降り注ぐ癒しの光、再生していく細胞――。クラウディアの回復魔法は本人が「お役に立てると思います」と宣言するだけあって、素晴らしい効果を発揮した。もし彼が王都生まれであったなら、間違いなく高給で宮廷にスカウトされていただろう。偶然とは言え、いや偶然だからこそ、トルム神に感謝したい出会いだった。頼れる後方支援のおかげで塔からの帰り道は実にスムーズだった。
 通常、魔法というのは七つの属性に分けられる。その内訳は火、水、風、土、雷、光、闇だ。治癒は光魔法の中でも最もメジャーな術である。光属性を持つ者は肉体に強く干渉することができるので、病院機能も果たす地方の教会ではかなりの厚遇を受けるらしい。これが辺境の国ともなると、光属性を持つことは僧侶の第一条件として挙げられるそうだ。
 見る間に塞がる傷口にアラインは感心しきりだった。どんな皮膚の裂け目でもクラウディアは綺麗に元通りにしてしまう。しかも彼が扱えるのは高度な癒しの術だけでなく、肉体強化の魔法もだった。一時的に力が増したりスピードが増したり、クラウディアの戦闘補助があるのとないのとで戦況はまるで違った。有り難い。非常に有り難い。――相変わらず何故女性の格好をしているのかは不明だが。
 次なる目的地は盾の塔の南西に位置する温泉街だ。祈りの街も同程度の距離にあるけれど、少しでも早く旅を進めたかったアラインは隣国に近い側を目指した。ついでに言えばそろそろ身体を休めたいという思いもあった。マハトによると、この街にはなんと露天風呂つきの宿まであるそうだ。アラインは秘かに胸を弾ませていた。地下から湧き出る湯が野外にたっぷり溜まっていて、そこに浸かって温まるなど経験がない。物見遊山の旅では決してないけれど、疲労を蓄積した肉体は楽しみでしょうがないなと訴えてくる。
「街が見えましたぜ、アライン様!」
 嬉々としたマハトの声が辺りに響いた。川を挟んだ小高い丘から眼下を見下ろせば、ところどころ湯煙の昇る街があった。
「すごいですね。温泉街は通ったことはありますが、泊まったことはないので楽しみです」
 他意などなさそうなクラウディアの台詞にアラインとマハトはハッとなった。今更ながら重大な問題に気づいてしまった。果たして彼は、男湯と女湯どちらに入るのだろう。



 もしかしたら女装の僧侶というのはマハトの勘違いで、クラウディアはやはり絶世の美少女なのではないか。そんなアラインの淡い期待は無残に打ち砕かれた。
 温泉街の温泉宿に一泊を決めたその直後、男湯に向かうアラインたちの後ろをクラウディアはにこにこしながらついてきた。手拭や着替え一式を腕に抱えて。
「えーっと、クラウディア? 大丈夫? こっち男湯だけど……」
「ええ、問題ありません」
 清らかなオーラに当てられアラインはうっと瞼を閉じる。男ですというカミングアウトはまだなかったが、こちらからも尋ねにくい雰囲気だった。
「ま、まだ夕方っすし、人が少ないといいっすねえ!」
「そ、そうだな!」
 マハトもあちこち目線が泳ぎ、不自然に全身を強張らせている。平然としているのはクラウディアひとりだけだ。
「広い脱衣所ですね。湯浴みのためにこれだけのスペースを割けるなんて、流石は温泉街です」
 竹籠の中に自分の荷物を収めるとクラウディアは碧色のローブに手をかけた。見てはいけないものを見ている気がしてアラインはそっと顔を背ける。何なのだこの意味不明な背徳感は。
「あれ? お脱ぎにならないんですか?」
 ローブの上衣を取り去りながら僧侶が聞いた。完全に固まっていたアラインとマハトは慌てて「いや、脱ぐ、脱ぐよ!」と己の脱衣に取り掛かる。
「ではお先に失礼しますね」
 一糸まとわぬ姿になったクラウディアは男らしく隠しもせずに中庭の露天風呂へと歩いて行った。その白い背を見送りながら、アラインたちは同時に息を吐く。
「……なあ」
「はい」
「女と思われてるって自覚、なかったんじゃないか? ……僕らだって自己紹介のとき性別なんか言わないだろ?」
「いやいや、それはないでしょあの見た目で。っていうか俺、女の旅は入り用ってはっきりカマかけてますし」
「……じゃあ聞いてみるか?」
「そうっすね……。これを逃したら二度とこの話題振れる気がしませんしね」
 垣根が作られ外から見えないようになっている露天風呂の縁まで来ると、アラインとマハトは神妙な面持ちで掛け湯をし、両側からクラウディアを挟む形で湯に入った。チラリと確認したが胸は真っ平らだ。膨らみのふの字もない。湯は透き通っていたけれど、その下は敢えて見ようとも思わなかった。
「いいお湯ですねえ」
 頬を薔薇色に上気させ、はにかむクラウディア。首から上だけはやはり女の子に見える。トルム神は何故こんな類稀な造形美を男子に与えたもうたのだろう。色々な意味で残酷だ。
 眼球だけ動かしてマハトを見ると、戦士は「アライン様お願いします」と言うように僅か首を振った。従者のくせに主人が切り込めと言うらしい。なんという不忠義者だ。いいだろう、ならば聞いてやろうではないか。
「今日ここに来るまで、もしかしたらクラウディアは女の子なんじゃないかと思ってたよ」
「ああ、そうでしょうね。わたしは普段シスターの格好をしていますから」
 第一関門は突破できたのだろうか。クラウディアが笑顔を崩さないので読み難い。が、会話を続けることは可能そうだ。
「……クラウディアはなんでシスターの服を着てるの?」
 ひょっとしてそっちの趣味があるのか、とは聞けなかった。いくらなんでもそこまでデリカシーのない男にはなれない。それに仮に頷かれでもしたら、余計な悩みが増えてしまうのは明白だ。
「わたしは自ら正体を明かしてはいけないという約束をしているんです」
「え? どういうこと?」
「魔力を高める手法のひとつにそういう古いやり方があるんですよ。かなり腕の立つ魔法使いに契約してもらう必要がありますが」
「……じゃあレベルの高い魔法を扱うために、女の子っぽい服装をしてるってこと?」
 あまり聞いたことがない話だな、とアラインはマハトを見やる。戦士も初耳のようで、クラウディアに詳しい説明を求めた。
「いまいち理屈がわからねえな。女装したら誰でも強くなるってわけじゃねえんだろ? そんなんだったら今すぐアライン様にスカート履いてもらわなきゃいけなくなる」
「おい」
 ばしゃ、と湯を跳ねさせて戦士の頭を小突く。クラウディアはくすくす笑いながら「そうですね」と解説を始めた。
「言動に制約を設けるという古代の魔法契約があるんです。勇者の国ではあまり研究がなされていないので珍しく感じるでしょうね。わたしの場合、力を高めるために自らの正体に触れる言葉は話さない、と誓っています」
「他人に言い当てられた場合は? 契約が解けちゃうの?」
「それは無効ですね。術者と契約者の間でのみ成立する魔法ですから。それにあくまでわたしのは言葉の制約なので、音声や文字にさえしなければ目の前で脱ぐくらいは問題ないんです」
「はあ……なんか大変そうだね」
「別にそうでもないですよ。きつい縛りではありませんし」
 アラインはほっとして湯に沈んだ。イックスのような掌の返し方は少々辛い。最後まで目的を隠したままいなくなられるのは。
 クラウディアが性別について沈黙を通してきた理由がわかって良かった。パーティの背中を任せている人間を信じ切れないのは前衛としても困るのだ。
「今日まで伝えられず、すみませんでした」
 いいよいいよとアラインは笑う。マハトもクラウディアに対し警戒が緩んだようだった。なあんだと言う顔をしている。
 三人でくだらない話をして旅の垢を洗い流すと、三人揃って温泉を出た。さっぱりして気持ちが良かった。






「……いくらなんでも男湯を覗くなんて趣味を疑いますねえリッペ君?」
 突然耳元に囁かれ、驚きのあまり危うく変化の術が解けかけた。何故この主人は不意打ちで要らぬちょっかいをかけてくるのだ。折角勇者たちに見つからないようコウモリに化けているのに、元に戻ったら枝から落ちてしまうではないか。
「ハ、ハ、ハルムロースさま、お戻りで……」
「いい子に見張りをしていましたか?」
「は、はい! そりゃあもちろん!」
「嘘はいけません」
 リッペの慎ましやかな両翼をむんずと掴むとハルムロースは引き千切らんばかりに力を籠めた。
「いだだ! いだだだ! は、ハルムロース様!! やめてください術が解けます!!」
「あなたの力はこんなに尾行向きなのに、あなたの性格は本当に細やかなことに向いていませんねえ? どうして途中で後をつけるのをやめたんです?」
 駄目だ、ばれている。ぴったりアラインの側にいて監視していたわけじゃないことがばれている。
 リッペは青ざめ首を振った。嫌だ。怖い。お仕置きだけは回避したい。
「だ、だってあいつら幻視の森に入ってくんですもん!! あんな魔力の強いところに入ったら、俺力負けして変化の術が使えないじゃないですか!!! 仕方なかったんですよ!!!」
「で、一旦彼らを見失って、この温泉街で待ち伏せすることにしたわけですか」
「そう、そうなんです! ちゃんと見つけましたよ俺は!」
 涙目で訴えるが主人の紅い目は冷め切っていた。虫けらでも見るように斜めからこちらを見下ろしてくる。
「アライン君の居所くらい私にだってわかります。別れるときに目印をつけておきましたからね」
「えっ? じゃあなんで俺あいつらの尾行言いつけられてたんです?」
「色々あるでしょう。仲間が増えることはないかとか、特殊なダンジョンを攻略に行くことはないかとか」
「……ああ!」
「あなたはお仕置き決定ですね」
 ハルムロースの無慈悲な声が判決を言い渡した。悲鳴を上げることすらかなわずリッペの世界が暗転する。酷い。最初に説明しなかったくせにあんまりだ。
 ――三十分後、グロテスクの世界から解放されたリッペはふらふら木の幹に凭れかかった。全身ボロボロである。精神的にはもっとだった。具体的に何があったかは思い出したくない。
「仕方がありませんのでリッペ君にはもっと簡単なお仕事をしてもらいましょう」
「……な、なんですかハルムロース様……?」
 今度ミスしたらやばいどころの話じゃないぞとリッペは震える。どうか滅茶苦茶楽ちんで、かつしょうもない雑用でありますように。
「私に化けてお留守番しててください。魔王城で」
 ハルムロースはにっこり笑った。リッペは強い眩暈に襲われながら「無理! 無理です!! 勘弁してくださいよォーーーー!!!!」と絶叫した。



 ******



 金は溜まった。装備も揃えた。ウェヌスにもだいぶ常識がついてきた。――となれば次に目指すべきは北西、いよいよ魔王城に向けて本格的な再始動だ。この先は己とノーティッツ、ウェヌスにオーバスト、四人の力で道を切り拓いていくことになる。
「よっしゃ、どっから攻める? ここの海岸沿いには温泉保養地、大鉱山の裏手には一晩中遊び放題のヤバイ里があるって話だぜ?」
「ベルク……カジノは魅力的だけど、違法な上にそれはそれでまた路銀が消える気がするぞ」
「カジノ?カジノとはなんですの?」
「堕落の園のことだよ、ウェヌス」
「まあ!? そのようなところに勇者であるベルクを行かせるわけにまいりませんわ! 私がこの身に替えても悪魔からあなたの魂を救い出してみせます!!」
「ええい喋るな!! お前が口開いてっと話が進まねえ!!!」
「いけませんベルク! あなたは邪悪に魅入られかけているのです!!」
「あっはっは。それならとっくに手遅れ手遅れ」
「フカシこいてんじゃねえぞクソノーティッツ!!」
 怒鳴り声と笑い声と天然ボケが入り混じる朝の食堂。既に当たり前の日常となった光景だ。最近はここにもうひとつ「あのー」という間延びした声がプラスされる。
「これは提案なのですが、剣の塔を目指されては?」
 声の主は天界の使者オーバストだ。すらりと長い手足を持ち、女が放っておかないだろう顔立ちをした生真面目そうな青年である。
「剣の塔?」
「もしかしてアンザーツ伝説に出てくる神鳥の塔ですか?」
 ベルクとノーティッツは同時に問い返した。盾の塔、剣の塔、首飾りの塔と言えばアンザーツが魔王討伐を終えた後、神様から授かったオリハルコンを返しに行ったという場所である。盾の塔は勇者の国に、剣の塔は兵士の国に、首飾りの塔は辺境の国にあると聞くが。
「けど塔って封印されてんだろ? 人里離れて街道からも逸れたところにあるんじゃあ、どこに塔があるか知ってる奴もいねえんじゃねえの?」
「封印は勇者には無効ですよ。ウェヌス様のお告げをいただいたのですから、ベルク殿には扉を開くことができるはずです」
「……けどなあ」
 正直なところ、ベルクはあまり乗り気でなかった。兵士の国の勇者がアンザーツ所縁の地など巡って得る物があると思えなかったし、勇者の国に正式なアンザーツの血統というものがある以上、本当に自分に封印が解けるのか疑問だった。
「勇者の証は神の護り。神具を身につけ魔王を倒すのがならわしです。首飾りの塔や盾の塔が手つかずとは限りませんし……」
「えっ?」
 疑問の声を発したのはノーティッツだった。何に気づいたのか知らないが頭脳労働は幼馴染の担当なのでベルクは成り行きだけ見守ることにする。
「……あの、前から気になってたんですけど、もしかして勇者ってたくさんいます? 各国にひとりずつとか」
 ああ、それは自分も気になっていた。代々勇者を輩出してきたフィンスター家だって祖国を旅立ったという話なのに、どうしてウェヌスはこちらに神託を与えたのかとか、だったらもしやあちらの勇者にもこんなおとぼけ女神が同行しているのかとか、そういうことも。
 オーバストは「はい?」と首を傾げた。彼にとってこの質問は「何を今更?」レベルのものだったらしい。が、天の青年は急にハッとした表情を見せると恐る恐るウェヌスの方へ視線を向けた。
「あのう……まさかウェヌス様、ディアマント様のことや他の勇者のことをご説明されていないのでは……?」
「えっ?」
 えっではないだろう馬鹿女神。いい加減にしてくれ。



 その後オーバストから改めて勇者にまつわる諸々の話を聞かせてもらうと、思っていたより複雑な状況であるのがわかった。本来であれば勇者は唯一無二の存在で、アンザーツのよう仲間を引き連れ魔王討伐に向かうらしい。が、何の手違いか今回の勇者に関しては「おお、そなたこそまことの勇者!」と言えるほどはっきりした力を有した者がいないのだそうだ。そこでトルム神は苦肉の策としてアンザーツの末裔以外にも複数の勇者候補を鍛えることにした。それが天界から降りてきたディアマントや、ウェヌスに見出されたベルクなのだと言う。オーバストはもしかすると他にも候補がいるかもしれないと話した。彼も事態の全容を把握しているわけではないらしい。
「そんな情報はベルクには不要ですわ! ベルクこそ真の勇者に違いないんですもの!」
 ウェヌスはさっきから理解不能な怒り方をしている。勇者なのだろう?人類の味方なのだろう?たくさんいた方がいいに決まっているではないか。
「でも、そうすると一気に荷が重くなるなあ」
「へ? なんで?」
「……相変わらず能天気だなお前は。魔王を倒せば英雄になれるんだぞ? 事によっちゃ名声を政治に利用されかねない。軽くリーダーシップを気取るどころか、勇者を出した国が他の二国を完全支配するような関係になりかねないってこと。特にお前は王子だし……まあお前が国民の期待を一身に背負って熾烈な蹴落とし合いに参加できるとは、ぼくも思わないけどさ」
 なんだそれは。お国のしがらみで勇者同士がいがみ合うってことか?
「阿呆くせえ。どうだっていいっつのそんなもん」
 今までだって兵士の国は神様の加護なんかなくともちゃんとやってきたのだ。ウチには勇者がいるんだぞ、などと虎の威を借る馬鹿者が出たら、そのときは己が直々に張り倒してやる。そもそも手柄は山分けが鉄則だ。勇者候補が何人もいると言うのなら、全員で協力して戦えばいい話だ。
「天界人であるお兄様はともかく、私のような女神が派遣されている人間はベルクひとりですわ。ベルク以外の勇者など、私絶対に認めません!」
「そりゃお前の勝手だが、俺は勇者仲間大歓迎だぜ。頭数が必要なのは確かなんだからな」
「んまあ!」
「ぶーたれんなよ。一応女神だろお前」
「ウェヌス様、落ち着いて、落ち着いて」
 頬を膨らませるウェヌスとそれを宥めるオーバスト。きっと天界でもいつもこんな感じなのだろう。天の国は平和そうで結構なことだ。地上も早く同じくらい暢気になればいい。
「よし、決めたぜ。俺は剣の塔に行く」
「まああ!」
「おお、ベルク殿!」
「なんだなんだ? なんで急にやる気出したんだ?」
「や、勇者候補がいっぱいいるならウチの勇者免許見せたところで恥かくだけかもしれねえだろ? そのうち会うことになるんだったら神様公認のオリハルコンぐらい持っといた方がいいかなってさ」
「つまり卑小なプライド保持のためか……」
「うるせーよ! 勇者主張すんならそれなりのことやっとかねーと不味いだろうが!!」
「剣の塔ですって! 楽しみですわ! 私、一生懸命サポート頑張りますわね、ベルク!!」
「私も微力ながら、お力添えしますベルク殿!」
「暑苦しいぞ、そこふたり!!!」
 そんなこんなで行き先も決まり、今日は一日各自で出発準備を整えることにして、朝食の集いは解散となった。ウェヌスは長らく世話になった教会へ挨拶に行くらしい。オーバストもそれに付き添うとのことだったので、ベルクとノーティッツは市へ出て飲料や薬、その他の買い出しを済ませておくことにした。
 結局ひと月近く滞在したのだろうか。ベルクたちは小銭稼ぎが功を奏し、見違えるほど逞しくなっていた。幼馴染の方は新しい魔法も習得したようだ。ゆっくりしすぎた感がなくもないが、いつの間にか戦闘要員も増えているし、戦力の増強は図れただろう。
「じゃあ気をつけてな。夕方には帰ってこいよ」
「かしこまりましたわ!」
 笑顔で坂道を歩き出すウェヌスにベルクは手を振った。思えばあの女もいきなりこんな地上での生活を強いられて、本当は大変なはずなのだ。へらへら笑ってばかりいるからそう見えないだけで、ウェヌスなりにこちらに合わせようと努力しているのは間違いない。
「じゃ、ぼくらも行こっか」
「おう」
 仕方がないので菓子のひとつでも買ってやるか。のんびりできるのも今日までだし。
 言い訳じみた言葉を並べつつ、ベルクはポケットの財布を探った。






「そうですか……やはりいらしてませんのね」
 礼拝堂の一角でウェヌスはがっくり肩を落とした。折角魔道書の呪いを解除したのに、あの日以来持ち主であるハルムロースがどこを探しても見つからない。ベルクとノーティッツは元々置き逃げするつもりだったろうから見つかりっこないと言っていたのだが、ウェヌスには腑に落ちない点があった。
(だってあの方は最初から呪いが解けるとわかっていたんですのよ……)
 知識ある人間がいたずらに呪いを拡散するような真似をするだろうか?それに地上ではこういった魔道書に高値がつけられると聞いている。
「どうなさいますかウェヌスさん? もし良ければ、こちらでその書物をお預かりいたしますが」
「……いえ、元が元ですので私どもで所持しておきますわ」
 懇意にしていたシスターが代わりに探して渡しておこうかと言ってくれたが、ウェヌスは首を横に振った。今は呪われていないとは言え、危険な代物であるのに違いはない。また新たな呪いを呼び込まないとも限らないだろう。それなら自分たちで持っておいた方が安全である。
「残念でしたね、ウェヌス様」
「ええ、仕方がありませんわ。ベルクは嫌がるかもしれませんが、しばらく手元に残しておきましょう」
 こくりと頷く従者にウェヌスは死霊の書を渡す。魔道書には禁じられた呪法――憑依、招霊、果ては反魂の法もどきまでもが記されていた。呪いを受けるぐらいの本だから、術にはそれなりの効果が期待できるはずだ。それだけ神の領域を侵しているということでもあるが。
 ハルムロースは生と死に関わる研究に携わっているのだろう。だがあまり深く足を踏み入れるのは危険である。早くそう忠告してやりたい。
(どちらへ行かれたのかしら、ハルムロースさん)
 このまま二度とすれ違うこともないのだろうか。なんだかまた会えそうな気がしていたのだけれど……。






 鉱脈が見下ろす山麓の街には昼下がりの陽光が注いでいる。仕事を終えた鉱夫や鍛冶職人の行き交う往来でベルクは歯を食い縛り立ち尽くしていた。人生最大の試練だ。必要物資はすべて買い揃えたと言うのに、最後の難関が銀柳亭への帰路を阻む。
「う、うーむ……」
 ベルクは唸った。この一ヶ月頑張ったご褒美として、ウェヌスに何か贈ってやろうと朝方考案したわけだが。そのつもりでここへ足を運んだわけだが。
 きゃあきゃあという女たちの甲高い声が見えない壁を形成していて一歩も前に進めない。甘味屋ではちょうどタイムセールを催しているところらしく、店内は若い娘と子供たちで溢れ返っていた。
「何してんだベルクー?さっさと帰ろうぜー」
 道の向こうでノーティッツが呼んでいる。わかっている。こちらとてさっさと用を済ませて宿に戻り、明日に備えて休みたいのだ。だが女どもの声はやまないし、ティータイム前という時間帯のせいもあって人の減る気配すらなかった。
 あの中に飛び込んで、あまつさえ女好みの菓子を選んで買ってくるなど苦行でしかない。まさか街の中にこんな居辛い場所があろうとは。
「なんだよ飴でも買うつもりか? 甘いもん嫌いじゃなかったっけ」
「……一度決めたことを覆すのは男じゃねえよな、やっぱ」
「は?」
「よっしゃ、行ってくるぜ!」
「は? え? だから何?」
 ベルクは腹を決めた。このひと月で会得したギリギリの間合いを見極めるスキルを駆使し、店内をうろつく女子供を華麗にかわす。隼のごときスピードはおそらく一般人からすれば認識不可能だったろう。店内には数体の残像すら現れた。ベルクはさっと陳列棚に目をやった。そこには数種類の菓子を詰め合わせた小袋が置かれていた。
(これだ!)
 色々入っているのならどれかは当たる可能性が高い。そんな安直だが堅実な考えで商品を掴む。改めて手に取ってみれば、小袋はピンク色のリボンで封のされた、明らかに女性向けの品だった。こんな繊細そうなものを己の手にするのは初めてだ。だがまだ安堵は許されなかった。宿に帰るまでが買い出しなのだ。そして自分は未だ精算さえ済ませずにいる。
 ベルクはまたしても超速を発揮し算盤を持つ店員の元へと駆けた。勿論足音を響かせるような無作法はしない。
「いっ!? いらっしゃいませえ!!」
 突如として目の前に現れた客に店員は相当驚いたようだった。当然だ。一瞬前まで女の視界にベルクは映っていなかったのだ。それでも接客の基本である挨拶を忘れないあたり、この店員は磨かれていた。
「こいつをくれ。いくらだ?」
「あ、そちらは五ゲルトですね。お買い上げありがとうございます」
 手早く会計を済ませるとベルクは神経を研ぎ澄まし、再び人垣を越えて愛すべき娑婆へと戻った。幼馴染から冷たい視線で迎えられたのは言うまでもない。
「……才能の無駄遣いすんなよな……」
「いや、あれは無理だろ! あの中でゆっくり買い物なんてできねえだろ!!」
「はー。それにしてもベルクがウェヌスにプレゼント買ってあげるなんて、青天の霹靂だね」
「だっ! 誰がいつあの女にっつったんだよ!?」
「そんなのもらって喜ぶのウェヌスしかいないし……。けどまあ考えることは同じだったわけか」
「あ?」
 と、ノーティッツが懐から何やら取り出した。
「ぼくのはウェヌスとオーバストさんに、歓迎の意を込めてだけど」
 幼馴染の掌には災厄を避けるという紋の刻まれたお守りがふたり分収まっていた。それを見て遅まきながら「あ、オーバストの分とまとめちまえば良かったのか」ということに気がつく。もうひとつ、彼の分まで用意していないという失態にも。だがまあオーバストは男だし、それこそ細かいところまで気にするまい。
「ウェヌス、評判良かったみたいだね。今頃教会で信者さんに泣きつかれてるんじゃないかな」
「あー、見た目で得してるもんな、あの女」
「それだけでもないんじゃない? ちょっとズレてるけど優しいし素直だし」
「えっらい褒めるなお前」
「まあね。でも、どんないい子でもあの子は神様だよ」
 不意にノーティッツの声のトーンが変わった。反射的にベルクは幼馴染の顔を覗く。
 こういうことは今までなかったかもしれない。こちらはノーティッツを見ているのに、ノーティッツがこちらを見ていない。まったく目線を合わせようとしないのだ。
(なんだ?)
 よくわからないが嫌な感じだった。気に障る。モヤモヤする。
 おい、と呼びかけようとしたとき背後から別の声が響いた。
「……ちょっといいかな?」
 気がつくと青銀羽の鳥を連れた、若い男がそこに立っていた。



 取り込み中だと返すほど取り込んでいたわけでもない。何よりノーティッツが「どうかしましたか?」と男に尋ね返したので、ベルクは黙るしかなくなった。
 二十歳前後の黒髪の青年はまず己の素性を打ち明けた。名前はイックス、剣と魔法の覚えがあり、勇者の国から来たらしい。
 一見して相当な使い手であると知れた。というか、気配を感じさせずにベルクの後ろへ回るなどという芸当はそこいらの人間にできることではない。何しろベルクは七歳にして兵士長をコテンパンに打ちのめしただけでなく、十歳からは剣術大会でも相撲大会でも水泳大会でも殿堂入りのタイトル保持者なのだ。ストリートファイトも生まれてこの方負け知らずである。
 この旅人がもう少し若造だったなら、アンザーツの子孫と勘違いしたかもしれなかった。それぐらい研ぎ澄まされた気配をまとっていた。――そんな男が自分たちに何の用だろう。
「実は今朝から探してたんだ。剣の塔に行くって相談をしてたろう? 銀柳亭の食堂で」
「……ああ、まあ」
 盗み聞きしていましたと伝えられて、あまりいい気はしない。不快感が表情に出たのか、イックスと名乗った青年は「たまたま耳に入ったんだ。立ち聞きしたのはすまなかったと思ってるよ」と謝罪を口にした。
「実はあの塔に行くのに連れを探してて」
「へえ、そうなんですか。でもぼくらに塔を見つけられるとは限りませんよ?」
 ノーティッツも旅人に不信感を覚えたらしい。声には警戒の色が滲んでいた。
 一度ハルムロースに嵌められてからベルクたちは少々疑り深くなっていた。面倒事を押しつけられるのではないかとか、金銭を騙し取られるのではないかとか。パーティ内にとんでもなく迂闊な女がひとりいるのでこれも仕方のない話だ。ベルクとノーティッツはイックスへの疑いを隠しもせず会話を続けた。
「それに残念なんですけど、ぼくたちは四人で行動しているんです。兵士の国の勇者免許では三人までしか仲間の同行を認めてもらえないんですよ。なのであなたを連れては行けないんです」
「ああ、だと思ったよ。だから駄目元で声を掛けてみたんだけど」
 男は存外けろりとしていた。もっと食い下がってくるかと思ったのに拍子抜けだ。
「それならそれで構わないんだ。ぼくはあの塔に封じられている神鳥の剣がどうなっているか知りたいだけだから。君たち、もし差し障りなければ塔へ行った次に立ち寄る街を教えてもらえないかな? 剣の状態がどうだったかだけ、どうしても教えてほしいんだ」
 イックスはいやに真剣な目で頼み込んできた。そんなわけのわからない依頼は引き受けられないと突っ撥ねるのは簡単だったのに、何故かベルクは否を口にすることができなかった。気圧されたのは幼馴染も同じのようで、答えあぐねてこちらにそっと目配せしてくる。
「行き先はまだちゃんと決めてねえけど、辺境の国を目指すつもりだ」
「わかった。それじゃあ水門の街で待つことにするよ」
 なんで剣のことなんか知りたいんだとか、なんで自分で行かないんだとか、確かめておくべきことは多々あったように思う。だがイックスの背中にはそういう疑問を寄せつけない雰囲気が――言うなれば冒険者の風格があった。
(怖えな……)
 他人に怯えることなど滅多にない。無意識に唾を飲んでいたのに気づいてベルクはかぶりを振る。
 あれは何か普通の人間とは違う。けれど魔物でもない。どこにでもいそうで、どこにもいない男だった。顔立ちはいっそ地味なのに、印象は鮮烈で、そんなちぐはぐな、アンバランスな。
「……ベルク、宿に帰ろうぜ」
 肩を叩く幼馴染はもう何事もなかったかのようケロリとしていた。ウェヌスのことで何か言いたかったのではないのか。そう尋ねようとして、やはり蒸し返すのはやめておく。多分ノーティッツは女神を女として見ちゃいけないと言いたかったのだろう。そんな馬鹿みたいな展開あるはずないのに。
「とりあえず帰ったら飯だな、飯」
「今日はいっぱい食べときたいなー」
 その夜ウェヌスに菓子袋を渡してやると、大層喜んでその場でぺろりと平らげてしまった。恍惚とした表情で礼を述べられれば悪い気はしない。女神がそんな阿呆面を晒していいのかどうかはともかく。
 何が恋愛感情というものなのか経験皆無の自分にわかるわけもなかった。だが翌朝、ベルクたちの用意した白い僧服に身を包み、小袋についてたリボンを髪に結んで現れたウェヌスを見て、なんだか身に覚えのない嬉しさが胸をくすぐったのは確かだった。







(20120530)