第六話 正義の証明を






「なんじゃ子供か。気骨のあるモンと言うたのに、またすぐ勝負がついてしまうがね」
 間近で響いた男の声にアルタールは飛び退った。一拍遅れて大きな輪刀が足元の石床を抉る。
「ほう? 避けるくらいの能はあるか?」
「ッ……!?」
 さっきまで自分の部屋にいたと思ったのに、気がついたらどこかの塔の屋上で風に晒されていた。何が起こったかなど考えるまでもない。次の試合が始められたのだ。
 ファッハマンたちの計画が破綻したことは賢者の口から直接聞いていた。もうそろそろ試験を進める気でいることも。だがまだ自分は……。
「恨みなや。命くれちゃるほど優しゅうないでな」
 対峙した男は平和主義とは程遠いようである。放たれた殺気に足が竦んだ。
 中国雑技団にこんな男がいた気がする。自由自在にチャクラムを操り、観客を魅了する。
 今まさに的として狙われているのは自分だなんて考えたくもなかった。腰の刀だけは何とか構えられたものの、肘から先に全く力が入らない。
「あっ……!!」
 輪刀は大したモーションもなく放たれた。飛び込んでくる凶器を避けてしゃがみ込むと、そこに二投目が投げ込まれる。男は素人の動きなど見切っているらしかった。
(駄目だ、かわせない)
 激痛を予感してアルタールは目を瞑る。だがその前に賢者の囁きが耳を擽った。
「魔法の使い方は教えただろう?」
 瞬間、発生した斥力に輪刀が弾き飛ばされる。対戦者は目を丸くした。仕留めたと思ったのにという顔だった。

「そうだ。それでいい、アルタール」

 振り仰げばヒルンゲシュピンストは声だけでなく姿も露わにさせていた。「次は水魔法を使ってごらん」との指示に男は――確かシッペンという名だったか――見る間に表情を歪めた。
「……タチが悪いのう。最初っから出来レースじゃったわけか」
「悟るのが遅かったな。君のその類まれな身体能力、彼のために役立ててくれ」
 アルタールのすぐ横で賢者が低く笑う。「死にたくないだろう?」と問われれば刀を抜かざるを得なかった。
 敵意に満ちたシッペンの眼差しは説得可能なそれではない。僅かな隙もきっと見逃してはもらえまい。
「帰りたいなら戦わなければ。アルタール」
「……っ」
 悪い熱に浮かされるようにアルタールは柄を握った。












 後ずさりした背中が冷たい石壁に当たる。逃げ場を探してペルレは視線を彷徨わせた。
 よりにもよって、どうして相手があの男なのか。運がないにも程がある。
 砂時計の影でむっくり起き上がった大柄な身体はクヴァルムのものに相違なかった。縺れる足でペルレは階下へと逃げ出した。
(誰か……、他に誰かいないの……!?)
 塔の外側に取りつけられた粗末な階段に柵はなかった。一歩足を踏み外せば硬い岩盤に真っ逆さまだ。
 それでも足を緩めようという気にはならなかった。死んでも追いつかれたくなかったから。
「ん、んあ〜?」
 駆ける足音に気づいたか、クヴァルムの間延びした声が響いてくる。一瞬ちらりと天を仰ぐと身を乗り出して地上を覗き込む巨漢と目が合った。
「……っ!!」
「ペ、ペ、ペルレだ、だだ。や、やった!! やったー!!!!」
 歓喜の雄叫びに芯から震え上がる。蛇の巣に放り込まれた蛙の気分だった。
(ど、どうしよう。砂時計を壊さなくちゃいけないのに……!!)
 あんな男とどうやって協力し合えばいいのだろう。あちらはペルレを殺すことしか頭になく、時間制限まであると言うのに。
 降りたフロアで必死に皆の姿を求める。だが薄暗い塔の中に人影を見つけることはできなかった。












 対戦相手の茶髪を見てホッとした。ひとまずよく知る賞金稼ぎでも、昔馴染の行商人でも、ペルレやツレットやファッハマンでもないようだったから。
 ネルケの視線に気がついてゼーゲルは半歩後ろへ退いた。顔に残った大きな傷は故郷の街が滅びたときにできたのだろうか。確か彼はその際に妻と娘を喪ったと聞いている。
 やり場のない感情の矛先を王族に向け、ルーイッヒ襲撃の手伝いをした男に我知らず複雑な笑みが浮かんでいた。
 嘲笑だったのかもしれないし、同情だったのかもしれない。だがいずれにせよ刃を収める理由にはならなかった。彼は彼で、ルーイッヒ一派に属するネルケに槍の穂を向けていたから。
「一応聞くけど、あたしと二人で砂時計をどうにかする気はあるのかな?」
「……」
 ゼーゲルは小さく首を振る。そう、と吐き捨てネルケはナイフを両手にした。
「ごめんね。ここで死んでもすぐには奥さんたちのところへ行けないと思うけど」
 躊躇のなさに笑ってしまう。一人殺してしまったら二人も三人も多分変わらないのだろう。まして己はこの館へ来る前からの殺人者だ。殺そうと心が決まれば震えて狙いを外すなんて下手はしない。ちょうど目の前の彼のようには。
「遺言は早めに済ませてくれる?」
 突進を横にかわすとネルケはナイフを投擲した。背に迫る白刃に気を取られているゼーゲルの足元へ魔力の影を忍ばせながら。
 本当に、こんなときだけは迷いない。


 









 なんという作為を感じる組み合わせだ。これほど説得の難しい相手をあてがわれてしまうとは。
 ヴォルケンは槍の切っ先を右に左に避けながら、そばかす顔の少女を睨んだ。レーレやラツィオナール以上の曲者かもしれない。何しろ一切の言語が通用しないのだから。
「あかんてクノスペ!! カスターニお兄ちゃんが悲しむで!!」
 身内の情に訴える作戦は今のところ功を奏していなかった。塔のあちこちを破壊しながら無言の少女は猛攻を仕掛けてくる。余計な思考が取り除かれている分だけ、速く、強く、容赦ない攻撃だった。
(どないする!? ファッハマンの話では、あの砂時計さえ何とかなったら試合は強制終了のはずやけど……!!)
 既に大半が裏返った石床の上を跳ね、短い槍で応戦する。動きが単調で直線的なのがまだ救いだった。緩急やフェイントを入れられたらもう対応できる気がしない。
「おッも……!!」
 受け止めた攻撃の勢いで足が瓦礫に沈み込んだ。凄まじい腕力である。本当に女の子なのだろうか。
 だが物は考えようだ。もし上手く誘導できれば、彼女の力で核を破壊できるかもしれない。
 よし、と頷きヴォルケンはじりじり砂時計に近づいた。追い詰められているふりをして硝子管の最もくびれた部分を背につける。
「――ッ!!!!」
 振り下ろされた槍の一閃を屈んでかわすとガキンという硬い音がした。だが見上げても破片が降ってくる気配はなさそうである。やはり時間を止めでもしないと決定打にはならないのか。
 見切りをつけると同時、脱兎のごとくヴォルケンは逃げ出した。武器を持ち直したクノスペが後ろから追いかけて来る。
 戦う覚悟を決めねばなるまい。カスターニには悪いが自分にとって一番大切な女の子は別だ。まだ彼女を、傷ついたままのネルケを放ってはおけないのだ。
(弔いはしたる。呪いからも解放したる。堪忍やで)
 階段めがけて屋上から飛び降りた。着地は少々危うかったが一階下のフロアには無事到着する。思った通り、内部の通路は細かった。ここでならクノスペも縦横無尽に槍を振るえはしまい。
 少女の現れるであろう階段口に矢を構え、ヴォルケンは息を殺した。できれば一撃で仕留められてくれよと祈りながら。












「大丈夫です。大丈夫ですから、一緒に砂時計を破壊しましょう」
 マイスにそう呼びかけてきたのは、最後まで脱出計画に参加するよう訴えていたシェルツだった。
 ごく普通の魔法使いとして平凡に生きてきたマイスにとって、賢者の強いる試験は道徳的にも実力的にも受け入れ難いものだった。それでも自分の命を差し出すよりは他人に犠牲になってもらう方がましだと考えて、ルーイッヒを襲ってしまったのだ。そんな自分になお協力しようと手を差し伸べてくれる男がいるとは信じられなかった。
「は、は、破壊ってどうすればいいの」
 半泣きで尋ねるとシェルツはそれぞれ魔法と武器で砂時計を攻撃するのだと教えてくれる。言われるがままマイスは土魔法を捏ね始めた。
 砂時計を支える土台に魔力をぶつけ、干渉を試みる。館を形成していた水時計よりはこちらの核の方が脆いはずだとの話だった。
 無為に死ぬのは嫌だ。まだ二十歳にもなっていないし、やりたいことだってたくさんある。生きて師の元に帰りたい。
「うう、駄目だ……硬いよお……」
 だがどれだけ魔力を注いでも砂時計はびくともしなかった。シェルツも硝子を砕こうと跳び蹴りや剣での打撃を繰り返すが、ひびの一つも入る様子は見られない。
「諦めてはいけません。頑張ってください」
 励ましに歯を食いしばり、なんとか魔法を維持する。瓦礫を集めて押し潰そうとしても、目いっぱい圧力をかけても、全て徒労に終わった。次第に魔力も心許なくなってくる。
 砂時計はさらさらと砂を落とし続けた。あとどれくらい猶予が与えられているのだろう。時間よりも先に自分の力が尽きてしまいそうだ。
「どうしよう、シェルツさん。僕の魔法じゃこれ以上は……」
 息切れしつつ振り返るとシェルツは困り果てた顔で「もう魔力が残っていらっしゃらないんですか?」と尋ねた。
 その問いにぞくりと寒気が走る。何故なのか急に知らない男を相手にしている錯覚に囚われた。すぐ後ろにいる彼と、さっきまでの彼とに違いなど見当たらないのに。
「も、もう……、ほとんど……」
 悪寒はますます酷くなっていく。震えた足は少しずつシェルツとの距離を広げ始めた。冷や汗の理由に思い至って愕然とする。
 そうだ。魔力は使い果たせばしばらく戻らないけれど、彼の体力はまだ有り余っている。もし彼の気が変わって、今から戦闘が始まったらどうなるんだ?
「何かありましたか、マイスさん?」
 引き攣った笑みしか返すことはできなかった。シェルツは慌てた素振りも見せず、にこやかに佇んでいる。












 青髪の少年剣士が悔しげにこちらを睨む。お行儀の良い突きを跳んでかわして足りない頭を踏みつけてやれば、フォラオスは呆気なくバランスを崩して転倒した。
「粋がってた割に大したことねえな。お師匠様から一体何を習ってたんだ?」
「うるさいッ!!」
 起き上がりかけた成長期の身体を蹴りつけその場に縫い止める。腕を伸ばしても届かぬ位置にレイピアが遠のけば、ウーゾの足元でもがくのはただの無力な若造になった。
「お前の剣技、焦ると上体からしか出て来なくなるんだよ。だから起点が見えやすい」
 踏みつけた背中に語る。強敵に出会うのはこれが初めてだったのか、フォラオスは無茶苦茶に腕を振り回した。「うるさいうるさいうるさい!!!!」とこの期に及んでよく叫ぶ。
 もう少し痛めつけてやれば身動きも取れなくなるか。そう判断して右腕の付け根に思いきり足を振り下ろす。骨の砕ける音に混じって絶叫がこだました。
「……っ、……ぁっ……」
「大人しくしとけ。あの砂時計をぶっ壊すまで」
 ミルトから聞かされた話によると、核が消えれば空間も消滅するのだそうだ。仇討ち以外の目的で人を殺めるのはなるべく避けたい。第二試合で戦ったのは胸糞悪くなるほどの屑だったから踏ん切りついたが、第一試合の後で見た遺体はどんな人間だったか知りようもなかった。フォラオスにも無礼な一面はあるにせよ、殺そうと憎むほどではない。戦闘を回避できるならその方が望ましかった。
「――」
 ところがだ。剣士から数歩遠ざかったところで異な空気を感じ取った。振り返れば間近に刃の閃きがあり、反射的に跳び退る。
「!?」
 頬に掠ったと思ったのに痛みや出血は見られなかった。それどころか剣を構えていたフォラオスの姿まで幻のように消えている。
(なんだ? 何が起きた?)
 目を凝らし、ウーゾは屋上をぐるりと見渡した。少年剣士はまだ石床の上で這いつくばっていて、やっと左手にレイピアを手にしたところだった。
「幻術か?」
 問いかけと同時、またフォラオスそっくりの幻が出現する。本物と同じく右肩を庇いながら、それはゆっくり立ち上がった。そうして立ち上がったときにはもう本人との区別はつかなくなっていた。
「殺してやる……」
 二重音声が耳に響く。「僕に恥をかかせやがって」とフォラオスは憤怒の形相を見せた。
 なんだと急速に心が萎えた。情をかけてやっても結局は牙を剥かれるのか。
(人に忠告できる立場じゃねえな、俺も)
 ブラオンやミルトをお人好しだと笑えない。もしかすると自分が一番甘かったのかもしれない。
(あいつの剣も、選んでやったのは俺だった)
 誰が友人を殺したのか。賢者か、ツレットか、或いは――。
 思考を振り払うべくかぶりを振るとフォラオスがにやりと口角を上げた。
「怖気づいたのか?」
 馬鹿なことを。ろくに負けたこともないお坊ちゃんの剣が倍に増えたところで何も変わらない。二歩で開いた間合いを詰めると防御の間も与えずに顎を蹴り抜いた。二分の一の確率だったがどうやら正解だったらしい。
 鼻血を噴いてフォラオスは倒れた。ウーゾは取り落とされたレイピアを掴み、対戦者の喉元に突き立てる。
「あばよ、お坊ちゃん」
 血飛沫を浴びながらミルトの顔を思い出していた。自分が間を取り持つからと気にかけてくれたことを。
 もし生き残っているようだったら、役立ちそうな技の一つでも伝授してやろうか。あいつはどうも生き残るのが下手くそそうだし。
 それともこういう己の考えを、今ここで捨ててしまうべきなのだろうか。












 つまらないなとラツィオナールは嘆息した。実につまらない。獲物にこうも手応えがないのでは。
 対戦者はほんの少し長い棒と化した槍を握って尻餅をついた。そこらの自警団が好んで導入している安物だ。柄にはほとんど鉄が使われていないから、フラハ家秘蔵のシャムシールを受けて凌ぐこともできない。ミルトの槍は穂先から根元近くまで細切れになって散らばっていた。
「やれやれ。フランベルジュの出番が回って来なかったではないか」
 腰にはもう一本の愛剣を差している。コレクションしている武器を丸ごと持って来れたなら、もう少し楽しいひとときを過ごせたろうに。そう思うと悔やまれてならない。
「さて、服が汚れる前に終わりにしよう。あまり面白い技も持っていないようだしね」
「……ッ!!」
 緩やかなカーブを描く長い刃を閃かせ、片足のない青年を屠る。切っ先が肉を裂き、骨の隙間を通り抜けていく感触はラツィオナールに得難い興奮と恍惚をもたらした。最早泣き叫ぶ気力も残っていなかった青年は血溜まりの中で絶命する。
 濡れた靴だけは後で洗っておかねばなるまい。従者の一人も連れていないのに、全く煩わせてくれる。
「死体は切ってもやはりつまらんな」
 反応のない背中に剣を滑らせてラツィオナールは顔をしかめた。
 三度目の眩い光が不躾に唇を割り、喉の奥へと入り込んでいく。
 ふと振り返った砂時計は中の砂ごと静止していた。












 レーレは感激に胸を打たれた。あの方は真実私の思いを理解してくださっているのだと。
 目的のために利用されていることは百も承知だ。ヒルンゲシュピンストにはヒルンゲシュピンストの追い求める夢がある。だがこんな風に慮ってもらえると、未来に明るい展望が持てた。
「レーレ、本気なのかよ……!! あんな人でなしの味方に付いてどうするつもりなんだ!?」
 うるさく喚く男は大風の結界でこちらに近づけないでいる。
「本気に決まっているでしょう、イムビス。あの方の元でなければもう一切が無意味なのですわ」
 お節介な従兄弟は勝手に家を離れたレーレを案じているようだった。王の許可なしでは接触不可能な自分を説得するためだけに、こんな試験にのこのこ出向いて来るとは運のない男である。
「逆にあの家に戻る方が、私にとって不幸以外の何物でもありませんわね」
「なんでだよ!? 長く続いてる立派な血筋じゃねーか!! お前の両親だってお前のことすげー心配して……」
「心配? お父様たちが心配しているのは私ではなく金蔵のことでしょう?」
「……っそうだとしても俺は!!」
「俺は違うと仰りたいんですの? あなただって大した違いはありませんわ。金銭と引き換えに本家の血統を欲しがっている。本当に私の中身が見えておりますの?」
「レーレ、俺はそんなんじゃない!!!!」
 三つも年下の子供が偉そうに。男がいつも女を支配できると思ったら大間違いだ。父だから、いずれ夫になるからと理由にもならない理由を振り翳して奪うだけ奪い尽くそうとしているくせに。
「私の望みを知っているならここで会うはずありませんわ!!」
 研ぎ澄ませた疾風をイムビスに向かわせる。ただ力を得るだけでなく、生い立ちに報復する機会を与えられたことが嬉しくてならなかった。
 燃え立つ怒りを、飼い殺すしかなかった諦めを、ヒルンゲシュピンストは解放していいと言ってくれているのだ。
 愛しているものは一つだけ。その対象が人間ではないのだから、己もまた人でなしの眷属なのだろう。
「……ッ!!」
 腕や肩に深い裂傷を刻まれて、やっとイムビスはサーベルを抜いた。まだ悲しげに表情を歪めているので別の魔法を追加発動させてやる。魔導師を二人も食べたので、魔力にはまだまだ余裕が残っていた。
「あなたフロイデと二人で候補者の認定を受けに来ていたでしょう? この術、彼女からいただいたんですのよ」
 瞳に灯した暗い魔力はまともに視線を合わせてしまった男の眠りを引き摺り出す。突如襲いかかってきた睡魔にイムビスは抗い切れなかったようだった。
「フロ、イデ、って……。まさかお前が……」
 うら若き乙女の名は自分たち二人の従姉妹のものだ。素直で大人しく可愛らしい子だった。馬鹿な親の言うことを疑いもせず信じていた。
「あの子自分が魔法使いだって隠しておりましたものね。私にも魔法研究なんて止めるようにと食い下がるので、頭に来て殺してしまいましたわ」
 レーレの浮かべた薄笑いにイムビスが咆哮を上げる。
 底の浅い男。女なんて皆同じだと内心では軽んじている男。
 ごきげんよう、と呟いて三つめの魔法を生み出した。忍ばせていたポケットの種が発芽し太い根を伸ばす。勢いのままイムビスを引き倒した巨大な花は、覗いた首に蔓を巻きつけ呼吸を奪った。
「従順な妻になれず、申し訳ありませんでしたわね」












 生存している候補者は二十五名。一対一の試合をするならどこかで調整が行われて当然だ。
 砂時計を挟んで対峙する者が主君ルーイッヒだけではないと気づいたとき、ジャスピスの胸にはまだ一縷の希望があった。一人殺せば二人は館に戻れるのではないかという希望だ。
 だがその考えは甘かったようだ。二対一かよと毒づく無精髭の賞金稼ぎにとどめを刺した後も、ジャスピスとルーイッヒは石塔に取り残されたままだった。
「……ムートの力は私だけに取り込まれたようですね」
 呟いて、ジャスピスはランスについた血を振り落とす。主君に仇を成そうとした狼藉者の筆頭を切り払ってやったのだから、人命を奪ったことにさしたる悔いはなかった。ここで手を下さずとも処刑場で死んでいたのは間違いない。
 ただルーイッヒの沈痛な面持ちが胸を締めつけた。人の上に立つには彼は優しすぎる。薄汚れた小娘に温情をかけ、拾って側に置いたときから魂は何ら変わっていないのだ。身内の手酷い裏切りに遭っても。
「じきに砂は全て落ちてしまいます。どうぞご決断を」
 鉄兜を脱ぎ捨てて主の前に素顔を晒した。次いで腕甲を、胸当を、取り外しては足元に放っていく。ランスはとっくにどこかへ転がっていた。
「ジャスピス、まだ核を破壊する道が……」
「ありますか? そんな時間が? 万が一ここで二人とも死ぬことになったら誰が王国を導くのです?」
 厳しい語調で尋ねるとルーイッヒは押し黙る。責任感の強い少年だ。悲しみに惑わされても取捨選択を誤りはすまい。後でどんなに自分を責めるかわかってしまうだけに心苦しいが。
「ヒルンゲシュピンストの首に鎖をかけられるのはこの国の王である者一人だけ。あなたが叔父王を廃し、政権を取り戻さねばなりません。おわかりですね?」
「……っ」
 沈黙する主君の手に無理矢理剣を握らせる。跪いて無防備な心臓を指し示すと狙いをつけやすいように喉を反らした。
「ルーイッヒ殿下。私は先程あなたをお守りしきれませんでした。その責を問うて、お手打ちにしてくだされば良いのです。何もおかしな話ではないでしょう」
「ジャスピス、そんな理由では私は!」
「どんな理由でも構わないと言っているのですよ。あなたの治める世をこの目にできないのは残念ですが、礎となれるなら本望です。さあ、お早く」
 ちらと動かした目玉には今にも尽きんとする流砂が映った。同じ砂時計を振り返ってルーイッヒが目を赤くする。
 震えている手に掌を重ねた。濡れた頬を拭うまでは、指が届かなかった。
 一人になっても戦えるだろうか、この方は。少し心配だ。












「クノスペのこと、頼んでいいか……?」
 乾いた声が囁くのにバイトラートは頷いた。館の壁も空間の核も切れないのに、生き物相手ならオリハルコンの切れ味は鈍らないらしい。舌打ちを堪えて対戦者の遺言に聞き入った。もうそれくらいしかしてやれることはなかった。
「ほ、ほんとは優しくて、真面目な子なんだ。ちょっと気は強いけど……皆から頼りにされてて、じ、自慢の妹だった。……勇者なんて危ないから……、よせって……言っ……のに、なあ…………」
 勝敗は一瞬で決した。時計の砂が半分落ちたら自分が生き残るのに専念しようと提案したのはカスターニの方だった。
 もっと戦いやすい下衆が相手なら良かったのに。ラツィオナールやクヴァルムのような。
 砕けた鎧は腹の大穴から溢れ出す血で真っ赤に染まっている。肌は見る間に青褪めて、生気を失っていった。
「わかった。あの子のことは俺が責任持つ。安心しろ」
 槍を取り落とした手を握り、バイトラートは力を込めた。約束に安堵してそばかすの槍使いは意識を手放す。淡い光が皮膚を覆えば消えてしまうのはすぐだった。一目でも正気の妹に会いたかったろうに。
(執着がなきゃ譲ってやれたのかな)
 喉を降りて行く生命の感触に胸が悪くなる。
 脳裏に浮かんでいたのはネルケとヴォルケンの顔だった。












 これはいけない。しくじった。賢者の魔法を見くびっていた。
 普通の少女なら肩に矢が突き刺さった状態で全力疾走などできはしまい。だがクノスペは負った深手など物ともせずにヴォルケンを追いかけて来る。よくある田舎のゾンビ怪談のようだった。
(痛覚もないんかあの子!?)
 細い通路を逃げ回りつつ次の一手を考えた。懐から油瓶を取り出すと、足を滑らせることを期待して中身を床にぶちまける。彼女が体勢を崩した隙を突き、ヴォルケンは短刀を投げつけた。
(どうや!? 今度こそ致命傷か!?)
 腹部を抑えてクノスペが蹲る。矢を射る構えを取りながら反応を窺った。あまり何度も年頃の女の子に武器を向けたくないのだが。
「……ッ!! ちいッ!!」
 むくりと起き上がった無表情の少女目がけて毒矢を放つ。即効性の痺れ毒だ。流石にこれが効かないということはないだろう。毒を浄化する魔法属性でも持っていない限り。
「……ぅ……、……っ」
 眩暈に負けて片膝をついたクノスペを見てホッとした。豊富な品揃えを心がけていて助かった。
 だが本番はここからだ。不憫でも討ち取るものは討ち取らねばならない。
(十六歳、やったかな)
 幼さの残るツインテールに唇を噛む。十六の頃は、ネルケだってただの村娘だった。妹と二人で慎ましく幸せに暮らしていたのだ。あんなことさえなかったら。
(堪忍な)
 ショートスピアを握り締めるとヴォルケンはクノスペに近づく。左肩には二本の矢が、腹部には鋭い短刀が埋まっている。命は風前の灯火だ。
 せめて苦しませぬようにと至近距離に身を屈め、心臓に狙いを定めた。彼女が何か呟いているのに気がついたのはそのときだった。

「……よ……。痛いよ、お兄ちゃん……」

 鋼鉄の表情はそのままに、声だけが悲痛な色を帯びている。
 ――ヴォルケンお兄ちゃん、ネルケお姉ちゃん。
 かつて自分たちを呼んだニコの声が甦り、ほんの僅かたじろいだ。それが命取りになった。
「お兄ちゃん、どこ」
 血塗れの短刀を傷口から引っこ抜いてクノスペは鮮やかに手首を返す。瀕死の女とは思えぬ力で彼女はヴォルケンの頸動脈を切り裂いた。
「……っ」
 視界は紅に染まった後、急速に闇に引き寄せられた。
 声はもう聞こえなかった。
 誰の、どんな声も。












 忙しない呼吸に居所を突き止められそうで余計に全身が震える。怯えているだけではどうにもならないとわかっているのに立ち向かう勇気は湧いてこなかった。
「ペ、ペルレ、どど、どこかなあー」
 ガラガラと瓦礫を蹴り避ける音が近づいて来る。クヴァルムは馬鹿みたいな怪力で手当たり次第に通路の壁を壊して回っていた。おかげで身を隠す場所もなくなりつつある。フロアを降りられればなんとかと思うけれど、階段は屋上と繋がるものしか見つけられなかった。
「ペル、ペルレ〜」
 酔っ払ったような声で名を呼ばれる。目の前の石壁が崩落したのは直後だった。穴から顔を出した巨漢が嬉しそうに唇を歪める。
「み、みみ、見つけた」
 瞬時に身を翻し、反対方向へ駆け出した。だがクヴァルムが滅茶苦茶に荒らしたせいで通路はあちこち崩れており、辺りは迷路の様相を呈している。逃げ惑ううちにローブを掴まれ引っ張られた。
「いやあッ!!」
 背後の気配に向かって思い切り炎を浴びせる。「あづっ!」と叫んだ男の手が離れた隙に時間を止め、股の下をくぐって逃げた。
 囚われれば一巻の終わりだ。だがこのままでは先にこちらの魔力が尽きてしまう。十秒も経つとペルレは魔法を解除した。薄暗い塔の中で追いかけっこが再開される。
「に、逃げないで、くれよう」
 さっきから同じことの繰り返しだった。追い詰められては時間を止めて、説得さえ試みられず。
 体力も気力もじわじわ削り取られていた。楽しげなクヴァルムの態度が恐ろしくてならない。手を取り合うのが不可能なら、反撃の手立てを考えなければならないのに。
「へへ、ペルレも、あ、新しい魔法覚えたんだな。今のちょっと、へへ、ゲ、ゲラーデみたいだった」
 旧知の友の名にふと足が止まる。火の属性を持っていた頼もしい先輩魔女。クヴァルムは何かやらかす度に彼女に井戸水を浴びせられていた。
 いなくなった人間を思い出すのはまだ辛い。ましてやゲラーデのことは。
 苦い思いをぐっと堪えてペルレは巨漢に杖を向けた。
(いつまでビクビクしてるつもりなの……!!)
 強くならなければ。もっと頑張らなければ。大切な人たちを呪いから救い出すために。自分の力は必要とされているのだから。
「おいら、おいらも魔法、おぼ、ぼ、覚えたんだぜ。みみみ見てみてくれよ」
 誇らしげにクヴァルムが言うので何をする気かと思ったら、宙に水球が現れた。川遊びする子供のように大男はその水をばちゃばちゃと跳ねさせる。
 見覚えのある光景に立ち眩んだ。水球をシャワーに変えたり、鏡に変えたりする術は、もう一人の友人が扱う繊細な魔法と同じだったから。
「あ、あなたヒェミーと戦ったの……?」
「に、にし、二試合目で!」
 無邪気な返事に脱力する。そのまま座り込んでしまいたかったが、そうもいかなかった。大きな瓦礫を掴んだクヴァルムがそれをペルレに投げつけてきたので、また時間を凍結させねばならなかった。
 逃げるのではなく懐に飛び込む。時が流れ始めるとクヴァルムは驚いて仰け反った。

「どうして嬉しそうに言うの?」

 真っ当な答えを期待していたわけではなかった。それでも少しでも友の死を悼む言葉が聞きたかった。
「? ? だって、お、お、おいら、女の子殺せた」
 これで彼は会話をしているつもりなのだろうか。ペルレには意味がわからない。可愛がっていた妹を亡くしたくせに、どうして同じ年頃の女の子に手をかけられるのか。
「お、お、おばさんの本に、かか書いてあった。三、三人、女の子殺したら、おいらの妹、か、帰って来るって」
「――」
 あまりの稚拙さに絶句する。師の蔵書のどれを言っているのか判別はすぐについた。だから信じ難かった。
「それ、ただの童話でしょう?」
 ペルレの指摘にクヴァルムは怒り狂う。「違う!! 違う!!」と大声で叫んで丸太のような腕を振り回した。
「本当に生き返るんだ!! 戻って来るんだ!! おいらのところに!!!!」
 咄嗟にかわした掌底は壁に巨大な穴を開けた。元々力の強い男だが、更に破壊力を増している。大穴からは外の曇った空が見えた。
「そんな馬鹿なこと信じてヒェミーを殺したの……? やったぞって喜んでたの……?」
「馬鹿じゃない!! 本に書いてあったんだから本当のことだ!!!!」
 クヴァルムのにきび顔は耳まで真っ赤だった。半泣きで掴みかかってくるのを寸前で停止させる。
 足元が妙にふわふわしていた。頭も上手く働いてくれなかった。たった一つの命令をペルレに与える以外には。
「……ッ」
 非力な腕に力を込めて、巨体を斜めに傾かせる。今さっきクヴァルムの崩した壁に向かって。
 そして再び時の歯車を回し始める。
「!? あ、う、っああ〜!?!?」
 成す術なく墜落していく男を見届け、ペルレはその場に泣き崩れた。
「ううー……っ、う、うう、ヒェミー……」
 言い逃れはできそうにない。燃え上がった憎悪に後押しされてしまったこと。
 皆のためにじゃない。自分のために、今、一人、殺したのだ。


















 頑丈な砂時計は時の流れを緩めようともしなかった。「駄目だな」とファッハマンが呟いて、ツレットは息を飲む。
 底に溜まった砂は硝子管の下半分をほとんど埋めていた。許された時間は少ない。
「このまま勝負を始めなきゃ、多分クノスペさんみたいに思考の余地を奪われてしまうんだろうね」
 焦れるツレットとは裏腹にファッハマンは冷静だ。「術の効果を考えるとあくまでも候補者同士で殺し合わせたいはずだから」と落ち着き払って分析する。
「どうするんだ?」
 縋るしかできない自分が歯痒かった。彼の命と自分の命を秤にかけようとしてしまうことも。
「うん。ツレット君はとりあえず僕の話をよく聞いて。まずは腐食魔法を扱う際のイメージについてだ」
 乏しい魔力を指先に集めると少年魔導師は唐突に講義を始めた。初めて魔法の講釈をしてくれたときのように、毎朝ツレットの力がどれだけ伸びたか教えてくれるときのように、丁寧に説明してくれる。
「物が腐るということは細菌が増殖しているということだから、小さな粒がうようよ増えていく様を想像してくれればいい。次に雷魔法だけど、これはちょっとややこしい。雷というのは天と地の二点を行ったり来たりしているんだ。魔法に置き換えて考えると、魔力の高いところと低いところを往復している感じだね。慣れるまでは右手と左手に大小の魔力を宿して練習しておくれ。きっと上手く行くはずだ」
「……」
 何を言われているのかよくわからなかった。ファッハマンの口ぶりは、まるでこの先の彼の不在を示すかのようである。自分がいなくなっても能力は上手く使いこなせと、実際そう指導している。
「ちょっと待ってくれ。どう考えても生き残るべきなのはそっちだろ? 他に呪術に詳しい奴なんて誰もいないんだ。お前がいなくなったら皆……」
「僕に伝えられる範囲のことは全部伝えたよ。この戦いが終わったら、君とペルレさんが中心になって、今度こそ館の核を破壊するんだ。彼女が生き延びてくれていればの話だけど」
 必要なのは君の方だと断言される。いつもの揺らぎない笑みでもって。
「そんなの俺には……!」
「できないとは言わせないよ。でなきゃ君に任せる意味がない。ツレット君、僕の話はまだ終わってないんだから、最後まで聞いてくれないか? 研究に生きて死ぬことを信条とする魔法使いの話をさ」
 湿った風が塔の頂上を吹き抜けて行く。その風はファッハマンの長い前髪を乱し、黒く変色した額を垣間見させた。
 魔法使いの中には親に疎まれ捨てられた者が少なくないと聞く。生きる道が一つしかないから師弟関係を大切にするのだとも。
「精霊魔法の知識を持つ者でありながら、僕は重大なミスを犯した。あれはもう過去の遺物だ、現存しないと思い込んでしまってたんだ。だからこうして巻き込まれるまで気づかなかった。踏みとどまって警告するチャンスは確かにあったのに」
 魔導師の表情が悔恨に歪む。かぶりを振ってファッハマンは過ちのもたらした次なる不幸を打ち明けた。
「一戦目で異常は察した。誰かが人間を魔物に見せかけているとわかっていた。でも叫んでも殴っても相手は目を覚まさない。本気で殺そうとしてくるからこちらも手加減できなくなった。第二試合はイクスマール――僕の兄弟子が相手だった。どうやっても砂時計を壊せないと理解したとき、二人で話し合ったんだ。今の僕らと同じように、どちらが生き残るべきかって」
「な……っ」
 兄弟子を殺めていたのは知らなかった。最初の試合で対戦者が人間だと自覚していたということも。
 言えなかった理由はわかる。もし彼が友人殺しだと知っていたら、きっともっと離反者が出ていた。ツレットも含めてだ。
「百人の候補者を集めて共喰いさせる。これは明らかに呪術の領域だった。僕の専門分野だから、僕が残るべきだとイクスマールは言った。僕も同意見だった」
 魔導師の声は静かだ。厳かですらあった。命を奪ったことも、命を捧げることも、等しく尊い行為であるかのごとく語る。
「ツレット君、僕は今更自分の在り方を変えることはできない。イクスマールを殺したのは研究者としての僕だ。そうするのが最も適切だと判断した友人甲斐のない僕だ。もしここで嘘をついて、君より僕の方が皆を救うために有益だなんて言ってしまったら、その瞬間イクスマールを殺したのは僕の利己心だということになってしまう。それだけは絶対に嫌だ!」
 零れる砂が細く細く糸を垂らす。少し弾んだ息を落ち着け、ファッハマンは微笑を浮かべた。頬に滴を伝わせながら。
「……彼の友人である僕は、彼と一緒に死んだんだよ。そうでなきゃいけない。そうでなきゃ彼に合わせる顔がない」
 魔導師の言いたいことは汲み取れた。研究者の正しさに身を委ねることで、ファッハマンは自分を納得させてきたのだ。仕方のないことだったのだと。全体のためになる者を生かすべきだったのだと。そして今、死という形で二人の正義を証明しようとしている。
「君の異常成長は、君の肉体に由来するものなのか、喰らった魂に由来するものなのか、まだ検証が不十分だ。君を死なせてしまった場合の損失は計り知れない。ツレット君が皆のところへ戻るべきだという僕の主張はわかってくれるよね?」
「ファッハマン……」
「イクスマールがここにいても僕と同じ結論を出しただろう。――だからどうか僕を殺してくれ。僕を卑怯者にしないでくれ」
 掴まれた腕の存外な痛みに身じろぎする。殺せと言われてはいそうですかと頷けるほど肝は据わっていなかった。強くなりたいと頼んだことだって、深く考えていなかったのだ。誰かに師事するということがどんなに重大な意味を持つか。


「十日とは言え君は僕に教えを乞うたんだ!! だったら君が僕らの精神を受け継いでくれよ!!!!」


 人に学ぶということは、その人の一部を、或いは全部を受け入れることに他ならない。
 続けろと言っているのだ。ファッハマンは、終わらせるなと。終わらせない限り非道な友人殺しにはならないから。
「こんなときは一番高い可能性に賭けるべきだ。そうだろう?」
 学ぶことと食べることは似ている。知恵は血となり、信念は決して腐らぬ骨となる。
(なんで……)
 最後の砂が落ちるところは見えなかった。鞘から抜いた剣の切っ先も、涙で滲んで。
(なんで俺、こいつを殺そうとしてるんだ……? 正しい殺人なんてあるわけないのに……)
 ファッハマンは強くなどなかったのだ。不安を見せたら「一番高い可能性」が下がってしまうから、弱音を吐けなかっただけ。それが彼の、兄弟子にしてやれる唯一の贖罪だったから。
 もっと早く気がついていれば、かける言葉を思いつけたかもしれないのに。


「……ッ!!!!」


 突き出した剣は少年の心臓を貫いた。心底ホッとした顔でファッハマンは「ごめんね」と詫びる。同じ十字架をツレットにも背負わせたこと。
「後、頼んだよ……ツレットく…………」
 光に飲まれる骸を抱えて絶叫した。
 遺されたのは持ち主を亡くした長い杖だけだった。







(20140521)