第二話 悲しき殺人者






 砂塵が静寂を乱して通り過ぎる。聖山に咲くキンケイギクで染めたのだろう稽古着は風にはためいているだけで、まだピクリとも動かなかった。
 混乱の解けない頭を振り、どうすればいいと唇を噛む。冷静になるための時間が欲しかった。この不条理な殺し合いを回避する手立てを考える時間が。


「砂時計の砂が全て落ちる前に決着をつけてもらおう。二人目を殺すか、二人とも死ぬか、選択は自由だ。命を無駄にしないようになるべく勝者は確定させてほしいがね」


 どこからか振ってきた賢者の声にツレットは四方を見渡した。濃い青空の下にあるのは風紋を残す黄砂の山、野晒しにされ半分崩れた神殿のみだ。人間も、己とブラオン以外の姿はない。
「どこだ!? 出て来い!! これ以上こんなことさせられるなら、俺は勇者なんて――」
「健闘を祈る。ではまた後ほど」
 こちらの訴えに耳を貸す気など微塵もないのか涼やかな声は一方的に途切れる。と同時にカウントダウンが始まった。さらさらと、細い糸を紡ぐように砂はガラス瓶の底へと零れ落ちていく。
「……」
「……」
 じんわり肌が汗ばんだ。多分今、お互い似たような顔をして向かい合っているのだろう。張り詰めた空気に吐き気がする。会ったばかりの人間を殺せなど、あの賢者は正気でないのだ。
 だが悲しいかなヒルンゲシュピンストの実力は本物だった。世界のどこかもわからぬ場所にツレットたちは連れ去られている。
「……一緒にここを出る方法を探そう。まともな人間のすることじゃない。憎んでもない相手に武器を向けるなんて」
 ツレットが剣と弓を地面に置くと、ブラオンは初めてほっと息を吐いた。あちらも懐からダガーを取り出し砂に突き立て、殺意のないことを明確にする。
「手分けしようよ。僕は他に誰かいないか、この砂漠から抜けられそうか見てくる。そっちは遺跡の中を頼む」
「見てくるってどうやって? あの丘、風で砂が押し流されてるぞ。あんなところを歩けるのか?」
「大丈夫、柱を登るだけだから。割と身軽な方なんだ!」
 そう告げるや否や、ブラオンは転がっていた四角い岩を踏み台に装飾円柱の上部へ跳ね飛んでいった。すばしこい影はあっと言う間に屋根の向こうへ消えてしまう。
「うわっ、すごい」
 成程確かに神殿の天辺からなら周囲一帯を見渡せよう。にしてもどういう修業を積めばあんな跳躍力が身につくのだろうか。戦いにならなくて助かった。身体能力的に、まず身を守れる気がしない。
「……よし!」
 忌々しい砂時計を睨み、ツレットも小さな遺跡の調査を始めた。祭壇らしきものはあるが、ここで何が祀られていたのか判断できる材料はない。瓦礫が砂に埋もれているのか、乾いて砕けて砂と化したのかもわからなかった。わかるのは、やはりここが無人であるということのみだ。どこかにヒルンゲシュピンストが隠れていてもおかしくはないのだが。
「あっ階段!」
 裏手に回ると壁に沿うように細い直線階段が現れた。風向きの関係かあまり派手に風化しておらず、一人くらいならなんとか這い上がれそうである。恐る恐る一段目に体重をかけた。即崩落する可能性は低そうだった。
 頭上から容赦なく太陽が照りつけてくる。砂漠では喉の渇きを感じた時点で生還の望みは薄いと言う。早く突破口が見つかるようにと祈りながらツレットは階上へ進んだ。一縷の希望は、だが頂上に着くと呆気なく打ち砕かれた。
「……」
 先に到着していたブラオンが呆然と砂漠を見下ろしていた。彼に声をかけようとして、ツレットも言葉を失った。
 景色が途中でなくなっている。
 砂山の向こうにも続いているはずの世界が、そこから突然真っ白になっていた。
 わけがわからず「なんで?」と呟く。「きっと魔法の中なんだ」と答えてくれたのは拳を握って憤るブラオンだった。
「さっきの暗闇もそうだったんだ。勇者候補全員があのホールで同時に戦っていたとは思えない。ヒルンゲシュピンストは、多分、空間を操る魔術師なんだよ。彼以上の術者でなくちゃ、この術は破れない……」
 魔法の素質があるかどうか尋ねられ、ツレットは首を横に振った。一人目を「食べた」ときに彼の魔力が己に宿ったことはわかったが、扱える魔法の種類も魔法を発動させる方法も何もわからなかった。ブラオンも、身体能力を向上させる気功という術以外は専門外らしかった。
「……それじゃあ……」
 脱出など不可能ということか。頭の中で言葉にしてしまい後悔する。
 生き残るには戦うしかないということだ。あの賢者の命じた通り。
「くそ、なんとかならないのか!? 君、妙な魔石を見つけたり魔法陣の痕跡を見つけたりはしなかった?」
 焦燥も露わにブラオンが問う。なおも首を振るツレットの脇を通り過ぎ、彼は焦げ茶色の双眸を彷徨わせた。
 視線はやがて砂時計の上で焦点を結ぶ。「思ってたより早いぞ」との狼狽にぎくりと肩が強張った。
「は、早いって何が?」
「もう半分以上砂が落ちてる。――そうだ、あれを壊せばこの砂漠が消えてなくなるかも」
 閃きに縋るようにブラオンは砂時計の掛かった石柱に跳び移った。ツレットには助走をつけても無理な芸当なので、慌てて階段を駆け下りる。熱砂に足を取られながらなんとか武器を置いたところまで戻ると、彼の言う通りガラス瓶の下部は三分の二ほどが砂で埋まっていた。
「ハァッ!!!」
 ブラオンは柱のアーチにぶら下がり、砂時計に蹴りを食らわせる。しかし硝子にはひび一つ入らず、砂の零れる速度にも変化は見られなかった。普通の硝子にしか見えないのに尋常な硬さではない。
 まるで処刑台のようだと改めて身震いした。あの砂が落ち切ったとき己の人生も終わるだなんて、訪れていい未来だと思えなかった。
 無情に時間だけが過ぎていく。ブラオンの技は明らかに精度が落ちていた。日差しはこんなに強いのに、脇に染みる汗は冷たい。
「君も手伝ってくれ! もう時間がない!!」
 砂時計を壊したからと言って、この状況から逃れられる保証があるわけではなかった。だが今は他に何の寄る辺もなく、誰かの命を奪ってでも生き延びたいという欲求も持てなかった。
 わかったと叫んでツレットは真新しい剣を取る。鞘を放り、砂時計の柱に近づき思い切り剣を振り上げたときだった。悲劇が起きたのは。
「うあッ!!!」
 短い悲鳴に顔を上げると仰け反ったブラオンが目を庇う姿が視界に映った。太陽光が剣に反射して網膜を焼いたのだ。だがツレットがその事実を理解したのは、バランスを崩した対戦者が硝子の器に掴まり損ねて転落してきた後だった。
 ――なんらかの悪意が働いていたのだと信じたい。
 重なり合って倒れた男の背中から赤く濡れた刃が突き出していた。熱い硝子に直接触れた彼の手は真っ赤に焼け爛れていた。
 大丈夫か、しっかりしろと言いたいのに声は呻きにしかならない。呼吸が弱って完全に止まると光が彼を覆い尽くした。
 やめろよ。やめろ。入って来るな。
 殺したなんて嘘だ。


「ああ、君たちの試合も終わったようだね」


 無慈悲な声が勝手に舞台の幕を閉じる。
 館の広間に戻ったとき、ツレットはブラオンのダガーを握り締め、血塗れの剣と弓の間で蹲っていた。






 ******






 かなり少なくなったなと賢者が呟いた。他人事であるのがありありと感じられる淡白さで。
 百人が五十人に、五十人が二十五人に減ったのだ。少なく思えて当然だった。
 ツレットには最早ホールを見渡す気力さえ持てなかった。どうにでもしてくれと項垂れるしかできなかった。罪のない者を二人も殺して、この先安穏と暮らしていけるほど恥知らずにはなれない。
「さて、それでは三戦目に突入しようか。二十五人だから一人余りが出てしまうな。ふむ、どうしたものか」
 思案顔で賢者はベルを掲げる。飽和した頭ではそれを認識するのがやっとだった。このまま全ての感覚が麻痺して、思考も放棄してしまえれば、少しは楽になれるのだろうか。

「ちょお待て。ストップや、ストップ」

 賢者を制止する声が響いたのは鐘の鳴らされる直前のことだった。やや訛った聞き慣れぬ言葉がツレットの耳に入ってくる。声の主は、褐色肌に丸眼鏡という異国情緒溢れる出で立ちの男だった。おそらく三十路は越えているだろう。眼差しは強く、この状況でもまだ心が折れていないらしかった。
「なんだ? 君もあの娘のようになりたいのか?」
 ツインテールの槍使いを指差してヒルンゲシュピンストが脅す。賢者に意見し感情を奪われた少女はストライプシャツを返り血に染めていた。躊躇なく殺人に及んだことが容易く見て取れる。ある意味、彼女が一番幸せだったかもしれない。
「ちゃうって、ちょお休ませてくれて言うとんのや。こんなん頭がよう付いてかへんわ」
「おや、弱音を吐くとは感心しないな。勇者に相応しくない者から淘汰されるとまだ理解していないらしい」
「せやから弱音とかそんなんとちゃうて。何もかも急すぎるねん。三連戦は体力的にもきっついし」
「異なことを言う。体力なら『食事』で十分回復しているだろう? 怪我もきちんと治っているはずだ。君は心的外傷について訴えたいのかもしれないが、君たちがどう苦しもうと私の知ったことではないよ。休息を与える理由には値しないな」
「いやいや、けどやっぱし立て続けにこんな非人道的な試合は」
「しつこいな君も。勘違いしないように言っておいてやろうか? 私は勇者を選定する一族の末裔だ。私にとって勇者以外の生き物は塵芥ほどの価値もない。存在に意味が生まれるのは最後まで勝ち残ることのできた一人だけだよ。勇者に食われる餌でしかない君たちなど、気遣ってやるつもりは毛頭ないのさ」
 期待するだけ無駄だと言い切られ、訛り男は唇を噛んだ。それでもどうにか試合開始を先送りにしようと彼は食らいつく。このままでは本当に九十九人殺されてしまうから。
「……折角新しい力を手に入れても、使いこなせへんまま次戦うんは不毛やと思わへんか? そっちかてより強い勇者が欲しいはずや。猶予をくれたら俺らはそれぞれ技を磨く。意識ぶっ飛んだままの兄ちゃんもおるし、泣き出しとる女の子もおるし、今すぐには戦いにならへんやろ。頼むわ、三試合目は今度にしてくれ」
 女の子という言葉でツレットは我に返った。顔を上げ、暗いホールを一瞥し、愕然と目を瞠る。
 いない。ティーフェがどこにも。
 嗚咽は別の少女のものだった。血眼になって探しても妹は影も形も見当たらなかった。叫びかけたところで賢者が「いいだろう」と囁く。氷の微笑を唇に乗せて。
「確かに力を馴染ませる時間は必要だな。私が次のベルを鳴らすまで、館で好きに過ごすといい。訓練場も用意しておこう。……三試合目までには皆殺しの決意が固まっていることを願っているよ」
 交渉は成立したらしい。ひとまず賢者のペースを崩せたことに皆は安堵の息を漏らした。ツレット以外の皆は。
 広間からヒルンゲシュピンストが消え、同時に灯った蝋燭に周囲が明るく照らし出される。
 再度ティーフェの姿を探したが、切り揃えられた紺色の髪が揺れることは二度となかった。「お兄ちゃん!」といつもの声が響くことも。
(……嘘だ……)
 不在が示しているのは死だ。わかっていても認めたくなかった。認められなかった。まだとても、妹が殺されたなんて――。


「なんでお前がブラオンのダガーを持ってるんだ?」


 力を落とした肩を強く掴まれる。振り返ると金の三つ編みを振り乱した稽古着の男が立っていた。
 赤い目は怒りに燃えて、指先は小刻みに震えている。歯は唇を食い千切らんばかりだ。


「お前がブラオンを殺したのか?」


 質問にはすぐ答えられなかった。思わず取り落としたダガーが返答の全てだった。
 息つく間もなく胸ぐらを掴まれ引っ張り上げられる。首を絞められていると気づいたのは足が床を離れてからだった。
「何しとるんや! やめえって!! その子のせいとちゃうやろ!?」
 訛りの男が慌てて止めに入ってくれる。他にも何人かが「今は争ってる場合じゃないよ!」と弁護してくれた。
 ほとんど引き剥がされる形でツレットは床に投げ出された。ウーゾと呼ばれていた青年は、羽交い絞めにされてもまだツレットとショートソードを睨みつけていた。彼が自分に選んでくれた一振りを。
「とにかく今は落ち着けて! この館脱出する方法考えるんが先決や!!」
 真正面から怒鳴りつけられ、ウーゾも暴れるのはやめたようだ。食いしばられた歯と滴り落ちた雫に目を奪われる。
 時間が止まって感じられた。頭の中はずっと真っ白のままだった。悲しいとか苦しいとか考え始めたら、息もできなくなりそうだった。
 場にそぐわぬ高笑いが響いたのはそのときだ。
「あらあら! 館を脱出するですって? そんな抵抗、徒労に終わるに決まっていますのに。あの方の魔術は完全、たとえ誰であれ逆らえやしませんわ!」
 艶やかな髪をなびかせた女が口角を上げる。広場にいた補佐官が、今は年代物のドレスに紺のケープを纏ってホールに立っていた。館にいるのは試験官であるヒルンゲシュピンストと候補者だけのはずである。まさか彼女も勇者候補の一人だと言うのだろうか。
「なんやジブン? なんか知っとんのか?」
「知っているも何も、私はあの偉大な方の下僕ですもの。あなた方が知らないようなことも当然承知しておりますわ」
「下僕ゥ!? ちゅーことは、なんや、最初から試験の内容わかってて参加しよったんか!?」
 女はただちに取り囲まれ、質問攻めにされた。王は何故こんな蛮行を許したのか、契約を取り消す方法はないのか、ヒルンゲシュピンストは何者なのか、矢継ぎ早に数人が尋ねる。
「私、あの方がいかに優れた魔導師であるか以外、語るつもりはございませんの。でもそうですわね、私の名前くらいは教えて差し上げましょうか。私はレーレ・モーントシャイン、どうせすぐお別れになるでしょうけど、どうぞお見知りおきを」
 優雅なお辞儀を披露してレーレはくるりと踵を返した。待てと止める声も聞かず、彼女は勝手知ったる様子で広間の扉を開け放つ。 玄関ホールには地下へ続く階段と二階へ続く階段があった。取りつけられた窓からはさんさんと陽光が注いでいる。
「契約のけの字も知らない愚か者の皆さん。ここは間抜けな民衆でも保護してもらえる皆さんの祖国とは別の世界と知ることですわね。騙された、騙されたと被害者ぶるしかできないようでは呆気なく殺されますわよ? だって、馬鹿に生きる価値なんてありませんもの!」
 挑発的な哄笑を残し、レーレは階段を上がって消えた。残された面々は顔を見合わせ眉根を寄せた。
「……とりあえず、彼女のことは気にしないでおこう。僕たち皆で結託しなくちゃ。これ以上人が死ぬ前に、なんとかここを出て行くんだ」
 改めて訴えかけたのは黒いローブを引き摺った小柄な少年だった。前髪が目の下まで垂れていて顔立ちははっきりしないが、ツレットより幾分幼そうである。少年はファッハマンと名乗った。普段は王都で呪術研究をしている魔術師だそうだ。
「あのヒルンゲシュピンストという賢者、幻術や空間構築の高度さからして相当な使い手だよ。力を合わせなきゃ僕らじゃ太刀打ちできない。ひとまず名前と、どんな特技を持ってるかだけでいいから、簡単に自己紹介を――」
「脱出と言うが、出て行く必要などあるのかね?」
 ファッハマンの台詞にまた別の声が被さる。今度は濃いグリーンの髪をオールバックにした青年貴族がニヤニヤ口元を歪めていた。
「ああ失敬、私はラツィオナール・フォン・フラハという者だ。私にとっては願ってもない試験でねえ。まさかこんなに手っ取り早く強くなれる方法があるとは知らず、感動しているところなんだよ」
 誰かがぽそり、「刃狂いラツィオナールだ」と呟いた。その通り名ならツレットも行商人から聞きかじったことがある。古今東西の武器を収集しては、切れ味を浮浪者で試していると噂される生きた都市伝説だ。
 生で見るラツィオナールは嫌な雰囲気の男だった。彼もまたレーレや賢者と同じく他人を軽んじていた。失われた命は二度と元には戻らないのに。
「二人も殺しておいて感動だ? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、てめえ」
 青年貴族を睨みつけ、ウーゾがずいと彼に迫る。対するラツィオナールは向けられた怒りを鼻で笑い飛ばした。
「既にそれ以上殺している人間もここには複数紛れていると思うがね。薄汚い賞金稼ぎに裏町育ちの元曲芸師、収容施設から逃げてきたような木偶の坊までいるではないか。どれほどの罪悪感があるものか、甚だ疑問だよ」
 ホールの空気はたちまち凍りついた。疑心暗鬼に陥った目が不安げに見つめ合う。出会ってすぐの人間を殺すより、出会ってすぐの人間を信じる方が難しいと言うように。
「まあ、ともかく私はほんの二人屠っただけで飛躍的に伸びた力に満足しているんだ。脱出だのなんだのは私抜きでやってくれたまえ」
 男にしては長い髪を翻し、ラツィオナールはレーレに倣って階段を上って行った。
 こうなるとすぐに仕切り直しとはいかなかった。賢者の館から逃げようと提案するファッハマンに非協力的な候補者は、先の二人に留まらなかったのだ。
「おいらも、べ、別に、いいかな。人を殺してもいいって、王様ァ、言ってるんだろ? てことは、何人殺しても、おいらが牢屋に入れられるこた、ないんだろ? へへ、つ、次も、女の子と当たるといいなあ」
 薄気味悪い巨漢がフラフラ上半身を揺らす。レーレやラツィオナールとはまた違う嫌悪感を催させる男だった。親指をしゃぶりながら、男は嬉しそうに候補者たちを見渡した。
「一、二、三、……あれえ、意外と、す、少ねえや。さ、さっきのレーレって子を合わせて、女の子、四人ぽっちかあ」
 品定めする不埒な目つきに何人かが露骨に眉をしかめる。しかし巨漢は気にした風もなく「や、館の探検に、いーこう、っと」と広間を立ち去った。
 更にそこからツインテールの少女も退場しようとする。相変わらず彼女の表情は凍てついたままだった。
「クノスペ、待ってくれ! クノスペ、僕がわからないのか!?」
 と、悲痛な叫びがホールに響き渡った。人形と化した少女を引き留めようとして、振り払われて転んだ男がわっと泣き崩れた。
 そばかす顔と鳶色の髪がそっくりだった。兄妹なのだと思い至り、ツレットの胸が急にずきずき痛み始める。
「誰かあいつを正気に戻す方法を教えてくれ!! 妹なんだよ、助けたいんだ!! 誰か、頼むからあの変な魔法を解いてくれよ!!」
 生きているだけいいじゃないか、なんて言えはしなかった。それでも生きてくれているだけで、なんて。
 誰がティーフェを殺したのか、どうやって殺したのか、真っ白だった思考はどす黒く濁り出している。
 許せないと念じる相手は違うはずだ。わかっていても悲憤は抑えられなかった。
「しっかりして。僕は呪いの専門家だ。できるだけ協力する。まずあなたが冷静にならないと、妹さんを助けてあげられないよ」
 落ち着いた声音にツレットは薄く目を開いた。眼前で、ファッハマンがそばかすの青年を支え起こしてやっていた。
 何人抜けても彼は団結を諦めていないらしい。よくぞそうして踏ん張っていられる。自分はまだ身を起こしているのがやっとなのに。
「皆も聞いてほしい。あの賢者は僕らを呪いの材料にしようとしている。蠱毒という術があってね、今の状況ととてもよく似てるんだ。百匹の毒虫を集めて一つの壺に封じ、共食いをさせると、生き残った一匹には強い力が宿ると言われている。ヒルンゲシュピンストは多分、魔王を呪い殺す気なんだよ。人間を、勇者を呪いの依代に使うつもりなんだ」
 ざわ、とホールに動揺が走った。ファッハマンはできるだけ平静に彼の発見を伝えようとしてくれていた。それでも呪いという言葉の不吉な響きは消し切れていなかったけれど。
「でもこの呪法はとっくの昔に廃れたはずだ。賢者の魔法も、僕らが扱う魔法とは全く別物に思える。第一あの若々しい外見から考えて、不自然なほど魔力が高い。ヒルンゲシュピンストは、もしかして精霊と契約しているんじゃないかな? 地上から精霊が消えて数百年は経っているから、とんでもない不老長寿ということになるけど、僕にはそうとしか……」
 魔法のことはツレットにはよくわからない。一般常識として、魔法使い独自の師弟制度があり、素養を持つ者だけが入門できると知っている程度だ。精霊だの不老長寿だのの言葉に反応したのも知識人らしき何人かだけだった。
「とにかく気を落とさないで。賢者の術が本当に蠱毒なら、力を合わせて呪いを術者に返すことができるかもしれない。自暴自棄にならないでほしいんだ。僕たちは手を取り合わなきゃ。心を強く持って、希望を失くさないように……」
 ファッハマンの言葉は深淵の暗闇に浮かぶ灯火のようだった。けれど今のツレットに、その光を有り難がる気は起きなかった。だってもう、取り返しのつかないことが起きてしまった後なのだから。

「心を強く持つって……、希望を失くさないようにって、どうやるんだよ?」

 気がつけばそう吐き捨てていた。一度堰を切ってしまったら、溢れ出る感情を押し留めることはできなかった。
 魔物だと思い込んで射殺した魔法使いの遺体を思い出す。ブラオンの狼狽した顔を、ティーフェとの軽口を思い出す。貧しくとも幸せだったこれまでの人生を。
「二人も手にかけた。一緒に来た妹も、探してるのに見つからない。なのにどうやって希望なんか持てるんだ? 俺が、俺が志願の手紙なんか出さなけりゃ……っ」
 崩れ落ちるように屈み込む。暴れ狂う怒りと悲しみを持て余し、ツレットは床を殴りつけた。
 ファッハマンは何も言えずにこちらを見ている。他の候補者たちも沈黙のまま遠巻きにしていた。
「なんでいないんだよ!? 誰がティーフェを殺したんだ!? 誰があぁぁっ!!!!」
 絶叫するツレットの傍らに訛り男が嘆息しながら膝をつく。「んなもん決まっとるやろ、あの賢者や」と諭されてハッと息を飲み込んだ。
「下手人探しは不毛なだけや、もうやめとき。外からの助けが期待できん以上、ここにおる皆でこの事態なんとかせなあかんのや。辛いのも悔しいのもわかるけど、今は置いといてんか」
「……」
 知ろうとしない方がいいと男は言いたいのだろう。脱出が優先だ、生きている者の命に勝るものはない。ツレットにだってわかっている。それでもどうしようもなかった。涙が枯れたら本当にティーフェの存在が消えてしまう気がして。

「理屈じゃねえんだよ。あのヒルンゲシュピンストとかいうのが諸悪の根源だって明らかでも、俺はそいつと力を合わせようだなんてこれっぽっちも思えねえ」

 広間にウーゾの低い声が響いた。冷たい双眸と目が合うと、彼はくるりと背を向ける。いつの間に拾い上げたのか、その手にはブラオンのダガーが握られていた。
「こらこら、ジブンどこ行くねん!! 今から作戦会議するのに参加せえへんつもりなんか!?」
「仲間の仇と馴れ合うくらいなら一人の方がましだ」
「〜〜っ!!」
 階段を上る足音は次第に遠ざかって行った。敢えて孤立を選んだウーゾにファッハマンは力なく肩を落とす。
「……ここを出る相談の前に、心を休ませた方がいいかもしれないね、皆」
「せやなあ。どっちみち出られるところがあるかないかは探索せなあかんやろし、一通り見て回ったらもっぺんこのホールに戻ってくることにして解散しよか」
「それじゃ僕、先に地下へ回ってみるよ。付いてきたい人は付いてきて」
 引率を買って出たファッハマンに候補者の大半がぞろぞろくっついて出て行くと、ホールにはツレットと数人だけが残された。訛り言葉を話す男と、ずっと泣きじゃくっている女の子、それを慰める女戦士、――そして。

「……立てるか?」

 子供時代を再現するように竜殺しが大きな手を差し伸べてくる。
 どうしたのお兄ちゃん、と耳の奥でティーフェの声がこだました。助けてもらったお礼を言うんじゃなかったの、と。
 ありがとうなんて言葉が声になるはずなかった。生き延びてしまった自分を責める言葉ならともかく。
 かぶりを振ったツレットの腕を掴んで無理矢理引き起こし、バイトラートは顎で広間の床を示した。
「遺品があるだろ。探してやれよ」
 言われて濡れた目元を拭う。格子模様のフロアには様々な武器が置き去りにされていた。メイスにナイフ、レイピアに手槍、弓も一つきりではない。
 ティーフェが手入れを欠かさなかった狩猟用の長弓はきちんと弦が張られたまま矢筒と一緒に転がっていた。こびりついた血痕にツレットは嗚咽を繰り返す。
 叶うなら時間を巻き戻してほしかった。何もかも悪い夢だと思いたかった。
 手に残る人を刺した感触も、まだ酷く生々しい。







(20140430)