第二話 大いなる損失 後編






 聖歌隊の合唱が大聖堂の天井まで高らかに響き渡る。国家の繁栄を願い、勇者を讃える武勲詩が。
 ステンドグラスは日光を受けきらきらと眩しく、祭壇前に立つ若いふたりを一層輝かせた。
 アラインとイヴォンヌは手を取り合い、司教の聖句に耳を傾けている。薄紫の法衣を纏ったクラウディアが、聖典に記された愛についての一篇を、新しい夫妻に語り聞かせている。
 堂々と大役を果たす恋人の姿を見ているだけで胸が震えるのか、ディアマントの右隣ではさっきからエーデルの鼻を啜る音が止まなかった。持ってきていたハンカチをどぼどぼに濡らして挙式を見守っているので、ついコートの袖を差し出してしまう。
「……それはもう使いものにならんだろう。いいから拭け」
「うっ、うっ、あ、ありがと……。ふ、ふたりとも素敵で、クラウディアがあんなところにいるからあたし……っ」
 号泣している言い訳を挙げ連ねながらエーデルは涙を拭った。先程から他の参列者にチラチラ見られているのを気にする余裕もないようだ。
 細かな刺繍の施された純白のドレスに身を包む王女は確かに麗しいし、同じく白を基調とした婚礼衣装のアラインも普段より凛々しく見えるけれど、そんなに泣くほどのものだろうか。
 兵士の国の連中が並んでいる一角をチラリと覗くとそちらはそちらでウェヌスが頬に滝を拵えている。あの妹は兄を差し置いて己の婚礼を済ませてしまっているというのに。
 ディアマントはふうと嘆息した。女とは結婚式で大泣きする生き物らしい。
「それでは誓いの口づけを」
 呆れているうちに祈りの言葉は終いとなり、ふたりが誓いを立てる段になった。礼拝堂を埋め尽くす参列者に見守られながら、アラインは生涯の伴侶と決めた女と唇を重ねる。
 瞬間、怒涛のような拍手喝采が湧き起こった。
 皆に手を振り返しつつ、何度も互いを見やっては微笑み合うアラインとイヴォンヌに、ディアマントの口元もいつしかほんのり和らいでいた。
 誰かの人生の門出を祝うのも悪くはない。己がこんな場に立つことは一生なかろうが。
 つつがなく結婚式が終わると今度は祭壇にシャインバール二十三世が現れ、戴冠の儀の開始を告げた。クラウディアが祈祷を始め、聖堂内は再び厳かな沈黙に包まれる。
 アラインはオリハルコンの盾を掲げ、祭壇に捧げた。これからはあの盾が王の証となるそうだ。
 無防備に背中を晒す新王から視線を外し、ディアマントは目を窄め、最前列のヴィーダを睨んだ。
 この衆人環視の元、祭壇にクラウディアもいる状況では迂闊に手が出せないはずだ。だが油断は禁物である。ノーティッツの話によると、アペティートでは銃と呼ばれる小型の弾丸発射装置が開発されていて、それは極めて殺傷能力の高い武器だと言う。そういう得物をあの男が隠していないとも限らない。
「ううっ、アライン本当に王様になるのねぇ……!」
 ぐすぐすとまだ泣き止む気配のないエーデルに多少緊迫感を殺がれつつ、ディアマントは視線を戻した。
 祈りを終えたクラウディアがオリハルコンに聖水を振りかけ、跪いたアラインの髪と両手にも同じまじないを施す。勇者の肩にはイヴォンヌの手で紅いビロードの外套がかけられ、神鳥の盾も再び彼の手に授けられた。代々の国王が受け継いできた杖や指輪も正式にアラインのものとなった。
 最後にシャインバール二十三世が歩み寄り、黄金の冠をかぶせる。後は任せたと言うように旧い王が瞼を伏せるとアラインは力強く頷き立ち上がった。
 わだかまりはもう彼の中には存在しない。ただ勇者と呼ばれる者でありたいという強い思いだけを、今日のアラインからは感じた。
 締め括りに祭壇の両脇から兵士の国と辺境の国の王が出てきてそれぞれ祝辞を述べる。
 国王となったことを宣言したアラインをまた大きな拍手と歓声が包んだ。
 エーデルも、クラウディアも、ウェヌスも、ベルクも、ノーティッツも、彼と関わった人間は皆本当に嬉しそうに祝福と賛辞を送っている。取り分け誇らしそうだったのは礼拝堂の片隅から勇者を見守るマハトだった。独り立ちして手を離れた我が子にやや淋しさを禁じ得ないといった表情で。
(従者ではあるが、兄か父のようだとも言っていたな……)
 思い出に浸るのは得意でない。
 もしいつかもう一度会うことがあったなら、そのときは己の姿を見せて恥じないようにと願うだけだ。






 結婚式と戴冠式の成功、そして「新国王万歳!」という都中に轟く民の声にツヴァングは目が潤むのを抑えられなかった。この歴史的瞬間に立ち会えた幸福を世界中に感謝したいくらいだ。
 アラインとイヴォンヌを乗せた屋根なしの四頭馬車はごくゆっくりと街を巡り始めた。二羽の神鳥が踊るように彼らの後ろをついて飛ぶ。予定ではこの馬車で都を巡回した後、王城へ入ることになっていた。
 所狭しと通りに並んだ民衆がふたりの姿をひと目見ようと押しのけ合う。花びらが舞い、紙吹雪がダンスし、教会という教会が鐘を鳴らした。楽器隊のファンファーレがパレードに華を添える。
「アライン様は……! きっと歴代の王の中で最も素晴らしい王となられるに違いない……!」
 感動に拳を震わせるツヴァングの隣でヴィーダも「そうだね」とにこにこ相槌を打ってくれた。
 今日はアラインの言いつけ通り、朝からずっとアペティート第三皇子のエスコートに従事していた。
「式もお披露目行進もこんなに立派で、本当にすごいな。これから一晩お祭り騒ぎなんだろう?」
「給仕に料理人、屋台を出す商売人たちは大忙しです。それから警備に回る兵士たちも」
「うんうん、本当にアラインはぬかりないね。ぼくならこんな日は警備兵にも無礼講を言い渡しちゃうよ」
「兵士は皆アライン様と共に祖国を守る任務に誇りを持っておりますので! それはどんな日であろうと変わりありません!」
 兵士長であるマハトの忠義な精神が王国兵には隅々まで浸透している。その証拠に今日という日くらい国民と一緒になって騒ぎたいなどと言い出す馬鹿は誰ひとりいなかった。どこにも人が溢れ返っているし、酒の入る者も多いので、寧ろいつもより厳重に見回ってくれとアライン直々のお達しもあった。あの方は常に王国全体に目を配っていて少しの危機も見逃さない。勇者の都の守りはいつだって万全なのだ。
「うーん、それにしても本当にすごい人数が集まってきてるなあ。ぼく、人酔いしてしまったのかもしれない。なんだか気分が悪くなってきたよ」
「え!? そ、それはいけませんね。小さいですが近くに教会があります。そこで少しお休みになられますか?」
 額を抑え俯くヴィーダを覗き込むと、確かになんだか顔色が冴えない気がする。来賓とはいえ朝から立ったり座ったり大変だったろう。大したことがなければいいが、心配だ。
 そんなツヴァングの様子を見てヴィーダはすぐに顔を上げ、大丈夫だよと微笑んだ。
「お気遣いありがとうツヴァング君。だけど祝賀の宴で堂々と席を外すわけにいかないから、できればこっそり案内してもらえないかな?」
 異国の皇子はアラインのため、そんな細やかな心配りまでしてくれたらしい。なるほど病人や怪我人が出れば今の雰囲気に水を差すことになってしまう。それが国賓とあらば尚更だろう。
「教会へ行けば光魔法の修練者がいます。そこまでご辛抱を願いますね」
 周囲に聞き咎められないよう小さな声で囁くと、ヴィーダはにこりと頷いた。ああ、己ももっと思慮深い人間にならなくては。
 警備兵のひとりを捕まえ通行止めになっている裏道にヴィーダを連れ出す手筈を整えると、ツヴァングはマントの下で小さく親指を立てた。






 いくら守りが固くとも所詮はお人好しの国だ。個人レベルの交渉なら、弱ったふりや困ったふりさえすればどうとでも手玉に取れる。それがこの二年の間でヴィーダが学んだことだった。
 教会奥の一室で寝台に横になりながらヴィーダはちょいちょいとツヴァングを呼んだ。実務能力には長けているが、まだ人の裏を知らない若者。こちらに懐いていることもわかっている。
「実はお願いがあるんだ」
 ヴィーダが懐から書状を取り出すとツヴァングは目を丸くした。飾りや縁の黄金でそれが祝い状であるのはすぐに判別できただろう。が、祝いの類は現時点ですべて王城に集まっていることになっていた。
「も、もしや渡しそびれておられたのですか?」
「姫君のドレスに見とれていたらうっかりね……。ぼくひとりが恥をかけば済む話ならいいのだけど、これはうちの兄たちの分なんだ。……君ならそうっと紛れ込ませて来れるだろう? 申し訳ないのだけど、頼めないかな」
 真剣な眼差しを作ってツヴァングの手をぎゅっと握る。若き宮廷人の顔には困ったぞと書いてあった。彼がアラインから受けた指令はヴィーダの側にぴったりくっついてフォローすることだそうなので、片時でも離れて良いものか悩ましげだ。
 この青年がヴィーダを訝っていないのは幸いだった。気性の真っ直ぐさゆえだろう、アラインが何も吹き込んでいないのは。あの兵士長を隣に据えられていたらこんな手は使えなかった。アペティートを良く思っていない重臣たちも、今日ばかりは自分の任務に忙殺されているのだ。
「君が戻るまでぼくはここで大人しく僧侶の看病を受けているし、ほら、外にはさっきの警備兵もついててくれる。大丈夫さ」
 一生のお願いだよと平身低頭頼み込めばツヴァングは驚いて「そんなことはなさらないでください!!」と叫ぶ。
「もし兄たちのプライドを傷つけるようなことになったら、この国との関係は……! そうなったらぼくの責任だ……!」
「わ、わ、わかりました。行ってきます。行ってきますので顔を上げてくださいヴィーダ様!」
「本当かい!?」
 パッとヴィーダが見上げると、ツヴァングは仕方ないと言うように渋々頷いてみせた。扱いやすい男で良かった、本当に。
「その代わり、ご気分が優れないのですからちゃんとここで休んでおいてくださいよ」
「ああ、その返事を聞いてほっとした。そうしたら長兄の分と次兄の分、あわせて二通お願いするね」
「急いで行ってすぐ戻ってまいります。回復されたら城の中庭で舞とディナーが待っていますから」
「うん、楽しみだ」
 ツヴァングは大通りから攫ってきた警備兵にヴィーダをしっかり休ませるようくどくど言い聞かせた後、あっさり教会を出て行った。
 さて、とヴィーダは起き上がる。幸いにしてここの僧侶も大半が出払っているらしい。術の心得のある人間が戻ってこないうちに、さっさと出て行ってしまわねば。
「……ねえ、警備のお兄さん。ちょっといいかい?」
「はい?」
 間延びした返事が扉の向こうから届く。ヴィーダは声を潜めると「誰にも内緒で屋敷に忘れ物を取りに帰りたいんだ」と囁いた。
「えっ? 今ツヴァング様に預けられたのがそのお忘れ物なんじゃ?」
「違うんだよ。他にも大切な品がひとつ昨日届いていたのを忘れてたんだ。もう本当にうっかりだよ。ぼくはなんて駄目な男なんだろう」
 落ち込んだ声音を作れば身分などないに等しい警備兵は大焦りで慰めてくれる。これはツヴァング以上に騙しやすそうだった。
「こ、高貴な方でもうっかりすることくらいありますよ。アライン様なら少しお祝いが遅れたくらいでとやかく言うことは」
「アラインの懐が大きくても、こういうのはきちんと礼儀に従わなければいけないのが王侯貴族の世界なんだよ。これだけはどうしても誰にもばれずに取りに戻らなくちゃいけない。具合が悪いなんて嘘なんだ。あれを取りに戻りたくて使った方便なんだ。君、ここでぼくが寝入っているよう振る舞ってはくれないかい? ツヴァング君が向かった王城よりぼくの帰る屋敷の方がずっと近い。必ず彼より先に戻るから!」
「え、えええ!?」
 とびきり情けない声で「頼むよ、頼むから……!!」と泣き落とせば兵士は拍子抜けするくらいあっさり落ちてくれた。金貨を数枚渡してやろうとしたら逆に断られたくらいだ。
「お偉い方にはお偉い方の事情があるんだとお察ししますが……俺も職を失くしたくはないんで、お早くなさってくださいね」



 本当になんて国なんだろう。
 これだけ穴だらけなのに何故二年かかってもその一角すら崩せなかったのか解せない。
 教会の箪笥から勝手に拝借した麻のローブを頭から羽織り、人のいない細道を選んでヴィーダは急ぐ。
 この三日月大陸は慢性的に魔物の攻撃に悩まされてきたらしいが、勇者の国には大した外敵はいないと言う。何百年と戦争に無縁で、平和ぼけした人間ばかりなのも納得だ。
 皆不必要なほど優しくて、親切で、どうせならこんな国に生まれたかったと何度思ったか知れない。
 けれど生まれ落ちる場所など選べはしないのだ。アペティートの皇子として生まれた自分は、結局まだそれ以外の何者にもなれていない。
(クライス……!)
 脳裏に浮かぶのはいつも感情を押し殺している銀髪の恋人。
 彼女のためならこの両手が血に塗れても構わない。そう誓ってここへ来た。
(ぼくらは自由を手に入れるんだ。今度こそ自由を――)
 屋敷の裏庭からそろりと踏み入れ何度も通った玄関に忍び寄る。
 使用人たちは門のところに集まって結婚パレードの通過を今か今かと待ち構えているようだった。中はがらんとして誰もいない。
 オリハルコンか魔道具だ。アラインを仕留められる武器ならどちらでもいい。
 足音を立てないようにヴィーダは静かに屋内を進む。
 地下倉庫があるらしいのは古い間取りを見たときに知った。今はただ使わなくなって埋めてしまっただけかもしれない。そう思うのに、そこへ降りるための手段を探さずにいられなかった。
 この屋敷には何かが隠されているのだ。
 勘違いではない。だってこんなにも心がざわめく。
 クライスに出会って恋に落ちたときと同じよう、無視しようと思っても無視できない。

「――……」

 突き当たりの階段まで来てヴィーダはそこに立ち尽くした。
 目を凝らさねばわからないが、肖像画から赤い光が漏れている。
 どきんと心臓が跳ね上がった。

(なんだこれ?)

 赤い光はすうっとこちらまで伸びてきてヴィーダの右腕に絡みつく。
 グイと引っ張られたかと思うと、足が勝手に動き出した。
 呼ばれている。
 あの奥に封じられたものに。

(なんだこれ……?)

 涙が溢れる。光の正体もわからないのに、ただ切なくて。
 けれど初めて見る色ではなかった。
 血溜まりと同じ毒々しい赤。夜よりも暗い闇。
 すべての終わりを予感させる――。

「……ッ!!!」

 急に空気の色が濃くなり光が肖像画を吹き飛ばした。頭を庇った両腕を降ろせば視界には地下へと続く螺旋階段が現れる。
 オリハルコンか魔道具。目的を思い出すためぽつり呟く。
 だがもうこのとき己が何を見つけてしまうかわかっていたような気がする。
 暗褐色の風が頬を撫でヴィーダにおかえりと言っていた。
 階段を降り切ると巨大なオリハルコンの原石がぐらぐら傾き始めていた。
 その根元には、赤く、黒く、明滅する魔法。

「あ……」

 聖石に手を伸ばす。
 指先が表面に触れると、触れた個所からパキパキとひびが入った。まるで氷が割れるように。


















 耳をつんざく轟音が鳴り響き、火柱に似た赤い光が噴き上がったのはまだ白昼のことだった。
 道端の酔っ払いが酔いの覚めた目でぽかんと空を見上げる。青く澄んだ空は一瞬で赤と黒に染まっていた。
 一体何が起きたのか、俄かには判断できなかった。ただ危険を知らせるようアラインの左腕でオリハルコンが輝き出す。
 馬車から飛び降りベルクとエーデルを探すとふたりは即座に人混みを掻き分けこちらまで駆けつけてきた。ベルクの剣も、エーデルのアンクレットも、同じように白い光を灯らせている。
「……どういうこった?」
「ねえアライン、あの火柱が出たところ、お屋敷の近くじゃない?」
 不安げなエーデルの声にアラインはハッとして風を纏う。上空から確かめると、エーデルの言った通りアラインの屋敷付近の一帯が特に赤黒く塗り潰されていた。
「ちょっと様子を――」
 台詞は最後まで言えなかった。先程よりも激しい地鳴りが都を駆け廻ったのだ。
「きゃあ!!」
「危ない、建物から離れて!!」
 突風を起こして崩落物の着地点を変えるとアラインはまず馬が暴れないよう浅い眠りの呪文を唱えた。兵士たちに民衆を都の外へ退避させるよう指示を与え、近くにいたシャインバールに「一時的にお任せしても?」と念を押す。
「転移魔法で移動する! クラウディアたちもこっちに!」
 道に降りて呼びかければノーティッツやウェヌス、ディアマントも既に駆けつけていた。更にそこにイヴォンヌも混ざって「あなたが行くなら私もまいります。私たちはもう夫婦の誓いを立てたのですから」などといじらしいことを言ってくる。
 肌に触れる空気の感じが置いて行っても同じことだと嘲笑うようだった。正体不明の瘴気はどんどん濃度を高くしている。であれば残る残らないの問答をするだけ時間の無駄か。
「わかった。でも絶対に僕から離れないで」
 イヴォンヌが頷くと同時、アラインは転移魔法を発動した。



 見下ろした光景は異常だった。
 アラインの屋敷は屋根が飛び、床が抜け、外壁だけが取り残されていた。
 使用人たちは門外に出ていて事なきを得たらしい。不幸中の幸いにほっと安堵する。
 ヴィーダに爆弾でも仕掛けられたのかと思ったが、物理的な攻撃でないことはすぐ知れた。
 地下にあったはずのオリハルコンがどこにもない。というか、そのオリハルコンのあった場所から瘴気が噴出しているのだ。
「おいおい……冥界の出口開いてんじゃねえの……?」
 ベルクは冗談だろうと言いたげだった。
 本当に、悪い冗談か夢であってほしい。我知らずゴクリと喉が鳴る。
「危ないですわ!!」
 ウェヌスの叫びにアラインとノーティッツは間髪入れず風魔法を唱えた。
 凄まじい爆風が屋敷の残ったパーツをすべて吹き飛ばす。渦を巻く風に紛れて壁や家財の一部が飛んできて、全員下がらざるを得なかった。
「なんであんなことになってるの? 誰かオリハルコンにお祈りした?」
 エーデルの問いにアラインとベルクは同時に首を振る。まったく身に覚えがない。一応クラウディアにも目配せしたが、彼にも予測がつかないようだった。
「ともかくこのままじゃ危険すぎる。皆には避難してもらって僕らで対策を練るしか……」
 キョロキョロと空から周囲を見渡すと兵を引き連れたマハトの姿が見えた。イヴォンヌを抱きかかえたままアラインは戦士の前に降り立つ。
「アライン様!」
「マハト、地下のオリハルコンが見当たらなくなってる。都は危険だ。兵士たちに誘導させて、全員安全なところまで頼む」
「オリハルコンが!? ……わかりました、ともかく避難っすね。イヴォンヌ様は?」
「私はアラインと最後に出ます」
「……だそうだよ。それじゃ任せたから」
 一刻も早くオリハルコンを見つけ出し封印を元に戻さなければ。
 戴冠式で使った王冠だけマハトに投げ渡すとアラインは再び風を纏って飛ぼうとした。
「アライン様!!」
 だがそれを引き止める声が響く。振り返ればツヴァングが青い顔で震えていた。
「す、すみません。ヴィーダ様がどこにも……!」
「ヴィーダが?」
 一瞬何か閃きそうだったのに、三度目の轟音が思考を強制遮断した。
 鼓膜が破れそうなほどビリビリと震えている。
 黒煙に混じって瘴気はその本体を現し始めた。
 ぼこり、土の捲れる音がした。






 勇者の旅に同行していないイヴォンヌにさえ、それが非常に強く凶悪な魔法であることは理解できた。
 アラインの屋敷があった場所は瓦礫と剥き出しの土の山と化している。砂埃の舞い立つ向こうで赤黒い球体の一部が光っていた。
 球体だと思ったのはその表面が丸く滑らかだったからだ。それは卵のようにも雪玉のようにも見えた。イヴォンヌの知るそれらとは、まったく異なる毒々しい色であったにもかかわらず。

「解けてるの、冥界の方の封印じゃなくない……?」

 ぼそりと呟いたのは兵士の国の魔法使いだ。アペティートの手から勇者の国を守るべくアラインに協力してくれている心強い味方。夫も彼の頭脳を誉めちぎっていた。ノーティッツの言うことはよく当たるんだと。

「あれ、あの色とあの形……、オーバストさんが言ってた破滅の魔法なんじゃ――」

 また強い旋風が一帯を駆け抜けた。
 光の球を中心に、魔法を地上へ押し上げるように。
 衝撃と共に足元が揺れ、大地が裂ける。長らくなかった震度の地震だ。
 民衆の混乱を示す怒号と悲鳴がこちらまで響いてくる。兵士が必死に呼びかけている。
 こんなもの一体どうすればいいのだろう。神様にまで勝った人たちなのに、呆然としたまま誰も動けないでいる。
 魔法の塊は既に半分ほどが浮かび上がっていた。あれが全部出てきてしまったらどうなるのか、とても恐ろしくて考えられない。
 思わずギュッとアラインの腕を掴むが夫の眼差しはこちらを向かなかった。勇者は赤と黒の空を見上げて瞠目していた。

「オリハルコンだ……」

 翼を広げて空から事態を見守る者、地に立ち尽くして見守る者、どちらも同じ絶望に近い表情だった。
 破滅の魔法の真上に浮かんだ聖なる石は深く傷つけられていた。
 その傷口から光が漏れ出し、あっと思う間もなくオリハルコンは三つに砕けてしまう。

「――!!!!」

 仰け反るほどの衝撃波が周囲の建物を破壊した。
 怪我人はなかったようだ。アラインが咄嗟の判断で広域の結界を出現させていた。
「おいおいおいおい……」
 兵士の国の勇者が頬を引き攣らせる。同じように魔法使いも。
 風がやんだ後、砕けたオリハルコンはもうどこにも残っていなかった。ただ先程よりも禍々しい光が活発に輝き出しただけだった。
 何の解決策も示すことのできない自分をアラインがそっと地上に下ろす。
 恐る恐る夫の顔を見上げれば、困ったように笑っていた。
「破滅の魔法かあ……。また予想外の方向から来たなあ」
「笑ってる場合じゃねーぞアライン。この剣で叩っ斬れると思うか?」
「うーん、やめといた方がいいと思う」
 剣を構えるベルクとは対照的に、アラインは両手に嵌めていた手袋を投げ捨てる。さっき薬指に収まったばかりのリングに口づけ、五芒星と盾を重ねて。
「とりあえずここは僕が抑えるよ。オリハルコンがどこに行ったかわからないけど、ベルクなら見つけられるよね?」
「抑えるってお前――」
 アラインはにこりと笑顔でベルクを黙らせると、次いでイヴォンヌに向き直った。いかにも勇者然とした、彼らしい表情で。
「結婚式の直後にごめん。でも必ず帰ってくるから」
 何をするつもりなのか問うこともできなかった。
 アラインはオリハルコンの盾を変形させながら宙にふわりと舞い上がる。
 攻撃はやめた方がいいと自分で言ったはずなのに。

「いけません、アライン!!!!」

 爆風が都を撫ぜた後、瓦礫は道という道を埋めた。美しい都は滅茶苦茶だった。
 だが空は、アラインと引き替えに元通りの青を取り戻していた。






 変わり果てた往来も、大穴のあいた屋敷跡も、ツヴァングは受け入れられず呆然と眺める。
 つい先程まであんな大歓声に包まれていた王都がどうしてこんなことになっているのだろう。わからない、わかりたくない。
 穴の底には赤黒い気持ちの悪い泉ができていて、その上には結界らしき魔法の光が五芒星を描いていた。中心に刺さったオリハルコンの刃は間違いなくアラインの神具である。抑えると言って破滅の魔法に飛び込んだ勇者がどうなったのか、想像に難くなかった。
「……多分アラインさんは一時的にあの魔法を押し留めてくださっているんです。早く元のオリハルコンで蓋をしなければ、再び魔法が動き出すことも十分考えられるかと」
 結界からは目を離さずにクラウディアが推測する。
「死んではねえんだな?」
 そう確認を取るベルクに司教は頷いた。それで少しだけ空気が緩んだ。
(アライン様は……、まだ、大丈夫……らしいが……)
 歯の根がガチガチ音を立てる。震えたくないのに抑えることができない。
 警備兵はヴィーダが屋敷へ忘れ物を取りに戻ったと言っていた。よりによってこんなときに、こんなところへ。
「ねえ、あそこに誰か倒れてない?」
 恐ろしさを押し殺しながらエーデルの指差した先を見やると、穴のすぐ脇で半分土に埋もれた男が気絶していた。目を閉じているので死体ではないかとドキリとしたが、側にいた兵士のひとりがすぐさま近づき安否を確かめてくれた。
「大丈夫です、脈も呼吸もあります!」
 ごろんと土に寝かされたのはアペティートの第三皇子その人であった。心底安堵しツヴァングはその場に座り込んでしまう。
 丁重に介抱するんだぞ。そう言おうとしたらクラウディアが立ち塞がって言葉を制した。司教の杖をヴィーダに向けて、僧侶は冷たく兵に命じる。
「捕えてください。十中八九彼が犯人です」
 兵の間にどよめきが走ったが、マハトに躊躇は見られなかった。国際問題も厭わず兵士長は帝国の皇子をすぐさま縛り上げてしまう。ベルクやウェヌス、ノーティッツも、そうするのがさも当然とばかりに見守っていた。
「困りましたわね。まさか破滅の魔法を復活させてしまうなんて……」
「国力を削ぎ落とすにはこれ以上ない手段だよ。くそ、してやられたな」
「しっかしヴィーダの野郎、どうやって封印を解いちまったんだ?」
「……アペティートにオリハルコンを分解する技術があったのかもしれません。どうやら彼を甘く見過ぎていましたね」
 クラウディアたちの口ぶりでは、彼らは以前からヴィーダを警戒していたようだった。
 知らなかった。気づいていなかった。そんなことちっとも。
(……だから目を離さないようにって頼まれたのか?)
 昨日のアラインを思い出してツヴァングの指先が震える。
 べったり側についていなければならない、その真意を教えてくれていたら自分だって。
(違う……。頼みごとを守れなかったのは事実だ……)
 ヴィーダがこんなことをしでかすなんて、聞かされていたとしても信じたとは思えない。
(――おれの責任だ)
 衝撃はあまりに強く、罪悪感が背中に圧し掛かる。
 もう一度泉を覗いてみても、アラインの姿はどこにも映っていなかった。






 ******






 クライスがアペティートの王宮へ連れて来られたのは彼女が八歳になる少し前だった。
 「お前と同い年だよ」という父の言葉はあまり聞こえていなかった。初めて見た、ココア色の肌にヴィーダはとても驚いていた。
 彼女はきっと歴史の先生が言っていたビブリオテークの少女なのだろう。
 でもそんなことよりも、茜とも橙ともつかない美しい双眸に心奪われた。最初から自分は彼女に夢中だった。
 クライスはビブリオテークの首長の娘で、己はアペティートの第三皇子で、もしかすると敵同士になるかもしれないと知っていたのに。






 大変なことになったなと顔を顰めたのはウングリュクだった。辺境の王の隣では兵士の国のトローンも腕組みして唇を尖らせている。大会議室には各国要人と勇者関係者が集まっていた。
 まだ戴冠式が終わってから三時間も経過していない。午前中、ふたりの結婚を感動的な気分で見守っていたのが嘘みたいだ。
 不安を隠しきれず、エーデルはすぐ横に座ったクラウディアの袖に手を伸ばした。
 ヴィーダを捕縛するように言ったクラウディア。都に酷いことをされて、怒っているのがはっきりわかった。
 いつから疑っていたのだろう。尋ねたいのに尋ねられない。なんだかまだ空気が張り詰めている。
「侍女は見つかりませんでしたが、ヴィーダは北の塔のてっぺんに突っ込んどきました。じきに目を覚ますはずですけど、起きたらどうします?」
「うむ……。問い詰めたところで無駄じゃろうな。今までと同じく悪意のあった証拠もない。本当に彼のせいで破滅の魔法が甦ったのかもわからぬし……」
 マハトが今後の方針を伺うとシャインバールは言葉を濁した。国王としての責務からはもう解放されるはずだったのに、こんな事態になりかなり参っているように見える。
「だが今までの嫌がらせとは決定的に違うぞ。目に見える形で貴国は損害を被った。王と都の安寧を奪われたのだ! 責任を追及すべきなのは明らかであろう?」
 トローンが暗にアペティートへの抗議を仄めかす。「責任取ってくれる国なら良いんですけど」とぼやいたのはノーティッツだ。
「ひとまず我々は帰国して、破滅の魔法への対策を考えるよ。対岸の火事ではないし、一応は魔法大国を謳っているからな」
「アラインさまが身体を張って抑え込んでくださっているとは言え、いつまた封印が解除されるとも限りません。私たちは私たちにできることをさせていただきます」
 ウングリュクの言に宮廷魔導師長も頷く。国王が――英雄である勇者が不在では、シャインバールには何も決められないと承知していての発言だった。
「ビブリオテークとの同盟、考えておいていただけますか」
 ノーティッツのその言葉に会議室は波を打ったよう静まり返る。
 だろうなという表情の人間が大半だった。それでも自ら口に出すのは憚られると、そう言いたげな。
「こういう展開にならないように動いてきたつもりだったんですけど……すみません」
 残念そうにノーティッツが詫びる。そしてこれから起こるであろう災禍の説明を始めた。
「アペティートにとって一番厄介だったのがアラインの存在です。転移魔法を操る彼にはすぐにもあちらの重臣や帝都を攻撃することができました。それが今まで見えない防衛ラインとして機能していたんです」
 こくりと何人か頷いた。
 転移魔法を扱えるのはアラインだけだと、いつだったかヴィーダに話した覚えがある。世間話の延長のつもりだった。他にもたくさん話をしたのだ。勇者の冒険や魔法について、彼が聞きたがったから。
 机の下でクラウディアの手を握り締めると僧侶は優しく握り返してきてくれる。
 まだ考えたくなかった。笑顔の裏で彼がどんな情報を掻き集めていたかなんて。
「近いうちにアペティートはここへ侵攻してくるはず。都はめちゃくちゃで、国王は安否不明で、こんなチャンス見逃すわけがない。ヴィーダがしおらしい態度で謝罪してきてもアペティートの腹づもりは変わりませんよ。大陸を守るために、ぼくらももう共存なんて言ってられないかも」
 ――戦争か、とベルクがぽつり呟いた。
 できることならもう争いはしたくない。それがツエントルムとの戦いから帰ってきたエーデルたちの願いだった。
 戦って、傷つけ合った後で相手のことをよく知ってしまって。
 もうあんな後悔はたくさんだと痛感したはずなのに。
「……人同士でもままならんものだな。ともあれ破滅の魔法については対処を急ぐべきだろう。私とノルムはこれで失礼させてもらうよ。何かあればいつもの鏡で頼む」
 ウングリュクらが立ち上がって出て行くと、マハトとツヴァングも避難の状況を確認すべく席を外した。
 勇者の都とその周辺部、更にはアイテム街までも兵士の国への退避命令が下されていると言う。
 トローンは自主的に難を逃れてきた者も含めて皆受け入れると約束してくれた。アラインが戻るまできっちり面倒を見させてもらうと。
 国民の約三分の二が、今ぞろぞろと兵士の国に向かって列を作っているそうだ。
 勇者の国始まって以来の異常事態だ。






 ぴちゃりと頬に水滴が跳ね、その
冷たさで目を覚ます。
 暗い色の石が整然と並ぶ床にヴィーダは寝かされていた。
 枕もなければ毛布もない。まあ当然の扱いか。
 背伸びしても届かないだろう小窓からは夕暮れらしき光線が注いでいた。
 鉄格子の向こうで見張りの騎士が「起きたか」と独り言のように零す。
「……」
 頭はまだぼうっとしているが、オリハルコンに触れてからのことはなんとなく思い出せた。
 割れて飛んで行ってしまったけれど、失われたわけではないだろう。おそらくそれを所有すべき人間のところへ旅立っただけだ。
 アラインはあの獰猛な赤い雪玉を止めるために自ら犠牲になったらしい。最初から彼を殺すつもりだったのだから、偶然とは言え幸運だった。
 牢番はヴィーダを睨みつけると、報告に行くためか塔を降りる扉を開く。
 こんな場合は最低でもふたり兵を置いておくべきだろうと思ったが、手の足りていない理由はすぐに推察できた。ああ、国民を安全な場所へ誘導しているのだな、と。
「っと……、こ、これはエーデル様!」
「ごめんなさい、少しヴィーダと話がしたいの。いいかしら?」
 兵士と入れ違う形でやって来たのは懇意にしていた女の子だった。彼女には重要な情報を色々と聞かせてもらった。少し悪いことをしたかなと思う。
「……どうしてこんなことしたの?」
 邪魔者の足音が遠くへ消えるとエーデルは悲痛な面持ちでヴィーダに囁いた。
「皆あなたの国から攻撃があると思ってるわ」
 否定してあげることはできなかった。
 他意はなかったんだよと嘘をつくことも。
「その予想、多分間違ってない。君も早く余所へ逃げた方がいいよ」
「……ヴィーダ!」
 友達だと思ってくれていたのだろう。格子を揺らして怒りと悲しみに耐えるエーデルは冷めた己の目から見ても可哀想だった。
 だけどごめんね。ぼくが守りたいものは、君でもこの国でもないから。
「……オリハルコンはどこへ行ったの……?」
 涙声の彼女に「わからない」と返すとエーデルは唇を噛んで走り去る。
 まだ修復可能だったかもしれない。そう思ったがすぐに打ち消した。
 目論見を隠す必要もなくなった今、修復したってまた壊れてしまうだけだ。
「本当に、お人好しの国だね」
 牢に入れる前に、普通身体検査くらいするだろう。動転していたのかそういう猜疑心自体がないのか知らないけれど。
 ヴィーダは靴底に隠しておいた通信機を取り出して窓に向けた。生産ラインが確保できず、まだ軍内の一部でしか実用化には至っていないが、魔法でなくても遠く離れた人間と意思の疎通をはかることはできるのだ。
『進軍ヲ開始セヨ』
 了解という短い返信を確認し、再び靴底にそれを戻すと、ヴィーダはそっと懐に手を入れた。今朝はなかった硬い感触がそこにある。
 取り出したのは白とも透明ともつかない不思議な光を放つオリハルコン。美と力を併せ持つ短剣。
 三つに分かれた聖石のひとつはヴィーダを所有者として選んだようだった。
 切れ味を試すのに、鉄格子は丁度良かった。






「ほら来ただろ? 俺の言った通りだ」
 傍らの通信兵の肩を叩けば怯えたように身を竦める。
 そう怖がらなくたって何でもかんでも噛みつきゃしねえのに。
 軍服の襟を寛げつつ、ブルフは部下の臆病さを鼻で笑った。
「だからここまで船を出しておいて正解だったんだ。皇子様も迅速な到着を心待ちにしてるよ」
「は、は、はい」
 三十五歳という異例の若さでアペティート軍の総司令官を務めるブルフは味方のはずの兵からも恐れられている。内乱鎮圧における残虐な功績だとか、帝王のお気に入りだという噂だとか、要因は様々だ。だが一番はこの高圧的な性格のせいだろう。
「二年もかけてちんたら何をやってたんだかねぇ。――ま、いいや」
 通信室を出て兵の集まる甲板へ赴く。八十門の大砲を搭載した帝国自慢の戦列艦では鍛えられた水兵たちが次なる指令を待っていた。ブルフの乗った船の後にも五十門の戦列艦がまだ十隻続いている。こんな小国相手には勿体ないほどの戦力だ。まったく、魔法使いというのは面倒な敵である。
 整然と並んだアペティート兵をぐるりと見渡し、ブルフは波の向こうに霞む勇者の城を指差した。
「おい、お前ら用意はいいな? 無実の罪で囚われた皇子様をお助けするんだ! 相手は未開の蛮族だが、中には気功師みたいな連中もいる。そいつらはできるだけ殺すな! 生け捕りにしろ! さあ、砲兵は砲台に立て!!」
 順風を受けた船団が海沿いの都をぐるりと囲む。
 三層からなる砲台はブルフの合図で一斉に唸り声を上げた。






 ディアマントは沖合にひしめく見慣れぬ船の大群に翼を止めた。
 確かにノーティッツが近々来ると予測したが、それにしても早すぎる。
 北の岬を迂回してきたとらしい軍船はアペティートの国旗を掲げていた。船の横っ腹を埋め尽くす大砲はどれも真っ直ぐ都に向けられている。
 大方近くの島にでも軍隊を隠していたのだろう。攻め込む際は一気に畳みかけられるように。
「ちぃっ」
 破滅の魔法のことを報せに天界へ行くつもりだった。だがもうそんな場合ではなさそうだ。
 大空を旋回してディアマントは王城へ逆戻りした。窓から飛び込んだ王の間ではまた異な事態になっていた。

「……降伏してもらえないかな?」

 玉座の前でヴィーダがシャインバールの喉元に剣を突き付けている。その傍らには軍服姿の彼の侍女。こちらは長銃と呼ばれる鉄の武器を手にしていた。
 ヴィーダはいつもの鼻持ちならない笑顔で言う。「どうしてもこの国が欲しいんだ」と。
 人質を取られているため下手に手出しができず、皆黙り込むばかりだ。
 王の間にはベルクもノーティッツもイヴォンヌもいた。しかしその中に「それでは大人しく投降します」などと言い出す者はいなかった。
 状況が悪すぎる。ヴィーダは魔法で攻撃される可能性を考慮してか背中からシャインバールを羽交い絞めにしていた。あれでは風魔法でも引き剥がすのも難しい。ウェヌスかクラウディアがいれば光魔法でふたりまとめて眠らせてしまうのに、生憎双子は別室にいるようだった。
 ――と、そのとき激しい砲撃の音が耳を劈いた。光が明滅し、カタカタという細かな振動が伝わってくる。突風は炎と煙の臭いを運んできた。街が破壊され始めたのだ。
「どうせこのままじゃ城を明け渡すしかないよ? アペティート軍はすぐそこまで来てるんだ」
 ヴィーダが言っているのは捕虜になれということだろう。もしくは人的被害が出る前にアペティートの傘下に入るか。
 イヴォンヌはちらりと先王を見た。同時にベルクとノーティッツも。
 沈黙は短い時間のことだった。もうずっと自分で何かを決めることから逃げてきた老人は、どこか遠くを見つめるように天を仰いだ。
「……これが先代国王としてのわしの答えじゃ。勇者たちよ、後始末ばかりさせてすまんな」
 そう呟くや否や、食らいつくようにシャインバールは自ら刃に向かっていく。喉から溢れた鮮血は一瞬で大理石を朱に染めた。
「お父様!!」
 イヴォンヌの悲鳴とベルクの突撃、そしてディアマントの光魔法がほぼ同時。
 侍女の撃った銃弾が僅か勇者の剣を鈍らせた。逃げるふたりにノーティッツの風魔法が襲いかかる。
「!?」
 ところがその風魔法は何者かによって相殺された。
 逃亡用の煙幕が張られ、ヴィーダたちは影も形も見えなくなる。
 都への砲撃は未だ飽きることなく続いていた。天井からパラパラと降る砂埃にディアマントは眉を顰める。
「お父様、しっかりなさって、お父様!!」
 出血は夥しいがどうにか一命は取り留められたようだった。
 その様子を確かめて、今度はノーティッツが外へ駆け出した。
「ベルク、ディアマント、そのふたり頼む! お城に残ってる人たちも全員兵士の国へ避難してもらって!!」
「ああ!? お前はどこ行くんだよ!?」
「攻撃はまだ大砲だけだ! 兵士が岸に上がってくる前に、アラインの屋敷に幻術かけてくる!!」






 撤退するぞと叫んだ男の顔を見てツヴァングは拳を握り締める。
 既に城内に残っていた者たちはマハトの指示で一箇所に集められていた。
「ウェヌスとクラウディアは全体のサポートだ。エーデルとディアマントは一時的にでいいから軍船の攻撃を和らげてくれ。その間に都を脱出する。ここにいるのはナントカ大臣だのウンタラ官だのばっかりだな? はぐれないようについて来いよ!」
 なんでこいつが勝手に指揮を取っているんだ。確かに文官たちの避難は火急的速やかになされるべきだが、その指令は本来兵士長が下すものだろう。
(……この男に文句を並べたところで状況は変わらない!)
 未だツヴァングは混乱したままで、上手く物事を考えられなかった。
 砲撃と崩落の音でわんわん耳鳴りがしているし、アラインの笑顔ばかりが脳裏をよぎる。
 縁起でもない。まだあの人が死んだわけでもないのに。
(でもいなくなったのはおれのせいだ)
 誰と話をしていても、今何をすべきか考えようと言い聞かせても、自責の念が高波のように寄せては返す。何とかしなくては、何とかしなくてはと囁いて、それはツヴァングを焦らせた。
「おい、お前も早く行けって!」
 ベルクは立ち尽くすツヴァングの肩を揺らす。微動だにしない自分に隣国の王子は怪訝な顔を向けた。
 そんな命令を聞けるわけがない。何もできないまま都を離れろなんて。
「駄目だ。おれは残って戦う」
「はあ?」
「アライン様がああなったのはおれの責任だ。せめてアペティートに一太刀くらい……!」
 駆け出そうとした襟裏を掴まれ危うく首が締まりかける。
「何をするんだ!」
 そう叫ぶとこっちの台詞だとどやされた。
「どんな責任があるのか知らねえが、あいつのためを思うならあいつがどうするか考えろよ! 人命最優先に決まってるだろこの馬鹿!!」
 お前なんかに何がわかるんだ。
 そう言い返したかったのに派手な破壊音にすべて掻き消されてしまう。砲弾はもう城壁に届くまでになっていた。
「ラウダ、こっちだ!!」
 ベルクの腕がツヴァングを掴んで引っ張っり上げる。
 砂塵舞う空からは辺境の塔に棲む神鳥が一直線に滑り降りてきた。






 黒竜の翼を広げたエーデルに、ディアマントはほぼ怒鳴りつけるよう「もっと気をつけて飛べ!」と忠告する。
 連続して飛んでくる鉄球は到底風で押し返せる代物ではなく、逃げる一群に当たらないよう軌道を逸らすのが精一杯だった。剣で斬ると爆発するし、あまり得意でない魔法を連続使用する羽目になっている。ディアマントの魔力は早くも底尽きかけていた。
(アラインなら賢者の知恵で古代魔法を引っ張り出してどうにかするのだろうが……!)
 向かい来る砲弾を強風でまたひとつ弾く。
 一瞬くらりと目眩がした。墜落しかけたディアマントを見て慌ててエーデルが飛んでくる。
「クラウディアたちが都を出たわ! あたしたちも退きましょう!」
 左腕をしっかり掴んで嵐の中を彼女が行く。
 連中は一体幾つ砲台を積んできたのだろう。貴重な資源をこんなところに費やしていいのか。
 ディアマントが重いせいかエーデルはやや飛びにくそうにしていた。このままでは危ないなと思っていると、大砲による攻撃がぴたりと止まった。
「……どうしたのかしら? まさか弾切れ?」
「いや……」
 もう少し上空を飛んでくれと頼むディアマントに頷き、エーデルは空高く羽ばたいた。
 息を飲んだのは己だったか彼女だったか。

「……やだ……」

 足元の都にアペティート兵が大挙して押し寄せる光景はあまり気分の良いものではなかった。
 ツエントルムも体験したという戦争。確かにこれは嫌悪を感じる。
 兵士は街中から略奪を始めた。あまりに数が多すぎて止め方もわからなかった。
「……人は残っていない。クラウディアたちと合流するぞ」
 ぶるぶる肩を震わせてエーデルは頷いた。慰めてやりたいが、頭が上手く回らない。
 少し無理をしすぎたのか、眼下の惨状にやられたのか、視界も色を失いかけていた。自力飛行できるようになるまで、しばらくかかりそうだ。白濁してきた意識の底にエーデルの声が掠れて届く。
「ねえ、あそこにいるのノーティッツじゃない?」
 薄目を開けても確かめることはできなかった。
 だがアペティートの軍人たちが誰かを担いで運んでいるらしい姿はぼんやり記憶に刻まれた。






 ラウダの青羽が見えたから、「乗せてくれ」と叫ぼうとした。
 けれど雨あられと降り注ぐ砲撃をかわしてアラインの結界を守るのに必死で、とてもではないがベルクに呼びかける余力などなかった。
 転移の札を避難民の誘導兵に預けたのは間違いだったようだ。アペティートが仕掛けてくるタイミングも読み誤った。
 早すぎる。ここまで準備が整っていたなんて完全な調査不足だ。
「くっそ……! いっそ潜入捜査してやろうか……!!」
 聞いてくれる相手もいない台詞を吐いて地面に蹲る。
 砲撃が止まったから今度は生身の兵士がやって来るはずだ。勇者の都を占拠するために。
(さっさと逃げないと……)
 アラインに余計なダメージを与えないようにと古代魔法を連発しすぎたためか、魔力の残量がゼロに近い。こんな状態で囲まれたら厄介なんてもんじゃないぞと気を奮い立たせ風を纏う。
 三日月大陸の最大のウィークポイントは対人間の戦闘に慣れていないことだ。
 それは自分も含めてそうだった。殺すつもりでかかってくる相手に手加減しながら戦うなんて、よほど余裕がなければ無理だ。なるべく目立たないよう気をつけてそろそろと浮かび上がる。
 不運だった。高い塀を乗り越えたとき、マスケット銃を手にした女と目が合った。
「……ッ!!!」
 銃撃を受けたのは人生初だ。のた打ち回るぐらい痛くて、回復魔法を使ってしまった。
(くっそ、ついてない……!)
 女は応援を呼んだようだった。揃いの軍服に身を包んだ兵士たちが周辺に集まってくる。
「そいつ魔法使いか?」
 尋ねた男は目付きも態度も最悪だった。ハルムロースの第一印象とほぼ同じ感想を抱いた。――ああ、こいつ多分悪い奴だと。
「そのようです、総司令」
 ふうんと喉を鳴らすと男はポケットに突っ込んでいた右手を出す。
 それが何かの合図だったのか、身構える暇もない速度で兵士たちがノーティッツを取り押さえにかかってきた。
 ああ畜生、そんな必死にならなくたって平気だよ。こっちはもう充電切れだ。






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 戦列艦の接近を許した時点で王都は制圧されたも同然だった。
 これ以上の侵攻を食い止めるべく、兵士の国にほど近い湖の街の水門が解放される。
 何百年と使う機会を持たなかった砦町の砲台にも魔法が詰まった特殊な弾が込められた。国境の山には辺境から届けられた大量の呪符が貼られた。
 勇者の国の住人は一両日中に兵士の国へと退避した。
 丸裸の街にはアペティート兵がふんぞり返った。
 兵士の国と辺境の国がビブリオテークと同盟を結ぶ決断を下したのは、攻撃を受けた当日のこと。戦列艦への対抗手段がほぼない状況ではそれが最善の防衛策だった。
 そうしてまた、ベルクたちの長い旅は始まったのだった。







(20121029)