――普通じゃねえ、普通じゃねえ、普通じゃねえ。なんなんだこの魔物の多さ!!
 叫び出したい気持ちでベルクは最後の敵を斬り倒し、石床に転がった。ぜえ、ぜえ、と肩で息を繰り返す。杖代わりの剣の支えがなければ起き上がることもできなかった。
「大丈夫ですか、ベルク?」
 癒しの魔法が振りかけられ、傷の痛みがすうっと引いていく。ウェヌスの豊かな魔力と回復魔法がなければ既に野垂れ死にしていたかもしれない。僧侶として教会で修行を積ませておいて本当に良かったと、心の底からそう思った。
 今現在ベルクたちは剣の塔の推定十五階にいる。外観で確認した際には三十そこそこのフロアがあったので、そろそろ中間地点というところだ。
 剣の塔に着くまでも紆余曲折の道のりがあった。何しろ塔は深い谷底に位置しており、ベルクたちは急斜面の崖を下らなければならなかったのだ。オーバストだけは悠々と半透明の翼を広げていたが、ベルクたち人間チームには兵士の国の男としての意地があった。
 いや、本心では「ひとりひとり抱えて降りてもらいてえなー」と冗談抜きに思っていたのだが、例によってウェヌスの「ベルクにそんなもの不要ですわ!」のひとことで非常に言い出しにくくなったわけである。
 そうして天界の力に頼ることなく何とかここまで来たのだが、この塔ときたら出てくる魔物の数が異常なのだ。妖獣発生装置でも置いてあるのかというぐらいわんさか新手が湧いてくるので、ベルクたちはできるだけ同じ場所に留まらないよう上へ上へと急いでいた。
「おい、動けるか?」
「……なんとか」
 ベルクより体力の低いノーティッツは屍状態だ。八階に差しかかったあたりで「魔法もう無理」などと匙を投げていたので限界は突破して久しいと思う。が、風の流れを読んで階段を見つける早さとその精度だけは段々上がっていた。人間生き死にが関わると悪環境にも適応してくるものらしい。その生命力には素直に感心した。
「あのー、私もお手伝いしますけど……」
「オーバスト! 同情は要りませんわ。私たちは私たちの力でやり抜くと決めているのです!!」
 四人の中で一番元気なのはほぼ何もしていないオーバスト、次いでテンションの落ちる気配のないウェヌスだった。天界人という生き物はどういう肉体構造をしているのだろう。彼らふたり、特にウェヌスは疲れるということを知らないのではなかろうか。
「うーん、それではせめて先見だけでも務めさせていただきますね」
 困り顔のまま返事も聞かずオーバストは飛んでいく。ベルクたちも慌てて追ったがあっちは飛行移動でこっちは徒歩移動だ。追いつくには時間がかかった。
「あ、大丈夫ですよベルク殿。階段まで何もいなさそうです〜!」
「もう、オーバスト! いきなりあんな速度で進んだりしてはパーティの迷惑です! ベルクたちは疲れているのですよ!」
「申し訳ございません、ウェヌス様。以後は気をつけます」
「必ずそうなさい!」
 振り返ったオーバストの頬に返り血がついていても、明らかに火魔法の名残である白煙が充満していても、ベルクとノーティッツは決して突っ込もうとしなかった。寧ろアイコンタクトを取って頷き合う。ウェヌスが気づくまでは黙っていろよと。
 オーバストが先行してくれるようになってから戦闘の回数は格段に減った。足音に交じって時々何かの断末魔が聞こえたが、多分風の音だろう。きっと風の音に違いない。



 更に登ること十数階。快調だったオーバストにも疲労の色が見え始めた。ノーティッツ曰く、短時間で決着をつけるため上級魔法を連発しているのだろうとのことだ。これで元気なのはウェヌスひとりになってしまった。
(しっかし、やっぱり女神様なんだな)
 ウェヌスとて戦闘に参加していないわけではない。補助魔法は存分にかけてくれるし、終わったら終わったで回復を一手に引き受けている。元々の魔力が無尽蔵に近いのだろう。そこに人間と女神の純然たる差があるわけだ。
「ああ、なんだか調子が上がってまいりましたわ。やはり天空に近づけば近づくほど空気が清浄になりますものね……!」
 あんなことを言って更に活力を漲らせているし、本当に底なしだ。対するベルクとノーティッツはゲンナリしながら先を急いだ。オーバストが群がる敵を蹴散らしてくれているおかげで気力と体力は回復しつつある。だが往路があれば復路もあるのが道理である。あまり考えないようにしていたがいつまでも目を逸らしてはおけないだろう。これはもう、我々の旅はここでジ・エンドなのでなかろうか。
「入り口に簡易転送の呪符貼りつけてきてるから、安心しろ。帰りは一本だ」
「……! 頼りにしてるぜ相棒!!」
「アホほど高かったけど買っといて良かったよ。アホほど高かったけど」
 持つべきものはやはり頭の回る友人だ。こいつを旅に連れて行こうと考えた奴は本当に偉い。まあ俺だが。
 などと考えていると、急にオーバストとウェヌスが立ち止まった。どうかしたのか問おうとしてベルクもぴたり歩を止める。
 純白の階段が正面に現れていた。今までの石造りのものとはまったく様相を異にする、緩やかなカーブを描く階段だ。
 細い手摺には濃い緑の蔦が絡まり、光を反射するステップはいっそ神聖なほどだった。よもや武骨な我が国にこんな麗しい建築物があろうとは。
「……最上階ですわ。まあ、なんということでしょう! 天界と同じ空気がここまで……!!」
 涙ぐむウェヌスの横顔に一瞬ギクリとした。このまま彼女が天空へ帰ってしまうような気がして。もしそうなったとしても、別に何か困るわけではないのに。
「行きましょう、ベルク殿。勇者の剣を手に入れるのです!」
 オーバストに促され、ベルクたちは最後の階段を上った。そこには幻想的な風景が広がっていた。
 雲が目線より下にある。こんなに登ってきただろうかと疑うほど地上は遠かった。床は白すぎる大理石、屋根はドーム状の蓋、両者を繋ぐのは五本の太い円柱のみで、隙間を塞ぐ壁はない。
「なんと美しい神殿でしょう……」
 こんな場所でウェヌスを見ると心なしか神々しく感じられるから驚きだ。ベルクは女神の脇を擦り抜け、中央に誂えられた祭壇へ足を向けた。
 強い力がビシビシ肌に伝わってくる。鞘にも柄にも鳥の意匠が彫られているし、ここにふんわり浮かんでいるのがきっと神鳥の剣なのだろう。
(けど確か、勇者の装備ってそれを守る番人かなんかいるんじゃなかったか?)
 警戒しながら手を伸ばすと前触れなしに突風が吹いた。祭壇から吹き飛ばされ、ベルクは床を転がる。すぐに受け身を取ったので大したことはなかったけれど。
「ベルク!」
 ノーティッツがショートソードを構えるのが見えた。オーバストもへろへろの身体に鞭打って魔法を放つ体勢に入っている。
 そうして旋風の真ん中に鳥獣の影が出現すると、女神らしい威容を持ったウェヌスの声が広間に響き渡った。
「聖獣ハルピュイア……!!」



 聖獣の周囲に渦巻いていた風は次第に緩やかなものとなり、ハルピュイアがベルクたちの前にその姿を見せつける。デデンと横幅のあるずんぐりした胴体、特に締まりのない腹部、丸みのありすぎる平べったいくちばしと左右が妙に離れた逆三角形の双眸。鳥は鳥だが青銀の羽は中ほどまで肥えていて、足もかなり短い。
(こ、これは……!?)
 ベルクは身震いした。聖獣の名を冠する神の御使い。であるにもかかわらず、こいつはなんて――。

「不細工だ……!!」

 率直な感想を漏らした瞬間「ぼひゅえりぉぐぐおおむ!!!(※訳不能)」とハルピュイアが雄叫びをあげた。そして凄まじい勢いで片翼が振り降ろされる。パーン!という小気味良い音がフロア全体を振動させた。
 ごく単純な一閃だったため避けるのは造作もなかったが、信じられないものを目にして再びベルクは目を瞠った。
「あいつハリセン持ってんだけど!?」
「ハルピュイアはお笑い好きなのですわ!! 喜劇と寸劇をこよなく愛し、そのあまりの熱中ぶりに呆れたお父様に地上へ落とされたと言われているのです!!」
「天界アホばっかりかあああああ!!!!!!」
 ベルクの叫びの意味は多分ウェヌスにはまったく伝わっていなかった。実際ウェヌスはキョトンとしていたし、「ハルピュイアはとても利口で、三桁かける三桁の計算ができるんですのよ!?」などとほざいていた。どこの動物ショーの話だ。
「びゅっひゅぃりい……!」
 しまった騒ぎすぎたとベルクは舌打ちした。聖獣の視線は完全にこちらを向いている。ベルクは女神を後ろに庇うよう両手に剣を構えた。仕掛けてきたその瞬間が狙い目だ。ハルピュイアは大振りだから、懐に飛び込めば確実に一撃入れられる。
 そう身構えていたら聖獣はおもむろにベルクから顔を背けた。その仕草はなんというか、こちらを敵と見なしていないというか、はなから相手にしていないというか、「お前はお呼びじゃない」ということをまざまざ主張するようで――ともかく神具の番人が勇者に向ける代物ではなかった。
(ハア? 舐めてんのかこいつ?)
 この時点でベルクはかなり立腹していたのだが、ここから更に腹の立つ事態に進展する。
「げるふゃっくりゅひゃあああ!!!」
 ベルクたち四人をじっとり眺め回した後、ハルピュイアはオーバストに狙いを定め攻撃を繰り出した。その奇声とハリセン捌きに竦んでしまい、天の青年が後ずさる。雷魔法で対抗しようとしていたようだが、それは一歩間に合わなかった。
「うわ……っ!!」
「オーバストさん!!」
 ノーティッツが駆け寄るとハルピュイアは幼馴染にもハリセンをかました。相変わらずベルクは無視され続けているのに、彼らふたりを睨む聖獣の陰鬱な目つきときたらどうだろう。凄まじく不愉快な予感がしたが、ベルクは敢えて心を落ち着け聞いてみた。
「なあ、あいつ何基準で狙う相手決めてる……?」
「ハルピュイアは嫉妬深いので、顔の良い男性から攻撃するのですわ!」
「いい度胸してやがんなああああ!!!!」
 頭の中で何かが切れて、気づいたときにはもう剣を叩き降ろしていた。ハルピュイアの皮膚はかなり強靭だったが、この怒りに貫けぬものはない。顔立ちを馬鹿にされて切れたのか、天界の緩すぎるノリに切れたのか、どちらだったのか定かではないが。
「ひゅああでゅ!」
 が、ハルピュイアにとってベルクの一撃は大ダメージというほどでもなかったようだ。左右にピンと羽を伸ばして駒のように回転すると聖獣はあっさりベルクを振り払った。動きの軽やかさからしてかなりタフそうである。動けるデブか、持久戦になるなと直感した。
「サポート頼むぜ、ウェヌス!」
 光魔法の種類は豊富で、傷を癒す以外にも防御力を高める魔法や敵を眠りに誘う魔法がある。こくりと頷きウェヌスはベルクに杖を掲げた。透明な鎧が己を包んでいる感覚が生まれる。これなら多少の痛みはやり過ごせそうだ。
 ベルクが次の攻撃を仕掛けたときにはオーバストとノーティッツも体勢を整え直しており、それぞれ魔法と剣でハルピュイアに立ち向かっていた。オーバストの呼んだ天雷がハルピュイアの背中を撃つ。不細工聖獣もこれには虚を突かれたようだ。ただでさえ面白い顔面を更に歪めてのたうち回る。
 だがイケメンに攻撃されると闘争本能が刺激されるのか、直後は怒涛の反撃に遭った。床を抉り取るほどのパワーで翼が叩きつけられる。オーバストは天界製の長剣でそれを受け止めようとしたが、押されているのは明らかだった。そこに聖獣の長い尾が鞭のようしなりをきかせ、容赦なく襲いかかる。オーバストは吹き飛ばされて柱の間から空へと投げ出された。
「オーバスト!」
 彼がすぐ翼を広げるのが見えなかったら本気で焦っていただろう。この高さから墜落などしたら待っているのは死のみだ。オーバストには立派な翼が生えていて良かった。
 ふらふらしながら青年は宙を漂い戻ってきた。お世辞にも無事とは言い難い様を見て、ウェヌスが慌ててすっ飛んで行く。
「……ッ!」
 他人を気にかけている余裕がないのか、ノーティッツは目の端でチラリとオーバストを確認するとすぐさま剣を持ち直した。「気をつけろ、結構硬いぞ!」とベルクが声をかける間に幼馴染は聖獣を斬りつける。だがそれは外傷と呼ぶにも至らぬ浅い傷で、翼に薄ら赤い線が残しただけだった。
「ノーティッツ、下がってろ! 中途半端な攻撃じゃ怪我増やすだけだ!」
「やってみなくちゃわかんないだろ。信用しろタコ」
 ハリセンを避け横に跳ぶ。風に煽られ飛ばされかけてもノーティッツは頑として譲らない。魔力だってすっからかんに近いのに意地を張るなと叱りたかった。ベルクの与えるダメージが十だとしたら彼のは一、ハルピュイアから被るダメージはその逆という感じなのに、どうして退こうとしないだ。
「策でもあんのか?」
「剣先に毒塗った」
 淡々と幼馴染みは言う。
 いつの間に……。やっぱりこいつあてになるわ。



 予想通りその後は凌ぎ合いになった。ハルピュイアの残念な造形を見ていると緊張感を殺がれそうになるのだが、主にベルクの剣とオーバストの魔法でじわじわ聖獣を追い詰めていった。ウェヌスは回復と防御面でのフルサポート、ノーティッツは持ち前の素早さを生かし、ちょろちょろ視界に紛れては聖獣の気を散らすなど「これ敵だったら鬱陶しいことこの上ないな」という働きをしてくれる。
 勿論こちらも無傷ではいられない。一撃でもまともに食らえば何度も床をバウンドする羽目になった。ハリセンがかわされやすいと悟るとハルピュイアは鋭い羽根を無数の刃として散らし全体を攻撃するという大技も披露してきた。ウェヌスの癒しが本当に有り難かった。攻撃こそ最大の防御、なんて言えるのは短期決戦の場合に限ると痛感する。
「神よ、力をお貸しください!!」
 雷光が閃き、オーバストの上級魔法が炸裂した。その合間を縫うようにベルクはバスタードソードを叩きつける。できあがった傷口にはノーティッツが毒剣を突き刺した。ふたりで仲良く翼に払われ戻ってくると、すかさずウェヌスが傷を治療してくれる。
 これは案外まともに連携できているのではなかろうか。強敵と対峙する中で、一同には絆らしきものが感じられるようになっていた。互いに目と目で合図を送り、「もう少しだぞ」と励まし合う。
 厳しい戦闘に身を置きながらも「なんかいいな」とベルクは笑った。倒すべき相手は終始変わらず不細工で、あまり様にはならなかったけれど。



「きゅるきゅるきゅる……」
 訳不能な鳴き声とともに聖獣は姿を消した。最後はノーティッツの毒が効き、痺れて動けなくなったのをベルクが一刀両断にするという幕引きだった。
 意外と呆気なかったなという思いと、自分とノーティッツだけでは勝てなかったなという思い。頼りになる仲間がいるということに改めて素朴な喜びを感じる。
「ハルピュイア……ゆっくり傷を癒してください……」
 勇者の試練という大任を果たした聖獣にウェヌスは跪き祈りを捧げた。その横でベルクは祭壇を見つめ直す。
 光に包まれたひと振りの剣がゆっくりこちらへ降りてきていた。これが勇者の証かと思うと感慨深かった。
 掴んだのは翼の形の柄を持つ、白く輝く大きな剣。鞘にも精緻な模様が施されており、この世のものとは思えぬ透明なオーラを放っている。
(剣の状態がどうだって……? メチャクチャ綺麗だぜ、これ……)
 あのイックスという男が興味を示すのも頷けた。鞘に収まっていてもわかるくらい剣は不思議な力に満ちている。完全とはこういうことを言うのかと思えた。トルム教に反発気味な兵士の国で生まれ育った自分さえ厳かな気持ちを抱いてしまう。
 だがそこで誰も予想しなかった事態が起きた。
 神鳥の剣はベルクの手に触れた瞬間、忽然とその輝きを失ったのだ。光は途切れ、剣はただの白い剣になってしまう。
「え……っ!?」
「あqswでrftgyhじこl!?」
 ベルクもそれなりに動転したが、神具の故障に一番泡を吹いたのはウェヌスだった。聞いたこともない悲鳴を発すると、女神はそのまま卒倒した。



 ******



 おやおやとハルムロースはひとりごちた。オリジナルの「死霊の書」を開き、そこから新たな情報を得ていたのだが、また面白そうな話になっている模様である。
 ベルクたちに持たせたのは本物とリンクさせたダミーの魔道書だった。手離されさえしなければ、遠くにいても簡単に彼らの動向を探れる。それと見抜かれないために呪いをかける手間はあったが、なかなかよく働いてくれているようだ。
(剣の塔の封印が解かれましたか)
 やはりベルクも女神を侍らせているだけはある。番人に認められ、神具を手にすることができたなら、彼もまた勇者と呼ぶに値するだろう。
「ほ、本当に俺ひとりで留守番するんですか? ハルムロース様……っ!」
「おや、まだいたんですかリッペ君」
「いたんですかじゃないですよ! おおおお願いですから一緒に魔王城に帰って下さい!! あんなところにひとりでいたらイデアールかゲシュタルトに殺されちゃいますよおお!!」
「だから、リッペ君がどうしてもと言うから預けた護身用の呪符があるじゃないですか」
「こんな呪符ひとつで身を守れるはずないでしょおおおお!!!!」
 ふむ、とハルムロースは腕組みした。
 今現在自分はある目的のため勇者の国と兵士の国の国境へ向かっており、予定を変更するつもりはさらさらない。長く魔王城を空けすぎるとイデアール辺りが不穏な動きを見せそうだなというくらいで、他に困り事が発生する要素はなかった。魔王ファルシュは長いこと何の変化も見せていないし、ゲシュタルトも積極的にライバルを潰しにかかる女ではない。やはり注意すべきはイデアールひとりだけだ。
「まぁいいじゃないですか。そんなことより私は勇者の調査を続けたくて仕方ないんですよ」
「調査調査って!! んなの殺しちまえばいい話でしょ!? どうせいずれは始末しないといけないんですから!!」
 街道をすいすい歩くハルムロースに従僕は涙目でついて来る。留守番と言いつけたのだからさっさと留守番に行ってほしいのだが。もう少し機嫌が悪ければ勇者ではなく彼を殺しているところだ。
「ねえリッペ君、不思議に思いませんか?」
「へ?」
「これまでの長い歴史の中で、複数の勇者が現れたことなど一度もないんです。魔王もそう、亡霊となった例などファルシュ以外ありません。百年に一度の周期で必ず起きていた勇者対魔王の構図が今回に限り異例ずくめなんですよ。これは一体どういうことなのでしょう?」
 リッペは一歩身を引いて「いや、俺にそんな難しいこと聞かれましても……」と口ごもった。魔物の中ではましな方だが、彼でも頭を働かせるのには向いていない。知性らしい知性があるのは高位魔族と呼ばれる一握りの魔物だけだった。イデアールが台頭するまで魔界に秩序がなかったのは概ねそのせいだ。
「勇者は絶対唯一の正義であったはずなのに、その絶対が揺らいでいます」
 何かが起こっている。自分の知らないどこかで何かが。現に地上には女神やその従者まで降りてきているのだから。
(あの時はまさかそこまで大それた身分の女だとは思いませんでしたが……)
 パタンと死霊の書を閉じるとハルムロースは腰の荷袋に放り込んだ。
「面白そうじゃないですか。こんなときに引き篭ってなどいられません。リッペ君には申し訳ないですが、しばらくは魔王城で孤軍奮闘してくださいね。寂しくても泣いちゃ駄目ですよ?」
「ハルムロースさまあああ〜〜!!!!」
 泣き縋る従僕を置き去りにハルムロースはひた歩いた。あと数時間もすれば洞窟の入口が見えてくる。勇者の国と兵士の国を繋ぐ国境の洞窟。
(さて、アライン君とも無事にお会いできるといいですねえ)
 どんな再会であれば劇的だろう?考えるとわくわくしてくる。
 勇者アンザーツの子孫なら、きっと賢者の同行を歓迎してくれるはずだ。






 温泉街から旅立つこと十数日、美しい湖の街を過ぎ、アラインたちは国境の洞窟まで歩みを進めていた。
 旅の要所には宿場町が栄える。この洞窟近辺でもそれは例外でなく、問題なく物資調達まで行えた。町の人々から不穏な噂も聞きはしたが。
 辺境の国が襲われて以来、魔物たちの動きは各地で活発化していると言う。勇者の都はのんびりとしたものだったが、流石に国境沿いのこの町では傷ついた旅人の姿が頻繁に目撃されているようだ。兵士の国から逃げてきたという男にも会った。何度も魔物たちに村を荒らされ、どうしようもなくなり国境を越えたらしい。勇者の国ではあまり魔物が出ないので暮らしやすいと話していた。生まれてから一度も他国に足を踏み入れたことがないアラインにはその感覚があまりわからなかったが。
「洞窟を抜けるまでもうひと踏ん張りだ。二人とも頑張ろう」
「ええ」
「うっす!」
 快活な返答にアラインは頬を綻ばせる。
 イックスのことや神鳥の盾のこと、ここに来るまで色々あったが、最近やっと冷静になってきた。仲間が増えてチームワークが生まれたおかげだ。
 街道ではまたほとんど魔物と遭遇しない旅になっていたが、以前のような焦りは感じなかった。あの塔に行く前と帰った後では戦闘の感覚がまるで違う。心も技も成長してきたのを感じて素直に嬉しい。神鳥の盾が依然真っ黒であるのは胸に引っ掛かっているものの、勇者の大目的は魔王を倒すことただひとつだ。余計なことは考えないでまずは旅を進めようと決めた。兵士の国では今度こそ、自分の力で神具を手に入れるのだ。
 隣国へ続くトンネルは意外に長かった。途中までは整備された一本道でランプ台も等間隔につけられており、見通しが良かったのだが、奥へ進むにつれ壁も床もガタガタになった。暗がりに潜んで待ち伏せしている魔物に注意を払いつつ、しかしそれらも難無く打ち倒し、どんどん先へ進んでいく。これならまあ楽勝で通過できそうだ。だがそう感じていた矢先、アラインは現実を思い知らされた。
 安全なのはあくまで自国の領土内の話だったのだ。「この先兵士の国」と書かれた看板を越えたところから周囲の様子が一変した。道幅が極端に狭くなり、天井と壁が圧迫感のある天然岩に取って代わる。足元はこれまでの旅人たちに均されたおかげか平らな方だったが、それでも決して歩きやすくはなかった。じめじめした重い湿気も立ち込めて、微かな風に入り混じり獣の遠吠えまで響いてくる。
「気をつけてくださいアライン様。宿の女将が最近この洞窟を根城にしてる魔物がいるみたいだって言ってましたんで」
「……知ってるよ。ていうか僕も一緒にその話聞いてただろ」
 答えながらアラインは背中の剣に手をかけた。こんなにはっきりトルム神の加護がなくなったとわかるとは思っていなかった。距離にしてみればほんの一歩の差異なのに。
「辺境の国はもっと酷かったですよ」
 動揺を隠せぬアラインにぽつりとクラウディアが呟く。
 自分たちがどれだけ恵まれているか、今までほとんど考えもしなかった。洞窟と言えば、自分は勇者の墓しか知らない。英霊を慰めるための壁画が描かれ、もはや観光地と化したそこしか。世界にはこんな場所もあるのだ。
 戸惑いを噛み殺し足を進めると、やがて道が二手に分かれた。どちらも奥の様子は見えず、不気味な暗闇だけを映し出している。
「どちらから進んでも最後の出口は同じです」
 クラウディアのその言葉でアラインたちは右へ進むことにした。彼が以前旅したときもやはり右側の通路を利用したらしい。左ルートよりは起伏が少なく魔物が出ても戦いやすかったとのことだ。
「この先は今までと同じようにはいきません。油断なさらないでください」
 真面目な忠告に緊張は高まる。アラインはマハトと顔を見合わせ、互いに頷いた。



 最初に出たのは見たこともない大蛇だ。マハトの倍近い巨体をくねらせ襲いかかってくるので攻撃を避けるのに難儀した。戦士が飛び出て腹部を斧でかっ捌くと、悪臭とともに青い血が噴き出した。頭を落とすのが早かったか、出血多量が先だったか、相手が動かなくなってからクラウディアに聞くと、あれは蛇でなくミミズの化け物だったらしい。道理でいつまでも死体がウネウネしていたわけだ。
 次に出たのは体長三メートルはあろうかという大百足だった。黒光りする背中と蠢く無数の足に気分が悪くなり危うく吐きかけた。足がたくさんある生き物は苦手だ。近づきたくなかったので魔法で焼き払った。毒のある体液を飛ばしてきたが、クラウディアが結界を張ってくれたので無事だった。
 が、この体液がかなり曲者であったのが後々判明する。臭いに引かれて他の百足が次々集まってきたのだ。時に天井からボトリと落下してきたり、前方に密集して行く手を塞いだり、堪ったものではなかった。
 気色悪いのと多勢に無勢なのとでアラインは火魔法を多用する羽目になった。下手に死骸を残すと新手を呼んでしまうので、ともかく焼き切るしかなかったのだ。あれよという間に魔力は消費されていき、百足地獄を抜けた頃にはもうへとへとだった。
「頑張ってください。あと少しで兵士の国側の入り口に出ますので」
 クラウディアの励ましになんとか頷く。分かれ道の合流地点に入ったとわかったときはホッとした。本当にあと一息のところまで来たのだと。
「アライン様、外に出たらすぐ向こうの宿場町があるはずですから――」
 と、台詞の途中でマハトが消えた。正確にはアラインの視界から凄まじいスピードで吊り上げられていったのだ。
「マハト!?」
「マハトさん!!」
 上空から戦士の斧が降ってくる。ガランと激しい音を立て、それは岩肌にぶつかった。
 喚き叫ぶ声の轟いた方角へ目をやると、マハトは頭に蕾をつけた巨大植物に捕えられていた。足と腕に太い蔦が絡まっていて、自力で脱出できるようにはとても見えない。
「アライン様!来ちゃ駄目っす!!炎で焼き払っ……!!」
 ハッと気づいてアラインはその場から飛び退る。足元には別の蔦が音もなく近づいてきていた。慌てて火を放ち焼き尽くす。クラウディアも彼には珍しく、回復ではなく攻撃用の魔法を発動させていた。真空波を巻き起こす風属性の中級魔法だ。ぶつんぶつんと嫌な音を立て、魔物の触手が千切れ飛ぶ。おこぼれにあずかりマハトも足だけは自由になったようだ。
 剣で切り込むのは危険だった。無数に蠢く蔦に囚われれば勝機はなくなる。かといってマハトが捕まえられている現状、敵本体に魔法を撃つのもいただけなかった。そんなことをしたら彼の身まで焦がしかねない。
「なんとか風で……!」
 クラウディアがもう一度風魔法を発動しようとすると、攻撃を察してか巨大植物は無造作にマハトを振り回し始めた。あれでは危なくて狙いが定まらない。
「あいつ……!!」
 仲間を盾に使われた怒りが頭に血を昇らせた。駆け出したアラインの足をすくおうと、また緑の触手が幾つも伸びてくる。だがそれらは目的を果たす前に、僧侶が地面すれすれを這わせたかまいたちによって退けられた。
「はあっ!!!」
 間合いを詰め、アラインは猛然と魔物に斬りかかる。空中で振り上げた剣を叩きつけると巨大植物の茎はぽっきり折れた。ア・バオ・ア・クーに比べれば脆いものだ。
 もう一撃、と今度はマハトを捕まえている蔦に一太刀入れようとした。そのときだ。突拍子もなく蕾が開き、辺りに花粉が舞い踊った。
「……ッ!! げほ!ごほっ!!」
 鼻の奥をツンと刺す痛みに涙が滲む。喉はひりひり焼けつくようだった。転がりながらクラウディアの側まで戻ると僧侶はすぐさま毒素を取り除いてくれた。
 だがまだマハトはあの植物の手の中だ。視認できるほどの濃い花粉空間にいつまでも彼を置いておけない。
「クラウディア、花粉を風で吹き飛ばすっていうのは?」
「いけません。あの魔法では切り裂くことはできても強風を起こすことはできないんです」
「……くそ! もう一回飛び込むしかないか」
 意を決しアラインは剣を構えた。呼吸を止めたまま突っ込んでどれほどのダメージを与えられるかわからないが、何もしないよりはましだろう。
(すぐ助けるからな、マハト!)
 腰を深く落とした姿勢で駆け抜ける。と、不意に間近で人の声が響いた。
「お困りのようですねえ?」






 ――痛い痛い痛い痛い!
 片手で口と鼻を抑えながら、マハトはのた打ち回りそうになる痛みを必死に堪えていた。
 見た目通りに猛毒を持つ花なのだ。花粉を出し尽くした蕾の中には人骨と思しきものがちらりと見えた。このままいくと次は自分があそこに放り込まれるのだろう。
 初めに斧を振り落とされてしまったのが間抜けだった。得物さえあればこんな蔦くらいぶった切るのはわけもないのに。
 便利使い用のナイフで切りつけたり、足でげしげし蹴ったりする程度ではおよそ解放されそうになかった。よもやこんな形で主人に迷惑をかけてしまうとは情けない。せめて一撃くらいと思うも、吊られた状態では何もかもままならなかった。
(くそ、こんな魔物が出るなんて誰も話してなかったぞ!)
 巨大植物はあんぐりとその蕾を開く。古くなった骨がペッと地上に吐き出され、蕾の中が空になった。いよいよこちらを食す気らしい。マハトはできる限り身構えた。
 そのときだった。どこからか冷たい風が吹いてきて、花粉だらけの視界が開けた。途端、清浄な空気がマハトを包み、呼吸が一気に楽になる。
「マハト!!」
 すぐ近くでアラインの声が聞こえた。刃が蔦を砕く音も。
 空中に投げ出されたマハトは一回転して地面に着地した。ザクリという霜柱の折れる音と感触に驚き周囲をよくよく見てみると、辺りは薄っすら氷の苔に覆われている。どうやら花粉は凍りついた重みで落下したものらしい。
(成程、でも誰が?)
 感心したが不思議だった。水属性のないアラインの仕業ではない。彼が扱えるのは火魔法と光魔法のふたつきりだ。クラウディアにも光と風以外の属性はなかったはずだ。
 ややもせず洞窟内に断末魔が響き渡った。アラインが蕾を叩き斬り、魔物にとどめを刺したらしい。
「マハトさん、大丈夫ですか?」
 回復魔法の準備を整えながら心配そうに僧侶が駆けてくる。その姿を見てマハトは自分が毒を食らっていたのを思い出した。
「う……っ!!」
 胃と胸が急激にムカムカしてくる。鼻の粘膜も恐ろしく痛い。
「……! 解毒します!」
 膝を突いたマハトにクラウディアは清めの魔法をかけた。肉体を害していた毒はあれよという間に取り除かれる。ようやくひと心地つけそうだった。
「マハト、無事だったか?」
「……おかげさまでなんとか。すんませんでした」
 戦いを終え、戻ってきたアラインにマハトは一番に頭を下げる。勇者を守るべき自分が不覚もいいところだ。今まで戦闘中に武器を離したことなどなかったのに。というかあの魔物、最初に狙って斧を払ったような気さえする。
「謝るなよ、不注意はお互い様だ。念のため今あの魔物は全部焼いてもらってる。似たような仲間がもう出なきゃいいんだけど……」
「へ? 焼いてもらってる?」
 アラインもクラウディアもマハトの傍らに立っていた。これでパーティ全員のはずだ。「誰にですか?」と問おうとした瞬間、その人物はゆったりした歩調でこちらに歩いてきた。
 長い銀髪、魔術師が好む紋様の入った黒衣、民間では珍しい眼鏡。知っている男ではなかったが、彼の方は親しげにアラインに微笑みかけた。
「もう平気でしょう。災難でしたねえ、あの魔物は春先の辺境にしか出ないのですが」
「そうなんですか?」
「ええ。通称は骨蕾と言いまして、開花に必要な栄養補給のため人間を食べてしまうのです」
「博識ですね。危ないところをありがとうございました。……ほらマハト、お前もお礼ぐらい言えよ」
 小声で囁かれ、マハトはやっとこの男に助けてもらったのだと気づく。氷魔法を放ったのは彼だったのだ。
「あ、どうも。助かりました」
 ばつの悪さでつい目を背けてしまうが眼鏡の男は苦笑しただけで済ませてくれた。本当に格好がつかない。仲間以外の人間の手まで煩わせて。
「あの、アライン様とはお知り合いで?」
「おや、鋭いですねえ。とは言っても旅先で同じイベントに参加した程度の仲ですが」
「前に話しただろ? ほら、アイテム街でさ」
「ああ! 賞品つきのダンス大会に誘われたっていう?」
「そうそう」
「ふふふ、あのときは楽しい時間をありがとうございました。またお会いできて光栄ですよ、アライン君」
 男は改めて自己紹介をした。名はハルムロース、各地を放浪するはぐれ賢者で、今は辺境の国へ向かう途中だという。
「良ければしばらくご一緒しませんか? 道が分かれればそこまでとは思いますが、供を置いてきてしまい、ひとりでつまらないなと思っていたところなんです」
「え! いいんですか?」
 アラインは二つ返事でハルムロースの申し出を受け入れた。マハトは内心おいおいと思ったが、助けてもらった手前「もっと考えてからの方がいいんじゃないすか?」とは進言し難い。強い仲間が欲しいのはわかるが、そうやって安易に道連れを増やすからイックスのような男に引っ掛かったのではないのか。
「ふたりとも構わないよな? 助かります、よろしくお願いします、ハルムロースさん」
「呼び捨てていただいて結構ですよ。こちらこそよろしくお願いします」
 賢者はにっこり気さくな顔で笑った。ちらりとクラウディアを盗み見てみるが、僧侶に嫌がったり疑ったりしている様子はない。
「良かったですね、アラインさん。頼りになる味方が増えて」
 人間性を見極めてからでも仲間選びは遅くないのではないか?どんな難しい技が使えたところで、裏切られたら意味がないのに。
 ――それともすぐにそんな風に思ってしまう自分の方がどうかしているのだろうか。






 洞窟を抜けると宿場町は目と鼻の先だった。長旅の疲れを癒すべくアラインたちは早々に宿を決め、寝台に寝そべった。身体はぐったり疲労を訴えてくるのだが、生まれて初めて他国を訪れた興奮でアラインはその晩なかなか寝つけなかった。寝返りを繰り返しながら、故郷を旅立った日からこれまでのことを振り返る。
 祈りの街ではどうなることかと思ったが、ひとまず僧侶も賢者も自分の仲間になってくれた。クラウディアにしろハルムロースにしろ途中で別れる可能性の高いのが辛いところだが、できれば最後までついて来てほしい。一緒に行きたいと思わせる何かが自分にあれば、希望に沿ってくれるだろうか?例えば神鳥の盾の輝きをこの手で取り戻すことができたなら。
(僕はアンザーツみたいに進めてるのかなあ?)
 真っ暗な闇の中、冒険譚の主人公を瞼の裏に思い浮かべる。
 伝説は伝説だ。彼と同じである必要はない。でもどうしても気になってしまう。
 アンザーツはどんな風に勇者になっていったのだろう。早くもっと強くなりたい。誰かに頼らなくてもいいぐらい強く。そして、勇者らしく。







(20120531)