平原を吹き抜ける風が無駄に心地良い。アイテム街を発ち、のどかな田園風景を歩くこと一週間。アラインとマハトはあっさり次の目的地「祈りの街」に到着した。
 またしてもここまで魔物らしい魔物に出会うことはなかった。こう苦労が少ないと魔王討伐の旅というより単に勇者アンザーツの足跡巡りをしているだけに思えてくる。
 見上げた街は坂だらけで、白っぽい直線的な建物が目立った。祈りの街と言うだけあり、余所より教会が多いようだ。通りには至るところに大小のクロスが掲げられ、初代勇者を遣わしたトルム神を崇める民の多さに気圧された。
「試練の森っつーのはあれのことですかねえ」
 マハトの指差す先には高台に建てられた神殿を囲む鬱蒼とした森があった。思っていたより小さいが、おそらくあれがそうなのだろう。通過しようとする者を惑わす幻視の森。一握りの修験者しか行き来できないため、いつしか人々に「試練の森」と呼ばれるようになった――。
「準備をしっかり整えて、明日神殿を訪ねよう」
「うっす。んじゃまず宿を探しましょうか」
 アラインが必要な荷を買い足す間にマハトはこじんまりした宿を見つけてきた。広場近くの、宿屋らしい風情のある宿屋だった。静かな佇まいにアラインはホッと息をつく。アイテム街でも宿に泊まるには泊まったが、あんな観光客や商売人でごった返す町宿はもう二度とごめんである。家族連れの子供はうるさいし、カップルは周囲に憚らずイチャイチャするし、商人は所構わず物を売りつけようとしてくるし。
「そういえば神殿の大僧正って、ゲシュタルトのお姉さんらしいすよ」
「えっ!? あ、有り得るのか? 大僧正っておいくつなんだ?」
 思わず尋ね返すとマハトも「さあ?」と首を傾げる。
「宿の人も自分の目で見たわけじゃねえみたいですけど。なにせ神殿から一歩も出てこないそうなんで」
「ま、まあご高齢なら、いいとこ寝たきりだろうしな」
 驚きだ。アンザーツの伝説はもう百年も昔のことである。そんな時代の人間がまだ存命であるなんて。しかも勇者の妻となった僧侶ゲシュタルトの実姉だとは。
「けど、それならウチに何か伝わっててもおかしくなさそうなんだけど」
「それもそうっすねえ」
 結局大僧正の情報については曖昧なままアラインたちは各自ベッドに潜り込んだ。
 翌日は天気も良く、久々に寝台で眠ったこともあり、すこぶる快調であった。
 背中の鞘に収めた剣の柄をぐっと握る。試練の森には魔獣や怪虫が出るらしい。いよいよだ、という気がした。



 街の南端まで来ると民家の数もまばらになり、迷いの森から漂う霊気にぞわぞわ背筋が粟立った。当然だが森の周辺には誰もうろついてなどいない。地元の住民は幻惑の恐ろしさを重々承知しているようで、用がなければ近づかないようにしているらしい。おそらく神殿側の人間が降りて来たときしか交流することもないのだろう。
 森に入るのに特別な許可は要らなかった。踏み込んだ人間を追い返すか招き入れるかは森が決めると言われていた。つまりはそれが許可なのだ。
 マハトは自分が先を歩きましょうかと提案してきたが、従者には背中に回ってもらうことにする。後ろを気にして歩くより前方だけに集中していたい。
「!」
 薄暗い森に入るとすぐ猪によく似た魔物と出くわした。体格は野獣のそれより二回りほど大きい。発達した牙と荒い息遣いに凶暴性が滲み出るようだ。王都近辺にいた丸っこいのほほんとした獣たちとはまるで違ってアラインは妙な感動を覚えた。これだよこれ。勇者が戦う相手というのはこうでなければ。
「幻ってことはないよな、あれ?」
「揃って同じ幻覚見てるんでなけりゃ、本物でしょうね」
 一応マハトに同じものが見えているか尋ね、実在の生物であることを確かめる。雄叫びを上げ突進してくる魔物に剣を向け、横一線に凪ぎ払った。斬撃の感触が鈍い痺れとして手に残る。おお、とアラインは感涙に咽んだ。
「アライン様、まだ生きてますぜそいつ!」
 しかし一撃ではとどめを刺せなかったようで、血を吹く魔獣の反撃を食らう。起き上がった敵は傷の痛みに構うことなくアラインのふくらはぎに噛みついた。堅い皮のブーツを貫き牙が肉を穿つ。
「ッつ……!!」
「てめえ!!」
 瞬間、響き渡る怒声。ざしゅっという音とともに敵は崩折れた。どうやらマハトが斧で頭を割ったらしい。
 僕がやっつけたかったのに、と漏らしかけた恨み言は喉奥に飲み込んだ。武術の師であるこの戦士とまだまだ力量差の大きいことは自覚している。もっと鍛えなければなと己に言い聞かせた。野外での戦闘にも慣れる必要がある。
「足見せてください」
「ん」
 靴を脱いで調べた傷は大して深くもなかったが、念のためにと薬草を処置された。これくらい平気なのに。
「穴開いてら。アライン様、大丈夫すか?」
「お前……、お前との稽古の方が僕はよっぽどぼろぼろにされてきた気がするんだが?」
 呆れて言うとマハトはあっさり「俺は殺意ないですもん」と返す。
「それよか外で見てたより神殿が遠い感じっす。気を引き締めていきましょう」
 言われて丘を見上げると、成程神殿は確かに少し小さく見えた。これが幻視の成せる業か。



 出発は朝一番だった。昼過ぎまで魔物を斬り倒しながらひたすら前進した。しかしいくら歩いても神殿がちっとも近づいてこないので、同じところで足止めされている可能性が高いなと分析し、アラインたちは休憩を取ることにした。
 適当な丸木の上にどっかり腰を下ろしたマハトの様子を見るに、彼もだいぶ疲労が溜まってきたようだ。魔物の出現にはきりがなく、一撃必殺といかない敵もいる。怪我こそ薬草で癒してはいるが、体力の消耗は防ぎようがなかった。
 こういう聖地を守ろうとする機能のある場所では帰ろうとする者にはすぐさま道が開かれると言う。格好はつかないが撤退も視野に入れておくべきかもしれない。マハトの疲労も濃かったが、アラインはその倍以上疲れていた。戦闘のコツは掴めてきたと言え、連戦に過ぎる。だが自分から帰ろうとは言いたくなかったし、アラインが帰ろうと言わなければマハトも帰ろうとしないのはわかっていた。――アンザーツは神殿に辿り着いたのだ。自分に同じことができないとは思いたくない。意地になっている自覚もあったけれど。
「そろそろ行きましょうか」
 まだ十分休めていないだろうに早く神殿へという焦りを読まれたか、マハトがすくっと立ち上がる。そんなに急がなくていいよ。そう労おうとしたまさにその瞬間、視界が赤く染まった。戦士の背後から狼の咆哮が響く。
「マハト!!」
 背中から血を噴き出して倒れた彼に魔獣は再度襲いかかった。頭で考えるより先に、剣を握って飛び出していた。
「この……ッ!!」
 疲れも忘れ、思い切り剣を叩きつける。明らかに強敵とわかる俊敏な相手にも恐れは抱かなかった。
 飛び退った狼は体勢を立て直しアラインに向かってくる。跳躍はかわせても剣の振りが追いつかない。闇雲な攻撃では空を切るばかりだった。
 意を決し、アラインは魔獣の体当たりを受け止める。吹き飛ばされかけたし噛みつかれかけたが、構えていた剣を横っ腹に突き刺す方が早かった。キュウウンと弱々しい声を上げ魔物はすぐに動かなくなる。用心深くその頭を切り落とすと、アラインは戦士の元へ駆け戻った。袋から薬草を取り出す時間も惜しくて「いざってときに取っておいた方がいいっすよ」と使用制限されていた治癒魔法を唱える。
 早く血が止まってほしい。尋常でない出血量だ。広い背中は一面朱に染まっている。
 頭がくらくらした。「こいつ助かるのか?」と自問した瞬間、全身が恐怖に慄いた。
「マハト、おい、マハト」
「……ふぁい」
 返事があった。それだけで安堵に力が抜ける。
「すんません、不覚でした」
 開口一番謝罪を口にする戦士に怒りとは違う苛立ちを覚えて首を振った。違う、そうじゃないだろう。
「馬鹿か。僕が退き際を見誤ったんだ」
 もういい、今日は帰って休もう。アラインはそう続けようとした。神殿に着くことより、アンザーツと張り合うことより、仲間の命の方が大切だ。だからもう――。

「大丈夫すか?」

 ハッと目を開くとそこには艶々と健康そうなマハトがいて、アラインをじっと覗き込んでいた。
「そっちも幻惑解けたみたいっすね」
 ニカリといつもの笑みが向けられる。噴き出していたはずの血はどこにも飛び散っていなかった。事態を飲み込むのには数秒を要した。認めたくないが、どうやら自分はまんまと幻術に引っ掛かっていたらしい。
「お前、怪我は? 傷は負わなかったのか?」
「俺はこの通りぴんぴんしてますけど?」
 ほら、と力瘤まで作って見せるマハトにアラインは脱力しきって肩を落とした。安心した途端、照れ臭さが胸に湧き上がってくる。
「……心配して損した」
「アライン様、俺が大怪我する幻でも見たんすか?」
「絶対違う。断じて違う」
「へぇー」
 鬱陶しいニヤけ面に拳を一発ぶち込んでやろうかと思ったが、「ほら」とマハトが嬉しそうに前方を示したので視線はそちらに奪われた。
「――……」
 あんなに遠かった神殿はもう目と鼻の先だった。森が開けて、白く荘厳な柱が覗いて。
「流石ですね、ちゃあんと着きましたぜ」
 それはアラインにとってとても嬉しい、そして誇らしい出来事だった。



 誰か関係者がいないかと神殿の周りをうろついていると、井戸辺で水を汲む修道服の女を見つけた。
「すみません、神殿へ入りたいんですが」
 そう声をかけたアラインに女は驚いて立ち上がり、こちらをまじまじ見つめ返してくる。
「まあ、森を抜けてこられたのですか? ご案内いたします、どうぞこちらへ」
 女の態度は丁寧だった。彼女の話によれば、ここ数年森の外からやってきた人間はいないそうだ。
「魔物の動きが活発になり、幻視の森もその魔力を強めているようです。あそこを越えてこれるなんて、旅の方、清い心をお持ちなのですね」
 他者からの率直な賛美にアラインは思わず頬を赤らめた。照れ隠しに目を逸らすとマハトがにやにやしているのが見えたので脛を蹴り飛ばしておく。
「お名前とご来訪の目的をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、ええと……」
 アラインは自分が勇者の子孫であること、旅に同行してくれる僧侶を紹介してほしいことを伝えた。女は「まあ、アンザーツ様の?」と目を輝かせるとコクコク頷き、すぐ大僧正に報告すると言ってくれる。
 客室らしい簡素な部屋に通されたアラインたちは、神殿の者が呼びにくるまでのんびり待つことにした。とは言えすることもないので、さっきから気になっていたことを口にしてみる。
「……ところでお前も幻惑にかかってたのか?」
 ぎくりとマハトの肩が強張ったのを見て、アラインは「お?」と目を光らせた。珍しい。年上だからといつも余裕ぶっているところがあるのに、言い難い類の幻でも見たのだろうか。
「どんなのだったんだ?」
「……どんなって、幻は幻ですよ」
 言葉を濁すマハトにますます好奇心をつつかれる。
「僕に何か起きる幻か?」
「い、いや、まあー」
「話せよ。主人の命令だぞ」
「従者にもプライバシーってもんがあります!」
 どうあっても話そうとしないマハトと軽い言い合いになり始めたときだった。コンコンと木製の扉がノックされた。
「……どうぞ」
 服装を正し、真っ直ぐ背筋を伸ばして僧侶たちを迎える。若者も年配者も含め、ざっと五人。その誰もが厳粛な雰囲気を醸し出していた。
「勇者アライン様、大僧正の元へお連れいたします」
「本来こちらから足を運ぶのが筋とは思いますが……大僧正は身体がお悪いため、申し訳ございませぬ」
 深々と頭を下げられマハトは委縮してしまったようだ。勇者の旅なのだからこの程度当たり前のことなのに。伝説をよく知る者ほどアンザーツの血に敬意を忘れない。
「……本当にゲシュタルトのお姉さんなんでしょうかね?」
「会ってみればわかるさ」
 渡り廊下でこっそり尋ねてきたマハトにアラインはそう返事した。どのみち五分と待たず知れることだ。
「こちらへ」
 神殿の奥深く、陽の光さえろくに届かぬ影の間に大僧正は鎮座していた。水分の枯れ切った細い腕は剥がれた皮と皺だらけで、丸みのある大きな白い帽子の下にもやはり同じように干乾びた顔がある。人の寿命の限度を超えているのでないか。真面目に訝った。それくらい、老婆は人間よりミイラに近かった。
 棒切れにしか見えない腕がちょいと動き、僧侶たちは皆黙って退出する。人払いされた広間はしいんと静まり返った。
 ごくりと息を飲み込んでアラインは大僧正の言葉を待った。大衆向けに造られた都の大聖堂とは一線を画す雰囲気だ。寒いくらいの冷気がちくちく肌を刺す。
「わたくしはゲシュテーエンと申します」
 掠れた声が細い喉から搾り出された。大僧正の細められた目が闇の中でちかりと光る。
「勇者殿、貴方様にはお詫びをしなければなりません」
「……何故です?」
 不審なものを感じてアラインはやや警戒心を強めた。老婆の言葉はどこか突き放すように聞こえた。
「わたくしにここの僧侶を差し出すつもりが毛頭ないからでございます」
「……それはどうして?」
 大僧正は伏せかけていた瞼を僅かに開いた。アラインとマハトを交互に見つめ、懐かしいものを思うような遠い眼差しを宙に向ける。だが双眸は間もなく悲しみの色に染まった。
「わたくしと僧侶ゲシュタルトは双子の姉妹にございました。神殿を訪れたアンザーツ様に妹が懸想し、聖女としての務めを放棄したのが彼女の旅の始まりです」
 今更聞かされるまでもない伝説の一端を大僧正は己に纏わる過去として語る。この人はアンザーツ本人に会ったことがあるのだと思うと変な気分だった。それならそんな話より、自分は彼に似ているか、勇者として同じだけの資質があるか、そういったことの方が聞きたくて堪らない。
「魔王を滅ぼし、アンザーツ様の御子を産んだ後、ゲシュタルトは一度だけこの神殿に戻ってまいりました」
 けれどアラインに語られたのは、予測もしなかった物語のその後であった。
「あの子の全身が憎悪に満ちていました。何もかもを破壊してやりたいという悪意に染まっておりました」
「――」
 たちまち思考が停止する。自分の中にある僧侶ゲシュタルト像と、憎悪や悪意という言葉がまったく結びつかなかったからだ。
 ゲシュタルトと言えば、癒しの術を使い、時には自ら深手を負って勇者を支え続けた聖女である。それなのに大僧正は何を言っているのだ?
「あの子の身に何があったのか、ついにわたくしにはわかりませんでした。少なくとも凱旋の折にはあんなに晴れやかな笑顔を見せていたのに……。アンザーツ様に引き続き、あの子がまでがいなくなってしまったとき、当時の王は『天上へ召し抱えられたのだ』と仰せでしたが、あのような魔物の眼をした娘が天へ昇れるはずがございません。昇れるはずがないのです……」
 そこまで話し終えると大僧正は長い溜息を吐いた。記憶が心を苛むのに耐えるように、反り返った背を細い背凭れに預ける。
「……ゲシュタルトはきっとまだ地上を彷徨っております。わたくしは恐れているのです。貴方様に差し出した僧侶があの子と同じ運命を辿りはしないかと」
 お引き取り下さいませ、と老婆は結んだ。その後は頑として語らず、三人目の仲間をというアラインの願いは聞き届けてもらえなかった。大僧正は石像のようであった。
 狐につままれたような思いで影の間を出る。当惑し切ってアラインはマハトと目を見合わせた。状況がよくわからない。ふたりで顔をしかめるしかなかった。
 ――魔王を倒し勇者の都に戻った後、アンザーツは祝宴の真っ最中に姿を消している。彼の功績を認めた天上のトルム神に召し上げられたのだ。そしておよそ一年後、勇者の血を引く娘を残しゲシュタルトも天へと昇った。それは誰もが知っているふたりの後日談だった。
 客室に戻る途中すれ違った僧侶に聞くと「大僧正がそのようなことを?」と酷く驚いていた。常々「この神殿からは誰も外へ遣らない」と言っていたそうだが、ゲシュタルトの話は初耳だそうだ。
「……ってことは、あれは僕らを黙らせるための詭弁だったんだよ! 人を出すのが惜しいなら、正直にそう言えばいいのに!」
 憤慨し、アラインは不服を吐き零す。だが対する戦士の反応は意外に冷静だった。
「そうですかねえ?全部が嘘ならもうちっとマシな嘘をつくと思いますが」
「じゃあお前はゲシュタルトが悪女だったって言いたいのか?」
 憧れのアンザーツと仲間であっただけでなく、アラインにとってゲシュタルトは大切なご先祖様だ。少なからず庇いたい気持ちがあった。実の姉にあんな悪し様に言われて、憐憫の情こそ湧けどマハトと同調する気にはなれない。
「そこまでは言わねえすけどね。伝説ってのは不味い部分が脚色されるもんですから」
「言ってるじゃないか!」
 怒りの冷めないアラインをマハトは「まあまあ」と宥め賺す。
 ここにいたらいつまでも胸のむかつきが鎮まりそうにない。幸い出るには困らない森だ。アラインは早々に退出を願い出て街へ引き返すことにした。戦士が何やら考え込んでいたのには気がつかないままだった。



『今回は南東の街や村を探したが、やっぱりアンザーツは見つからない。あいつはどこへ行ったんだ? 王様の言うように、本当に天界へ呼ばれたのか? そうだとしても仲間の俺たちにひとこともないっていうのは何故なんだろう?』

 祈りの街の宿に戻るとマハトはこっそり戦士ムスケルの手紙を開いた。お守り代わりに叔父が預けてくれたものだし、故人とは言え他人が他人に書いた文だし、傷むのも嫌なので今日まで中身は読まないことにしていたのだが。
 百年前、「めでたしめでたし」の後に書かれた手紙。忽然と都から姿を消した勇者を探し歩くムスケル。荒れた文字から彼の動揺が伝わってくるようである。マハトは更に別の手紙を掴んだ。

『驚いた。都ではもうほとんどの人がアンザーツは天に召し抱えられたって思ってんだな。俺はまだ納得いかねえよ。だってあいつは地上が好きだと言ってたんだ。この地に生きる人々が好きだし、自分もずっと側に寄り添っていたいって。……天界で神様と暮らしてる? そんなわけあるかよ。ヒルンヒルトだってそう言うに決まってる』

『こんな時に都を発ってすまなかった。けど俺はどうしてもアンザーツを見つけてぶん殴ってやりたい。ゲシュタルトをこのまま放っておく気かよ? お腹だって大きくなって、ずっとあいつの帰りを待ち続けてるのに。ヒルンヒルトも全然戻ってくる気配がねえし、せめて俺ぐらいはゲシュタルトについててやりたいけど。でも俺なんかより、ゲシュタルトはアンザーツに戻ってきてほしいよな。アンザーツ、あいつ本当にどこ行ったんだ? 天から見てるなら降りて来いよ。……すまん。なるべく早めに帰る』

 ここまでがアンザーツだけを探して旅している期間。ゲシュタルトがまだ勇者の娘を産んでいないから、魔王討伐から一年以内だと思われる。
 既にして内容が穏やかでない。ムスケルはアンザーツの昇天を露ほども信じていないのだ。伝説には尾ひれはひれが付き物だが、大僧正の言と相俟ってますますこの手紙が不穏なものに思えてくる。
 そして極めつけがこれだった。

『正直どうなってるのか全然わかんねえ。王様はまた神様からお告げがあって、ゲシュタルトも天界へ昇ったとか言ってるし、ヒルンヒルトはもう勇者探しを切り上げるって言い出した。……いなくなったのはこれでふたりだ。俺の知らない間にまた何かが起きたんだ。ゲシュタルトはどうかしちまった。なんでこんなことになっちまったんだろう?』

 これは大賢者ヒルンヒルトが王都へ帰還した直後のもの。この頃にはゲシュタルトも赤ん坊を産み落としていた。
 どうかしちまったというのはどういうことなのか。それこそ大僧正の話した通り、憎悪と悪意に支配されていたのではないか――。

『今まで迷惑かけてすまなかった。あちこち探し歩いたが、手がかりも何も見つからない。……俺ももう疲れたよ。アンザーツとゲシュタルトの娘はヒルンヒルトがちゃんと面倒見てくれてるんだってな。俺もそっちを手伝おうと思う。この何年か本当に必死でアンザーツを探したけど、痛感したよ、あいつはどこにもいないんだって。でも、勇者ってそういうもんかもしれねえ。だって魔王を倒したんだ。それってすげえ特別なことだ。もしかしたら本当に神様が連れてっちまったのかもしれない。色んなところで色んな人から、ありがとうありがとうって感謝されたよ。俺でもそれが居心地悪くなるくらいだったんだ。あいつはもっとだったかもしれない。……ヒルンヒルトがあいつのいないこと認めたんなら、俺だってそうしなくちゃな。ゲシュタルトにはそれが難しかったんだろうなあ。相談くらいしてくれたら良かったのに。……四人で旅してたあの頃には、もう戻れないんだな』

 残された手紙からわかるのは、勇者のパーティメンバーだった三人が当初アンザーツの失踪を「天界へ昇った」とは考えていなかったということだ。ゲシュタルトは勇者の帰りを待っていたし、ムスケルとヒルンヒルトはそれぞれ別に勇者の捜索を続けていた。
 やがてゲシュタルトの懐妊が発覚し、ムスケルは一時帰還するが、ヒルンヒルトとは連絡が取れていない。つまり賢者は僧侶が身重だと知らないまま帰還した可能性がある。ならば賢者が旅立つ以前にいなくなった勇者はどうだ?やはり彼女が身籠ったことを知らなかったのではなかろうか?そして賢者の帰還と同時期のゲシュタルトの豹変――。
(ヒルンヒルトの持ち帰った情報が、ゲシュタルトを憎しみに走らせた?)
 だとするともしかして。
 思考を纏めようとして、マハトは自分が随分センセーショナルな想像をしているのに気がついた。だが同時に、確かにそれは伝説として残せないなと納得する。
(まさかアンザーツは余所に女を作って暮らしていた?)
 ムスケルはついに彼を見つけられなかったから、発見したのはおそらくヒルンヒルトの方だろう。そしてとてもじゃないが事実を大っぴらにはできないと判断した。だが賢者は国王とゲシュタルトにだけは真実を告げたのだ。王はアンザーツの天界召喚説をますます前面に押し出したろうし、絶望したゲシュタルトが国を去ったのも頷ける。
 真実は誰にも明かすことが許されなかった。なぜなら勇者はあまりに特別な存在だったから。汚れなき真の英雄で在り続けねばならなかったから。
(……とすると、もしかして勇者の家系ってふたつあるのか?)
 辿り着いた結論にマハトはうわっと胸を押さえる。そう言えば国王はやたらアラインの心配をしていた。大丈夫だろうか、くれぐれも彼を頼むぞと。もしやシャインバール二十三世は彼以外にも勇者の称号を持つに相応しい男がいると知っていて、それであんなに不安そうだったのか?
(……いいや! アライン様以外に勇者になれる奴なんかいない!)
 マハトはぶんぶん頭を振った。子供の頃から彼がどれだけ努力し己を鍛えてきたか、自分が一番よく知っている。こんな手紙を持ち出してどうのこうのと考えてしまったことが情けなかった。

 ――でももし彼が本当の勇者になったら、あなたきっと置いて行かれるわ。

 ぴく、と便箋を掴む指が震える。試練の森で見た幻、長い緑の髪をした女に囁かれた言葉が耳の奥でこだました。清らかな、魔性と呼ぶにはあまりに清らかな。
(俺が見たのはゲシュタルトだったんだろうか……)
 もう気にするのはやめよう。思って頭から振り払う。
 大事なのはアンザーツの真実ではなく、今のアラインとの旅なのだから。



 翌日になってもアラインの怒りは消えなかった。仲間を増やす当てが外れたことも大きいが、何より尊敬してやまぬアンザーツの伝説に手垢をつけられたことに腹が立っていた。
「とにかく、ここで回復要員を見つける予定だったのが駄目になったんだ。この際神殿の僧侶でなくてもいいから腕に覚えのある人を見つけて、さっさと盾の塔を探しに行くぞ!」
「荒れてますねえアライン様」
 呆れた様子のマハトは無視してアラインはスタスタ表通りを歩く。魔導師ギルドか、さもなくば傭兵の登録所に足を延ばして雇用契約に踏み切るつもりだった。本当は魔王城までついて行きますと言ってくれる献身的な仲間が欲しかったが、贅沢を望んでいる場合ではない。長期採用が不可能なら短期採用でも結構だ。
 これから向かう盾の塔には魔物だけでなく神具を守る番人がいる。番人と戦って勝利しなければ勇者の盾は手に入らない。三人目の仲間は必須だった。
 それに塔の探索が終われば今度は兵士の国を目指すことになる。神の力の恩恵を受ける勇者の国と異なり、隣国では人里を離れてすぐのところにも魔物が出現すると聞く。盗賊団が跋扈しているとの噂もあるし、やはりふたりでは心許ない。
「おいマハト、もし傭兵を雇うことになったら報酬は――」
 いくらまでにする?と尋ねようとして振り向くも、彼はこちらを見ていなかった。戦士の影に隠れてひとり、青年らしい剣士の姿が覗いている。黒髪黒目、背は高くも低くもない。アラインのものと似た紅いマントを羽織っている。
 青年はマハトの腕を掴んだまま「あ、ごめん。知り合いにそっくりだったから驚いて……」と突然の非礼を詫びた。丸い目には不思議な落ち着きがあり、さっきまでアラインの胸に渦巻いていた怒りもふっとどこかへ消え失せてしまう。
 剣士の肩には見事な青銀の羽根を持つ尾長鳥がとまっていた。腰には剣を差しており、靴も旅人用のそれである。どう見ても街の人間ではなさそうだ。
「ところでぼくの聞き間違いじゃなければ、さっき盾の塔の話をしてなかった?」
 青年はにっこり微笑みアラインを見つめた。決して害意のある笑顔ではなかったのに、何故かアラインは気後れしてしまう。否、怯んだと言った方が適切か。
 剣士のまとう空気は独特だった。達人とでも言えばいいのか、柔らかな物腰の奥深くに研ぎ澄まされた鋭さが見え隠れする。腹を焼かれるような威圧感にアラインは息を飲んだ。今までこんな人間とは出会ったことがない。
「もし良ければ、ぼくを連れて行ってくれないかな? ちょうど護衛の口を探してたんだ」
 アラインはマハトに目配せした。「どうする?」と目で問いかけて返答を待つ。しかしマハトはこちらにすべて一任すると言うように真面目な顔で頷くだけだった。
「えっと、お代は?」
「一日二食と五百ゲルト、別れるタイミングで一括払いかな」
「腕前は?」
「何が見たい? 剣? 魔法?」
「……じゃあ回復魔法を」
 アラインがリクエストすると青年は嫌味のない笑顔で了承した。そして、その一瞬後。
 ぶわ、と強い風が剣士の元に吸い寄せられた。何が起きたかわからないままアラインは目を瞠る。
 信じ難い光景がそこにあった。剣士は小さく圧縮した風で己の腕を切り刻んでいた。だがどこにも血は飛び散っていない。右手で風を操りながら左手で癒しの術を使っている。普通属性違いの魔法を同時に発動させることはできないのに。先日知り合ったハルムロースも類稀なる才の持ち主だったが、こちらも頭抜けている。
「こんなものでいい?」
 剣士が癒しの魔法を止めてもアラインは暫し口をきけなかった。圧倒され過ぎて、自分の実力からかけ離れ過ぎていて。
「ぼくの名前はイックス。……どうかな、お気に召してもらえたかな?」
 それがアラインとイックスの初めての出会いだった。
 差し出された手におずおず右手を返しながら、アラインは奇妙な心地を味わっていた。
 目の前の男は己の力量に酔うでもなく、いたずらに謙遜するでもなく、ただ悠然とそこに佇んでいる。静かな意志を感じ取れる眼差しも、穏やかな威容も、すべてアラインの理想とする勇者そのものであった。
 唐突に具現化された憧れに戸惑いを打ち消しきれなかったのは確かである。だがそれよりも仲間を得たい気持ちが勝った。勇者としても、パーティとしても、もっと強くなりたいという気持ちが。
「僕はアライン。しばらくの間、よろしく」
 アラインはできるだけ愛想良く、勇者らしく、イックスと短い握手を交わした。――後に己のすべてを否定することになる男と。



 ******



 兵士の国では都に次いで大きな街、通称「大鉱山の街」――ノーティッツたちは今、大山脈の麓にて数週間の停泊を続けている。目的はただひとつ、女神ウェヌスを人間の生活に慣れさせることである。
 盗賊の砦での騒動は彼女を大いに反省させたようだった。天人としての力を封じ、ただひとりの仲間としてついて来るなら構わないと言ったベルクにウェヌスはしおらしく同意し、今のところ素直に従っている。
「それでは今日も奉仕活動に参加してまいりますわ!」
 にこにこと嬉しそうに、修道女に伴われた彼女が教会へ歩いて行くのを見送って、ノーティッツはハア……と嘆息した。
 街娘の衣装に身を包んでいても女神の放つ輝きは鮮烈だ。とても普通の女の子には見えない。教会関係者には「とある深窓のご令嬢」と説明したけれど、きっと納得はしていないだろう。
「……真っ当な旅ができるようになればいいけどねえ」
「ま、ある程度のこたぁ気にしたら負けだな」
 心の底からそう思っているに違いない楽観的な王子様は「それよか剣の稽古つけようぜ」とノーティッツを貸し道場に誘ってくる。懐が広いのは結構だが、細かいことで苦労するのはいつもこちらだと気がついているのだろうか。
「街で鍛えるのもいいけどさ、そろそろ路銀も尽きかけてるし、ちょっと働く気ないか?」
「ん? お前今だって宿屋で雑用手伝ってんじゃん」
「あれは安く泊めてくれてるお礼だよ。お前だって薪割りの報酬なんか貰ってないだろ?」
 親切な宿の主人は若いノーティッツたちが魔界を目指す旅の途上であると知ると大いに感激し、以来スタミナ料理を振る舞ってくれたり筋トレに付き合ってくれたり「父親か!」と突っ込みたくなる朗らかさで接してくれている。都で酒場を盛り立てる母も「ちょっとベルクと魔王討伐に行ってきていい?」と尋ねたら、ほぼ二つ返事で了承してくれたので多分そういう国民性なのだろう。男子たるもの戦いの中で切磋琢磨せよ、という。
「まあそうだな。ってことはあれか、小遣い欲しいっつうんじゃなくて、もっと本格的に稼ぐ気か」
「ああ。小耳に挟んだんだけど、ここも最近この辺でも魔物の被害がエスカレートしてきてるみたいだ。で、ついに町長がお触れを出したんだって。魔物一匹につき百ゲルト!って」
「……なんかすっげえ微妙な額だな」
 うん、とノーティッツは頷いた。それもそのはず、大鉱山近辺に現れる魔物は太刀打ちできぬほど強いというわけでなく、基本的にはタチの悪いのが群れているだけなのだ。一匹一匹を見れば大したことはない。だから一匹につき百ゲルトというのは適正価格と思われる。けれど命を賭けるならそんなものはした金だし、魔物退治を専門とする人間ならもっと大物を狙うはずだ。
「だからこそぼくらにはいい儲け話なんだけどな。実戦訓練のついでに小金をせしめられるわけだから」
「まぁお前がいい話だってんならいい話なんだろ。んじゃ早速行くか!」
 開けっ広げな信頼に一抹のやりにくさを覚えつつ、ノーティッツはぽりぽり頬を掻いた。この間ウェヌスの前で一演説打ってからベルクの態度が変わった気がするのはきっと勘違いではないだろう。あの場はああいう収め方が最良であったと言えど、やはり少々気恥ずかしい。嘘を並べたわけではないから余計に。
「手続きってどこでやんの?ぶっ倒した魔物の目玉とか耳とか持ってきゃ金に換えてくれんのかな?」
「ああ、そうそうそんな感じ」
 最初に面倒な申請をしなくても、ベルクの取得した勇者免許さえあれば魔物の撃退数に応じて報酬が与えられる。国内に限られた話ではあるが、トローン四世はなかなか画期的な制度を打ち出したのではなかろうか。たとえ本物の勇者になることはできずとも、勇者もどきがうじゃうじゃ送り出されれば都以外の街でも自動で戦力が補強される。
「お前一日の目標何ゲルト?」
 うきうきした表情で幼馴染はノーティッツに問いかけた。これから危険な野外へ赴こうと言うのにどこまでも無邪気な男だ。ベルクの美点はこの明るさとエネルギーにあると思う。一国の王子が普通、魔物退治で小銭稼ぎなんて喜ぶだろうか。肉体労働が好きなのか、それとも何も考えていないのか、おそらく正解は後者だ。
「ぼくは目標千ゲルトかな」
 そう答えるとベルクは大いに対抗心を燃やして「んじゃ俺は千五百ゲルトだ!」と叫んだ。どうせなのでこの機会にウェヌスの装備もちゃんとしたものを揃えてあげなければ。修行僧用の白いローブなんて、彼女に似合うんじゃなかろうか。



 なんという愚か者がいたものだろう。大きな力が収束するのを感知し様子を見に来てみれば、こんなところに聖女――否、大聖女がうろついているではないか。それも何故かは知らないが、力を封じ、普通の人間のふりをしている。白鳥が雀の真似をするようなものだ。いくら隠そうとしたところでその特異性を隠しおおせるわけがないのに。
「さて、どうしましょうかねえ」
 ハルムロースは眼鏡をクイと持ち上げて思案した。勇者アラインと出くわしたのは先日のこと。あのときは親戚のよしみと勇者への興味で見逃してやった。こちらの女はどうだろう?一体どこの何者なのか、そもそも人間の女なのか、まずはそこからはっきりさせねばなるまい。
「ふむ、となればひとまず観察ですかね」
 そう結論付けるとハルムロースは旅人を装い雑踏に紛れた。半人半魔の己にはこの程度のこと造作もない。今まで自分を魔物と疑った人間はひとりとしていなかった。さて、彼女は気がつくだろうか?
 聖なる女は教会の前に立ち、祈りに訪れた人々に花や飴を配っているようだった。優しげな微笑に街の人々はひとかたならず癒されているらしく、彼女の周囲だけ人垣ができている。ハルムロースは何気ない素振りで行列に並んだ。女にはマリーゴールド、男にはマーガレットを渡すと決まっているようだ。すぐにハルムロースの順が来て、聖女から白い花を受け取った。
「……あら?この街の方でしょうか?」
 何か感じるところがあったのか、彼女はこちらの顔をまじまじ覗き込んできた。うろたえることもなくニコリと笑んで首を振る。
「いいえ、さすらいの旅をしております。美しい花に誘われて、つい並んでしまいました」
「まあ、旅を? 私と同じですわね。旅の方、宿をお探しならそこの坂を下った銀柳亭がとっても親切ですわ」
「ほほう、これは良いことを伺いました。ありがとうございます」
 なんだかぽやっとした女だ。俗世に降りてまだ間がないのかもしれない。それならそれで誰か供でもいそうなものだが。
 教会付きの女でないのは格好で知れた。聖女はシスターの衣装すら着ていない。街娘のような身なりだが、内側からは強い魔力が感じられた。――神の加護と言い替えていいほどの。
「ウェヌスさん、そろそろお昼休憩にしてくださいな。交代しましょう」
「ええ、わかりましたわ。ありがとうございます」
 都合の良いことにこれから彼女は少しばかり体が空くらしい。ハルムロースは当然のごとく食事の同伴を申し出た。
「これも旅のご縁と言うことで、昼食をご一緒させていただいても?」
「まあ、喜んで」
 無警戒な聖女はあっさりハルムロースについて来た。逆にここまで警戒されないと「本当はもう気取られているのでないか?」と逆に疑わしい。
「私はお野菜のサンドイッチが好きですの。スライスされた豊潤なトマトは地上の赤い宝石ですわ……」
 うっとりと語る彼女を冷静に観察し直し「まあ、その可能性は低そうだな」と考えを改める。
 聖女は自らをウェヌスと名乗った。勇者の旅に連れ添う徳の高い僧侶であると。
「勇者ですか? それはもしや隣国の、アンザーツの子孫だという?」
「いいえ、私の勇者はベルクと申す若者です。強い意志を持った、逞しい殿方ですわ!」
 ハルムロースはぴくりと耳を動かした。兵士の国でにわか勇者が増産されているのは承知している。紛いものに対し今までは露ほどの関心もなかったが、こんな女を連れているとなれば話は別だ。
「そんな方なら私も是非お会いしたいものです」
「ええ、ええ! ベルクは本当に素晴らしい人間なのですわ!! それに、ノーティッツも補佐役として申し分のない魔法使いですし!!」
 ウェヌスは相当そのベルクというのがお気に入りらしかった。口を挟む暇も与えず褒めちぎり、彼がいかに仲間から信頼されているか、いかに他人を思って行動しているか、仔細微細に入り教えてくれる。
「まるで恋でもしてらっしゃるようですねえ」
 あまりの熱の入りようにそんな下世話な感想が漏れた。無論カマをかける気ではいたのだが。お伽話ならよくあることだ、聖なる乙女と人間の男の禁じられたラブロマンスなど。
「まあ、恋だなんて。ハルムロースさんは面白いことを仰いますのね!」
「……」
 くすっと一笑に付され、何故かわからないが地味に苛立った。己より明らかに知的レベルの低い女に小馬鹿にされた感があったからかもしれない。
(典型的な箱入りお嬢さん、といったところですねえ)
 良くも悪くも純粋で愚鈍な娘なのだろう。聖女である自分が、たとえ勇者とは言え男に懸想するなど有り得ないと思い込んでいるに違いない。そんな境界線は所詮幻でしかないのに。
「……お腹もいっぱいになりましたわね。そろそろ失礼いたしますわ」
「ええ、お付き合いありがとうございました」
「もし銀柳亭にお泊りなら、きっとベルクとノーティッツを紹介いたしますわ。ではハルムロースさん、ごきげんよう!」
 引っ攫うべきか否か、少し迷ってハルムロースは彼女に手を振った。光に満ちたあの笑顔、向けられているのがどんな男か見定めてからでも遅くはあるまい。
(大聖女の血と力……! ああ、使い道を考えただけでゾクゾクします)
 一体今までどこの神殿に隠されてきたのだろう?彼女の血肉は他の人間とどう違うのだろう?そこにいるだけで輝きを放つ、特異な生命体。知りたいと強く願う。知りたい、もっともっと知りたいと。
 ハルムロースを魔の道へと進ませたのは、強すぎる知的欲求だ。解き明かしたい謎のすべてを暴くには、人に許された時間では到底足りるはずがなかったから。
 獰猛なまでの好奇心。それがハルムロースの飼う悪魔の名前だった。



 街の外縁をなぞる形で実戦訓練ついでの魔獣駆除を終わらせると、ノーティッツの言っていた通り結構な額の報酬になった。初日の稼ぎだけでウェヌス用の錫杖が買えたので、もう何日か奮闘すれば魔法耐性のある上等なローブなども買ってやれるのでないかと思う。
 そんなわけでベルクは幼馴染とともにウェヌスの装備品を抱えて宿に帰ってきた。十六年生きてきたが、女に何かくれてやるというのは初めてだ。柄にもなく緊張している。
(別にこんなもん普通に渡しゃいいんだけどよ……)
 あの女はなんとなくこちらの調子を狂わせる。いちいち寝ぼけた発言に付き合っているつもりはないのだが。その点はノーティッツも同意見らしく、「やっぱり可愛いからかなあ」などとのたまっていた。女神までストライクゾーンに入るとは恐いもの知らずな男だ。
(まあこの先も一緒に旅するわけだしなー。こっちの調子に合わさせるぐらいの気持ちでいねーとなー)
 ――とかなんとか考えていたら、なんとウェヌスが男連れで戻ってきた。
(だ……っ誰だ!?)
 ベルクとノーティッツは戦慄した。ウェヌスが男を、という時点で面倒事の予感しかしなかったからだ。
 背中まで伸びた銀髪、知識層であることを匂わせる縁なし眼鏡、落ち着いた黒の長衣と文様の編まれた腰布を身にまとい、男はにこやかな微笑を浮かべている。
「初めまして、ハルムロースと申します」
 友好的に握手を求められ、ベルクはハッと白い手を握り返した。おそらくウェヌスがどこかで引っ掛けてきてしまったのだろう。男あしらいができる女では決してない。おまけにすこぶる鈍いのだから。
「あ、ベルクっす」
「どうも、ノーティッツと言います」
 とりあえずごく簡単な挨拶だけ済ませる。一瞬値踏みするような目で見られた気がしたが、それはすぐ笑顔のベールに包み隠された。
 あれか、ウェヌスにひと目惚れしたとかで、俺たちのどちらかを恋人と勘違いしているのか。だとしたらどう誤解を解いてやるべきだろう。
「いやあ、お会いできて光栄です。ベルクさんは勇者としてあちこち巡られる予定と伺いまして」
「へ? ああ、そうすね。まあそのつもりっすけど」
「さぞお強いのでしょうねえ。いやあ、良い筋肉をお持ちです」
「あー、まあ、一応ガキの頃から鍛えてあるんで……」
 ハルムロースは愛想を振り撒いて話しかけてくる。ちらとウェヌスに目をやれば「あなたの勇者としての活動に心打たれたそうですわ!」とこちらは更にご機嫌の様子だった。
「勇者たる者、常に臣民のハートをグッとキャッチしていなければ……! これはあなたの勇者としての資質が花開いてきた確たる証拠で」
「あー、いい、いい。そういうのうぜーからちょっと黙ってろお前」
「う、うざい……!? そ、そうですか。私は良かれと思って言ったのですが……またあなたの迷惑になってしまったのですね……」
「んな落ち込むこたねーだろうが! ほれ、また辛気臭え負のオーラ漂ってんぞ」
「し、辛気臭いっ!? わ、私はただ自らを顧みて反省を」
「いや、今は客の前だから。反省とかは後ですりゃいーから」
 げんなりしながらベルクはハルムロースに向き直る。学者風の男だが所作に隙らしい隙はなかった。手合わせをしたら結構いい勝負ができそうだ。
「ウェヌスさんはご身分のある方とお見受けしておりましたが、随分気さくにお付き合いされているのですねえ」
「んん? いっつもこんな感じだよなあ、ノーティッツ」
「そうだな。こっちもだいぶ慣れちゃったしな」
 身分で言うとベルクもやんごとなき身分であるのだが、こんな城外では初見で王族と見抜いてくれる者などいない。やっぱり俺って王族オーラ皆無なのかと少し落ち込む。
「……なかなか面白いご関係でいらっしゃる」
 ハルムロースは意味ありげに微笑んだ。その表情がなんとなく引っ掛かり、ベルクは瞳を鋭くする。
(なんか油断ならねぇな)
 理由もわからないが本能的にそう感じた。戦う者の勘とでも言うのか、この男を見ていると蛇の蒲焼を鰻だと騙られ担がされかけた子供時代の思い出が甦る。
「で、旅の話を聞きに来たのか? それとも俺らになんか頼みごとでも?」
 銀髪の青年は中指で眼鏡を上げ直した。形の良い唇が「実は……」と低い音を刻む。
「ある魔道書を預かっていただける方を探しているのです」



 ハルムロースが置いていったのは呪われているという曰くつきの「死霊の書」だった。持っているだけで生命力が削り取られるため、誰かに譲渡したいと考えていたそうだ。「活力溢れる勇者に癒しの僧侶ともなれば、易々呪いに傷つけられることもないでしょう!」とはた迷惑な太鼓判を押すと、ベルクでもノーティッツでもなく男は書物をウェヌスに押しつけた。
 人選についてはまず間違いなく確信があったのだと思う。一番断らなさそうな人間が誰か、あの腹黒はしっかり見抜いていたに違いない。人助けをして少しでもベルクに勇者としての箔をつけてもらいたいと願う女神の思いは、あの馬鹿の発する言葉の端々に滲み出ていたのだから。
「ではよろしく頼みますね!」
 楽しげな声でそう言うや否や、ハルムロースは疾風のごとく引き揚げていった。ベルクは「ちょっ待て! こんなもんいるか!」と投げ返してやろうとしたが、ウェヌスは頼りにされたのが余程嬉しかったと見えて「あの方は困っておられたのですよ!!」と決して魔道書を離そうとしなかった。
「うっわ、足はや〜! もうあんなとこまで逃げてるよ」
 部屋の窓から身を乗り出しつつノーティッツがぼやく。黒い衣が夕暮れの道を歩み去って行くのがベルクの視界にも映った。金品を掠め取られたわけではないが、これも立派な詐欺行為ではなかろうか。
「ったく……どうすんだよこれ?」
 生命力を吸い取る、などと言われると触れる気にもなれない。ベルクが無理矢理捨ててしまうと思っているのか、ウェヌスは書物を抱え込んだまま涙目になっていた。
「天界の力で呪いを解除できたりしないの?」
 ノーティッツが真面目に尋ねる。成程とベルクは手を打った。そうか、そういう抜け道があったのか。
「そ……それはできますが……」
「あ? なーんだ、そんじゃそうすりゃいいじゃねえか。びびって損したぜ」
 そうだ、腐ってもこの女は女神なのだった。流石に地上の呪いで苦しめられることなどないのだろう。
 ベルクはほっと一息ついたがそれは束の間のことだった。続いてウェヌスが告げたのは、かなり頭の悪い言葉だった。
「ですが私は、あなたと女神としての力は使わないと約束したのです。たとえ呪いに身を削られようとも反故にするわけにはまいりません!」
「――」
 暫し声を失った後、ベルクは久々に、数週間ぶりに、思い切りウェヌスを怒鳴り飛ばした。
「あ、阿呆かーーーー!!!! 命とどっちが大事だあああーーーーーー!!!!!!!」
 ぜえぜえと肩で荒い息を整える。耳を塞いでいたらしいノーティッツは涼しい顔をしていたが、ウェヌスはもう本気で泣きそうになっていた。
「し、仕方がないではないですか! 天界の者は父であるトルム神により強大な力を与えられる代わりに、己の言葉に強く戒められるのです。一度約束したことを破れば、それこそ私は泡と消えてなくなりますわ……!!」
「……は?」
 愕然と、今度こそベルクは言葉を忘れて立ち尽くした。
 女神の力を使うなと、ただの仲間として一緒に来いと、確かに自分はそう言った。だが約束すると誓ったとき、そっちだって何も言わなかったではないか。
「……んだよそれ」
 あれ、と思った。なんだか物凄くショックを受けている。
 どうしてそんな大事なことを黙っていたのだ。女神の力は自由に出し入れできるものではなかったのか。
「ベ、ベルク? 私また何かあなたに不愉快なことを……」
 叱り飛ばしたいくらいだったが、まともな台詞を吐ける自信はなかった。ノーティッツも目を瞠り呆然としている。空気を読めていないのは相変わらずウェヌスだけだった。
「じゃあお前、今は普通の女ってことかよ……」
 後悔?罪悪感?よくわからない感情が喉までせり上がってきて気持ち悪い。
 ベルクは無言でウェヌスの手から魔道書を奪い取った。大馬鹿女神に何と言えばいいのかわからず、そのまま部屋を後にする。
 お気楽そうにしているから大したことじゃないと思っていた。人間で言えば酒や煙草を我慢する程度のことなのだと、勝手に。
(泡と消えるって、なんだそれ……)
 ウェヌスはこの旅が終わるまで女神に戻れないのだろうか。魔王を倒すまでずっと?
(くそ。先に言っとけよ、あの馬鹿……!)



 翌日のベルクはここ数年で一番元気がなかった。きっとまだ衝撃が抜け切っていないのだろう。ノーティッツでさえ落ち込んだのだから、幼馴染はもっと傷ついたはずだ。……まさか呪いのせいで消耗しているのではないと思うが。
「ウェヌスの装備渡しておいたよ。お前のこと気にしてた」
「……んなこと聞いてねえ。今日も魔物退治行くんだろ、さっさと用意しろ」
 ぶすくれていてもノーティッツにはわかってしまう。ベルクの顔は、限度を知らぬ悪戯で誰かに怪我を負わせてしまったときと同じだった。
 昨夜はあれから「ベルクを怒らせてしまいました」と嘆くウェヌスをつきっきりで慰めていた。別に怒ったわけではないと言い聞かせたが、人間の心理に疎い彼女に理解してもらえたかはわからない。
 あいつは責任を感じたんだ。だから後ろめたくて君に顔を向けられなくなったんだよ、と。そう説明しながらノーティッツ自身悲しかった。こんな展開にするつもりではなかったのに。
「今日は教会の手伝いも休んで、なんとか呪いを解く方法がないか考えてみるってさ」
「……」
 ベルクはだんまりを決め込んだ。普段自分の殻に籠るなんて滅多にしない男なので、余程うろたえているのだろう。
(……なんか変な感じだな。こいつが女の子のことで悩むとか)
 こんなときにそんなことを思う自分もきっと十分おかしい。だがそれだけ動転しているのだろう。思考を別のことで埋めていれば少しは冷静になれる。
 精神状態とは裏腹に魔物退治は大いにはかどった。無駄話など一切せず戦闘に明け暮れていれば当然かもしれない。
 懐は温まったがベルクは何の装備も買わなかった。安全な街にウェヌスを残して行くべきかどうか、悩んでいるのかもしれなかった。
「ただいまウェヌス、今戻っ……」
 夕刻、帰り着いた銀柳亭の部屋に入ると、そこには非常に見覚えのある光景が広がっていた。
 きらきらふわふわした浮遊物体。過剰な光沢に侵された床と壁と調度品。
「こ、これは……!?」
 一体何があったのだ、と光の中にウェヌスを探せば彼女は備え付けの椅子にお行儀良く腰掛けていた。その女神の正面には昨日とはまた別の男が坐している。
 ノーティッツが踏み出すより早くベルクが室内へ駆け込んだ。ウェヌスの身を案じているのは間違いなかった。
「おま、女神の力を戻したら泡にって……!!」
「ベルク! 紹介いたしますわ。彼は天界で私と兄に仕えている、世話係のオーバストです!」
「……は?」
 うわぁ……とノーティッツは額を押さえた。冗談ではなく眩暈がした。本当に、この女神のおつむは残念でならない。どうすればそんな斬新な解決方法を見出せるのだろう。
「よくよく考えてみれば呪いを浄化するのは私でなくても良かったんですわ。それに、オーバストもお父様から私の護衛につくよう仰せつかったのですって!」
「勇者ベルク殿、魔導師ノーティッツ殿! お初にお目にかかります。天界の使者、オーバストにございます。どうぞお見知りおきを!」
 オーバストは生真面目かつ実直そうな青年だった。性格も明るそうだし、きっと魔力も強いのだろう。――だが今はそんな美徳、いくつ積み上がっていようが関係ない。ノーティッツはそっと両手で耳を塞いだ。

「帰れええええええーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」

 後日聞いたところによれば、幼馴染の絶叫は街外れまで届いたらしい。
 ウェヌスにはわからなかったのだろう。「天界の力はなしだ」と言われた意味が、本当に本気で。
「帰れと言われましても、私の受けた命令は絶対でして……」
 困り顔でそう主張するオーバストは半ば済し崩し的にベルクのパーティに参入することとなった。力を封じて普通の仲間としてついてきてほしいとは、幼馴染にもノーティッツにももう言えなかった。
 一日分の鬱屈を晴らすべく、ベルクは死霊の書をウェヌスに投げつけたり、きらきらふわふわを蹴散らしたり、半刻ほど暴れていたが、その顔はそれほど怒っているようには見えなかった。事実翌日には、彼は防具屋に立ち寄り、女神のための装備を選んでいたのだ。



 ******



 ――祈りの街からの使者が去り誰もいなくなった謁見の間で、シャインバール二十三世は玉座に凭れ重苦しい溜め息を吐いた。
「はぁ……」
 大僧正ゲシュテーエンは勇者アラインに何も与えず帰したという。あの老婆は気がついているのかもしれない。勇者の家に隠された忌まわしい秘密に。
 何も知らないままアラインを送り出したかった。真っ直ぐに勇者を信じられた子供の頃と同じ気持ちで。
 秘め事は先代国王から伝えられた。ひとりでは到底抱えきれず、何年も悩み抜いて、そうしてアラインの両親を呼び出し打ち明けた。だが結局は何の解決にもならなかった。彼らは絶望に打ちひしがれ、幼いアラインを残し命を絶ったのだ。
「アラインは盾の塔に向かうのだろうな……」
 力なく目を細め、天井を見上げる。描かれた一幕は初代勇者の凱旋だった。
 王国は常に勇者と共にあった。内政も、国防も、勇者ありきで成り立つものだった。
 アラインは志半ばで殺されるかもしれない。あの誠実な若者は。
「そなたが死んだらわしはどうしたらいいんじゃろうな……」
 独白に答える者はいなかった。王宮は無情な沈黙を保っていた。





(20120529)