第十話 瓦解






 くたびれ果ててホールに座り込んでいた。もはや落涙する気力もないツレットのすぐ側で、慟哭が折り重なっている。
 掌を見つめれば、まだあの長い髪の毛が巻きついている気がした。こみ上げてくる嫌悪感に吐き気がする。眩暈と動悸。生き残れた喜びなんてただの一片もない。寧ろこれからどうなるのか、頭には不安しかなかった。たった六人になってしまって。
「なんで……」
 どこか呆然とした様子で竜殺しが問いを発する。いつも芯のある声で話す彼にしては珍しく、動揺がありありと見て取れた。
 ツレットは剣士の正面に目を移した。問いかけられた少女の丸い瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。
「ネルケはどうしたんだ……?」
 沈黙。嗚咽。ペルレはバイトラートに答えられない。冷たい床に転がった首飾りを指差すこともだ。結局それを拾い上げたのは竜殺しの戦慄く腕だった。
「……なんで……」
 もう一度同じ言葉が繰り返される。バイトラートは言外に、ネルケが敗北するはずなかったと言っていた。何か卑劣極まりない手段を用いない限り、魔力の尽きていたペルレに彼女を倒せるはずがなかったと。
 否、古い付き合いだったバイトラートのことだ。この時点でネルケの取った行動に思い至っていたのかもしれない。わかるからこそ信じたくなかったのだろう。彼女がもう帰ってこないこと。
「ネルケさんは……、魔法で、私を操って……っ」
 その光景は易々と思い描けた。ゴーレム殺しの影に捕らわれ、刃を握らされるペルレ。自ら命を差し出すネルケ。姉妹のような二人だったから。
 ごめんなさいと詫びるペルレにバイトラートは絶句した。到底今後の相談を持ち掛けられそうな雰囲気ではない。他を振り返ってみても、縋れそうな誰かなどいなかった。アルタールは虚脱しているし、ウーゾは何があったのか顔面蒼白で震え上がっている。シェルツも酷く塞いでいた。ルーイッヒの死はツレットにもショックが大きかった。王族の血をもってしなければヒルンゲシュピンストを抑え込むのは不可能だというのに。

「さて、そろそろ次の試合の話をしても構わないかね」

 高く壇上から響いた声に歯軋りする。憎き賢者は一人涼しげに眼下のやりとりを見つめていた。配下としていた魔女がいなくなったのを気にした風もない。怪物には冷血を恥じる心すらないようだ。
「明日」
 そう言ってヒルンゲシュピンストは笑った。だがツレットには賢者の告げた言葉の意味を計りかねた。おそらく皆もそうだったろう。一体何が明日なのか、すぐにピンとは来なかったはずだ。
「明日の昼過ぎ、誰が本当の勇者になるか決めてもらう。最終決戦だよ。六人とも同じ試合会場へ招待するので楽しみにしていてくれ」
 ホールは一瞬しいんと静まり返った。泣き声が止んだ代わりにごくりと息を飲む音が響く。抗議めいた問いを投げかけたのはシェルツだった。
「どうして急に? 毎回次の試合までは技を磨くための猶予があったじゃないですか」
「何を言う。今までが引き伸ばしすぎたくらいだ。元々半月もかける気はなかったし、私にも予定というものがある。さあ、今夜はもうお開きだ。ゆっくり気力回復に努めてくれ」
 宣告を終えるや否やヒルンゲシュピンストは姿を消した。吊り下げられたシャンデリアに光が灯り、薄暗いホールを照らし出す。ツレットが「おい!」と叫んでも賢者の反応は返ってこなかった。本当に明日全ての決着をつけるつもりなのだろうか。
「どうする? 館の核を探すにしても間に合わ……」
 呼びかけはこだました金属音に掻き消される。バイトラートが叩きつけたオリハルコンは、やはりホールの床を傷つけられなかった。ペルレに及ぶ寸前だった刃に驚き、考えるより早く二人の間に入る。シェルツも慌てて飛んできた。どさくさ紛れにアルタールは階上へ逃げたようだ。おそらくこのままここにいては何らかの責を問われると予測しての逃亡だろう。どこまでも弱い勇者だった。
「どうしたんだよバイトラート!! ペルレに八つ当たりしたってしょうがないだろ!?」
 返答はなかった。神剣はまだ鞘にしまわれる気配もなかった。広間に額を擦りつけ、魔法使いの少女は泣く。本当は自分が負けるつもりだったんです、と。
 そうだ。ペルレは確かにそう言っていた。親切なネルケを毒牙にかけることはできないと。だからツレットも、無事戻ってきた時魔導師を見て意外に思ったのに。

「……あんたが妹に似てたから、殺せなかったのか……?」

 喉から絞り出された声。バイトラートの問いにペルレは小さく頷く。すみません、ごめんなさいと泣きじゃくりながら。
 竜殺しは剣を落とした。カランカランと乾いた音が天井に吸い込まれて消えていった。
 何も言えない。何も言う資格はなかった。「お兄ちゃん」に助けを求めたクノスペを、殺したばかりの己には。
「…………」
 長い長い静寂の後、シェルツがバイトラートを支えるように出て行った。
 残されたペルレに冷静になれぬまま手を伸ばす。ともかく彼女を休めるところへ連れて行かねばならなかった。ツレットよりも弱っている彼女を。
 握られた手を掴み直して歩き出す。足を引き摺り、階段ホールへのろのろ進んだ。空気は重く纏わりついて、足枷を嵌められた気分だった。
 と、ごつんと何かが頭にぶつかる。俯いていた顔を少しだけ起こせば、号泣したまま立ち尽くしていたウーゾと目が合った。

「お前は殺す。何があってもだ」

 涙声の宣告に、心臓はもう震えなかった。ここへきて感情はすっかり麻痺したようだ。核探しを手伝ってくれそうにはないなと、それしか思い浮かんでこなかった。
 くたびれ果てていた。何をどうするべきなのか、考えるべきなのに考えられなくなっていた。
(明日が最終決戦……?)
 もしも勇者が決まったら、それまでに館を脱出できなかったら、自分たちはどうなってしまうのだろう。






 ******






 縦長の窓には細い月が浮かんでいる。小さなテーブルにはツレットの用意してくれた紅茶のポットとミルクがあった。
 豪奢な毛織の絨毯の上にペルレは力なくしゃがみ込む。まだ信じられなかった。おめおめと生き残ってしまったことが。
 どうしてネルケを帰してやれなかったのだろう。少なくともバイトラートはそれを望んでいたのに。ヴォルケンだって、彼女にだけは幸せになってほしかっただろうに。
 後悔が胸を蝕む。誰かと一緒に泣きたかったけれど、部屋には誰もいなかった。他人に優しくできるほど余裕のある人間などきっといない。ペルレもそうだ。ネルケの代わりにバイトラートを慰めることができなかった。
 どこで何を間違えたのだろう。魔力さえ潤沢だったなら、ネルケの影に捕まりなどしなかった。彼女を救えたはずだった。ヒェミーやゲラーデは助けられなくとも、まだ。
「何よ……!! 時魔法なんて……ッ!!」
 柱時計にカップを投げつける。割れたガラスも、砕けた陶器も、瞬時に元の形を取り戻した。カチコチと秒針がうるさい。嘲笑われている気がした。
 なんて意気地なし。なんて役立たず。――時間を戻す方法なら本当は一つだけあるくせに!
 この期に及んでまだ勇気を振り絞れない。死んでしまった方が楽だと逃げている。
「時魔法なんて……っ」
 ペルレが泣いても秒針は素知らぬ顔で時を刻み続ける。魔法はもはや味方ではなかった。こんな力を持ってさえいなければ、二試合目の早々に消えてしまえていただろうに。希望を持たせるだけ持たせて、酷い属性だ。






 扉の鍵をかけても、窓のカーテンを閉じても、頭から毛布をかぶっても、守られた自分だけの空間なんて作れなかった。無力な己にあの化け物の侵入を拒めはしないのだ。
「やれやれ、そんな風に閉じこもっている場合ではないと思うのだがな」
 耳を塞いでアルタールは聞こえないふりをする。どうせ、どうせ、何をしたところでこの賢者の思う通りにしかならないのだ。だったらさっさと魔王を倒して帰りたい。全部忘れてしまいたい。悪い夢だと言い聞かせて。
「アルタール、明日こそ一人で頑張れるね? 君も勇者として召喚されたなら、一度くらいは自分の力で勝利してくれ。そうでなければ私も応援し甲斐がない」
 薄いブランケット越しにこめかみを撫でられる。反射的にその細く白い指を振り払い叫んでいた。 
「……ッなんなんだよお前は!! 何もかもお前が仕組んだんじゃないか!! 僕はこんな世界に来たいなんて望んでなかったのに!! それなのに勇者らしく戦えって!? できるわけないだろ!?」
 ふざけるなよと目で噛みつく。もうたくさんだ。こんなわけのわからない殺し合いは。そんなに勇者に仕立て上げたいのなら、そっちで勝手にやればいいのだ。レーレや他の候補者たちを「殺せ」と差し出してきたように。

「できないなら死ぬだけだ。誓って言うが、私は次は君に乞われても助けない。勇者になれない君に用はない」

 存外に冷たい響きを有した声に目を瞠る。透き通った水色の瞳は揺らぎもせず、熱もなく、ただアルタールを見下ろしていた。
「……。友達じゃ……なかったのかよ……」
「友人だったさ。初めての、世界でたった一人の。だが別に、私はもう一度友情を深めるために君を呼び出したわけではないからね」
「え……?」
「してもらいたいことがあるのさ。魔王を倒した後に」
 ヒルンゲシュピンストは楽しみで楽しみで仕方がないという風に頬を緩めた。いつもの酷薄さは鳴りを潜め、随分と無邪気に映る。そのギャップに背筋が凍った。賢者がこんな笑みを浮かべるのは、思い出の「アルタール」を語るときくらいだったから。
「魔王を倒した後? 魔王を倒したら、僕は帰れるんじゃないのか?」
 まだこのまま、囚われたまま離してもらえないような気がして早口になった。焦りを見透かした双眸が細められ、大切なことほど語らない唇がそっと開かれる。
「帰れるとも。何、私の頼みなど魔王退治の副産物として叶えられるものでしかない。君は君自身の帰還のために、勇者になることだけを考えていればいいんだ。手伝わないとは言ったけれど、君を最有力候補として推している事実に何ら変わりはないのだからね」
 ヒルンゲシュピンストの頼みとは一体何だろう。第三試合が始まる前、昔の記憶を取り戻してくれと乞われたが、そのことだろうか。でも友情を深めるために呼び出したのではないとも言っている。それに賢者の口ぶりでは、アルタールが特別何かしなければならないわけでもないようだ。
 引っ掛かったが、今はそれより気になることが別にあった。さっき本気で誓ったのだろうか。アルタールを手伝わない、助けないと宣言したこと。
(いや……、そんなわけないよな。レーレとの試合だって、事前に手は貸さないって言われてたんだから……)
 心臓が嫌な鼓動を響かせている。おそらく「誓い」という言葉のせいだ。
 どんなに古い約束でもヒルンゲシュピンストは忘れてしまわない。その頑なさを、執着の強さを、アルタールは嫌でも感じさせられてきた。だから少し怖くなっただけだ。そんな小さな誓いですら果たそうとするのではないのかと。
 馬鹿な杞憂だ。もう一度「アルタール」に会いたいと言うこの賢者が、アルタールを見殺しにできるはずないのに。
 明日できっと苦しみは終わる。もう疲れた。もう考えるのはよそう……。






 思いがけずあっさりと決勝戦まで進めたものだ。気もそぞろな竜殺しを見送って、シェルツはホールに引き返した。
 さしものバイトラートも明日までに平常心を取り戻すのは不可能だろう。様子見しながら襲撃案を考えよう。残った面々は皆して「死」に不慣れなようだから、どうとでも料理できるはずだ。
 薄ら笑いを掌で覆う。第四試合でラツィオナールが消えてくれたのは助かった。邪悪には邪悪を嗅ぎつける本能がある。直接対決ともなれば、あの刃狂いはこちらの正体を明かしてしまったに違いない。
 シェルツの本業は詐欺と暗殺である。元々ここへもルーイッヒ殺害の任を受けて入ってきた。殺しのついでに依頼人である現国王の弱みでも握ってやろうと画策していたのだが、もっと大当たりを引いたらしい。生き残って勇者になれば、いくら王でも口封じなどできはしまい。脅して、強請って、搾り取れるだけ搾り取ってやろう。宮殿と玉座までも。そうしたらこんなケチな人生にも光が差そうというものだ。

「あ、シェルツ。バイトラートは?」

 ずっしりと重い扉を開くとまだ青い顔をしたツレットが振り向いた。ペルレは彼が送ってきたのか姿がない。ウーゾも退散済みらしかった。
「一人にしてほしいと仰られて、今は厨房に」
「そうか……。館から脱出する方法、話し合いたかったんだけどな……」
 ペルレもしばらく出てこれそうにないしと少年は肩を落とす。意外にこの子が一番しっかりしているかもしれない。ファッハマンに後を託されたことが支えになっているのだろう。だがその支えも、賛同する者あってこそだろうが。
「ツレット君はえらいですね。僕はもう、核を破壊するのは無理なんじゃないかと諦めてしまってますよ」
 弱音を零すふりをして反応を窺う。「そんな」と首を振りツレットはシェルツを引き留めた。意図して暗い表情を作りつつ、低く囁き反論する。
「だって明日ですよ? 手に入れた分の魔力があっても到底間に合わないでしょう」
 そう、四試合を経てもなお単独では誰も逃亡を図れなかった。桁違いに魔力量の多いツレットですらだ。協力する者がいなければ、彼は計画を実行に移せない。他の案に縋らざるを得なくなる。ここは布石を打っておいても損はないだろう。
「……それでも明日まで、じっと待ってるなんてできないから……」
 もどかしげな少年にシェルツは「ええ」と頷いた。
「僕もですよ。だから別の方法を考えませんか?」
「別の方法?」
 きょとんとツレットは目を丸くする。ファッハマンが示した以外に有効な脱出方法があるとは思ってもみなかったようだった。まあこれは、潰し合いをさせるための方便だから、思いつくはずもないのだが。
「明日の試合を乗り切る方法です。僕はもしかしたら、アルタールさんさえ倒せたら試験は終わりにできるんじゃないかと思ってるんです」
「え?」
「だってヒルンゲシュピンストは彼を勇者にしたいんでしょう? 続ける意味がなくなるじゃないですか。それに、六人とも同じ試合会場に呼ぶということは、今までのような一対一の戦いではなく五対一の戦いも選択できるということです。アルタールは強敵かもしれませんが、倒した後なら交渉の余地が生まれるかもしれません。賢者自身にこの術を取り消させられるかも」
「……」
 唾を飲む音がはっきり聞こえた。「でも……」と喉を詰まらせたツレットは、誰か一人を犠牲に残った者で助かろうという考えがすぐには受け入れ難いらしかったが、これまでの死者の多さがはっきりとした否定を彼に告げさせなかった。九十四人だ。九十四人も死んだのだから、それが九十五人になったところで大きく変わらないのではないか。そう頭によぎったはずである。少なくとも、一瞬は。
「返事はすぐでなくて結構です。ただやはり、アルタールさんをなんとかしない限り、止まらないのだとは思います。この話はさっきバイトラートさんにも一応……」
 台詞は最後まで紡げなかった。悲壮な決意を固めた瞳に見上げられ。
「それって……、ルーイッヒ殿下が言ってたのか……?」
 震えた声で何を問われるのかと思ったら、少年はシェルツが前王子から何事か大きな遺志を引き継いだものと勘違いしたらしかった。笑い出しそうになるのを堪え、神妙な素振りで頷く。
「そうなんです。わかるんですね、ツレット君には……。あの方はもうすっかり自信を失くしておいででした。罪悪感と無力感で、僕に手をかけることができなかったんです。代わりに必ずアルタールだけは始末してくれと。ヒルンゲシュピンストの暴走が、それで収まるかもしれないからと……」
 前王子の名は威力絶大であった。ツレットは「わかった」と呟き握り拳を固める。そうか、彼も故人との約束や思い出に縛られるタイプだったな。擽る路線は間違っていなかったようだ。
「墓……作ってやらないと。また、皆の……」
 ホールにはまだ遺品が散らかったままだった。ラツィオナールの二本の剣、ネルケの短刀、クノスペの槍、レーレの杖、ドルヒの長弓、ルーイッヒの宝剣。その間にさっきバイトラートの取り落としたオリハルコンが転がっている。
 一瞬「欲しい」と手が出かけたが、ツレットが拾い上げる方が早かった。少年は鞘のない剣を丁重に壁に立て掛ける。盗んだところで持ち主が呼べば飛んで行く神剣だったかと思い返し、即興味を失った。代わりにツレットの側へ寄り、装備を拾い集めるのを手伝う。
「僕も一緒にやりますよ。その後少し、お茶でも飲みましょう」






 急に地面に大穴が開いたような、浮遊感を伴う錯覚。それがさっきから歩くたび付いて回ってくる。
 シェルツの言葉も耳によく入らなくて、右を向いているのか左を向いているのかもわからなくて、以前ネルケが淹れてくれた紅茶のポットがどこにもないのにしばらく気づかず探していた。
 人が死んだらこんな阿呆になるものかと、愕然としつつ己を笑う。だが笑みはすぐ引っ込んだ。ポットを落とした来客の顔に。
「バ……バイトラート、さん……」
 木目に広がった紅茶の染みは五秒と待たず乾き切った。逃げ出すべきか迷うようなペルレの態度が処理しきれない。まだ、冷静には。
「あの……」
 去るなら追うまいと思ったが、少女はその場に踏み止まった。物言いたげな視線がざわざわと絡みつく。
 似ていたのだろうか。本当にそんなに。ネルケが戦闘を放棄するくらいに。
「伝言を……、頼まれてて……」
 心臓が震えたのを、どこか他人事のように感じ取っていた。
 伝言ではなく遺言だろう。頭の片隅で訂正が入る。まだ死を実感するにも至っていないのに。
 想像すらできなかった。あの女の死に際なんて。

「ごめんねって……」

 意味がわからなさすぎて立ち尽くす。一体何がごめんねなのだ? 恨みつらみを吐かれこそすれ詫びられる覚えなど一つもない。僅かでも憎悪を向けてしまったことを、悔いていたとでも言うのだろうか?
「何が」
 気づけば尋ね返していた。知りたいのか、知りたくないのかも自覚しないまま。
 ペルレの返答は、全く予想外のものだった。

「多分、バイトラートさんを……、ずっと好きだったこと……です」

 今度こそ本当に意味がわからなくて、目の前を通り過ぎていく記憶の数々に叫び出しそうになった。
 相手にしなかったではないか。いつも、どんな夜も、昨日だって。恋人に贈られたという首飾りを外したことさえなかったのに。

「ネルケさんの妹さん、ヴォルケンさんを好きだったらしくて……。ヴォルケンさんを譲らなかった自分が今更そんなの言い出せっこないって……、だから……」

 そこまで話すとペルレは袖で目元を拭った。ネルケが今この場にいたら、喋りすぎだと少女を小突いていたかもしれない。女戦士からの伝言が最初の「ごめんね」だけだったことは、あの女の性格を考えれば察せられた。だからこそ、本心ではそうだったのだと深く思い知らされる。これまでの十年間、なんて無為な時を過ごしてしまったのか。
「…………」
 落雷に打たれたように動けなかった。たった今、あらゆる呪いが内向きに方向を変えた。
 昨日の自分を殴り飛ばせたら。もう一度やり直せたら。――そんな力が自分にあれば。
「バイトラートさん……」
 駄目だと直感した。俺はもう駄目だ、と。
 持ち上がった両腕を自制する。時魔導師に伸ばしかけた手をテーブルに置き直す。
「もういい」
 できるだけ抑えた声で威嚇した。何をしでかすか自分でも知れたものではなかったから。
「もう出てってくれ」
 目の前からいなくなってほしかった。酷いことはしたくなかった。せめて今日だけは。折角ネルケが命を捨てて守った相手に。
 塗り替わった空気に怯えてペルレは身を翻した。キイキイ音を鳴らすドアを閉めることもできないままバイトラートは膝をつく。
「……っはは……はははは……」
 俺は何をやっていたんだ? つい半日前までネルケは確かに隣にいたのに。一体あいつの何をわかった気になっていたんだ? あいつの死んだ妹が、あいつの生も死も幸福も支配していると、俺には気づけたはずなのに。
「ははははは!! ははは……ッ!!!!」
 底冷えしそうな笑いはしばらく止まらなかった。
 何故あれほど懸命に、ヒルンゲシュピンストに抗ってきたのか、理由はもう覚えていなかった。






 ウーゾは怒ると見境なくなっちゃうからなあ。そう嘆息したのはブラオンだった。寒い冬の道場で、「内緒だよ」と温かい粥を差し出しながら。
 雪まみれでも、泥まみれでも、兄弟子は常に穏やかだった。同じ村から聖山に登った友人たちが揃いも揃って麓へ降りてしまったときも、仕方ないねと笑っていた。
 ――仕方ないね。皆には帰れる家があるんだもの。
 口減らしのため捨てられたブラオンに、下山などという選択肢は最初から与えられていなかった。残ってくれてありがとうと言ったきり、兄弟子は二度と皆の名を口にしなかった。
 師父には大勢の弟子がいた。毎年冬が来る前に、似たような境遇の子供らが四方から山に押し寄せてくるのだ。だがほとんどは厳しい修行と環境に耐えられず、雪解けとともにいなくなる。捨て台詞を吐いて去る者も少なくはなかった。
 あの日はなんと吐き捨てられたのだったか。師父の苦言もろくに思い出せないが、ブラオンの笑みと囁きはよく覚えている。

「でも、ウーゾが本気になって怒るのは、いつも自分以外の誰かのためだもんね」

 小さな部屋に絶叫がこだました。幻聴から逃れたくて、右腕を振り回し後ずさる。背中が壁にぶつかって、衝撃で手にしたダガーが転げ落ちた。まだ薄汚れて見える友人の形見が。
 ――嫌な奴だったと言い聞かせて自分を正当化することは、卑怯とは言わないのかね?
 耳の奥でラツィオナールの声が響く。こびりついたまま離れない。
「黙れ……っ」
 黙れ、黙れよと繰り返す。非難ではなく懇願かもしれなかった。図星を指されたと、あのとき確かに認めてしまったのだから。そのうえみっともなく逆上し、ラツィオナールを殺しさえしたのだから。
「俺は、俺は……ッ!!」
 ただ最初は、ブラオンの仇を討つためにと。それだけで。
 ――命を奪うと決めたとき、悪に堕ちた自覚もすべきだったな。
 幻が哄笑する。所詮誰しも同じ穴の狢なのだと突きつける。いいや、それよりなお悪い。薄っぺらな正義を振り翳し、勝手な物差しで他人を裁いた分、ウーゾの罪は増したのだ。
「違う……!!!!」
 至った考えに首を振る。ダガーを握り締め、必死に否定し続けた。誰に申し開きをしているのかもわからないまま。
 あれは動揺を誘うための詭弁だった。ラツィオナールの姑息な心理術だった。そう思いたいのに一度湧き上がった疑念はウーゾに逃げ道を与えてくれない。「本当に?」と問いかけながら追い詰める。「本当にラツィオナールも姑息で嫌な奴だったのか?」と。
「やめろよ……ッ!! もうやめてくれよ……!!!!」
 上も下も覚束無くなり倒れ伏した。浅い呼吸の間隙を突くようにして記憶の断片が甦る。
 ――ウーゾは――優しいから――いつも――自分ばっかり損して――。
 ――二人のうち――どちらかが勇者になれたら――いいんだけどね――。
「ブラオン……っ」
 死者に救いを求めるなんて滑稽だ。それが幻影ならばなおさら。
 お前のためにと言いながら、俺は俺のために殺人を重ねてしまったのだろうか。
 伸ばした腕がぴたりと止まる。無二の親友に触れられない。返り血のついたこの手では。
「――……」
 扉がノックされた気がして振り向いた。見上げればそこには別の男がいた。孤立しちゃいけないよ、と度々ウーゾを気にかけてくれた。
「……ミルト……」
 名前を口にして思い出す。第三試合で彼を殺したのがラツィオナールだったこと。
 あっ、とウーゾは唇を緩めた。そうだ。そうだった。なんだ、そうだったではないか。錯乱状態で手にかけたにせよ、自分は仇討ちを果たしただけだった。ラツィオナールの本性が善でも悪でも関係ない。仲間を弔うための復讐なら。
 なんだ、良かった、間違っていなかった。
「は…………」
 ぷつりと思考の糸が切れた。上半身だけ寝台に預け、訪れた安堵に瞼を閉じる。
 何か大切なことを見落としているような気がしたが、考える余力はもう残ってなかった。
 明日はツレットを殺すことにだけ専念しよう。やっとあいつと戦えるのだ。やっと終わりにできるのだ。
 深い眠りに囚われて、そのまま夢も見なかった。
 フォラオスや、初日の試合で殺してしまった候補者たちの幻も。






 六つ十字架を立て終えて、シェルツと別れたすぐ後だった。庭に出てきた魔女とばったり出くわしたのは。
「ツレット君……」
 月はもう随分高く、普段なら起きて動き回っている時刻ではなかった。眠れないのかと尋ねると、ペルレは首を横に振った。
「余計なこと言っちゃったかもしれない、バイトラートさんに。でも私、ネルケさんのためにできること他に……」
 か細い声が喉に詰まる。詳しく聞けなかったけれど、さっきまで二人で厨房にいたようだ。試合直後の不穏な空気を思い返し、思わず「大丈夫だったか?」と確認した。一応何事もなかったようだが。
 座って話そうと促せばペルレは頷き噴水の縁に腰かけた。隣に並んで魔法使いの横顔を覗く。「バイトラートさん、もう私と一緒にはやりたくないって言い出すかも」と零された。
「当たり前だよね。試合が明日じゃ核探ししても意味ないもの。協力し合う理由もないのにネルケさんを殺した私と仲間でなんかいられないよね」
 殺そうと思って殺したんじゃないだろう。喉まで出かかった言葉は口に出せなかった。ペルレは慰めを求めているのではない。ただ淡々と事実を語っているだけだ。不確かながら育んできたものが、消えてしまった可能性があると。
「核探しは、シェルツも諦めるってさ……。明日の試合でアルタールをなんとかして、賢者に試験中止を持ちかけてみようって」
「アルタールさんを? そっか、そうだね……。ヒルンゲシュピンストにとって一番大事な人だものね……」
 でも、とペルレの声が掠れた。
 この館に閉じ込められてから、何度彼女とこうして話してきただろう。励ましたこともあった。励まされたこともあった。今、辛うじて明日のことを考えて立っていられるのは彼女の言葉のおかげかもしれない。頑張ろうと言ってくれる誰かがいなければ、こんなところで誰も頑張れないからと、そう言ってくれた。
 だが当のペルレは項垂れ膝を抱え込んでいる。もはやどこにも行き場はないと嘆くように。

「でもそれでも、終わらなかったらどうなるんだろう、私たち」

 同じ疑問はツレットの内にもあった。もしこのまま最後の一人が決まってしまったら、蠱毒の呪いが完成してしまったらどうなるのか。
 我知らず息を飲む。ファッハマンも、その未来は語らないまま死んでいった。そして今まで誰一人、知ろうとはしなかったのだ。考え得る最悪の結末だけは。
「誰かが最後まで勝ち残って、呪いで魔王は倒されて、私たちずっと『勇者』の一部として生きていくの? だけど蠱毒の呪いって、いつ終わるになるんだろう? 魔王を倒せば消えてなくなる? 不老不死の賢者が主の呪いなら、『勇者』だって同じような化け物にならない?」
 残った六人の候補者の中で、魔法の知識を持っているのはペルレだけだ。その彼女が捲くし立てた問いにツレットは圧倒され、黙り込むほかなかった。
 不老不死の「勇者」の一部として生きていく? ――まさか、永遠に?

「大丈夫」

 気づけば勝手に口が開いていて、ペルレの小さな手に己の掌を重ねていた。
「大丈夫だから心配するな。俺が何とかするから」
 ああ、これはいつもティーフェに言っていた台詞だ。母が病に倒れたとき、天涯孤独の身になったとき、妹を元気づけるため大風呂敷を広げた。自分には何の力もないと知っていながら。
「……ありがとう、ツレット君」
 泣き笑いに在りし日の半身を彷彿とさせられる。ペルレはティーフェに少しも似ていないのに、妹が乗り移っているように錯覚した。
 せめて彼女は守れるだろうか。今まで誰も救ってこれなかったけれど。
「……あのね……」
 掌を握り返してペルレはこちらを仰ぎ見た。赤い瞳が何度か瞬き、揺らいで半分伏せられる。
 「やっぱりなんでもない」という言葉とともに左手は離れていった。結局ツレットがペルレの話の続きを聞くことになるのは翌日の試合の真っ最中となる。
 このとき逃げた手を掴んで、もう一度尋ねていれば、彼女だけは助けられたのかもしれない。







(20140910)