盾の塔、剣の塔、首飾りの塔――その三つの聖地は古の時代から三日月大陸に存在していると言う。封印されし塔を目指し、アラインたちは深い魔の森を歩いていた。
邪な者たちの目を逃れるため、塔は勇者とその仲間にしか見つけることができないそうだ。今も盾の塔があると思われる方向に進んではいるが、それらしき建築物は確認できなかった。多分もっと近づかなければならないのだろう。
 森の奥へと入るにつれ現れる敵も強くなっている。塔の持つ魔力は強く、それゆえ魔物を引き寄せるのだ。おかげで彼らが人里を襲うこともないのだけれど、探索に訪れている身としては厳しいものがあった。
 毒液を吐く巨大な蟻の群れや木の枝から飛びかかってくるブヨブヨの蛭の怪物。森を彷徨い数日経つが、もう何十匹そんなものを斬り倒したかわからない。おそらく勇者の国の中ではここが最大の難所だった。森は広く、人の手が入っていないので道もない。魔物たちとは昼夜を問わず遭遇する。マハトとふたりきりだったら、きっとこんなには進めなかった。大きな怪我もなくスムーズに旅ができているのは、ひとえにイックスのおかげだった。
 祈りの街で出会った凄腕の傭兵。一流なのは魔法だけではない。いつ抜いたのかわからないくらい斬りかかるのが速い剣も、体捌きも見事なもので、敵の攻撃はほとんど食らっていなかった。相手は必ず一撃で仕留めるし、アラインが苦戦していると遠くから魔法で援護してくれる。連携を指示するのはリーダーである己の役目だが、イックスに見とれて指示が遅れたことは一度や二度ではない。
 すごいのはそれだけではなかった。旅するにあたり食料と水の確保は死活問題だ。イックスは食用にできる野草や木の実を見つけてくるのも水場を見つけてくるのも早かった。彼の肩を棲み処にしている青銀羽の美しい鳥がそういったポイントを教えてくれるのである。人間以外の仲間を持つなどこれまで想定もしていなかったが、あんなに便利ならアリかもしれないと思わされた。他には天候を読む術に長けているし、気配にも敏感だし、頼りになりすぎて怖いくらいだ。
 快適な旅を初めは無邪気に喜んだ。だが日が経つにつれマハトが言葉少なになり、ピリピリした空気を漂わせるようになった。
 マハトはアラインの従者であり師でもある。長年アラインに仕え、戦う術を叩き込んでくれた。彼なりに思うところや譲れないところがあるのだろう。一番露骨にマハトが複雑そうな顔を見せたのは、アラインがイックスに剣術指導を頼んだときだった。魔法を見てもらっていたときはまだ普通だったのに、それが武術になった瞬間顔色が変わった。口では何も言わなかったけれど。
 イックスの強さが知りたくて、同じものを得たくて、アラインは何度も彼に教えを乞うた。マハトには悪いと思ったが、盾の塔から街へ戻るまでのほんの短い間のことだ。戦士の胸中については敢えて知らぬふりをした。

「剣筋もなかなかだけど、アライン君は並外れて魔力が強いね。この国を出て戦うようになれば自然と実力が伸びてくるよ。強くなろうと思ったら、やっぱり強い魔物と戦うのが一番だから」

 イックスが語る言葉のすべてをアラインは胸に刻みつける。今はまだ彼に勇者を名乗るのが恥ずかしいくらいだが、いつか肩を並べられる日が来るだろうか。
「君も、君の仲間もいい目をしてる。知ってるかな? 彼、君が寝てからぼくに手合わせを頼みに来るんだよ。君のために強くなろうって必死なんだ」
「えっ……」
 そうなのか、とアラインは眠る戦士をこっそり盗み見た。マハトはマハトでイックスを越えようとしているのだ。
「大事にするんだよ。仲間より大切なものなんてないんだから」
 イックスの笑みには不思議な力があった。彼の教えは真実であるに違いないと確信させられる。抗うことなどできない。反論など初めから浮かばない――。
 だが危険だと心のどこかが警鐘を鳴らす。勇者である自分がこうまで強く他人の影響を受けるなど。
(でも、僕もこんな風になりたい)
 星空を飛び飽きた青い鳥がするりとイックスの肩に降りてきて羽を休める。焚き火の炎に照らし出された剣士はまるで物語から抜け出してきた主人公そのものだった。
 どきどきして、少し苦しくて、胸が痛い。



 塔の影がはっきり見えるようになったのは数日後のことだった。ここに来るまで沼地や崖の端を通らねばならず、大変な苦労をした。
 一歩近づくにつれ、霧に包まれた塔の全容が見えてくる。薄い黄土色の外壁には見慣れない紋様がびっしり刻まれていた。
「あれが盾の塔……」
 ごくりとアラインは息を飲んだ。
 元々人間が天上の神に会おうとして高く石を積み上げたのが塔の始まりだと言われている。この聖なる塔はあまりに古く、誰がどんな目的で建てたものかもわからないため、古代遺跡に分類されていた。
「これを登るのか……?」
 入り口まで辿り着いたとき、あまりの階層数にアラインとマハトは硬直した。二十階、いや三十階はくだらない高さだ。普通に登るのも骨が折れそうなのに、イックスは「魔物も出るはずだよ」などと脅かしてくる。
「ここまで来たんだ。遠慮はいらない、さあ行こう」
 剣士に背を押されアラインは古ぼけた石扉の前に連れて行かれた。真の勇者にのみ開かれるという伝説の扉だ。触れるのは流石に躊躇した。絵本や伝記では何度も繰り返し読んだ場面だが、いざ自分の番となると鼓動で心臓が破れそうである。
 ええいとアラインは扉に手をかけた。どうか中に入れて下さいとトルム神に祈りながら。
 これまで勇者の修行として必要なことは全部こなしてきた。大らかさも、華やかさも、勇者に望まれることはどんなくだらないものも習得してきた。時には多大な辛苦や忍耐と引き換えに。
 自分は勇者になるために生きているのだ。アンザーツの血をこの身に受けた者として。そうだ、神がそれを拒絶するわけがない。
(扉よ開け……!!)
 ぎぎぎと音を立て重い扉が塔内へ侵入し始めたとき、アラインは飛び上がりそうなほど狂喜した。勇者であると認められたのだ。少なくとも、この塔に招かれることはできた。
「行こう、マハト、イックス!」
 嬉しい気持ちが伝わったのか、連れ合いたちはにこやかにアラインを見つめ返した。マハトの方はアライン以上に安堵した様子である。
「しっかし何階あるんすかねえ? こういうのって最上階を目指すのがセオリーでしょ? 何時間かかることやら……」
「うーん、とにかく上へだな。頑張って階段を見つけよう」
「ちょっと待って」
 歩み出そうとしたアラインたちをイックスが引き留める。一体なんだと振り返ったら、彼はびっくりするような言葉を口にした。
「まず地下へ下りられるところを探そう」
「地、地下ぁ!?」
 素っ頓狂な叫び声が同時に響いた。どうして最上階の祭壇を目指すのに地下を見つける必要があるのだ。イックスの提案はあまりに不可解すぎた。そもそも天に向かって伸びたこの塔を見て、地下の存在を勘繰る発想がアラインにはない。
「こういう古代の高層建築では、頂上への最短ルートが隠されてることが多いんだ。最上階に用のある主が外敵に向けたトラップを避けるためにね。だから多分、地下を探せば一気に最上階へ辿り着ける魔法陣か何かが用意されてるんじゃないかな」
「……」
 理屈はわかった。塔の構造を知らない盗賊などが何かの手違いで侵入してきたとしても「上を目指す」という固定観念に縛られている限り罠の中を突き進むことになるだろう。だがイックスはどうやってその考えに辿り着いたのだ。いくら旅慣れていると言っても一介の旅人の知識でないことぐらいアラインにも察せられる。これは「すごい人だ」で片づけてしまっていいことだろうか。
 なんだか妙な違和感が胸の辺りでもぞもぞしていた。ちらりとマハトの横顔を盗み見れば、戦士も同じ違和感を覚えたらしい。警戒するような鋭い目つきに変わっている。
「……魔物の気配が満ちてきた。勘付かれたね、囲まれる前に急ごうか」
 そう言うが早くイックスが歩き出す。道もわからぬ遺跡の中を迷いなく進んでいく彼は、以前もここに来たことがあるように見えた。そんな馬鹿なことがあるわけないのに。
 伝説ではこの塔が封じられたのは今から百年も前。勇者アンザーツが神鳥の盾を再封印して以来、誰も訪れてなどいないのだから。



 遺跡をうろつく死霊系の魔物と何度か戦闘になりはしたが、地下へと続く秘密通路は拍子抜けするほどあっさり見つかった。「足音が変わった」とイックスが立ち止まり、周囲の床や壁を調べたところ、一箇所だけ取り外せる石膏があったのだ。
 腕を突っ込み内部を探ればボタンらしきものが指に触れる。すぐ横でイックスは不測の事態に備え剣を構えていた。
「……押すぞ?」
「どうぞ」
 アラインはやや緊張気味に指先に力を籠める。カチリと音が鳴ったかと思うと、今まで壁しかなかったところに突如ぽっかり長方形の暗闇が出現した。大人の男ひとり余裕で通れそうである。どうやらここには一種の幻視魔法がかけられていたらしい。
「大丈夫、降りられそうっす」
 先に奥へ入ったマハトが戻り、安全そうであることを告げる。
 さっきまで五分刻みで敵が出ていたのに、地下へ潜るとぱたりと何も出なくなった。これが古代魔法の力なのか、はたまた神の加護なのか。ランタンの明かりひとつきりでアラインたちは一本道の通路を進んだ。ゆったりと螺旋を描くよう、深く地中へいざなわれる。ボール状の巨岩が転がってきたらどうしようなどと案じたが、そういったことも起きなかった。
「あれだね」
 降り切った地下、イックスが灯火を向けた先には緑色の光を放つ魔法陣があった。外円からは清らかな風が吹き上がっており、それは明らかに上へ上へ、見えない天井まで届いていた。
「どうもあれが塔の中心みたいっすね」
「ああ」
 真芯をぶち抜く形で力を放つ魔法陣。おそらく中へ入った者を最上階まで運ぶ機能を持つのだろう。
「油断しないで。ここの番人には言葉が通じない。試練に手心を加えてはくれないよ」
 不意にイックスがそんな言葉を囁いた。
 番人とは勇者の盾を守る神鳥のことだろうか?問いかけようとしたアラインの脇を擦り抜け、剣士は魔法陣に歩を進める。淡い光がイックスを包んだかと思うと、彼の身体はふわり宙に浮き、そのまま上空へ消えて行った。
 やはり予測した通りの力が働いているようだ。アラインとマハトも慌てて後を追いかける。置いて行かれては堪らない。

「……ッ!!」

 一瞬の無重力状態、そして。
 瞼を開いたアラインは眼前に空を見た。薄水色の美しい天球、流れ漂う白い雲、あまりにも澄んだ空気。初めて見る天の光景だった。
 最上階では五本の支柱が円い屋根を支えていた。その柱の間には、それだけで千金の価値がありそうな幻想的な蒼が映り込んでいる。地下から浮上してきたはずなのに、白い床にはどこにも穴など開いていない。あれはどういう転移魔法だったのだろう。それともはるか昔に失われたという特殊な魔法技術なのだろうか。
「……綺麗だ」
 立っているのは神殿にも似た厳かな場所だった。筋の入った太い円柱には緑の蔦が絡んでおり、床をぐるりと一周する浅い溝には清らかな水が流れている。
 感動に操られるままアラインは中央に据えられた祭壇へ向かった。
 勇者の証、神鳥の盾。こんな素晴らしい聖域でそれを手にすることができたなら、己は理想とする勇者に一歩近づけるに違いない。
「アライン君」
 どこか遠くでイックスの声が響いた。
 アラインはぼうっとしたまま飾られた神鳥の盾を手に――取ろうとした。
「さあ、聖獣が来るよ」



 それはあまりに突拍子なくアラインの前に現れた。つい先刻まで透明な皮膚をした生き物であったかのよう。
 青みを帯びた巨体は人間の男の四倍か五倍はあるだろうか。全身に艶やかな羽毛が生え揃っており、鋭利な黄金のくちばしと、長い首の下部まで覆う黒いたてがみを有している。深く澄んだ双眸がアラインたちを見咎めると、聖獣は両翼を広げ神々しく吼え立てた。
「ア・バオ・ア・クー、塔に潜む神の使いだ。こいつに勝たなきゃ神鳥の盾は手に入らない!」
 何かを尋ねる隙も与えずイックスはア・バオ・ア・クーに斬りかかる。
 獣が勇者の神具を守る番人だとは見当がついた。ただアラインの知る伝承の中に番人の名は出てこない。彼は一体どこでそれを知ったのだろう?
「君も戦え! 盾が欲しくて来たんだろう?」
 イックスと聖獣は互いに向き合い間合いを詰めた。地下の件と言い彼には聞きたいことだらけだが、今はそれより始まってしまった戦闘だ。知りたいことは後で教えてもらえばいい。
 マハトは既に斧を取りイックスに加勢していた。アラインも銀色に光る剣を取ると、ア・バオ・ア・クーに向かい飛び込んだ。
「!?」
 だが斬りつけようとしたその皮膚の、驚くべき強靭さに言葉を失くす。鋼などよりなお硬い。中途半端な攻撃では傷ひとつつけられそうになかった。
「目か口の中を狙うんだ。少しは柔らかい」
 イックスからの助言を受け、致命傷を受けないように距離を取りつつチャンスを窺う。弓を装備してくるべきだったかと本気で悔いた。
 マハトはアラインより多少手応えがあるようで、斧の遠心力を利用し肉を削ぎ落とせないか奮闘していた。一番相手になっているのはやはりというかイックスだ。硬すぎる身体を易々と切り裂き、返り血を浴びながら攻撃魔法を連発している。
 イックスは詠唱より魔法陣を好む術者だ。拳大の小さな光陣をいくつも聖獣の周囲に浮かばせて、一斉に火炎を放った。熱に怯んだア・バオ・ア・クーが身を屈めた隙を突き、鮮やかな剣の一閃が聖獣の片翼を凪ぎ払う。引き裂かれた羽は色を失い風に変わった。
「フォォォォーーーー!!!!」
 雄叫びが轟いた。猛った聖獣は残された翼を大きくはためかせ、その風圧にアラインは容易く吹き飛ばされた。
「アライン様!!」
 間一髪でマハトの腕が伸びてくる。ここは最上階、しかも壁らしい壁はない。塔から投げ出されたら一巻の終わりだ。 ぞっとしながら礼を告げると今度は屋根の一部が落っこちてきた。イックスはひとりで凄まじい猛攻を見せている。目にもとまらぬスピードで跳躍し、背中から聖獣を切り刻んだ。悶絶するア・バオ・ア・クーの翼が触れて天井には更なる崩落が引き起こされる。
(すごい、押してる)
 明らかに地上の魔物とは格が違う、神の獣に彼は一歩も引いていない。
 勝てるかも、という期待とは逆に、アラインは酷く焦った。このままでは神様はイックスを勇者と認めてしまうのでないかと思ったからだ。
「とどめを刺すには目か喉どっちだと思う?」
「……そりゃあ絶命させるなら喉でしょうが」
 危険ですよとマハトが止めた。だがアラインに選択の余地はなかった。何としても勇者の盾を手に入れなければここを訪れた意味がない。アンザーツのような勇者になるため、自分はフィンスター家に生まれてきたのだ。
「引きつけてくれるか?」
「アライン様、無茶は!」
「命令だ。任せたぞ」
 有無も言わさずアラインは再度中央の祭壇へ駆けた。反対側からマハトが回り込んだのが見える。一か八かだ。あの巨体ならたとえ飲み込まれても無傷でいられるかもしれない。長い喉を内側から裂き、脱出することさえできれば。
「うおおッりゃあーー!!」
 捨て身で斧を振り回すマハトと、正確に打ち込むイックス。両者の攻撃に明らかに聖獣は注意を殺がれた。壇上でアラインは高く跳ぶ。顔面に飛び移ることができれば良かったが、ア・バオ・ア・クーが角度を変えたため結局たてがみにしがみつく格好になった。頭部までよじ登れたら、せめて片目くらいは潰せる。決死の思いでたてがみを掴み上へ進んだ。
 ア・バオ・ア・クーはアラインを振り落とそうと身を捻ったが、アラインもしぶとく離さなかった。そうしてついに握り締めた剣が聖獣の眼球を貫き、イックスが鋼の腹部を突き破って、マハトがもう一方の羽を斬り落とし――。
 聖獣は吼えた。のた打ち回って苦しんだ。深い傷を得たア・バオ・ア・クーの崩れ落ちる身体ごとアラインは床に叩きつけられた。まともに下敷きになってしまい、暫し呼吸もままならなくなる。内臓のどこかが潰れたようで酷く痛んだ。骨が砕けたのかもしれなかった。げほ、けほ、とみっともない咳が喉を衝く。口の中でどろりと血が溢れた。
 滲んだ視界には青ざめたマハトが映っていた。危ない、来るな。叫ぼうとしても声にならない。聖獣は長い首をもたげ、勢い良くくちばしを差し出した。弾き飛ばされた戦士が柱のひとつに激突する。打ち所が悪かったか、床にずり落ちるとマハトはそのまま動かなくなった。
 すべてがスローモーションで映る。最後にイックスが高々と剣を振り翳し、聖獣を一刀両断にしたのが見えた。
 なんて力だ。きっと誰もが彼を勇者と讃えるだろう。
 痛みよりも情けなさでアラインは気絶すらできなかった。
 祭壇が輝く。イックスがそちらへ顔を向ける。番人に守られていた美しい盾が彼の手元まで降りてくる。
 イックスは勇者の証たる神鳥の盾をこのまま持って行ってしまうだろうか。そうだとしても自分に止める資格はない。――まだ、ない。
「……なるほど。ぼくはもう用済みか」
 薄れゆく意識の中、確かにアラインはそんな言葉を耳にした。
 イックスがどんな顔をしていたかまで見ている余裕はなかったけれど。



 気がつくとアラインはどこかの家の寝台で横になっていた。あれだけ痛んだ傷は跡形もなく完治しており、イックスが回復してくれたのだろうなと思い至る。
(……どこだここ?)
 窓辺に映るのは緑の森。それからやや霞んだ盾の塔。
(こんな村、地図に載ってたか……?)
 のそりと起き出すと同時、コンコンとドアを叩く音がした。木戸の向こうに誰が来たのかはわからない。何と返事したものか逡巡する間に扉は開かれた。
「ああ、お気づきになられたんですね。お連れの方が随分心配なさっていましたよ」
「――」
 現れたのは水差しを持った尼僧だった。否、ただの尼僧であったならこうまで驚きはしなかったろう。彼女はおよそ見たことがないほど美しい容姿をしていた。さながら天の職人が拵えた上等の人形のように、肩で揺れているプラチナブロンドも、静かな優しさに満ちた青い瞳も、透き通った白い肌も、この世のものとは思えない。
「わたしはクラウディアと申します。ここはかつて大賢者ヒルンヒルトの隠遁した森の隠れ家。表で倒れていたあなたが勇者の盾をお持ちであるとわかったときは本当に驚きました。勇者アンザーツの子孫、勇者アライン様。何もないところですが、良ければゆっくりご静養ください」
 クラウディアと名乗った少女はそう言って深々とお辞儀した。呆気に取られたのはアラインの方だ。自分が勇者の盾を持っていただと?イックスではなくて?
「あの、僕の連れはどこに?」
「マハト様なら今は書庫に」
「もうひとりは?」
「……おられません。倒れていたのはおふたりだけでした」
 いない?イックスが?ますます意味がわからなくなりアラインの頭は真っ白になる。
 何故そうなるのだ。神鳥の盾を手にしたのは間違いなく彼だったのに。
 弾かれたよう寝台を降り靴を履く。「マハトと話がしたい」と頼むとクラウディアはすぐに書庫へ案内してくれた。
 森の中にひっそりと佇む一軒家。晩年の大賢者が暮らしたという家には彼女以外の人影はない。まさかひとり暮らしなのだろうか。こんなところで女の子ひとりだけで?
 広い書庫にはヒルンヒルトの溜め込んだらしき書物が所狭しと並べられていた。整然とはしているが多少かび臭く埃っぽい。
 マハトはこちらに背を向けて脚立の上で古い記録を広げていた。落とされたその真剣な眼差しにアラインは少々面食らう。クラウディア曰く、目を覚ました時からずっと、ああして賢者の手記を読み漁っているらしい。
「何を調べてるんだ?」
 肩越しに問いかけると、逞しい肩が跳ねた。
「アライン様! 起き上がって大丈夫なんすか!?」
「ああ、健康そのものだ。それより……」
「イックスのことっすね」
 頷いた戦士にアラインも頷き返す。他人には聞かれたくなくて声を潜めた。クラウディアは気を遣ってくれているのか入り口から奥には入ってこない。
「……盾はイックスを選んだように見えた。違ったのかな」
 できるだけ震えないよう言ったつもりだったけれど、一瞬空気が凍りつく。多分マハトも同じように感じたのだろう。だからイックスがいなくなったのに勇者の盾が残っているのを不思議に思ってここの本など調べているのだ。
「俺にもわかりません。塔で番人が盾を守ってるってことは知ってましたけど、まさか神具が汚されてるなんて……」
「は?」
 思わず大きな声を出してしまった。神具が汚されているとはどういうことだ。
「見てください」とマハトの差し出してきた荷袋を開くと、そこには確かに黒ずんだ盾が入っていた。伝説では神鳥のレリーフが施された、白く透明に輝くオリハルコンという話だったが。
「これは……イックスの仕業か?」
 長方形と逆三角形を組み合わせた五角形の盾の前面には確かに神鳥のレリーフが認められる。だがそれは墨で塗られたように真っ黒だった。オリハルコンを染めることなど誰にもできるはずないのに。
「それもわかんねえっす。聖獣を倒したのがイックスでも、聖獣は奴を勇者と認めなかったのかもしれねえなって気はしますが」
「……」
 謎は深まるばかりだった。イックスはどこへ行ったのだろう。そもそも彼はどうして自分たちをここへ運んだのだ?まさか最初から賢者の隠れ家についても知っていたのか?
「最初っからおかしいっちゃおかしかったんすよ。あんなに強ぇなら俺たちの護衛役なんて買って出なくたって、ひとりで塔まで行けたはずじゃないですか」
「……それもそうだな」
「中のことにも妙に詳しかったし、てっきり俺、イックスはこの家の人間なのかと思ったんすけど。けどあのお嬢さんもそんな剣士は知らねえっつうんです」
「あの子はヒルンヒルトの家の子なのか?」
「いや、どうやら違うらしいっす。赤ん坊の頃拾われてここで育てられただけで、血縁はないってことでした。その育ての親も何年か前に亡くなったそうで」
「……そうか」
 アラインたちは思わぬ史跡に辿り着いたようだった。ヒルンヒルトはアンザーツに同行した人間の中で、最も多く伝説を書き綴った記録者である。アンザーツの友人としても、幾多の術を操る大賢者としても、その名声は広く知れ渡っている。
「色々読ませて頂きましたがね、ここの大半は敢えて後世に残さなかった記録ばっかりみてえっす。アンザーツが冗談言ってだだ滑りしたとかの日常エピソード含めて」
 王国が勇者を神格化したがる気持ちはわからないでもない。おそらくヒルンヒルトもそれに乗ったのだろう。民を治める上ではそうした方が遥かにやりやすいし、アンザーツはもういなかったから。けれどヒルンヒルトはただの人間であるアンザーツのことを忘れたわけではなかったのだ。だから晩年、この地で膨大なアンザーツに関する記録を書いた――というのがマハトの見解だった。
 アラインの耳に戦士の声はあまり届いていなかった。今はイックスのことで頭がいっぱいで、他に何も考えられない。どうして彼が神鳥の盾を置いていったのか、その真意を知りたかった。彼には不要だったのか、それともアラインには必要だと思ったのか。
「……ここにこう書いてあります。『いずれまた魔の地を統べる者が現れ、勇者もまた現れる。それがアンザーツのような人間かどうか私にはわからない。けれど勇者は間違いなく特別な力を備えた人間だ。そのときいかに未成熟であっても、その者を守る力は計り知れず、必ずや魔を討ち砕く。修練を積めば誰しもある程度の強さは得られよう。だが勇者の資質とは純然たる力のみで決まるものではないのだ。勇者は必ず神に選ばれた血筋の男でなければならない。言い換えれば、それだけが勇者の条件なのである』って」
 マハトは一旦言葉を切った。ゆっくりと視線をアラインに合わせ、真摯な目で語りかけてくる。
「これは完全に俺の想像なんすけど。イックスが盾を持って行けなかったのは、勇者の血統じゃなかったからじゃないですかね? 今はちょっとヘコむくらい実力差があるかもしれないですけど、アライン様だってこれからどんどん強くなるわけじゃないっすか。どうしたらこの盾を元通りにできるかはまだわからないですけど、俺はやっぱりアライン様こそ勇者なんだと思います」
 忠義者の戦士の、その言葉にどれほど救われる思いだったか。
 アラインはマハトの献身を侮っていた。彼はイックスについて調べていたのではない。アラインが勇者に違いないという証拠を探してくれていたのだ。
 そう思ったら何故かイックスに言われた「仲間より大切なものなんてない」という言葉を思い出した。別れの挨拶もなく、こんな形で姿を消されてしまったが――彼の言動がすべてがまやかしだったとは、まだ思えない。






『アンザーツ、死にゆく私にあと何ができるだろう? 君に何を残すことができるだろう?』

『君の抱く苦しみを私は決して文字にはすまい。君の存在がただの偶像と成り果てても、誰もが君の真実を素通りしても』

『私は言ったね、木を隠すなら森の中だと。賢明な君はすぐにこの著を見つけ出すに違いない。幾千万の人間の中から私を見出してくれたように』

『さあ、君にすべてを話そう。あれから何があったのか。ムスケルやゲシュタルト、そして魔王ファルシュのことを』

『私自身の話なら、君はまったく別の方法で知ることになるはずだ。きっと楽しみにしていてくれ。私とてたまには君を驚かせたいと思うのだよ。君に驚かされるのはもうこりごりだがね』

『だがその前に、悲しい話を伝えねばならない――』

 森の奥、賢者の家を見下ろす丘で、イックスは勇者アンザーツに宛てられた書を閉じた。暗号魔法で書かれたそれは普通に読めばただの子供向けの英雄譚である。光る文字が浮かび上がって風に煽られ宙で崩れた。後には白紙の本だけが残る。
 勇者の失踪後に起きた、秘められた忌むべき事件。まだ上手く咀嚼できずに心は認めたくないと言っている。けれども前に進まなければ。

『私に君を救うことができるだろうか』

 最後のページに刻まれていた賢者の言葉。ヒルンヒルトの心の声に胸を打たれる。
 もう自分は、とっくの昔に心など失くしてしまったと思っていたのに。

『思い出す君はいつも曖昧な笑顔ばかりだ。アンザーツ、どうか君に永遠の安らぎが訪れるよう、死しても祈り続けると約束するよ』

『君の忠実なる友、ヒルンヒルト』






「しっかし当面の問題は、どうやって帰るかすよね……」
「そうだなあ……」
 温かな料理の並ぶ食卓でアラインとマハトはこの先のことを相談し合った。行きはイックスが尋常ならざる強さでばったばった敵を薙ぎ倒してくれていたので良かったが、帰路はそういうわけにもいかない。一番近い街までは何事もなければ一週間程度の距離だけれど、そこへ向かうにはまた深い森と川と谷を越えねばならなかった。
 どう考えても無理がある。というかそもそもふたりでは心許ないから三人目の仲間を募っていたのだ。
「あの、もし良ければわたしを同伴してはもらえませんか?」
 唐突な申し出は同じくテーブルについていたクラウディアからのものだった。
「え? ……えっ?」
 思わず間の抜けた返事をしてしまったが、彼女は気を悪くした風でもなく、もう一度同伴の許しを乞うてくる。
「きっと癒し手が不足しているのでしょう? 一通りはわたしにも扱えますので」
 確かにクラウディアのような美しい女性がついてきてくれれば士気も上がる。都で大人気のイヴォンヌ王女に勝るとも劣らぬ美人であるし。しかしこんな細身の女子がまともに武器を持って戦えるとは思えなかった。回復役が足りていないのは事実だが、守らねばならぬ人員を抱えて旅ができるほど今の自分たちに余裕はない。
「折角だけど……」
 が、断ろうとしたアラインに彼女はきっぱり言った。
「これでも昨年まで僧侶として辺境の国に修行に出ていた身です。お役に立てるかと思います」
「あ、あんたが!?」
「き、君が!?」
「ええ」
 にっこりと微笑んだクラウディアは「足手まといとわかればすぐ引き返しますので」と付け加えた。そうまで言われると断る理由がなくなる。
 食事が済むとアラインは家の外で彼女の体術や魔法の類を見せてもらった。それらは想定より遥かに高いレベルのもので、正直アラインに引けを取らないぐらいだった。
「すごい! クラウディア、すごいじゃないか!」
「ふふふ、伊達にこの森で暮らしていませんよ」
「ああそうか、確かにここで生活してたら嫌でも魔物と……」
 納得いく理由にアラインはうんうん頷く。彼女になら是非ともパーティに加わってほしい。
「しっかしアライン様、女の旅ってぇのは色々と入り用で……」
 が、何か不服があるようで、従者はもごもご言い淀んだ。別にその程度のこと大した問題ではなかろう。そうマハトを窘めようとしたアラインの横でクラウディアが笑った。
「大丈夫ですよ。旅暮らしには慣れていますし、僧侶免許もあれば便利なものですから」
 頼もしい言葉と笑顔だ。アラインはますます彼女の参入に乗り気になった。癒しに徹してくれる仲間がいれば思う存分自分は剣が振るえる。魔物との戦いに集中してレベルアップできる。
「僕はいいと思うぞ!」
 快諾の意を表明すると、マハトは渋々「アライン様がそう言うんなら……」と頷いた。なんだか歯に物の挟まった言い方だ。
「では決まりですね。早速支度をしてきます」
 ぺこりと頭を下げクラウディアは小走りに家の中へと戻っていった。
 残されたマハトがアラインに目配せしてきて、妙にじっとり「俺はややこしいことはごめんですぜ」と言ってくる。
「何が?いい子そうじゃないか」
「……けど女の格好してますよ。趣味か魔除けか知らねえすけど」
「えっ!?」
「やっぱり気づいてなかったんすね……。ありゃ男です」
 まさかもう惚れたなんて言わないでしょうねと突っ込んでくるマハトを余所に、アラインは「えええ!?」と脳内で絶叫した。全然わからなかったなんてもんじゃない。雀の涙ほども疑っていなかった。
「お前……まさか触ったのか?」
「触ってません! 見た目だけっす!!」
「よく見抜いたな。……そういう相手に慣れてるのか?」
「アライン様が鈍いだけでしょ!?」
 あらぬ嫌疑に涙目になりながら、けれどマハトは真剣にアラインに忠告する。
「本当のこと明かさない奴に気を許しちゃダメっすからね」
「……ああ。肝に銘じておくよ」
 マハトがクラウディアのことだけを言っているのではないと、アラインにもわかっていた。イックスに懐いて、憧れを向けた自分。それがどんなに無防備だったか彼は叱っているのだろう。
 思い返してみれば、マハトはアラインのいるところではまったくイックスに絡んでいなかった。特に剣術の指導を頼んで彼にくっついていたときは、いつも斧の柄に手をやってピリピリしていた。あれは魔物の出現に注意を払っているものとばかり思っていたが。
(……守ってもらってたのか)
 気づくのが少し遅かった。こんなタイミングでは礼も言えやしない。
「マハト」
「ん、なんすか?」
「頼りにしてるよ」
 いつもありがとうとも、情けなくてごめんとも言えず、そんな半端な言葉を選ぶ。マハトは一瞬目を瞠って「熱でもあるんすか?」と失礼な心配をしてきた。腹が立ったので脛を蹴り飛ばしておく。
「お待たせしました」
 クラウディアが出てきたのはすぐだった。十五分も待たなかったのではなかろうか。アラインが思わず「早いね?」と漏らすと、僧侶は「近いうちに旅に出るつもりだったんです」と明かす。
「辺境の国にとても大切な友達がいるんです。……せめてもう一度彼女に会いたくて」
 壊滅しかかっているという国の名にアラインたちは息を詰めた。その友人の生死については聞けなかった。
 辺境の国か。もしそこまで一緒に行くのなら、クラウディアとはかなり長い付き合いになりそうだ。曰くありげな尼僧の格好に今のうちに突っ込んでおくべきか、悩んで結局アラインは聞かなかった。
 少なくともこの森を抜けるまでは良好な関係を保たねばならない。打算の勝利だった。勇者がそんな損得勘定で動いていいのかという心の声は聞こえたが。



 ******



 辺境の国と魔界の国境で魔物退治に明け暮れていたディアマントの元に、世話係であるオーバストが姿を見せたのはついこの間のことだ。
「また話の途中で勝手に行ってしまわれて!」
 とかなんとか文句を垂れていた気がするが、そこはあまり記憶に留めていない。くだらないヒステリーには返答もしたくなかった。そのまま従者が帰るまで無視して素振りでもしているかと考えていたのだが、半泣きのオーバストが告げたのは聞き捨てならぬ情報だった。
「魔王の肉体を受け継いでいるのはおそらく息子のイデアールですとお伝えしたかったのに……!」
 何故いつも大事なことをさっさと言わないのだろう、この愚図は。
「言うのが遅い! そいつも魔王城にいたのではないのか!?」
「だ、だってディアマント様が最後まで私の話を……!!」
「貴様が要点だけ掻い摘んで話さんからだろう!! それで、イデアールというのはどんな奴なんだ?」
「う、うう……イデアールは強敵ですよ。魔物たちを種族ごとに団結させて、それぞれに長を任じ、代表者を統括する形で魔の国を組織化したやり手の総指揮官です。魔王ファルシュを倒すのと同じくらい骨の折れる相手だと思いますが……」
「フン。私が奴らを圧倒するほど強くなればいいだけの話だろう?」
「ま、まあそれはそうなんですが……」
 オーバストは「くれぐれも気をつけてくださいね」と念を押した。父の命令で今後はウェヌスの護衛につくらしく、あまりこちらの様子を見に来られないとのことだった。却って清々する。誰に見守られずとも己は己の務めぐらい果たしてみせる。
 従者は最後に他の勇者の動きが活発になってきたこと、辺境の国に「魔物殺し」と呼ばれる人間が現れたことをディアマントに伝えた。
「魔物殺しは兵士の国との境の村に留まっているそうです。いかがです? たまには人間と手合わせしてみるというのは」
「強いのか?」
「鬼のように強いとの噂です」
 そのひとことでディアマントは辺境の国の端から端まで移動してきたわけである。
 確かにそろそろ似たような魔物ばかり殺すことに飽きてきていた。ディアマントが昼も夜もなく狩りを行った結果、元いた峠近辺には目ぼしい魔物がいなくなっていたし、そうかと言って再び魔王城に挑むにも力不足であるのはわかっていた。ここはオーバストの進言通り、魔物殺しとやらに会ってみるのも一興かと断じたのだ。
 魔物殺しは辺境の国の最南端、オステン村――通称「水門の村」に逗留しているらしかった。隣国である兵士の国との間には広大な河が流れており、川上には大きな水門が霞んでいる。この水門が開きっぱなしになっているため、今は隣国への渡航ができなくなっているようだ。荒れ狂う水の流れは魔物の侵入ばかりか人の交流まで阻む。対岸の防衛策に村人たちはさぞ困り果てていることだろう。だがおかげで魔物殺しが足止めされているとも言えた。
(さて、仰々しい異名が期待外れでなければ良いが)
 ディアマントは金光の翼をしまい、地上に降り立った。村は空から眺めていたより荒廃しており、一方的に水運を封じられた痛手があちこちに見受けられた。水害のため折れたと思しき家の柱や森の木々。幾許の実りしか残さない田畑。これでどうやって日々の営みを続けているのか疑問が浮かぶ。天界人と違って人間は食べなければ生きていけないと聞いたのだが。
「おい、そこの。この村の人間か?」
 畑の隅で肥料を撒いていた年嵩の女を捕まえると、女は怯えた顔つきでディアマントを見つめ返してきた。見慣れないものには警戒を示す、これも人間の特性だ。
「は、はい……。旅のお方でございましょうか?」
「そうだ。人を探している。魔物殺しがここにいると聞いて来たが、どこへ行けば会える?」
 女は一瞬表情を凍らせた。そうして答えたくなさそうに「この時間は大抵森にいらっしゃいます」とだけ呟き、そそくさと農作業に戻ってしまう。
 妙な感じだ。魔物殺しの呼称もそうだが、畏怖はあっても受容している風ではない。恐れているのか?人間が人間を?
 周囲を見やると数名の村人が物陰からこちらを窺っているのに気がついた。
(不躾な)
 ぎろりと睨み返してやれば蜘蛛の子散らすように逃げていく。あまり愉快な気分にもなれず、ディアマントは支流の向こうにある暗い森へと歩き出した。



 痩せ切った村の土とは対照的に森は鬱蒼と生い茂り、地面には僅かな光しか届いていない。ディアマントは耳を澄ませて気配を探った。小さな獣の駆け足や、川のせせらぎが心地良く響く。
 しばらくそうして待っていると、やがて遠くで野獣の吠える声が聞こえた。狼が獲物を見つけたらしい。方角が定まるや否や、躊躇なくそちらへ飛んだ。
(魔物だ)
 近づくにつれ、それが単体ではなく複数いることがわかってくる。忙しない息遣いが折り重なっていた。ヴォルフの群れだとすれば厄介この上ない。呪文で一気に焼き払わねば数が多すぎて深手を負う。
(魔物殺しもいるか?)
 ディアマントは現場に急いだ。人間の強者がどんなものか推し量るにはまたとない好機だ。グルルルというヴォルフの低い唸り声が間近に聞き取れるほど接近する。茂みに降り立ったディアマントが目にしたのは、予想外と言えば予想外の光景だった。
 ――女だ。黒っぽい紅髪を無造作に跳ねさせた若い女が四方をヴォルフに囲まれている。
 あっと思う間もなく群れの中の一匹が彼女に襲いかかった。だが娘は難なく獣をかわし、恐ろしくしなやかな動きで長い足を振り抜いた。地を砕くかのごとき痛烈な蹴り、腕の伸び、そして電光石火の速さ。その破壊力たるや、ディアマントの剣に勝るとも劣らない。ほんの一撃で娘は数匹のヴォルフをまとめて打ち殺した。迫る第二陣の攻撃も易々と避け、拳で押し返す。
 獣の骨の砕ける音。内臓のひしゃげる音。憐れを誘う力ない悲鳴と止まらない風切り音。
 娘は終始無表情だった。機械的に目の前の魔物を痛めつけていた。
 三十匹はいただろうヴォルフたちをすべて葬り去ると、娘は額に張りついた髪を払って息を吐く。それから見逃した敵がいないか周囲をぐるりと一瞥し、ようやくこちらの存在に気がついた。
「クラウディア……?」
 目を瞠り、驚いた顔で娘がこちらに駆け寄ってくる。どこか逼迫したような顔つきは先程までの彼女とはまるきり別人に見えた。
「クラウディア? 誰だそれは?」
 聞き覚えのない名前に眉をひそめて問い返す。娘はディアマントの側近くで歩みを止めて上から下まで隈なく姿を確かめると、ややあって落胆の息をついた。
「……ごめんなさい。知り合いと少し似てたから……」
 天界人と人間を取り違えるとは無礼な女だ。少しばかりムッとしたが、本来の目的を思い出しかぶりを振る。
「貴様が魔物殺しか?」
「……そんな風に呼ばれてるわね。あたしはエーデル。ご覧の通り物騒な女よ」
 そう言って娘は自嘲気味に笑った。ご覧の通りと言うのはおそらく腕前のことだけではあるまい。まず性別に驚きはしたものの、それ以上にディアマントを驚かせたのはその肌と瞳の色だった。暗褐色の皮膚はどう見ても魔族のものだったし、黄金の瞳に至っては言うまでもない。村人のあの態度にも頷ける。誰もこの娘を同じ人間とは思わないだろう。
「それで、あたしに何の用?」
 尋ねこそしたがエーデルはさっさと自分の目の前から消えてくれと言わんばかりだった。面倒そうに腕組みしてこちらの反応を眺めている。
「我が名はディアマント。わけあって修練を積んでいる。その一環として、手合わせ願いたい」
 ディアマントとしては最大限の敬意を払って頼んだつもりだ。卑小な人間ごときに、命ずることこそあれど、許しを得ることなど普段なら有り得ない。だがエーデルはそんな気遣いも知らず、ハッと鼻で笑った。
「あたしと手合わせ? 大怪我したいならどうぞ?」
 不遜な態度に堪忍袋の緒が切れた。人間風情が図に乗りおって。余裕をかましていられるのも今の間だけだ。
「ならば仕掛けさせてもらうぞ」
「ご勝手に」
 エーデルはディアマントに背を向け歩き出した。その左手には森で狩ったと思しき鹿の死体が収まっている。
(そこまで私を愚弄するか!)
 ディアマントはもはや斬り殺すつもりで大剣を掲げた。剣速には自信がある。このまま振り降ろせば頭蓋をも打ち砕けるだろう。
(もらった!)
 だが叩きつけたはずの地面には何も転がっていなかった。視界には土の抉れ飛ぶ様だけが映っている。
「――」
 刹那、悪寒が背中を走った。巨大な黒蛇に飲み込まれる錯覚。思わず右手に跳び退る。
 踵はディアマントの鼻先を掠めて行った。見かけは華奢だが食らえばどれほどのダメージがあるか知れない。間合いを測り直すため距離を開け、体勢を整える。
 エーデルは少々意外そうな面持ちでディアマントを一瞥した。今ので仕留めるつもりだったのだろうがそうはいかない。こちらとて負ける気はないのだ。
「余所見してると危ないわよ」
「!?」
 と、前触れもなく天地がひっくり返った。一瞬で風景が上下逆転し、気がつくとディアマントの身体は地面に引き摺り倒されていた。足首を見れば鞭のよう蔓草が絡みついている。いつの間に、と驚愕しているとこれまたいつの間にやらエーデルが間近に立っていた。
「まだやるの?」
「……当然だ!」
 返答と同時、ディアマントは剣を旋回させた。この距離ならば避けられまい。はじめの一撃と違い、彼女の素早さを考慮した上での攻撃だ。狙い通り刃はエーデルを吹き飛ばした。固い手応えも感じたし、今度こそ確実に急所に入ったはずだ。
 土埃が舞い上がる。木に激突したらしいエーデルが何がしかの反応を示すのを、ディアマントは身構えて待った。
 人間の女相手に少々やりすぎたかと今頃になって気まずい思いが湧いてくる。あと十秒待ってみて、何の反応もなければ癒しの術をかけてやろう。
「ッ……!!」
 激烈な痛みにディアマントは小さな悲鳴を上げた。焼けつくような右腕の感触。折れた手首から大剣が転がり落ちる。
 右腕を絡め取った蔓草はそのまま逆方向へディアマントを引っ張った。腕の自由が奪われて、再び地面に這いつくばる羽目になる。
 蔓草には微量ながら魔力が通っていた。どうもこの女は普通の人間ではないようで、肉体に集約されない不安定な力が触れた物に影響を及ぼすようだった。
「貴様……っ!」
「まだ続けるつもりなの?」
 うんざりしたように息を吐き、エーデルは右足を振り上げた。



 目を覚ますとまだ森の中だった。森の明るさから推測するに、気を失っていたのは数時間程度のことと思われる。だが屈辱は屈辱に違いない。人間の、よりもよって女に負けるとは。
(なんなんだあの女は?)
 強すぎる。人間の身体能力を越えている。ディアマントの剣は確かに彼女に直撃したはずだった。なのにけろりと次の攻撃を加えてきて。
「……っくそ!」
 ズキズキと痛む身体にディアマントは回復魔法をかけた。単なる傷なら一瞬で癒せる。
 敗北感に支配される前に急いで起き上がり、きょろきょろ辺りを見渡してエーデルの姿を探した。
 絶対にこのままではいられない。一刻も早くあの女を打ち負かさなければ、自分は二度と天界人を名乗れない。
 オステン村に戻るとちょうどエーデルも一日の狩りを終え帰ってきたところのようだった。彼女は村に世話になっている謝礼として森の獣を引き渡しているらしい。集まった村人たちと何やら交渉しているのが見えた。
「魔物殺しエーデル!」
 あちらの都合などお構いなしで名を叫ぶと、ギョッとしたようにエーデルが振り向いた。背中の剣に手をかけたディアマントを見て村人たちは引っ繰り返り、我先にと広場から逃げて行く。
「あなたさっきの……。傷はどうしたの?」
「そんなことはどうでも良い。もう一度勝負だ。」
「癒しの術を習得してるのね? もしかして僧侶なの?」
「私はそんなものではない。行くぞ!」
 この場にオーバストがいれば、きっと「ディアマント様は頭に血が昇っておいでですよ!」と叱ってくれたことだろう。だが生憎と従者は不在であったし、自分ひとりでは冷静になどなれなかった。
 エーデルは先程の蔓草を手にしていなかった。振り降ろされた大剣を受け止めたのは彼女自身の細腕だった。
「……貴様本当に人間か?」
 クロスした両の腕でエーデルは刃を押し留めている。相当の力を加えたにもかかわらず、皮膚はほとんど無傷に見えた。
「答える義理も義務もないわ」
 人外の速さで襲いかかる足をディアマントは掴み返す。しかし力技で撥ね退けられ、鳩尾に重すぎる一撃をもらった。
「うぐ……っ!!」
 速度もそうだが何より力が普通でない。肉体的限界をあっさり突破している。鉄を砕き、岩を貫く。そんな力が与えられている種族はこの世にひとつだけだ。――つまり、魔性の者。
「ディアマントだったかしら。本当にそろそろやめた方が身のためよ」
 素直に敗北を受け入れられるほど安い矜持は持ち合わせていない。こちらが戦闘意思を放棄していないことを認めるとエーデルは嘆息とともに呟いた。
「殺していい?」
 そのぞっとするほど冷たい眼差し。諦めと無気力を内包した殺意。
 死にたがりの目だと思った。生への執着が限りなくゼロに近い。
 何故なのかわからない。だがディアマントは一瞬で動けなくなった。戦意を喪失したのでも、恐怖に支配されたのでもなく。
「……揉め事はうんざりよ。これ以上騒ぎを大きくするなら本当に死んでもらうから」
 エーデルはそう言ってディアマントに背を向けた。おずおずと出てきた村長らしき人物に「わかってるわ。もう面倒は起こさない」と約束し、歩み去って行く。
 ディアマントは半ば呆然と彼女を見送った。
 あれが魔物殺し。勇者ですらない女。
 ……ならば他の勇者候補たちは彼女以上の強さを備えているというのだろうか。



(今日は変な男に絡まれたわね……)
 ぐったりして古い宿の寝台に身を任せると、エーデルは薄く瞼を開いて天井を見上げた。
 この村に来てもう数ヶ月だ。水門は閉じる様子もなく、旅は一向に進まない。早く勇者の国へ行ってあの子に会いたいのに。
(クラウディア……)
 生まれた街からここに着くまで土を食らって生き延びた。時には獣以上に獣じみた真似をして。
 どんな魔物が襲ってきてもエーデルを殺すことはできなかった。返り血を浴びる毎に髪は紅く、肌は黒く染まった。人間に戻れる日はもう来ないだろう。クラウディアに預けられた首飾りを持っていなければ、今頃は絶望で死んでしまっていたに違いない。
 もう一度彼に会いたかった。楽しかった日々の思い出を抱いて死にたかった。今はただ、その想いだけで生きている。
(約束だものね……)
 まどろみの中、エーデルは懐かしい友人の顔を思い出す。美しい青い瞳とビロードの金髪。神様の祝福を一身に受けたような人。
 ディアマントを見たとき、クラウディアが訪ねてきてくれたのかと思った。彼はあの子と同じ色の髪と目をしていたから。
 でも違う。クラウディアはもっと穏やかで、もっと優しい気配をまとっていた。
 彼との出会いがうんと昔の出来事のようだ。灰色から極彩色に塗り変わった世界は、今では真紅と漆黒に支配されている。
 クラウディアはわかってくれるだろうか。変わってしまった自分を、それでも見つけてくれるだろうか。
 いつものようにエーデルと、美しい声で名を呼んで、あの子が振り返る。
 そんな光景を思い浮かべる。



「あの、エーデルさま。あのう」
 翌朝エーデルは久しぶりに他人の声に起こされた。困り切った宿の主人が部屋の前でしきりに自分を呼んでいる。何事か問えば、こんな朝っぱらから自分に客人があるとのことだった。
 まさかと思ったがそのまさか、宿の前で仁王立ちしていたのは昨日の男だった。時間帯も考慮せず、なんて非常識なのだ。一体彼はどこの世間知らずのお坊ちゃんなのだろう。
 頭痛を堪えてエーデルは拳を握り締めた。事と次第によってはもう本当に殺してしまおう。
 辺境のあちこちをさすらって、魔物も盗賊もたくさん手にかけた。わかったのは命の重みではなく軽さ。自らを危険に晒す馬鹿者は死んでも仕方ないということだった。
 大人しくしていればいいのに。明らかに異質なエーデルを安全と食料確保のため追い出さないでいる、ここの村人たちのように。
「しつこい男は嫌われるわよ」
 表に出るなりエーデルはそうディアマントを突き放した。もし次に彼が剣を振り翳したら、有無を言わさず息の根を止めるつもりだった。
 だが彼が口にしたのは手合わせという言葉ではなく「しばらくここにいるが構わないか?」という問いかけで。
 エーデルはきょとんと目を丸くした。それは別にこちらの許可を必要とすることではないだろう。
「己ひとりで戦うつもりだったが気が変わった。いずれあの水門を閉ざしてこちらに渡ってくる勇者が現れる。……それを待ってみようと思う」
 ディアマントの台詞の意味は正直エーデルにはよくわからなかった。けれど彼も誰かを探しているのだろうかと思うとほんの少し共感を覚えた。
 水門を閉ざして訪れる勇者――それがクラウディアならいいのに。
「狩りを手伝ってやる。その代わりお前の技を見せてもらうぞ」
 昨日会話したときよりも、今のディアマントは落ち着いて見えた。もう少し背が低くて、もう少し髪が短くて、もう少し線が細ければクラウディアに似ていないこともない。
 そう、とだけ返しておくとエーデルは宿の部屋に戻った。ディアマントも追ってくるようなことはしなかった。
 懐かしく愛しい青い瞳。別人だとはわかっているのに、不思議な幸福感が湧き上がる。
 ――クラウディア、今どこで何をしてるの?
 ――あたしを思い出すことはある?
 エーデルは服の内から首飾りを取り出すと、遠い空の下にいる友人に語りかけた。
 早く会いたい。会って楽になりたい。







(20120530)