第五話 決行






「そうそう、目の付けどころがわかってきたじゃねーか!」
 繰り返し仕掛けられる刺突攻撃を辛うじてかわせる段階に至ると、バイトラートは喜ばしげに剣速を高めてきた。うわ、うわ、と目を回しながらツレットは白い切っ先を剣で弾き返す。竜殺しの踏み込みにはまだたっぷりと余力がありそうだ。
「ほっ! はっ!」
「……ッ!!」
 柔らかく攻撃を受け流すコツ、接触で相手の動きを減じる技、重心の切り崩し方、腰と筋肉の使い方、防御を優先する構え、その他受けた助言の数々はツレットの能力を飛躍的に向上させていた。元々木刀には八年慣れ親しんでいる。自分なりの特訓しかできず、ちぐはぐだった動作に整合性が加えられたことで、存分に実力を発揮できるようになったのだ。
 今やツレットの一部となったブラオンが聖山式の体術に長けていたのも大きいだろう。思い切って跳躍してみれば天井を蹴り返して着地できた。軽い身のこなしは避ける技術を格段に上達させてくれた。となれば攻めに転じる機会も増えてくる。十数分もバイトラート相手に持ち堪えられるようになったことを思えば特訓の首尾は上々だった。今ならフォラオスともいい勝負になるのではなかろうか。
「見違えたもんだな。師匠がつくと一気に伸びるって奴はいるが、よっぽど性根が素直でなきゃこうは行かないぜ」
 オリハルコンを鞘にしまって剣士が言う。直接指南を受けるのは午後の数時間のみだがいつも終わりは汗だくだ。
「はへー……。あ、ありがとーございました……」
「おう。剣の手入れも忘れんなよ。いつヤサにカチコミかけっかわかんねーんだからな」
 一時的に体力を使い果たしたツレットがへたり込んでいた床から顔を上げると、バイトラートは訓練場の外をきつく睨みつけていた。窓硝子に映るのは忌まわしき賢者の住処である。――今日でここへ来て九日目だ。第三試合が始まる予兆は感じられないものの、却ってそれが不気味だった。初日以降、ヒルンゲシュピンストは一度もツレットたちの前に姿を現していない。
「魔法の方はどうなんだ? 順調に行ってんのか?」
「うん。いつも朝一番でファッハマンに見てもらってる。毎日奇声上げられてるよ。俺、前代未聞なんだってさ」
「ペルレも引っ繰り返ってたもんなあ。俺にゃアドバイスできねー分野だが、頑張ってくれ。頼んだぜ」
 こくりと頷きツレットは立ち上がった。バイトラートに再度指導の礼を告げ、愛用の弓を手に別館屋上へと急ぐ。これから日没までは弓の鍛錬に、就寝までは魔法の鍛錬に取り組むと決めていた。ぼんやりしている暇はない。
 習い始めた剣よりも、生業としていた弓よりも、関心などほとんどなかった光熱魔法に周囲の期待は寄せられていた。ファッハマンの見立てによれば、ツレットの魔力成長率は平均の三千倍を軽々と超えるらしい。時間に換算して十年分の修行をたった一日でこなしているのと同じだと言う。
 初めは魔法属性を持たない人間に新しい属性が付与されたことで起きた変化かと思われた。だがバイトラートもネルケもジャスピスも一般的な魔法使いと伸び率は変わらず、ツレットだけが異常であると断定された。原因は今なお不明だ。ファッハマンは偶発的な作用との見方を強めている。たまたま何らかの条件が整って、普通では有り得ない現象が有り得てしまったのだろうと。その条件とはなんだと問うと、少年魔導師はわからないと首を振った。ただとにかく、ツレットが尋常ならざるスピードで魔法使いとしての才能を開花させているのは事実らしい。
(まあ確かに、もうこれくらいのことできちゃうもんな)
 屋上庭園と言うよりは小さな森と呼んで差し支えない一角にツレットは矢を放った。目標とした太い枝に突き刺さった矢尻はイメージ通りの熱源となって大樹を内部から焦がし始める。細い黒煙は瞬く間に灼熱の炎を纏わせた。熱風に煽られた葉が不規則に舞い散る。その小さな的に向かい、またも狙いを定めた。
 館に動物の類がいないため仕方なく落ち葉を射るようになったのだが、これがなかなか難しい。自由に駆け回る野生の獣と風に身を任すしかない木の葉では拍子がまるで異なるのだ。不規則さに惑わされないためには一枚の葉を追いながら空間の全体を眺めていなければならなかった。
「……っよし!」
 一射目の成功を確かめるとツレットは二本目の矢をつがえる。この訓練を始めてからまた少し視野が広がった。バイトラートは剣を我が物とする上で重要な順に、目、足運び、度胸、力、技を挙げる。剣戟の合間にツレットは度々「よく見ろ!」とどやされた。戦いを制するには相手をよく見て相手をよく知る必要があると竜殺しは熟知しているのだ。彼はそうやって強くなってきたから。偉大な先達の言葉をツレットは忠実に実行した。決戦のときまでに、少しでも使い物になっておくために。
 ――三日目の朝、ファッハマンはツレットたちに脱出計画の概要を示した。内容は極めてシンプルだ。呪いの一部として霊魂を提供したくなかったら、術者を殺すか術を壊すかの二択しかない。前者はおそらく不可能だという見解にはルーイッヒが同意した。王族は賢者が三百年以上老いも衰えもしていないのを目の当たりにしてきている。それに、世界の主たる精霊王と契約しているということは、ヒルンゲシュピンストが永劫に移ろわざる者、死と縁を結ばぬ超人であるのと同義だった。
 であればツレットたちの果たすべき使命は賢者の呪いを失敗に終わらせることである。蠱毒というのは壺に封じた毒虫たちを食い合わせ、生き残りの一匹が決まったところで完成する。壺から虫を取り出せないなら壺そのものを木端微塵にするしかない。要するにファッハマンは、囚われている内側から館という名の毒壺を破壊しようと考えたのだ。
 だがこれまでも壁や鉄柵に剣を振り下ろした候補者は一人や二人ではなかった。竜殺しの神剣でさえ外に繋がる道は開けなかったのに、今更別の方法なんて見つかるのだろうか。
 ツレットの投げかけた疑問に少年魔導師は更なる考察を述べた。「閉鎖空間を形作っている核が消えれば僕たち候補者は外に放り出される。呪いは全て術者に跳ね返るはずだ」と。ただ当然ヒルンゲシュピンストは心臓部を隠しているだろうし、核自体が容易に破壊できる代物ではないとのことだった。
(あの砂時計を誰も傷つけられなかっただろう、か)
 魔導師の言葉と砂漠での出来事を思い返してツレットは眉根を寄せる。吊り下げられた巨大なオブジェを怪しいと断じたのはブラオンだった。彼の直感は正しかったのだ。あれこそが熱砂の遺跡を具現化していた魔法の源だった。
 初めから砂時計に攻撃を集中させていたというファッハマンも、二試合目ではどうにもならなかったと首を振った。なんでもヒルンゲシュピンストの生み出す空間は高度な復元能力を備えていて、ダメージを食らっても自動で回復してしまうという。「それで飲んでも飲んでも紅茶がなくならないの!?」と驚愕したのはネルケだった。ツレットも、ファッハマンが燃やしたはずの風景画が元通りホールに飾られているのを目撃していた。バイトラートは「じゃあ本当は斬れてたのに、元に戻るのが早すぎて斬れてないように見えてただけか?」と魔導師に尋ねた。ファッハマンは頷いて、「重要な場所ほど再生力を高く設定しているとしたら、敷地内で最も強固に守られた場所に核は存在するはずだ」と続けた。ペルレとは館内の怪しいポイントを探し回っていたらしい。
(早く見つかってくれよ。次の試合が始まる前に……!)
 祈りながらツレットは手の内の矢を放つ。
 ファッハマンが切り札としているのはペルレの存在だ。一人では時間を止めるしかできない彼女も、協力者がいれば有能な助手に早変わりする。時の流れを押し留めている間はヒルンゲシュピンストの復元魔法も効果を発揮できない。その隙に、他の誰かがありったけの力で核を破壊すればいいのだ。
(選ばれたんだ。頑張らないと――)
 停止した世界に魔女が連れて行けるのは最大二名。ファッハマンはバイトラートとツレットを指名した。何でも切れるオリハルコンと日々増幅する破格の魔力に賭けたいと言って。他の面々は妨害者が現れた際の対策要員だった。敵はヒルンゲシュピンストだけではない。レーレやラツィオナールが邪魔しに来ないとは限らない。
 最悪の可能性も考慮に入れておいてほしいと少年魔導師は乞うた。精霊王の名の下に魔法という魔法を独占してしまったヒルンゲシュピンストは神にも等しい存在だ。そんな者に反旗を翻そうと言うのだから、クノスペの二の舞になる覚悟は十分持っておいてくれと。
 肉体よりも先に心を殺されてしまった少女。もしティーフェが同じ立場だったらと思うと胸が痛い。
 だがまだ生きている。あの兄妹は、カスターニとクノスペは、館を出ればきっとやり直せるはずだ。
(頑張らないと……)
 呪文のように同じ言葉を唱え続けている。安易な努力に縋っている。それでも今はそれ以外、耐え凌ぐ方法がわからなかった。






 三時間余りの稽古を終え、ツレットは別館から引き揚げた。バイトラートはまだ二階でシェルツやミルトの相手をしているようだった。英雄の腕前に興味を示してか、片隅にはラツィオナールまで立っている。やはりバイトラートがオリハルコンを振り回す姿は目立つのだろう。前にもこっそりフォラオスが様子を窺いに来ていたし、注目されているのだ。
 刃狂いの放蕩貴族に絡まれぬように足音を忍ばせ、ツレットは庭へ出た。ティーフェの墓に夕暮れの祈りを捧げてから自分の部屋へ戻るつもりだった。
「やあ、ツレット君。ちょうど良かった。後で君のところへも行こうと思ってたんだよ」
 赤く染まる墓地に跪いていた魔導師が立ち上がる。ファッハマンはファッハマンで亡くなった兄弟子に一日の報告をしていたらしかった。続けて彼が小声で告げたのは「見つかった」という一言だった。何が、なんて聞くまでもない。ツレットはごくりと息を飲む。
「様子を見たいと言っていた人たちにも作戦に参加するか聞いてみて、明日決行しようと思う。君も今夜は十分に休んでほしい」
「……」
 いよいよなのだ。腹は決めていたつもりだが、与えられた重責を思うと肝が冷えた。核に直接攻撃を仕掛けるのは自分とバイトラートの二人だけだ。失敗は許されない。
「俺なんかで本当に大丈夫かな?」
 思わず零してしまった問いにファッハマンは十三歳とは思えぬ笑みで答えてくれた。堂々たるその態度はどうやって培われたものなのだろう。
「君の魔力は三日目にはもう僕とペルレさんを上回ってたよ。神剣と、時魔法と、ツレット君のその力、三つ合わさってようやく光が見えたんだ。気負わなさすぎるのもどうかと思うけど、怖がらずに、全力でやってくれ」
 ファッハマンははっきりと言わないが、勝算の低さにはツレットも薄々勘付いていた。ヒルンゲシュピンストほどの賢者がこちらの思惑に気づいていないとは考え難い。邪魔立てしないのは放置しても無害だからだ。逆にまだ気づかれていないとしても同じ話だった。ほとんど危険視されていないから監視も行われていないのである。
 望みは目に見える形で核が置かれていないことだけだ。何らかの理由でヒルンゲシュピンストは核を守ろうとしている。もしそれがペルレの属性を厄介に思っての措置なら勝機はまだあった。やるしかなかった。バイトラートと、ペルレと、自分とで。
「こんなときは一番高い可能性に賭けるべきだ。――僕の友達の口癖だった。僕もそう思ってる」
 魔導師はツレットに向き直り、小さな右手を差し出してきた。
 黄昏の光が長く影を伸ばす。整列した十字架の間で、ファッハマンはやはり微笑んでいた。
「君がここで強くなると言ってくれたとき、とても勇気が湧いたよ。一人で戦うわけじゃないって。……ありがとう」
 彼が皆の牽引役で有り得るのは、多分、彼が呪術に詳しいからではない。彼が諦めたり立ち止まったりしないからだ。
「俺、大したことしてないぞ」
「そんなことはないさ。少なくとも僕は助けられてる」
 握り返した手には強い力が込められた。芽を出しかけていた臆病がファッハマンの鼓舞で顔を引っ込めた。
 どうしてこんな状況で揺らがずにいられるのだろう。魔力の成長異常などより、そちらの方が信じ難い。












 ペルレがネルケとヴォルケンに明日が大一番である旨を伝えると、二人は真剣な形相で頷き合った。広いホールに他の候補者の姿はない。格子模様のフロアの上でぎゅっと拳を握り締め、ペルレは「支援お願いします!」と頭を下げた。
 自分の役目は時間を止めることだけだが、それができねば計画のけの字も始まらない。肝心要の大任だった。
「大丈夫だから、肩の力抜いてね、ペルレちゃん」
「せや。ガッチガチやでジブン。目ェもグルグルやないか」
 両方向から宥められ、余計に全身が強張った。ともかく今日はさっさと横になれと勧められ、玄関ホールの上り階段に足を向ける。
 庭からツレットが戻って来たのはそのときだった。開いた扉の隙間に若い狩人の顔を認めるとペルレの緊張が少し和らぐ。ファッハマンもそうだが、年齢の近い相手の方が一緒にいて安らげるようだ。特にツレットは魔法を学びたてということもあり、後輩ができたように感じていた。
「ツレット君! もう聞いた?」
「あ、うん。今さっきファッハマンに会って。バイトラートたちにも知らせてくるって行っちゃったけど」
 弓使いは顎で別館を指し示す。竜殺しは今日も訓練場で引っ張りだこらしい。「英雄様はご多忙ねえ」とネルケが仰々しく肩を竦めた。こんな嫌味を言う割に仲良さげなのがペルレには不思議だ。バイトラート以外には、概ねネルケは気さくで親切なのに。
「とりあえずジブンは寝る支度しに戻ったらどないや? ほら、部屋まで送ってったるし」
「あ、は、はい!」
 ヴォルケンに促されペルレは階段を上り始めた。一瞬やけに行商人の目つきが鋭く見えたが気のせいだろうか。眼鏡の奥の黒い瞳は何度覗いても穏やかだ。
「俺も付いてく! 前みたいなことがあったら大変だもんな」
「ツ、ツレット君。大袈裟だよ」
「いやいや、いいよ。どうせもう戻るつもりだったし」
 最後尾に加わったツレットは大真面目に首を振った。有り難いことにクヴァルムの一件があって以来、誰かしら常に側にいてくれる。ツレットもペルレを脅威から遠ざけようとしてくれる一人だった。今は時魔法の力を失うわけにいかないという事情も大きいのだろうが、こうして誰かの優しさに触れているときは少しだけ安心できた。
「カスターニたち、集まってくれたらええな」
 ヴォルケンの呟きにネルケとツレットも静かに頷く。泣いても笑っても明日で運命が決するのだ。候補者の中には未だ現実を受け入れられず閉じこもったままの者もいるけれど、力を合わせて賢者の術を破れたらいい。亡き友に報いる道はそれしかないのだから。






 きつく吊り上げられたヴォルケンの双眸にクヴァルムはヒッと足を引っ込めた。ペルレのおさげ髪を追って玄関ホールまで来たまでは良かったが、今日も彼女には近づけなさそうだ。
 ネルケも怖いがヴォルケンはもっと恐ろしい。どんなにいい人ぶっていても男は必ず拳を振り下ろす。優しくない。好きになれない。
 クヴァルムが好きなのは柔らかくて甘い匂いのする女の子だけだ。ミルクの香りならもっといい。愛しい妹と同じ香りだから。
「……、……っ!!」
 眼鏡なんかかけているくせに、ヴォルケンにはクヴァルムがどこに隠れているのかすぐわかってしまうようだ。四人に続いて二階へ向かおうとしたら、またぎろりと睨みつけられた。大人の男のこういうところが嫌いなのだ。女子供のいるところから、何故かクヴァルムだけ遠ざけようとする。
 また水をかけられたら悲しいし、ペルレを殺すのは明日にするか。そう思い直して厨房に引き返した。あと一人、あと一人と両手の指を遊ばせながら。
 第一試合も第二試合も戦ったのは女の子だった。でもまだ足りない。三人目の血が必要だ。ネルケでもレーレでも構わないが、やはりペルレが一番だ。あの子は妹によく似ている。優しくて可愛らしくて大好きなクヴァルムの妹。
 早く死の国からあの子を取り戻さなければ。早く早く。早く早く早く。
 ああソーセージ美味しい。






「……はあ……」
 子供たちとネルケがそれぞれの個室に入り鍵をかけたのを見届けると、ヴォルケンは細い通路で小さく息を吐いた。どうやらあの大男の気配は去ったようだ。ペルレは勿論ネルケにも近寄らせたくない危険人物である。顔をしかめてシッシと腕で払う素振りをしていたら、そこへまた難儀な男がやって来た。白く輝く剣を背負った賞金稼ぎ、竜殺しのバイトラートだ。
「? 何してんだ?」
(うげっ!)
 声に出さなかっただけ褒めてほしい。元々あまり心象の良くなかった相手なのだ。腹に抱えた鬱積をぶちまけていい状況ではないと弁えているだけで。
「いやー、なんも。さっきまで図体でかいのがうろついとってな」
「クヴァルムか。結構しつこいな。何もなかったか?」
「ガン飛ばしたら逃げてくし、注意して見てたら平気や。……ちゅーか俺、ジブンに聞きたいことあんねんけど」
 いつも誰かしらに囲まれているこの男と二人きりになる機会など滅多にない。どうせだし気になっていたことを確かめておくかとヴォルケンは腕を組み直した。
「聞きたいこと?」
「ネルケとはどういう関係やねん?」
 濁す気はない。単刀直入に尋ねた。
 バイトラートは一瞬面食らった後、「別にあんたに嫉妬されるような付き合いはしてないぜ?」と困惑混じりの返事を寄越した。
「あいつとはしょっちゅう仕事が被るんだよ。大口の依頼だとまず顔を合わせてるな。ここ十年はずっと腐れ縁だ」
「……そんだけか?」
「それだけだって。あんた幼馴染なんだっけ? あいつ自分の話しねーから、あんたみたいな男がいたとは意外だったよ。これっぽっちも色っぽい間柄じゃねーから安心してくれ」
「……」
 直接的な言葉はまだ口にしていないが、こちらの懸念は見抜かれているのだろう。バイトラートは男女の関係ではないと全面的に否定した。それを聞いてますます頭が痛くなってくる。単に籠絡するために近づいただけならネルケを窘めて終わりにできたのに。
(おいおい……。まさかホンマに心許してるとか言わへんやろなあ?)
 竜殺しだぞ。この男のせいで苦しむ羽目になったとネルケが自分で言ったのではないか。
 苦笑いを噛み殺してヴォルケンは「さよか」と踵を返した。部屋に引っ込もうとした矢先、今度はバイトラートの方から問われる。
「あいつって昔からあんな無茶する女なのか?」
「――」
 しばらく答えられなかった。
 思い出の中の彼女は純真で、拗ねたところなど一つもない。花を贈れば喜んで飾り、本を贈れば飽きもせず何日も読み耽っていた。婚約の証にと首飾りを渡したときは、涙ながらに「ありがとう」と笑ってくれたのに。
「……俺の知っとるネルケは、親の遺した宿屋を一生懸命切り盛りする、普通の女の子やったよ」
 バイトラートを責めたところで仕方がない。八つ当たりなのは重々承知だ。ニコはもう戻ってこないし、途切れて色褪せた青春に光が差し込むわけでもないのだ。
 ただ荒んでしまったネルケを見るのが辛かった。十年過ぎても無垢な笑顔を忘れられずにいるだけだ。












 どうしてこんなことになったんだ?
 帰りたい。帰りたい。どんな家でどんな風に暮らしていたかすら思い出せないけれど、ここよりは確実にましだったはずだ。でなければこれほどの嫌悪と恐怖を感じるはずがない。
「まだ試験を再開する気になれないか? アルタール」
 問いかけてくる声を無視して頭から毛布を被る。白い手は薄い守りを引き剥がそうとはしなかったが、嘆息を憚る気もなさそうだった。
「弱ったな。そろそろレーレもクノスペの世話に飽きてきているんだが」
 ヒルンゲシュピンストは配下の魔女と生き人形の名前を出してアルタールに訴えた。思わず鼻で笑ってしまう。世話に飽きたからどうだと言うのだ? このままでは何も進展しないから、さっさと人殺しの場に戻れと言いたいのか。他人を踏みにじってでも、魔王を滅ぼす力を手に入れろと。
「そんなに殺し合いをさせたいなら、僕の心もあの子みたいに止めてしまえばいいじゃないか……!!」
 涙も嘆きも賢者にとっては無価値らしい。アルタールの慟哭はたった一言で退けられた。
「君には勇者になってもらわねば困るんだよ」
 ぞっとするほど冷たい声音。こちらの都合や心情など秤にかけようともしない、身勝手な。
 こんな人間だとわかっていたら素直に言うことなど聞かなかった。見知らぬ土地で、権威を振り翳す王の前で、他に頼れる誰かがいれば、自分だって。
 最初は親切だった。何でも教えてくれたし、どんな不安も大らかに受け入れてくれた。助けになると言ってくれた。アルタールに、かつて備わっていたという勇者の資質が片鱗しか感じ取れなくなっていても。
「私とていつまでも待てはしない。心づもりはしておいてくれ」
「……っ」
 待てと叫ぶ間もなくヒルンゲシュピンストは消え去った。嫌がる態度だけでは賢者を止められないのだと悟って身震いする。始まってしまう。また、あんな、残虐な殺人劇が。
(なんでこんなことになったんだ……?)
 帰りたい。早く、一刻も早く。なのに帰り道は閉ざされている。平穏だった世界は遠い。
 ガチガチと鳴る歯の根を何とか押さえつけて、アルタールは枕元の日本刀を握り締めた。
 自分さえいなくなればヒルンゲシュピンストは呪術を取り下げてくれるだろうか。別の勇者を召喚し直してくれるだろうか。
「…………」
 黒塗りの鞘から抜いた直刃は鋭く、見ているだけで眩暈がする。首筋に添わせようとしてできなかった。自分が何者かも知らないで死んでしまうのは怖かった。
「ッ!!」
 と、静寂を乱したノックの音に動揺して刀を取り落とす。慌てて寝台を降り鞘に刃を収めると、「あの、聞いてほしいことがあるんだけど」と少年の声が響いた。
 恐る恐るアルタールはドアを開く。部屋の前に立っていたのは呪術研究家だというファッハマンだった。
「実は明日、脱出計画を実行に移そうと思ってるんだ」
「えっ?」
 思わぬ話にアルタールは一瞬背後を振り返る。ヒルンゲシュピンストの気配はないが、耳に入ってしまった可能性は高かった。あの賢者は暇さえあればこの部屋を見張っているのだ。そんなこととは露知らず、少年魔導師は計画の詳細を語り始めた。
「僕たちの閉じ込められている空間は中心核さえ破壊できれば崩壊する。その核に攻撃を仕掛けてみようと思ってる。今、ミルトさんやシェルツさんも皆に呼びかけてくれてるんだ。気が向いたら明日の朝、ホールに来てくれないかな? 一晩じっくり考えてみてほしい」
「……」
「それだけだから。じゃあ」
 パタンと扉が閉じられる。しばらく待ってみたけれど、賢者の「ふうん」という声は部屋のどこからも聞こえてこなかった。
 逃げられるのだろうか、この地獄から。
 だがよしんば屋敷を出られたとして、次はどこへ向かえばいいのだ? 自分には行くあてがない。
 魔王を倒せば帰れるとは言うが、王に見捨てられ仲間を喪った彼らが今更魔王討伐など手伝ってくれるだろうか。まして己こそが惨劇の引き金となった異世界人だと知られたら。
(帰りたいよ……)
 確かに存在したはずの、温かい家はどこだろう。ひとりぼっちで袋小路に迷い込んでいる。
 結局アルタールが手を伸ばせる希望などどこにもありはしなかった。






 ******






 緊張で寝つけなかった一夜が明けると、ホールには十名の候補者たちが集まった。その顔ぶれにツレットは目を丸くする。ファッハマン、ペルレ、ヴォルケン、ネルケ、バイトラート、ルーイッヒ、ジャスピス、ミルト、ここまではいい。ここまではいつものメンバーだ。だが最後の一人がシェルツではなくカスターニに変わっていた。
「どないしたんやろ? 時間勘違いしとるんかな?」
 きょろきょろ周囲を見回しながらヴォルケンが眉間にしわを寄せる。「いや、まだ皆を説得してるんだと思う」と答えたのはミルトだった。その心意気には感謝すれど、遅刻は遅刻、来るなら早く来てほしいのだが。
「しょうがないな。これ以上ぐずぐずしてヒルンゲシュピンストに勘付かれたくない。この十人でやろう」
 計画を察知され、先に第三試合を始められては元も子もない。指揮官である少年魔導師の言に従い皆それぞれ配置についた。
「そっちは頼んだぞ」
 真剣な眼差しのカスターニに念押しされてこくりと頷く。そばかすの槍使いは妹の安全に一時目を瞑ってまで参戦してくれたのだ。こちらも全力で応えるほかない。
 妨害に備えてルーイッヒたちが出入り口を固めた。レーレとラツィオナール、クヴァルムの三名以外には、計画が成功すれば館を出られると伝わっている。たとえウーゾやフォラオスと言えど敢えて不要なちょっかいをかけてくるとは考え難いが念のためだった。
「行こう、ツレット君」
 ペルレの左手がツレットの右手を握る。魔女のすぐ右隣には竜殺しの姿があった。彼女に触れている者だけは時間停止の恩恵に預かれるのだ。これから三人で館の中枢に忍び込む。
 ファッハマンが発見したのは空間内空間――位相がどうのと言っていたがよくわからなかった――隠し部屋の機能を果たす小さな異空間だった。小さいと言っても賢者の館と比べてである。出現すればこのホールと同じくらいの体積になるだろうと予測された。ヒルンゲシュピンストは核を配した空間にもう一つ別の空間を重ねることで心臓部を覆い隠しているのだという。ツレットには不可解でならない話だったが、理論上は可能らしい。
「まずは目隠しを引き剥がしてくれ。核が視認できたら完膚なきまでに破壊し尽くしてほしい。でないと復元魔法の速度に追いつかれてしまうかもしれない」
「ああ、わかった。三分間休みなく打ち込み続けてやるぜ」
「私も、が、頑張ります!」
「お、俺も!!」
 最後の指令を伝えるファッハマンに三人で了解した。にこりと笑んで魔導師は腐食魔法を発動させる。黒く濁った魔力を纏う細い指が広間に据えられた講壇に触れた。だが風景画の額縁を腐らせた彼の術でも触れた面を蹂躙することはできなかった。木製の小ステージは涼しい顔で瘴気を払い続けている。何かあると確信するには十分だった。
「あそこを吹き飛ばせばいいのか?」
「うん、そうだよ」
 ツレットの問いに応えてペルレが指先に力を込める。解き放たれた彼女の魔力はたちまち景色をモノクロに染めた。
 ファッハマンが魔法ごと目の前で固まっている。ヴォルケンも、ミルトも、カスターニも、全員刹那の世界に置き去りにされていた。
 誰の声も聞こえない。何の音も響いてこない。自分たちの息遣い以外は。
 この停止した時間が動き出したとき、きっと何もかも終わっているはずだ。
「眩しいから、目、閉じてて」
 魔導師が指差している一点にツレットは意識を集中させた。イメージは闇を貫く光の矢。今は弓も矢も背中に掛けたままだったが、何千回と繰り返してきた動作は瞼に易々思い描けた。
 胸の中の形なき矢羽をそっと離す。すると眼前に浮かび上がっていた魔力の塊が急加速して着弾した。瞬間、講壇を講壇に見せかけていた表皮が弾け飛ぶ。

「――……!!」

 ホールの光景はまるきり変わっていた。白い床、白い壁、白い天井。振り返れば淡い光の魔法陣に守られて、循環式の水時計が佇んでいる。
「あれだな!?」
 核を見つけたバイトラートは即座に剣を唸らせた。結界ごと一刀両断にするつもりだったのだろう。だが最強の攻撃力を誇るはずのオリハルコンは、防御無効であるはずの水時計に傷一つつけられなかった。
「!?」
 ツレットはペルレと顔を見合わせた。神剣の威力を知らないわけではない。実際何度も剣の生み出す風圧に転ばされた。
 時間を止めてもなおまだ賢者の魔法は斬れないと言うのか? 一体何が足りないのだ?
「ツレット君、ツレット君も魔法で!」
 急かされて慌てて二度目の気を集め始める。光熱魔法による攻撃は少しは効果が見られた。時計を巡る水が蒸発して硝子管を曇らせる。流星のごとく降らせた熱の礫は表面に幾つかの裂傷を生じさせた。
 その間もバイトラートは何度も刃を叩きつけていた。剣は空しく滑り続けるばかりだったが。
「くそ、なんでだ!?」
 もどかしさに竜殺しが舌打ちする。だがそこはプロの賞金稼ぎ、すぐさま頭を切り替えてオリハルコンを鞘に片付けた。どうするのかと思ったら、バイトラートは腕を伸ばし、ツレットのショートソードを奪い取る。
「うおりゃッ!!!!」
 破れかぶれの一撃だったが硝子管には更に深い亀裂が入った。わあ、とペルレが目を輝かせる。
「しばらく借りるぞ!! なんでか知らねーがオリハルコンが役に立たねえ!!」
「わ、わかった!! こっちは魔法で援護する!!」
 お互い魔女の手を掴んだまま両側から攻撃を繰り返した。
 魔力が空になってもいい。この三分で全て出し切る。そう念じて大技を連発するのに水時計は倒れてくれない。
 バイトラートの横顔にも次第に余裕がなくなってきた。何でも切れる神剣があったからこそ勝算ありと見込めたのだ。このままでは――。

「ツレット君、バイトラートさん、時間がもう……!!」

 絶対的な火力不足のままタイムリミットが訪れる。
 ペルレの魔力が底尽きると、吸い込まれるように水時計も魔法陣も白い部屋も講壇の裏側に巻き戻されていった。
「駄目だ、壊せなかった!!」
 気落ちする間もなく竜殺しが叫ぶ。失敗は即ち賢者に企みが露見したことを意味していた。こうなったらヒルンゲシュピンストが来る前に総力を挙げて核を引き摺り出すしかない。ファッハマンの号令を待つまでもなくツレットたちは一斉にステージに飛びかかった。――だが。

「そこまでにしておこうか」

 温もりのない声が響いたと同時、突風に吹き飛ばされる。強かに背中を打ちつけ倒れ込んだツレットは、唇を噛んで前方を見上げた。
 万事休すか。他の面々も今の一撃を避けきれず、床に蹲っている。
「よくあの水時計を見つけたね。だがバイトラートを選抜したのはまずかったな。他の優れた武器なら或いは目論見も叶えられたかもしれないが」
 ヒルンゲシュピンストは足音もなく竜殺しの前に歩み出た。賢者が杖をくるりと回すと神剣が宙に浮く。掴みかかろうとした剣士の腕を擦り抜けて、面白そうに怪物は笑った。
「一つ賢くしてやろう。君の剣はオリハルコンと持て囃されているけれど、本来の名は『精霊王の抜け殻』と言う。何故私の魔法を断てないか、想像に難くないだろう? 抜け殻で王の契約者を傷つけるなど不可能なのさ」
「……!!」
 目を瞠るバイトラートに無造作に白剣が投げ返される。次にヒルンゲシュピンストはツレットを振り返った。
「君はまあまあ奮闘したな。しかし人間がどれだけ魔力を育んだところで精霊王の足元にも及ばない。私からすれば児戯同然の魔法だったよ」
 嘲りに腸が煮えた。やはり初めから歯牙にもかけられていなかったのだ。こちらの必死さや覚悟などこの賢者には理解できないに違いない。
「さて、犯行の首謀者は君だったかな? なかなか思い切った真似をしたね。私が君たちを殺しはしないと見越していたか?」
 賢者が最後に向かい合ったのはまだ片膝をついたままのファッハマンだった。少年魔導師はキッと超越者を睨み上げ、凛とした声で答える。
「そうだ。蠱毒を形成する蟲でない者が蟲を殺せば術が崩れる。術が崩れれば呪いは術者に襲いかかる。クノスペさんの命を奪わず自我を奪うに留めたのはそういうことだろう?」
「ご明察だ。君たちにも試合を続けてもらわなければならないからね。罰など与えず見逃してあげるよ」
 武器に手をかけていた皆の表情が怪訝に歪んだ。当然何らかの意趣返しが行われるものと思っていたのに、ヒルンゲシュピンストはツレットたちを特別懲らしめる気はないと言う。反乱分子の結束を断つべくスケープゴートを選べと命じることもしなかった。
「どうしてだ? 効率を重視するなら僕らみたいな候補者は全員クノスペさんと同じ目に遭わせた方が都合良いんじゃないのか?」
「勘違いしてもらっては困る。あの娘は約束を愚弄したから思い知らせてやっただけだ。私は寧ろ、君たちのように契約の抜け穴を探し出そうとする姿勢こそ賞賛されるべきだと考えているよ。真の勇者とは知恵と勇気を兼ね備えた者だろう?」
「それだけの力を持っていて、どうして自分で魔王を倒さない?」
「愚問だな。君たちに私をどうこうする力がないように、私も魔王をどうこうする力は与えられていないのさ」
「契約の拘束力は……っ」
「いい加減にしろ。質疑応答のために出てきたわけではないのだぞ。核を見つけ出す程度には君たちの実戦訓練も成果あったようだし、次の試合は近いかな。健闘を祈るよ。ああ、水時計はもう別の場所に移しておいたから。――では」
 瞬きの後には賢者はいなくなっていた。重い沈黙が広間に立ち込める。「次の試合」との言葉のせいだ。
 バイトラートが剣を殴りつけ「畜生!」と叫んだ。落ち込む剣士の肩にネルケがそっと手を添える。
「元気出しなさいよ。失敗は失敗だったけど、何も取られなかっただけ助かったと思わなきゃ」
 ゴーレム殺しの慰めは半分本当で半分嘘だった。正確にはまだ何も取られていないだけだ。早々に次の手を打たねばなるまい。
「……駄目だ。本当に場所を変えられてる」
 ファッハマンが掌を押し当てたステージは悪臭を放ちながらどろどろと溶け落ちた。また一から核の在り処を求めなければいけないらしい。しかも今度はオリハルコン以外の対抗策を編み出して、だ。

「遅くなってすみません! ……って、おや? どうなさったんですか皆さん?」

 遅れて参上したシェルツには深い溜め息が返された。首を横に振ったファッハマンを見て青年紳士は「まさか上手く行かなかったんですか?」と問いを重ねる。ホールの十人は全員無言だった。
「ハッ、協力って言ってもその程度か。やっぱり戦って生き残る方法を考えた方が賢いみたいだな」
 中途半端に開いた扉の影からフォラオスの冷めた声が響く。「なんだと!?」と言い返したら、皮肉たっぷりの嘲笑を向けられた。
「だってそうだろ? お前らのせいで本当に、もういつ殺し合いが起きてもおかしくない状況になったんだ。ヒルンゲシュピンストが次の計画を立てるまで待ってくれるか? そんなわけないだろ? 僕は部屋に戻って剣でも磨いておくことにするよ」
 言いたいことだけ言い終えるとフォラオスは階段を引き返した。他にもシェルツに連れられて様子を窺いに来たらしい数人がそそくさと逃げ出して行く。
(なんだよ、お前らのせいでって……)
 ペルレが袖で目元を拭うのが視界の隅に映った。憤りが誰に向けられたものなのか判別できず、ツレットは黙り込む。見ているだけで何もしなかったくせに。
「考えるのをやめちゃ駄目だ。もう一度、どうすればいいか皆で知恵を出し合おう」
 まだ食らいつこうとするファッハマンの折れなさに、やっと幾許かの平常心を取り戻す。そうだ、怒りに駆られている場合ではない。
「せやな。まだできることがあるはずや」
「うん! 食堂で作戦会議よ!!」
 一人じゃなくて良かったと改めて痛感した。信じられる誰かがいれば、もう少し頑張れる。十五年、ずっとティーフェと支え合ってきたように。






 ******






 事件が起きたのは深夜、零時を回ってすぐのことだった。
 あれからほとんど缶詰め状態で館の核を破壊するにはどうすればいいか頭を悩ませていたのだが、流石に少し休もうとルーイッヒとジャスピスが最初に引き揚げて行ったのだ。
 適当に夜食を済ませたらツレットたちも眠るつもりだった。その予定は激しい物音と怒号によってお流れになってしまったわけだが。
 異変に気がついてすぐ、事が起きているらしい二階へと駆けつけた。
 目に飛び込んできたのはうつ伏せて血を流すルーイッヒ、主君を守るべく立ち塞がる女騎士、そして二人にナイフをちらつかせる様子見組――ムートとマイスとゼーゲルだった。
 この三人とは訓練場でさえあまり一緒になったことがない。ムートは最年長の賞金稼ぎだが、バイトラートやネルケと違って雰囲気が卑しく、金銭のやり取りを伴わない信頼関係を胡散臭く眺めている節があった。マイスは酷く臆病で、一日中ほとんど部屋から出て来ない。ゼーゲルは魔物に滅ぼされた灯台街の出身者だ。彼は特に、魔王に対して有効な手立てを打ってこなかった王族に怒りを向けていた。
「待ち伏せて不意打ちとはどういうつもりだ?」
「へん。試合が始まるってんなら、その前に殺せるだけ殺しておいた方が有利ってもんだろ」
 ジャスピスの問いに応じたムートに反省の様子は見られなかった。薄汚い無精髭を撫でつけながら、賞金稼ぎは「無駄骨だったみてえだけどな」と続ける。
「う……」
 血糊に汚れた金髪を掻き上げルーイッヒが半身を起こす。出血量の割に顔色は悪くなかった。と言うよりも、どんどん頬に赤みが戻ってきている。
「全く残念だ。やはり試合外での殺し合いは不可能なのだね?」
 と、そこにラツィオナールの嘆息が投げ込まれた。不届き者に襲撃を受けた前王子を、この男は陰で悠長に観察していたらしい。不敬罪もいいところだ。
「当たり前でございましょう? あなた方に勝手をされては困りますもの。いくら致命傷を負わせても、あの方がたちどころに治してしまいますわ」
 賢者の下僕レーレも廊下に出て来ていた。魔女の発言から察するに、ルーイッヒは賢者の手で一命を取り留めたようである。
「くだらんのう。己は弱者じゃと触れ回っちょるようなもんだ。どうせやり合うんならもうちっと気骨のあるモンがええわい」
 ヴォルケンとは異なる訛りで言い捨てたのは世界各地を渡り歩く元曲芸師のシッペンだ。彼は武芸を極めんとするゆえの一匹狼で、実力はバイトラートに匹敵すると囁かれていた。元々ドライな気性らしく、この十日間で殺伐とした空気に馴染んでしまったようだった。
「あら、やる気になられた方が他にもいらしたのね。でしたらもう第三試合を始めてしまってはいかがです? 私待ちくたびれてしまいましたし。――ねえ、ヒルンゲシュピンスト様?」
 魔女の呼びかけた名前にびくりと肩が跳ねる。神出鬼没の賢者を仰いでマイスが「ひっ!」と引っ繰り返った。
 死神は右手に小さな鐘を掲げていた。悲劇の再来を告げる鐘を。

「そうだな。自ら血を求めるならば、今が頃合いということだろう」

 何か叫ぶ間もなかった。響き渡ったのは無情と無常。
 閉じた目を開くには多大な勇気を必要とした。
 風が強く吹きつけている。砂の落ちる音がしている。
 ツレットは高い円塔の天辺にいた。砂時計は中心に坐していて、対戦者は向こう側で苦笑いを浮かべていた。

「……これはちょっと難しい展開になっちゃったね、ツレット君」

 空は曇天。触れる外気は生温い。
 今にも嵐が吹き荒れそうに、雷雲が飢えた喉を鳴らしていた。







(20140516)