第十一話 約束の果て






 さあ時は訪れた! 祝福すべき約束の日だ!
 アルタール、随分待たせてしまったね。ようやく本当の君に会える。強く、優しく、勇敢な。
 だがその前に最後の仕上げをせねばならない。蠱毒の勇者を導いて、呪いを成就させなければ。
 もうすぐだ。もうあと少しだ、アルタール。
 全ては君のためにあった。時間も、世界も、災いさえも。
 今日で苦しみとはお別れだ! フィナーレを飾るステージを造ろう!
 戦え!! 殺し合え!! そして魂を差し出すがいい!!






 ――地鳴りと縦揺れの凄まじさに、ツレットは初め地震が来たかと勘違いした。
 立っていられないほど波打つ床、泥土と化した壁と柱が屋根の重みに潰される。その天井も、氷が溶けるように消えてなくなった。館自体が消失したのだ。急に、何の前触れもなく。
 否、遠く鐘の音が聞こえていた。いつも賢者が試合の前に鳴らしていた、あの不愉快な金属音が。
「ツレット君、大丈夫!?」
 悲鳴じみたペルレの声になんとか平気だと返したところで揺れが収まる。代わりに今度は足元から木が生えてきた。天を突く大樹が何本も、何十本も枝葉を広げ、そこら一帯をたちまち森に変えてしまう。賢者の館はもはや見る影を失っていた。どうやらこれが最後の試合場らしかった。
「さて、全員揃ったな」
 間を置かず冷たい囁きが降ってくる。気づけばバイトラートやアルタール、ウーゾ、シェルツも集まっていた。
 昨夜は結局バラバラのままだった。シェルツとペルレの二人とは最終戦での方針を話し合えたが、他は部屋に閉じこもったきりだったから。
 アルタールは、おそらく自分一人だけ生き残ろうと図るだろう。ウーゾは復讐を遂げる気でいる。動きに注意せねばなるまい。バイトラートは心を落ち着かせられただろうか。アルタールを捕獲するのを、彼にも手伝ってもらえるといいのだけれど。
「準備はできているね? では最終戦を始めてくれ」
 開始の合図に顔を顰める。悠々宙に浮いていたヒルンゲシュピンストは鐘を放り投げ掻き消えた。
 すぐに出て来ざるを得なくしてやる。ツレットは目を鋭くし、傍らのペルレに手招きした。彼女が時間を止めてくれている間にアルタールを縛り上げる予定だったのだ。――だが。

「なあ、お前、俺と組まないか?」

 想定外の一言に、思考も行動も停止した。バイトラートが呼びかけたのは、ダガーを握り締め飛び出そうとしていたウーゾだった。 
 なんでと目を丸くする。なんで。ウーゾは、脱出なんてこれっぽっちも頭にないのに。
「……俺は自分の復讐しか考えてない」
 きっぱりとした拒絶にバイトラートは薄笑みを浮かべた。「わかってるさ。だからお前に聞いたんだ」と。
 瞬間、望みもしない閃きがツレットの脳裏で弾ける。信じられないという思いで竜殺しを振り仰いだ。
「まさか俺たちと戦うつもりなのか!? ネルケさんが死んだのはペルレのせいじゃないってわかってるんだろう!?」
 バイトラートの右手には既に神剣が抜かれている。見つめ返した双眸は全く笑っていなかった。本気なのだと背筋が凍る。
「恨んではねえよ」
 淡々と、いつでも刃を振れる体勢で剣士は憎悪を否定した。
「だけどあいつは、もうペルレの中にしかいないんだろ? だったら……」
 直感的にまずいと断じて跳び退る。オリハルコンの斬撃は、ペルレを庇ったツレットの頭上すれすれを通り過ぎていった。直後、ずしんと音を響かせ背後の樹木が倒木に変わる。悪意はなくとも殺意があるのは明らかだった。
「なんで……」
 言ってくれたのに。最善を尽くしたのなら胸を張っていいと。
 助けてくれたのに。教えてくれたのに。一緒に戦ってくれたのに。
 なんで。

「理屈じゃねえんだ。俺はもうこういう風にしか動けない。何も期待しないでくれ」

 ショックに固まっている暇もなかった。「ゴチャゴチャ何を言ってやがる、そいつは俺の獲物だ!」とウーゾが飛びかかってきたから。
 こんな状況で決闘を受けられるはずもなく、咄嗟に雷鳴を轟かせた。威嚇効果はあったようで、全員その場に縫い止められる。逃げ出す機を窺っていたペルレ以外は。

「ツレット君、一旦ここを離れよう。アルタールさんをどうにかしても、バイトラートさんがあれじゃ取引どころじゃないよ」

 そろそろ見慣れた灰色の世界。ツレットは魔女と手を繋いでいた。雲隠れしようという提案に頷き丘を駆け下っていく。まだ命の恩人に敵意を向ける気にはなれなかった。
(バイトラート……!!)
 なんでなんだと胸中で叫ぶ。精神も、肉体も、一番強い人間だと思っていたのに。






 ******






「バイトラートさん、いけません。僕たちが団結しないとヒルンゲシュピンストの思うつぼですよ!」
 舌打ちしたい気分を堪えて紳士の仮面のまま諭す。シェルツがいくら追い縋っても竜殺しは無視を決め込んでいて、忽然と姿を消したペルレとツレットを探すのを止めなかった。
 ずんずんと坂を上るバイトラートとは逆に、ウーゾは坂を下りていった。あの青年が竜殺しと組む気にならなかったのが不幸中の幸いだ。戦闘意思のある候補者につるまれたら各個撃破が難しくなる。彼らには単独行動を取ってもらわねばならなかった。
(つっても予定は狂っちまってるけどな……)
 どさくさ紛れに逃げるのはアルタールの得意技らしい。最初に始末してやるつもりだったのが、仲間割れの隙を突いて早々といなくなっていた。
 ふざけやがって。計画が台無しだ。まずあの箱入りを殺すのが第一に優先すべき安全策だったのに。
「あんたもう諦めてくれねえか? 今となっちゃ、賢者の思惑だの館からの脱出だのどうだっていいんだよ」
 嘆息混じりにバイトラートが振り返る。憔悴の読み取れる表情を観察しつつ手の内を考えた。
 まだ多少油断してくれているとは言え、ここでこの男と一対一は無謀だろう。少なくともペルレの時魔法を手に入れた後でなければオリハルコンの相手はできない。であれば今後の行動指針を聞き出すくらいが関の山か。
「……ペルレさんを殺した後はどうなさるおつもりなんです?」
 最も望ましい返答は「後のことは考えていない」「誰に殺されても構わない」だった。が、バイトラートもそこまでの自暴自棄ではなかったらしい。静かな声音ではっきりと告げてくる。
「俺はあいつを忘れる気はねえ」
「……つまり生きて弔いを続けたいということですね?」
 じり、と一歩後退した。つつきすぎたかもしれないなと眉根を寄せる。バイトラートは剣を手にしたままこちらを見据えていた。
「最後の一人になりたいのなら、アルタールさんを倒すまでの間だけでも……」
 笑って首を横に振られる。賞金稼ぎのくせに汚い戦法には手を出したくないらしい。もう死んだ、抱けもしない女のためにだ。馬鹿馬鹿しくて溜め息が出る。
「けど確かに、それなら順番にこだわることもねーのかな」
 向けられた剣と竜殺しの視界から逃れるために土壁を構築した。脱兎のごとく茂みの間を駆け抜ける。
 やはり駄目だ。最初に立てた計画は遂行できそうにない。アルタールを袋叩きにして、不意打ちでペルレを殺めれば問題なく勝利を積み上げられる算段だったのに。
(仕方ねえ、こうなったら先にガキどもと合流してペルレをぶっ殺そう。アルタールは後回しだ。バイトラートと潰し合ってくれりゃあベストなんだがな)
 眼下一面に広がる森は元あった館の敷地の十倍はあるかに見えた。裏町育ちの己が人探しするには骨が折れそうだ。
 慎重に行かねばなるまい。ここまで勝ち進んだ候補者たちには勝ち進んできただけの理由がある。アルタールは賢者に贔屓されているし、バイトラートは神剣持ちだ。ウーゾの気功術も侮れない。ペルレの時魔法、ツレットの途方もない魔力量は言うまでもない。平凡な人間がのし上がるには正攻法では通じないのだ。積極的に背後から突き刺していかなければ。
(ガキと女にゃ優しくしておくもんだぜ)
 良かったな。死んだとわからないくらい一瞬で終わらせてやるよ。






 根の入り組んだ大樹の陰、低く身を伏せ乱れた呼吸を整える。
 はあ、はあ、と漏れ出る息を無理矢理掌で押さえ込んだ。誰にも聞き咎められないように。
「アルタール、こそこそしていないで剣を取れ。戦わなければ道はないぞ」
 無遠慮にせっつかれ、ぎろりと空中を睨み上げる。
「のこのこ出て行けば真っ先に狙われるのは僕じゃないか……!! 五人一斉に襲いかかってくるかもしれないのに……!!」
 文句をつけてもヒルンゲシュピンストはどこ吹く風で笑っていた。この状況を設定したのはそちらのくせにと怒りが湧く。アルタールには一人も味方がいないのに。
「心配するな。彼らに絆なんてものはないよ。纏まっているのはツレットとペルレの二人くらいだ。的の選択を誤らなければ君だって十分戦えるさ」
「戦えるって言われても僕は……!!」
 忌々しさを込め、腰に結わえた刀を掴む。武器の使い方だってろくに知らぬまま戦場へ放り出されて、指南してくれる教師もいなかったのだ。魔法なら少しはましかもしれないが、戦闘が生業の賞金稼ぎや時間を止めてしまう少女相手にどう戦えと言うのか。
「お前、まだ僕を昔の僕と同じだと思ってるんじゃないのか? こうすれば戦い方くらい思い出せるって適当に考えてるんじゃないのか? 僕でも勝てそうな相手なんて、あの中には……!!」
「そうしてまた私が助ける気になるまで逃げ回るのか? 君にとって最も生存可能性を高くできる選択なのは理解しているが、勇者としては最も有り得ない選択だよ、アルタール」
「……だから、僕は勇者だったときのこと覚えてないって言って……」
「以前の君とて最初から勇者だったわけではないさ。戦いの中で勇気を培い、逞しく成長していったんだ。せめて一人くらい独力で敵を打ち倒す努力をしてみたらどうだ? 勝たねば自信はつけられまい。いい加減、私も君にお説教するのは飽きてきたよ」
「…………」
 これが他の誰かに言われた台詞なら、至極真っ当な意見として聞き入れられたのかもしれない。
 勝手に連れてきたくせに。責める思いは消し切れなかった。己の弱さは悪ではないと訴える声は。
(無理に決まってる。よっぽど油断してる相手とか、怪我して弱った相手じゃなきゃ)
 ヒルンゲシュピンストは「健闘を祈る」と言い残し、どことも知れない空間に消えて行った。 静寂に響く風の音が、自分が今ひとりぼっちであることを思い知らせるようである。
(せめて一人くらい……)
 一人倒せば戻ってきてくれるだろうか。最後まで守ってくれるだろうか。
 縋らず済むならあんな化け物に縋りたくはないけれど。






 なんだか妙に剣が重い。いつもなら羽根より軽く振り回せるのに。
 シェルツの後を追う気にもならず、バイトラートは丘の頂上を目指し歩いた。一番高いところからならペルレを見つけやすいかという判断だった。
「お前、持ち主の気分に合わせなくたっていいんだぜ」
 ずっしりとした大剣が返事を寄越すことはない。オリハルコンは静謐な輝きを湛えている。これからこの刃がどんな用途に使われるのか、剣は予期しているのかもしれなかった。
 ――死があの子との同化を意味するのなら、それも悪くはないさ。
 ドルヒの遺した言葉が耳に甦る。
 立ち止まっている場合ではない。あの女を取り返すのだ。たとえ魂の形すら失っていたとしても。
(なんでかな。呪いから解き放ってやろうって感じじゃあないんだよな)
 嫉妬も多分あるのだろう。ヴォルケンが幼馴染に執着心を見せるまで、バイトラートの中に焦りは生じていなかった。
 離したくない。ネルケの本心を知った今、その思いは一層強まっている。
(身勝手なもんだ。我ながら)
 十年側にいる間に思い上がっていたのだろう。いつでも自分が守ってやれると。あいつも側を離れないと。
 あんなに色濃く死の臭いを漂わせた女だったのに。罪の意識と恋慕の区別もつかなかった自分なのに。
 遺言を知らされなければ今もツレットやペルレたちと、蠱毒を破る方法はないか頭を悩ませていただろうか。
 まだ生きているうちから呪いに囚われるとは思ってもみなかった。
 こんな影に、忍び寄られていたのだとは。






 ******






 ヒルンゲシュピンストの生み出した森は、かつてペルレがクヴァルムに連れ去られかけた場所を思い起こさせた。
 高くから見下ろしてくる針葉樹。光を阻む枝葉の屋根。でこぼこ道には獣捕りの罠に似た根っこのアーチがかかっていて、駆け回るのは難しそうだった。逆に襲われにくくもあるのだろうが。
「しまったな。シェルツも一緒に逃げれば良かった」
 岩陰に身を隠してすぐツレットが眉を顰めた。バイトラートの離反があまりに突然で、彼もペルレも冷静さに欠けていたのだ。おまけにウーゾにも牙を向けられて、咄嗟にツレットを連れ出すことしか考えられなかった。
「どうする? 近くを探してみる?」
「ああ。だったら俺が行ってくるよ。ペルレはここで……」
「ううん、私も行くわ。いつ誰から逃げなきゃいけないかわからないんだし」
「……そうだな。わかった。二人で行こう」
 ツレットは物わかりよく了承する。お互い仇討ちと狙われている身だ。奇妙な同盟関係を結んだようであった。ペルレの方は、もういつ死んでしまっても構わなかったのだけど。――でもツレットが頑張ろうとしている間は彼の力になりたかった。こんなときでも前を向いていられる人を、一人にはさせたくなかった。彼と同じに真っ直ぐ立つことはできないから、せめて後ろに寄り添うくらいは。
「あっ! ねえ、あれシェルツさんじゃない?」
 歩き始めて少しすると、前方を長身の人影が横切った。あちらもすぐに気づいたらしく、おおいと手を振られる。
「良かった。置いてきちゃってごめんなさい。迎えに行くところだったんです」
 ペルレの謝罪にシェルツは「いえいえ、気にしてませんよ」と笑ってくれた。ツレットも仲間の無事にホッとしたようだ。ここでは見つかりやすいだろうと先程の岩場に移動を促す。
「どうやら我々三人でアルタールさんを倒さなければならないみたいですね」
 聞けばシェルツはバイトラートの説得を試みていたらしかった。最後は神剣を振り翳されたと言うから、これ以上は呼びかけても無意味だと思われる。
「ペルレさんだけでなく、他の候補者とも戦うつもりだそうです。なのでもう……」
 報告を聞くツレットの顔は暗い。まさかバイトラートと敵対する羽目になるとは考えていなかっただろう。魔力がなく、ネルケに抵抗できなかったと言え、直接の原因は自分である。酷く申し訳がなかった。彼ら二人も歳の離れた兄弟のように親しげだったのに。
「作戦を立て直さないとな。アルタールだって複数に囲まれるのを警戒してるだろうから……」
「まず居所を掴むことですね。彼は孤立してますから、どこかに潜伏しているはずです」
 崖に沿った細道を一列になって下っていく。背後のシェルツと最後尾のツレットのやり取りを耳にしながら、ペルレはぼんやり昨夜の会話を思い出していた。アルタールをどうにかして、それで本当に賢者が止まってくれるのかと。そうツレットに投げかけた疑問を。
 ヒルンゲシュピンストは何百年とかけて一連の計画を準備してきたのだ。手抜かりなどないのではないかという気がする。オリハルコンが賢者の術を切れなかったように、水時計がダミーだったように、アルタールにも何か保険がかけられていておかしくはないのでないか。
(いえ、寧ろあると考えるべきだわ。でなきゃアルタールさんに絶対不利な六人同時の決勝戦なんてやるはずないもの。きっとヒルンゲシュピンストの隠してることがまだ……)
「きゃっ!!」
 考えごとに耽っていたせいで足元が見えていなかった。思い切り派手に転がってしまい、気恥ずかしさでペルレは耳まで真っ赤にする。なんて鈍臭いのだろう。躓きやすい木の根が多いのはわかっていたはずなのに。
「ご、ごめんなさい。大丈夫よ、ちょっと擦り剥いただけだから」
 尻餅のまま見上げると、ツレットとシェルツの間におかしな空気が流れていた。もしや後ろの二人には、ローブの中まで見えてしまっていたのだろうか。それは本当にごめんなさいとしか言いようがない。
「ちょっと待てよ。なんだよそのナイフ……」
 だがツレットは既にペルレが眼中外であった。狩人のよく冴えた目は、前方に突き出されたシェルツのナイフを睨んでいた。
(え?)
 きょとんと目を丸くする。もし転倒しなければ、あのナイフはペルレの心臓を裏側から抉っていたのではなかろうか。
「シェルツ、どういうつもりだ!?」
 釈明の言葉は聞けなかった。突如地面に開いた大穴に墜落させられてしまったから。
 あっと叫ぶこともできなかった。続いてペルレの頭上には大量の土砂が降ってきた。この土魔法の使い手は、ペルレを生き埋めにするつもりなのだ。
(シェルツさん……!?)
 真っ暗闇に閉じ込められる。もがいてももがいても救いの手は差し伸べられなかった。






 危うく崩落に足を取られるところだった。ツレットは高く跳躍し、掴まった杉の枝からシェルツを見下ろした。
 視認できる範囲にペルレはいない。やはり土に飲み込まれてしまったらしい。
 信じられなかった。あの紳士が女の子にそんな真似をするなんて。
「なんであんたまで……ッ!!」
 悲痛な叫びに一瞬シェルツがたじろぐ。彼は飛び道具を持っておらず、樹上のツレットを攻撃しあぐねていた。
 土魔法の落とし穴に即座に反応できたのは聖山で鍛えられたブラオンの身体能力のおかげだろう。昨日戦ったクノスペも、これまで武芸や格闘術に長けた者を食らってきたようだった。注意すべきは魔力だけだと見くびられていたのかもしれない。こんな形で命を奪われそうになるなんて。
「シェルツ!!!!」
 答えない男に焦りと苛立ちが募る。シェルツは新しい穴を開けることはなかったが、ナイフを捨てもしなかった。
 普通の魔法は大がかりな術を使えばほんの数回で打ち止めだ。ペルレの魔力が取り込まれるのを待っているのだと思われた。或いは別に策を巡らせているのかもしれない。これが突発的な凶行でないとすれば。
(早くペルレを助けないと……!!)
 悩んでいる時間はなさそうだった。ペルレの時魔法がシェルツのものとなれば、彼はすぐにでも時間を停止させてしまうだろう。次に屠られるのはツレットである。この半月で爆発的に成長した魔力が根こそぎ持って行かれてしまうのだ。
 剣は抜かず、手刀での気絶を狙ってシェルツの後ろに飛び降りる。振り向いた男に拳を叩きつけようとすると流麗な動作でかわされた。そうだ。彼はルーイッヒやジャスピスと訓練を共にし、彼らの魂をも我が物としたのだった。
「あんたのこと信じてたのに……ッ!!」
 いつも親切で優しかった。思い返して悔しくなる。昨日だって一緒に墓を作ってくれたのに。
「仕方ないじゃないですか!! 僕だって生きなきゃならないんです!! ルーイッヒ殿下との約束を果たさなければ……っ!!」
「アルタールだけは倒してくれって、あの約束か!? だったら尚更俺たち三人で挑めば良かったじゃないか!!」
「許してくださいツレット君、僕は……!!」
 同情を引く苦しげな表情にツレットまで引き摺られそうになる。ファッハマンがそうしたように、ルーイッヒもまたシェルツに重い使命を背負わせてしまったのかもしれないが、それならそうとちゃんと打ち明けてほしかった。一人で抱え込まないでほしかった。
「俺たちじゃそんなに頼りなかったか!?」
 再度殴りかかったツレットをシェルツは後方に跳んで避けた。数歩の間合いを一気に縮め、顎に拳を振り上げる。生憎それもかわされたが、隙を突いてナイフを取り落とさせるのには成功した。杉を背にしたシェルツは背中の槍を取ることもできない。すうと息を吸いツレットは右腕に力を込めた。
「すみません、ツレット君。僕が間違っていましたね……。君たちにこんな酷いことをしてしまうなんて……」
 だが鳩尾を抉る寸前、そう言ってシェルツが崩れ落ちる。申し訳ないと項垂れて、バイトラートが抜けたショックで動揺していたと胸の内を明かしてくれた。
「シェルツ……」
「本当にすみません。君たちがこれまでどんなに尽力してくれていたか、すっかり忘れてしまっていました」
「シェルツ、それじゃあ」
「急いでペルレさんを助けます。あと少しなら魔力が残っているので」
 戦意はないという意思表示にシェルツは槍を地に置いた。ナイフを拾う気配もない。顔つきも普段の彼そのものだった。
 「手伝っていただけませんか」と乞われ、駆け出したシェルツの後に続く。真新しい土の被さった穴の跡。膝をつき、土砂を取り除き始めたシェルツの隣にツレットも腰を屈めた。その刹那。

「――……」

 咄嗟に頭を庇った右手がナイフを掴む。刃は篭手を切り裂いて、その奥の皮膚に鋭い痛みを走らせた。
「やれやれ、一日に二度も仕損じるとは腕が鈍りましたね」
 落ち着き払ったシェルツの嘆息。言外に、一撃で絶命させる心づもりだったと言っている。
「でも流石に動けないでしょう。このナイフには強い毒が塗ってあるので」
 一体いくつ武器を隠し持っていたのか。握り締めた刃がぽろぽろと綻んで欠けていくのを横目にツレットは顔を歪めた。突発的な裏切りではない。こんな仕込みまでしていたのなら。
「……いくら毒物って言ったって、腐れば効果は弱まるんだぜ?」
 シェルツの笑みが凍りつく。反射的にツレットを振り払った彼の前に、ゆらりと立ち上がり呟いた。
「ティーフェもそれ、喧嘩の後によくやったよ。反省したふりして反撃って」
 毒はただの黒い粉末となり風に流れていく。後ずさりするシェルツに一つだけ確かめた。「説得は通じないんだな?」と。
 この期に及んでシェルツは上辺だけの謝罪を口にしようとする。自分で本性を晒しておいて往生際の悪い男だ。
 やはり子供だと侮られていたのだろう。こんなところで子供のまま生きていられるわけがないのに。
「本当に悪いと思ってるなら、素直に失神しててくれ!!」
 懐に飛び込み振り上げた拳は三度目もふいにされた。それが本音なんだなと腹の底から怒りが湧く。今の今まで仲間だと安心していただけに。
 もはや遠慮する理由もないと剣に光と熱を宿した。逃げ惑うシェルツの背中に一閃を放ち、燃え立つ茂みを振り返りもせずペルレの埋まった斜面へ駆け戻る。
(これどう掘り返せばいいんだよ!?)
 腐食魔法、雷魔法、光熱魔法、ツレットの扱えるいずれも掘削に適した魔法ではなかった。どれくらい深く沈められたのかわからないが、地道に掘り起こすしかないらしい。それまでペルレの息がもってくれればいいけれど。
 坂道に跪いたツレットがシェルツの声を聞いたのは剣を放り出した後だった。

「自分の足元を窪ませて攻撃をかわすっていう手もあるんですよ」

 槍の穂先ががら空きの背に迫る。貫かれると目を瞑ったとき、何かがツレットを押しのけた。黒く、柔らかく、質量のある奇妙な物体が。
「ツレット君、こっちへ!!」
 窮地を救ってくれたのは助け出そうとしていたペルレの影魔法だった。成程闇の中ならばいくらでも影が守ってくれていただろう。体勢を整えた後、自力で地上まで這い上がってきたらしい。魔女のローブは泥だらけだ。
 影に突き飛ばされたのはツレットだけではなかった。縄でぐるぐる巻かれるのと同じ格好でシェルツが杉の幹に縛りつけられている。少なくともペルレの魔力が続く間は行動不能と見なして良さそうだった。
「っく……! は、離してください! お願いします、悪気はなかったんです! ルーイッヒ殿下が……!!」
 大声で喚かれると耳が痛い。言い訳など聞きたくもないし、さっさと気を失ってもらおうと近づいた。この際なので武器も全て取り上げてしまった方がいいだろう。そう言えば槍以外に心得があるなんて話も初めから教えられていなかった。

「え?」

 不意に思いもよらぬものが目に入り、ツレットは歩を止めた。シェルツの傍らには彼が落としたと思しき短剣が転がっている。鎌のような曲がりがいくつも入った、切れ味の良さそうな――。

「それ、試験の前にティーフェが買った……」

 目の前のシェルツを見上げる。逸らされた面にはしまったと書かれていた。
 理解はほんの一瞬で済んだ。
 こいつが妹に手をかけたのだと。
「違う。違います。そのクリスは、第二試合が終わった後にホールで拾ったんです。本当です」
「ホールで拾った? いつそんなことできたんだ? あの日はグループで館の探索に回ってたし、墓を作る前に持ち主のわかる遺品を探そうってファッハマンが言ったとき、そのクリスはもうホールにはなかったんだぞ!?」
「だ、だからグループに分かれる前に拾って……」
「ヴォルケンが賢者と交渉してたときにか!? あのとき誰も動けなかったことくらい、俺じゃなくたって覚えてる!!!!」
 しどろもどろになっていくシェルツの弁明が何よりも彼の嘘を証明していた。
「本当のことを言えよ……」
 先程まで胸にあった怒りの比ではない。全身の血が煮えたぎるほどの、苛烈で強烈な憤怒がツレットの喉を震わせた。
 本当に、そんなことをしておきながら、平然と仲間に加わったのか。
 この男はツレットとティーフェの関係を試験前から知っていたのに。

「お前がティーフェを殺したんだな……?」

 喉元に剣を突きつける。慌ててペルレが飛んできたが、ツレットを制止することはできなかった。
 ひぃっと情けない悲鳴をあげてシェルツは否定を続ける。「違います、違うんです」と耳にするたびにはらわたが煮え繰り返った。 
 信じられるか。今日だけで何度騙されたか知れないのに。
 信じられるか。遺品を盗んで自分のものにするような人間を。
「ツレット君!!」
 ペルレの声も届かない。喉笛に押し当てた刃はまだ下ろせそうになかった。
 かろうじて、妹の最期を知りたいという思いがツレットを踏み止まらせていた。
「ちゃんと喋れば命だけは助けてやる……!!」
 シェルツの目にはツレットが野獣に見えただろう。唸り声の要求に男はガタガタ震えるばかりだった。
 だがやがて、ぽつりぽつりと語り出す。あの砂漠の遺跡でどんな風にティーフェを殺したか。

「……何もしないからと……、武器を捨てさせて……、後ろから……」

 激昂のあまり我を忘れた。吠えて振り上げた剣をどう叩きつけたのかもわからない。シェルツは壊れた糸車のように「助けて。助けて」と繰り返していた。半ばまで刃を食い込ませた杉の幹は赤い炎を上げていた。
「…………」
 柄からそっと手を離す。
 まだ理性はあやふやなまま。
 ――ツレット君。妹さんの仇、討ちたい?
 ファッハマンの声がした。
 けれど思い出せなかった。
 あの魔導師に問われたとき、自分がなんと答えたのか。

「あ、あ、あああぁぁぁぁ!!!!!!」

 シェルツの絶叫が耳を劈く。伸ばした掌は男の両腕を強く握り締めていた。腐食の魔力を纏わせて。
 悪臭、悲鳴、命乞い。変色し、乾き細っていくミイラの腕。
 やっとツレットがシェルツの前を離れたときには影による拘束も不要になっていた。魔法を解かれ、長身の体躯がどさりと倒れる。
 息はしていた。ぜえぜえと、うるさいくらいに。
「ひっ……、ひっ……」
 脂汗を浮かべながらシェルツは茂みの奥を這っていく。槍もナイフも短剣も全部放ったらかしだった。よしんば持って逃げれたとして使い道はなかったろうが。
「これで良かったんだよな……?」
 妹に聞けない代わりにペルレに聞いた。優しい魔女は涙を浮かべて頷いてくれた。
 脱力しきって膝から崩れる。しばらく何も考えたくなかった。
 しばらく何も――。

「そんなんで死人が浮かばれるかよ」

 冷たい声。冷え切ったダガーの閃き。
 誰が来たのか認識する前に視界は別の影に覆われた。

 間もなく赤い血飛沫に。






 呆然とツレットがこちらを見上げている。ウーゾはペルレの真後ろで灰色になって固まっていた。
 色彩の抜け落ちた魔法の世界。時間と時間の間の時間。ここへ来るのはきっとこれが最後だろう。
「ペルレ、お前……っ、首……っ」
 切り口を指差され苦笑いを浮かべる。宙に弧を描く鮮血も、今はひっそりと静止していた。
「やだなあ、さっきはもっとかっこよく助けられたのに」
 肩を掴むのが間に合って幸運だった。ツレットを時魔法の効果範囲に連れて来られなければ意味がなかったから。
 止血しようと手当てを始めた狩人に「もういいの」と首を振る。「普通なら即死の傷でしょう」と。
 頸動脈が断たれているのにツレットは絶句した。「ごめん」との彼の謝罪には笑うしかなかった。ペルレが咄嗟に割り込んだのも、深い傷を受けたのも、少しも彼のせいではないのに。
「……あのね。私、ツレット君に聞いてほしい話があるの。私の方こそ謝らないといけないの」
 深呼吸して見つめ合う。懺悔には勇気が要った。
 もっと早く、ツレットの優しさや直向きさに気がついていれば良かった。本当の人殺しに成り下がる前に。生きていく勇気を挫く前に。
「私、時間を戻すことはできないって言ったでしょう? あれは嘘。実はやり直しできるんだ。私一人だけだったら」
 驚愕にツレットの双眸が瞠られる。怒られても、嫌われても、仕方がないと思えた。シェルツ以上に酷い隠しごとをしていたのだから。
「戻せるんなら今すぐ戻せよ!! お前このままじゃ死んじまうぞ!!」
 やはりツレットはお人好しが過ぎるようだ。温かい言葉に涙が溢れる。弱虫が生き残っても何の役にも立てないのに。
「駄目よ。私もう、時間逆行じゃなく時間停止の術を選んじゃったもの。どう足掻いたって助からないわ」
「……っ」
 なんでと悲痛な声が漏れる。理由を知ってもツレットは蔑まないでいてくれるだろうか。シェルツさえ見逃した彼だから、許してくれそうに思えるが。
「時間逆行は記録式なの。何分前とか何日前とか融通が利かなくて、ここという印をつけたポイントに、私一人しか戻れないのよ。……私が最後に刻印したのは第一試合の開始直後……、あの魔獣と目が合ったときだった」
 暗闇の中、死闘を繰り広げたのを思い出す。火を吐く魔獣。凶暴な敵。そんな風にしか捉えられずに向き合った。彼女が何を叫んでも、吠え声にしか聞こえていなかった。
「私が戦っていた相手は、私の友達の一人だったわ。ゲラーデも私も、賢者の幻術に欠片も気づいていなかった。あの瞬間に私一人が戻っても、私には何もできないのよ。知ってしまった後だから、ゲラーデを倒すなんて絶対に無理。大好きな友達だったんだもの。それに賢者の幻を破る自信もない。第一試合で敗北すれば、ツレット君や皆にこの先の出来事を伝えることすらできないわ。――だから戻れるって言わなかったの。ずっと隠してたの。誰も助けられないってわかってたから……!」
 ごめんなさいと頭を下げる。ツレットは何も言わなかった。ただ黙って、肩に置きっ放しだったペルレの手に掌を重ねてくれた。
「……そんなの……、そんなこと……」
 涙がつうと頬を伝って落ちるのを、不思議なほど穏やかな心地で眺めていた。
 慰めようとしてくれている。それがわかって嬉しかったから。ペルレには、ツレットの妹に忠告することも不可能ではなかったのに。
「ううん。やっぱり話しておくべきだったのよ。そうしたら皆、私に知恵を貸してくれてたかもしれない。ツレット君が、勇気をくれてたかもしれない。私が馬鹿で臆病だったの」
 座り込んだままだったツレットの腕を引き、身を起こすように促す。ふらつきながらも立ち上がった彼を見て、自然と唇が微笑んでいた。
 大丈夫。この人はまだ立てる。きっと最後まで戦える。ひとりになってしまっても。
「ツレット君、お願いを一つ聞いてもらっていい?」
 眼差しは強張ったが、拒絶の意は伝えられない。背伸びしてツレットの剣を回収し、彼の右手に握らせた。
 さっきシェルツの土魔法で殺されそうになったとき、心の底から嫌悪を抱いたことがある。
 時間を止めてしまう力。非力な己などではなく、他の勇者候補が持てば一気に優位に立てる力。シェルツに渡すのは駄目だと思った。否、シェルツだけではない。アルタールにも、バイトラートにも、ウーゾにもだ。
「このまま時間が動き出したら、私が死んだら、私の力はウーゾさんのものになっちゃう。それは嫌なの。私の魔法はツレット君にあげたいの。……だってツレット君だけは、いつだって自分のためじゃなく皆のために戦ってくれてたでしょう? 復讐したいって気持ちに負けなかったでしょう?」
 怒りに駆られてクヴァルムを突き落としてしまった自分にはできなかったこと。さっき目の前で見せてくれた。
 もう十分だ。彼に魂を預けられるなら文句はない。

「今のうちに私にとどめを刺して」

 ようやく話は本題に移った。ぐしゃぐしゃになったツレットの、充血した目に手を伸ばす。拭っても拭っても雫は垂れて、言葉を喉に詰まらせた。

「俺はそんないい奴じゃない。何をしても、誰も助けられなかった……!」
 
「だけどここまで希望を繋いでくれたわ」

 託させて、と手に触れる。魔法はそろそろお終いだった。境界線が波打って、ツレットの腕に抱き締められる。
 お前は馬鹿でも臆病でもないよ。
 そう聞こえた。ただの十四歳の女の子だよ、と。

「頭を切り落としてね、ツレット君。誰が見たってそっちが致命傷だってわかるように」

 指示は正しく守られた。
 肌から温もりが消える前に、ペルレの意識は光に溶けた。






 ――どうして。
 どうして、どうして、どうして魔法使いという人種は、自分に無茶ばかり言いつけるのだ。
 二度と聞きたくなかったのに。殺してくれなんていう要求は。

「あああああああ!!!!!!!」

 抑え切れずに慟哭する。状況を飲み込めていないのか、当のウーゾはきょとんと目を丸くしていた。誰がいなくなったのかもわかっていないようである。

「なんだったんだ今の光は? まあいい、今日こそ決着をつけるぞ。お前を殺して俺もさっさと死にたいんだ」

 淡々とした台詞に怒りと悲しみが膨れ上がる。
 ブラオンを殺したのはツレットだが、こんな形でペルレを死なせることになり、お利口にしていられるはずがなかった。
 まだ喉に彼女の感触が残っている。涙も枯れてくれそうになかった。






 ******






 ガサガサと藪を掻き分ける音がした。
 ハッとアルタールは身構える。とうとう見つかってしまったのだろうか。
 耳を澄まし、慎重に刀を抜いた。足音の主は立ち止まったり右往左往したりしながら少しずつこちらへ近づいてくる。
 どうもおかしな足取りだった。まるで何かから焦って逃げ出してきたような。
 ちらりと木陰から顔を覗かせる。目に入ったのは、今にも腐り落ちそうな両腕を垂らし、息を荒げるシェルツだった。
(誰かと戦ってきたところなのか?)
 周囲を見渡すも誰もいない。あの負傷ではアルタールをおびき出すための罠という線もないだろう。
 我知らず喉を鳴らした。千載一遇のチャンスだった。
(あの人になら勝てるかも)
 全身隈なく一瞥し、もう一度値踏みする。シェルツは武器さえ持っておらず、傷の痛みに疲弊を隠せていなかった。
 通り過ぎかけた男に「ねえ」と後ろから声をかける。
「それ誰にやられたの?」
 振り向きざまシェルツは土埃を浴びせかけてきた。魔法らしいが魔力の残存量が少ないのか攻撃にも防御にもなっていない。ヒイヒイ言いながら逃げようとしたので追いかけて肩を捕まえた。
「ねえ、誰にやられたのって」
「ひーっ! ツ、ツレット、ツレットです。見逃して、何もしないから」
「ツレット? じゃあ君たち仲間割れしたの?」
「そう、そうです、離して、剣を捨てて」
 嘆願は耳に入らなかった。賢者の言った通り、結束していた彼らでさえ殺し合いを始めたのだという事実しか。
 先手を打たねば自分も危ないかもしれない。元の世界に戻れないかも。
「うああっ!!」
 少し力を込めただけでシェルツは簡単に尻餅をついた。二の腕から先が壊死しているため不格好な後ずさりしかできない。
 帰るんだ、と口内で呟く。
 早く帰って、温かい食事を取って、ゆっくりと湯船に浸かって、こんな世界のことは忘れてしまうんだ、と。
「ふざけるなよ、勇者だろ!? 無抵抗の弱者をなぶっていいと思ってるのか!? おい、やめろよ!! やめろって!!!! 頼むからああ!!!!」
 避けられないように腹を踏み、心臓に狙いを定めた。
 シェルツは最後まで騒がしかったが、アルタールには遠い異国の音楽にしか思えなかった。
「やった……、やっと初めて一人で敵を倒せたぞ……!! おい、見てたかヒルンゲシュピンスト!!!!」
 高笑いして天に吠える。どうせ近くで見ているのだろう。返事はあってもなくても良かった。
 やった。やった。あと四人だ。四人殺せば家に帰れる。平穏な日々を取り戻せる――。

「ったく、賢者も賢者なら勇者も勇者だな」

 想定外の舌打ちが響いて身を翻した。
 そこにいたのは素人目にも類稀な剣士とわかる、大陸随一の賞金稼ぎだった。
 相手が悪い。本能的に悟って勝手に足が下がる。
 竜を殺した男だと、ヒルンゲシュピンストが話していた。しかもそれは神剣を手に入れる前だったという。
 敵うわけがない。けれどバイトラートはお構いなしにオリハルコンを振り翳した。
「虫唾が走るぜ。お前みたいな奴のために、何十人も死んでったのかと思うとよ」
 温度のない目に射竦められる。無我夢中で魔法を紡ぎ、斥力を発生させた。ともかく竜殺しを追い払ってしまいたかった。それなのに。
 斬撃が魔法を一刀両断にする。
 己の目にした光景が信じられず、アルタールは硬直した。そしてそのまま風に吹き飛ばされた。
(なっ、な、何だ今の……!?)
 見間違いでなければ剣士は確かに術そのものを切っていた。バイトラートを弾き飛ばすはずだった魔法という法則を。

「ヒルンゲシュピンストには効かなかったが、あんたの技なら切れるらしい。ようやく『何でも切れる剣』の面目躍如だな」

 反則だ。そんな凶器を所持しているなんて。
 浮足立ったアルタールが火の玉を放っても、水の刃を滑らせても、バイトラートは眉一つ動かさずに近づいてきた。
 木や花には一切傷などつけないのにアルタールを襲う剣圧は凄まじい。直撃を受けないように木立の間を逃げ回るしかできなかった。
「ひ、ヒルンゲシュピンスト!!」
 せめて助言をと賢者の名を呼ぶ。だが返答はいつまで経っても寄越されなかった。
 そのうちに足を滑らせ斜面を転がり落ちていく。花畑に受け止められたとき、レーレが植物に魔力を通わせていたことを思い出した。
(そ、そうだこれなら……!!)
 森から姿を現したバイトラートを蔓草で縫い止める。オリハルコンを振り回せないように、右腕は特に念入りに戒めた。反撃の兆しがないのを見て取ると、刀を構えて突進する。防具に守られていない顔面目がけ、力いっぱい両腕を突き上げた。――だが。
「大したことねえな」
 一笑に付されて終わる。刀の先端は爪の先ほども額を傷つけてはいなかった。
 防御を強化する魔法属性持ちなのだ。最強の矛と、最強の盾を同時に与えられている。
「あ……っ」
 蔦を引き千切った左腕に、思い切り横っ面を叩かれた。鼻が折れ、激痛に喘ぎ、血で制服を汚してしまう。
「ぐぶっ!!」
 倒れる間もなく今度は腹を蹴り上げられた。内臓が阿鼻叫喚の悲鳴を轟かせる。
 酷い。剣士の戦い方じゃない。
 よろめいて地面に伏し、アルタールは這う這うの体で逃げ出した。ぶちぶちとバイトラートの奏でる音が否が応でも恐怖を煽る。追いつかれたら殺されるに違いない。鼻と腹を押さえて必死に丘を駆け下りた。
「ヒルンゲシュピンスト!! ヒルンゲシュピンスト!!」
 息苦しさと痛みで頭が混乱してくる。母を求める赤子さながらで、我ながら無様としか言いようがなかった。
 助けてくれと泣き喚く。こんな異世界で恥も外聞もあるものか。今すぐ傷を治してくれと虚空に訴えた。
「ヒルンゲシュピンスト!! なあ、聞こえてるんだろう!? ヒルンゲシュピンスト!!!!」
 やれやれという溜め息は旋風の中心で吐き出された。灰紫の長い髪がアルタールの正面に翻る。
 ローブに縋りつこうとして、空気の塊に押し戻された。仰いだ賢者は恐ろしく興ざめした目でアルタールを見下ろしていた。
「手は貸さないと言っただろう」
「そんな……そんなこと言わないでくれ。せめて折れた骨だけでも……」
「私に誓いを破らせたいと言うことか?」
 有無を言わさぬ賢者の威圧に立ち竦む。「でも、さっき一人は倒したんだし」と食い下がれば、ヒルンゲシュピンストは「あれのどこが勇者の戦いだったんだ」と一蹴した。

「やはり君にアルタールらしさを望むのは間違いだったな。血は同じでも中身は似ても似つかない」

 失望した、と賢者ははっきり断言した。
 何を宣告されたのか、意味がわからず目を丸くする。
 血は同じでも中身は似ても似つかない……?
 こいつは何を言っているんだ……?
「ああ、どうやら一度呼んだ勇者は召喚不可能らしくてね。君は私の友人とは別人だよ。孫か曾孫か知らないが、顔立ちだけは瓜二つだが」
「……は?」
 待ってくれ、と口角が引き攣った。
 待ってくれよ。今の今まで「アルタール」は自分のことだと思い込んでいたんだぞ。そう仕向けたのは誰なのか、賢者が知らないはずないのに。
「そういうわけだから私を当てにするのは金輪際やめてくれ。治療はしないし援護もしない。……残念だよ。これでも期待はかけていたつもりだったんだ」
 消えかかったヒルンゲシュピンストを引き留めようと口を開く。実際賢者を立ち止まらせたのは他の男の声だったが。

「今の話、本当か?」

 闖入者を振り返り、賢者は「そうだ」と薄笑みを刻む。
 嘘だと言ってほしかった。こんなところで、今になって、自分を見限ったなんてことは。最初から大した執着を持っていなかったなんてことは。
「だったらなんで、こんなくだらねえ試験……!」
 憤りも露わにバイトラートは問いを重ねた。賢者は「さあ?」と愉快げに返答をはぐらかした。
「理由なら勝ち残った真の勇者に教えてやろう。君たちはこのまま試合を続けてくれ」
 待ってと叫ぶも霧に溶けたヒルンゲシュピンストには届かなかった。いなくなってしまう。非情なまでに突き放したまま。肝心なことは何も教えてもらっていないのに。「こちら」で死んだら自分はどうなってしまうのか。一体己は何者だったのか。
「ヒルンゲシュピンスト!!!!」
 半狂乱になりながら開けた丘を見回した。不釣り合いな青空が、アルタールを嘲笑うかのようだった。

「そうだった。君には一つだけ礼を言わねばならないな。おかげで私のアルタールが唯一無二の人間であるとわかったよ。ありがとう」

 耳元に囁きを残したきり、賢者は帰ってこなかった。
 丘にはアルタールとバイトラートだけが残された。
 振り返る。恐る恐る、身を縮こまらせながら。

「気の毒に、とは言わないぜ。お前にもできることがあったはずだ」

 白く輝く美しい刃が躊躇いなく振り上げられる。
 受け止めようとした刀ごと、オリハルコンは切り刻んだ。

(嫌だ……)

 帰りたい。帰りたいのに。
 家族の顔も、友達の顔も、断片すら甦らぬまま暗黒に飲まれる。
 後悔しても遅かった。
 死はアルタールを――名前もわからぬ少年を抱いて離さなかった。






 ******






 何だろう。何か間違えてしまったみたいだ。でも何だ?
 ああそうか。決闘なのに礼をし忘れてしまったのか。それはこちらが悪かった。
 ウーゾがいきなり飛びかかったので、ツレットは酷く憤慨していた。これ以上はないほどに目を三角に吊り上げている。
 改めて一礼してみたが、あちらから同じ動作は返ってこなかった。
 試合なのにと少し苛立つ。だがすぐに「こいつは他流なんだった」と思い直した。
 聖山での正式な決闘のやり方を順守するのは己だけでいい。他人にはもう何も望まない。
(分身は流派の技になかったな。使わないように封じよう。武器も拳とダガーだけだ……)
 いつもの組手の型通り、ツレットに掌底を繰り出す。兄弟子を取り込んでいるからか、かわす動きが酷似していて奇妙に懐かしかった。
 何か怒声を浴びせられている。わかっていたが聞こえてはいなかった。雑音などどうでも良かったし集中していた。
 地を蹴り、枝を蹴り、何度も何度も目標に迫る。巨木が倒れても岩が抉れてもツレットは動じず、果敢に剣で切り込んできた。ブラオンを殺したあの剣で。
 そう言えばこいつの魔法を見ていない気がする。初めこそ雷や魔法弾を使われていたが、一礼の後は剣技か体術しか目にしていなかった。
 もっと別の形で出会えていれば、案外ウマの合う同士だったのかもしれない。荒削りの技はブラオンよりも寧ろウーゾに近かった。
 おかしくて、何故か苦しくて口元が緩む。

「何にやにや笑ってんだよ!! 本気でかかってこいよ!!!!」

 血を吐くような叫び声。それも耳を通り過ぎていく。
 ツレットの怒りは解ける気配がなかった。こちらだって大真面目にやっているにもかかわらず、だ。

「そんな中途半端な気持ちで武器を振り回したのか!?!?」

 何のことだか本当にさっぱりわからない。ふわふわ浮いた心地のまま、絶叫を聞き流す。
 どうしてツレットが泣いているのかついにウーゾが知ることはなかった。
 心から切り離された手や足が、どんな稚拙な動きを見せていたのかも。






 バイトラートが目の使い方を教えてくれていたから、単調な攻撃の軌道を予測するくらいは簡単なことだった。
 戦えば戦うほどウーゾの気は散漫に、投げやりになっていく。疑うまでもなく壊れかかっているのだ。焦点はずっと合っていなかった。
 多分死なせてやった方がいいのだろう。そうは思えど踏ん切りがつかない。
 足払いして馬乗りになった後も、結局心臓は貫けなかった。ペルレはそんな報復は望んでいなかっただろうから。
「あ……?」
 起き上がれないのに気づいてウーゾは目を瞬かせた。左の肩口に突き刺さったショートソードが彼の自由を妨げているのだ。
 驚異的な回復力で皮膚の裂け目が繋がっていく。雄叫びを上げ、ウーゾが遮二無二暴れたせいで、埋まりかけていた刃が再び肉を切り裂いた。
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す……!!」
 お前だけはと繰り返される。他の言葉を忘れたウーゾはクノスペ以上に人形じみていた。
 痛覚ももはや消え失せたようだ。傷口が広がるのを意に介した様子もない。
 傍から見れば己も彼と同じくらい破綻して見えるのだろうか。
 やり切れなくて目を逸らした。瞬間、ダガーで首元を狙われた。
「ッ……!!」
 薄皮一枚切らせて避ける。右腕を払うとウーゾは左腕を振り上げてきた。当然肩から血が噴き出す。思わず「よせ!」と叫んでいた。
「大人しくしてろって!! 肺まで裂けるぞ!!」
 説得に耳を貸してはもらえずに、ブラオンのダガーとウーゾのダガー、二つの刃で襲いこられる。
 上体を捻るごとに道着は赤く染まっていき、呼吸にはヒュッヒュと空気の抜ける音が入り混じった。
 声を発することができなくなってもウーゾの口は「殺す」と呟くのをやめなかった。
 次第に抵抗は弱まり、カランと地面にダガーが落ちる。
 誰も彼も、どうして死に急ぐのか。
 歯を食いしばり、かぶりを振るが、光の浸食は止めようもなかった。
 消えてしまう。
 また助けられなかったという無力感だけを残して。


「ああ、これで残り二人になったね。探し回るのも面倒だろうし、今から引き合わせてあげよう」


 どこからか賢者の声がした。
 生温い風に撫でられながら、ペルレやウーゾの他にも二人死んでしまったのかと嘆く。
 次に瞼を開いたとき、少しの距離を挟んで立っていたのは予想外の男だった。
 てっきり最後の最後まで、アルタールは残るのだろうと思っていたのに。
「バイトラート……」
 風が強く吹き抜けていく。
 竜殺しは遠い日のように手を差し伸べてはくれなかった。
「ペルレは?」
 ツレットと目が合うや否や、バイトラートはそう尋ねた。
 答えられずに顔を歪める。ツレットが魔女の死を看取ったことは、竜殺しにも伝わったようだった。
 休戦する気はないらしい。鍛えられた腕が背中の神剣に回される。「やめろよ」とかぶりを振れば、いやに乾いた笑みが返った。
「戦ってる場合じゃないだろ!? 早く賢者を止める方法考えなきゃ、俺たち皆どうなるか」
「止まらねえさ。何したところで、今更」
 訴えはぴしゃりと撥ねつけられる。バイトラートの悟り切った表情が余計に彼を遠く感じさせた。懇意に言葉を交わし合ったのはつい昨日のことなのに。
「アルタールは、あの伝説のアルタールとは違ったらしいぜ」
「え?」
「ヒルンゲシュピンストは誰を勇者にするかこだわりなんざ持ってなかったんだ。アルタールなしでもあいつが呪いを完成させる気なら、俺とお前はやっぱりどっちかが死ななきゃならん。戦おうとしないなら心を消されて人形にされるだけだしな」
「何言って……」
 アルタールがアルタールじゃなかった? バイトラートは賢者に何を聞かされたのだろう。アルタールでなかったということは、よく似た他人が紛れ込んでいただけなのか。
「詳しくは知らねえ。それにもうどうだっていい。勝つか負けるか、生きるか死ぬか以外」
「…………」
 剣が正面に構えられる。見据えた双眸は「お前も戦え」と言っていた。まだ無抵抗の人間を切り殺す気にはなれないと。
 否、分析はそうであってほしいという己の期待を多分に含んでいた。そして期待はにべもなく裏切られたのだった。
「ッ……!!」
 風を避けて地に伏せる。バイトラートが放ってきたのは威嚇でない一撃だった。
 草は払われ、木々は傾き、轟音が遠ざかっていく。身を起こしたツレットに、竜殺しは笑ったまま聞いた。
「失望したか?」
 まさかと首を横に振る。まさか、そんなわけがない。
 ずっと彼に憧れてきた。飛竜の爪から救ってもらった幼い日からずっと。
 剣を教わり、励まされ慰められ、感謝こそすれ失望など。
「……してないよ」
 崩れぬ笑みに胸が焦れる。悔しくて歯を食いしばる。
「あんたが何を考えてるかもわからないのに、失望できるわけないだろ!?」
 皆そうだ。ファッハマンも、ペルレも、大事なことは最後の最後まで秘密にしていた。バイトラートも最終戦の鐘が鳴るまで何も相談してくれなかった。
 一人で決めて、一人で戦って、それでは何のために一緒にいたのかわからない。
 話してほしかったのに。抱えきれずに潰されるくらいなら、重荷を分けてほしかったのに。
「俺だって、失望できるならそうしたいさ……!!」
 キッと睨むとバイトラートは斜めに視線を逸らした。何か思うところあったらしく、「そうだな」と低く囁く。
「死んでから本音を聞かされたんじゃあやってらんねえよな」
 誰のことを思い出しているのかはすぐに知れた。昨夜ペルレが言っていたから。バイトラートにネルケの遺言を伝えたと。
 好き合っていたのかもしれない。互いに表には出さずとも。だからバイトラートは態度を一変させたのかもしれない。ペルレはそう予測していた。
「……俺は昔、腹にオリハルコンを眠らせた一匹の巨竜を倒した。神剣と共に名声も得たが、知らない間に大事なものを失ってたんだ」
 突然始まった昔話にツレットは眉を顰める。バイトラートは意に介した風もなく続けた。その話しぶりは、罪の告白と言うにはあまりに淡々としていた。
「俺が竜を倒してすぐ、ネルケの住んでた村がゴーレムに襲われた。それまで竜の塞いでた道が通れるようになったんだな。遠い鉱山都市に埋まってるはずの土人形を見るのなんか初めてで、なんとかゴーレムは倒したものの、あいつは唯一の妹を犠牲にしちまった。ネルケが俺を――『竜殺し』を訪ね歩いたのはそれからだ」
 寝耳に水もいいところである。思いもよらぬ因縁を聞かされツレットの思考は停止しかかった。
 ではバイトラートは、直接的ではないにせよ、ネルケにとって仇敵だったと言うのか。あんなに親しげだったのに。
「前にオリハルコンを盗もうとした奴がいるって話をしただろ? あいつがそうだよ。最初ネルケは明らかに俺を殺そうと狙ってた。でもできなかったんだ。何度か同じ依頼をこなすうちに、あいつは少しずつ俺にほだされてくれたみたいだった。俺は俺で、あいつになら背中を刺されてもいいかと思うようになってった。なのにあいつはふざけた軽口叩くばっかりで、俺には全然妹や故郷の話なんか振ってこなくて……」
 僅かにバイトラートの表情が変わる。苦悶の色を帯びた目は空を映して細められた。
 後悔のみではない。彼を突き動かしているものは。
 絶望して自棄を起こしているのではない。そうではなくて、きっと――。
「ドルヒが言ってたぜ。死んで弟と一つになるのも悪くはないって。けど俺は、それだけじゃ自分を納得させられねえんだ。同じ呪いに飲まれた後でも、あいつのことと、自分の馬鹿さ加減だけは忘れたくねえ。お前らの魂を巻き添えにしちまうのは悪いがよ、ヒルンゲシュピンストの術を止められねえなら、尚更俺があいつを手離したくない。俺がネルケにしてやれるのはそれくらいだから……!!」
 献身だ。
 この世でたった一人の女のために、己の命を賭したいと。ただそれだけの。
 或いは欲望かもしれない。ネルケ自身が手に入らない代わりに、匂いの染みついたものを、気配の残っているものを、できるだけ側に置きたいと願う――。
「術を破らなきゃ生まれ変わりもできないのに!?」
 慕情も恋情もツレットには理解不能だった。わかるのは、もしティーフェがフォラオスに同じ言葉を捧げられたらどんなに喜ぶかということだけだった。
 異を唱えてもバイトラートの決意は揺らがない。竜殺しは「呪いが終わるまで誰にも預ける気はねえ」と熱烈に言い切った。
 受け入れてしまっている。蠱毒の術ごとネルケを。
「いつ呪いが終わるかも、皆がどうなるかもわからないのに!?」
「ああ、それでもだ」
 オリハルコンの刀身が白い光を帯びてきらめいた。再びの構えに戦いが避けられぬものであると知る。
「あいつがいなくなってやっとわかった」
 バイトラートの呟きは、ツレットにも覚えのある感情を強く滲ませていた。
 この館に入ってから、ずっとずっと抱えてきたもの。皆が負けていったもの。

「俺は今まで何もしてやれてなかったんだって」

 打ち震えそうなほどの無力感。
 何か一つでもできることがあるならば、それに縋らずにはいられない。
 対象が異なるだけだ。バイトラートとは。
 やり方が違うだけだ。違うだけなのに。
「それでもやっぱり、こんな術を認めちゃ駄目だ……!!」
 ファッハマンの姿が甦る。
 正しい報復を成すために、友達を殺してしまったと泣いていた。
 約束したのだ。彼の精神を受け継ぐと。
 ペルレもそうだ。何もできないツレットに大事な魔法を託してくれた。
 二人とも、それが最良の結果をもたらすはずだと信じて。
「俺は皆を助ける。諦めない、ひとりきりになっても」
 望まれたのは前を向いて走り続けることだけだ。
 投げ捨てられはしない。どんな重圧だろうと、一度受け取った願いは。

「素直な奴だな、本当に」

 呆れたというよりは感心したようにバイトラートは言った。
 「魔法を使っても構わないぜ」と勧められる。光熱魔法でも時魔法でも好きにしろと。
「俺も手加減はしねえ」
 宣言通り、神剣が地に叩きつけられた。衝撃で四方に飛び散った土と礫で視界に幕をかけられる。
 一瞬後にはバイトラートはツレットの背後に回っていた。殺気を感じ取ると同時、本能的に熱球を放つ。しかし魔法は竜殺しのコートを焦がすことさえしなかった。魔力をセーブはしなかったのにだ。
「な……っ!?」
 安全圏まで退避するべく魔法弾を次々と生み出しながら、ツレットはそれらが無残に弾けていく様子を見せつけられた。
 オリハルコンだ。あの切れぬものはないという奇跡の剣が、光も、熱も、雷も、真っ二つにしてしまうのだ。
(せ、折角ここまで操れるようになったのに)
 道理で余裕を見せるわけだ。これは逡巡している暇などないかもしれない。時魔法を挟みながらでなければかわすことも攻めることも不可能かも。
 刃を刃で受ける選択は考えられなかった。稽古の際はバイトラートが意識してツレットを斬らぬようにコントロールしてくれていたからいいが、何の変哲もないショートソードで神剣と切り結べるはずがないのだ。
(一撃でも食らえば俺の負けだ……!!)
 いつもペルレが見せてくれていた灰色の景色。今度は自分で作り出す。
 バイトラートは剣を振り上げたところだった。世界は確かに停止していた。――だが。
「あぐッ……!?」
 左肩を切り裂いた斬撃に、痛みと驚きで目を瞠る。
 術の効果がうっかり彼にも及んでいたのかと疑ったが、竜殺しは斜め上に腕を開いた体勢から微動だにしていなかった。
 時間停止を超越していたのはバイトラートではない。オリハルコンの方だった。
 神剣は輝きを損なわず、天に振り翳されている。
「な、なんなんだこの剣……っ」
 以前賢者は「精霊王の抜け殻」だと呼んでいた。ヒルンゲシュピンストの契約主であり、万物の主でもあると言う。
 賢者の拵えた異空間でなければ時空さえ切り裂いてみせるのか。なんという神具。人智を超えた代物であることか。
 血に濡れた傷口を押さえて喘ぐ。ともかくあのオリハルコンをどうにかしてしまわなければ。
(隠しても無駄だよな。バイトラートが呼べば手元まで飛んで来るんだし)
 折ろうとするのはもっと無謀だろう。あんなものに太刀打ちできそうな得物は世界中探したってない。
 だが金属か、もしくは生体であるのなら、ファッハマンの魔法が通じるはずだ。
「ごめんな、英雄の剣なのに……」
 竜殺しの背後から、神剣の柄に飛びついたところで時間停止を解除した。代わって掌に纏わせた魔力でオリハルコンを腐食させていく。
「ッ!!」
 急に付加された重みで膝を曲げたバイトラートが、崩れた姿勢のままツレットを振り払おうとした。なんとかそれにしがみついて、部分的にでも柄を破損させようと試みる。
「山猿かお前はッ!!」
「うわッ!!!!」
 結局足で蹴り落とされた。反撃を受ける前に、また時を止め呼吸を整える。
 魔法の不便なところは同時に二種類の術を扱えない点だ。やってやれないことはないのかもしれないが、多分どちらかが疎かになる。
(痛いな……)
 さっき無理に掴まったせいで肩の傷が広がっていた。だと言うのにオリハルコンの方は染み一つ浮いていない。
 魔法を切るような剣だから、もしかして材質的に魔法を撥ね返すのだろうか。だとしたら狙うべきはこちらではない。
「……」
 気は進まなかったが、今度はバイトラートの腕に取りついた。シェルツと同じに肘から先を腐り落とせば戦う方法がなくなる。上手く行けば戦意を喪失してくれるかもと期待できた。
 再び時を動かし始める。襲いかかった右腕の異変にバイトラートは即座に反応してきた。ガードしていたつもりだったのに左拳で鳩尾を強打され、怯んだ隙に鮮やかな出足払いを決められる。
 だが目的は果たした。彼の右手は魔法に犯され、醜悪なあぶくを浮き立たせていた。
「剣を捨ててくれ、バイトラート。その手じゃもう握れないだろう?」
「どうだかな」
 ニッと口角を上げられる。オリハルコンを左手に持ち替えたかと思ったら、バイトラートは変色した己の右腕を切断した。
 切断した――ように見えた。
「え……!?」
 切られたのはまたしてもツレットの魔法のみだった。邪気を払うように魔力を払い落とし、バイトラートは平然と剣を持ち直す。切るも切らぬもそこまで自由自在なのか。
「十年こいつを使ってて、今日初めて知ったぜ。こんなに何でも切れちまうとは」
 あの賢者の術以外、と低い声が付け加える。
「もしかしたら、断ち切れたのかもしれねえな。あいつが引き摺ってきた過去も……」
 悲しげな瞳に一瞬気を取られた。自分は地面に転がされていて、相手はすぐに刃を振るえる状態だったのに。
 真正面から放たれた一閃は明らかに受けれもかわせもしなかった。時間を止めたって衝撃波は駆け抜ける。一刀両断にされてしまう。
 咄嗟に取れた防御策は、足元の影に己を庇わせることだけだった。そして皮肉にも、それが最もてきめんにバイトラートの判断を鈍らせたのだった。

「……ネルケ……」

 オリハルコンは影魔法を貫けず、しばしその場に踏み止まる。バイトラートが呆けている間にツレットは跳び退り、間髪入れず弓を構えた。矢は光熱魔法で強化した、自身の攻撃手段の中で一番高い破壊力を誇るものだった。
 肩に受けた傷はまだ少し痛む。だがいつの間にか浅く小さくなっていた。おそらくウーゾの気功によるものだろう。
(射ろ。射るんだ)
 何も妨げるものはない。己の中の迷いの他に、的を覆い隠すものは。
 バイトラートに殺されるわけにいかないのだ。ネルケの魂を譲りたくないと言う彼には。
「ッ――!!!!」
 唇を噛み千切りそうになりながら、竜殺しに向かい光矢を飛ばした。
 避ける気配はなかったし、それで終わりになるはずだった。
 矢が皮膚の表面で折れて落っこちてしまわなければ。
(防御……、属性……)
 息を飲む。彼の得ていた魔法能力を思い出す。
 一撃で仕留められないのなら、魔法も無効化されるのなら、どうやって倒せばいいんだ。
(いや、でも、ネルケさんの魔法なら)
 一か八か、ショートソードに影を這わせて一体化させた。禍々しくて、まるで勇者の剣じゃない。
 何でも良かった。勝負にさえ持ち込めれば何だって。
 一番高い可能性に賭けるべきだと、ファッハマンには教わったから。






 まただ。また剣が重くなった。
 錯覚じゃないなとバイトラートは柄を握り直す。心なしか、掌に吸いついてくる独特の感触も薄れている気がした。
 何が気に入らないのだろうか。女々しくも死人の幻影を追いかけ続けていることか?
 答えろよオリハルコン。いいや、「精霊王の抜け殻」か。
 少しくらいは優しくしてくれてもいいんじゃねえのか。俺にはもう、お前しか残ってないんだから――。
「流石にすばしっこいな!! 森育ちなだけはあるぜ!!」
 枝から枝へと飛び移るツレットを剣で狙いつつ追いかける。少年は「弱者は逃げながら戦うべし」という戦法を忠実に実行していた。時魔法も折り込んで、巧妙ぶりを発揮してくる。不意にバイトラートがツレットを見失うと、間を置かず懐に切り込んできた。
 念ずれど何故か影だけ上手く切れない。あれはネルケが得た術だと頭に擦り込まれているのだろう。
 受け止められるとわかればツレットはオリハルコン相手でも臆すことはなかった。
 だが互いに決定打が出ない。魔力の全てを防御に回しているバイトラートと、隠れて小回復に努められるツレットとでは当然の膠着だった。
 そうする間にずるずると、理由もわからず剣だけ重くなっていく。
 まずいなと考える頭はまるで他人事だ。振り回せぬほど重量が増したわけでないならまあいいかと無関心に捉えている。
 実際ネルケのこと以外、バイトラートにはどうでも良かった。遅すぎると誹られても、彼女の思いに応える以外の全てのことが。何もしないで見ていることの悪を知ってしまった後では。
(また消えた)
 木立の向こうのツレットが忽然と姿を隠したと同時、身を反転させオリハルコンを旋回させる。
 たとえ気配は読めずとも、何度も同じ襲撃を受けていればタイミングくらい掴めてくる。剣圧は少年の軽い身体を吹き飛ばし、空中で無防備にさせた。
 畳みかけるように手首を返し、二撃目、三撃目と追撃を繰り出す。
 避けられまいと思ったのにツレットはしぶとかった。伸ばした影を槍のように大地に突き刺し、その反動を利用してギリギリで斬撃をかわす。
 目を瞠る成長ぶりだ。おまけにツレットはバイトラートの腕が伸びきっているのを見逃さなかった。飛びかかりながら手の甲に剣を叩きつけられても掠り傷一つ負わなかったが、影に引っ張られた拍子にオリハルコンを取り落としてしまう。

(――あ)

 瞬間、何かから遮断されたのを感じた。






 バイトラートの動きが変わった。転がった神剣を拾い上げた直後から、急激に精度が欠けた。
(なんだ!? 何があった!?)
 目を丸くしてツレットは目の前を舞う刃を見つめた。何度目を凝らしても、まるきり普通の剣のようにオリハルコンは光を失っている。
(なんで……!?)
 持ち主も当然異変には気がついていて、眉根を寄せて舌打ちした。だが他に武器を持っていないため、そのままオリハルコンを振るい続ける。
 刃の起こす風は二度と吹かなかった。バイトラートの培ってきた剣の技術によってのみ、なんとか体裁を保っていた。
 動揺した。ツレットの方が。またヒルンゲシュピンストが良からぬ企みを働かせているのではと疑った。疑って、勝負に払うべき注意がぞんざいになった。集中しきれないままバイトラートと対峙していた。
 鈍い突きも、重たげなひと振りも、到底見ていられない。竜殺しの剣だとは思えなかった。何故かはわからないけれど、オリハルコンが今は彼の枷になっているのだ。
「剣を捨てろよ!! あんた本当は戦いたくないんじゃないのか!? だから神剣が拒んでるんじゃないのかよ!?」
 重さによろけたバイトラートに叫ぶ。「違う」と彼は否定した。
「何が違うんだ!? そんな剣じゃ何も……ッ!!」
 何も切れない。そう言いかけてハッとする。たとえオリハルコンと言えど、武器でとどめを刺すことに執着する男ではなかったと。
 誘い込まれた場所に気づいたのは罠にかかったそのときだった。
 森の奥の湿地。長い蔦の絡む木々が鬱蒼と生い茂る。
 いつの間に手にしたのか、バイトラートは蔓草の一端を握っていた。死角から蔦に巻きつかれ、目隠しされ、沼に引き摺り倒される。
(しまっ……!!)
 やられた。完全に騙された。オリハルコンの変調はバイトラートも意図せぬものだと思ったのに。
「これなら時魔法で逃げられねえだろ」
 手を繋いでいたり、服の裾を握っていたり、接触さえしていれば時間停止の恩恵にあずかれる。視界を奪われたツレットにはどの辺りを焼き切ればいいか判断がつかなかった。何もしないよりはマシかと頭に巻きつく蔓から燃やすが、すぐに別の植物で塞がれてしまう。沼にも深く足を取られ、次第に身動きができなくなっていった。
「オリハルコンに見捨てられて、却って良かったな」
 バイトラートが剣を拾う。だがその音は酷く軽く、神剣ではなくショートソードを手にしたのだと知れた。
(見捨てられた……?)
 どういう意味かわからない。それではやはり、彼の剣は急に切れなくなってしまったのだろうか。でもどうして。
「バイトラート……」
 身を守るべく影を湧かせる。一つ覚えの防御は鼻で笑われた。「目に頼りすぎたんだな」と。
「お前の想像力は見えてねえと途端に貧弱になるらしい」
 弱々しい盾しか作れていないぞとバイトラートは指摘する。そんなわけあるかと思っても、煽られた不安が魔法を揺らがせた。
 燃やしても腐らせても蔦はしつこく絡まってくる。雷は一向に当たらない。
 防げないかもしれなかった。竜殺しの一太刀を。
(駄目だ……)
 駄目だ。そんなの。
 このままここで終わったらどうなる?
 ティーフェは、ペルレは、ファッハマンは、ウーゾやブラオンは。
(俺が何とかするって言った……!)
 蔓草に首を絞められる。振り回されて泥に落ち、苦痛に魔法が霧散した。
 バイトラートの声がなくても次の一撃で最後だとわかった。

「お前には、もっと色々教えてやりたかったよ。――ごめんな」

 強烈な白い閃光が瞼の裏側までも照らす。
 眩しくて、眩しすぎて、何も見えなくて絶叫した。
 死にたくない。まだ死にたくない。まだ何もできていない。
 信じてくれた誰にも、まだ何も!!
「嫌だ……!!」
 必死でもがく。光の洪水の中を泳ぐ。
 溺れたら、飲み込まれたら、地獄に連れて行かれるのだと思った。
「俺はティーフェを、皆を……っ」
 追いかけてくる蔦を振り切る。足掻いて伸ばした指先が不意に誰かの手を掴んだ。
 掴んだと思ったそれは、バイトラートと共にあるべきオリハルコンだった。
(え……!?)
 目を見開いた瞬間に、溢れていた光が収束を始める。
 竜巻のごとく回転しながら、蔓ごと樹木を引き裂きながら、白い輝きが神剣の刀身に戻ったとき、ツレットの足元に沼はなかった。何もかも吹き飛んだ平原で、血を流した竜殺しが片膝をついていた。

「バイトラート!!!!」

 叫んですぐに剣士に駆け寄る。夥しい量の出血が、彼が致命傷を負ったことを物語っていた。
「なんでこんな……」
 声が震える。誰がやったかなんてことは火を見るよりも明らかだ。ここにはバイトラートとツレットしかおらず、怪我をしたのはバイトラートの方なのだから。

「勝ったと思ったんだがなあ……」

 苦笑混じりの呟きは、しっかりと芯のあるいつもの竜殺しの声だった。「仕方ねえな。オリハルコンの方がお前に乗り換えたんなら」と薄く笑って項垂れる。
「乗り換えたって……」
「持ち主が呼べば飛んでくるって言っただろ。お前が呼んだらお前のところにきたってことは、そういうことだ」
 もはや肉体を支える力もないのかバイトラートは横倒しに地に伏せた。腹の傷が背中にまで達しているのを見て顔を覆う。
 取り返しのつかないことを。俺はまた。
「……最初からオリハルコンがお前に味方してたって、俺はお前と戦ってたさ。気にすんな」
 咳き込んだ拍子に血が溢れ、バイトラートの喉を汚した。
 音を発せなくなった唇が、最後にぱくぱく開かれる。
 ネルケを頼む、と。
「バイトラート……ッ!!」
 淡い光の大軍が竜殺しの遺体を残らず貪り尽くしてしまうと、その場には大きな石の嵌め込まれた首飾りがぽとりと落ちた。
 女戦士の胸元で、いつも揺れていた首飾りが。
 ――笑えない。全く笑えない冗談だ。

「……来い……」

 わなわなと震える拳を固めて吠える。
 悠々と、今もツレットを見下ろしている賢者に。

「出て来いヒルンゲシュピンスト!!!!」

 人でなしの怪物は高らかに笑い声を上げた。






 ******






「おめでとう、君が魔王を倒す勇者だ!! 心から賞賛を捧げよう!! ――もっとも守るべき民は、とっくの昔にいなくなってしまったがね」

 吹き荒れる冷たい風、砂に埋もれかけた城と街。
 森が消滅した後に、ツレットが放り出されたのは曇天の真下だった。
 屋根は崩れ、壁は削られ、かつての繁栄の名残もない、王都クローネ。
「なんだよこれ……」
 振り返った賢者の館は錆びた鉄門をキイキイ揺らすだけだった。
 花は枯れ、噴水は乾き、今にも朽ち果てかけている。
「なんだよ、守るべき民がいないって……!?」
 都は無人だった。人間どころか鼠や虫の一匹もいない。鳥も、魚もだ。
 あらゆる生命が死に絶えていた。少なくとも、この王都では。
「恨むなら愚かな王を恨むがいい。あの男は私に勇者を選ばせるのに期限を指定しなかった。それが運の尽きだった。閉ざされた館の門を一体何度叩いたのだろうね? 五十年も音沙汰なければ流石の彼も諦めたのかな?」
「ご……五十年……?」
 何をふざけたことを言っているんだ。そんなに過ぎているわけがなかろう。
 ツレットが初めて王都に足を踏み入れたのがほんの半月前なのに。
「もっとだよ」
 戸惑うツレットに賢者が告げた。本当に楽しそうに。
「あれから百五十年経っている。館での一日は外での十年に値したからね」
 狼狽しすぎて声も出ない。ヒルンゲシュピンストの言を噛み砕くだけで精一杯で、頭は理解を拒んでいた。
 そんなツレットを置き去りに、賢者は機嫌良く種明かしを始める。いつものように宙に浮かびながらではなく、地上に己の足を着けて。
「魔物たちが蔓延ってそれだけの時が流れれば、人類も生きてはいまい。私を縛る玉座に君臨する者はいなくなった! ああ、晴れて自由の身だ! どうやらうっかり人間以外の生物まで滅ぼしてしまったらしいが」
 あっさりと生命の滅亡を語る賢者に開いた口が塞がらない。
 まさか全部計画ずくでやったのか。王国を救う気もないのに勇者を選ぶと吹聴して。
「この地上で息をしているのは私と君と精霊王と魔王くらいのものだろう。そしてほら、たった今、蠱毒の呪いで魔王が死んだ」
 わかるかい、と賢者は海の彼方を指差し問う。実感などあるはずなかった。断末魔も聞こえてこないのに。
 無茶苦茶だ。ヒルンゲシュピンストの言っていることは。
 目的が見えてこない。何のためにこんなことをしたのか、これからどうするつもりなのか、何一つ。
「嬉しいよ。ずっとこのときを待ち詫びていた。蠱毒は強力な呪法だ。呪う対象がいなくなれば、自動的に術は術者に返ってくる。これで私もようやくこちらの世界から解き放たれる! アルタールのいるあちら側へと旅立てる……!!」 
「何言ってるんだ? お前は不老不死なんだろ?」
「これからそうではなくなるのさ。君のおかげだ。礼を言う」
 陶酔しきった眼差しを向けられゾッとした。この化け物は何か重大な目標を成し遂げたのだ。
「今回の試験、勝ち残るのは君かアルタールかバイトラートか、三人のうち誰かだと予測していた。仮にもアルタールは浄化の力を持つ異界人だし、バイトラートは抜け殻とは言え精霊王の加護を受けていた。君は所謂残り福だよ。最後に試験会場に入った候補者には、第一試合で私の肉体と戦わせたんだ」
 今度こそ目が点になった。「は?」と乾いて掠れた声を喉に張りつかせる。
 賢者の饒舌は止まらなかった。ツレットの四肢が暗黒に染まり、輪郭を失い始めても。
「精霊王と契約した後、私はこの世の理を知った。勇者の暮らす世界こそが生ける世界で、我々の世界は数多ある冥界の一つであったこと。アルタールが死後この冥府に運ばれてくる可能性は低かった。もう一度彼に会うためには、私からあちらへ赴かねばならなかった」
 わからない、わからないと思っていたヒルンゲシュピンストの頭の中が、一つずつクリアになっていく。
 我が身に何が起きているのかを察するには、十分に余りある状況だった。
「だが皮肉にも私は知を得るために死を超越してしまっていた。私は私を殺す方法を編み出さなければならなくなった。そして自分の不死性を、呪いに注ぎ込むことにしたのさ」
 同化――いや、入れ替わりだ。
 ヒルンゲシュピンストは、蠱毒の術を通して、生贄との立場を逆転させたのだ。
 だから。
「どうして君だけが異常な魔力成長を遂げていたのか教えてやろう。君だけは私の肉体を介して外界の時の流れと繋がっていたからだ。今こうして、呪いのために膨れ上がった君の力は私を凌駕した!! これは精霊王との契約が、君に継承されたことの実証に他ならない!! ほら見てみろ、呪いが私にも浸透してきたぞ!! この災いが心臓に達したとき、私はやっと望む世界の扉を開くのだ!!!!」
 手の届くところへ降りてきた「死」に賢者は歓喜し、恍惚に浸る。
 真っ黒な塊になりながら、己の形さえ見失いそうになりながら、ツレットはしゃがれ声で聞いた。
「皆はどうなるんだ」
 うねうねと身体の表面が波打っている。どす黒い液体が跳ねては飛び散り大地を焦がし、腐らせる。
 呪いに八方を閉じられながら、ヒルンゲシュピンストは笑って答えた。
「君と共に機能を失った冥界で永遠に生きていく羽目になるだろうね。勝ち残ったのが異世界人だったなら、魔王を倒した後は呪いごと分解されてまた元の世界に戻ったのだろうが……。残念だな、その場合は君たちにも転生のチャンスはあったんだよ」
 怒りに臓腑が、血管が溶けそうだ。
 どうしてニコニコしていられる。何もかも根こそぎ破壊しておきながら。
「自分さえ満足ならそれでいいのか?」
「満足? そうだな、約束を果たせるのなら他の誰が苦しもうと、自分自身がのたうち回ろうと構わない」
「やめろって言ってやめる気はないんだな?」
「当然だ。アルタールに会えるまで私はどんなことでもするぞ。まあ無事に死にさえできればこのリボンが私を導いてくれるだろうがね」
 灰紫の髪を結ぶ色褪せたリボンを解いて、賢者は愛しげに頬を寄せた。
 蠱毒の呪いはせめぎ合いながらヒルンゲシュピンストの内側へ入り込み、瘴気を吐き出し続けている。
 もうほんの数秒で、それは賢者の心臓に到達してしまいそうだった。

「だったら俺が、何をしてでもお前を止めてやる」

 感覚のなくなりかけていた左腕を伸ばし、賢者の細い体躯を掴んだ。肥大化したツレットの手にヒルンゲシュピンストは易々と囚われる。「何をするんだ?」と心底不思議そうに瞬きながら。
「精霊王との契約は俺に移ったって言ったよな」
「ああそうだ」
「お前の身体は俺が取り込んだって言ったよな」
「ああそうだ」
「なら今の俺に、できないことが何かあるか?」
 死の間際、ペルレが打ち明けてくれた時間逆行の魔法。一度も「記録」なんてしたことはないが、試さず終われるはずがなかった。
 戻れ、戻れと念じて駆け出す。足が動いているのかどうかももう自分にはわからなかったけれど。
「悪足掻きだ。呪いは既に私を深く蝕んでいる」
 賢者は冷たい水色の双眸を開き、きょろきょろと周囲を見渡した。逆行し始めた景色に驚きを隠せない様子である。
 胸の内でペルレの名を呼んだ。どうか力を貸してくれ、最後まで俺を支えてくれと。
「こんなことをしたって私の死は覆らない。何十年遡る気だ?」
「お前がくだらない勇者試験なんか思いつく前の時代までだよ!!」
「何を馬鹿な。君とて君の生まれつく以前には絶対に――」
「やってみなきゃわかんねえだろ!!!!」
 加速する。あらゆるものが巻き戻され、若返り、小さくなって消えていく。
 その果てに暗黒の壁があった。多分ヒルンゲシュピンストの言った、ツレットが生まれた瞬間という時の壁が。
(大丈夫だ。越えられる)
 イメージする。自身が矢となり貫くイメージ。
 右手を突き出す。オリハルコンを握ったまま、今も離していない右手を。
 断ち切れないわけがない。時空の壁くらい。
 

「――――」

 
 暗闇を突き抜けて、ツレットたちは凍土の上空に飛び出した。
 眼下には古い神殿。魔王を倒したばかりの勇者と、その供の賢者がこちらを見上げている。
「アルタール……!!!!」
 左手から半ば転落するようにヒルンゲシュピンストは手を伸ばした。
 賢者が勇者に触れるのと、勇者が異世界に消えるのと、呪いが賢者の息の根を止めるのはほぼ同時だった。
 残された過去のヒルンゲシュピンストが、わけもわからずツレットに立ち向かってくる。
 まだあどけない表情をしていた。若き賢者を押し潰して、ツレットは神殿に沈み込んでいった。
(さて、これからどうするかな)
 どろどろに溶解し、到底人間とは言えなくなった己を眺めて嘆息する。 
 どこで物を見ているのか、どこで思考をしているのかもわからぬような有様だ。
 意識が鮮明すぎるのも良いのだか悪いのだか。
(そう言えばまだオリハルコン持ってたな)
 思い出して抱え直す。
 過去の世界に不要な呪いを撒き散らさないように、できるだけこの中に収まっているとしよう。
 「精霊王の抜け殻」というくらいだから、蠱毒の一つや二つ、入る隙間があるはずだ。
 不死の賢者さえ死ねたのだ。諦めずに待っていれば、そのうち自分たちを解放してくれる勇者が現れるに違いない……。






 ******






 ――四百年後、王都近郊のとある村。


 ツレットは歓喜の雄叫びを上げた。王国騎士団の採用担当者から通知が届いたのだ。応募結果には「同行者として認定する」とある。つまり魔王討伐に向かう勇者一行の一員になれるということだった。
 やった、やった、やった。高ぶる気持ちを抑えられず、楡の木の上で万歳する。愛しい愛しい採用通知に何度もキスを繰り返していると、「何やってんの?」と冷めた声が響いた。
「ティーフェ!! 聞いてくれよ、俺さ、勇者のお供に選ばれたんだ!! あの、ちょっと前に兵隊さんが看板立てに来てたやつ!!」
 同じ顔をした妹の元へツレットは急いで降りて行く。唯一の肉親にはきちんと説明せねばなるまい。落ちたら格好悪いからと募集に名乗りを上げたことも秘密にしていたのだ。これから兄がいなくなるとは彼女も考えていなかったはずだ。いくらティーフェが男勝りで少々ガサツであると言っても淋しい思いはさせてしまうだろう。今までずっと二人で支え合って生きてきたのだから。
「へえ、良かったじゃん。おめでとう。なーんて実はあたしも受かったんだけどね〜!」
「え? え!? ええ!?!?」
 妹の爆弾発言にツレットは目を白黒させた。遥か南方の神殿に棲むという呪いの王はティーフェの敵う相手ではないだろう。「やめとけよ」と諭す兄に妹は「あたしの方が狩り上手じゃん」と握り拳を作ってみせた。
「噂だけど、バイトラートも行くんだって。それに時間を操る魔女と、呪いに詳しい魔導師と、えーと後は誰だったかな。そうそう、ルーイッヒ陛下が直々に激励をくださるそうよ。あ〜ん早く王都に旅立ちた〜い!」
 騒ぐ妹に嘆息しつつ、ツレットは不思議に懐かしい海の向こうの大陸を思う。
 時を超えた自分殺しの長旅が待っているとはまだ知らぬまま。







(20140920)