第五話 賢者か愚者か






 殺してくれ。
 敵国の王に手懐けられた魔導師は戦火の中で再会した異母妹にそう頼んだ。
 愛するお前がどうか私を殺してくれ、と。
 ラーフェは震えながら頷く。唯一無二の肉親が二度と祖国へ戻るつもりのないことを確信して。

「……わかったわ。だけどシュルト、ひとつだけあたしのお願いを聞いて。そうしたらあなたはあたしが殺すから――」






 ******






 血飛沫の意味を、初め理解できなかった。
 ぼちゃんぼちゃん。重い物が水に落ちる音は二度聞こえた。
 ディアマントの頭と身体が、人形の首が取れたみたいに、離れて見えた。
 首が――、離れて――……。

「ぅ、ぁあ、ああああ!!!!!!!!!」

 胸の内にあったのは怒りだったのか嘆きだったのか。
 慟哭とも咆哮ともつかない声で叫ぶとエーデルは一番近くにいたアペティート船に飛びかかった。
 翼をひと振りするだけで甲板の船員は海へ吹き飛ぶ。このまま竜に化けてもおかしくないくらい頭の中が煮えたぎっていた。
(こいつらディアマントを、ディアマントを……っ!!!!)
「落ち着いてください、エーデル、彼は」
「クラウディアはここにいて!!!!!!」
 無人になった船上に僧侶を残すとエーデルは船から船に飛び移り、砲台という砲台を根こそぎ破壊した。アペティート兵がエーデルを囲んで銃弾を放ってきても、強靭な魔物の皮膚には傷ひとつつけられなかった。
 普段はコントロールし切れていない潜在能力が表層に現れていたのだとは、後から思い至ったことだ。このときはとても冷静でなどいられなかった。仲間を奪われた悲憤がすべてを凌駕していた。

「ヴィーダ様、あちらです、あれです、なんとかしてください!!」

 半泣きの兵士の声を竜の耳が拾い上げる。
 船室の奥から駆けつけ、般若の面をしたエーデルを振り仰いだのは帝国の第三皇子であった。

「ヴィーダ……!!!」






 ******






 ――同刻。連邦を束ねる首長アヒム・トリト・ビブリオテークが居を構えるモスクはどよめいていた。十五年前アペティートへ送り出した娘が突然帰国してきたからだ。
「……どうやって帝都から逃げ出して来たのだ?」
「ドリト島までは五年ほど前に。先日アペティートが新大陸へ侵攻したと聞き、これ以上は休戦協定も無意味だろうと」
 親切な方に送っていただきましたという娘の顔をアヒムはじっと観察する。十五年もあれば成長していて当然か。開戦ともなれば二度と会うことは叶わないだろうと思っていた。無慈悲な父親にならねばと覚悟を決めていたのに。
「……母に似たな。あれも美しい女だった」
 血縁は疑いようもない。クライスは幼少期の彼女にアヒムが持たせた形見の指輪を大切に持っていた。
 部下の何人かが「アペティートから間者として送りこまれた可能性は?」と手暗号で示してきたが、現時点で命からがら逃げ帰った娘を追い出す理由はない。
 「部屋を支度させるからゆっくり休むように」と指示しかけたところで別の報告が入った。曰く、兵士・辺境の両国から援軍が到着したと。
「通せ」
「はい!」
 派遣するのは少数精鋭だとウングリュクから聞いてはいたが、本当に少なかった。大柄な戦士がひとり、二十歳そこそこの剣士がひとり、女のように線の細いのがひとり。最後の若者が魔法使いなのだろうか? それとも全員か?
「その真っ白の皮膚では敵と間違って討たれるな。うちの兵と同じコートとターバンを用意してやれ」
 たった三人とは舐められたものだ。兵士の国では国境近くまでアペティート軍が迫っているそうだから、戦争慣れしていない彼らにはこれが無礼ということも判断できないほど浮足立っているのかもしれないが。
 不快感を気取られないよう目線を逸らし、さっさと異国人たちを下がらせろと右手を払う。戦士は「名前も聞かないのかよ」という顔だったが肌の色を見ただけで会話する気など失せていた。かつて妻はあんな風貌の男に殺されたのだ。
「……あれっ? ねえ君、その手は……」
 退室しかけた援軍のひとり、黒髪の剣士が唐突に声を発した。娘の右手に刻印された五芒星を指差して。
 哀れな。きっと心ないアペティートの帝王に一生消えないようなタトゥーを彫られたのだろう。
 そんなものは放っておいてやれとアヒムが立ち上がったときだった。市街地からけたたましい轟音が響いた。






 イヴォンヌがモスクの外へ駆け出ると、煙と炎の中を逃げ惑う市民らと、それを上空から見下ろす深衣の集団が目に飛び込んできた。
 てっきりアペティートの軍隊が攻めてきたと思ったのに、様相はまるで異なる。狼藉を働く者たちはアラインから教えてもらったヒーナの気功師たちにそっくりだった。
「なんでだ!? あの国は中立だったんじゃないのか!?」
 隣では同じくマハトが動転している。ビブリオテークの民の多くも自分たちがどうして攻撃されたのかわかっていないようだった。
 とりあえず最初の爆発以降追撃は受けていないらしい。兵に助けを求め、モスクになだれ込んできている市民らは大半怪我などはしていないようだ。
 首長アヒムが彼らの対応を部下に命じて表へ出てくると、何十人もの気功師が並び浮かぶ間から真紅の衣を召した人物がゆっくりと進み出てきた。
 背の高い帽子から真っ黒な髪を三つ編みにして垂らしている。頬のそばかすが少し目立つ、まだどこか幼げな容姿の少年。背筋をしゃんと伸ばしているが、胸の前で組まれた腕は衣装に隠れてまったく見えなかった。おそらくヒーナの人間が礼儀正しく挨拶するときのポーズなのだろう。
「新皇帝レギ・レンからの警告書はご覧になっていただけましたか?」
 少年はにこやかに微笑んだ。対するアヒムの表情は硬く、してやられたと言いたげだ。
「ビブリオテーク軍がドリト島へ到着し、アペティート軍と戦闘を始めたとの報告を受け、制裁と再警告に伺いました。ドリト島から軍を退かないのであれば首都は破壊します。軍を退くなら半壊にとどめましょう。ご決断が済まれましたら白旗でも振ってください」
 それが戦闘再開の口火だった。
 レギがさっと右手を上げると気功師の軍勢は情け容赦なく街に妖術を放ち始める。
「首長!!」
「邪魔をするならヒーナと言えど許さん! アペティートを亡ぼすためにドリト島から撤退するわけにいかんのだ! 皆の者、武器を持て!! 気功師どもを追い払え!!」
 一瞬でもドリト島での決戦がなくなるのではないかと思った自分は甘いらしい。アヒムが自軍に市街戦を命じるや否や、今までどこに隠れていたのかモスクの扉という扉から兵士たちが飛び出し、気功師らの元へ向かって行った。
「ぼくたちも行こう」
 真剣な眼差しでアンザーツが囁く。人間同士の争いを見るのは彼も初めてのはずなのに、勇者という人種は概して肝が据わっているようだ。
「殺すために戦うんじゃない。助けるために戦うんだ」
「ええ」
「ったりまえだ!」
 ヒーナは軍を三つに分けて街のあちこちを襲い始めていた。逃げ遅れている民間人も複数おり、早く助けに行かねばと気が焦る。
 大通りの中心まではマハトもアンザーツも一緒に走ったが、そこで道が西南東に別れていた。顔を見合わせ頷き合う。ヒーナの軍勢もちょうど各道の先にいた。
「行くわよお姫様」
 懐にしまったリボンからゲシュタルトが具現化する。霊体なので地上では透けて見えるが心強い。
「くれぐれも頼んだぞ! アライン様の大事な奥方なんだからな!」
「心配性ねえ。そっちこそヒルンヒルトの馬鹿に振り回されるんじゃないわよ?」
「じゃあ皆、また後で!!」
 イヴォンヌはゲシュタルトと共に東へ向かった。こちらの地区は半スラムと化した貧民街が広がっているようで、女性と子供の泣き声が凄まじかった。
 気功師たちは軍人か民間人かだけでなく老若男女の区別もつけていないようだ。火傷を負って動けなくなっている母親とそれに縋る幼子にまでまだ炎を向けるので、積み上がった土嚢や木箱、低い屋根伝いに跳躍し、滅茶苦茶に振った剣で邪魔をした。
「避難と怪我人の治癒を優先します! 力をお貸しいただけますか?」
 何とか上手く着地したものの、骨に響く振動に眉を顰める。肉の焦げる悪臭が鼻をつき呼吸もままならない。
「ええ。ところであなたさっきの女に気がついた?」
「え?」
「アンザーツが声をかけようとしてた女よ。右手に五芒星があったでしょう。後で探すから覚えておいて」
「……わかりました」
 右手に五芒星。夫アラインと同じである。顔もよく見なかったが、この国にも大賢者がいるのだろうか?
「待ってください、あそこに倒れている人が!」
 ゲシュタルトを呼び止め路傍に突っ伏した老人を助け起こす。元神殿の聖女だけありゲシュタルトから力を受けて唱える癒しのまじないには多大なる効果があった。
「お……お……、ありがとうござい……うああああ!!?」
 老人は薄目を開いてイヴォンヌの顔を見るなり脱兎のごとく駆け出した。その勢いに呆気に取られていると、ゲシュタルトが嘆息と共に「外見しか見てないのね」と呟く。ああそうか、肌の色が違うからか。
「気にしても仕方ありません。私にできることをするだけです」
 傷つき倒れた兵や民にイヴォンヌは光魔法をかけ続けた。炎や雷の攻撃にも結界を張ったが、力不足らしく度々薄膜を貫かれる。
 今まで少しも知らなかった戦いの痛み。全部勇者ひとりに押しつけていた痛み。
 これからは荷の半分くらい背負えるだろうか。いや、背負わなければならない。






 気持ち悪い集団だな、とマハトは眉根を寄せる。
 揃いの服に揃いの帽子。それはアペティートとビブリオテークも同じだが、気功師たちは動きまで綺麗に揃いすぎていた。
 一列目の気功師たちが同じタイミングで杖を掲げ火を放つ。二列目の気功師たちが風を送りその威力を高める。仕上げとばかりに三列目の気功師たちが水膜を放ち、街中に熱い水蒸気を送り込んだ。まるで燻り出しの煙だ。耐え切れなくなった市民が建物から逃げ出してくると、雷撃でとどめを狙ってくる。
「早く逃げろ! 行け!!」
 道端の瓦礫を投げつけてその攻撃を相殺するとマハトは先を急いだ。
 一応それなりに場数は踏んできているので、多少ダメージの蓄積はあるものの徐々に距離を詰めていけている。もうあと数手やり過ごせれば斬り込んでいけそうだった。
(ただ俺ひとりじゃそう何人も魔法使いの相手はできねえ……)
 ビブリオテーク軍は果敢に彼らと斬り結んだり銃声を轟かせたりしていたが、ヒーナ軍は痛くも痒くもなさそうだ。一発で建物を粉々にするような大砲ならいざ知らず、半端な武器では彼らの相手にならないのだ。
(賢者とまでは言わないが、全員ノーティッツぐらいの力量はあるんじゃねえか?)
「くっそ、いつまで寝てるんだお前! 志願して付いてきたなら働けよ!!」
 忌々しげに魔法石の首飾りを小突くも反応はゼロだった。さっきからちょこちょこ危ない目に遭っているのに本当に手助けする気があるのだろうか。
 日干し煉瓦の建物が並ぶ入り組んだ路地を抜け、壁に隠れながらひた走る。ビブリオテーク兵が「あんなのどうやって倒すんだ!?」と毒づいているのが聞こえた。
 不気味なのは統率の取れた動きだけではなかった。視覚的にもこちらの恐怖心を煽ろうというのか、気功師たちは全員顔の半分を布で覆い隠している。反撃を受けても痛みなど感じていないように振る舞うし、酷く得体が知れない。
「――あまり踏み込みすぎるなよ。一斉に来るぞ」
 聞き覚えのある男の声が耳元で響いた。その忠告に一瞬マハトは足を止めた。
 直後轟いたひと際激しい崩壊音。
 気功師を取り囲もうと近づいていたビブリオテークの小隊が炎に巻かれて散り散りに退避する。死人が出ているかもしれない。危惧の拭えない火と熱だった。
 思わずそちらへ駆けつけようとしたマハトを賢者の声が引き留める。
「あちらは彼女に任せておけ」
「……彼女? ゲシュタルトたちは反対方向だぞ?」
「何者かはじきにわかるさ。見たこともない女だが、大賢者の印とオリハルコンを持っている」
 え、と思う間もなく頭上から灼熱の炎が降り注いだ。咄嗟に頭を腕で庇うが、皮膚の焼ける嫌な感覚はいつまでも訪れない。
「やれやれ、温存もここまでかな」
 代わりに先程まで声しか存在を感じられなかったヒルンヒルトがマハトの目の前に佇んでいた。






 軍を退かせるとしても半分は壊す。その宣言に忠実にヒーナの新皇帝を名乗った少年は通り道の建物を次々破壊して進んでいった。
 巻き込まれた人々の回復をしながら後を追っているためアンザーツはなかなかヒーナ軍のところへ辿り着けずにいた。
 マハトの向かった西側は最初に攻撃を受けた地区で、それほど市民は残っていなかった。イヴォンヌの向かった東側は、ヒーナ側が重要視していないためか気功師の数が少ない。つまり一番肝心なのは自分が目指している相手ということだ。
「大丈夫? すぐ痛くなくなるからね」
「うう……」
 ビブリオテーク側の負傷者はどんどん増え続け、いくら治療してもきりがない。自力で動けなさそうな人や出血の見過ごせない人を選んで魔法をかけているけれど、じれったくてだんだんムカムカしてきた。早く攻撃を止めさせたいのに。
 黒ターバンの兵士たちが掛け声と共に気功師へ向かって行くが、銃弾も矢も風で押し返されている。移動式の大砲台が運ばれてきても結果は似たようなものだった。手練と思しき気功師が砲台を融かしてしまったり、ビブリオテーク側の爆弾に勝手に火をつけたりしてますますヒーナが優勢となっている。
「駄目だ。やっぱり先に気功師だ」
 アンザーツは立ち上がり、両足に力を込めた。
 精神体のいいところは頑張れば通常有り得ない動きも可能になるところだ。水門の街でハルムロースにヒルンヒルトが憑いているのを見つけたとき、凄まじくテンションが上がって空まで舞ってしまったことを思い出す。よし、あの感じで飛ぼう。

「な、なんだあれは……!?」

 ビブリオテークの人々が驚きに目を丸くする様子はアンザーツからは見えなかった。炎や風、雷に雹で攻撃してくる気功師たちをひとりずつ、ちぎっては投げちぎっては投げするのに大忙しだった。
 機械のように誰も彼も同じ動きしか見せてこないので気絶させるのは簡単だ。そう思っていたのだが、これが案外しぶとい。確実に意識を奪ったように思うのに、気功師たちは何度でも起き上がりアンザーツに立ち向かってきた。
(……!?)
 絶対に何かおかしいと確信したのは眠りの魔法を使ったときだ。夢の中へと引きずり込まれてなお襲ってくる彼らを見て、傀儡なんじゃないかと閃く。
 魔法を避けること自体は容易かった。今までに戦った強敵のそれと比べれば児戯にも等しい単純な術だ。
 アンザーツは寺院の塔や学校らしき建物の屋根を足場にして軽やかにステップを踏む。
 これが操り人形の集団だとすれば、主人がどこかにいるはずだった。
 見渡そうとしたときに、アヒムのいる高台のモスクから砲弾が放たれた。






 ******






「どうしてディアマントを殺したの……!?」
 ねえどうしてと泣き喚きながらヴィーダに突進するエーデルをクラウディアには止めることができなかった。
 身の軽さと風魔法を駆使してなんとかエーデルの元へ向かってはいるのだが、「落ち着いて! いけません!」と何度叫んでもまるで彼女に届いている気がしない。先程よりは距離も近づいたはずなのに。
 ヴィーダは応戦しようとしてまったく間に合っていなかった。当たり前だ。歴戦の戦士だって本気を出した彼女の動きにはついていけやしまい。翼から出る衝撃波に耐えただけでも驚嘆だ。
「エーデル!!」
 怒りのままに彼女がヴィーダを殺してしまわないか。案じたことはただそれだけだ。勇者の国を陥れた男の末路がどうだろうと知ったことではないけれど、エーデルの手を汚させたくない。

「ディアマントを返しなさいよ――!!!!!!」

 大粒の涙を撒き散らしてエーデルがヴィーダの胸倉を掴む。振り上げられた拳を見てクラウディアは回復魔法の構築を始めた。即死でなければなんとかなるかもしれないと、そう考えて。
 だが実際には治癒の魔法は必要なかった。エーデルがぶちのめそうとした男は忽然と彼女の前から姿を消したのだ。
「!?」
 ハッとしてクラウディアが身を翻すとすぐ背中で例の男が笑っていた。
 気功師――否、気功師とよく似た何者か。彼の足元にはヴィーダが蹲っている。

「あなたは……」

 男を見上げ、呟いたのはヴィーダだった。また助けてくれたんですかと。
 どうもふたりは以前からの知り合いらしい。クラウディアなど見えていないよう気功師はヴィーダに左手を伸ばす。五芒星の刻まれた方の手を。

「あなたにこの力を渡すのが私に与えられた役目です。もう手をお貸しすることはないでしょう」

 直感的にいけないと感じてクラウディアは真空波を放出した。事情はよくわからないが、男はヴィーダに大賢者の力を譲る気でいるらしい。そんなことをされては堪ったものじゃない。彼に太刀打ちできなくなってしまう。
(え……!?)
 だが風の刃は気功師の表面をただ撫ぜただけだった。傷はおろか血の一滴も流れていない。
 目を瞠るクラウディアごと眩い光が周囲を飲み込んだ。気功師の手を握るヴィーダの影が網膜に焼きつく。

「クライスはビブリオテークへ帰りました。あなたはどうしますか?」

 淡々とした問いかけと、ヴィーダが息を飲む音。
 光が弱まり正常な視界が戻ってきたとき、彼はもうただの皇子ではなくなっていた。

「クライス……! ぼくはクライスを迎えに行かなきゃ……!!」

 大気がうねる。ヴィーダの魔力に引きつけられて。
 風を使って移動する気だ。もう魔法の使い方もわかるのか。
 クラウディアは目線だけでエーデルを呼んだ。
 その場からヴィーダを追いかけられたのは己と彼女だけだった。



 眼下にはドリト島の全景が見えた。
 北からはビブリオテーク軍が、南からはアペティート軍が隊列を組み押し寄せている。元々の住民たちは小舟で漕ぎ出し、幾つかある群島へ逃れ始めたところだった。
 小さな小さな集落の、その外れ。ヴィーダが降り立ったのは丘の上の一軒家。
 彼に続いてクラウディアたちが中へ急ぐとヴィーダはテーブルの前に膝をつき項垂れていた。女物の高そうなカメオがぽつんと卓に残されており、刻まれた恋人たちの肖像を風に晒している。
「……オリハルコンをお持ちでしょう? 返していただきます」
 歩み出たクラウディアを振り返り、ヴィーダは「嫌だね」と断った。
「渡せない。彼女と幸せになるためには力が必要なんだ。そのことがこの二年でよくわかった」
 二つの国の軍隊は本格的に殺し合いを始めたらしい。家の外では怒号と悲鳴、銃撃の音がこだましている。
 逃げ遅れた誰かの足音がこちらに近づいてきていた。硝煙の臭いが潮の香りを打ち消してどんどん強くなっていく。
「そのために他人の幸せを壊していいって言うの?」
 ヴィーダはエーデルを見なかった。返答もしなかった。その沈黙こそが彼の結論なのだろう。

「助けて! 誰か助けて! お姉ちゃんたちが連れてかれちゃった!!」

 泣き叫びながら飛び込んできた少年は肩が裂け血まみれになっていた。
 一瞬そちらに気を取られた隙に、ヴィーダが短い呪文を唱える。まるで初めから誰もいなかったかのよう、彼の姿は影も形も見えなくなった。
「……ッ!!」
「クラウディア、先にこの子を治してあげて」
 厄介な敵を逃がしてしまったようだ。しかし悔やんでも仕方がない。
 まだ涙の乾いていないエーデルの横に膝をつき、クラウディアは褐色肌の少年を抱きしめるよう魔法で包んだ。






 辺りは酷い有り様だった。アペティート兵もビブリオテーク兵も島の覇権を握ることばかり念頭にあり、島民の保護など二の次に見えた。この島に移り住んだ時点で同胞とは見なされていないのだろうが、それにしてもあんまりだ。
「おかしいわよこんなの……!」
 さっきまで誰かの暮らしていた家に火が回る。倒れて呻く仲間の脇をすり抜け兵士が走る。
「行きましょう、エーデル。せめて島の人たちを守らないと」
 エーデルは涙を啜って頷いた。クラウディアの言う通りだ。
 ディアマントを喪ってしまったけれど、嘆いているだけでは何にもならない。まだ止まるわけにはいかなかった。






 ******






 思い出す限り彼女の表情に笑みはない。子供の頃からクライスは一度も笑わなかった。
 父ヴィルヘルムは彼女を懐柔し政治に利用するつもりでいたらしいが、クライスはヴィーダよりよっぽど賢く、アペティートがどんなに優れた技術を持っているか、またそれを使えばどんなに多くの人が幸せになれるか説かれてもまったく騙されることがなかった。
 反ビブリオテーク的な教育も影では施されていたようだ。けれど彼女は一向に染まらず、なびかず、媚びず、次第に疎まれるようになっていった。
 同い年のヴィーダは彼女と仲良くするよう命じられていた。そうしておけばクライスが成長したときアペティートに対して非情になりきれないだろうと、そんな胸の悪くなることを言われた。
 でもきっとそんな命令がなくたって、自分は彼女に振り向いてほしくてたくさんの贈り物をしたろうし、真心をこめ手紙を書いたに違いない。
 心を閉ざし、自分を殺して生きるクライス。たったひとり、敵国で、機械人形のように。
 その姿はヴィーダの目に映る世界で一番美しかった。
 いつしか彼女の笑顔を見ることが譲れない願いとなっていた。




 十七歳になった頃、属国フロームの大鉱山で何も採掘できなくなった。アペティートの資源枯渇はかなり深刻な状況を迎えていた。 帝都ではいつもとなんら変わらぬ生活が成されていたが、物価はじわじわ高騰を始め、ヴィルヘルムの治世にも翳りが見え出した。
 停止した工場から失業者が溢れる。失業者が浮浪者となり、徒党を組んで盗みを働く。
 父は国民の不満が王家へ向かないよう、資源さえあれば停滞から脱することができると宣伝した。ビブリオテークと戦争する気があることを大々的に発表したようなものである。元から手厚くもてなされていなかったクライスだが、彼女への風当たりはとても強くなってしまった。
 戦争を求める声は日に日に高まる。
 けれどそれが単なる侵略行為だとすれば、ヒーナが黙っているわけがなかった。
 ――だったらあくまで防衛戦争であればいい。
 父の筋書きはヴィーダでも読めた。そもそも戦争をしたがっているのはアペティートだけではない。自国にほとんど利益の出ない貿易を強いられ、海を荒され、ビブリオテークももう我慢の限界だったのだ。
 アペティート国内でクライスが死ねば、かの国が立ち入ってくる十分すぎる理由になる。諍いが拡大すれば戦火が広まるのはすぐだろう。クライスの暗殺計画が持ち上がっていることを知ったヴィーダはすぐに彼女の元へ向かった。

「逃げるんだ。ふたりでこの城を出て行こう」

「逃げても同じよ。行方がわからなくなってしまえばどのみち戦争は始まるわ」

 差し出した手を彼女は取ろうとしなかった。
 生きるとか死ぬとか、多分彼女にはずっとどっちでも良かったのだろう。
 そうでなければこんな不確かな人生を送れるはずがない。
 けれどヴィーダはそうではなかった。クライスのいない人生など、最早考えられなかった。

「戦争なんかどうでもいいよ。ぼくはただ君を守りたいんだ」

 抱きしめたとき彼女の顔は見えなかった。
 けれどきっと笑ってはいなかったと思う。



 逃亡は失敗だった。
 決行したのはフロームで大規模な暴動が起きた日のこと。軍も城もバタバタと忙しない一日だった。
 混乱に乗じるつもりが側近や使用人の何人かに見抜かれていたようで、城壁を越えることさえできなかった。
 灯りを手にした人々がヴィーダとクライスの名を呼びながら近づいてくる。
 最悪な展開だった。「クライスがヴィーダを唆しビブリオテークへ連れて行こうとした」などと吹聴されたらどうなるかは目に見えていた。
 守りたいなんて言ったって結局ひとりでは何もできなくて。皇子なんて立場でも無力で。
 ぎゅっとクライスの手を握り締めたときだった。初めて彼と出会ったのは。

「――行くべき場所があるのですね?」

 月光を背負った異国の魔術師が降り立つ。
 見た目はヒーナの気功師と似ていたが、敵なのか味方なのかはわからなかった。
 でもそのときはどちらでも構わなかった。
 クライスを連れてこの国を出られるのなら。



 気がつくとヴィーダたちは見知らぬ浜辺に倒れていた。波に晒されふたりともずぶ濡れだった。
 そこがドリト島だとわかったのは、通りがかった小さな漁船が双方の民族を乗せていたからだ。
 やっと自由になれたのだと思った。ここでなら彼女と新しい生活を始められると。
 フロームの内乱を抑えるため、アペティートは国庫の備蓄を大半費やしてしまったらしい。武器がなければ戦いは挑めない。戦争の雰囲気が遠のいたのも喜ばしいことだった。父も下手なことはできないと踏んだかヴィーダたちの失踪をひた隠しにした。
 ヴィーダとクライスはドリト島でひっそりと暮らし始めた。幸せだった。慣れない農作業も彼女と一緒なら楽しかった。クライスは器用で、辛抱強くて、どんな種でも芽吹かせてしまった。魚獲りの船にも乗せてもらった。花を摘んで食卓に飾った。口づけをしたら受け入れてくれた。
 幸せだった。いつか彼女が笑ってくれたら結婚しよう。そう思っていた。
 だけど遠い海の霧が晴れて、どうやら大きな陸地が存在するようだとわかって、状況はまた一変した。
 どこから兵を忍ばせてきたのかヴィーダはヴィルヘルムに即刻帰還するよう命じられた。大使としてその新しい大陸に赴き、取れるものすべて掻っ攫って来いと。それができたらクライスと駆け落ちしたことは大目に見てやるし、後はどうしようと自由だと言われた。
 クライスとのささやかな幸せを壊したくなかった。
 彼女を守るためなら他の一切がどうなろうと構わなかった。

「命令に従うのなら戦争は回避できないわ」

 それでも行くのかと彼女は問う。真っ直ぐな眼でヴィーダを射抜くように。
「……あなたの身だって危険なのよ。本当に私を思ってくれるなら、どうか恐ろしいことに手を貸さないで」
 ごめんねと胸中で詫びながらヴィーダは迎えの船に乗った。なんて短い夢だったのか。
 クライスはそのままドリト島で監視されることになった。城へ戻せばヴィーダが従わなくなることを父は察していたのだろう。
 いつか彼女を迎えに帰る日まで、どんなことがあっても耐えてみせると誓ったのに。

(どうしてカメオを置いて行ったんだ……?)

 クライス。早く君に会って聞かなければ。君の気持ちを確かめなければ――。






 ******






 アヒムの指示で放たれたと思しき鉄と火薬の塊を眺めて、賢者は「おや」と意外そうに呟いた。
「敵を退けるためとは言え、自ら深手を負うことを選ぶか。恨みつらみで動く人間の考えはやはり激しいな。そこまでしてアペティートへの侵攻を続けたいか」
「喋ってる暇があったらサポートのひとつもしてくれねえか!?」
 マハトの文句にヒルンヒルトは悠長な素振りで髪を払う。あまり酷使してくれるなとぼやきながら。
「あちらが攻撃を止めただろう。今の私では彼らの力を利用して跳ね返すぐらいが関の山だ。襲いかかってこない分にはやり返すこともできないよ」
「ああ? じゃあ普通の魔法は使えないのか? 逆に大丈夫なのかそれ?」
 不平をぶつけるつもりだったのに何故か賢者の心配をしてしまう。
 半分透けたこの悪霊が目覚めてから戦況はこちらが押していた。ヒルンヒルトは跳ね返しているだけだと言ったが有効範囲がべらぼうに広いのはこの男の才能だろう。どこに撃ってもすべての球を打ち返されるので気功師たちはじりじり後退して行った。ビブリオテーク兵は皆ぽかんと透けた賢者を眺めていた。そうこうするうちにビブリオテーク軍の砲撃が開始されたのだ。
「大丈夫さ、案ずることはない。彼らの親玉はまだ経験が浅いようだしね」
「……何の話だ。もっとわかるように言え」
「気功師たちは何者かに操られているんだよ。その何者かが戦いを続けるか止めるか迷っているんだ」
「操られて……!?」
 洗脳とか操縦とか言われると他人事に聞こえない。急にヒーナの気功師たちが気の毒に思えてくる。そうか、それであんな気色悪いほど動きが揃っているんだな。
「……なんとか解けないのかよ?」
「方法がわかったとして今の私には無理だ。だがもう一、二撃本隊に食らえば撤退を始めるんじゃないか? それまでは生かさず殺さずの防衛戦だよ」
 ――果たして賢者の読みは的中した。
 首都のきっかり半分に壊滅的打撃を与えた後、ヒーナ兵は半刻を待たず引き上げた。風と共に規律正しく去って行く姿はやはり異様だった。
「制裁なんて言ってたけど、本音は侵略だよな、あれ」
 すっかり火薬臭くなった街にやっと静寂が戻ってくる。ヒルンヒルトは「さあな」と言って魔法石の中に消えた。
 四角い建物の多い砂っぽい街は、瓦礫で埋もれた砂っぽい街に変わっていた。





 気功師たちに退却を命じたのはあのレギという少年のようだった。
 大きな魔法を連発していたさっきまでとは打って変わって、ヒーナ兵は一様にアンザーツたちに背中を向ける。砲撃で傷を負った者も、無傷の者も、風を纏って同じ速度で飛んで行った。中には途中で自分の腕を落っことし、気づかないまま撤退した者までいた。
(……どうしよう。やっぱり放っておけないよね……?)
 ええいと己の両頬をはたくとアンザーツは近くにいたビブリオテーク兵の肩を掴む。ほぼ独力で気功師軍と渡り合っていたこちらを見て、若い兵士はヒッと怯えた声を出した。
「あのさ、援軍で来てる人達に伝えてくれないかな? ぼくちょっとヒーナまで行ってくるねって」
 頼んだよと告げアンザーツは全速力でヒーナの軍勢を追いかけた。精神体だしイケると思うんだけどと念じつつ、いつもの服装からヒーナの気功師そっくりに着替える。

「思ったよりも反撃されたな。まあいい、今度は人数を増やして来よう。隣りの者に回復をかけてやれ」

 ギリギリで紛れ込んだヒーナ軍はやって来たときの八割ぐらいに数を減らしているようだった。
 豪華な船の豪華な椅子の上、年若き皇帝は侍従に腕を揉ませている。
(闇魔法かあ……。契約でこんなたくさんの魔法使いを……?)
 そう考えるとあの少年の素養は並ではない。ヒルンヒルトと同等か、もしくはそれ以上の術者である可能性も否めなかった。
(というかあの杖は……)
 レギの手にした白く透明な杖を見やってアンザーツは口元を引き締める。いつも自然にニコニコしてしまう自分が気功師たちと同じ無表情を作るのは難しい。
(あれってオリハルコンだよね……?)
 やっぱり無謀かななんて思わず飛び込んで良かった。
 なんとかしてあれも返してもらわなくちゃ。






「ヒーナへ行った……ですって……?」
「いや、俺も今そこで兵士から聞いたんだが、どうもそうらしい」
 青い顔で話し合うゲシュタルトとマハトを見上げ、イヴォンヌは「お、落ち着きましょう」と汗を垂らした。それはまさかアンザーツが単身ヒーナ軍に乗り込んだということなのだろうか。ああ、きっとそういうことなのだろう。
「勇者ってなんでこう勝手なの!? どうして相談もせず決めちゃうわけ!?」
 イヴォンヌにはゲシュタルトの気持ちがよくわかる。アラインも似たようなタイプだからだ。破滅の魔法のことにせよ、アペティートから受けていた嫌がらせ行為のことにせよ、一度くらい心配するしかできないこちらの身にもなってほしいと思う。
「まあまあ……、その、身体は天界に置いてきてるんだろ?」
「そりゃあ死ぬことはないわよ! でも、だからって、私にぐらい……」
 気持ちはわかるのに慰め方がわからないなんておかしな話だ。そもそも自分などの言葉を彼女が受け止めてくれるかどうかわからないけれど。
「そう言えば、先程話しておられた五芒星の女性というのは……?」
 イヴォンヌの問いにマハトもあっという顔をする。
「ヒルンヒルトも同じ女のこと言ってたな。賢者の印が右手にあって、オリハルコンまで持ってるってことでしたよ」
「オリハルコンまで? やだ、あいついつの間にそこまでチェックしてたのかしら。いやらしいわねえ」
 本気で嫌そうに顔を歪めるゲシュタルトにマハトは「お前……」と呆れ顔だ。仲が良いのか悪いのか、先代パーティは少々不思議である。
「ともかくその方のところへ急ぎましょう。逃がすわけにはいきません」
 ――目当ての女性はすぐに見つけることができた。彼女は広場で傷ついた人々の手当てをしていた。
 銀や白に近い髪色はビブリオテーク人によく見られるが、彼女の真っ直ぐな長い髪はとりわけ輝いて見えた。人種の違いや纏う衣装など無関係に、ただ綺麗な人だと思う。言うなれば神秘的な美しさを有した女性だった。
「私に何か?」
 視線を察した彼女が立ち上がり、静かにイヴォンヌたちに近づいてくる。
 どきりとした。その空気の鋭さに。
「あなたが、オリハルコンをお持ちなのではないかと」
 気圧されたのを悟られぬようイヴォンヌは声を張った。女性は押し黙り、返す言葉に迷っているようだった。
「……元々は我々の国にあったものなのです。訳がありどうしても必要で……返していただけませんか?」
 どんな代償で交渉すべきか思案するイヴォンヌをマハトとゲシュタルトが心配そうに見つめてくる。貨幣で買わせてもらえるのならそれが一番手っ取り早いし穏便なのだが。
「今はまだ返せないけれど、使い終わったら届けるわ。それでいいかしら?」
「……」
 予想外の返答にイヴォンヌは目を瞠った。使い終わったら届けるとはどういう意味だろう。ひとまず返却の意志はあるようだから、尋ねてもいいだろうか。
「失礼ですが、一体何にご利用で?」
 冷たい、冷たい、温度のない彼女の瞳。
 夕日のように温かな色なのに、どうしてこんなに冷えて固まっているのだろう。
 瞬きもせずじっと黄昏の双眸を見ていた。揺れもぶれもしない眼差しを。

「ヴィーダを殺すの。彼の手にも同じものが渡ってしまったんでしょう?」







(20121103)