魔の国を目指して北西へという大目的はあるものの、その道のりは険しい。勇者の都を旅立ったアラインは地図と睨めっこしながらどの街に立ち寄るか検討した。
 国内で外せないのは「祈りの街」だ。ここは先代勇者アンザーツが僧侶ゲシュタルトを仲間にした地であるし、優秀な聖職者が多いと聞く。心強き者しか通過できないという試練の森の先には世俗から切り離された神殿があり、これまでもたくさんの勇者が訪れていた。
 そしてもうひとつ、地図にはざっくりとした位置しか記されていないが必ず行かねばならぬ場所がある。「盾の塔」と呼ばれる封じられた塔だ。ここには勇者のための武具と、それを守る神の使い――神鳥がいると伝えられている。神鳥の塔は兵士の国と辺境の国にも聳えており、それぞれ「剣の塔」「首飾りの塔」と呼ばれていた。魔王に立ち向かうためにはこれらの武具をすべて揃えるというセオリーがあるわけだ。
 実のところ、魔王城自体は都とそう離れた場所にあるわけではなかった。内海と外海を隔てる深い霧の海、それが妨げとなっているため魔界へ赴くには三日月型の大陸をぐるりひと巡りするしかないのである。ついでに言及しておくと、内海の中央には強いガスを噴き出し続ける海底火山があって、外海も少し沖へ出ただけで濃い瘴気に包まれるため航行技術は全体的に発達していない。せいぜい川を渡るための小舟か、魚を獲るための漁船が沿岸部に存在するくらいだった。
「これからどうします?アライン様」
 大きな図体を窮屈そうに折り曲げて、従者のマハトが地図を覗き込んでくる。
「祈りの街と盾の塔には当然行くつもりだけど、まずはここかな」
 アラインはとある街を指差した。現在地より南西、都からも農村からも漁村からもアクセス可能な流通の要、通称「アイテム街」だ。
「ふんふん、まあそこからっすよね。この国じゃアイテム街で手に入らない物はないって言われてるくらいですし、掘り出し物の装備品が見つかるかもしれねえっすよ!」
 マハトは上機嫌で「この街結構楽しいんす」と解説してくれた。なんでも美味い酒場が並んでいて、けちらずに宿を選べば料理も絶品、人気の旅芸人が定期公演を開いており、旅行者が参加できるイベントまであると言う。
 セレモニーでもなければほとんど都を離れたことがないアラインは娯楽の類にすこぶる疎い。楽しげなマハトに一歩引いた相槌を打ちつつ「遊びに行くんじゃないんだけどな」と嘆息した。



 アイテム街への旅路は小旅行も同然だった。なだらかな平野をただてくてくと歩くだけ。獣は出ても魔物の姿はついぞ見かけない。伝え聞く勇者の冒険譚のように、襲い来る敵をちぎっては投げちぎっては投げ――そんな雰囲気ではまったくなかった。
「アライン様、そこまでぶーたれなくても」
 カラカラと音を立てる馬車の荷台でアラインはひとり頬を膨らませる。魔物が一匹も出ないばかりか道ですれ違った親切な商人にアイテム街まで送ってもらえることになり、楽で楽で仕方がない。思い描いていたのはこんな旅ではなかったのに。
「失礼っすよ、折角乗せてくれたのに。積み荷多くて狭いのはわかりますけど」
「違ーう!!」
 あぐらなぞ掻いて完全に寛ぎモードになっているマハトを怒鳴りつける。アラインは従者に背を向け荷物から魔道書を取り出した。ぼんやりしているくらいなら勉強していた方がましだ。
「ほんと真面目っすねえ」
 微笑ましげに見守られるとまだまだ子供と思われているのが透けて見え、むうと怒りが湧いた。確かにマハトは己の倍ほども年齢を重ねている熟練の戦士なのだが。
 しかしこれでも自分は勇者なのだ。勇者と言ったらパーティのリーダーなのだ。くそ、今に見ていろ。
 ――そんなアラインの不機嫌はアイテム街に着いたと同時に消え去った。整然とした都の大通りとはまったく違う賑々しい往来に目も心もすっかり奪われてしまったのだ。
「す、すごい。今日はお祭りか?」
「アライン様、それ田舎者のあるある台詞っす!」
 何か失礼なことを言われた気がするが、聞かなかったことにして立ち並ぶ屋台や商店を覗き歩く。怪しげな物売りの鎮座する露店も多く、カモだと思われないようにしなければと口元を引き締めた。
 それにしても素晴らしい品揃えだ。踊り子の衣装、魔法効果を持つ宝飾品、王都では獲れない魚の燻製に、精緻なからくり時計。思わず足を止めてしまう魅力的な品々が次から次へ目に飛び込んでくる。
 次第に見物に夢中になり、「ぶつかりますよ」「はぐれちまいますって」というマハトの注意も耳に入らなくなっていった。グイと勢い良く腕を引かれ、そちらを仰げば「先に宿を決めちまいましょう」と苦笑いされる。はっと我に返ったアラインは誤魔化すように「そうだな」と答えた。子供扱いしないでほしいと思ったばかりなのに、子供っぽい真似をしてしまって恥ずかしい。
 混雑する通りから一本裏手の小道に入り、小奇麗な宿を選ぶとアラインたちは荷を下ろした。まだ日は高い。買い出しに出るには十分な時間がありそうだ。
「ああそうだ、俺の親戚がこの街に住んでるんすけど、ちょっと寄ってもらっていいすかね? 斧を譲ってくれるって話なんですよ」
「へえ、そりゃ良かったな」
 マントの埃を落としながらそう返し、アラインはふと目をすぼめた。マハトの一族は勇者アンザーツに同行した戦士ムスケルの子孫である。当然自宅に勇者がやって来たとなれば、それはそれは丁重なもてなしをしてくれるだろう。場合によっては晩飯を食べて行けとか泊まって行けとかいう話になるかもしれない。勇者としての愛想の振り撒き方を徹底的に仕込まれている自分に果たして断れるだろうか。無駄なスマイルを浮かべてリップサービスを繰り出してしまうんじゃなかろうか。
「……嫌なら別にアライン様は来なくていいっすよ?」
「えっ?」
「別に斧貰うだけですし。折角旅に出たんすから、やっぱ羽伸ばしたいっすよね」
「……!!」
 アラインはこくこく頷いた。慣れているとは言えやはり作り笑いは疲れる。別行動を取っていいならその方が確実に有り難い。
「七つの鐘が鳴るまでにこの宿に戻ってくることにしましょうか」
 スリと詐欺には気をつけてくださいね、と念を押しマハトは親戚の家に出掛けて行った。受け取った買い物リストには食料や水を始めとした旅の生活必需品がつらつら書き並べられている。が、入手に手間取りそうな物はなかった。さっさと用事を済ませてしまえば完全なる自由時間だ。うきうきと弾む胸を抑え、アラインも宿を後にした。



「さあリッペ君、とっとと支払いを済ませて下さい」
「へーい」
 リッペと呼ばれたオッドベストの青年は、銀髪眼鏡の主人に命じられるまま懐から財布を取り出した。薬草などの消耗品はもとより、魔道書、古文書、骨董品、ワケあり呪い装備等々、今日だけでものすごい金を使っている。普段はまったく浪費することのない主人だが、こうしてたまに街へ出たときの購買欲と言ったらなかった。
「この街は品揃えも魅力的ですが、品変わりが早いのも素敵ですねえ。さあリッペ君、次の店へ向かいますよ」
「わっかりやしたー。……よいしょっ!」
 身の丈の倍はあろうかという巨大な荷袋を担ぎ上げると周囲の人間は目をまん丸くしてこちらを眺めた。なんだあれという目線にはこの男――ハルムロースに仕えるようになって以来慣れっこだ。
 初めはどうしてこんなまどろっこしい手順を踏むのかわからなかった。欲しい物があるなら奪えばいいし、人間に対価を払ってやる必要など微塵も感じない。だがハルムロース曰く、街には街のルールがあるのだそうだ。人間の活動は基本的に循環型で、利用できる間は利用した方が賢いのだと。その意味はリッペにも段々とわかってきた。ここアイテム街は勇者の国の商業の中心地で、大抵の形ある物が一旦は通過していく場所なのだ。定期的に訪れるだけで一定以上の収穫があり、毎日あちこちお遣いに出されるよりはるかに効率的なのである。
「高いですよー、もっとお安くしてくださいよー。ねっ、一束十ゲルトにしてくださったら三十束買いますから!」
 ……とはいえ主人にとって理由はそれだけでもあるまい。ハルムロースは人間であることを捨てたくせに、ああして時々酷く人間じみた真似をしたがる。魔族の世界に片足どころか額までどっぷり浸かっているくせに。
(うわー、また荷物増えそうだな)
 そろそろ袋が破れそうだと訴えるべきか、逡巡する間にふっと長い銀髪を見失う。
「あれ?」
 今さっきまでそこで値切っていたはずの主人がいない。ぐるりと辺りを見回すと、いつの間にかハルムロースは反対側の店先で乾燥タイプの薬草を物色していた。
「ったくもー、ウロチョロウロチョロ……!」
 と、そのとき気がついた。ハルムロースは薬草など見ていないということに。主人は陳列された商品を順に手に取り品定めしている十五、六歳の少年を棚の陰から窺っていた。
(……?)
 なんだろう、知り合いというわけでもなさそうだが。
 声をかけようか迷っていると、前方不注意で少年がハルムロースにぶつかった。「あ、すみません」という反応はやはり知人のそれではない。
「いえいえ、私も余所見をしていましたから。今日はどちらから来られたので?」
「えっと、僕は都から」
「ほう、王様のお膝元ですか。私も昔は宮廷魔道師を目指して勉学に励んだものです」
「へえ! すごいですね。じゃあ魔法使いなんですか?」
「まあ大した使い手ではありませんが……」
 まったくあのご主人様ときたら、あんな子供と何を楽しげに戯れているのだ。
 はあ、とひとつ溜め息をつくとリッペは横からハルムロースの袖を引いた。
「ハルムロース様、一束十ゲルトで商談成立したんじゃないんですか?早く店に戻りましょう」
「おや、リッペ君。ご主人様の楽しいひとときを邪魔するなんて悪い子ですねえ」
 もう少し待っていなさいと言いつけられては反抗の余地もない。主人の隣で戸惑っている少年にハルムロースはにこにこと話を続けた。
「袖擦り合うも多生の縁です。見たところあなたも魔術の覚えがありますね?」
「え? ええまあ」
「ちょうど向こうの野外舞台で面白い大会をしているんですよ。良ければ私と一緒に参加しませんか?」
「えっ!?」
 ハルムロースは返事も待たず少年の腕を取り歩き出した。手に持っていた僅かな荷物も邪魔と断じたか後方のリッペにポイポイ放り投げてくる。キャッチし損ねたら後で何を言われるかわからない。リッペは必死で腕を伸ばした。
 ああもう、この男はいつもこうだ。自分の思ったようにしか行動しない。他人の都合などお構いなし、自分さえ良ければそれでいい――。
「あの、大会って何の大会なんです?僕ちょっと買い出しの途中でして」
「おや? それはいけませんね。何を購入なさるおつもりだったので?」
 ハルムロースがぴたりと足を止めたので、リッペは長身の彼に思い切りぶつかり鼻を痛めた。
「えっと……。食料とか水とか傷薬とかですけど……」
 この場から逃げ出したそうに少年は辺りを窺っている。しかし主人に彼の手を放す気は欠片もなさそうだった。
「ふむ、兵士の国でも目指されますかね? ならあの店がいいでしょう」
 そうして行きつけにしている商店のひとつを見つけると、強引に少年を引っ張っていく。どういう風の吹きまわしか、ハルムロースは売値の半額以下で薬草やら干し肉やら飲料水やらの交渉を始めた。そのうえ「これは特別な煙で燻した肉で、余所よりも長持ちです。こちらも薬草としてだけでなく少し炙れば殺菌消毒に使えますし、この水も吸収を良くするために最新の製法で……」などと懇切丁寧な解説までしてやっている。
「そんなに警戒なさらないでください。下心などありませんので」
「えっ、いや、僕は別に!」
 人のよさそうな笑みを浮かべる主人を遠目に眺めながら、リッペは「嘘つけ」と独りごちた。あの男が下心ゼロで他人に親切を働くわけがない。あのガキか、あのガキの持ち物か、あのガキの近しいところに目当ての何かがあるに決まっている。
「信じてくださいませんか? 勇者の旅に少しでも手を貸したいと思うのは当然のことでしょう?」
「……!」
 勇者と聞いてリッペは思わず身を乗り出した。そうか、こいつが旅に出たと噂になっているフィンスター家の末裔か。名前は確かアラインだったな。
「も、もしかして最初から気づいてたんですか?」
「いいえ? お話しするうちに。これでも賢者の端くれですので、わかるんですよ。特別な人間と言うのは」
「け、賢者!?」
 今度こそ呆けたようにアラインは「すごいですね」と感嘆の意を示した。賢者というのは一握りの魔法使いにしか与えられない称号である。火、水、風、土、雷、光、闇――七属性の魔法のうち少なくとも五つ以上を操り、膨大な魔力をその身に宿す者だけが賢者と呼ばれる。これが大賢者ともなれば勇者と同じくらい希有な存在だった。
「あの、疑うわけではないんですけど、良ければ見せていただけませんか? あなたの魔法の力を」
 アラインは敬意を持ってハルムロースにそう頼んだ。己が既に主人の術中にはまっているとも知らないで。
「ええ、ですのでそこの大会にご一緒しませんかと。なんとですね、剣舞オッケー魔法オッケーのベストダンサーコンテストをやっているんですよ!」
 踊りましょう、と店外の大ステージを指し爽やかに主人が誘う。アラインは呆気に取られていた。リッペも呆気に取られていた。魔法なら、もっといくらでも他の見せ方があるだろう。



 広場の中央に造られた円形舞台では既に若い男女が集って思い思いに身体をくねらせていた。ステージのすぐ下には弦楽器や太鼓を鳴らす旅芸人たちもいる。参加者にはちらほら武道家や魔法使いが混ざっているようで、派手なジャンプが披露され、火花や雷光が明滅するたび観客席からわあっと歓声が上がった。おひねりの箱を覗いてみるに、主催の実入りは良さそうだ。
 想定していたより本格的だなとアラインは銀髪の賢者を見上げた。本当に今からあそこに混ざるつもりなのかと訴えるように。
「荷物はうちのリッペ君に預ければいいですよ〜」
 にっこり微笑まれ腕を取られればもう後には引けなかった。ステージに賢者の足が乗り、次いでアラインも踵を鳴らす。そう言えばまだこの人の名前も聞いていなかった。
「アンザーツの従えた大賢者ヒルンヒルトも元は旅の踊り子だったとか。まあ男性に対して踊り子などと言うと語弊がありますが、彼は神聖な巫女のように舞ったそうですよ」
 あなたならご存知でしたかね、と含みのある笑みを向けられる。賢者はアラインの肩を捕らえると紅のマントをふわりと浮かすよう反転させた。踊ってみろということらしい。
 悲しいかな見せ物にされることには慣れている。大衆の喜びそうな仕草も心得すぎているほどに心得ていた。マントの端を指先で摘まみ、アラインはわざと顔が隠れるように腕を上げる。まさか夜会のゆったりしたダンスで勝負になるわけもないので、空いている方の指先に小さな炎を三つほど灯した。これなら照明効果もつくし、腕の振りだけでそれなりの形に見えるだろう。日の陰る時間帯ならもっとムードを演出できたのだが。
 ステージ上には梯子やロープを渡した台も用意されていた。ダンスを競うというよりは即席のサーカスでも演じさせたいようである。
「これってどういう条件で勝ち負けが決まるんです?」
 賢者に問うと、彼は舞台正面に坐すターバンの男を指差し「踊りを気に入ってもらえれば彼から賞品が貰えます」と教えてくれた。
「ちなみにあのアダマス鋼の武器と防具は、この国で得られる装備の中では最強でしょうね」
 成程とアラインは頷いた。どうせ恥ずかしい思いをするなら何か褒章が欲しいところだ。こんな度胸試しもたまにならいいだろう。そう思い切り、壇上を駆け抜ける。
 跳躍したアラインは勢いのまま梯子を上った。両手は使わず足だけで。重力に引かれ頂上付近で頭が真下を向いたけれど、くるくる回って今度はロープの真ん中に着地する。
 おお、と観客の注目が集まった。アラインがまだ顔を隠したままなので「誰だ誰だ!」「顔見せてー!」と狙い通り関心も高まる。後は適当に楽の音に合わせて動き続ければいいだけだ。
 片足立ちで後ろ向きに、二本あるロープのもう一方へ跳ぶ。炎を灯した指を十字に大きく切って見せればその残像が人々を魅了した。調子づいてきたアラインは周りのダンサーにもちょっかいを出し始める。ふわりと鼻先に降り立って、腕を掴み、踊る身体を優しく放り投げた。何やってるんだろうなと我に返りそうになる理性を封じつつ、ダイナミックな動きでステージ上からライバルたちを退散させていく。ロープ、梯子、大きな段差、舞台のほとんどを後転跳びだけで移動した。
「いいバネをお持ちです!」
 と、涼やかな声が響く。背後を見上げれば賢者がぴったりアラインに寄り添いこちらの動きを模倣していた。軽やかすぎるステップに違和感を抱き視線を下げると、なんと彼の足元だけ地面が凍りついている。氷結は水属性の術の中では上級魔法にあたるはずだ。しかも詠唱も陣もなしに操ろうとすればかなりの魔力を消費する。
「ちなみにこういうこともできます」
 とん、とアラインの肩に手をかけ体重を預けると、一瞬の後賢者は空に浮かび上がった。ジャンプしたのではない。本当に浮いていたのだ。そよ風を身にまとって。
「……っ!!」
 こんな魔法見たことないぞとアラインは踊るのを忘れた。その隙を待っていたとばかり、賢者の指先が紅のマントに向けられる。微弱な静電気に指を打たれ、アラインは思わずマントを手離した。謎の踊り手が素顔を露わにしたことでステージを囲む人々は殊更盛り上がっている。
 銀髪をオレンジ色に染めながら、賢者は駄目押しに両手にふたつの炎を宿らせた。向き合ったアラインは無意識に息を飲む。炎は演出のひとつのはずなのに、あれで焼かれたらやばいかもなどと考えてしまった。
 賢者は余裕たっぷりに笑んでいる。背筋が凍りつくほどのプレッシャーだ。彼はそのまま頭上でふたつの炎を融合させ――垂直の火柱を放出し、満足げに腕を下ろした。
「いいもん見せてもらった! 好きな賞品持っていけ、おふたりさん!!」
 ――結局ダンスと言うより魔法の華で勝利をおさめたのではなかろうか。そんな気はしたが、賢者の力の片鱗を見せてもらえただけで価値あったので黙っておくことにする。
「それでは良い旅を。縁が続けばまたお会いすることもあるでしょう」
 ハルムロースと名乗った男は最後まで笑顔を崩さなかった。あんな炎を出現させておきながら、汗ひとつ掻いていなかったようだ。賢者というのはやはり優れた資質の持ち主なのだろう。
 仲間になってもらえないかと遠慮しないで聞けば良かったかもしれない。せめてどこに住んでいるのかくらい。
 だが不思議と、ハルムロースの言った通り、またどこかで会えるような気がした。



 振り向けばまだ遠くに少年を視認できる距離だった。リッペはぶすくれた表情を隠すこともなく「なんであいつ殺さなかったんです?」と主人に突っかかる。勇者と言えば魔族の敵だ。敵は弱いうちに潰しておいた方がいい。便利なこの街と違ってあの子供はいつか有害になると知れているのだから。
「ふふ、どうしてだと思います?」
「……?」
 にやついて不意の邂逅に対する喜びを見せるハルムロースにリッペは少なからず困惑した。魔王城の一角に居を構えているくせに、この男は本当に魔王になる気があるのだろうか。わざわざ敵に塩を送るような真似をして。
「……わかりません」
 正直に告げるとハルムロースは「私の出自に関する理由からです」と打ち明けた。
「獣だって血の繋がった相手を殺すのは忍びないでしょう?彼と私は同じ屋敷で育った仲ですから」
 もっとも少々時代がずれてはおりますが、と付け加え、主人は一度だけ少年の姿を振り返った。
「リッペ君、あなたはしばらく彼を見張っていてください」
「ええ!? 俺がですか!? ハルムロース様はどうするんです? 城に戻るんですか?」
「いいえ、私は兵士の国へ向かいます。色々と面白いことが起こり始めているようですしね」



 宿に帰るとなんだかすごいものがマハトを待っていた。ぴかぴかに光るアダマス鋼の盾、同じ素材の輝く小手、すらりと長い刀身の剣。
「あのーアライン様? こりゃ一体……?」
 これだけの装備を整えられる金は持ち合わせていなかったはずだ。まさか国王に賜った武具を売り払ったわけではあるまいし、何が起きたのか不思議で仕方ない。マハトがまじまじアラインを見つめると、主人は照れ臭そうに「実はダンス大会に誘われて……」と教えてくれた。
 だがまったく意味がわからない。勇者ぶるのが面倒だから別行動を取ることにしたのに、どうして自らそんな目立つことをしたのだ。まさか女か。可愛い女の子に誘われて、ホイホイついて行ってしまったのか。
「街で賢者だっていう人に会ってさ」
「へえ、賢者すか。すごいっすね」
 男の人か女の人か教えなさいと言うべきか、マハトは少し悩んだ。買い出しを任せ自由な時間を与えたのは自分なのだから、そこまで干渉すべきではないとも思う。アラインにはまだ幼さの抜けぬところがあって、心配なのは凄まじく心配なのだが。
「まあその人に、色々良くしてもらってね」
「はあ」
色々って何だ。何を良くしてもらったと言うんだ。段々と目が据わってきたのを自覚しながらマハトは努めて冷静に相槌を打った。俯いたまま話すアラインはこちらのピリピリした空気に気がついていないようだ。
「断れなくて……、ちょっとの時間ならって踊ってみたら案外評判良くって……」
「はあ」
「最終的にステージで踊り倒して、いつもの感じで笑顔振り撒いてたら、どんどん見物客が増えちゃって……」
「はあ」
「好きな装備品いくつでも持ってけって主催の人も言ってくれて……、だから、まあ、戦利品?」
「……」
 示されたベッドの陰にはまだ山ほどの武器と防具が積まれていた。明日はこれを換金するところから一日が始まりそうである。
 それにしても踊りで荒稼ぎしてくるとはアラインには芸能方面の才能があるらしい。国民行事のたびに見かける勇者スマイルもなかなかの名演技だし、役者とか芸人とかそっち路線でも十分食べていけるのではなかろうか。勇者として必要な技能かそれ?という疑念は尽きないが。
「あ、そういえば斧はどうだったんだ? いいの貰えたのか?」
「ああ、貰えました貰えました! 百年前にムスケルが使ってたのを研ぎ直した戦斧だそうで、ほら」
 腰に結わえた新しい武器を見せるとアラインは「へえ、これが」と目を輝かせた。少年らしい表情に我知らず頬が緩む。伝説となった勇者アンザーツとその旅に、アラインは子供の頃から憧れているのだ。
「次は目指せ祈りの街っすね!」
「ああ!」
 昂揚する少年をマハトは父親じみた気分で見つめる。アラインの両親が亡くなったのはもう十年以上前のことだ。それからはマハトやマハトの父母が彼を守り、育ててきた。
 今日マハトが譲り受けたのはムスケルが使っていたという斧だけではない。同じ倉から出てきた古い手紙も何通か――ムスケルが都の仲間に宛てたものを受け取った。お守り代わりにしてくれと笑った叔父の顔を思い出す。
 人々の期待を背負ってアラインは戦うことになる。重圧に負けそうになる日もあるかもしれない。アンザーツの旅を支え続けた戦士ムスケルのように、己も最後までこの子を支えよう。



 ******



 女神の加護とやらがかくも場当たり的で執念深いものだとは知らなかった。ベルクが幼馴染のノーティッツを連れ兵士の都を旅立って数日、ふたりの装備は当初揃えていた玉鋼の鎧シリーズからアダマス鋼の鎧シリーズにすっかりバージョンアップしていた。
 道を歩けば困り果てた成金商人と出会い、食堂に入れば街の名士に何事か頼まれ、宿に泊まれば宿屋の亭主から相談事を持ちかけられる始末。しかもその都度破格の報酬か豪華装備品御礼が待っているというサービスぶりで、にわか金持ち冒険者の一丁上がりというわけだ。
 ベルクも一応は王族というやつなので大金に慣れていないわけではない。が、細々としたクエストを短期間に乱れ打たれ、大分うんざりしつつあった。目の前でセレブがスリ被害に遭ったり、はたまたセレブが誘拐されそうになったり、そんな事件はしょっちゅう起こるはずないのである。誰の仕業かなんてことは初めからわかりきっていた。
「すっごいわざとらしいよね……」
 宿場街の安っぽい寝台の上、呆れ返っているノーティッツにベルクは「ああ」と力強く頷く。そもそもが気乗りしない旅立ちだっただけに疲労感は半端でない。なんなのだこの誘導されている感は。こんなのが勇者の旅なのか?
 魔物と戦えと言うのなら、もう旅に出てしまったのだし断るつもりはない。その延長で魔王を倒せと言うのなら、やるだけやってやろうじゃないかという気概もある。だがこれは、これは絶対に何かが違う。こんなイージーモードで冒険をしていたら性根が腐って心のアンデッドになりかねない。
「おう、ノーティッツ」
「何?」
「俺ぁ決めたぜ。次なんかされてもゼッテー無視する」
「……仮にも相手は女神さまなんだけど」
「関係あるかよ! 腹立つんだよこういうの!!」
 やれやれとノーティッツは嘆息したが、ベルクの腹の虫は治まらなかった。こう、あれだ。他人を操って自分の望み通り動かそうというやり方はいけ好かない。他力本願なことをしていないで魔王城でもなんでも自分で殴り込みに行けばいいのだ。
「無視できたらいいけどねー」
 ノーティッツはどこか達観している風だった。幼馴染は頭が良いので既にある程度先の事態まで予測していたのだと思うが。
「た、大変です! お客さん、とと、盗賊が、盗賊ヴルムが襲ってきましたああ!!」
 そうら来たとベルクたちは盛大な溜め息を吐き零した。こちとらとっくにトラブルには慣れっこだ。本当に嫌気が差してくる。
「金出して命乞いしろ。人殺すほど気合入った賊じゃねえよ」
 悲愴な表情で駆け込んできた宿の亭主にベルクはひとことだけ返す。金なら自分たちが出してやるからと。
 ぽかんと口を開いたおっさんの間抜けなこと間抜けなこと。あの馬鹿女に振り回されまいと大金はたくこちらもこちらだが。
「ええと……お客さん?」
「盗賊ヴルムって名乗ってんだろ? 筋肉ムキムキのスキンヘッドが、だっせえ薔薇の旗掲げて」
「え、ええ」
「こないだ苛め過ぎたからよ、今回は見逃しといてやんだよ。この金も元々あいつらのモンだしな」
 金貨の詰まった小袋を放り投げると主人は両手でキャッチする。ついでに窓からシーツで作った白旗を出してやった。レールに乗せられた挙句やらせ戦闘などかったるくて付き合っていられない。
 部屋から主人を追い出してしばらくすると、階下で話し声が聞こえてきた。どうやらヴルムとの交渉が始まったようだ。
 ヴルムは大悪党とも小悪党とも微妙に異なる、珍しいタイプの盗賊だ。金さえ用意すれば手荒な真似はしないと公言し、事実その通りにしている。堅気の盗賊という表現は語弊があるかもしれないが、多分それが一番近い。しかし奴が真っ当な男かと問われれば答えは否だった。盗品はしっかり闇ルートで売り捌くし、時に人身売買まがいのことも行う。前回ベルクがヴルムをこっぴどく痛めつけたのは、さる金持ちの令嬢を「身代金を支払わない」という理由で売り飛ばそうとしたからだった。
「世間の裏側に入り込んじゃうと、多少のことじゃ戻って来れないみたいだねえ」
「そうだなあ」
 それでも薔薇の一団は人を殺していないだけマシだった。悪人には悪人の道徳があるらしく、ヴルムでさえ殺人を請け負って金を稼ぐような連中は毛嫌いしている。ベルクにしてみれば他人が汗水垂らして得た金を横からかっぱらうのも同罪に思えるのだが。
「……!!」
 と、そのとき客室がキラキラした例の浮遊物体に満たされた。あの女が現れたのだ。
 鼻息も荒くベルクは辺りを見回した。ひとこと文句を言ってやろうとしたのだが、それより女神が困った顔でシナを作る方が早かった。
「あのう……勇者ベルク、盗賊が宿を襲っているのですが……」
「だから?」
「あのう……助けないのですか?」
「助けたじゃねえか。金出せば見逃してくれるぜって助言したし、その金も払ってやったし。立派な人助けだろ?」
「え……えっと……」
 女神の顔は笑っていたが、表情は完全に引き攣っていた。どうして勇者らしく動いてくれないのかしらと露骨に瞳が語っている。
「お金で解決できる場合は盗賊を撃退しない、ということでしょうか?」
「さあな。気分にもよるんじゃねえ?」
「ええっと……」
 女神はすっと視線を逸らすと一生懸命ノーティッツにアイコンタクトを送った。ベルクがどうして不機嫌なのかわからない、手助けしてくれという意味だ。だがそんなものを受け入れるほどノーティッツもお人好しではない。
「どんな困難も解決できるなんて、お金はやっぱり最強ですね!」
 白い歯を輝かせ、幼馴染はあんなことを言っている。さっきまで「仮にも相手は女神さまなんだけど」とかのたまっていたのはどの口だ。喜々として困らせにかかっているではないか。
 ノーティッツは満面の笑みで親指を立てていた。つられて女神も親指を立てていたけれど、確実に意味は理解していない。
「あ、でも盗賊は悪い人間ですから、懲らしめないといけないと思うのですが」
「けどついこの間ボコボコにしたところだしなあ」
「そうだよねえ、向こうもそう何回もぼくらの説教聞きたくないよねえ」
 女神はほとほと弱り果てた様子だった。てこでも動くかというこちらの意志は多少なり伝わっているのだろう。「でもでも、あのう」としばらく繰り返していたが、やがて黙り込み喋らなくなってしまった。
 そろそろヴルムも金袋を受け取って出て行く頃合いだ。これに懲りて女神も妙なお膳立てをしなくなればいいのだが。
「……わかりました。勇者ベルク、確かにあなたにもどういった方法で問題を解決するか選択する権利があります。私の考えが甘かったようです」
 そうそう、わかればいいんだとベルクは満足げに頷いた。
「ま、あんたも人間の思考ってもんには不慣れだろうし、今回のことは俺らももう……」
 不問にしてやるよという上から目線の台詞を耳にしたくなかったのか、気がつくと女神は部屋から消えていた。「あれ?」と言ってノーティッツもキョロキョロ室内を確認する。
「あの女どこ行った?まさかもう帰ったのか?」
 嘆かわしい、別れの挨拶ひとつできないとは天界の躾は一体どうなっているのだ。それともあの女が絶望的に空気を読めないだけか。
 まあいいやとベルクが椅子に腰を落ち着けようとしたときだった。耳をつんざくような、それでいて非常にわざとらしい悲鳴が上がったのは。
「きゃ〜〜〜〜〜!! あーれー!!! 勇者様助けて〜〜〜!!!!」
 ベルクとノーティッツは同時に激しくずっこけた。あの阿呆女神は一体どこまで阿呆なのだ。
「た、た、大変です! お客さん、お連れ様が!!」
 どたばたと主人が駆け上がってくる頃にはヴルムたちは馬を駆り悠々撤退を決めていた。ストレス性に違いない頭痛をぐっと堪えてベルクは部屋を出る。なるべく平静を保つよう心がけながら階段を下りたが、廊下にべったり筋を作っている金色のキラキラを発見するともはや耐え切れなくなった。――だからそういう誘導が!やる気を萎えさせる原因なんだよ!!
「うがあああああああ!!! あのアマ一発殴ってやる!!!!!」
 火を吹く勢いのベルクをノーティッツが宥め賺して押さえ込む。それでも一度頭蓋の天辺まで昇った血液はぐつぐつ煮え滾ったまま冷めなかった。
「まあこのわかりやすすぎるダンジョンへのいざないはぼくもどうかと思う。どーかと思うけどな!」
 落ち着け、まずは冷静に聞け、とノーティッツが囁いた。
「女神さま……さらわれた女の末路なんて何ひとつ考えちゃいないと思わないか?」
「…………」
 ノーティッツが言いたいことはすぐわかった。天の女神は世間知らず。当然女が男の商売に使われるなんて知るわけない。盗賊どもが値踏みのために「味見」する可能性があるということもだ。そもそもそういった行為自体、見たことも聞いたこともないだろうから、多少脱がされたところでポヤポヤしているだけに違いない――。
「……め、女神って非処女でも天界に帰れんのか?」
「どうだろう……っ!」



 ばたばたと鎧を着込み、盾と剣を担ぎ、身支度を整えたベルクとノーティッツは駆け出した。幸い女神の痕跡は道なりにずっと続いていたので聞き込み調査の必要はない。ただひたすらに後を追うだけだ。
 盗賊ヴルムのアジトは宿場町からそう遠くない山中にあった。先日完膚なきまでに破壊してやったのはどうやら本拠地ではなかったようだ。盗賊の隠れ家のくせして薔薇園を育てていたのが無性に癪に障り、無用の暴力まで振るってしまったというのに。
 途中農家で馬を拝借したので思ったより早く到着できた。目立たぬように近くの木によじ登りアジト内の様子を窺うと、絶世の美女という予定外の収穫に盗賊たちは大いに沸いて、飲めや歌えやしているようだった。
「……あの感じだと宴の盛り上がり最高潮って頃に『ちょっと女の様子を見て来いよ!』とか言い出す馬鹿が出そうだな」
「流石ベルク。下衆の考えることなら全部お見通し」
「お前いっぺん死んでくるか?」
 軽口を叩く間にノーティッツは袋からガサガサと紙束を取り出し、一番上の何も書いていない紙に砦の見取り図やら推定の間取りやらを描き始めた。こういう脳味噌を使わなければいけない作業がベルクは大の苦手だが、ノーティッツはその逆だ。あれよという間に攻略ポイントを定めてしまい、作戦立案まで終わらせてしまう。
「入り口は正面と裏口のふたつだな。まずあの正面玄関を呪符で爆破して火をつける。敵襲だ、とか騒いで下っ端が集まると思うから、更にもうひとつの呪符で小爆発。これでかなり数を減らせる。で、表で騒いでもらってる間にぼくらは裏口から侵入だ。風の魔法で逃げ道に火が回らない&新手が入り込めないようにしつつ、三階宴会場へ突入、ベルクによる虐殺。その隙にぼくが女神さまを探して解放、後に快楽殺人鬼ベルクと合流、火勢で盗賊たちを圧倒しながら脱出――めでたしめでたしと。名付けて『なにそれベルクこわい』作戦」
「作戦名は気に入らねえが概要は把握した。あとお前はやっぱり死ね」
 了解の意を確かめ合うや、ノーティッツは早速二枚の呪符を用意し魔力を込めた。自分自身はまったく魔法に縁がないのでどんな小さな術でも感心してしまうのだけれど、幼馴染に言わせれば彼の魔法など初級も初級らしい。
 枝を降り、茂みに隠れ、いつでも裏手に回れるよう体勢を整える。ノーティッツが短い息を吐いた後、ドドドドーンという過激な爆発音がこだました。
「うわあああ!!!」
「なんだなんだああ!!!」
 それはそれは様々な怒号と悲鳴が入り混じり、あっという間に一階すべてに火が回る。当然裏口も燃えていた。
「……女神さま、ぼくに勝手に魔法強化の術をかけてたっぽい」
「ドンマイ」
 強い同情の意を込めて幼馴染の肩を叩けばノーティッツは「大丈夫、大丈夫」と笑みを浮かべた。
「もうついでだから二枚目行っていいよな?」
 あ、切れてる。こいつ切れてる。



 ――数十分後。無残に崩れ落ちた焼け跡から煤だらけになったヴルムが這い出してきた。その首元にバスタードソードの先を向け、ベルクは「女返せ」と吐き捨てる。
「ヒィッ!?べ、ベルクさん!?」
 この男を見ていると非常にムカムカしてくるのは自分だけでないはずだ。鍛え上げられた屈強な肉体、わかりやすいほどの悪人面、声だって野太いオッサンのものなのに、これが薔薇育ててますって顔かよ。なんだって趣味がティーカップ収集なんだよ。
 近頃ヴルムはリリアンにも興味を示していたらしい。おそらく来冬には配下とお揃いで着こなすつもりだったのだろう、炎から逃れた棚には編みかけのセーターが置かれていた。前回アジトを襲撃した際は陶器のポットにローズティーが淹れられていたし、見た目とのギャップに鳥肌が立つ。
「さっさと返さねえとこうだぜ」
 クイ、とベルクが顎を反らすとそれに応じて隣のノーティッツが完成間近のセーターを引き裂いた。
「ああ!」
 幼馴染は更にガーベラ模様のクッションを八つ裂きにし、うさぎさんのぬいぐるみの耳をちょん切る。
「あああ!!」
 うさぎさんへの凌辱は続いた。真っ白な背中に「ゴンザレス」「全国制覇」と刻むだけでは飽き足らず、ノーティッツは鼻毛や眉毛をボウボウに描き足す。
「も、もうやめてくれぇ!!」
 ヴルムは完全に戦意を喪失していた。大勢の部下たちもあらゆる財産が焼失したという現実を直視できず、縛られているわけでもないのに動けずにいる。
「お、女なら暴れても運びやすいようにと棺桶に……」
「――!!」
 予想外の監禁場所にベルクとノーティッツは息を飲んだ。てっきり最上階にでも閉じ込められているものと思っていたのに。あの女ならどこにいたとしても飛ぶなり消えるなりして火難を逃れられそうだが、棺桶の中となれば話は別だ。燃え盛る砦に気づかずずっと閉じこもっていたかもしれない。
「あれじゃないか?」
 ノーティッツが示した先には確かに黒い棺があった。きらきらふわふわの浮遊物体は意識がないときは出ないのか、今は何の輝きも放っていない。
「もう悪さすんなよ」
 言ってベルクはヴルムの鳩尾に痛烈な蹴りをお見舞いした。ぐふ、と言ったきり盗賊はぴくりとも動かなくなる。これでもう明日の朝まで目覚めることはないだろう。
「よっ……と!」
 棺桶の蓋を足で開くと女神はのんびり居眠りしていた。あどけない寝顔にほっとして一瞬怒りを忘れる。口を閉じて何もしなければそれなりにイイ女のはずなのに。
「んんぅ……」
 ごしごしと瞼を擦り女神は薄ら瞳を開いた。視界にベルクを認めると、見る間に頬を赤く染め全身で喜びを表現する。
「まあ、勇者ベルク! 助けに来て下さったのですね!!」
「たわけ者――ッッ!!!!!」
 がばりと抱きつかれかけたのを全力でかわしてベルクは女神を張り倒した。女だからとか女神だからとか関係ない。今ここでこうしておくのがこの女のためだ。
「なっ、なっ……! 何をなさるのです!? おおお、お父様にもぶたれたことなどないのですよ!?」
「てめー女神のくせにそんなこともわかんねえのか!? てめーがてめーの都合で人様に迷惑やら心配やらかけまくるからこうしてんだろうが!!」
 もう一度、今度は反対側の頬を張るとこんな時だけ空気を読んで「二度もぶちましたね!?」などとほざく。こいつ本当はわかっててやってるんじゃなかろうな。
「次こんなくだらねー真似しても俺は助けになんてこねーからな」
「……なんという! それが勇者の言葉ですか!!」
 憤慨している女神の言をそれ以上聞いてやる優しさは生まれてこなかった。心配したのも迷惑したのも確かだが、ベルクには己のムカつき具合を説明できるだけの語彙がない。
「ぼくからも最後の忠告です」
 いつの間にかノーティッツが側まで来ていてベルクの隣に膝をついた。幼馴染は至極真面目な顔をして女神を見つめている。なるべく伝わる言葉をと、彼なりに気遣う様子が見て取れた。ついでに言えば、ありゃ女口説くとき用の顔だとも。
「女神さま、あなたはぼくらを助けすぎなんですよ」
「た……助けすぎ……?」
「ええ。あなたがベルクの自由を――ベルクらしさを奪っています。型に嵌め込もうとしたってこいつがすっぽり収まるわけないのに」
 そんな風に助けられたって勇者の風格なんて身につきませんよと諭す声は珍しく本気で優しい。こちらに説教をかますときはもっと喧しいのに。
「無理矢理勇者に仕立て上げようとしなくても、ぼくは十分こいつは勇者の器だと思います。なんだかんだ言ってあなたを見捨てられなかったのは事実だし」
「……おい」
「困った人は放っておけないし、勇気もあるし行動力もある。皆から頼りにされて、人を惹きつけるものを持っていて」
「……」
「ぼくはずっと、子供の頃から、ベルクみたいな奴を勇者と呼ぶんだろうなと思ってました」
 いやいやそれは話を盛りすぎだろうと思ったが、突っ込むに突っ込めずスルーする。凄まじい照れ臭さと居心地の悪さに表情筋は固まりまくっていた。
「……そう、でしょうか」
「そうでしょうか、じゃなくて、そうなんです。ぼくらはぼくらの力で旅をすることができます。だから」
「わ、私は……不要な存在なのでしょうか」
 かぶりを振ったノーティッツが女神に何を伝えんとしているか、不覚にも察してしまった。察してしまったらじっとしておれず、つい割り込む形で「おい」と声を張り上げてしまった。
「――だから、つまりだな。女神としてどうのこうのっつうんじゃねーんだよ。そうじゃなくて」
「そうではなくて……?」
「あー、困った時に助け合うぐらいの仲間がちょうどいいってこと! 導かれっぱなしじゃ俺らの立つ瀬がねーからな」
「……仲間……」
 女神はわかったのかわからなかったのか曖昧な顔をしていた。勇者を導かない女神というのが今ひとつ飲み込めないらしい。
「名前をね、教えてもらえませんか?それで他愛ない話をして、しばらく一緒に過ごしてみるんです。そうしたら少しずつ、あなたもこいつに任せてみようと思えるようになるはずです」
「……」
 ノーティッツの提案を受け入れてくれたのだろうか。女神は少し間を置いて「ウェヌスですわ」と己の名を呟いた。
「ウェヌスだね。了解」
「ふーん、案外普通の名前だな」
「ふ、普通? 天界では『ウェヌス』とは最も美しい魂に……!」
「まあなんでもいいけどよ。……あー、ええと」
「改めてよろしく、ってベルクは言いたいみたいだね」
「うるせー、黙れ女たらし!」
 ウェヌスの身体からはもうあの奇妙な発光体は生成されていなかった。それは彼女が女神であることを一時放棄した証であったのかもしれない。何にせよ、これでやっと自由意志のもと冒険することができそうだ。











(20120528)