第三話 仕組まれた勝利者






 眩い光を纏わせた刃が真っ直ぐ振り下ろされる。
 子供の目にも彼の一撃は衝撃だった。
 竜殺しは神剣を持つ。あの噂は本当だったと息を飲んだ。
 立てるかとツレットを引っ張り起こした男は地に目をやって僅か表情を陰らせた。
 ――すまん。親父さんは間に合わなかった。
 その言葉にまさかと振り返る。飛竜の太い尻尾の下には押し潰された父がいた。
 泣いて、喚いて、どうやって葬儀を済ませたのだったか。
 我に返った数日後、バイトラートはとっくに村を旅立っていた。
 次に会えたときにはお礼を。そう決めていたはずだったのに。


「その弓、もしかしてお前テオバルトさんとこの……?」


 咽び泣きを堪えてなんとか頷く。妹の遺した弓は父が遺した弓でもあった。隼の彫りは地域特有のものだったし、同郷であるバイトラートには一目でわかったのだろう。父と彼には古くから交流があったそうだから。
 でも今はそんなことどうでも良かった。掠れ声で妹の名を繰り返すしかできなかった。
 いつも、いつも、自分ばかりが置いて行かれる。父も母もティーフェも亡くして、ついにひとりぼっちだ。
「おい!」
 衝動的に床に手が伸びていた。けれど掴んだナイフは己の首を切りつける前に叩き落とされる。
「馬鹿な真似すんじゃねえ!! ここで死んだってあの賢者にいいように利用されるだけだろうが!!」
 次いで耳元で怒鳴られた。普段なら縮こまっていただろう大きな声で。
「……だって……」
 凄まれても、頬を張られても、何も感じない。全身を、全霊を満たしているのは、深い哀しみだけだった。
 己を飲み込んだ空虚に呆然としたままツレットは涙を溢れさせた。押し留めてくれる何かなどありはしなかった。
 こりゃ駄目だと見切りをつけたか嘆息一つ残して竜殺しが一歩退く。訛り男も敢えて慰めの言葉をかけようとはしなかった。
 何もかも停止したような空間に泣き声だけがこだましている。ツレットの声ではない。人殺しの罪に怯える少女の声だ。啜り泣きはツレットがホールに戻ってきたときから途切れ途切れにずっと続いていた。
「……ほら、こうやって掌で鼻と口を覆ってね、ゆっくり息をして。辛い思いをしたせいで呼吸がおかしくなっちゃったんだよ。段々楽になってくるからね」
 長い赤毛の女戦士が小柄な女魔法使いを支え、背中を擦ってやっている。この状況でも他人を気遣う余裕のあるのが信じ難い。あのファッハマンと言い、どういう精神構造をしているのだろう。もう七十五人も殺されてしまったのに。手にかけたのは他でもない自分たちだと言うのに。
「ねえバイトラート、あんたの剣でこの館ごとぶった切れないの? いくら王国のためだって胸糞悪いったらありゃしない。とっととおさらばしなくちゃ」
 女戦士は竜殺しと知り合いらしく、親しげな口調で問いかけた。バイトラートは背中の剣に片手をやりつつ無言で首を横に振る。眉間に寄せられた濃い皺に赤毛の女も眉をしかめた。
「その剣でも駄目かあ」
「何度か試したがな。多分、契約ってやつのせいだと思う。いつもなら切れねえものはねーんだが」
 切れないものはない、という剣士の台詞は決して比喩でも誇張でもない。大岩を一刀両断にしたとか炎を切り払ったとか、鋼の鎧で武装した盗賊団を数人纏めて貫いたとか、竜殺しに関する逸話は山とある。敬意をこめて彼の剣はオリハルコンと呼ばれていた。即ち、神の宝剣と。
「しっかしお前とはホントどの依頼でも出くわすな。国王に召集でもかけられたか?」
「あらら、あんたも直接誘われたクチ? 来た来た、来たよ。ゴーレム殺しのネルケ様、是非勇者候補としてお迎えさせてくださいってね。断れないでしょ王様の頼みじゃさあ〜」
「ハハ、腐れ縁もここまで続きゃ立派な運命共同体だぜ。精々お互い生きて帰れることを願おう」
「当たり前よ。誰がこんな極悪な勇者作りに協力してやるもんですか!」
 ゴーレム殺しという通称には聞き覚えがあった。確か王国北部の山間トンネルに出現した古代石像を滅した少女の名前だ。もう十年以上昔の話だが、彼女の偉業は今なお語り草だと言う。こんなそうそうたる顔ぶれに自分やティーフェのような田舎者が混ざったのでは妹が生き残れなかったのも至極当然だった。
 胸の痛みにツレットは肩を震わせる。ティーフェのために今更何がしてやれると言うのだろう。
 こんなところで死んでしまって、遺体は他者に食らわれて。どう詫びればいいかもわからない。せめて父母の待つ天国へ辿り着けただろうか。一人殺してしまった過失は、殺されたことで帳消しになっただろうか。
 ティーフェ、最後にもう一度会いたかった。お前は悪くないと言ってやりたかった。
「けどホンマ、早いとこなんとかせなな。あのファッハマンちゅー子が呪術のこと詳しいみたいやし、対策考えてもらわんと」
「ああ、あんたもあの賢者を止めてくれて助かったぜ。危ない橋渡ってくれてありがとな」
 ツレットの胸中を余所に大人たちは話を進めていく。脱出しなければならないことはわかるのに、頭が付いていかなかった。冷静になるには喪失感が大きすぎて。
「いやー、俺も勢いだけで喋っとったし……。上手いこといって良かったけど」
 訛り男は困ったように片眉を下げてゴーレム殺しへ視線を向けた。眼鏡の奥の黒い瞳が細められると何故か女戦士の口元が強張る。
「ジブンがおるのん見つけて、ちょっと無茶してもうたわ。十年ぶりくらいとちゃうか?」
「うん……。久しぶり、ヴォルケン」
 どうやらこちらも旧知の仲らしい。バイトラートがネルケに「誰だ?」と尋ねると、やや詰まり気味に「お、幼馴染?」という返答があった。
「ネルケは昔のお得意さんや。俺、本業は行商やねん。あちこち旅しとるから魔物のことも他人事やなかってなあ。一念発起したはええけど、エライとこ来てもうたで」
 ヴォルケンは肩を竦めておどけてみせたが空元気は否めなかった。先程のヒルンゲシュピンストとの舌戦では必死に虚勢を張っていたらしい。遺品の散らばるフロアに零れた嘆息は重い重いものだった。
「……残酷なこと思いつくわ。さっさと出口がないか探しに行こ。いつまでもこんなとこおったら頭おかしなる」
 彼の言葉にバイトラートとネルケが頷きツレットを振り返る。付いて来いという意味だろう。ファッハマンたちはとっくにホールを出ているのだ。
「大丈夫? 動ける?」
「……っはい……。め、迷惑かけてすみません……。私も、一緒に、行きます……」
 女戦士が少女に手を貸し起き上がらせる。泣きじゃくっていた魔法使いは何度も袖で目元を拭い、鼻を啜った。
 兎のような赤い目は泣き腫らしたせいだけではなさそうだ。背も低く、弱々しい雰囲気が小動物を思わせる。
 ――お兄ちゃんの好きそうな子じゃん。守ってあげたくなるタイプってやつ?
 ティーフェがいたらそうからかわれていたかもしれない。
 杖とローブを引き摺って歩く彼女の後ろにツレットも続いた。前向きな気持ちが湧いたわけではなく、ヴォルケンに腕を引っ張られていただけだった。
「気に病みすぎたらあかんで。妹さんは気の毒やったけど、ジブンにはまだジブンの人生が残っとるんやしな」
 月並みなことしか言えんで堪忍やで、と背中を叩かれる。
 現実感はまだどこかへ消え失せたままだった。






 ファッハマンたち前グループは地下へ降りて行ったので、こちらは先に二階へ行こうとヴォルケンが言った。
 反対する理由など特にない。ツレットは流されるまま階段を上った。
 賢者の館は広かった。二階には蔵書の詰まった図書室と一人用の客室がずらりと並び、東西の棟を埋めていた。そのうちいくつかは既に鍵がかけられており、魔女レーレや狂人ラツィオナールが陣取っているのだと予測できた。
「随分準備がいいな。まるで最初から俺たちが館に留まるのを見越してたみたいだ」
 不審げなバイトラートの呟きにヴォルケンも頷く。
「ああ、なんやおかしいわ。あの賢者、俺が止めに入らんかったら全部の試合をさっさと終わらすつもりでおったんとちゃうんかいな?」
 看過できない疑問に大きな垂れ目を尖らせて、次にネルケが仮説を提示した。
「乗せられたふりをしただけで、本当は第三試合までやるつもりじゃなかったってこと?」
「かもしれん。なんでそんな小芝居したんかは謎やけど」
「演技にゃ見えなかったけどな。あいつが完成品の勇者以外に興味ないってのはマジだと思うぜ」
「だったらやっぱりあたしたちに新しい能力を磨かせたかったんじゃない? 訓練場まで用意するって言ってたし」
「せやな。普通のお屋敷にはそんなもんあらへんやろうしな」
「あ、あの!! ち、違うと思います。そうじゃなくて……、その、ヴォルケンさんのお話の後で増築したんだと思います……」
 きょとんと大人三人が顔を見合わせる。謎に答えを示したのは樫の杖を握り締めた少女だった。
「えっと、つまり……ヒルンゲシュピンストには時空を操る力があるみたいで……。ここに来てから私、ずっと時間の流れ方に違和感があって……。なんだか館そのものが現実から切り離されていると言うか……だ、だからですね……」
 口調こそおどおどと頼りなかったが、少女に特殊な能力が備わっているのは明らかだった。ゴーレム殺しは魔法使いの手を握り「もしかしてペルレちゃんもその時空系魔法とやらの使い手なの!?」と食いついた。
「た……大したことはできないですけど、一応……」
「じゃあこの館に来る前まで時間を巻き戻せたり!?」
「……」
「ヒルンゲシュピンストだけ超古代までぶっ飛ばせたり!?」
「……」
 涙目でペルレと呼ばれた少女が首を振る。「すみません、数秒時間を止めるのが限界です……」との返答にネルケはがっくり肩を落とした。
「ま、そりゃそうだよな。んなことできるならとっくにそうしてるわな」
 冷静に告げるバイトラートを女戦士がじろりと睨む。一瞬ネルケと同じ期待を抱いてしまったツレットもなんだと落胆させられた。この記憶を保ったまま昨日の今頃まで戻れるのなら、ティーフェを縄で縛りつけてでも故郷に連れて帰るのに。
「とりあえず二階はこんなもんか。まだ上もあるみたいやし、さっさと見に行こか」
 スタスタ先へ進む商人に倣い、三階、四階も歩き回ったが、窓は全て固く閉ざされ光を取り入れるのみだった。客室の他に武具の飾られた修練室もあり、先程受けた「試験」を思い出して吐き気を催す。
 自分は本物の人殺しになってしまったのだろうか。神様は罪人にも救いを与えてくださるだろうか。
 今になって不熱心な教徒であったことを悔やむ。両親の墓だけは大切にしてきたが、天に加護を乞えるほどツレットは立派な人間ではない。地獄行きはほぼ決定だ。
「ん? あれ、庭におるんファッハマンたちとちゃうか?」
 と、そのときヴォルケンが踊り場の窓を指差した。見れば商人の言う通り、呪術研究家率いる一団が庭の小路を玄関ホールに向かって歩いて来るところだった。
「ひょっとして外に出られたのかしら?」
「わかんねえ。合流して聞いてみようぜ」
 ネルケとバイトラートが足早に階段を駆け下りていくと、同時にファッハマンも館の正面玄関を開いた。「ああ、今呼びに行こうと思ってたんだよ」とはきはきした少年の声が響く。
 魔導師によれば、門外に出ることはできなかったが庭をうろつくのは全く問題なかったそうだ。本館と地下通路で繋がった別館には道場や射場、魔法訓練用のホールもあったらしい。初めに館を訪れた際に別館なんてものはなかったので、ペルレの言う通り新たに賢者が作り出したものと思われた。
「一階もぐるっと見て回ったけど、あの大広間以外は倉庫や厨房なんかだったね。外部と接触できそうなポイントはなかったな。風を操れる人に頼んで柵越えしてみようともしたんだけど、この館自体が今は異次元にあるみたいだ。穴掘りも惨敗だったよ」
 物理的な脱出口はないとの結論にヴォルケンがううんと唸る。ファッハマンはこれから呪いを破る方法がないか考えてみると言った。
「でもその前に、皆の気持ちの整理をつけるためにも犠牲者の弔いをしてあげたいと思うんだけど……」
 折角穴も掘ったことだしね、とファッハマンが土のついた指先を見せるとヴォルケンは二つ返事で了承した。弔いという言葉に停滞気味だったツレットの思考が少しずつ動き始める。
 死者を悼み、手厚く祀るのは身内の務めだ。血で結ばれた子孫が供養してくれるから祖霊は安らぎを得られるのである。ティーフェの霊魂が少しでも慰められるように、せめて祈りを捧げてやりたかった。
 仲間と共に試験を受けに来て再会を果たせなかった者はツレットやウーゾ以外にも何人かいたようだ。大広間に置き去りにされた遺品のうち、元の持ち主の知れる物がまず拾われ、他は纏めて埋められることになった。
 妹の弓を手に庭へ出ると、門扉のすぐ側の掘り返された花壇が目に留まる。深い穴は名も顔も存ぜぬ勇者候補たち共同の墓となった。その周囲を取り巻く形で十字架が打たれていく。庭木の枝を組み合わせただけの簡素な十字架だ。きちんと埋葬してやりたくても今はこんなものしか用意してやれなかった。
 長弓を墓に立て掛けてツレットは「ごめんな」と囁く。兄貴のくせに守ってやれなくてごめん、と。
 後悔はたちまち胸を一杯にした。与えられるものなら代わりに己の命を与えたかった。だがただの人間にそんな芸当は不可能だ。妹が帰って来ることはない。
「……」
 そのときふと、遠巻きに墓地を眺める候補者たちの中に見知った顔があるのに気がついた。青い髪と青い目の少年。腰には高名な鍛冶師に打たせたというレイピアを携えている。
「フォラオス!」
 いけ好かない相手でもこんなときには安堵をもたらしてくれるものらしい。ツレットの声に気づいて領主の息子はちらと目を上げた。微かに舞い上がった気持ちを抑え、ツレットはフォラオスの元へ駆け寄った。
「お前もここに来てるかもとは聞いてたけど、無事だったんだな。……あのさ、俺、ティーフェと一緒だったんだ。でもあいつ……駄目だったみたいで……」
 死という言葉はどうしても口に出せなかった。それでも妹の運命は彼に伝わっただろう。意を決し、ツレットはフォラオスに「頼みたいことがあるんだ」と告げた。
「鎮魂の黙祷、してやってくれないか? あいつ、お前がそうしてくれたら、きっと喜ぶと思うから……」
 最期くらい好きな男に看取られたかっただろう。そう思うとまた心臓が締めつけられる。
 フォラオスを墓前に連れて行こうとしてツレットは少年の袖を引いた。だがその腕は、にべもなく振り払われた。
「誰だお前?」
 まさかの問いに目を瞠る。年二回、同じ祭りで刃を競わせてきた間柄なのに、あちらは顔も覚えていないようだった。
「誰って、ナーハ村の……」
「ああ、うちの領民か。ふーん、ここで生き延びられるような奴がいたんだな」
「……。祈ってやってもらえるか? 妹に……」
 領地に住む同世代の人間くらい把握しておけよ、と内心舌打ちする。フォラオスが冷たい表情を変えないことにも苛立ちが募った。やはりこいつとは反りが合わない。領主が甘やかすばかりだから、思いやりが欠如しているのだ。
「なんで僕が知り合いでもない女のために?」
 悲しみは一気に燃え立つ怒りに変わった。だがティーフェのためだとぐっと堪え、ツレットは「知らない女じゃないだろ?」と続ける。
 知らない女であるわけがない。領主一家が村の様子を見に訪れた日や、無礼講の祭で少しでも言葉を交わせた日は、ティーフェは馬鹿みたいに森を駆け回っていたのだから。
「ティーフェだっけ? 生憎関心のないことには頭を使わないタチでね」
「村長の家で暮らしてた奴だよ! 本気で覚えてないのか!?」
「村娘なんて皆同じだからな。キャンキャン騒がしいだけで区別なんかつきゃしない。大体、お前の妹が死んだのは自業自得だろ。弱いくせに粋がるから命を溝に捨てたんだ。そんな奴に祈るだけ無駄さ」
「――」
 あまりに心無いフォラオスの態度に頭が真っ白になる。思わず胸ぐらを掴んだところでストップがかかった。先刻ウーゾがされたのと同じに、ツレットもフォラオスから無理矢理引き剥がされる。「どないしてん!? 喧嘩すなや!!」と耳元でヴォルケンの怒号が響いた。
「仲間割れはやめてくれないか? ここから逃げるには皆で力を合わせる必要がある。わざわざ争いの種を蒔かないでくれ」
 フォラオスの方に釘を刺したのはファッハマンだった。青髪の少年剣士は堪えた風もなく襟を直し、更に波紋を広げる。
「一応脱出に協力するつもりはあるさ。だけどもし三戦目が始まったときは、誰を殺してでも僕は生き残る。剣は元々殺し合いの道具だし、あのラツィオナールの言い分もわからなくはない。ただ僕は、閉じ込められて踊らされたままなのは癪ってだけだ」
 お熱い仲間意識を求めないでくれ、と吐き捨てフォラオスはこちらに背を向けた。哀悼の意を示す気は本当にないらしい。すたすたと手前勝手にフォラオスは館へ引き返して行く。
 一発も殴ってやれなかった悔しさでツレットの拳は震えた。たとえティーフェを知らなかったにせよ、次期領主なら手を合わせるくらいのことはすべきでないのか。いや、同じ人間なら。
(ティーフェはお前のこと好きだったんだぞ!?)
 そう叫びかけて喉奥に飲み込んだ。強く噛んだ唇からは血の味がする。煮えたぎったまま冷めやらぬ憤怒はぐるぐると胸の内を掻き乱した。
「祈るだけ無駄か……。悲しいけどその通りかもしれないな。賢者の呪いを解かない限り、囚われた魂はどこにも行くことができないんだ。生まれ変わって新しい生を得ることも――」
 供養を提案した当のファッハマンが嘆息混じりに呟く。羽交い絞めにされながら、ツレットはえっと目を見開いた。
「ど、どこにも行けないってなんだ? 生まれ変われないって、なんで」
「蠱毒というのがそういう術なんだよ。このままじゃ僕たち全員融合して、一つの生命体に変えられてしまう。なんとかしなきゃ未来永劫ヒルンゲシュピンストの支配下だ」
「なっ……」
 魔導師の言葉に皆ごくりと息を飲む。ただ殺され、力と肉体を奪われるだけでは済まないのだ。
 なんてことだ。だったらティーフェも、最初に殺した魔法使いも、あのブラオンという男も、まだ苦しみの中にいるのか。
(早く助けてやらないと)
 わなわな震える拳を下ろし、ツレットはヴォルケンにもう大丈夫だと告げた。戒めが解かれるや否や、ファッハマンに向き直り問いかける。
「ヒルンゲシュピンストの仕組んだ呪いは、ヒルンゲシュピンストにお返ししてやれるんだよな?」
「……うん。どんな呪いも失敗すれば術者に跳ね返る。時空を操るほどの大賢者相手に難しいとは思うけどね」
 魔導師の返答はツレットの決意を固めるに十分だった。
 泣くのは終わりにしよう。罪は残っても己の成すべきことを成そうと胸に誓う。
「頑張って強くなる。だから俺も、あの賢者を倒す頭数に入れてくれ!!」
 額を地面に擦りつけ乞うと、ファッハマンはツレットの前に膝をついた。「魔法の素養は?」と尋ねられ、顔を上げてかぶりを振る。
「今まではなかった。でも一人目の対戦者が魔法使いだった」
「だったら僕が魔法の使い方を教えてあげる。犠牲になった人たちのためにも生き残った僕らが戦わなきゃ。皆でヒルンゲシュピンストをやっつけるんだ」
 ツレットだけでなく、ネルケやヴォルケン、泣き通しだったペルレや他の面々もファッハマンの言葉に頷いた。
 賢者の手先であるレーレもいるし、ラツィオナールやフォラオスのような男もいる。全員が信用に足る人物であるかどうかはわからない。だがそれでも、同じ敵を打ち倒すために手を取り合わなければならない。
「それじゃ同郷のよしみで、俺が剣を教えてやるよ。我流も我流だけどな」
 バイトラートに腕を伸ばされるのは三度目だった。
 悲しみとは違う涙に瞳を潤ませて、ツレットは日焼けした手に己の右手を重ねた。

「では私からも話させてくれ。ヒルンゲシュピンスト――あれが何者であるかを」

 突然前に歩み出て来た仮面の少年にツレットたちは目を丸くする。全身甲冑の騎士を伴い、長い金髪を翻したその人物は、上品な仕草で一礼すると意外な素顔を露わにした。
「ル、ルーイッヒ前王子!?」
「なな、なんでまた王族の方がこないなところに……!?」
 驚愕は詮のないことだった。先だって身罷られた賢王の愛息が、まさか勇者候補として試験に紛れ込んでいるなんて誰も考えていなかったはずだ。
「あの賢者は王家がずっと封じ込めてきた災いだ。本来私が止めなければならなかったのを、巻き込んでしまって本当にすまない。王位を奪われさえしなければ、あれを表に出すこともなかったのだが……」
 ルーイッヒは苦い顔で謝罪を告げた。どうして高貴な身分にある方が、命のやり取りを余儀なくされるこんな試験を受けているのか意味がわからなかった。田舎領主の息子や放蕩貴族とはわけが違う。王国の中枢にいる人なのに。
「え、え、っちゅーことは、何がどうなって勇者試験なんかすることになったんか、もしかして知ってはるんですか?」
「ああ。叔父上はあれに唆されたのだ。私はなんとかあれの企みを阻止しようと今回の募集に名乗りを上げた。……だがそれ自体が罠だったのだな。よもや都で殺し合いをさせるつもりとは思いもつかなかった。叔父上は邪魔な私をここで葬り去るつもりなのだろう」
「な、なんや陰謀めいたもんビシビシ感じますけど、災いて一体なんなんです? 俺らにもわかるように教えてもらえませんか?」
 問われてルーイッヒは小さく頷く。「父から伝え聞いたことだが……」と前置きし、王子はゆっくり語り始めた。












 ――お人好しを絵に描いたような、どことなく兄弟子を彷彿とさせる男がウーゾを探しに来たのはついさっきのことだった。ヒルンゲシュピンストを見かけたらすぐにでも殺してやるつもりで館内をうろついていたら、庭に慰霊の墓を作っているのだと声をかけられた。
「気が向いたら、君も友達を弔ってあげて。余計なお世話かもしれないけど……なんだか他人事に思えなくてさ」
 地味な面立ちをした青年はミルトと名乗った。友人と連れ立ってやって来て、一人だけ取り残されてしまったらしい。
 返事の代わりに「お節介から先に死ぬぞ」と警告すると青年は苦笑し去って行った。その笑い方までブラオンと重なった。
 こんな風に一人で周りを突っ撥ねているとき、いつも気にかけてくれた男のことを思い出す。六年分の思い出を。
 開きっぱなしの玄関ホールへ戻ってみると、墓地を取り巻く空気は既に不穏だった。二人の少年の間で起きた諍いは、一触即発の殴り合いに発展しかけていた。だがすぐに訛り男が割って入る。取り押さえられたツレットが若いと言うより幼い貴族を睨みつけた。これ以上の交戦は面倒と断じてか、フォラオスとやらが庭から屋敷へ引き返して来る。

「なんで祈ってやらなかった?」

 大広間へ向かおうとした少年の背中に聞いた。
 尋ねられた方は目を丸くして立ち止まり、「盗み聞きか?」と問い返した。
「盗み聞きじゃねえ、耳がいいんだ。それと質問に質問で返すなよ。なんであいつの妹に祈ってやらなかったか聞いてるんだ」
「はあ? あんたあいつに仲間を殺されたんだろう? なんで肩を持つようなこと言うんだ?」
 わけがわからないなと眉をしかめ、フォラオスはウーゾから目を逸らした。またしても答えを示さなかったのはわざとだろうか。
「私怨があるかないかは関係ねえ。礼に欠いた奴は嫌いってだけだ」
「ふん。それこそ僕には関係ないね」
 不遜な若者は耳触りの悪い言葉など相手にもせず通路を突っ切って行く。
 あれくらい命を軽視できたなら、それはそれで案外楽なのかもしれない。
「……」
 ウーゾは再び扉の外へ視線を戻した。墓地の真ん中では仮面を外した王子様がヒルンゲシュピンストについて語り始めていた。あれは英雄アルタールの時代から地下牢に繋がれていた化け物だ、と。






 ******






 一番古い記憶は闇だ。僅かな光も届かぬ塔の底でヒルンゲシュピンストは育てられた。
 地図には載らない隠れ里。そこでは時々目や腕のない赤ん坊が生まれてくる。先天的に不完全な子供らは総じて忌み子の烙印を押された。そんな風に生まれつくと一生独房を出られないのが普通だった。
 ヒルンゲシュピンストが表へ出て来られたのは、世界の果てに魔王が出現したからだった。隠れ里に生まれ落ちた欠陥品に限り、ある特別な秘術が使える。当代の忌み子の中ではヒルンゲシュピンストが最も風変りだった。見目麗しく、ただちに知れる欠損はないけれど、性別というものがない。それで選ばれたのだろう。
 王宮に連れて行かれて、そこでも地下に押し込められた。国王への忠誠を誓った後、命じられた儀式を始めた。――即ち勇者の召喚を。
 欠けている肉体の一部は別の世界に置き去りになっているのだそうだ。その別の世界から呼び出したのは黒髪黒目の少年だった。見慣れない詰襟の、軍服に似た召し物を着ていた。居合わせた王は「これが異世界の若者か」と喜んだ。

「はあ、僕が勇者? 勇者ってよくわからないですけど、桃太郎みたいなものですか? えっ、僕の名前? 違います。僕は桃太郎なんて名前じゃないです。僕は……あれ? 僕、なんて名前だったかなあ」

 少年は自身に関する記憶を失っていて、ひとまずアルタールの名で呼ばれた。アルタールは明るく気さくで、とても優しい男だった。魔物の被害でたくさんの人が困っていると聞かされると、ほとんど二つ返事で魔王討伐を引き受けてくれた。 
 これでヒルンゲシュピンストの役目は終わったはずだった。ところが何故か、今度は勇者の旅に同行しろと命じられた。当時の自分はまだどんな精霊とも契約しておらず、何の知識も持たなかったのに。

「ヒルンゲシュピンストって名前、すごく長いよね。ヒルトって呼んでいい?」

 大真面目に尋ねる彼に戸惑いを隠せなかった。勇者は案内役すら付けず、ヒルンゲシュピンストと二人旅に出ようとした。 

「行く先のわかる人間と行った方がいいのではないか? 私は世間をよく知らない。役に立つとは思えない」
「いいんだよそれで。僕だって翼竜や一角獣のいる世界のことなんかわからないもの」
「だったら尚更わかる人間と行った方がいいのでは……」
「何もかも教えてもらうだけなんてつまらないよ。僕が君と行きたいんだから、別にいいじゃないか」
「だがやはり……」
「はいはい、もう言いっこなし!!」

 このときの強引さについては、随分後で理由を知ることになった。アルタールは「あの召喚師は用済みだ」という王の言葉を聞いていたらしい。それでヒルンゲシュピンストが心配になって連れ出したそうだった。

「港から船が出るんだって。向こうの大陸に着いたらどんどん南へ進めだってさ」
「魔王が棲むのは遥か彼方の氷の島だ。腕を磨きながら行こう」

 まだ無垢だったヒルンゲシュピンストは使命を全うするために様々な勉強を始めた。幸い精霊に好かれる体質だったようで、魔法は次々取得できた。気まぐれな風の精、泣き虫な水の精、偏屈な土の精、強情な火の精、峻烈な雷の精、頼めば彼らがいつでも力を貸してくれた。
 立ち塞がる影のごとき魔物は、巨大化した野獣の類や幻獣たちとはまるで異質な存在だった。どれだけ炎を浴びせても、どれだけ雷を落としても、この世から消えてしまわない。だがそんな厄介な敵も生き物に触れたときはたちどころに消滅した。触れられた者は皆、命という対価を支払わされていたけれど。
 影を斬れるのはアルタールだけだった。魔王を倒せるのがどうして勇者一人なのかわかった気がした。

「ヒルト、ありがとう。助かった〜」
「無茶をして! 私が風で拾わなければ谷底まで真っ逆さまだったじゃないか!」
「助けてくれるってわかってたもの。ふふ、僕たち阿吽の呼吸だね」
「アウン? なんだそれは?」
「あー、うーん、金剛力士像って言ってもわかんないよねえ」

 野を越え山を越え谷を越え、砂漠を抜けて河を渡って。南方は暖かいというイメージが覆ったのは二つめの砂漠を過ぎた辺りからだった。
 アルタールはもう一端の英雄に成長していた。噂を耳にした人々はどの街でもこぞって彼を歓待した。期待され、尊敬されるようになると、アルタールはますます力を尽くすようになった。
 我々は良き友人となっていた。一緒に世界を歩いて、一緒に世界を知って、同じ目標を掲げていた。困りごとは二人で話し合って解決した。純朴でもあったのだろう。胸の内を隠すことは一切しなかった。
 凍土の街に到達し、後は氷の浮橋を渡るだけという段になって、ヒルンゲシュピンストは彼に「名前がわかった」と打ち明けられた。多分これだと思うと言ってアルタールは薄い手拭を差し出してきた。

「この服、内側にもポケットがたくさんあったみたいでさ。昨日初めて見つけたんだ。――読める?」
「……」

 手拭の端には確かに何やら文字らしきものが書かれていた。だがヒルンゲシュピンストには見たこともない言語だった。
 無言で首を横に振るとアルタールは遠くを見つめて囁いた。それはとても静かで、彼が異世界の住人であることを思い出させる声だった。

「全然知らない世界へ来たり、記憶喪失になったりしたら、普通は怖いと思うよね。でも僕は、ここへ来たときなんでかすごくホッとしたんだ。……ここへ来るんじゃなかったら、もっと嫌なところへ行かなきゃならなかった気がする。何も覚えていないんだけど、でも、だけど、僕はどうしても『そこ』へは行きたくなかったから。……だから君が呼んでくれたのかなあ」

 アルタールが何を言っているのかはよくわからなかった。多分彼もわかっていなかったと思う。
 ただこの頃にはもう「魔王を倒した後も元の世界へ戻ってほしくない」という願いを抱いていたから、躊躇なく返答した。

「嫌なら帰らなくていい。記憶を取り戻す必要もない。私にこの名は読めないし、私にとって君はアルタールだ」

 手拭を突き返したらアルタールはくしゃりと笑った。結局彼の本名は聞かなかった。聞いていても、後の展開にきっと変わりはなかっただろう。






「ああ、ああ!! 思い出した。僕は帰らなきゃ。でもヒルト、君を忘れたくないよ」
「アルタール、何をしている!! 早くこちらに手を伸ばせ!!!!」
「僕たち必ずまた会おう!! 約束だ。絶対ずっと待ってるから、会いに来て――」






 勇者の剣が魔王を貫いた瞬間に、ヒルンゲシュピンストの世界は逆さまを向いた。
 闇と光がぶつかり合って光の方が全てを飲み込む。アルタールは最初にこの世界へ現れたときと同じまっさらな光に包まれていた。
 輪郭を失い消える寸前、あの青い手拭が放られた。それ以外の彼の痕跡は魔王と共に消えてしまった。アルタールは伝説の中だけの存在と化した。
 魔王を倒せば勇者もいなくなってしまうとは、一度も聞かされていなかった。魔王がいなければ勇者を呼び出すこともできないとは、全く知りもしなかった。
 このまま王の元へ帰れば処遇など明らかだ。名だたる賢者の一員になったとは言え、契約主をどうこうすることはヒルンゲシュピンストにもできない。
 何年も、何十年も彷徨い続けてアルタールに会う方法を探した。二人で旅をしていたときより高位の精霊にも助力を乞うた。
 だって彼は約束だと言ったのだから。
 魔法使いにとって、約束よりも重い言葉はないのだから。

「人間の寿命では次の魔王の降臨なんて待てないよ」

 やがてヒルンゲシュピンストは精霊たちの王と出会った。孤独な忌み子を哀れんだ彼は賢者と契約を交わしてくれた。世界のあらゆる精霊がヒルンゲシュピンストの使役するところとなり、不老不死を得た瞬間だった。






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「……あれはもう三百年もの間、王城の地下で生き長らえてきた。魔法使いなら三百年前この世に何が起きたか知っているだろう。精霊という精霊が姿を隠し、魔法は一度根絶しかけた。巷では魔王の仕業と言われているが、実際はあの賢者の仕業だ。ヒルンゲシュピンストが精霊王と契約したがために、精霊は皆あれの支配下に置かれてしまったのだ。今では誰も精霊魔法など操れない。呼び出そうにも精霊は応じることができぬのだからな。叔父上もあれのもたらした不利益は重々ご存知のはずだった。なのに魔物どもに大灯台を破壊され、浮足立ってしまわれた。甘言に乗せられるまま鎖まで解いてしまって……あれは魔王以上の災厄をもたらすと代々言い伝えられてきたのに」
 若き王子は美しい顔を歪めながら己の知見を洗い浚い打ち明けた。ヒルンゲシュピンストがどんなに危険な怪物か、人間の人間たる心が欠落しているか、墓場の面々に言い聞かせる。
 面白い陰口だった。隠れて聞いているのが知れたらルーイッヒはどんな表情に変わるだろう。想像したら思わず笑みが浮かんでくる。槍玉に挙がっているのは他ならぬ己なのに。
 そう、精霊王と結んだ後にヒルンゲシュピンストは祖国の宮殿へ帰って来た。次に勇者を呼び出すときも術者は自分でなければならなかったから。
 隠れ里は埋め立てて、二度と忌み子が生まれてこないようにした。手筈が整えば後はのんびり待つだけだった。宿に城を選んだのは、なんてことはない、王と歴史に忘れられると困るからだ。思惑通り愚鈍な王は死なずのこの身に縋ってきた。
「三百五十年前に魔王が世界を滅ぼさんとしたときも、我が国は魔を打ち砕く勇者アルタールを輩出した。ヒルンゲシュピンストは当時から王宮にいて、先代勇者の選定にも深く関わったとされている。あれが特殊な一族の末裔であるのは確かだ。だが私には到底あれが人類に協力的であるようには思えない」
 とにかく、とルーイッヒは語気を強めた。
「叔父上は考えが浅いのだ。あれの掌で踊らされている気がしてならない。真実あれが王国に尽くす者なら何故今までずっと閉じ込められていたのだ? ヒルンゲシュピンストが国の王にだけは刃向かえないと私も知ってはいるけれど、あれは言葉巧みにどんな懇願も退けてしまう。なのにこの勇者選びに関してだけは最初から好意的だった。父上は、前王は怪しいと睨んで王国軍だけでなんとかしようとなさったのに……!!」
 忌々しげに王子は唇を噛む。魔王に臆して出してはならないカードを切った叔父王を許し難い様子であった。
 いつの時代も馬鹿を見るのは正直者だ。ルーイッヒも、新王も、疑り深くなりきれなかったから手綱を取れなくなったのだ。無知だった過去の己がアルタールと離れ離れになってしまったように。
「ほなヒルンゲシュピンストが何考えてこんな試験に踏み切ったんかは王子様にもハッキリわからへんのですか?」
「……すまない。何か裏がありそうだとは思うのだが」
 ルーイッヒがヴォルケンに謝罪を告げる。少なくとも利のないことはしないだろうと叔父よりは利口な彼が言った。
「あの、賢者と国王の間にもなんらかの契約関係があるんでしょうか?」
 続いて疑問を投げかけたのはファッハマンだ。ルーイッヒは考え込み、沈んだ様子で魔導師に答えた。
「契約か。今から思えばそうだったのかもしれない。人と精霊の間に結ばれるものだけをそう呼ぶのだと思っていたから……」
 軽率だったと王子が右手の親指を見つめる。安易に血判を押してしまった後悔はすぐには拭い去れないだろう。彼も、彼以外の人間も。
「叔父上は最初、あれに魔王を倒せと命じられた。だがあれは頷かず、新たな取り決めを増やすことはできなかった。次に叔父上は、魔王を滅ぼす勇者を探せと命じられた。それなら少し考えてみようとあれは答えた。――望む勇者を得るために百人までなら殺していいと、叔父上は約束してしまったのだろう。それで祖国に平和を取り戻せるならと……」
 ルーイッヒはもう詫びなかった。詫びたところでどうにもならないと悟ったのだ。国王が勇者候補を見捨てた事実に変わりはないから。 
 酷いと誰かが呟いた。だが呟いた者も喚き立てはしなかった。王族であるルーイッヒに責任を問うたところで、状況が好転するわけでないのはわかりきっている。
「こんな契約が現存してるなんて、魔法使いでも思わないよ。しちゃったものは仕方ないし、とりあえず皆さ、どんな力を持っているのか僕に教えてくれないかな? ここを出る方法、頑張って考えてみるからさ」
 呪術の研究家だという少年は候補者たちを励ますように訴えた。どうやら彼と、先程ヒルンゲシュピンストに試合の延期を提案した男が生き残りの中核らしい。
 彼らの作戦会議はそう長く続かなかった。ヒルンゲシュピンストの構築した異空間にも夜が訪れ、庭はすっかり暗くなっていた。
 今日のところは疲れた身体を休めようと解散した候補者たちの後に続き、そっと屋敷へ舞い戻る。姿を隠す魔法を解いたのは目当ての少年が個室に入ったすぐ後だった。



「いけないな、アルタール。たった二戦であんなに摩耗してしまうなんて」



 バッと振り向いた少年の黒い瞳が吊り上がる。天井近くに浮かんだ賢者を睨むのは詰襟を着た黒髪の異世界人だ。肝心な記憶の抜け落ちた、不完全な私の勇者。
「騙したんだな!? この試験さえ終われば魔王に匹敵する強さが手に入るって――、元いたところへ帰れるって言ったくせに!!」
「嘘は言っていないよ。魔王を倒しさえすれば君は君の世界に戻れるし、九十九人完食すれば魔王を凌駕する実力だって」
「人を殺すなんて聞いてない!!!!」
 花瓶に枕、インク壺に置時計、果ては椅子まで投げつけられて溜め息が出る。急に勇者になれと言われても魔王となんて戦えないと彼が言うから舞台を整えてやったのに。
「何人殺そうと構わないじゃないか。どうせ君はまた何もかも忘れてしまうに違いないんだ」
 空中に飛来する家財を停止させ、少し乱れた髪を撫でつける。リボン代わりの手拭をするりと解くと悲しい気分で目を伏せた。これを自分に投げて寄越した英雄はもっと頼もしく勇敢だったのに。
「……ッ、そうだとしても、命を奪ったってことは……ッ!!」
「アルタール、君は強くなることだけを考えていればいい。こうしてこちらへ来てしまった以上、魔王を倒す以外に君が帰る手段はないんだぞ。それだって君でなければ斬ることもできないんだ。犠牲者が二桁で済むなら御の字だろう」
「でも、でもやっぱりこんなの……ッ」
 トン、と床に足を着ける。目元を覆って俯くアルタールの耳に囁く。
「君は何も間違っていない。私の言った通りにやればいい」
 三百五十年待って再召喚したアルタールはやはり記憶喪失だった。それは予測済みだったからいいとして、意気地がないのはいただけない。何がどうしてこんな臆病者になったのか――。
「最も恥ずべき行為は殺人か? 違うな、約束の不履行だ。私は勇者たる君にもう一度会うと誓ったのだ。せめて魔王を倒して思い出を取り返してくれ。……三試合目までには皆殺しの決意が固まっていることを願っているよ」
 ホールで告げたのと同じ台詞を繰り返す。試験を続行しなかったのはあくまで彼のためだった。いくら目的があるとは言え、この顔に泣かれるのは心苦しい。
「……出て行ってくれ……」
 拒絶を示す呟きに小さく息を吐く。室内を元通りに片付けるとヒルンゲシュピンストは別の空間に退散した。
 魔王を倒せば彼は帰る。魔王を倒さねば世界は滅ぶ。このジレンマに決着の方法を見出したのはもうずっと昔のことだ。
 誰の記憶にも残らない殺人など罪には問われまい。
 今度はきっと一緒に行こう、アルタール。







(20140502)