたのか。
 あまりにも唐突だったため、バールの台詞を飲み込むのには時間がかかった。
 何が。ゼロに近いって、何が。
 誰が。適任って、誰が。
「キミは勇者目指さへんの?正直こないだのアホ面よりキミの方がずっとええわ。初めてアンザーツに会うたときも、こらーばっちりええ勇者やなあ思たけど、キミもめっちゃいけてる思う。っちゅーかキミやったら絶対天下取れるわ!」
 べた褒めにされているクラウディアをどうしても振り返ることができなくて、アラインは全身を硬直させた。
 すぐさまマハトがすっ飛んで行き「おいおい」とバールに突っかかったが、それさえ上手く認識できない。
 こんな風にはっきり「相応しくない」と言い切られたのは初めてだった。それも相手が相手だ。
「……そのようなお言葉を頂けるのは身に余る光栄です。けれどわたしは僧侶として生きることを固く心に誓っています。それ以外の道を選ぶことはありません」
「ふーん、なんや勿体無いなあ。誰でも勇者になれるわけとちゃうねんで? なんや今回はようけ勇者候補がおるらしいけど、その中でもキミはピカイチちゃうかなてワシは思うねんけど」
「おい、そいつは本当か?」
 バールとクラウディアの間にマハトが割り込む。アラインは相変わらず口を動かすこともできず、ただ棒立ちになっていた。
「せや。なんや勇者が決まり切らんらしくてな。いつもやったら勇者の直系から神様がちょちょいと選んでしまわはるねんけどな」
「ちょっと待て。アライン様はそのアンザーツの血統だぞ? 話がおかしくないか? なんでちゃんとした血筋の人間がいるのに他の候補なんか……!」
「え!? その兄ちゃん勇者の家の子なんか!? うわー、全然わからんかった! そら向いてへん言われたらショックやわなあ。えらいすまんかったのー」
 何か謝られている。わかっていてもどうしても返事ができない。声が出てこない。強張った身体をそちらへ向けることも。
「勇者候補というのはどうやって選んでいるんです?」
 そうするうちにハルムロースも輪に加わった。事実が知りたいと言ったのは自分だけれど、今目の前で尋ねられるのはあまりに酷だ。
 どうしてと心が叫ぶ。自分は勇者になるために生まれてきたんじゃなかったのか。これは自分が勇者になるための旅じゃなかったのか。子供の頃からずっと、その称号は己のためだけにあったのに。
「悪いけど候補者の条件が何かまでは知らんねん。ワシら番人にはただ見分けがつくだけや。勇者っちゅうのは異質やからな。人間とも魔物とも気配が違とる」
「……その気配がこれから成長してくるってことはねえのか?」
「ほぼないわ、そないな勇者会うたことあらへんし。なんやジブン、あの兄ちゃんのこと気にしたってるんか? せやな、ほんまにアンザーツの血を引いてるんやったら、今は力が眠っとるだけかもしれんけど」
 アラインはぴくりと肩を震わせた。思わず振り返った先でバールが羽を組みつつこちらを見つめている。やがて彼の視線は遠い遠いどこかを見つめるものに変わった。
「……魔王退治が終わった後、ここに剣を返しに来よったとき、アンザーツはちょおおかしなっててん。ワシの直感やけど、それが今こないに何人も勇者が生まれとる原因なんとちゃうかな。あいつもしかしたら自分の血筋に細工しよったかもしれへんで。仲間の賢者がそれ系の禁呪収集家やったし、なんや悲壮な顔で自分が最後の勇者になりたいゆうてたしなあ」
「どういうことです?」
「ワシにもようわからへんよ。神具返されたら神様に起こされへん限り強制的に百年眠り姫やもん。ラウダやったら何か知っとるかもしれんけど、あいつも首飾りの塔ほったらかしてどっか行ってもうたみたいやしな」
「ラウダとは、辺境の塔を守る聖獣ですか?」
「そうや。ラウダトレス・テンポリス・アクテイっちゅう仰々しい名前のやっちゃ」
「では今は首飾りの塔を守る聖獣はいないということですか?」
「まぁそうなるわな」
 ハルムロースは口元に手を添えて何やらぶつぶつ唱え始めた。持ち前の研究心で勇者の謎に近づこうとしているようだ。
 目線を少し後ろへ逸らすと黙ったままのクラウディアが見える。自分より彼の方が勇者向きだと讃えられたのは複雑だが、彼自身にはその気がなくてまだ良かった。席を譲ってもらえるかも、なんていうのは非常に情けない考え方だが。
 しきりにこちらを気にかけるマハトの態度は煩わしかった。今は庇護の対象になどされたくなかった。
 彼にそんな顔をさせるほど自分は傷ついて見えるのだろうか。
 わからない。考えがまとまらない。勇者に向いていない勇者の子孫ってなんなんだ。
「あ、そう言えばイックスって男があんたにそっくりな青い鳥を連れてたんだが……」
 戦士の呟きに「なんやて?」とバールが食いつく。話題は変わってもアラインの気持ちが切り替わることはなかった。
「それホンマか?」
「ああ、あんまり似てるんでちょっとびっくりしたくらいだ」
 ハルムロースもほうと息を漏らし興味深げにしている。クラウディアの関心もそちらへ向いたようだった。混ざれていないのは自分だけだ。
「イックスちゅうんはどんな奴なん?」
「黒髪黒眼の剣士だよ。魔法もかなりの使い手だった。紅いマントをつけてて、旅慣れた感じの冒険者だったな」
 バールが何も言わないので塔にはしばらく沈黙が降り立った。
 聖獣ア・バオ・ア・クーを倒し、神鳥の盾を手にしたイックス。その光景を思い出して苦しくなる。

「……なあ、ジブンらワシも一緒に連れてってもらえへんやろか?聞いとったらなんや色んなこと気になってきてかなわへんわ。大人しゅう引き籠っとる場合ちゃうんちゃうかって気がしてきたで」

 バールはぽりぽり頭を掻いた。聖獣はイックスと彼の連れている尾長鳥に思うところがあるらしく、アラインに「あかんかな?」と尋ねてくる。
「もし一緒に行けるんやったら、旅の中でジブンが勇者の資質持っとる思たときはもー真っ先に言うたるで? さっきも言うたけど、アンザーツのアホが自分の家系から勇者を出さんように仕向けた可能性もあるんやさかいな。その辺のことわかったら、もっぺんワシが診断したるやん!」
 その言葉でアラインの中に一縷の希望が舞い戻る。
 確かにバールの言うように、向いていないわけではなくて、取り除かねばならない障害があるだけかもしれない。アンザーツが何のためにそんなことをしたのかという疑問は残るものの。
「とりあえず根性無しに勇者は務まらへんとだけ言うといたるわ。イジケてんと、あんじょう気張りや? ほんまもんの勇者になろうっちゅーねんたら」
 励まされたのか貶されたのか、多分両方だろう。神鳥はアラインの周囲をパタパタ飛び回ると「もう勝手についてくで!」と荷袋に掴まった。









(20120601)