第四話 協和音と不協和音






 休もうと言われて休む気になれた者が果たして何人いるだろう。一旦は個室に入ったものの、ツレットはまたすぐに弓矢と手提げランプを持って真っ暗な庭に引き返した。形だけの墓にそれでも祈りを捧げ、的場があるという別館に向かう。
 バイトラートとファッハマンに指南を受けるのは明日からだ。だが弓の鍛錬なら一人でも積める。いざというとき戦力になれるように、魂だけでも犠牲者を救えるように、何かしないではいられなかった。
「おお、ジブンも来たか」
「考えることは皆同じのようだな」
 広々とした訓練場には既に先客がいた。ヴォルケンとルーイッヒだ。行商人と前王子なんて奇妙な取り合わせはきっと余所では見られないだろう。他にはルーイッヒの部下である甲冑騎士、黙々と槍技を磨いているそばかすの青年がいた。
「……カスターニは妹に呼びかけてみたらしいけど、うんともすんとも返ってこーへんかったんやて」
 槍を振るう男を見やってヴォルケンが声を潜める。初めに賢者に抗議したあの少女、確かクノスペと呼ばれていたか――彼女は夜が更けてもまだ自我を取り戻せていないようだ。「俺もあんなんなってたんかな」とヴォルケンは肩を竦めた。彼もまたヒルンゲシュピンストに直接抗議をした一人だが、今のところ大事なさそうだ。
「賢者を倒せば元に戻るよな?」
「せやなあ……。どないしてもやっつけられんかったときは、お人形さんのまま連れ出す羽目になるかもしれんけど」
「あっ、そうか」
 最優先事項はこの異空間から逃げ延びることなのだ。であればカスターニは妹を人質に取られたも同然だった。それは気が気でないだろう。ちらと見やった槍使いの姿からは彼の焦りがひしひしと感じ取れた。
「我々も最大限自分にできる努力をしよう。きっと彼の妹を治す方法もある」
 ルーイッヒは細身の剣を取り、騎士ジャスピスを伴って別館の二階へ上がって行った。訓練場は三階建てで、屋上も使用可能だそうだ。ランタンの灯る一階の的場でツレットが弓を引き始めるとヴォルケンも並んで的を狙った。カスターニは無心に槍を突き続けていた。












 ――こんな心細い夜は遠い昔を思い出す。
「やっぱりあの子どこか変よ。もしかして魔女なんじゃないかしら」
 夜中ひっそり響いた声が、言葉の主である母親が、幼いペルレには酷く恐ろしく感じられた。
 ペルレが物心ついたとき、ペルレは既に異質だった。兄姉は相手にしてくれず、弟妹は母に守られて、気づけばひとりぼっちだった。
 今なら父母が自分を遠ざけた理由がよくわかる。ほんの刹那でも時間を停止させられる生き物なんて、同じ人間には思えなかったのだ。美しく残酷なヒルンゲシュピンストを、到底自分と同じ魔法使いには思えないように。
 ずっと泣き虫だった。五つの歳に一家から追い出され、都の師の元に捨てられて、淋しいと言っては泣き、帰りたいと言っては泣き、帰れたとしても愛されはしまいと泣き明かした。
 そんな子供に師は根気強く魔法の基礎を教えてくれた。無意識に使われていたペルレの時間停止能力を、意識下で制御できる術に変えてくれたのだ。
 魔法というものをぼんやり理解し始めた頃、仮の入門から本当の弟子になり、二人の門徒を紹介された。
 炎の魔法を操るゲラーデは男勝りのしっかり者。
 水の魔法を操るヒェミーは修行を始めたばかりの内気な子。
 二人の友人と師の存在がペルレの心を温めてくれた。魔法使いの間でも特異だという時魔法の使い手として、いつか国王に認められ、胸を張って故郷へ帰ることができたら。望郷の思いを捨て去れはしなかったけれど、それが却って励みにもなった。師の元で学ぶ間に泣き癖も少しは収まった。でも十二歳になった年、ペルレに恐ろしい災難が降りかかった。心を患った巨漢に攫われかけたのだ。
 巨漢は師の甥であった。屈まねば天井に頭が着くほどの大男で、話すと吃音と幼さが目立った。あちこちに泳いでいた目がペルレの前で定まった瞬間、身の毛がよだったのを覚えている。後で聞いた話だが、彼の頭が狂ったのは可愛がっていた妹が死んでからのことらしい。塞ぐ彼を見かねた師が「研究の手伝いでもしないか」と持ちかけたのだそうだった。
 見慣れぬ大柄な男というだけでペルレにとっては恐怖の対象だった。それが月のない夜に、背後から忍び寄って己を森に連れ去ろうとしたのだから、我を失くすほど動転したのも道理だった。
 日頃から彼はペルレに付き纏っていた。師の前では真面目に仕事をこなしていたが、他の時間はずっとペルレを探し回っていた。ゲラーデやヒェミーも警戒してくれていたが、たまたま一人になったタイミングを狙われてしまった。
 濡れた草の上に降ろされ、爛々と光る双眸に見つめられたとき、初めて自分が魔法使いであることに感謝した。止められるだけの時間を止めてペルレは逃げた。七年に渡る修行の成果で、三分程度なら時の流れを押し留めておくことができた。
 捕まったら何をされるかわからない。常識の通じる相手ではないとわかっている。心臓が破れてもおかしくない全力疾走で街まで戻り、服も髪も泥だらけにして師の名を叫んだ。顔は涙でぐちゃぐちゃで、疲労と混乱が呼吸を乱した。老いた師の優しい腕に抱き止められ、ようやくペルレは安堵することができた。
「どうしたのペルレ? 何故そんなに汚れているの?」
「先生、あ、あの人が、クヴァルムさんが、私のことを」
 しどろもどろになりながら、師を悲しませるかもしれないと黙っていたこれまでの顛末を打ち明ける。甥の不始末を詫びた彼女は二度とクヴァルムには敷居を跨がせないと約束してくれた。
 異常を察したゲラーデとヒェミーも揃って裏口に姿を現す。
「ペルレ! 大丈夫なの!?」
「どうしたの、何があったの!?」
 案じる声に振り返り、ペルレは友人たちに無事を告げようとした。
 記憶の中では半泣きの二人に抱き締められ、酷いことをされなくて良かったと言ってもらったはずなのだが。
 ――気がつくとペルレは暗闇の中に逆戻りしていた。新月の森ではなく、もっと深い闇の中に。
 その奥で影が揺れる。影はゆっくり形を取り、やがて火を吐く魔獣となった。


(嫌――……)


 戦いの結末ならもう知っている。魔獣は敵ではなく人だった。そして自分はその魂を食らったのだ。
 嫌がる心を無視して身体は勝手に動いた。
 時を止め、飛びかかってきた獣の喉元にナイフを突き立て。それから。






 耳をつんざく己の悲鳴で目が覚めた。滝のごとく流れ落ちる汗と涙を拭うのも忘れてただ震える。
 這うようにしてベッドを降りるとペルレは黒いローブを纏った。縦長の窓に月はない。あてがわれた小さな部屋を照らすのは微かな星明りのみだ。
 いつも支えになってくれた友人は、二人とも側にいなかった。いなくなってしまったのだ。三人一緒にこの館へやって来たのに。
 泣いている場合ではない。わかっていても涙は容易に止まってくれない。きちんと睡眠を取って、いつあの賢者と対峙しても平気なように万全の態勢でいるべきなのに。
 眠ろう眠ろうと努力した結果がこうなのだから、今夜は眠るのを諦めた方が消耗を防げるかもしれない。そう思い直してペルレは個室を後にした。なんでもいいから気分を変えたかった。
 一階の厨房に下りると人の気配がした。備え付けのテーブルに腰かけ「ペルレちゃんも飲む?」と紅茶のポットを傾けたのは赤毛の女戦士だった。ネルケは面倒見の良いタイプらしく、姉御肌だったゲラーデを思い起こさせる。小さく頷き隣に並ぶと空いたカップに温い茶を注いでくれた。
「眠れない人ばっかりみたい。ま、仕方ないか」
 賞金稼ぎ歴も十年を越えれば随分な場数を踏んでいるだろう。ペルレの目にネルケはとても落ち着いて見えた。それで少し意外だった。この人でさえ寝つけずに夜明けを待っているのかと。
「さっきまでバイトラートもいたんだけどね。この状況で見知った人間がいてくれるのはありがたいんだかありがたくないんだか……」
 いずれ殺し合いになる可能性も踏まえてネルケは嘆息した。賢者に呪いを返すと決めたものの、まだその方法が発見されたわけではない。呪術に詳しい者も少なく、全ては少年魔導師ファッハマンの頭脳にかかっていた。前からも後ろからも不安は波打ち押し寄せている。
「でも、でも……、協力して賢者を倒す手段を見つけないといけないんでしょう? だったらきっと、信じられる人が側にいてくれた方がいいです……!」
 ゲラーデとヒェミーがいてくれたらどんなに心強かったろう。だけど今ペルレは一人だ。それでも二人のために頑張らなければと己に言い聞かせる。魔法を学んでもうじき十年。泣くしかできない子供ではなくなったのだから。
「私、どんな危険なことでもするので、ネルケさんも、その、あの、ネルケさんにできることを」
「ペルレちゃん……」
 うん、と穏やかな声が返された。古傷だらけのネルケの手が優しくペルレの頭を撫でる。にっこり笑うと垂れる目尻はやはりゲラーデと少し似ていた。
 ガチャガチャとドアノブの回る音が響いたのはそのときだ。不器用な手が滅茶苦茶にドアを揺らす騒音には聞き覚えがあり、ペルレは反射的にテーブルの下へ潜り込んでいた。直後、予想通りの人物が厨房に姿を現した。
「あー……お、おいら、腹ァ減ったんだけど、に、に、肉あるかなァ?」
「肉? 燻製の類なら棚の間にぶら下がってるけど?」
「あ、ほ、本当だ。へへ、う、う、美味そうだなァ、へへ」
「…………」
 乱雑に目当ての食べ物を引き千切り、空腹を満たすと、クヴァルムは薄笑いを浮かべて出て行った。何もこんな場所で再会しなくても良かったのではと胃が痛む。巨漢の気配が完全に消えてから這い出したペルレを見て「あいつのこと苦手なの?」とネルケが尋ねた。答えあぐねてペルレは押し黙る。だが一瞬時間を止めてまで身を隠したくらいなのだ。否定したところで嘘だと見抜かれてしまうに違いない。
「に、二年くらい前……、あの人に誘拐されかけたことがあって……」
「ええ!? た、大変じゃない! あいつマジでヤバい奴だったんだ!?」
「ち、近づかれると……今でも身が竦んじゃって……」
「うっわあ……災難だったわねえ……。わかった、覚えておくから安心して。もしあいつがペルレちゃんに寄って来ようとしたら、おねーさんが追い払ってあげる!!!!」
 こんな小兎ちゃんに悪さしようとするなんて、とネルケはやけに憤っていた。ホールで呼吸困難になっていたときも親身に世話をしてくれたし、ゴーレム殺しなんて物騒な通り名が付けられている割にいい人のようである。
「ありがとう、ネルケさん」
 やっと少し元気になって、ペルレはカップの紅茶を飲み干した。












「まだ寝ないのかい?」
 お節介を承知でミルトは問いかける。問いかけられた男の方は振り向かず、淡々と聖山式気功術とやらの修行に励んでいた。一時間も前からこちらが様子を窺っていたのに気づいていないわけではなかろう。相手をする気がないのかとミルトはひっそり肩を落とした。
 屋敷の四階には外観にそぐわぬ板張りの道場が用意されていた。別館の方が森を模したフロアや魔法耐性のある広間もあって多種多様なトレーニングができそうだったが、彼にはこの古風な修練場が馴染み良いらしい。深夜になっても飽きもせず、ウーゾは型稽古を続けていた。
「何かに打ち込んでいたいのはわかるけどさ、休まなきゃ身体がもたないよ」
 諭すミルトにウーゾはいかにも不機嫌そうに目を吊り上げる。「別に現実逃避でやってるわけじゃない」だそうだ。やっと返ってきた言葉の冷淡さにますます項垂れてしまう。
「一日に最低限こなすべき量を決めてある。日常的にやってたことなら心を静めてもくれるしな。……それにこの時間帯じゃなきゃ、あいつらと出くわす可能性が上がるだろ」
 成程とミルトは嘆息した。あくまでもウーゾはツレットや一致団結を呼びかけるファッハマンに迎合する気はないらしい。接触そのものを持たないように昼夜逆転の生活を送ろうというのだ。この状況でそこまで仇討ちにこだわるか。
「考え直さない? こんなときに孤立したっていいことないよ」
「お前こそ赤の他人なんざ気にしてないで、自分が生き残るための努力をすりゃどうだ? 要するにこの館はあの砂漠や暗闇と同じ異次元なんだろ。脱出の前に三戦目が始まらないとも限らねえんだぞ」
「それがわかってるなら君もファッハマンを手伝いなよ! 悪いのはヒルンゲシュピンストと国王だけだろ? 少なくともあのツレットって子は、騙されて戦わされただけなんだから」
「んなこた百も承知だ!!!! ……だから俺は一人でやるんだ」
 もう放っておいてくれ、と向けられた背にミルトは再度溜め息を零した。普段はきっと十分に理知的に行動できる男なのだろう。だからこそ誓ってしまった言葉を覆すことができないのだ。そういう人間をミルトはよく知っていた。今日いなくなってしまったけれど。
「……また様子見に来るよ。気が変わったら教えて。僕で良ければ皆との間取り持つからさ」
 意志が強すぎて、ともすると強情になりがちなところが、亡くした親友そっくりで放っておけない。
 余計なお世話は彼のためなのか自分のためなのか。答えは敢えて追求せずにミルトは道場を離れた。
 誰が誰を殺して生き残ったのか、知らないから多分まだ平静を保っていられるのだ。もし大切な人を手にかけたのが誰かわかってしまったら、皆ウーゾと同じく個人的な復讐に走るかもしれない。己とて例外ではなかった。
(無理なのかな。殺し合いの起きた後で、全員協力しようよなんて……)
 「被害者ぶるしかできないようでは呆気なく殺されますわよ?」という魔女の言葉を思い出す。積極的にそうなったわけではないにせよ、加害者となった事実は受け入れなければならないのだろう。襲われたから仕方なく反撃したなんて言い訳はせず。本当に罪滅ぼしがしたいなら。
 個室に戻る気にもなれず、ミルトはそのまま真新しい墓地へ足を向けた。魂を囚われた七十五名の勇者候補たちが何か光明を与えてくれはしまいか、縋らずにはいられない気分だった。
 階段を下り、正面玄関を出て、庭の中央の噴水を越える。花壇を掘って作った墓は門と向かい合うように並べられていた。いなくなった数に比べれば名前のある墓は多くない。ミルトの親友、ウーゾの兄弟子、ツレットの妹、数名の騎士と賞金稼ぎたち。残りはペルレとファッハマンの魔導師仲間たちのものだ。
 人影に気づいたのは長い杖が横たえられた小さな十字架の前だった。一心に祈る男とはまだ言葉を交わしたことがない。裕福な商家の息子と思しき軽薄そうな、もとい、ノリの軽そうな青年はイムビスとかいう名前だったはずだ。普段であれば敬遠してしまうタイプだが、声をかけずに素通りするわけにはいかなかった。彼もまたファッハマンの呪い返しに賛同した一人だから。
「あ、えっと……こんばんは?」
 詰まり気味に挨拶するとイムビスはびくりと肩を震わせ立ち上がった。余程真剣に考え事をしていたのか今の今までミルトの存在に気がついていなかったらしい。単に自分の影が薄いだけかもしれないが。
「随分熱心にお祈りしてたね。知り合いのお墓なの?」
「ああ、従姉妹の魔法使い。……いい子だったんだけど」
 重い沈黙が闇に下りる。しばし十字架を見つめた後、イムビスは意を決したように振り返った。
「あ、あのさ。あんた、ミルトだっけ? あの……あんた、レーレのことどう思う?」
「レーレ? レーレって、ヒルンゲシュピンストの下僕だって笑ってた補佐官の魔女だよね?」
「ああ、そう、それ。その、あいつさあ、騙されてるだけってことはないかな? もしそうなら、あいつも助けてやりたいんだけど」
 思いも寄らぬ言葉にミルトは目を瞠った。己の中にはそんな発想は欠片も存在していなかった。挑発的な物言いも、侮蔑的な眼差しも、彼女を敵としか認識させなかったから。
「いや、騙されてるってことはないんじゃない? 賢者に心酔してるみたいだったし」
「だからそこが逆に怪しいっつーかさ? あの賢者、感情消せるくらいなら心を操るなんてわけねえかもしんねーし、それに」
「えっ!? まさかレーレを味方に引き入れるつもりじゃないよね? そんなことしたらヒルンゲシュピンストに脱出計画が筒抜けになっちゃうよ?」
 慌てふためいたせいで、つい非難めいた言い方になってしまった。釘を刺された形になり、イムビスはうっと喉を詰まらせる。
「いや、ごめん。ファッハマンたちの邪魔する気はねーんだけどさ。……レーレがこんな悪事に荷担してるって思えなくて。あ、あいつも俺の……親戚なんだけど」
 庇い立てする口ぶりは血縁者であるためらしい。レーレの人柄をよく知らないミルトには頷くことも首を振ることもできず、返す言葉が浮かばなかった。
「悪い。やっぱ忘れてくれ」
 自分まで疑われかねないと悟ったイムビスが前言を撤回する。逃げるように走り去る後ろ姿を見送りながら、ミルトはううんと低く唸った。不穏分子なんて言い方はしたくないけれど、自分たちが急ごしらえの仲間であるのは間違いない。協力する気があるのかないのかわからないフォラオスのような少年もいるし、ウーゾもあの調子だし、先が思いやられる。早く賢者への対抗手段が見つかって、正真正銘一致団結できればいいけれど。もしかしたらそれも、難しいことなのかもしれない。






 ******






 一晩明けると二十人いた協力者は十人まで減っていた。試験自体に肯定的なレーレやラツィオナール、挙動不審の大男、心を消されたクノスペに単独行動を貫くウーゾだけでなく、真っ向から賢者に歯向かうなんて無理だと主張する人間が増えていたのだ。単純に臆病風に吹かれた者もいれば、もう少し様子を見たいという慎重派も、自分を騙した王家の人間とは行動したくないという者もいた。ぞろぞろとホールを立ち去る彼らをぽかんと眺めながら、ツレットは「なんだそりゃ……」と吐き捨てる。ファッハマンとヴォルケンも深く重い嘆息を零した。
「……まだ何人か抜けるかなとは思ってたけど、半分かあ。半分はきついなあ」
「カスターニは説得できひんかな? 表立って力貸すと妹に何されるかわからんっちゅーだけやろ?」
「そうだね。作戦を決行する前に、妨害とかしなさそうな人たちには一応声をかけてみようか」
 昨夜遅くまで同じ訓練場にいたカスターニが掌を返したのはショックだった。身内を危険に晒してまでこちらを手伝えなんて強制できやしないが、賢者の陰謀を打ち砕きたい気持ちは同じだと思ったのに。
 結局ホールに残ったのはツレットとファッハマンとヴォルケン、バイトラート、ネルケ、ペルレ、ミルト、シェルツ、ルーイッヒとお供のジャスピスだけだった。
「完全にばらけてしまうのは良くないですよ。僕、なるべく出て行った皆さんともお話するように心がけます」
 紳士然とした態度でシェルツが言う。初めて会ったときと変わらず彼は親切だった。賢者の館を通り過ぎかけたツレットとティーフェを呼び止めたのも彼である。それさえなければ難を逃れていたかもしれないのは皮肉だが。
「別に皆、全然協力する気がないわけじゃないと思うんだ。ウーゾだって賢者を倒したいとは考えてるはずだし」
 頷いたのはミルトだった。自警団に所属していたという彼は離反者と見なされている男まで擁護した。
「落ち込んでも仕方ないか。とにかく約束通り、これから魔法の性質や使い方について教えるよ。ツレット君以外に新しく魔力の備わった人はいる? いればその人も聞いてほしい」
「ツ、ツレット君って……」
 呼称に眉をしかめるとファッハマンは事も無げに「だって君は僕に師事するんだろう?」と言い返した。こちらの方が年上なのにと訴えたところであっさり退けられそうだ。多少腑に落ちないが、教えを乞う側に回るのは確かなので黙って受け入れることにする。
「と言っても全く難しい話ではないんだけどね。王国には師を持たない野良魔導師もたくさんいるし、勘の良い人ならすぐにコツを掴んでしまうと思う」
「呪文とか魔法陣とか覚えなきゃいけないんじゃないのか?」
「複雑な組成を必要とするのは精霊魔法だけなんだよ。精霊たちには精霊言語で呼びかけなきゃ答えてもらえないからね。だけど昨日ルーイッヒ前王子が話してくださった通り、そんな魔法は随分昔に失われてしまった。精霊たちに力を借りられなくなって、人間は元々自分に備わっている属性を根気強く育てていくしかなくなったんだ。この属性魔法というのが現在主流の魔法だ。太古の時代からあるにはあったものだけど、精霊魔法と比べると効果がとても小さいから、三百年前まではほとんど注目されてなかったんだ」
「ん? ってことは今の魔法って昔の魔法よりずっと弱いのか?」
 ツレットの疑問にファッハマンはうんと頷く。初っ端から期待できない話を聞かされて思わず眉間にしわを寄せた。
「でも僕は、要は使いどころだと思ってる。ペルレさんなんかは特に頼もしい属性を持ってるよ。数分とは言え時間に干渉できるんだから」
「そ、そんなことは」
 ふるふる首を振る少女にファッハマンは修業を始めて何年目かと尋ねた。ペルレの口から出てきた返事はツレットにとってまたも残念な情報だった。
「十年弱です。最初はほんの一、二秒しか続かない魔法だったんですけど」
「じゅ、十年!?」
 十年もかけて数分なのかと口を滑らせかけたのを、寸でのところで飲み込んだ。しかしファッハマンにはあっさり思考を見透かされていたらしく「すごいことだよ」と杖で頭を小突かれる。
「契約さえ結べばいきなり大魔法を操れる精霊魔法と違って、属性魔法は地道な反復訓練でしか能力を高められないんだ。筋力をつけるときみたいに、毎日のトレーニングを怠らないことが重要なんだよ。さっき野良魔導師が多いと言ったけど、野良の大半は魔法属性があるというだけで大した力は持たない普通の人たちなんだ。火属性なら小さな木片に焦げ目をつける程度、水属性なら指先を湿らせる程度が関の山じゃないかな? 魔力を伸ばすのは手間がかかるし、持ち主にとって利用価値の高い力だとも限らないからね。十年かけてペルレさんが育ててきた力を馬鹿にしちゃいけない」
「け、けどそれじゃあ」
「ツレット君が一人前の魔法使いになるには時間が足りなすぎるんじゃないかって? それなら心配無用だよ」
 これを見て、とファッハマンは壁にかかった風景画に近づいた。魔導師は杖の先端を額縁に押し当てると自身の魔法を発動させる。粘性のある、どす黒く濁った彼の魔力が見る間に木枠を腐らせた。呪術研究家の名に相応しい、なんとも禍々しい術だった。
「僕の属性は腐食だ。僕も十年、師の元で己の技を磨いてきた。――そしてこれが昨日新たに得た属性」
 左手に杖を持ち替えるとファッハマンはごく小さな雷を落とす。直撃を受けた風景画は床に落ち、めらめらと炎を上げた。
「……僕たちはおそらく対戦者の力をそのまま引き継いでいる。ことによると、元あった力と合わさって増幅しているかもしれない。発動の仕方、操り方が身につけば実戦レベルの魔法を即扱えるはずだ」
 ごくりとツレットは息を飲んだ。自分にもファッハマンのような技が繰り出せるようになっているのだろうか。借り物の力だが、否、だからこそヒルンゲシュピンストを打ち倒すのに新しい力を使いたい。元の魔力の持ち主が少しでも浮かばれるように。
「属性ってどうすればわかるんだ?」
「うん、じゃあここからは外で講義を続けようか」
 魔導師に促され一同は庭へ出た。異空間にも天気があるようで、今日は雲一つない快晴である。噴水前で足を止めるとファッハマンは皆にこの景色の中で気になるところ、妙に目を惹かれるところはないか尋ねた。
「気になるところ? えっと……」
 門の向こうや墓場の方につい目をやってしまうけれど、そういうことではないだろう。属性探しをするからには風とか土とか、魔法と関わりの深いものであるはずだ。ツレットはきょろきょろ周囲を見渡した。バイトラートやネルケも視線を彷徨わせている。
「あたしこれだわ」
 最初にゴーレム殺しが呟いた。女戦士は足元の影を指差していた。
「どんなイメージが浮かんでくる?」
 ファッハマンが続けて問う。ネルケは少し思案してから「動かせそう」と返答した。
「じゃあそれがネルケさんの魔法属性だ。頭の中で動きをもっと具体的にしてみて。複雑で時間のかかる動作ほど魔力を食うから、初めは直線的な動きがいい」
「わかった。やってみる」
 ネルケは非常に器用らしい。魔導師の助言を受けた直後にはもう己の影を起き上がらせて握手を交わしていた。
「俺はこれだな」
 次にバイトラートが拳で自分の胸を叩く。ファッハマンが「回復系かな?」と問うと竜殺しは首を振り「肉体強化とかだと思う」と返答した。騎士のジャスピスも自身の四肢が気になると告げる。女性の声が響いたのには驚いた。前王子の護衛であるし、身の丈以上のランスを軽々手にしているのでてっきり男だと思っていた。
 ヴォルケン、ミルト、シェルツ、ルーイッヒの四人には目を凝らしてもこれぞというものは見つからなかったようだった。聞けば彼らの対戦者は剣士や蛇使い、格闘家の類だったらしい。誰もが魔法の才を得られたわけではないということだ。ファッハマンは「代わりに身体能力が飛躍的に向上していると思う」と推測した。
「ツレット君はどう?」
「え!? えーっと……」
 問われてツレットは空を見上げる。さっきから一つだけ視界の隅でやたら存在感を放っているものがあった。まさかなという思いから、なかなか言い出せずにいたのだが。
「あの、あれ……太陽?」
 スケールが大きすぎるとか自意識過剰とか馬鹿にされるかもと案じたが、ファッハマンもペルレも成程と頷くだけだった。天上の星に関わる属性というのは案外珍しくないのだろうか。
「どういうイメージ?」
「え、えっと、ギラギラ照りつけてきて暑いって言うか眩しいって言うか……」
「うんうん」
「光の降り注いでくる感じがすごくて……」
「うんうん。それはきっと光熱魔法だね」
「えっ? どっちか片方じゃなくて?」
 光なら光、熱なら熱という属性ではないのかと尋ねるとファッハマンは首を振った。
「光と熱は切っても切り離せない関係にあるんだよ。虫眼鏡って見たことある? あれで太陽光を一点に集めると、熱を持って薄い紙くらいは燃やせてしまうんだ」
 ハッとツレットは二戦目での出来事を思い出した。自分が剣を振り翳したとき、ブラオンは光に目を射られ転落したのだ。もしあれが無意識に発動していた魔術だとしたら。
「……」
 硬直しているツレットにファッハマンは魔法指導を続ける。「杖の代わりに剣に光を集めてみて」と指示されて、浮かんだ可能性を否定できなくなってしまった。
 掲げたショートソードには明るい陽光が寄ってきた。砂漠でこれが目に入ったら、どんな反応をするかなど考えてみるまでもなかった。
「すごいね。明るすぎて直視できないや」
 息苦しさに顔を伏せる。魔法は数秒で消えてしまった。
 ティーフェがこの場にいたとしたら、ツレットになんと言っただろうか。人殺しになった兄を見て、嘆いて涙を零しただろうか。
 せめてこの剣を、この力を、ブラオンたちを救うのに役立てなければ申し訳がない。
「だ、大丈夫?」
 青褪め俯いたツレットを覗き込む少女の声に薄目を開く。小柄な魔女は心配そうにこちらを見上げていた。
「ありがとう。大丈夫だ」
 泣かないと決めたはずだ。剣を鞘にしまいペチンと両頬を張り、ツレットはファッハマンに一礼した。魔導師は「明日も調子は見てあげるから、今日のところは色んなイメージを浮かべて実践してみて」と締め括った。
「じゃあ次は俺の番だな。折角だしあそこ使うか」
 バイトラートが顎で別館を示したのにこくりと頷く。こんな状況でなければ憧れの竜殺しに剣の手ほどきを受けられるなんて一生の思い出になっただろう。こんな状況でさえなければ。
「あたしもうちょっとここで魔法の練習に励んどくね。使い勝手良さそうな術だし」
「……私も少し。殿下、よろしいですか?」
「お前が残るなら私も残ろう。すまないが、誰か剣の相手をしてくれないか?」
「ほな俺がやらしてもらいますわ。槍かなんか取って来るんで、王宮剣術見さしてもろてもええですか?」
「僕は戻ってもう少し館の探索を続けてみるよ。ペルレさん、悪いけど一緒に来てくれる?」
「わ、わわ私ですか? わ、わかりました!」
 ネルケとジャスピスとルーイッヒ、ヴォルケンとファッハマンとペルレが抜けて、残った四人で別館に場所を移す。シェルツとミルトは大陸随一と謳われるバイトラートの実力を己の目で確かめようと意気込んでいた。
「……あれ? 他の方々も来られてるみたいですね」
 シェルツに言われて入口を覗くと的場で弓を構える誰かの後ろ姿が見えた。草原の遊牧民がよく着用する暖かそうな羊毛の上着はドルヒ、エルプセ兄弟のものだ。ドルヒは成人したての十八歳、エルプセは最年少の十一歳だったはずである。
「なんだ? ここを使いたいのか?」
 一つ結びの黒髪を翻し、振り返ったドルヒは鋭い目でツレットたちを睨んだ。彼は今朝「賢者の手の内も知らずに動くなど愚の骨頂だ」と一時離脱を申し出てきた一人である。弟のエルプセは従順な性格らしく、大人しく兄の決定に従っていた。
「いえ、僕たちは上を使いますよ。もっと広い稽古場があるでしょう?」
「仲良く教え合いっこか。仇となって返らないように祈っておけよ」
 どことなくフォラオスと似た物の言い方にカチンとくる。そうやって互いの不信を煽っていたら、ますます力を合わせられなくなるではないか。憤りをぶつけようとしてツレットは一歩進み出た。しかし喉まで出かかった言葉は結局ドルヒにぶつけられなかった。
「……」
 申し訳なさそうに頭を下げたエルプセにただの一瞬で毒気を抜かれる。小さな身体を縮こまらせて兄の傍らへ戻る弟は他に身を守る術を知らない雛鳥を思わせた。
「行こうぜ。突っかかる必要はねーだろ」
 バイトラートの台詞に頷き二階へ続く階段を上る。一度だけ背後を振り返ると、エルプセは明らかに子供の筋力に見合わぬ強弓と汚れた矢の手入れをさせられていた。草原の一族は上下関係に厳しいと聞くが、到底信じ難いものを目にした気分だ。こんなときくらい肉親を労わってやれないのだろうか。ドルヒは一人淡々と磨かれた矢を的に放っている。他人事とは思い切れず、無性に腹が立った。
「さて、それでお前の腕前はどんなもんなんだ?」
 そんな怒りも束の間、ストレートな問いかけにツレットはうっと喉を詰まらせた。訓練場に着くなりストレートに尋ねられ、半笑いで竜殺しを見つめ返す。
「い、一度も剣で人に勝ったこと……ない、かな」
 木刀振り回し歴だけは長いが収穫祭の余興として行われる模擬試合では二回戦以上に進めた例がない。初戦で優しいご老人と刃を交えることになったときだけお慈悲で勝たせてもらっていたが、当然そんなものを勝利とは呼べない。萎縮したツレットにバイトラートは「一度も?」と目を丸くした。
「だったらまずは実力を測ってやる。打ち込んで来いよ」
 次なる指令にツレットはますます困り果てた。ベルトに挟んだ鋼の剣に目と手をやって、再び正面のバイトラートに視線を戻す。見栄を張っても仕方がないので正直に白状した。
「あの、俺、真剣使うの初めてで……」
「えっ」
「ずっと木刀使ってて……。鞘から刃を抜く動作にも不安が……」
「ちょ、おま、まさかそこからか!?」
 竜殺しはしばし呆気に取られていたが、ツレットを見捨てることはしなかった。うーんと考え込んだ後、剣の初期位置を変えるように助言をくれる。
「矢筒と同じ向きで鞘を背中に掛けろ。狩りに慣れてるなら矢を抜く動きと揃えた方がスムーズだろ」
「で、でもこういう長さの剣って腰から抜くものじゃ?」
「いーんだよ形式なんかに合わせなくても。お前の剣なんだからお前が使いやすいようにしろって。それに、焦って手の位置間違えたら自分の親指刎ねちまうぞ?」
「えっ!?」
 初心者はよく鞘の上部を持ちすぎてうっかり指を傷つけることがあるらしい。刃の出る部分に指を添わせてしまうのだそうだ。そんな恐ろしい話を聞かされてはバイトラートの言う通りにするほかなかった。
「よしよし、やっぱその方がいいな。矢筒と鞘が二重になって背中の防御力も高そうだ」
 背面に剣を結え直したツレットを見て竜殺しは満足げに頷いた。「成程、これも鎧の代わりになるのか」と感心させられる。死角の守りが堅くなるのは一介の狩人でしかない自分にとって有り難かった。
「いや、今のは適当に言っただけだぞ」
「!?」
 思わずバイトラートの三白眼を見つめ返す。大陸最強であるはずの剣士は事も無げに「我流も我流だからな俺」と付け加えた。
「お前もあの小せえ村の出身ならわかるだろ? まともに剣を振り出したのは故郷を出てからだ。勘を頼りに何匹か狼だの暴れ猪だのを退治して、たまに強い奴と行きずりになったら技教えてもらって組み込んで、そういうのの集大成なんだって。ナントカ流ナンタラ術なんてご大層なもんじゃねえが、まあ手っ取り早く参考にするには向いてんじゃねえか?」
「えっ……」
 ええーと漏らしかけて飲み込んだ。英雄たる者それに相応しい剣技を習得しているものとばかり思っていたのに。だが言われてみれば確かに森と清流しかないあの村でバイトラートに師と呼べる誰かがいたとは考え難かった。となると驚嘆すべきは当人の才覚である。村を出た二年後には、彼は巨竜を斬り倒した男として世に知られていたのだから。
「いや、適当だって言ってもやっぱりバイトラートさんはすごいですよ。剣だって本当に立派で」
 ミルトの入れたフォローにも竜殺しはあっけらかんと言い放つ。
「ああ、強いのは剣のおかげだってよく貶されてんな。それこそナントカ流の継承者なんかには型がなってねえってこき下ろされてばっかだし」
「あ、あの……」
「ま、こいつのおかげで何度も命拾いしてるから否定はしねーけどな。一つの流派にこだわるっつーのはどうも苦手なんだよ。……あ!? もしかしてお前ももっとちゃんとした奴に習いたかったか!?」
 今更気がつきましたという口ぶりでバイトラートが尋ねてくる。ツレットにも特に流派へのこだわりはない。そもそもよく知らないし、王宮剣術に傾倒するフォラオスの「自分がやっている剣以外は邪道だ」と言わんばかりの態度も好きではなかった。首を横に振り気にならない旨を伝えると竜殺しは「そうこなくちゃな」と頬を緩めた。
「最前線で野盗や魔獣と戦う方は違いますね。臨機応変に対応する必要があるからこそ手数も増えていくのでしょう」
 シェルツの見解は素直に同意できるものだった。斜め掛けにした剣の抜きやすさを確かめて、バイトラートに備わった戦闘センスを再認識する。弓と剣の共通点など自分は探そうとしたこともなかった。
「ですが、やっかみで剣を折られたり盗まれたりはしなかったんですか? 賞金稼ぎの竜殺しと言えばオリハルコンとワンセットで語られるのが常ですし」
「盗難なんかしょっちゅうだぜ。けどこの剣は、俺のところに戻ってくるんだよ」
「え?」
 バイトラートは「百聞は一見に如かずか」と呟いて抜き身のオリハルコンをツレットに、美しい鞘をミルトに託した。どうも持っていろとのことらしい。シェルツの疑問はすぐに解消された。駆け足で遠ざかったバイトラートが剣を構える素振りを見せた途端、ツレットの手にした神剣は輝きを増し、ビュンと持ち主の元へ舞い戻った。鞘も同じくだ。呆然とツレットはミルトと目を見合わせた。
「そういうわけだから盗むのは不可能だ。折られたどころか刃こぼれ一つしたことねーし。初めて倒した竜の腹から出てきた剣でな。有り難く使わせてもらってるが、人間には多分過ぎた代物なんだろう。……ここに来るまでは本当に何だって斬れたんだがなあ」
 しょげた様子でバイトラートは神剣を横に構え、空気を薙いで見せた。訓練場の壁に当たって跳ね返ってきた凄まじい風にツレットたちはあわや吹き飛ばされかける。またしても言葉を失くした。確かにこれは人間業ではない。
「やっぱり駄目か。この館、なんか魔法でもかかってんのか?」
「こ、壊すつもりだったんですか? バイトラートさん」
「さっきファッハマンが絵に雷を落として燃やしただろ? 門とか柵をぶち破れたら脱出できるかもしんねーのにって思ってさ。ま、それは今は置いとくか。――ほらツレット、そろそろ緊張解れたか?」
 くるりと向き直った英雄に打ち込みを始めるべしと顎で示され息を飲む。ミルトとシェルツの視線が気になるが、どうとでもなれだ。弓と魔法だけでは賢者に敵わないかもしれない。余計なプライドなど捨てて、少しでも自分にできることを増やさなければ。
「い、行くぞ!」
 ショートソードをすらりと抜いて、竜殺しの懐へ一直線に飛び込んで行く。右手にあるのは昨日人を殺した剣だ。ここを出たら、きっと一生触れもしない。それでも捨てられないのだろうと予感している。
 振り上げた剣を受け止めた男も、少なくとも二人はその手にかけていた。ミルトも、シェルツも、ファッハマンやヴォルケンたちもだ。奇妙な連帯感があった。自分たちは運命共同体なのだという意識が。絆と呼ぶにはまだ弱い。けれどたった一つ残されている希望があるとしたら、一人ではないということだけだった。
「はっ!! やあっ!!」
 至近距離から突いているのに剣はバイトラートに掠りもしない。掠りもしないからこそ怪我をさせるかもと案ずることなく思い切り攻撃を仕掛けられるわけだが、こう当たらないと段々焦れてくる。
 少し退いて斜めに切り下ろそうとするとグンと間合いを詰められた。高く振り上げた手は行き場を失い固まってしまう。竜殺しの拳にトスンと肩を突かれ、ツレットは呆気なく尻餅をついた。「避ける方はどうだ?」との問いに反射的に身を転がす。一瞬遅れてオリハルコンが床に叩きつけられた。
「……ッ!!」
 攻めに転じたバイトラートは速かった。気づいたら目前に白い刃が迫っていて、思わず目を瞑ってしまった。どんな風に自分が追い詰められたのか、ツレットには思い返すこともできなかった。
「んー、足運びが悪いな。やっぱ普段茂みに潜んでの狩りがメインだから、狙い定めるときに身体の動きが鈍っちまうんだ。動く獲物より動かねえ獲物の方が仕留めやすいのはわかるよな? 戦場じゃ自分が狩る側で狩られる側だ。足は止めるんじゃねえぞ」
「……わ、わかった」
「それから目の使いどころも良くない。さっき剣を避けるとき切っ先を見てただろ? そうじゃなくて腕の根元を見るんだよ。剣は腕と繋がってる。腕が動かなきゃ剣も動かねえ。付け根は一番速度がねえから動きを追いかけやすいはずだ」
「な、成程」
「初回であれこれ言っても混乱するからな、今日はとりあえずその二つだ。お前、弓使いで良かったな。目のいい剣士は強くなるぜ」
「……!!」
 雉や鹿を射て糧にした日々は剣の道にも報いてくれていたようだ。足を止めずに物を考える練習と武器を見ないで武器を避ける練習をしろと言うバイトラートに礼を告げ、ツレットは起き上がった。ミルトとシェルツも自分の力量を見てアドバイスしてほしいと竜殺しに頼み込む。二人の相手にはしばらくかかりそうだった。
「俺ちょっと庭で走り込みしてくる!!」
 足を止めずに狙いを定める、足を止めずに狙いを定めると心の中で念じつつツレットは階段を駆け下りる。飛び出した庭に空飛ぶ鳥も野兎や栗鼠もいないのが惜しかった。遊牧民のように馬上から矢を射ることに慣れていれば少しはと思わなくないのに。
「あれっ?」
 と、ツレットは厨房の窓に人影が覗いたのに気がついた。中にいるのは館を探索すると言っていたファッハマンとペルレだ。だが様子がおかしい。ファッハマンはペルレを庇うようにしているし、ペルレは酷く怯えている。
「――」
 駆ける足音を極力消しつつ遠目に厨房を睨んだ。庭に面した勝手口は開いていて、大きな足跡が残っている。巨漢というと一人しか思い当たらなかった。あの呂律の回らないにきび面の男だ。
 果たして予測は的中した。勝手口から飛び込むと、木偶の坊が女戦士の体術に伸されて倒れたところだった。厨房には三人だけでなくネルケも居合わせていたらしい。ゴーレム殺しは緑の垂れ目を鋭く吊り上げ「二人とも、ペルレちゃんを連れ出して慰めてあげて」と命じてきた。二人というのは己とファッハマンのことだろう。泣きじゃくる魔女の袖を引き魔導師と共に退散すると、事情を聞く間もなくファッハマンは「人を呼んでくる!」と行ってしまった。庭の林檎の木の下にはツレットとペルレだけが取り残された。
「え、えっと……何かあったのか?」
 慰めてあげてと言われても女の子の扱い方など知りもしない。悪者はどうやら例の巨漢らしかったが、ペルレが泣いている理由には思い至らなかった。まさか何か手荒な真似でもされたのだろうか。
「……っ、お、追いかけられ、て、く、首、しめられ」
「えっ!?」
 手荒どころの話ではない。殺人未遂ではないか。驚くツレットの傍らにペルレはぺたりと座り込んだ。よくよく見れば首の辺りが赤くなったり青くなったりしている。こんな華奢な子が、あんな大男に。きっと相当怖い思いをしたに違いない。
「なんて奴だ!! 俺もネルケさんに加勢……って、ひ、一人にされたら不安だよな。ご、ごめん」
 飛び出しかけて慌ててブレーキを踏んだ。あちらのことはネルケとファッハマンに任せて、とにかく今はペルレの側に付いていよう。離れている間に何かあっては遅いのだ。ティーフェが自分の見ていないところでいなくなってしまったように。
「ご、……ごめ、ね、ツ、ツレット君」
「ちょっ」
 この子にまで君付けされてしまうのかと思わず溜め息が出た。だが今はそんな小さな文句を言っても仕方がない。相手は弱った年下の女の子なのだ。「いや、いいよ。ツレット君でいいよ」と自分と彼女に言い聞かせるとツレットも芝生に膝をついた。
「力を取り込もうとして襲って来たのかな、あいつ」
「……違うと、思う……。ク、クヴァルムさん前にも私を……攫おうとしたことあったから」
「前? 前って館に来る前? 知り合いなのか?」
 ペルレはこくりと頷いた。それは噂に聞くストーカーというやつだろうか。だとしたら今までもきっと気苦労が絶えなかっただろう。歳の差を考えてもあのクヴァルムとかいう大男、完全な変態だ。
「な、泣いてちゃ駄目だよね。私、もっと強くならないと……」
「あ! 無理しちゃ」
 立ち上がりかけたペルレの腕をつい掴む。自分の方が狼狽して「うわ! ごめん!」と後ずさりした。ティーフェの腕と全然違う。筋肉なんかほとんどない、ぐにぐにした細腕だった。
「ありがとう。……でも本当に、守られてるだけじゃもう駄目なんだわ。ツレット君だって剣と魔法、頑張るんだもの。私も自分の力をちゃんと役に立てなくちゃ」
 ペルレはごしごし瞼を擦る。薄膜を残す涙と、噛み締められた唇が印象的だった。
 詳しい事情はよくわからないが、どうやら気力は絞り出せたらしい。結局慰めは思いつかなくて、代わりの言葉を呟いた。
「ああ。一緒に頑張ろう」
 こんな子だって、守られているだけでも良さそうな女の子だって、困難に立ち向かおうとしているのだ。剣も魔法も、早くもっと強くならなければ。












 出現させた影が足元に消え、魔力が尽きたのを知ると、ネルケは一足先に館で休憩させてもらうことにした。ファッハマンがペルレを連れてどんな探索を行うか興味あったし、同行させてもらえそうなら同行するつもりだったのだ。
 クヴァルムの後ろ姿を見つけたのはファッハマンの叫び声が玄関ホールに響いた直後のこと。魔女の足が床を離れているのも同時に目に飛び込んだ。躊躇いなく広い背中に膝をめり込ませてやると、頭のおかしな巨漢はふらふら赤絨毯に倒れ伏した。だが起き上がったクヴァルムは戦闘態勢のネルケに目もくれず、庭へ逃れた魔女の方を追いかけ始めたのだった。
 急いでこちらも彼を追い、勝手口から厨房に入り、今度は足払いをかけてやって。少年少女たちを遠ざけるとクヴァルムの顎を目一杯蹴りつけてやった。もはや手加減してやる理由はない。ネルケは腰のナイフを抜いた。だがそこで待ったをかけられた。褐色の腕がネルケの手首を掴んで止めたのだ。
「これ以上ボコられたなかったら早よ消えろ!」
 ヴォルケンの怒声が耳元で響く。凄まれた凶漢はヒッと顔面を引き攣らせた。
「お、お、おいら……、おお女の子、殺すんだ。三、三人、三人目……」
「このドアホが!! ここにおったら殺されるんはお前の方や!! わかったらとっとと出てけっちゅーねん!!!!」
 調理器具の収められた木箱をヴォルケンが派手に引っ繰り返す。大きな音に驚いてクヴァルムは飛び上がった。ヴォルケンは更に水桶の汚水を浴びせかける。濡れて悲しくなったのか、大男はしくしく泣きながら厨房を出て行った。
「……ハァ……わけわからんな、ああいう手合いは。大丈夫やったかネルケ?」
「邪魔しに来なくて良かったのに。あたし一人であんな奴」
「アホ言うなや。ほんまに殺す気やったんとちゃうやろな?」
「そうだよ。あいつがいたらペルレちゃんが怖がるでしょ」
「…………」
 黙り込む幼馴染にネルケは薄笑みを浮かべた。彼の中では自分は未だに十七歳の田舎娘なのだろう。行商人ならゴーレム殺しの所業くらい聞き及んでいないわけがないのに。

「ジブンまだニコのこと忘れられへんのか?」

 久しく耳にしなかった妹の名に心がざわつく。別に、なんて答えられるはずがなかった。湧き立つ感情のままネルケは反発と拒絶を口にする。
「あたしがどうしようとヴォルケンには関係ないでしょ? お節介はやめて」
「関係ないことあらへん。ずっと気になってたんや。別れ別れになってからも」
「婚約者面しないでったら! 終わりにしたいって言ったじゃない。あたしには、あなたと幸せになる資格なんかなかったんだって」
「ほななんで未だに俺のやった首飾りつけとるねん? 自分責めるのも大概にしとき。ニコかて可哀想やで」
「……これはあの子を忘れないために残してるだけよ。妹を死なせた姉に、今更どんな人生送れって言うの?」
「それで他人に面影重ねてたら世話ないやろ。大体ジブン、せやったらなんで竜殺しなんぞと仲良くやってんのや? ニコはあいつの」
「うるさいなあ!!!!」
 耐えられなくなって声を荒げる。それ以上の詮索は許さないと睨みつけるとヴォルケンは深い嘆息を漏らした。
「女の子やのに顔も身体も傷だらけにして……心配すんなっちゅう方が無理やわ。頼むしもうちょい自分を大事にしてくれ」
 それだけ告げて幼馴染はホールの方へ立ち去った。しばらくするとバイトラートやルーイッヒも駆けつけて来て、ファッハマンも戻って来る。
「ネルケさん、怪我してない!? あの、跳び蹴り助かったよ、ありがとう!!」
「うん、平気平気! どういたしまして〜!」
「お前……あの巨漢に跳び蹴りかましたのか? そりゃあ、さぞかし勇ましかったろうな……」
「何よバイトラート? 言いたいことがありそうね?」
 昔とは何もかもが違う。認めて、諦めて、放っておいてくれたらいい。助けになろうとしなくていい。
 思い出なんて大切に取って置かなくていいのだ。本当に。












 ――トラブルはあったものの、賢者の館で過ごす二日目は第三試合が始められることもなく暮れていった。
 遅くまでツレットは訓練場の一角を占領し、魔法と剣と弓の修練に励んだ。
 大きく話が進展したのは翌日のことだった。






 ******






「ちょっと待ってツレット君。な、なんだい君の魔法……?」
 ファッハマンの上擦った声にツレットは首を傾げた。昨日魔法の基礎を教わってからの成果を問われたので実際にやってみせただけなのだが。
「何って、剣に光を集める魔法だけど」
「それは見ればわかるよ! そうじゃなくて、き、昨日と魔力が全然……」
 少年魔導師は呆然と庭に立ち尽くす。彼が驚いているのは術の独創性などではなくツレットの成長率だった。その隣ではペルレもぽかんと口を開いている。
「え? そんなに変わってるか?」
 確かに今日の方が長時間魔法を維持できている気はする。昨日は数秒しか光らなかった剣が、会話する間も全く衰えていなかった。寧ろ輝きを増してさえいる。だが生来の魔法使いではないツレットに己の特殊性など自覚しようもなかった。
「はっきり言って異常だよ……。君、一体どんな魔導師を取り込んだんだ? それとも君自身がそういう特異体質なのか?」
「特異体質?」
「昨日も説明したけど、普通、人間に備わった魔力はほんの少しずつしか伸びないんだ。多少の個人差はあるって言っても、これは……」
 ファッハマンは息を飲み、口元に手をやって思考に耽り出す。考え事の邪魔をしては悪いかとツレットはペルレに向き直った。わかるように話してもらえないか小さな魔女にアイコンタクトを送る。
「あの、つまり、筋力トレーニングで例えると……ツレット君はダンベル体操を始めた次の日に、もうムキムキになっちゃったみたいな……」
「そ、それは気持ち悪いな」
 子供が一日で大人に成長するようなものか。だが理解はできても納得はできない。だってツレットは至って平均的な人間だ。自分で言うのも悲しいが、何の取り柄も能力も持たずに生きてきた。弓だって、長く親しんでいるからそれなりに扱えるだけである。
「検証してみないとわからないけど、ツレット君、もしかすると君は大化けするかもしれないよ」
 ファッハマンの声は震えていた。「ここを出られるかもしれない」と続いた台詞にバイトラートたちも目を瞠る。
「何かいい案を思いついたの?」
「俺らにもできることあったら言うてんか? なんぼでも手伝うで!」
 群がるネルケやヴォルケンに少年魔導師は小さく頷いた。
「一つだけ実行に移せそうな計画がある。僕たち必ずここを出て行こう」







(20140508)