第三話 伴侶の務め






 兵士の国、辺境の国がビブリオテークと同盟を結んだことを公表すると、アペティート軍の南下は直ちに停止した。
 湖水で進路が遮断されたこと、辺境の国から魔法攻撃を受ける可能性があること、陸上では人力で砲台を動かさねばならないこと、他にも彼らの足を止めた要因はあるだろう。もっとも初めから勇者の国だけが狙いであったのだろうが。
 ラウダとバールが空からアペティート軍の偵察を行った結果、彼らは森の木々を切り倒し、山に取りつき、連れてきた鉱夫たちに早速採掘の仕事を始めさせているのがわかった。一帯に大砲を並べて厳重に守りを固めているらしく、アラインとノーティッツ抜きでの奪還は厳しそうだ。
(ったく、ヘマしやがって……)
 ドカッと音を立てベルクは乱雑に宮廷の椅子に腰かけた。自分でもかなり不機嫌だという自覚がある。あの強かな幼馴染みのことなのできっと無事でいるとは思うが、胸中の靄は晴れない。
「どないするつもりやねん?」
「どないもこないも……」
 マハトやイヴォンヌらと共にベルクはずっと会議室に缶詰め状態だった。
 兄ふたりが国境と湖の街にそれぞれ防衛の指揮を執りに行った際、父からは「勇者の国に関してはお前に一任する」と言われている。勇者の国側とよく話し合って今後のことを決めてくれ、と。
 兵を用意するよう頼めばトローンは用意してくれるだろう。ウングリュクも、その辺りの協力は惜しまずやってくれると思う。だが奪われた土地を取り返すのはまだ早計と感じられた。
「天界の助力を乞うべきだろうな」
「ええ、アラインさんがいないまま話を進めるわけにいきません。オリハルコンの回収に何か良い方法がないか、あの三人が知っていればいいのですが」
 ディアマントとクラウディアが先に破滅の魔法に対処すべきだと提案する。エーデルとマハトもそれが最善だろうと同意した。
 魔法のことは正直からっきしだ。この中では一番詳しいのがクラウディアだろう。その彼が自分の手には余ることを示しているのだから、先代勇者の元へ向かうのが手っ取り早いのは間違いない。
「姫君……っと、お妃さんもそれでいいか?」
 伏せっているシャインバールの代理で会議の席に着くイヴォンヌは、こくりと無言で頷いた。
 今は彼女が勇者の国のあらゆる決定権を持つ。気丈に唇を引き結び、王妃は「私もお連れください」と申し出た。
「旅の話はすべて夫から聞き及んでいます。アラインを救うためにできることがあるなら、直接お話を伺いたいのです」
「ああ、わかった一緒に行こう。他はいつものメンツでいいな?」
 ベルクが了承するとイヴォンヌは少しだけホッとしたようだった。一瞬マハトが何か言いたげに顔を上げたが、それには気づいていなかった。
「あの、おれも付いて行っていいですか」
 勇者の国の重臣たちが静かに会議の着地点を見守る中、ツヴァングとかいうアラインの部下が唐突に立ち上がる。こいつは確か都に残って戦うと暴れかけた奴だ。
「ツヴァングお前……」
「一緒に行きたいんです、マハトさん。おれがヴィーダから目を離したせいだから……!」
 頭を下げたツヴァングにマハトは困ったよう眉根を寄せる。「好きにさせてやってはいけませんか?」と聞いたのはイヴォンヌだった。
「アラインならきっとそうします」
 迷いない声にベルクの口角が僅か上がる。
 あの勇者はなかなかいい女を捕まえたのではなかろうか。






 天界へ赴くことになったのはベルクとウェヌス、イヴォンヌとツヴァング、エーデル、クラウディア、ディアマント、マハトの八人だった。先代勇者パーティでも既に異常を察知していたか、バールとラウダの背に跨ってベルクたちが神殿へ到着したときにはヒルンヒルトが出迎えに立ってくれていた。
「子孫の晴れの舞台だからな。朝から遠視魔法で見ていたんだ」
「話が早くて助かるぜ。オリハルコンのこと聞きてぇんだがいいか?」
 白い廊下にカツカツと足音が響く。気が急いているのをそのまま表したような速度だ。
 前回ベルクが冥府の底に落ちてしまったときと同じよう、丸テーブルにはアンザーツとゲシュタルトが待っていた。ふたりの間には魔道具らしき水鏡が据えられている。
 全員が座席に着くなりヒルンヒルトは鏡に破滅の魔法を映し出した。どうやっているのか知らないが録画再生が可能らしい。ノーティッツの母もそうだが、魔法使いの中には既存の魔法を扱うだけでなくやたらクリエイティブな方面に突出した人材がいる。ヒルンヒルトも有り余る暇を利用し幾多の術を編み出していた。
「オリハルコンはほぼ均等に三つに分かれた」
 賢者はそう言い亀裂の入った聖石を指し示す。映像は実際より動きが遅くわかりやすかった。
「ひとつは真下に、残りふたつは南西に飛んだ。……ので追いかけた」
 おお、と歓声がどよめく。
 なんてできる男なんだ。やはり元大賢者なだけはある。一番知りたかったオリハルコンの行方がこれで特定できるかもしれない。
「期待させてすまないが所有者までは判明していないぞ。こちらも想定外だったのでな、ドリト島付近までしか追い切れなかった。ひとつは島に降りたようだが残りのひとつは……」
 急降下していくオリハルコンの塊を映していた水鏡は急に波打ち前後も左右もぐちゃぐちゃになってしまう。映像は途切れ、鏡の表面が黒く染まった。
 勇者の国に落ちたものと、ドリト島に渡ったもの、最後のひとつは正真正銘行方不明か。
 皆の零した小さな嘆息に賢者はすまないと詫びを入れる。
「いや、十分助かったぜ。目的地はできたからな」
 ヒルンヒルトに答えながら頭ではまったく別のことを考えていた。
 こんなときノーティッツがいれば、よく回る頭を三倍速にしてこうじゃないかああじゃないかと推測を並べてくれるのに。
「大丈夫だよ。オリハルコンは力のある持ち主を選ぶし、引き寄せ合う性質があるから」
 焦りを隠せないベルクたちと対照的にアンザーツの笑みは柔らかだった。その笑顔に少し励まされたような気分になる。
「持ち主に近づけば神具を通して呼びかけられるかもしれない。それに、ひとつはあのヴィーダって人が持ってると思うな」
「ああ、私もそう思う。でなければあんな魔法が呼び覚まされるわけがない」
 ヴィーダ――ヴィーダか。
 ベルクはシャインバールに剣を突き付けた青年の顔を思い返した。あいつらがノーティッツも連れ去っていったのだ。
「だったら俺はヴィーダを追う。うちの参謀を返してもらわなきゃならねえからな」
 そう宣言すると次いでエーデルが「じゃああたしドリト島へ行くわ」と言った。
「あの、お祈りは苦手なんだけど、クラウディアがついてきてくれれば前みたいに何とかなると思うの」
 うん、とアンザーツも頷き肯定の意を示す。
「きっとそれがいい。ふたりはオリハルコンを追いかけて。破滅の魔法を再封印するにはそれしかないと思う。ぼくも残りのひとつを探しに行くよ。……本当は隠居の身であまり地上に関わるべきじゃないとは思ってるんだけどね」
 先代勇者の手助けは非常に頼もしかった。相手は三日月大陸ではお目にかかれないような武器を持っているのだ。なるべく強い仲間が欲しいところだった。
「アンザーツ、それなら俺とビブリオテークへ回ろうぜ。少なくともあの感じじゃオリハルコンは外洋の国のどこかに行っちまったんだろう? ビブリオテークだったら辺境から船を出してもらえる」
「わかった。付いて行くよマハト」
 決まりだな、とベルクは膝を叩く。一応ディアマントにもどうするか尋ねるが、当然のごとく「ドリト島だ」と返答された。
「ほなワシは誰に付いて行こかなぁ」
 パタパタと神鳥は羽を広げて思案する。
 お前とラウダはアペティート軍を監視するのにどっちか残ってくれと言いかけたところで、誰か椅子から立ち上がる音がした。
「あの、私にも何かできませんか?」
 指輪に触れた右手の先にぐっと力をこめながら、イヴォンヌが喉を震わせた。






 ――大人しくしていてくれれば王族だとはわからないか。そう思って止めなかったのがまずかった。イヴォンヌの心境を思えば強く駄目だと言うことはできなかったから。
「イヴォンヌ様、お気持ちはわかりますけど……」
 マハトはこれ以上王妃が興奮しないよう極力気をつけて椅子に座らせようとする。しかし一度堰を切った彼女の思いは溢れて止まらなかった。
「剣も魔法も使えぬ身ですが、私は勇者の妻として誓いを立てたのです。夫と祖国をこのように踏みにじられて、じっとしているなどできません……!」
「イヴォンヌ王妃、しかしわたしたちもあなたを守りながらオリハルコンを探すと言うのは……」
 宥めようとしたクラウディアの手を振り払い、イヴォンヌが「お願い致します!」とマハトに縋りついてくる。必死な姿は憐れを誘うが兵士長として頷くわけにはいかなかった。非力な女性を、しかもアラインの奥方を、戦地になるかもしれない場所へは連れていけない。
「アペティートはあなたを生かそうとしませんよ。名実ともに勇者の国を手に入れるつもりなら、王族にはとどめを刺そうとするはずです。危険すぎます」
 アペティートがビブリオテークと戦うために勇者の国の資源を狙っていたのはハッキリしている。ドリト島へ向かうにせよビブリオテークに向かうにせよ安全とは言えないのだ。
 だが幾ら諭してもイヴォンヌは納得しなかった。少しでも早くアラインを助けられるなら打てる手はすべて打ちたいのだと小さな拳を握り締める。
「……知っているんです、私。無力な者でも魔法使いと特別な契約をかわせばその力をお借りすることができるのでしょう? お願いします、賢者様! 私に力をお貸しください!!」
 王妃は今度はヒルンヒルトに頭を下げた。なるほど最初からそういうつもりで付いてきたのかと内心嘆息する。
 多分イヴォンヌはクラウディアやディアマントがツエントルムとかわした言語制約の魔法について言っているのだろう。しかし元々の戦闘能力がゼロに近い彼女が新たに得られる力など微々たるものではなかろうか。
「ふむ、困ったな」
 顔を上げない王妃のつむじを見やりつつ元大賢者はぽりぽり頬を掻く。
「周知の通り、私の力はほとんどアラインに譲ってしまった。今ある魔力など残りかすだよ。霊体を維持するのに力を費やす必要のないこの場所だから、まだ魔術師としての体裁を保てているだけだ。君の願いには応えられない」
 ヒルンヒルトはちらと隣のアンザーツに目配せした。彼は彼で苦笑いして「ぼくも魔法は使えるけど、契約を結ぶにはちょっと才能不足かなぁ」と首を振る。
 あ、これはあまり良くない流れだ。肝を冷やしてマハトはゲシュタルトに視線を移す。イヴォンヌの姿をひと目見たときから彼女はひと言も口を利かなかった。復讐に生きていた頃と同じ冷めた目つきで、じっと黙って腕組みしている。そんな聖女に王妃は「あの、お願いできないでしょうか?」と問うた。

「……あなた王族でしょ?」

 ゲシュタルトの声は冷え切っていた。たちまち空気が凍りつき、天界にイヴォンヌを連れて行くということがどういうことかわかっていなかった面々もハッとした面持ちになる。

「あなたたちが私に何をしたかわかって頼んでるの?」

 言葉は針となりイヴォンヌを突き刺した。
 長いような短いような沈黙が訪れる。
 シャインバール二十一世のしたことに彼女は無関係だろう。そうは思えど血の繋がりがある以上切り離しても考えられない。王族というのはそういうものだ。
 震える声で王妃は「承知の上です」と答えた。
「お詫びしてもしきれるものではないとわかっていますが……、それでも今は、私たちのため己ごと破滅を封じたあの人を取り戻す力が欲しいのです」
「随分都合がいいのね。自分たちはだんまりを通しているのに、私には協力しろと? 勝手すぎると思わない?」
 王家がかつて彼女を汚したことだけは国民に報じられていない。ゲシュタルトはそれも知っている風だった。
 ちらりと盗み見てみたが、アンザーツもヒルンヒルトも仲裁に入る気はないようだ。ふたりともここはゲシュタルトの意に任せることに決めたらしい。この件に関してはどちらの味方にもなりようがないなとマハトも成り行きを見守る。
 百年以上も昔のことだと忘れた気になっていたわけではないが、連れてきたのは軽率だったと後悔した。アペティート兵に殺される前に、ゲシュタルトにどうかされるかもしれない。
 イヴォンヌは、だが己の意志を曲げなかった。
「私はどうなっても構いません。ですが皆のためにアラインは必要な方……! どうかお願い致します」
 王妃は白い額を床に擦りつけた。ギョッと目を剥いたのはツヴァングだ。おろおろしながらイヴォンヌを立ち上がらせようとするのでマハトが腕で制する。この青年にはもう少し辛抱を覚えさせなければいけない。彼女たちは今本音でぶつかり合っているのだ。誰も割り込むことなどできない。

「……まあ、アラインのためなら仕方ないわね」

 ゲシュタルトはゆっくりと重い腰を上げた。黒手袋の指先がどこからか紺色のリボンを取り出し丸テーブルの上に置く。
 あれは百年前に彼女が愛用していた装飾品だ。天界へ来る際も霊体を定着させる依り代として使用した。何か魔法を使う気なのは見て取れた。恐る恐る面を上げたイヴォンヌに、ゲシュタルトはまだ蔑み混じりの目を向ける。
「辛い目に遭わせたのに、あの子は私たちにこんな幸福な時間をくれた。それを仇で返すわけにはいかないというだけよ」
「そ、それでは……!」
 期待に胸を膨らます王妃にゲシュタルトは目を閉じているよう命令した。周囲が口を挟む余地もなく、聖女はつらつら魔術の説明を始める。
「契約は大きく分けて三種類あるわ。ひとつは言語による制約を設けて結ぶものだけど、これはあなたが弱すぎるから今回は使えない。他には生き血を魔力に変える契約と、肉体の一部と引き替えに力を与える契約があるけれど……いっぱしの魔法使いになりたいのなら、あなたの長い髪とそれが象徴するものを差し出してもらわなければね」
「結構です。どんなものでも差し出しましょう。それが勇者の配偶者としての私の務めです」
 王妃は片膝をつき、祈るような姿勢で聖女との契約を受け入れた。途端、眩い光が室内を満たして完全に何も見えなくなる。
 光が消え、マハトがイヴォンヌの無事を確認しようとしたときだった。いち早く視力を回復していたベルクが素っ頓狂な声を上げたのは。
「え、ええ!? お、お妃さん!!?」
 彼の反応を笑うことはできなかった。マハトも後ろに引っ繰り返りそうになったからだ。
 イヴォンヌのいた場所には何故か線の細い美しい青年が座り込んでいた。髪は肩より短くなっているが、その色はイヴォンヌと同じ胡桃色だ。
 青年はぺたぺた自分の胸を触って「無い……?」と目を瞠る。声質はさほど低くもないけれど、かと言って高くもない。
 呆然とする面々の前でゲシュタルトは得意げにふんぞり返った。このくらい当然よと言いたげだ。要するに、ゲシュタルトはイヴォンヌから女性であることを奪って魔力を与えたのだ。
「君の方がよっぽど悪霊のようなやり口ではないか……」
 ヒルンヒルトのつっこみはおそらく的確なものだった。
「あら、愛する人が見破ってくれれば呪いは解けるものよ?」
 思わせぶりに微笑むとゲシュタルトは変わり果てたイヴォンヌの手に色褪せたリボンを握らせる。それで少し王妃も現実に帰って来たようだ。
「魔法の使い方は直々に教えてあげる」
「……感謝します」
 イヴォンヌは深々と頭を下げた。
 滅茶苦茶だ。だが敢えて何も言うまい。
 王妃に向けられるゲシュタルトの眼差しはまだ氷のようだったが、先程よりは多少和らいでいた。それだけでも良しとせねば。
「あの、おれも駄目ですか?」
 ホッとひと息ついたところで今度はツヴァングがゲシュタルトに絡み出した。自分にも加護を与えてほしいと。
「おれがアライン様の命令通り動けなかったのがそもそものきっかけだったんです。ヴィーダから離れないでくれと頼まれていたのに、あいつに騙されて……! だからおれ、どうにか償いたくて」
 半分泣きそうになりながらツヴァングは訴える。自分を責める気持ちはわからなくもないが、もう少し落ち着けとマハトは彼の肩を叩いた。
「残念ながら大きな契約はそう何人とも結べないわ。大体あなたは剣を扱うくらいできるんでしょ?」
 ゲシュタルトの返答はにべもない。これ以上手を広げる気はないと示されツヴァングはがっくり項垂れた。
「だったらお前はベルクと一緒にヴィーダをとっ捕まえてくれないか?」
「え?」
「イヴォンヌ様とゲシュタルトには俺と一緒にビブリオテークへ行ってもらう。目の届くところにいてもらわないと困るしな。アンザーツもこっちだし、ベルクのところが手薄になるだろ」
「えっ……」
 ツヴァングは露骨に嫌そうな顔をした。彼が隣国の勇者を毛嫌いしているのは知っている。しかし、だからこそ付いて行かせたいと思った。視野を広げるのにこんな機会も滅多になかろう。戦力としても、ベルクなら黙っていたって鍛えてくれるに違いない。
「俺からも頼むわ。今回はこいつ連れて行けねえし」
 ベルクが顎で示したのは彼の配偶者であった。当人は「何を言うのです! 夫婦は一心同体ですのよ!? 私もノーティッツを助けに参ります!!」と憤慨したが、夫の怒号に一蹴されてしまう。
「馬鹿! 自分の状態考えてもの言えよ! 流産したらどうすんだ!!」
 「は?」と呟いたのはディアマントだったか、クラウディアだったか。
 近頃凄まじくボケたところのある元大賢者が「成程、おめでとう!」と拍手しかけてゲシュタルトの裏拳を受けた。相変わらずこの男に空気は読めないようだ。
「い、い、いつ身籠ったのだ?」
「つわりはあるんですか? ただの食あたりという可能性は?」
 その動揺は先を越されたからなのか、それとも単純にびっくりしているだけなのか、ウェヌスの兄たちは額に汗して尋ねる。
「そうですわベルク、食あたりかもしれません……! 私もやっぱりあなたと一緒に」
「お前がそんなタマかよ? 頼むからこれ以上俺の心配ごとを増やさないでくれ!」
「……っ!!」
 ウェヌスは目尻に涙を溜めて俯いた。腹を撫でる白い手はぶるぶると悔しそうに震えている。仲の良いエーデルからも「残った方がいいと思うわ」と諭されて、元女神は本格的にハンカチを濡らし始めた。
「う……っ、うぅ……っぐす……」
「……絶対にあの馬鹿連れて帰ってくっから……」
 いつもの乱暴な手つきと違って優しげにベルクがウェヌスの頭を撫でる。このときは全員それとなく明後日の方角を向いた。盗み見ようとしたバールはマハトが首根っこを捕まえる。
「……わかりましたわ……」
 少し気持ちが落ち着いたのか、ウェヌスは唐突に振り返るとつかつかツヴァングの元へ歩み寄った。そうして女慣れしていない青年の両手を熱烈に握り締めた。
「ベルクのこと、どうかよろしくお願いいたしますね。私の分まで! 本っ当に!!」
「えっ、えっ、あっ、はい」
 身内以外の女性に触れられた経験などないお坊ちゃんは耳まで真っ赤にして硬直した。もしかするとこれで一層ベルクを嫌いになる理由が増えてしまったかもしれないが、まあ、ベルクの方は気にも留めないだろう。
「ヴィーダのところへは私が送ろう。船よりは目立たず行けるはずだ」
 ラウダの申し出にベルクは頷き礼を述べる。新大陸への渡航関連で彼らは随分親しく打ち解けたようだった。
「ほなワシは国境付近をパトロールか」
「ああ、そっちも留守は任せたぜ」
 やれやれとバールは溜め息を吐く。ふたり以上背中に乗せられないことを気にしているのか、「ワシも塔の肉体にダイエットさせるべきか」などとぼやいていた。
 何にしろ行く先はこれで決まった。ヴィーダの後を追うのはベルク、ツヴァング、ラウダ。ドリト島へ降りたオリハルコンを探すのはエーデル、クラウディア、ディアマント。ビブリオテークでオリハルコンの情報を集めるのがマハト、アンザーツ、イヴォンヌ、ゲシュタルトだ。
「ヒルトも天界の留守番頼んだよ」
 水鏡を片付ける賢者にアンザーツが言った。例の無邪気な表情で。
「……待て、私を置いて行くつもりなのか?」
「だってヒルトは残りかすなんだろ? そもそも霊体を維持するだけで精一杯なのに、付いてきてもしょうがないじゃないか」
 天然というのはそら恐ろしい。まったく他意なく彼がヒルンヒルトをこき下ろすので、見ているマハトの方がハラハラした。
「なぁにその潰れたアンパンみたいな顔? 自分で言ったんじゃないの残りかすって。何もできないんだから大人しくここで待ってなさいよ」
 ゲシュタルトも喧嘩を売るように悪態をつく。
 また自分が間に入って仲を取り持たねばならないのか。何故この三人は口を開けばこうなるのだ。
「何もできなくはないさ。私も君たちと地上へ降りるぞ」
「だから降りてどうするの? 余分な魔法打てるような状態じゃないでしょ? お荷物なのよ、お荷物」
「降りる方法ならばある」
「あーらそうなの。契約も結べないくせにどんな方法があるのかしら?」
「お前らなぁ、その喧嘩腰の会話止めろよ! 言い合いしてる場合じゃないだろ!」
 ヒルンヒルトとゲシュタルトを引き離すようマハトが割り込むと、賢者の右手がマハトを掴んでグイと引き寄せた。一瞬バランスを崩しかけるも半歩退がってなんとか踏みとどまる。
「あっぶねえなおま……!」
 怒鳴りかけたところでヒルンヒルトが「彼にとり憑かせてもらえばいい」などと、またとんでもないことを言い出した。
「あまり縁の薄い相手では無理だから丁度適任だろう。お守りだと思って君はこの魔法石を身につけておけ。長年私が愛用していたいわくつきの代物だ」
「表現の仕方がホラーなのはなんでなんだ! 普通に言え普通に! って言うかなんで俺がお前にとり憑かれなきゃいけないんだ!?」
 マハトは抵抗を試みたが、敢えなく徒労に終わった。アンザーツが「それいいね、名案」と言えば途端に三対一になってしまうのだ、このパーティは。
「魔力消費を抑えるのに普段は石の中で寝ているから安心してくれ」
 何をどう安心すればいいのかさっぱりわからなかったが、マハトは賢者の魔法石を首からぶら提げて地上に降りることになった。
 三年前天界を訪れたときとは逆に、ヒルンヒルトとゲシュタルトは結界を越えるとそれぞれの遺品の中に潜り込み、姿が隠れてしまう。アンザーツは肉体が滅していないので精神体のままウロウロできるようだった。
 胸の上で日頃はつけない装飾品が揺れているのを感じ、マハトは重い息を吐く。
 別に苦手というわけではないが、二十四時間このマイペースな賢者と一緒というのは心労がかさみそうだった。






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 アペティートが勇者の国で鉄鉱や石炭を掘り始めたという情報は間もなくビブリオテークにも伝わった。「もういつどこで激突してもおかしくない状況になった」とかの国も開戦の準備を始めたそうだ。だがウングリュクは魔導師軍の派遣を断固拒否した。同盟国になったとは言え自国の守りを手薄にするわけにいかないと突っぱねたのだ。その代わり、辺境の国から精鋭を送ると言ってイヴォンヌたちをビブリオテーク行きの船に乗せてくれた。
 援軍という体でなら多少暴れても問題なかろう。辺境の王はそう親指を立ててみせた。夫には後々非常に世話になったと報告せねばなるまい。
 波の間を縫うように船は走り出す。アラインに連れられ初めてドリト島を目指したときとは正反対の思いを乗せて。
「思い詰めなくても大丈夫だよ」
 飛沫のかかる手摺に凭れて先代勇者が微笑んだ。
「君がアラインを助けてあげればアラインは皆を助けてくれる。勇者ってそういうものだから」
 まさか海の向こうまで行くことになると思わなかったなあ、とアンザーツはどこかのんびり呟いた。彼はもうこの船旅を楽しみ始めたものらしい。
「あ、あれってビブリオテークから辺境に向かう船かな? おーい!」
 身を乗り出して手を振り始めた彼がおかしくてイヴォンヌはやっと少し緊張を緩められた。
 慣れない男性の肉体だが、魔法はゲシュタルトが伝授してくれるという。
 頑張ろう。自国が敵に攻められたことより、多分民衆は勇者の不在を不安がっている。






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「……ぅ……っ」
 身体の節々が痛むのを感じてノーティッツは目を覚ました。薄らと瞼を開けば見たことのない暗い天井が視界にぼやける。
 ああそうだ。うっかり捕まってしまったのだった。
 殺されなかったのは多分魔法を使うところを見られたからだろう。ついでにそれなりに良い服を着ているので人質にするもよしと思われたのかもしれない。
 ノーティッツが囚われているのは倉庫奥らしき簡易牢だった。鉄格子の向こうには銃火器の類が整然と並べられている。ばれないように薄目のまま視線を這わせれば見張りと思しき兵が四人ほど大真面目に任務に当たっていた。上司の目の届かない場所で私語ひとつ挟まないとは、なかなか統率が取れている。
 魔力は回復しつつあるのでその気になれば脱出は可能だった。ご丁寧に後ろ手に鉄の鎖をかけられているのと、足枷の根元が床に嵌め込まれているのをなんとかしなければならないだろうが。
(他にも誰か捕まってるのかな……)
 最後に見たのはラウダに乗ったベルクの姿だ。彼らがしんがりだったろうし、逃げ遅れはないと信じたい。
(うーん、四人かあ。光魔法は得意じゃないんだよなあ)
 ひとりずつならまだしも一斉に眠らせるのは骨が折れそうだった。火魔法と風魔法ならそれなりの術が使えるのだが。
 と、そのとき倉庫の扉が開いて灯りが差し込んできた。
 入って来たのは総司令と呼ばれていた大柄な男だ。兵のひとりが「ブルフ・フェーラー総司令!」と声を張ると、残りの三人が揃って敬礼した。
「そろそろ薬も切れただろ。起こしてやろうと思ってな」
 ブルフが牢の鍵を開く。キキィと金属の擦れる音が響く。
 狸寝入りを決めていたノーティッツだったが、その瞬間反射的に身体を捩って壁際に転がった。元寝転がっていた場所を見れば、こちらを蹴り飛ばし損ねたブルフの足が宙ぶらりんに浮いていた。
「……起きてるよ」
「なかなかの反射神経じゃねえか。おっと、魔法は使うなよ?」
 こちらの考えなどお見通しだと言う風にブルフは牽制してくる。こいつを眠らせて火魔法で包めばとりあえず優位に立てるかと踏んでいたのに、どうも先手を打たれているらしい。
「別室に人質がいる。魔法使いじゃないなら殺したって痛くも痒くもねえからな、待遇はお前次第だ」
「……誰を捕まえたんだよ?」
「それを教える義理はないね。まぁひとりじゃねえし、全員ばらばらに取り押さえてあるからお前の態度によっちゃひとりずつ殺すのもアリかもな?」
「……」
 わかりやすい下衆だなとノーティッツは舌打ちを堪えた。人質の話はフェイクだと思うが確認する術がない。
 目を吊り上げるノーティッツを品定めするようブルフは上から下までこちらを一瞥した。
「ふうん? ドリト風だな、お前の服」
 嫌な笑みと同時、軍靴の足が持ち上がる。今度は避ける間もなく顔面にクリーンヒットした。
「……ッ!!!」
「鼻の骨折れたんじゃねえか? 治せるんだろ? 治してみろよ」
 痛みと怒りではらわたが煮えたが多量の鼻血で息もできない。ゲホゴホ咽ながら回復魔法を己にかけると楽しそうにブルフが手を叩いた。
「いいねぇ、陛下にいい土産ができたぜ。せいぜい今のうちにのんびりしておけよ。本国についたら俺がこき使ってやるからな!」
 高笑いして倉庫を出て行く男の背中を強く睨み据える。
 そっちこそ、今の間に優越感に浸っておけよ。捕まっているふりだけして帝国軍の内部事情を探れるだけ探ってやる。他人の顔を蹴り飛ばした罪は重いのだ。






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 ヒーナから再三届いていた警告書が帝王の手でビリビリ破り捨てられる。いつもと同じに「正当な理由なく他国を侵害すれば相応の措置を取らせてもらう」と書かれているのだろう。あの平和主義のお節介国はそろそろドリト島へ軍隊を派遣し始めているはずだ。
 報告に訪れたヴィーダを振り返り、父ヴィルヘルムは「こちらも直ちに進軍を開始せよ」と告げた。
「どうせドリト島へは赴くのだろう? ブルフが合流してくるまではお前が率いて行け。仕事はそれで終わりだ」
「……約束は守ってもらえるんだよね?」
「勿論だとも。ただ肝心のクライスがドリト島から姿を消したそうだがな」
 父の言葉にヴィーダは目を瞠る。
 まさかアペティート兵に手を下させたのかと詰め寄ろうとすると、興味なさげに父は報告文を投げ寄越してきた。
「私は知らんよ。あの女が勝手にいなくなったのだ。ま、今後のことを考えれば賢明な判断だな」
「……そんなこと……」
 ヴィーダたちの暮らすすぐ近くに住み込んでドリトの情勢を伝えていた間諜は、クライスが単身ビブリオテークに渡ったことを記していた。日付はアペティートが勇者の国を襲った翌々日。夜の間に彼女は舟で消えたらしい。
「手は出すなと言ってあったから放置したのだろう。だがこれであの国に攻撃する『正当な理由』ができたぞ! 休戦協定の人質が勝手に出て行ってしまったのだから!」
「……ッ父上!!」
「なんだ? 取り返したくばもう一度ビブリオテークに勝てばいいだけの話ではないか。別にドリト島まででなくとも、ずっと軍にいていいのだぞ? お前はまあまあ優秀だからな。皇族としては不肖でも、ブルフの代役を務めるくらいはできるだろう」
 わなわなとヴィーダの手が震える。
 初めからそのつもりだったくせに。喉から出かかった罵声を必死に飲み込んだ。
 そう、初めからこの男は彼女を戦争の道具にするつもりだったのだ。
「ビブリオテークは兵士の国、辺境の国と同盟を結んだ。こちらへの宣戦布告だよ。侵攻は急ぐように」
「……」
 歯を食いしばったまま何とか頷くと、ヴィーダは帝王の間を後にする。
 待っていてくれと言ったのに、もうすぐ会えるはずだったのに、どうして故郷へ帰ってしまったんだ?
 ドリト島が戦場になる前に、迎えに行くつもりだったのに――。
 別れる前に彼女とかわした言葉を思い返す。
 ――あなたの身だって危険なのよ。本当に私を思ってくれるなら、どうか恐ろしいことに手を貸さないで。
 そう嘆願したクライスの顔を。






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 背後に気配を感じて振り向けば、思った通り薄笑みの気功師がそこにいた。
 船は無事にビブリオテークへと辿り着いた。これからクライスは祖国の都を目指して歩く。石畳のアペティートとはまったく違う、土の匂いの広がる大地を。
「……どこにでも現れるのね、あなた」
 向かい合った男は表情を崩すことなくクライスに近づいた。
 風が細かな砂を巻き上げ土煙が幾重にも重なる。気功師はその土煙の影より曖昧な存在だった。クライスとヴィーダ以外には見えないし、声も聞こえないらしい。他にも見える人間はいると気功師は言うが、クライスは誰がそうなのか知らなかった。
「あなたの元へオリハルコンが降りるのが見えたので」
「これのこと?」
 クライスは胸元から白銀に透ける短刀を取り出し気功師に問う。
 満足そうに笑みを増し、彼はこちらへ右手を伸ばした。
「力をお渡しするときが来たようです」
「……!?」
 途端、真昼の太陽よりも眩い光が辺りを照らした。
 あまりに鮮烈すぎるそれにクライスは思わず双眸を庇う。
 白い、熱い、強い光。
 気功師の両手には五芒星の刻印があった。そのうちのひとつが小さな恒星のように輝き、戸惑うクライスに何かとてつもなく大きな力を流し込んでくる。

「――ッ!!!!」

 数時間が経過したようにも、数瞬しか経過していないようにも感じられた。
 光が通りすぎた後、クライスは土の上にがくんと膝をついて倒れた。
 右手を見やれば気功師が宿していたはずの五芒星がくっきり浮かび上がっている。

「ではまた」

 微動だにできないクライスに別れを告げて気功師は消え去った。
 わななく指先に砂を掴み、脳裏に浮かぶ恋人の顔めがけて放る。
(ヴィーダ……!!)
 かつて新大陸の船を見た気功師が予言した通り、これでもうすっかり始まってしまったのだろう。
 あの男が海の向こうの国で起こしてはいけないものを揺り起こしてしまったから。
(やっぱりあなた何もわかっていなかった。私があなたに言ったこと、少しも)
 かぶりを振ってクライスは立ち上がる。
 最早徒歩で行く必要はなくなった。手を上げて乾いた風を呼び集めると、爪先はふわり大地を離れた。






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 流れ星に三度願いをかけるとその望みは叶えられると言う。
 レギの星は明け方、雲の隙間から降ってきた。
 透き通っているような、仄かに銀に光るような、白い濁りを持つような、不思議な五角柱。
 ――なんだろう?
 不思議に思い手に取ると、宝石は長い杖に姿を変えてレギの手中に収まった。
 まるで古の物語のような出来事に目を瞠る。もしやこれは、名残を惜しむ星々の落とした涙なのであろうか。
「レギ様! 皇帝陛下が!!」
 風に当たるため露台に出ていたレギを慌ただしく臣下が呼びに来る。
 危篤の父が目を覚ましたのだそうだ。医者によればこれが最期になるだろうとのことだった。
 半世紀に渡りヒーナを治めてきた父王。こよなく平和を愛し、身分の分け隔てなく民に接し、歴代最も敬愛された皇帝は、その陰にこの上なく見苦しい争いがあったことを知らずに死んでいく。
 レギは何もしていない。兄も姉も疑り合って自滅したのだ。
 己の成したことと言えば、たまたま生まれ持った気功の力を磨き、同じ力を持つ兵をひとところに集めて訓練しただけ。
 目に見える力があると言うのは良い。今では誰もがレギを恐れ、レギに従う。
「父上は何と?」
 ぼそぼそとうわ言を囁く父の口元に臣下がふたり耳を押し当てた。
 周囲の御歴々は不安げに沈黙を保っている。皆、父の信頼する腹心たちだった。
「次なる皇帝はレギ様にと」
 何の感慨もなく先代の死を看取るとレギは控えていた侍従に顎で合図する。すぐに軍務の総締めが現れ入り口に跪いた。
「ドリト島にやる予定だった兵をビブリオテークへ向かわせろ」
「はっ!」
 大臣たちのどよめきに興味はなかった。どうせ皆レギの気功が怖くて逆らいもできないのだ。
 前皇帝から平和の尊さをこれでもかと植えつけられている爺がひとり「どうなさるおつもりです?」と厳しく尋ねてきたが、どうでも良かった。
「要は指導国として戦争の仲裁をすればいいのだろう? 父上は間に入る方法を好まれたが、わたしは後ろから肩を叩いて落ち着かせるのが有効と考えるだけだ」
 行くぞと言って侍従を呼べばいつもの通り黙って後ろに付いて来る。この侍従は病気のために口が利けず、学がないので読み書きもできない。図体がでかいだけの愚鈍だが、側に置くならそういう者の方がずっと安心できる。
 ――そう、心安らかにいたいから自ら打って出るのだ。滅ぼせば敵はいなくなる。
(ビブリオテークがアペティートを攻撃したと同時、こちらは一気に首都を叩く)
 ヒーナがビブリオテークを獲ればいけ好かないアペティートの帝王はさぞかし慌てることだろう。制裁と言う大義名分であちらを狩るのは後でいい。
 レギはオリハルコンの杖を握る。力が増幅しているのを感じてほくそ笑む。
(誰の落とし物か知らないが、素晴らしい天からの贈り物だな)
 さあ行こう。新時代は幕を開けたばかりだ。








(20121031)