「ねえファッハマン〜! 精霊たちは一体どこに行ってしまったんだろうねえ〜!?」
 魔導書を開いたまま肩に圧し掛かってくる兄弟子を仏頂面で押し退ける。
 実験器具の手入れ中なのが見えないのだろうか、この馬鹿は。貴重品に傷でもついたらどうしてくれるのだ。
「うるさい。邪魔だ。座れ。黙って本を読め」
「ああッ酷いぞ年上に向かって!! 言わばお兄さんであるこの僕に向かって!!」
「うるさいからうるさいって言ったんだ。言動も年長者に思えない」
「うわーん酷いんだ!! 折角君と仲良くなりたくて、精霊の行方について熱く議論を交わそうと思ったのに〜!!」
 しつこく纏わりついてくる手を何度も何度も振り払う。
 イクスマールは師にファッハマンの世話役を頼まれたとかで、しょっちゅうこうして絡んでくる。静かに研究をしたいファッハマンにとってはいい迷惑だった。

「自分の親がどこ行ったかもわからない僕らに、精霊の行方なんてわかるわけないだろ?」

 反論を封じるべくして返した言葉に何故か自分もぐさりと来て、僅かに眉根を寄せる。イクスマールは大袈裟に仰け反ると、わなわな震えて「いけないぞっ!」と人差し指を突き立てた。
「拗ねていじけて夢見ることを忘れたら、人は死んだも同然だ!! ファッハマン、君はまっさらな未来を信じないというのかい!? そんな奴にはこの僕が教育的指導をしてやる!! さあ、精霊魔法消失について君の見解を述べるがいい!!」
 結局その話がしたいだけかと頭を抱える。何故この男は常に元気はつらつとしているのだろう。テンションが高すぎて付いて行けない。彼だって捨てられてここへ来たくせに、その明るさはなんなのだ。
「もう! いいじゃないか、仲良くしようよ。僕みたいな騒がしいのが側にいた方が、淋しさだって紛れるよ」
 ノリの軽い発言から師の思惑まで透けて見える。あけすけに曝け出されると反発するのも馬鹿馬鹿しくて、段々と騒々しさにも慣れていった。
 ファッハマンは呪いについて、イクスマールは電気について、師の元で新しい法則や技術を見つけ出そうとしていた。
 研究は魔法使いの生命線だ。価値ある理論が発見されればそれだけ魔法使いの地位は上がる。「呪術を専門にしてどうするのさ?」という兄弟子の問いかけにファッハマンは答えた。
「魔法以外のアプローチでなら精霊の力を借りる方法が残ってるかもしれないだろ? そうしたら呪いが精霊魔法を復活させる鍵になるかもと思ったんだ」
「成程ォ! つまり他人を呪うことには興味がないんだな。それにしても精霊の行方なんてわかるわけないって言ってた割に、精霊研究に重きを置いているんだねえ? このこの、天邪鬼さんめ〜!!」
 髪の毛をぐしゃぐしゃにされ「やめろ!」と怒鳴る。こちらは辟易しているのに、イクスマールは楽しげだった。
 思い出す兄弟子の顔はいつも笑顔だ。へらへら締まりのない口元を何度抓ったかわからない。
 発電実験に失敗して顔半分に大火傷を負ったときも、師が死の床に着いたときも、「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。
 葬儀が済んで一週間ほどしてからだった。彼が勇者募集の立札を見たと言ってきたのは。

 ――英雄になれば親の方から名乗り出てくるかもしれないよ。ファッハマン、一緒に行ってみないかい?

 イクスマールは落ち込む自分を励まそうとしてくれていたのだ。なのに待っていたのは笑えない惨劇で。
 誰もいない朝焼けの墓地に一人佇む。
 頑張るから、と呟いてファッハマンは屋敷へと引き返した。












 賢者の館へやって来て四日目の朝。いつもの広間で畏まって光熱魔法を見せてくるツレットに、ファッハマンは「やっぱり魔力が伸びてる」と告げた。
 彼の伸び方に驚かされたのは昨日の同時刻だ。そこからまた順調に術の効果、継続時間を高めている。属性魔法は基本的な威力が小さいと言えど、目を瞠るどころでない成長ぶりだった。
「何なんだろうね、君? たった一日の修行量とは思えないよ。初戦でやり合ったって言う魔法使いはどんな人だったんだい?」
 こちらの問いかけにツレットはううんと唸る。曰く、「ずっと魔物に見えてたし、ホールで見たのも一瞬だったし、うつ伏せに倒れてたからちゃんと覚えてない」らしい。
「何色のローブを着ていたかわかる?」
「ローブ? ローブは確か……水色だったと思う」
 返答にファッハマンは首を傾げた。一般魔導師は黒か紺か緑、宮廷魔導師は白か紫か赤の装束を着用するのが決まりである。それ以外の色なら協会未登録の野良魔導師ということになる。
「ますます謎だな。野良でもそれなりの術を使える魔法使いはいるけど、こんな異常成長が噂にならないはずないのに」
 とりあえず名簿から漏れた魔導師なのは間違いなさそうだ。そもそも光熱属性持ち自体が珍しく、学会でもお目にかかったことがない。ファッハマンの腐食属性と比べれば希少性には欠けるけれど。
「やっぱりこれはツレット君が特異体質なのかなあ。ネルケさんやバイトラートさんは魔力総量におかしな点は見当たらないし、非魔法使いに属性が付与されたために起きた突然変異現象なのかとも思ったけど」
 口元に手をやって思考を巡らせるも原因は掴めない。断言できるのは、この偶然発生的なイレギュラーが善良な人間にもたらされ、非常に幸運だったということだけだ。これがツレットでなくレーレやラツィオナールだったら頭痛の種が増えていたところである。
「ま、ここで考え込んでても結論なんか出ないか。いいや、それじゃ今日の授業を始めよう。ツレット君、宿題はできてる?」
「お、おう!」
 カチンコチンに固まったツレットがぎこちない仕草で両手を前に突き出す。昨日与えた彼への課題は「道具に頼らず魔法を発現させること」だった。
 杖や剣を媒体にすれば、少ない魔力を効率良く、長い時間運用できる。だがそれでは大して破壊力のある魔法にならない。大技を使いたいなら魔力を魔力だけで凝縮させる必要があった。
「……えいっ!」
 掛け声と共に放出されたツレットの力を見極める。掌から広がった熱はぽかぽかと暖かく、まるで温湿布に包まれているようだった。お世辞にも身が焼けるとは言い難い。
「うん。分散しちゃってるね、魔力」
 冷静な分析にツレットが涙目で振り返る。「ごめん」と謝る彼に「いいよ」と首を振った。初めからそうそう上手く行くわけない。だが「魔法なんて初めてだから」と言い訳しないところに好感が持てた。
「ツレット君はあんまり想像力逞しい方じゃないのかな。より具体的な事象を思い描くのが上達への第一歩なんだけど」
「う、うう……」
「だから落ち込まなくたっていいってば。想像しやすい材料を探せばいいだけなんだから」
「そ、想像しやすい……」
「そう。ついでに強さや俊敏さと結びつくものがいいね。例えば光の剣を振るったり、光の矢を放つイメージはどう? 多分、光熱に対して眩しいとか暑いとかいう印象が先行しちゃって広範囲に魔力が散らばってしまうんだ。ならイメージに別のイメージを付け足してやるのがいい」
「な、成程!! わかった。今日はその意見を参考にやってみる!!」
 うんうん頷くツレットを内心感心しつつ見上げる。なんとも素直な性分の持ち主だ。年下の助言を真面目に聞いて実行して。
 信頼されているのだから、自分も自分のすべきことを果たさねばなるまい。昨日皆に話した脱出計画を思い返し、ファッハマンは唇を引き結んだ。
 ツレットには大任を引き受けてもらうことになる。彼がガチガチに気負っているのはそのせいだ。
「なあ、俺、他にどんなことすればいい? 魔力が切れた後は魔法の練習ってできないのか? できることあるなら何でも言ってくれよ! 俺、学はないし、素人だし、言われたこと一生懸命やるしかできないから」
 必死の表情で教えを乞うツレットは、一人じゃ何もできないと言う割に頼もしかった。イクスマールがここにいたら、「将来弟子を取るなら彼みたいな子がいいね!」と言ったかもしれない。脳裏をよぎった他愛無い想像に苦く笑う。
 今は今のことだけ考えていよう。過去を振り返ったり未来を見据えたりしたら、動けなくなりそうだ。






 ******






「ネ、ネルケさんすごい……!」
 すいすいと木登りする影を見上げてペルレは感嘆の息を吐いた。庭の果樹を揺らしているのは女戦士の魔法である。影は熟れた実をもぎ取ると、枝の下で待つ術者に放って掻き消えた。
 それにしても驚きだ。たった数日でここまで自在に術を操れるようになろうとは。ネルケが生粋の魔法使いだったなら、間違いなく宮廷魔導師団にスカウトされていただろう。
「うふふ、どう? 上手いもんでしょ?」
 手にした林檎を一口齧ってゴーレム殺しはウインクした。こくこくと頷くペルレに女戦士は「もう一つ見てちょうだい」と魔法評価を依頼する。今度は何をするのかと思ったら、ネルケは影を細く薄く伸ばし始めた。長いリボン状になったそれは、ヒュッと音を立て枝の紅玉に絡みつく。
「はい、ペルレちゃんにあげる」
 落とした林檎をキャッチするとネルケはペルレに差し出した。鮮やかなお手並みに思わず拍手してしまう。
「か、完璧じゃないですか。私からネルケさんに教えることなんて何もなさそうですよ」
「いやー、でもこれ魔力コストが高いみたいでさあ。長い時間はもたないのよねえ」
「いえいえ、魔法は熟練者でも連続して使い続けるのが困難ですから」
「そう? じゃあこのくらいできればまずまずかしら?」
 厨房に立つ彼女を見ていても感じることだが、やはりネルケは相当器用な人間らしい。片手で卵を割るくらいは当たり前だし、三つ四つの作業を苦も無く並行する。扱う武器は多岐に渡り、戦いの経験も豊富だ。そういう面が彼女の魔法に表れているようだった。
「あーん! 魔力なくなっちゃった。今日の特訓はおしまいだわね」
「どうします? 部屋に戻ります? 私はこれからファッハマン君と探索の続きに向かうんですけど……」
「だったらそこまで送って行くわ。ペルレちゃん一人のときにクヴァルムと鉢合わせたら堪んないでしょ」
「あ、こ、心遣いありがとうございます」
「そんな堅くならなくっていいってば〜!」
「きゃっ!!」
 軽く叩かれた背中に驚き振り仰ぐ。普段何かと敬遠されがちな魔法使いなので、ネルケの示す距離感にはまだ戸惑いがあった。明るく朗らかで温かい人。死んでいいとは思えない人。無事に館を出られるように、もっとしっかりしなければ。

「お、ネルケにペルレちゃんやん。今から中に戻るんか? 俺も腹膨らましに戻るとこなんや!」

 と、そこへトコトコ寄って来たのは丸い眼鏡のヴォルケンだった。褐色肌の行商人はネルケといるとよく出くわす。幼馴染だそうだから、お互い気にかけているのだろう。
「ジブンらええもん食べてんな。それ、あの木に成ってた林檎か?」
「うん。ヴォルケンも欲しい?」
「欲しい欲しい。疲れて甘いモン求めてたとこや。この辺からもぎったらええかな?」
 よっと背伸びしてヴォルケンは赤い果実を手に掴む。あんぐり開いた大きな口が甘味にかぶりついたと同時、ネルケが「うわっ」と顔面を引き攣らせた。
 女戦士の視線は行商人でもペルレでもなく林檎の樹枝に向けられている。訝りながら頭上を見やれば理由はすぐに判明した。今さっきヴォルケンがもいだはずの林檎が元通り戻っているのだ。
「……」
「……」
「……」
 三人で目を見合わせた。食べて害のない食べ物かどうか、疑いが喉を詰まらせる。
「ま、大丈夫やろ。……ファッハマンも大丈夫やて言うてたし」
 生い茂る木に背を向けてヴォルケンが歩き出す。ペルレとネルケもその後を追った。
 賢者の作った魔法の館。ここは普通の世界と違う。林檎の芯を放り捨てても一瞬後にはきっと消えてしまうのだ。
「ほら、ペルレちゃんは真ん中歩いて。ヴォルケン、厨房の前にファッハマンのところへ寄るから」
「了解や。先頭は任しといて〜」
 大柄な二人に挟まれ恐縮する。この並びならクヴァルムに遭遇しても平気そうだ。守ってもらうだけでは駄目だとツレットに宣言したばかりで情けないけれど。
「ペルレちゃん、一人にならんように気ィつけや? あのデカブツ何しよるかわからへんしな」
「そうよォ、今度あんな真似したら逃がさないんだから!」
 案じる言葉に少しホッとして頬を緩める。
「ふふ、なんだかお兄さんとお姉さんができたみたいです」
 家族とは疎遠だから嬉しい。そう続けようとしてペルレは口を噤んだ。ヴォルケンとネルケが揃って表情を強張らせたから。
「そう言えばファッハマン、どこにいるのかしらねえ?」
「あー、ツレット君と一緒なんやったらホールとちゃうか? 別館にはおらへんかったし」
「???」
 何かまずいことを言ってしまったのだろうか。話題はもう全く違うものに変わっている。流れる空気に刺々しさはなかったが、妙に胸に引っ掛かった。不快な思いをさせたのでなければいいのだが。












 ペルレをファッハマンの元に送り届け、入れ替わりで別館へ赴いたツレットを見送ると、ヴォルケンはネルケと小休止を取ることにした。
 二人きりになった途端、幼馴染の纏う冷気が強くなる。おそらくこの間の余計な一言が原因だ。ニコの話など持ち出したから。
「あー、ペルレちゃん、またファッハマンと例の探索活動か?」
「そうじゃない? 早く結果出るといいね」
「ちゅ、厨房でお茶でもせえへん?」
「そうだね。一杯飲んだらあたしも別館に行こうかな」
 乾いた口調はまるで切って捨てるようだ。双眸は頑なにこちらを向かず、取りつく島もない。だが一応嫌われたのではなさそうだ。一杯だけなら付き合ってやると言ってくれている。
(踏み込むのん早すぎたかな)
 今頃しくじったと後悔しても後先に立たずである。少しずつ距離を詰め直すしかない。
 かまどに火を入れ沸かした紅茶を二人で啜り始めたときだった。厨房の扉が開いたのは。

「お、なんだ。お前らもいたのか」

 顔を覗かせたバイトラートが甘い匂いに釣られて寄ってくる。すぐさま新しいカップを用意して、ビスケットの缶まで開けてやるネルケにぎょっとした。昔からもてなしの手際は良いが、この男にもそれを発揮してしまうのか。
「おお、あんがとよ。ついでに水筒取ってくれねえ? 持ってける食料もあれば」
「なぁに? ツレット君と食べるの? 訓練場で?」
「そうそう。やっぱ途中で腹減るんだよなあ」
「ツレット君やったらもう別館に行ってもうたで? 急いだ方がええんとちゃうか?」
 邪魔者を追い払いたい気持ちは隠してそう教える。別に嘘はついていない。
「まじで? あいつ支度早ぇな」
 少し慌てた竜殺しに快くパンと水筒を手渡してやると、屈託ない笑みで礼を述べられた。
「そんじゃ行ってくるわ。紅茶もありがとな!」
 まだ熱いだろうカップの中身を飲み干してバイトラートは踵を返した。
 気の好い男なのだとは思う。普通に知り合ったなら親しい友人になれたのだろうとも。――だが。
「半分持ってあげるわよ」
 椅子から立ち上がったネルケがさっとカップを洗って出て行くと、不愉快な感情だけが残された。かぶりを振ってついた溜め息は存外に大きい。
(……あれは嫌ってる顔には見えへんよなあ)
 十年も離れていたのだ。今更自分だけが彼女の特別だとは思わないし、幸せでいてくれるなら文句だってないけれど。
(お兄さんとお姉さんができたみたい、か)
 さっきペルレに言われた台詞を思い出す。遡って、「ヴォルケンさんがお義兄ちゃんになるなんて嬉しい」と喜んでくれた女の子のことを。
 ネルケにプロポーズしたいと打ち明けたヴォルケンに、ニコは熱心に協力してくれた。婚約の証に贈る品は何がいいか、使う石は何色がいいか、グッとくる言葉はどんなか、一緒に頭を悩ませてくれた。本当の妹のように。
(自分が死なせたと思ってるんやなあ、やっぱり)
 ネルケは未だにあのときの傷を膿ませたままでいる。知った以上はどうにかしてやりたかった。
「俺も槍と弓鍛えに行こ」
 早くこんな館とはお別れしなくては。でないと彼女と落ち着いて話もできやしない。






 ******






 殺風景な屋内訓練場をひた走る。飾り窓とベンチ以外は何もない、滑らかな石のフロアに竜殺しの声はよく響いた。
「相手が剣を下げたら顔面狙え! 突きは剣先開いたときだ!」
「うわっ!! った、っととと」
 打ち込まれたオリハルコンをなんとか返しつつツレットは足を踏ん張らせる。切り結んだ一瞬後にはバイトラートの間合いを離れた。実力差のある相手とは極力距離を保った方がいい。最近学んだことである。
「剣が浮いたら手!! 振りかぶられたら横っ腹!!」
 だが剣士はツレットの後ろ跳びなど物ともせずに肉薄してくる。竜殺しの射程に入れば叩きのめされるまですぐだった。
「わかっ……!! っぐおわ!?!?」
 神剣に気を取られた隙に回し蹴りで吹っ飛ばされる。ぶつかった壁に縋ってゲホゴホ咽ていると、ニッと笑ったバイトラートに「ま、剣を持ってるからって剣で攻撃してくるとは限らねえからよ」と言われた。フォラオスが聞いたら真っ赤になって怒りそうな台詞だ。
「ひ、卑怯だぞバイトラート……っ」
「そろそろ剣以外も教えてやろうかと思ってな。足が来るわけないって油断してたろ? 思い込みは大敵だぜ」
「〜〜ッ」
 確かにその通りなので何も反論できなかった。賢者の攻撃パターンはきっとこれより多彩だ。涙目で右脇腹を擦りながら今日の教訓を心に刻む。
「ふう、だいぶ汗かいたな。こんくらいにしとくか」
 しばらく稽古の様子を見ていたネルケが的場へ降りて行ったのは随分前の話だった。水筒の茶を補給してツレットはやっと一心地着く。
「ありがとう。また頼む」
 起き上がって一礼したら「律儀だな」と笑われた。こちらが教わる立場なのだから当然だと返せば頭まで撫でられる。
「親父さんとよく似てる」
「……!」
 飛竜に殺された父との思い出は少ない。当時ツレットは八つになったばかりで、小さな弓を引き始めたところだった。母が死んだのはその一年後。苦労の末に痩せ枯れた腕がツレットたちを抱きしめてくれた。
「バイトラート」
 恩人を真っ直ぐ見上げ、ツレットは再度頭を下げる。「あのとき助けてくれてありがとう」と。
 自分まで飛竜の餌食になっていたら、母にはもっと深い悲嘆を、妹には長い孤独を味わわせることになっていただろう。
 ティーフェの人生が幸せなものだったかどうかなんてツレットには測れない。酷い最期を迎えさせてしまったとわかるだけだ。だけどお礼をしなきゃと言ってくれたのは、他でもないティーフェだったから。
「こんな状況で言うことじゃないのかもしれないけど……ずっと感謝してた」
 約束、一つ果たせたのかな。胸の内で妹に呼びかける。
 バイトラートは片眉を下げるとさっぱりした笑みを浮かべた。
「どんな状況でも生きてるだけめっけもんだろ。最善を尽くしたんなら胸張ればいいさ。お前はやれることやろうとしてるし、やれないこともやれるようになろうって努力してんじゃねえか。生きてて良かったって感じていいんだ」
 温かい言葉が胸に沁みる。ほろりと涙が零れそうになって、慌てて歯を食いしばった。小さく小さく、うんと頷く。
 バイトラートに会えて良かった。剣を学んで良かった。
「妹のことも話せよ。一緒に祈ればお前だって少しは楽になれるだろ」
 無理するなと言うようにぽんと肩を叩かれる。
 嬉しかった。縋りついて大泣きできるほど子供にはなれないけれど。自分が人を殺したことも、忘れることはできなかったけれど。












 闇が一日に幕を下ろす。胸の前で合わせていた手をそっと解き、ミルトは友の墓前から立ち上がった。
 墓場へ来ると気持ちの整理がつくときもあるが、ただ掻き乱されるだけのときも多い。生と死の境界線は日に日にこちらへ迫っていて、生者の領域が狭まっているように感じられた。
 ファッハマンとペルレが状況を打破する材料を探ってくれているものの、ミルトにできる支援は限られている。少年魔導師の言う計画が実行段階に至るまでは腕を磨いているしかなく、歯痒かった。せめて味方を増やすくらいできればいいのだが。
「……っと。何してるんだ?」
 そんなことを考えながら庭を横切ろうとしたら、柱の陰にオレンジ色の道着を見つけた。まるで隠れて別館の様子を窺うようなウーゾにまさかと顔を歪める。
「ツレット君に不意打ちかけようって言うんじゃ!?」
「馬鹿、違う!! 探しても探してもヒルンゲシュピンストの野郎が見つからねえから先にあいつと決着をって」
「やっぱり不意打ちじゃないか!! だ、駄目だぞウーゾ!! そんなことしたってなんにも」
「だから不意打ちじゃねえ!! やるなら決闘に決まってるだろ!!」
「決っ……!?」
 不穏な単語にミルトはごくりと息を飲む。真っ向勝負を望むところは勇ましいが、決闘と言えば命の取り合いだ。敗者には死が待っている。
「ほ、本気なのか?」
 ウーゾには頷きを返された。そのまま別館へ歩いて行こうとする彼を大慌てで引き留める。
「待ってくれ!! ツレット君は、もしかしたら、脱出の切り札になるかもしれないんだ。すごい早さで魔力が増加してるってファッハマンが。……か、彼に何かあったら困る。一旦収めてくれないか? 君だって何もかも無茶苦茶にしたいんじゃないだろう? ……酷なこと頼んでるのは、わかってるつもりだけど、ごめん」
 言葉の選び方など知らない。ウーゾの悲憤を否定したいわけではないから、尚更どう止めればいいのかわからなかった。
 掴んだ腕に力をこめる。振り払われたらどうしようと汗しながら。
「……わかったよ。試合で当たるまであいつに手は出さねえ。それでいいんだろ」
「!!」
 存外素直に了承を得られ、胸を撫で下ろした。やはりウーゾは思いやりのある男なのだ。個人的な復讐に他を巻き込むことは良しとしていない。
「ありがとう」
 心からの礼に反応は返ってこなかった。ウーゾは玄関ホールに戻ると階段を上って部屋に引き揚げて行った。






 ******






 「今日も増えてるね」と言われてツレットは開いた両手をまじまじ見つめる。「うん、本当に増えてる」と答えたのは、己ではなくペルレだった。
 今朝の魔法講義にはファッハマンだけでなく彼女も加わってくれていた。時魔導師の眼力でツレットの肉体に何が起きているのか分析しようと言うのだ。
「うーん。ツレット君に時間属性があるわけじゃないと思う。もしそうなら、時を早めて魔力を増やせたとしても、一緒に肉体まで歳を取っちゃうはずだもの」
「そうだよねえ。やっぱり特異体質の線が濃いかなあ」
 見解を提示し合う魔導師たちの輪にツレットも加わる。
「あのさ、ブラオンが第一試合で戦った相手がそういう特殊な奴だったって可能性はないか?」
 自分なりに導き出した考えは、しかしあっさりと受け流された。
「それも否定はできないけど、はっきり断定はできないな」
「何しろこんなの前例がないから」
 二人はううんと頭を抱えてしまう。ツレットの魔力が伸び続けている理由はまだ判明しそうになかった。

「……もし俺の身体が普通の人間と違うなら、ティーフェを殺した奴にも俺みたいな異常成長が起きてるのかな?」

 尋ねた瞬間全身に震えが走った。
 妹を殺したのが誰か。魔力を見ればわかってしまうかもしれないのだ。ヴォルケンにはもう探すなと言われたけれど。
「多分ないと思うよ。双子と言っても男女の場合はそっくり同じじゃないからね。魔法使いでも双子で同じ属性を持つのは同性の場合に限られるし」
「……そっか」
 漏れた呟きは酷く掠れていた。瞼の裏にティーフェの顔がちらつく。目を逸らしたツレットに、ファッハマンは静かに問うた。

「ツレット君。妹さんの仇、討ちたい?」

 咄嗟には答えられず、渇いた喉が唾を飲む。恐る恐る視線を戻せば少年魔導師の真剣な顔があった。
「僕は賢者の呪いを無に帰すことだけが正当な報復手段だと思ってる。君に魔法指導をすると決めたのも、君が皆のために力を使う人だからだ。君の気持ちが怒りや嘆きに傾いて、魔法を個人の復讐に用いたいと願うようになっても僕には止められない。――でも一度でも物を教えた以上、責任は君だけに生じるものでないと思ってるよ」
 諌められ、釘を刺されたにもかかわらず、ツレットは何故かほっとしていた。
 そんなやり方は正しくないと誰かにきっぱり言ってほしかったのかもしれない。すぐ迷いそうになる自分を叱ってほしかったのかも。
 年下に甘えるなんて情けない話だ。きっとティーフェにも笑われてしまう。
「覚えとく。ありがとな」
 苦い笑みを浮かべたツレットの肩をファッハマンが杖で小突いてくる。「当てにしてるんだから」と念押しされると別の気負いが甦った。
 そうだ。今はティーフェを手にかけた人間のことより賢者の館を脱することを考えなければ。
「僕とペルレさんは例の探し物≠続ける。ツレット君も頑張って」
 少年魔導師に頷いてツレットはホールを後にした。背中には剣と弓。やるべきことはたくさんある。
 何人くらい、今、正しく我を保てているのだろう。自分の頭を義務と責務で満たすことなく。
 かぶりを振って疑問は忘れた。口にしたら、張り詰めた糸が切れてしまいそうな気がした。







(20140526)