第六話 魔王の行進






 勇者の国で鉱山の採掘に駆り出されたのはアペティートの貧民層や属国フローム、エアヴァルテンの民だった。
 故郷にいるより腹は膨れるし、掘れば何かしら出てくるのはありがたいけれど、僅かな距離しか離れていない都には危険な魔法が眠っていると言う。
「おっかない話だぜ」
 海沿いに霞む、打ち捨てられた都を遠目に鉱夫のひとりがそうぼやく。
 魔法の正体が知れないため、結局アペティート軍も乗っ取った城に本陣を敷くのは諦めたそうだ。今あの都はもぬけの殻である。時々青銀羽の綺麗な鳥が飛んで行くぐらいだった。
「あぁ? おっかないってお前、あの話信じてるのか?」
「なんだよ?」
「ここの鉄鉱で空飛ぶ軍船を作ってるっていう話さ。んなもん作れるわきゃねえんだから、怯えるこたねえよ」
「……ああ、そっちの噂か」
 鉱夫は小さく息をついた。アペティートがこれでもかというほど大砲を並べた戦列艦でフロームに攻めてきたあの日、最早己の命運は尽きたと思った。もう二十年以上昔の話だ。その国がまた新しい兵器だかなんだかを作ろうとしている。
「本気で作ってると思うぜ、俺は」
 まさかと男は笑ったが、そのうち笑い話ではなくなるだろう。だって反撃を受ける心配のない空から悠々大砲を撃てるようになれば、ヒーナの気功師軍とて敵ではない。皆アペティートに従うしかなくなる。
 怯える鉱夫がいるのも、信じようとしない鉱夫がいるのも、仕方のないことだ。誰もあの帝王のひとり勝ちなど想像したくはない。
「……なぁ、今なんかあっちで光らなかったか?」
 と、そのとき目前の男が都の方角を指差して言った。
 己もそちらを見上げてみるが、風も雲も穏やかで変わった様子は見受けられない。
「光った? 何色にだ?」
「うーん、なんか赤黒いような……。けど見間違いかもしれねえ。なんせ俺たちずっと暗い穴の中だもんな」
 外は眩しくていかんと誤魔化すように男はかぶりを振る。作業に戻ろうと肩を叩かれ歩き出したが、なんだかずっと背後が気になり落ち着かなかった。
「ドリト島ではいよいよ戦いが始まったって言うし、俺たちこれからどうなるのかね」
「……さあなぁ……」






 ******






 ――生温い湯に浸かっているような、空中にふわりと浮かんで漂っているような、そんな感覚がしばらく続いた後だった。落下していく己を感じてアラインは唐突に目を覚ました。
 どさ、と決して軽くはない音が響く。掌に触れるのは細かい砂利と石畳。雑踏を行き交う人々の喧騒が鼓膜を揺らす。
 どこかの街の通りですっ転んだらしいことはすぐに理解できた。ただどうして自分がこんなところにいるのかは推測もできなかった。
 転んだまま見上げた景色は王都の街並みとよく似ている。だが祖国より建物の数は多かったし、城だけでなく教会まで豪奢で華やかだった。

「なんだここ……?」

 勇者の国や兵士の国、辺境の国でないのは確かだ。ついでに言うとアペティートでもビブリオテークでもヒーナでもない。雰囲気としてはアペティートに近い気はするが、あの国は帝都以外に大きな城を置いてはいないはずだ。とすればフロームかエアヴァルテンの線が濃厚か。その割にはなんだか街が賑わっているように見えるけれど。
(不景気そうには見えないよなあ……)
 アラインは立ち上がりきょろきょろ周囲を見渡した。大通りには露店や商店が立ち並び、店頭には物が溢れ返っている。威勢のいい客引きの声、楽しげな民衆、眺めていると自然に頬が緩んだ。
 とりあえずオリハルコンを紛失していないか確かめる。と、仄かな輝きが盾に収束していくのが映った。 そのときだ。
 一台の白い馬車がアラインの真横にぴたりとつけられた。間を置かず群青色の髪の男が飛び降りてくる。知的階級そのものといった眼鏡の魔術師――否、賢者か。

「その手の印は?」

 男はアラインの右手を掴もうとした。その男の右手にもアラインと同じ五芒星が刻まれていた。
 ――なんだこれ。どういうことだ。

「……っ」

 咄嗟の判断で飛び退ると男は忌々しげに眉を寄せる。
「どこでその力を手に入れたのか説明していただきたいだけです。こちらは王立魔法機関だと言っても承服しかねますか?」
「王立魔法機関……?」
 何のことだか本当にわからない。一体ここは何という名の国なのだ?
 キョトンとするばかりのアラインに業を煮やして男は再度掴みかかってくる。退くべきだろうかと風を束ねかけたところで突然明るい光が弾けた。

「……おやおや、これはこれは」

 目を瞠る互いの間に割り込んだのは小さな子供だった。ヒーナ風の長衣に丈の短い上着を重ね、布でできた帽子をかぶっている。顔や髪型は隠されていてわからなかった。アラインの半分ほどの身長しかないので少年だと思っただけだ。
「どうやら招かれざる客人のようですね」
 子供が首を横に振ると、男はそれ以上の言葉を飲み込み引き下がった。アラインに背を向けて、再び馬車に乗り込んでしまう。
 呼び止めるべきか逡巡する暇もなかった。五芒星について問う暇も。
「シュルトに力を与えたのは私ですよ」
 こちらの考えなどお見通しとばかりに少年が告げた。カラカラと馬車の遠ざかる音が響く。
 通りにはまだたくさんの人が行き交っていた。けれど不思議に誰にもこの子が見えていないようだった。
「……君が、あの男に?」
 ええ、と子供は薄く笑む。ごくなんでもないことのように。
「いずれ破滅を引き起こす力です。あなたからもその片鱗を感じるのですが、一体どこから迷い込んで来られたのです?」
「破滅って破滅の魔法? それだったら一時的に僕が抑え込んで……いたはずなんだけど」
 返答するうちに自信がなくなりだんだん声が小さくなる。
 そう、そうなのだ。自分はあの魔法に対抗して身体ごと飛び込んだはずなのだ。なのにどうしてこんなところにいるのだろう。
「それでは随分遠いところから来られたのですね。ここはまだ、その魔法が発動する前の時代ですよ」
「は……ええッ!?」
 ヒーナの気功師とそっくりな子供は到底信じ難いことを述べる。アラインは時空を越えて古い時代を訪れてしまったのだと。
 まさか。いやでもそれなら頷ける。海を臨む都、どこか懐かしい風の香り、ここがいつか勇者の都になる場所ならば――。

「封印が解けたということは、彼らの生まれ変わりのどちらかが再び魔法に触れたのでしょう」

 愕然とするアラインに事も無げに少年は語った。オリハルコンの栓が抜け、災いが顔を出した理由を。
 この子供こそ何者なのか正体が不明すぎるが、男に力を与えたということは元々彼が大賢者の資格を有していたのだろう。見た目の幼さで侮るわけにいかない。
「『彼ら』の生まれ変わり……?」
「ええそうです。いつも破滅を呼び覚ますのはあのふたり。それが彼らの宿命なので」
「……?」
 全然意味がわからない。しかしあちらも積極的に説明する気はないようだ。
 アラインに把握できたのは自分が過去へタイムスリップしてしまったということ、あのシュルトと呼ばれた男が破滅の魔法やヴィーダと関わっているということくらいだった。
 これは破滅の魔法を封じようとした副作用か何かなのだろうか?
 それともあの魔法自体に何か特殊な力がこめられていたのか?
 薬指のリングと神鳥の盾に思わずお祈りしてしまう。
 ……か、帰れなかったらどうしよう……。






 ******






 招かれざる客か、と気功師は独白を零した。炎と銃弾に荒れるドリト島を見下ろしながら。
 渡すべき力は受け取るべき者に渡した。後は彼らのさだめの行く末を見守るだけだ。
(それにしてもオリハルコンが『三つ』に砕けるとは……)
 本来あれは真っ二つに分かれるはずだった。今生ただの人間として生まれてきた彼らの助けとなるように。だがどういうわけか最後のひとつがヒーナへ飛び、皇帝レギの手中に収まっている。
(誰かが力を加えたようですね)
 破滅が甦ったあの瞬間、そっとやって来た何者かがいる。それは間違いない。オリハルコンを破壊できるような力を持ったイレギュラーが。
 おかげで真っ直ぐ流れていたものがあちこちで渦を巻き始めた。そんなことで免れ得る終末ではないというのに。
 ヴィーダとクライス――彼らの背負った宿命は転生の度にその強さを増すようだ。生まれた国を、大地を、根こそぎ死滅させる。そんな星に縛られた魂。
 シュルトとラーフェのときもそうだった。あの頃はまだ力が弱く、すべてを破壊するには至らなかったが。
「……見当はついていますよ。あなたは容易く尻尾を掴ませはしないでしょうが……」
 気功師は呟く。見えない何者かに対し。
 破滅の魔法はオリハルコンひとつ奪った程度ではどうにもならない。
 よしんば人間同士の争いを止められたとして、とどめを刺す道具が代わるだけだ。






 ノーティッツを乗せた戦列艦は一旦折り返し、アペティート大陸最西端に位置するドリト島監視基地に着艦した。
 何度もラウダと忍び込んだことのある基地だ。ここなら目隠しされていたって自力で移動できる。監視塔の地下牢に繋ぎ直される予定で船から降ろされたノーティッツは顔には出さずほくそ笑んだ。
(ドリト島までそう距離もないし、余裕で逃げられるな)
 船にいる間にハンスからはアペティート軍に関する情報を山ほど提供してもらった。信頼に値すべきデータかどうかは吟味すべきだが、収穫としてはまずまずだ。早いところここを抜け出して彼も家族の元へ送り届けてやりたい。

「おい、魔法使いの死体はこっちに運べー!」

 唐突に飛び込んできた不穏な台詞にノーティッツは息を飲んだ。魔法使いの死体――だと?
 ハラハラしながら声のした方を振り返る。たまたま強風が吹いたように見せかけ、目元を覆う薄布を飛ばした。
「……ッ!」
 アペティート兵が六人がかりで担ぎ上げている男は激しく見覚えのある白いコートを身につけていた。だが首から上にあるべき部分が残っていない。首なしなのだ。
 あまりのことに身じろぎしてしまい、後ろにいた兵とぶつかった。ノーティッツが狼狽したのを面白がるよう底意地の悪い兵が「研究所に引き渡すまで同じところへ入れてやろうか?」と笑う。
 ブルフの船だけが単独で基地に入ったのは、拾った魔法使いたちをより堅牢な施設に放り込んでおくためだったらしい。ディアマントもどこかで攻撃を受けたのだろう。魔法を使うところを見咎められて。
(ちょっと待て、逃げるどころじゃなくなってきたぞ……)
 縄を引かれてノーティッツは歩き出す。黴臭い地下へ一歩ずつ階段を下りていく。背後からはディアマントの足が無造作に引きずられる不協和音がこだました。
 どう考えてももう少しここに居残るべきだろう。あんな状態の彼を置いて逃げられるわけがない。
 それに己の予測が確かなら、これからちょっと楽しいことになりそうだった。
(ディアマントの不死の呪いって、まだ有効だったよね?)
 運の良いことにノーティッツとディアマントは同じ牢内に繋がれた。見張りは出入り口にふたり、鉄格子の前にひとり。しかし明かりの乏しさが手伝って、多少の動きなら勘付かれずに済みそうだった。
 ノーティッツはディアマントの心臓に手を置いてみた。なんとなく身体は冷え切っていて、脈も感じられない。
 次に手首に指を添える。やはり鼓動は感じられず、体温も普通よりずっと低かった。
 どれくらいそうしていただろう。五分か、十分か。静かに静かにノーティッツは光魔法を送り続けた。ツエントルムの呪いがまだ解けていないなら、これで復活してくれるはずだ。
(来た……!)
 どくんと脈が返ってきたのに笑みを噛み殺す。大きな掌に『Notiz』と名前を綴るとディアマントが緩く握り返してきた。
『敵の陣地内だ。まだ動かないで。わかったら人差し指を上げて』
 目線だけ下に向けるとディアマントは人差し指を上げている。これなら交信できそうだ。
『海沿いに高い煉瓦の塔が見える? それがぼくらの今いる場所』
 人差し指がこくりと頷く。いつもこれくらい素直なら付き合いやすいのに。
 しかし本当に、こんな状態でよくぞ生きている。ツエントルムの残した契約はそれほどまでに強力だったというわけか。
『ドリト島を陥落するならアペティートには欠かせない基地のはずだ。頭だけでも魔法が使えるなら、問答無用でぶち壊しながら身体を取りに来てくれる? 戦列艦が一隻停泊中だけど気にしなくていい。流石に自分の基地を攻撃はしないだろうから』
 ディアマントは今度は親指を立ててきた。任せろということだろう。頭と銅を切り離されて、プライドの高い彼が怒っていないわけがない。終わったな、アペティート。短い間だったけど世話になったよ。戦いの真っ最中に背中から斬り込まれたら、もうこの島での勝利は望めまい。
『あ、そうだ。ひとりだけ連れ出してほしい兵がいるんだけど……』
 ハンスのことを伝えるとディアマントは宙に何かを描くよう人差し指を振った。どうも「お前はどうする気だ?」と問いたいらしい。
『ぼくは混乱に乗じて通信室にお邪魔してくるよ。アペティートが作ってるっていう空飛ぶ軍船の情報が欲しいんだ』
 承知したとマルを作った指先はすぐに解かれ床に転げた。
 これからこの地で繰り広げられることを思うとアペティート兵が気の毒でならない。






 海中から飛び出すとディアマントは塩水を吐き出した。髪に絡まった海藻も、水浴び直後の犬のよう頭をぶるぶる震わせ振り払う。
 目が覚めて良かった。もう少しで深い海溝に沈むところだった。いくら死ぬことがないとは言え、頭だけそんなところに閉じ込められては敵わない。
 魔法は首だけでも唱えられるようだった。いつも空を飛ぶ要領でノーティッツから教えてもらった敵基地を目指す。物々しい雰囲気を醸し出す高い壁の向こうに塔が見えるので、多分あれだろう。
「うわあああああああああああ!!!!!?」
 付近を見回っていたと思しきアペティート兵がディアマントを見つけてすっ転んだ。ここはまだドリト島のはずだから、これから前線へ赴く兵かもしれない。
 ニヤリと笑って真空の刃を放つ。装備を分解された兵士は喚き叫びながら逃げ出した。
「ぎゃあああああああああ」
「なんだあれえええええええええええ」
「うわあぁぁぁおかあさあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!」
 ディアマントの通りすぎた道は阿鼻叫喚の様相を呈した。パニックに陥り銃を乱射する者、十字架に祈りを捧げ出す者、失神する者、笑い出す者、実に様々だ。姿を見ただけで戦意を喪失してくれるのはありがたかった。向かってくるなら殺さねばならない。できるだけそんな事態は避けたい。
 武器を狙ってディアマントは風を放つ。時々銃弾が頬を掠めたが、回復魔法がなくとも十分間に合った。身体が早く元の状態に戻ろうとしているようで、飛び散った肉片がすぐくっついてくれるのだ。
 こんなに長時間胴体と離れていても大丈夫なら、魔力切れなど恐れるに足りない。ビブリオテークとの交戦に備えているアペティート軍を見つけると、ディアマントは片っ端から遠慮なく魔法を撃ち込んだ。
「ヒイイイィィィィ!!!!!」
「ウワアアアアアアアアアア!!!!!」
「助けてええええええええええええ!!!!!!!!!!」
「ば、化物だあああああああああああああ!!!!!!」
 羽虫のように兵士たちは逃げ惑う。涙ながらに命乞いをする者まで現れる始末だ。
「ふん、どうせなら魔王と呼べ」
 鼻を鳴らしてディアマントは吐き捨てた。空中を蛇行しながらノーティッツのいる監視塔へ向かう。
「ふぎゃあああああああ」
「ひっひいいいいいいいいいいいいい」
 耳はすっかり絶叫に慣れてきていた。
 クラウディアが生首で飛んでくるより余程ましだと思うのだが、そんなに怖いだろうか。






 ヴィーダが指揮を執るという話だったのでこのままドリト島監視基地に腰を据えるつもりでいたのだが、どういうわけか皇子様は船上からいなくなってしまったようだ。「面倒くせぇな」とぼやきながらブルフは小隊を連れ陸に上がり、前線へと向かった。
 戦列艦には乗らなかった。元々ここであの船を多用する気はなかったし、ビブリオテーク側も対抗策を講じてきている。
 丘はおろか海まで凄まじい火勢だった。戦列艦が近づけぬようビブリオテーク側が水面に油を浮かべ火をつけたものらしい。資源の余っている国はやることが豪気でいいねと皮肉のひとつも言いたくなる。
(あんなに汚しちゃ漁業が大ダメージ食らうだろうに)
 「かわいそー」との所感とは裏腹にブルフの表情は緩い。
(こんな島ひとつ制するのに頑張っちゃってまぁ……)
 島の中心部を見下ろす高台まで来るとブルフは歩を止めた。部下のひとりが「行かないのですか?」と尋ねてきたので「ああ」と頷き返す。今回はあまり戦場へ近づきすぎると機を逸するのだ。すぐに基地まで引き返せるよう近くに高速船も繋いである。
「あの、ですが、兵は指示を待っているのでは?」
「一応皇子様がいなくてもちゃんと戦ってるみてえだし、俺から追加で指示することは何もないな」
「で、でもその、戦列艦の砲撃が届かず我々は劣勢で」
「だからそれでいいんだって」
「は、はあ?」
 狐に摘ままれたような部下の顔を見ているとなんだか笑えてくる。「行きたいなら行ってきていいぜ」とからかえば青くなって首を振った。まったく、世の中ひとりじゃ何もできない奴が多すぎる。
「ブルフ総司令!」
 戦況を眺めているのにも飽きた頃、生い茂った森から特殊部隊の女が現れた。こちらは単独でも任せたことはきちんとこなす優等生だ。
「任務完了しました」
「わかった。手に入れたものはどっちもすぐ使える形にしておいてくれ」
「はい。では先に戻らせていただきます」
 立ち去る部下に背を向けてブルフは再び戦場へと視線を戻す。ビブリオテーク兵とアペティート兵の割合は七対三というところになっていた。もうそろそろ潮時か。
「総司令!! た、た、大変です!!」
 残った兵に次なる命令を下そうと踵を返したときだった。血相を変えた一般兵がひとり森を走り抜けてきた。
 尋常ならざる恐怖の面に何か突発事態が起こったのを知る。「化物です」と涙ながらに兵は訴えた。
「な、生首の化物が監視基地に向かっています! 後方の上陸軍は壊滅状態です!!」






 耳を澄ませば怒号と悲鳴が響いてくる。思った通りディアマントは好き放題に暴れまくっているらしい。現在進行形で怪談を体験しているアペティート兵の混乱が如実に伝わり、少々、いやかなり腹がよじれそうだった。
「なんだ? 外で何かあったのか?」
 牢番が気を取られた隙をつき、ノーティッツは三人の見張りに空気の塊を食らわせる。みぞおちに一撃お見舞いされた面々は皆まとめて気を失った。
 さすがに檻を切り裂くほどの風は作れないのと、逃げ場のないところで燃焼系の魔法を使いたくないのとで、脱獄には土魔法を採用した。壁に穴を開け外へ這い出るとディアマントを背負いずるずる歩き出す。長身の筋肉男はやはり重かった。
 ノーティッツは監視塔を昇った。この最上階には通信室があるのだ。警備が厳重で今まで入れた例はないが、ディアマントを取り押さえるのに警備どころでなくなっている今がチャンスだ。
 何か記録があるはずだ。軍船の情報がなければ戦略に関することでもいい。軍事機密を入手できればアペティートの侵略行為を止める切り札になるかもしれない。
(それがぼくの仕事だもんな……!)
 戦争回避はできなかった。手は尽くしたが、予想外の魔法の出現には対応しきれなかった。ならば早々にこんなことは止めさせる。そうしてオリハルコンの捜索に全力を注ぐのだ。
「おい、魔法使いだ! 牢から出てきてるぞ!!」
 銃を向けてくる兵たちを風圧で吹き飛ばし、ノーティッツは二階へ上がった。小さな窓しか見当たらないのでまた土魔法で壁の一部を瓦解させる。すると丁度ディアマントが真下にやって来たところだった。
「おーい、身体放るぞ!」
「貴様、少しは丁重に扱……っ!!」
 久々に見る仲間の顔は良いものだ。幾週も離れていたのでホッとする。他のメンツが見当たらないのは残念だったが、まぁすぐに合流できるだろう。
「こっちはこっちで脱出するから、例の兵士だけよろしく!」
 身軽になったノーティッツは通信室へ急いだ。高いと言ってもこの塔は十階建てだ。死にそうになりながら登った剣の塔とは比較にもならない。五階ぐらいまで駆け上がったところで角を曲がってきた兵士とぶつかった。撃たれるか、と身構えたがぶつかった相手はハンスだった。
「ノーティッツさん!」
「ああ、ちょうど良かった。今そこに仲間が来てるんだよ。島に向かうなら彼に送ってもらってくれ」
 ノーティッツが外を示すとハンスはディアマントの暴れっぷりに怯える。生首と首無しがばらばらに兵士を追いかけ回す姿は自分から見てもホラーだった。
「あの、ノーティッツさんは上に行って何を?」
「通信室に用があるんだ。風を使えるからいつでも逃げられる、心配いらないよ」
「そ、そうですか……」
「さあ急いで、島から出てる煙が凄い。ハンナさんたちによろしく」
 ハンスはややためらうような素振りを見せたが、ノーティッツに頭を下げるとまた階段を駆け下りて行った。
 無事に家族と会えるといいけれど、会えたら会えたでまた大変だろう。ディアマントにちゃんと面倒が見れるだろうか。
 通信室に着くまでもう他の兵に会うことはなかった。もはや台風の目と化しているディアマントに呆気なく吹き飛ばされた者、恐怖に駆られとっとと基地から逃げ出した者、どちらかしかいないようだった。港の戦列艦は未だ沈黙したままでいる。三日月大陸チームの圧勝だった。
「さて……、と」
 後ろ手に扉を閉めるとノーティッツは紙で埋まった通信室を見渡した。大半は送信前のメモや資料のようである。ここから発信できるようなことなら自分の頭にも入っているので素通りした。
 欲しいのは受信記録だ。上層部向けに送られた作戦概要や今後の侵攻ルート。例の軍船についてわかれば言うことはない。
「科学技術だけでやりとりしちゃうんだもんなあ……」
 据え置かれた通信機を前にノーティッツは感嘆の息をついた。伝書鳩や人力郵送だけではないと睨んでいたが、まさかこんなものまで存在したとは。
 電波を受け取るとロールされた細い紙に暗号文が印字されて出てくる仕組みらしい。どうなっているのか推測も及ばぬ部品が他にも多数取り付けられている。
(すぐわかるところに大事なもの置きっぱなしにはしないか)
 一応周囲を点検しながら鍵のついた箱などないか探してみる。軍隊と言えど末端の管理などお粗末なものだ。特にアペティートの地方軍は新兵が多い。機密が一箇所にぶち込んであっても不思議ではない。
 期待値は高かった。そもそもこの部屋に兵のひとりも残っていないというのが無防備すぎる。本来通信兵のひとりやふたり配備しておくべきなのを、慌てふためいて空にするような連中ならきっと――。

『通信兵、応答せよ!』

 突如室内に響いた声にノーティッツは悲鳴を飲み込んだ。
 危ない。ぼくとしたことが手痛いミスを犯すところだった。なんと音声通信もあったのか。
『通信兵、いないのか?』
 上から何か別の音が被さっているように、声は酷く聞き取りづらかった。これでは自分の通信相手が本当に想定する相手かどうか正しく判断できないだろう。
 ふむ、とノーティッツは唇に人差し指を当てた。情報を引き出すにはまたとない機会だ。やってみる価値はある。
『通信兵、ハンス・ミトグリート! 応答せよ!』
(えっ? ハンス?)
 開きかけた口が止まった。名前を聞き間違えたのだろうか? だってハンスは通信兵などでなく小隊長だったはずだ。
 それとも同じ軍内にハンスという人物がふたりいるということか? だがミトグリートという苗字は確かにハンナ姉妹のものだ。
「ここにおりいます。申し訳ありません。通信を続けてください」
 なるべく声色を似せてノーティッツは返答した。通信機の向こうでは苛立った声が「持ち場を離れるな」と怒鳴り散らす。
(小隊長じゃなく通信兵……? 嘘をついてたってことか……?)
 こんな機械を扱う兵なら特殊部隊の括りに入る。場合によっては小隊長より格上だ。
 何か嫌な感じがした。ドリト島に家族がいて、どうしても助けたいと告げた言葉に偽りはないと思うけれど。
(でもそれじゃあもしかして……)
『ブルフ総司令に撤退指示は伝わったのか?』
 またしてもノーティッツの思考が停止した。
 ちょっと待て、撤退指示だと? いくらなんでも早すぎる。まさかもうディアマントによる被害が報告されたわけでもあるまいに。
 監視塔から望遠レンズを覗き込めば戦列艦はまだ殆ど無傷で浮いていた。陸上ではビブリオテークが優勢のようだが、それだけでドリト島の覇権を譲るのは早計に過ぎる。大砲を撃ち込むチャンスにさえ恵まれれば一気に形勢逆転できるだろうに。なのに撤退とは一体?
『どうした? 答えろ! 聞こえないのか?』
「あっ、はい! 伝わりました。前線の船が戻ってきています。撤退が始まっています」
『そうか。ならばいい』
 通信はそこで一度途切れかけた。気がつけばノーティッツは「あの!」と見知らぬ偉そうな軍人を呼びとめていた。
『……何だね?』
「あの……、新しい船はどうなっていますか。総司令が気にかけておられたので」
 沈黙が僅かな時を支配する。
 ごくりとノーティッツは喉を鳴らした。
『……順調だよ。飛行艇で空を飛ぶ日が楽しみだ』
 その返事ひとつで撤退の意図は理解できた。彼らは最初から負けたフリをするつもりだったのだ。アペティート西端部の荒廃は他地域と比べても極端に酷い。普通は自国が戦場になるのを嫌うが、あの国の帝王ならそこに罠を張り待ち構えることも十分に考えられた。
(燃料消費の激しい戦列艦はなるべく温存しておこうって腹だな。領土に踏み入らせるような策を採るからには、飛行艇とやらも完成に近いんじゃ……)
 知らせなきゃ、とノーティッツは立ち上がった。さほど性能のいい戦列艦を持たないビブリオテークはおそらくドリト島を拠点に陸路でアペティートを落とそうとするはずだ。
(ん?)
 ゴミ箱らしき木箱を見つけたのはそのときだった。捨てられていたメモに「魔法使い」という単語を見咎め足を止める。どうやらそれは何者かが筆談した痕跡のようだった。
 ――声を出すな。
 ――あの魔法使いは船内の会話を盗み聞きしている。

「……」

 ディアマントは飛び去った後なのか、基地はすっかり静まり返っていた。自分もさっさと出て行くべきだ。わかっているのに何故か足が動かない。
(……。ドリト島からこの基地まで、最速何分で帰ってこれるっけ……)
 ノーティッツは壁に手をついた。ドアからではなく建物を破壊して逃げるべきだと直感が告げていた。
 戻ってきている。扉の向こうに、あの男が。
「ッ……!!」
 魔法を発動するよりもドアが蹴り開けられる方が先だった。銃撃に対し身構えたノーティッツのすぐ横に、まったく違う何かが放られる。重い荷物を降ろしたときとよく似た音が低く響いた。

「……ニコラ……?」

 少女は泡を吹いて倒れていた。長居しすぎたことを悟るにはそれで十分だった。






 頭と身体はこれで無事に元通りだ。砲撃から誰かを守らねばならないのでなければ戦闘も魔物相手よりは楽だった。ノーティッツの言った通り、戦列艦は沈黙を保ったままでいる。打って出るより防衛の方がはるかに難しいのだなとディアマントは痛感した。
「助けて、来ないで!! ひいい!!!!」
「かっ怪物めえええ!!」
 散々な言われようにうんざりするが、残念ながら人間だ。アペティートの男より頑強なつくりをしているというだけで。
「散れ」
 ぼそりと呟きディアマントは風を放つ。基地の破壊はほぼ風魔法で行った。武器が使いものにならなくなれば兵士たちは向かって来なくなる。隠れられそうな壁や壕を崩してしまえば我先にと退いた。
 他国に土足で踏み入り人を殺すような連中に、こんな対応では甘いのかもしれない。腕の一本くらいもいでおくべきかと思わなくはなかった。しかしそんな気になれないほど相手にした連中は非力だった。
(弱いくせに何故争おうとするのだ)
 解せん。心底解せん。
 首を切られた怒りはとうにおさまって、代わりに嫌に重い溜め息が胸でつかえた。
「も、もうそれ以上基地を崩しては……!」
 どれくらい暴れ回った後だったろう。そう言ってディアマントを羽交い絞めにしてくる兵士がいた。
「あまり土台を崩しすぎたら、ノーティッツさんのいる塔まで倒壊してしまいます」
 潜められた声に目を瞠る。成程この男が例のハンスか。
「そうか、ならこの辺にしておこう。貴様は家族のところへ連れて行ってほしいのだったな? そのまま背中に掴まっていろ」
 返答も聞かずディアマントは宙に浮いた。何十メートルも上空へハンスを背負い一気に飛び上がる。
 ドリト島のどこへ向かえばいいか問うが、男はあまりの高さに気が遠くなっているようだった。
「おい、しっかりしないか。私はあの島の地理はわからないんだ」
「は、はひ」
 ハンスの指差した島の中心部は火の海だった。焼け野原になっている丘もひとつやふたつではない。
 煙を避けて飛んでいるつもりだったが焦げ臭さに何度か咽た。アペティートの軍服を着た兵たちはどうやらこれ以上の交戦を諦め引き返し始めているようだ。ディアマントが基地や補給部隊を攻撃した成果だろうか。
 少し遠くへも目をやった。周囲の小島では現地住民らしき民間人が息を潜めていた。小舟に乗ったビブリオテーク兵がそちらへ向かっているのも見える。
「あ、あそこです。見えました。もうここで降ろしてください」
 ハンスは引き上げてくる兵の一群を示して言った。島民の避難している方角とはまったく正反対のところだ。捕虜にでもされたのか、女が三人不安げな顔で兵士に囲まれ前線から逃れてくる。地上に降ろしてやった途端、ハンスは一心不乱に走り出し「母さん! 姉さん! ロジーナ!」と家族の名を大声で叫んだ。
 四人は再会を喜んで抱き合った。しかし周囲の兵士の目はあまり温かいものではなかった。
 森の影からその様子を見守りつつ、ディアマントは違和感に顔を顰める。
(……戦闘に巻き込まれる前に連れ出したいのではなかったのか?)
 ノーティッツから詳しい事情を聞いているわけではないのでわからないと言えばわからないのだが、何か変だなという気がした。彼の一家以外にはアペティート兵が保護した住民はいないようだ。
「……」
 ハンスはちらりとディアマントに目配せしてきた。兵に見つかる前に行ってくれということのようだ。
 こちらとしても敗走兵にとどめを刺すつもりはない。アペティートがドリト島から手を引くなら、エーデルたちと合流してオリハルコン探しの続きを始めるだけだ。
(……あの女のことだから住人を守って前線で戦っていたのだろうな……)
 燃え盛る島を見て、更に落ち込んでいなければいいのだが。
「行くか」
 ディアマントは黄金に光る翼を広げて飛び立った。
 案じていたノーティッツも元気そうだったし、いつでも自力で脱出できると言っていたから放っておいて平気だろう。






 声をかけると少女はピクリと反応を示した。何か強い毒に蝕まれているようで、しきりに全身を震えさせている。
「ノー……ティ……ツ……」
 ノーティッツはニコラに駆け寄り使えるかぎりの光魔法を順番にかけていった。傷を癒す魔法と毒を消し去る魔法は別物だ。そもそも簡単な治療程度が関の山である自分に正体もわからぬ毒の処置などできるわけない。それでも瀕死の彼女を前に、何もせずにはいられなかった。
「解毒剤は?」
「次に寄る基地にあるんじゃねえ?」
 ブルフはにやにや胸糞の悪くなる笑みを浮かべ、こちらににじり寄ってくる。余裕たっぷりの歩調にはらわたが煮えたぎった。けれどここで交渉に失敗すればニコラを助けられない。唇を噛み、ノーティッツはブルフを睨みつけた。
「ノーティッツ・フライシュ。兵士の国の参謀長で第三王子の筆頭従者ねぇ。当たり引いたなとは思ってたが、結構偉かったんだなお前」
 読み上げた資料を抽斗に押し込むとブルフは棚に凭れかかる。
「二年もドリト島で諜報活動に明け暮れてたなんざご立派なこった。近所にうちのスパイも住んでたって知ってた?」
 得意げに問うとブルフはおかしそうに笑った。そんな煽りに応じるゆとりは生憎ノーティッツにはなかった。
 体力を回復させる魔法をかけっぱなしにしているが、ニコラは弱っていく一方だ。腕に抱えた小さな身体は酷く熱く、目は焦点を結んでいない。解毒剤を与えてやれるまでもつのだろうか。人質が彼女しかいないならここで殺すはずないと思うが。
「ドリト島にはこれが欲しくて行ったんだよなぁ」
 コンコンとブルフの指が棚を小突くと軍医らしき女が通信室に入ってくる。無言で黒い鞄を開くと女医は薬品の入った注射器を取り出した。
「……」
 ニコラを抱いて逃げ出しかけたノーティッツを引き留めたのは「人質ひとりだと思う?」というブルフの声。
 立ち上がることなく足は止まった。現状を打破する方法を必死で考えるのに、何も思い浮かばない。逃げる方がましか逃げない方がましか。ディアマントが来ているのならエーデルとクラウディアも近くにいるはずだ。クラウディアならニコラの毒を取り除けるかもしれない。
 だけど回復魔法と風魔法を同時に操るのは不可能だ。まして今度は本当に捕えてきたであろう人質の救出など。
 医者の手が無遠慮にノーティッツの腕を掴む。針の先が血管に押し当てられる。
「……っ」
 ドリト島の森の奥では変わった植物が採れるのだ。幻覚作用の強いもの、中毒性の高いもの、使い方によってはじわじわ人格を破壊するような代物も。
 くらりと襲った目眩にノーティッツは額を支える。瞬間、ニコラが苦しげに喘ぎ出した。光魔法の構成が乱れたのだ。
「……っしっかり、……ニコラ……」
 ぎゅっと目を閉じ治癒だけに専念する。そうでなければ魔法が途切れてしまいそうだった。
「肌の黒い捕虜だとこっちも罪の意識を感じなくていいね」
 ブルフは暢気に鼻歌など口ずさんでいる。頭の奥で下手くそな旋律がガンガン響いた。
「お前みたいに頭回る奴と化かし合いするのは好きだぜ。大人しくしてんのは船の中探ってるからだろうなって最初から予想はしてたんだ。魔法のことはわからねえが、とっ捕まった奴の思考ならわかるしな」
 声はゆっくり遠のいていくようだった。浅い呼吸が自分のものなのかニコラのものなのかもうわからない。ちゃんと彼女を抱えてあげているのかも。
 どこで読み間違えたんだ。ハンスの顔が脳裏に浮かぶ。でもあまりはっきりと思い出せない。
「人質がいないってこともすぐばれそうだと思ってな。お前が船から逃げないようにどうしたかわかる? こっちの情報引き出せる『お友達』ができたらさあ、欲が出てギリギリまで居座ろうかなと思うだろ? だからハンスには家族の安全と引き替えに頑張ってもらったってわけ」
 他人を詐欺にかけたいときは真実を半分混ぜろ。あれは何の本に書いてあったんだっけ。
 彼を疑っていないわけではなかった。でもたとえ罠だとしても大した実害にはならないと――そう、見くびったのだ。魔法さえあればこちらが優位だと。
 どうしてもっと早く気づかなかった。
 監視塔ですれ違ったとき、ハンスはあんなに早く逃げろと言いたげだったのに。通信室にも筆談の跡を残してくれていたのに。

「――……」

 真っ暗だ。目が開かない。
 指先の感覚がなくなっていると自覚する前に、ノーティッツの意識は闇に沈んでいた。






 ******






 ベルクたちがドリト島に着いたのは大方の戦闘が終わった後だった。
 ラウダに旋回してもらい、アペティート軍が完全撤退する様を見届ける。二年暮らした島の風景が一変しているのに胸を痛めながら。
「ベルク……? ああ、ベルクだぁー!!」
 丘に降りるとそこら中ビブリオテーク兵ばかりだった。見たこともない聖獣に乗って登場したため大注目を浴びている。おかげでひとり見知った顔がこちらを見つけてくれた。
「おお、無事だったかニコル」
 飛びついてきたのはご近所の男児だった。武器を構えて珍客を取り囲んでいた兵士たちも、それでこちらがアペティート側ではないと断じてくれたようだ。
「あの連中のお仲間か?」
 兵のひとりが顎で示した崖下を覗くと、エーデルが竜の翼をこれでもかと言うほど広げて何やら大声を出していた。
「アペティートとかビブリオテークとか関係ないわ!! 島の人に乱暴するならあたしが相手よ!!!」
 相当暴れたのだろう。彼女を宥めようとするビブリオテーク兵は武器を捨て降伏のポーズまで取って間合いを計っている。エーデルの背中には震え上がった現地住民たちがいた。
「アペティート軍は撤退した! 我々もこれ以上島をどうこうする気はない。どうか収めてくれ!」
 比較的地位の高そうな坊主頭が歩み出てきてエーデルに告げる。すると彼女はきょとんとした顔で辺りを見回した。どうやら戦闘が終わっていることにようやく気づいたらしい。
 今度はクラウディアが坊主頭の軍人に尋ねる番だった。
「島民の処遇はどうなさるおつもりですか?」
「……島には簡易の基地を作る。悪いが本国に送還させてもらうよ」
「ビブリオテーク人だけは、ということですか?」
「……」
 エーデルは白い肌の島民を庇うよう拳を構えた。坊主頭は下睫毛をいじりつつ、「フゥ」と短く嘆息する。
「アペティート人を捕虜にする気はないと言えばいいか? 連れて帰ればその方が悲惨な目に遭う。オレはそういうのが嫌いでね」
 その辺の小島にいてくれる分には構わないと男は付け足した。あまり解決になっていない気もするが、ビブリオテークが島を占領してしまうならそれが最善ではあるのだろう。兵士の国がビブリオテークと同盟を結んだ手前、ベルクに言えることは何もなかった。
「肌の色なんかで何が……!」
 なおも憤慨するエーデルの後ろで白いコートが風になびいた。焦げた森から現れた男が呆れた口調で問いかける。
「また頭に血が昇っているのか?」






 いつものように話しかけたつもりだったのに、彼女の方はそう思わなかったらしい。エーデルはディアマントの姿を認めると、幽霊にでも会ったかのようパクパク口を開閉した。何故ディアマントがここにいるのか心底わからないという表情だ。
「なんで、だって、あなた首が飛んで……」
 わけがわからないと困惑する彼女にクラウディアが「不死の契約、忘れたんですか?」と耳打ちする。ああっとエーデルは口元を押さえた。
「……まさか死んだと思っていたのか?」
 いくら三年も前の戦いとは言え綺麗さっぱり忘れているとは信じ難い。この肉体が何度ツエントルムに切り刻まれたと思っているのだろう。
 馬鹿者め、そう続けようとしてディアマントは言葉を失った。
「良かったぁ〜〜……」
 安堵の声を漏らしながら胸に頭を押しつけるエーデルを、黙って見ているしかできなかった。
 ぽろぽろと温かい涙が服を湿らす。いつの間にやら彼女は翼を畳んでいた。
 視線を逸らせば根っこに土のついた大木が転がっている。これはきっと彼女がひっこ抜いて振り回したのだろう。細腕のくせに怪力だ。今しがみついてきている腕にそこまでの力は感じないけれど。
「…………」
 クラウディアが複雑そうに苦笑いしているのがわかったが、早く離れろとは言えなかった。存外嬉しいもののようだ。案じられるということは。

「めっずらしい組み合わせでイチャイチャしてるな」

 投げかけられた言葉に、先に我に返ったのはエーデルだった。
「えっ!? あっ、ベルク!? いつこっちに!?」
 パッと彼女が離れた途端、冷える温度に息をつく。
 崖の上からラウダとベルク、それとツヴァングが降り立った。
「さっき着いたんだ。オリハルコン見つかったか? どうだった?」
「すみません、ヴィーダには会いましたが逃げられました」
「気功師って名乗る賢者にも会ったわ。そいつがヴィーダに大賢者の力を渡してしまって……」
「賢者?」
 ベルクとツヴァングが同時に素っ頓狂な声をあげる。「詳しい説明は落ち着いてからに」というクラウディアの提案にふたりは頷き振り返った。
 ビブリオテーク兵はもう島民の移動と基地の設営を開始していた。指揮官らしき男が住民に手荒な真似をしないよう部下に言い含めているのが見える。準備が整えば彼らはまたアペティートに進軍を開始するのだろうか。
「そう言えばあの小僧がいないな。そろそろ脱出してきてもおかしくないのだが……」
 ディアマントがノーティッツと会った話をすると、ベルクが「何!?」と血相を変えた。エーデルたちも驚いたようだ。
「ではどこかわかりやすいところでお待ちした方がいいかもしれません」
「ん、じゃあ俺らの家で待とうぜ。無事なら様子見に来ると思うからよ」
 ベルクがドリト島で暮らしていたという木造の平屋は半分燃えていたものの半分はほぼ無傷で残っていた。柱の内部に呪符が仕込まれており、衝撃や熱に強くしてあったらしい。
 簡単に食事を済ませた後、クラウディアは船上で出会った気功師とヴィーダについて語り出した。
 神出鬼没の謎の男と賢者の印の五芒星。この戦争には何か面倒なものが絡んでいると確信が深まる。
「おそらくですが、ヴィーダはビブリオテークに恋人を探しに行きました。追いかけなければならないでしょうね」
 神妙に皆頷いた。
 結局その日、ノーティッツが姿を見せることはなかった。






 ******






 しょうがねえなとぼやくベルクに神鳥が寄り添う。兵士の国の勇者は昨晩一睡もせず幼馴染の帰りを待っていたようだった。眠れなかったのはディアマントも同じだが。
「あの男のことだ、わざと居残っている可能性もある。心配しすぎるな」
「ああ、どうしても俺に迎えに来させたいらしいわ」
 合流さえできれば全員でヴィーダを追うつもりだったのだが、ベルクたちはノーティッツ救出を優先するようだ。オリハルコンのことは一旦こちらに任せると頼んできた。
「……わたしもベルクさんたちとご一緒した方が良いでしょうね」
 嘆息と共にクラウディアが呟く。髪を梳かしていたエーデルは櫛を落とし、目を点にして恋人を振り返った。
「ど、ど、どうして!?」
「ビブリオテークに入るにはわたしは白すぎます。ディアマントのように空を飛べるならまだしも、わたしが同行するせいであなたに危険が増えると思うとどうしても……」
「あ、あたしクラウディアと別行動なんて!!」
「わたしだって離れたくありません。一晩全体最適を考え抜いた結果なんです、エーデル」
 クラウディアは本気で恨めしそうにディアマントを仰ぎ見る。生首の恐怖などこの弟の氷の視線と比べれば本当に大したことではない。改めてそう思う。
「……お任せしますけど、わかってますよね?」
「……ああ……」
 十本くらい釘を刺された気分でディアマントは返事した。
 昨夜エーデルが寝入ってからのことだ。ディアマントは僧侶に呼び出され丘の上まで歩いた。何か文句は言われるだろうと思っていたから意外ではなかったが。
 ――抱きしめ返すかと思いました、と。月を見ながらクラウディアは言った。少し不安の滲んだ声で。
 ウェヌスはベルクの額に口づけただけでツエントルムとの契約が切れたのだ。ディアマントの契約も、おそらくその程度のことで失われる儚い呪いなのだろう。
 気をつけなければ長い長い彼女の寿命に付き合うことができなくなる。そんなことは言われなくとも百も承知だ。
(……本心をひた隠しにする運命なのかもしれんな。我々親子は……)
 ギリギリまで父と名乗ることのできなかったオーバストを思い返してディアマントは拳に力をこめる。父にできて息子にできぬ道理はない。約束通りこの先も自ら彼女に触れることはないだろう。
「ということは、エーデルさんとディアマントさんがビブリオテーク、おれとクラウディアさんとラウダさんがアペティートってことですね。ご一緒できて光栄です、司教様!」
「おい、俺を忘れてるぞ」
 ツヴァングはベルクに対しまだ険悪な感情を引き摺っているようだった。
 口を開けば喧嘩ばかりしていた昔の自分とエーデルを思い出し薄く微笑む。

 ――変わりましたよね、兄さん。

 普段は呼び捨てにするくせに、弟は時折ディアマントを兄と呼んだ。それが強がろうとして強がれないときだと気づいたのはいつの頃だったろう。
 本当は喉から手が出るほどクラウディアはこの長い命が欲しいのだ。
 だからこそ弟の分まで、一時の感情で手離すわけにいかない。







(20121108)