第九話 亡き妹のために






 夜の静けさは堪え難いものがある。世話になっていた村長の家では他人の寝息どころか家畜のいびきまで響いてくるのが常だった。
 一人目覚める朝はもっと酷薄だ。「いつまで寝てるつもりなの?」と揺すぶり叩き起こされた日々がただ遠い。
 ツレットは静かに寝台を降り、足元の矢筒を探った。お守り代わりに一本貰った妹の矢をそっと抜き取る。祈るように「おはよう」と囁いた。当然のごとく返事はない。
 部屋を出ると、顔だけ洗って墓地へ向かった。ここに来てからの習慣だ。骨すら納められていない墓にいくら語りかけようと死者の慰めにはならぬだろうが、亡くした人たちを心に留めておくことはできるから。
(今日こそ館を出るぞ)
 ティーフェやファッハマンやブラオンたちと一緒に。今度こそ。他にしてやれることなど何もないのだから。
(魂が解放されたら、生き残った皆でこれからどうしていくか考えるんだ)
 ヒルンゲシュピンストをこのままにはしておけなかった。玉座には人情なしの王が腰かけたままだし、魔王の脅威も依然としてある。アルタールを元いた世界に帰すのはともかく、ルーイッヒが政権を取り戻す力にはなりたい。でなければあの不死の賢者は何をしでかすかわからなかった。また同じ惨劇が繰り返されるのはごめんだ。
(手伝いたくても、俺は手伝えないかもしれないけど……)
 小さな嘆息と共に立ち上がる。膝についた草を軽く払って館に引き返した。
 昨夜ウーゾの部屋を訪ねたとき、きっぱりと宣言された。核の破壊に成功しても、ツレットへの報復は取り下げないと。
 いざ「外」で決闘となれば自分には戦う意志など持てないだろう。殺意や害意はなかったにせよウーゾから友人を奪ったことは確かなのだ。言い逃れはできない。故郷でティーフェの供養を済ませたら、後はどうなってもいいという気もした。元々ツレットの中で生き延びたいという意志は希薄だ。ただ救いたいだけだった。妹と、殺めてしまった人たちを。
 厨房へ向かう足取りは重かった。決戦に備えて腹ごなしくらいはと思うのだが、食欲の湧いてくる兆しはない。ティーフェの作る、味気のない豆スープが飲みたかった。贅沢な望みだ。
「ああ、おはようございます、ツレット君」
「おはよう。そちらも朝食か?」
 扉を開けば小さな木製テーブルには先客が腰かけていた。林檎の皮を剥くシェルツと、ますます線の細くなったルーイッヒだ。第三試合終了以後、前王子を案じて寄り添う青年の姿はしばしば見受けられた。腹心の部下を手にかけたルーイッヒの憔悴ぶりは際立っている。
「あの、殿下、大丈夫ですか?」
 青白い顔色が心配になって問いかけた。高貴な方を、どう励ませば元気づけられるのかツレットには皆目見当もつかなかったが。
「大丈夫だ。この大切な日に萎れている場合ではないだろう」
 前王子はにこりとツレットに微笑みかけた。虚勢は知れたが無理するなとも言えずに押し黙る。今日だけは、無理でも無茶でもやらねばならない。正真正銘、きっと最後のチャンスになるから。
「ツレット君も、林檎どうですか? これなら食欲がなくても食べやすいでしょう」
 シェルツに勧められた皿には小さく切り分けられた果実が盛られていた。細やかな気遣いが有り難い。自分も誰かに優しくできたらいいのに。そうしたら、少しは自分を許せるようになるかもしれない。






 約束の時間にはバイトラートとネルケとペルレも降りて来て、ツレットたち六人は周囲を警戒しつつ庭へ出た。
 妨害を受ける可能性は高かった。レーレとラツィオナールは試合続行を望んでいるし、アルタールも蠱毒に与えられる恩恵は大きい。自我がないのをいいことに、クノスペがツレットたちを襲うように命じられるパターンも考えられた。ウーゾとドルヒも口では邪魔しないと約束してくれたが、本音のところはわからない。
 だが様子見に徹するつもりなのか、はなから失敗に終わると決めつけているのか、館から他の勇者候補が出てくることはなかった。精霊像の踊る噴水を前に数秒の沈黙が流れる。緊張の糸は切らないまま、ツレットは前方に右腕を掲げた。
「待って」
 腐食魔法の発動を止めたのはネルケだ。女戦士は「核を壊すためにツレット君の魔力は僅かでも温存すべきでしょ?」と交代を申し出てきた。噴水に強固な復元魔法がかけられているかどうか、彼女の影魔法で推し測ってくれるらしい。
 言われてみればその方が利口である。ネルケはペルレの魔法で付いて来れないのだし、ツレットが前座まで務める必要はない。そんな簡単なことにも気づかないとは間抜けだった。
(……思ったほど冷静じゃないのかもな、俺)
 改めてファッハマンの偉大さを思い知らされる。自分は彼の半分くらいは上手く立ち回れているのだろうか。今更ながら不安になった。どこか見落とした点があるのでないかと。
(いいや、怖がっちゃ駄目だ。ファッハマンは誰にもそんな顔見せなかっただろ)
 かぶりを振って唇を引き結ぶ。計画は大詰めだ。ここで自分が怯んではいけない。皆の期待は己の魔力にかかっている。最後までしっかり、ファッハマンの遺言通りにやり遂げなければ。
 気負いすぎを諌めてくれる相手はいなかった。バイトラートや、たった今助言をくれたネルケでさえ平静とは言い難かったのだろう。せめてこのとき自分で踏み止まるべきだった。ファッハマンほどの分析力は持ち合わせていないとわかっていたのだから。
「それじゃ試してみるわね」
 ネルケはそう言い、足元の影を長く細く伸ばして水盤に侵入させた。分岐した黒縄は各方位から中央の石像に巻きつく。女戦士は当然砕くつもりであったのだろう。だが影による戒めは、ネルケが網を引いた途端、精霊像を擦り抜けてしまった。
「!!」
 バイトラートがゴーレム殺しを振り返る。ネルケは左右に首を振り、「手応えはあったわ」と呟いた。手応えがあったのに石像にひび一つ入っていないということは、そういうことだ。一瞬で元の形に戻ったのだ。
「ペルレ、頼む」
 ツレットは意を決し、時魔導師に合図を送った。少女はさっとバイトラートとツレットの服を掴み、時間停止の術にかかる。
 灰色が庭の緑を染めていった。飛沫は静止し、風の音が止む。動いているのは前回と同じく三人だけだ。ツレットは意識の弓に魔の矢をつがえ、集中力を高めた。上着の裾からペルレの震えが伝わってくる。その向こうではバイトラートが巨大なランスを構えていた。麗しの精霊像に眩しく輝く矢を放つと、異空間はただちに姿を現した。






 ******






 難しいことはわからないけど、遠くでも近くでも人が死ぬのは嫌だよね、と勇者は言った。
 同じ精神が今のアルタールにも備わってはいるのだろう。ただし彼のそれは、勇敢さではなく臆病さの発露に過ぎなかったが。
 正体もばれたことだし観念して戦いに出るかと思ったのに、相変わらずアルタールは歯切れの悪い返事しか口にしない。これ以上候補者の誰かが死ねば本当に孤立してしまうと怯えるだけだ。
 猶予は与えて待ってやったがこれ以上はいけなかった。これ以上は己の方が待ちきれない。何しろ時間は有限だ。特に寿命というものは、ヒルンゲシュピンスト一人を置いてあっさり尽きてしまうのだ。
 「では次に彼らが失敗したら第四試合を始めよう」との約束は一方的に突きつけた。アルタールは不満げだったが、見捨てられることを恐れて強い抗議はできないでいた。まだその程度の勇者だった。
 透明な管の内を巡り巡り、水時計の水は流れる。
 始まりも終わりも曖昧な世界の中で、永遠に円を描いている。
 「侵入者たち」は再びヒルンゲシュピンストの作り出した白い部屋に招かれていた。息をつくのも惜しい様子で剣士は馬上槍を振るい、弓使いは光熱魔法を連発する。所詮徒労に終わるとも知らずに。
 ペルレに悟られないようにペルレに触れる程度の芸当は容易かった。接点以外は歪めた空間に隠してしまえばいいし、彼女の注意は壊れかかった水時計に向いている。時間旅行に同伴させてもらっていると知ったら彼らは一体どうするだろう。「やあ」と声をかけるタイミングが悩ましい。
 口角を上げ、ヒルンゲシュピンストは事の成り行きを見守った。水時計の復元力はペルレの支配が及ぶ間はゼロになる。既に深部まで亀裂が達し、硝子は黒く変色していた。一点に溜め込まれた衝撃は水時計を灰燼に帰すに違いない。元の形状を取り戻すまで、相当な時間を要するはずだ。
 上手く計画が進行しているらしいのを、ツレットは油断ない目で見つめていた。「もっとだ、もっと粉々になるまでやるんだ!」と徹底的な破壊を指示する。神剣を封じたバイトラートもまた、兎を狩るのに全力を尽くす獅子のごとしであった。
 全く素晴らしい。その気概こそ、アルタールの対戦者として相応しい。
 柱はランスで穴だらけになり、円管も熱であちこち歪んで、水時計はもはや原形を留めていなかった。だがあまりの呆気なさに却って違和感を覚えたか、ペルレの表情はどんどん険しくなっていく。けれどそれも後の祭りだ。時魔導師の力は間もなく使い果たされようとしていた。
 人の魔力は疲労を伴わぬ以外、性質は体力と同じである。休まねば回復せぬし、空になるまで搾り出せばしばらく使い物にならない。つまり彼女は脱落したのだ。
「やった、核が砕け散ったぞ!!」
 再び動き出した世界でツレットが叫ぶ。その声には紛れもない達成の喜びが滲んでいた。少年を囲む面々も、期待に満ちた眼差しで水時計だったガラクタを見守っている。
 だが空間の崩壊は始まらなかった。破損した核の復元も始まらなかった。彼らは数分待っただろうか。最初にルーイッヒが「どうして何も起きないんだ?」と疑問を呈した。答えられる人間はいなかった。ただ皆一様に、顔に不安を貼りつかせていた。

「それは当然、その水時計が偽物だからだよ」

 ヒルンゲシュピンストは隠れるのをやめ、反乱者たちの前に長い灰紫の髪を翻した。バイトラートが素早くランスの先を向けてくるのを風で払い、ツレットの魔法を弾き、残骸の元へ降り立つ。残りの四人はサッと身を退き武器を構え直した。
「に、偽物……?」
 信じられないと言いたげに弓使いが復唱する。確かに信じたくはなかろう。殺し合いから目を背けるべく脱出計画にしがみついていた節も彼にはある。アルタールの逃避行動と比べれば遥かに勇ましい部類だが。
 杖の先で触れた水時計が砂になってさらさら流れていくのを見届けて、ようやくツレットにも「騙された」という実感が湧いたようだった。絶叫し、混乱のまま突進してくるのをふわりとかわし、床に転ばせる。
「君はもう少しファッハマンを見習うべきだったな。彼なら敷地内をつぶさに点検した後に、大本命から攻めたはずだ。君たちが最も傷つけにくいであろう墓地に、私が本拠地を移すことも当然視野に入れていたろうね。わかっていて墓場を汚したくなかった者も、何人かいるかもしれないが……」
 苦々しく眉を寄せたのは女戦士だ。彼女は候補者たちの中でも急激に弱っている。ルーイッヒも同様だった。悲しみが深すぎて最良の判断ができなくなっている。これが第三試合の前なら、誰か一人くらいは「墓も調べてみよう」と提案していただろう。自分たちで用意したものに足元をすくわれるとは滑稽だ。
「さて、二度目は私も厳しく対応することとしよう」
 ヒルンゲシュピンストが真鍮の鐘を掲げると、ツレットたちは愕然と目を瞠った。前回はお咎めなしだったから、まさかこのまま試合に突入するとは考えていなかったらしい。この境遇でなかなかおめでたい頭である。昨日通用したことが今日もまかり通るとは限らないのだ。ヒルンゲシュピンストが、ある日突然友人と引き裂かれてしまったように。
「待っ……!!」
 聞く耳持たず、高らかに鐘を鳴らした。館で留守番中の候補者たちにもここでの会話は届けてある。準備は各々できているだろう。公正を期すならば魔力・体力とも全員が充実した状態で戦わせるべきなのだろうが、知ったことではなかった。
 早く結果を出したくてうずうずしている。待ち望んでいた勇者の誕生はもうすぐだ。






 ******






 轟音に目を覚ます。流れ落ち、叩きつけられた大量の水が吠え声を上げている。
 叫びたいのはこちらの方だった。水時計を粉砕して、今度こそ外に出られると思ったのに。
(俺のせいだ)
 見通しが甘かったから。フェイクの可能性に思い至らなかったから。――ファッハマンの代役を果たせなかったから。
「ッ……!」
 落ち込んでいる暇はない。賢者は試合を始めてしまった。おまけにツレットの対戦相手は正気でないのだ。早く頭を切り替えて、先のことを考えなくては。
 周囲を見渡し状況を探る。立っているのは水上に浮かぶ闘技場らしかった。泉は広く清らかで、蓮の花が咲いている。目を引いたのは五本の水柱だった。天蓋の切れ目から真っ直ぐに落ちてくる清流が闘技場を囲む形で水堀に注がれている。よくよく見れば、その瀑布には見慣れた砂時計が隠されていた。それも五本ともにである。
(ど、どれを壊せばいいんだ!?)
 こんなところでも偽物で惑わせようと言うのか。優位な立場にいるくせに、どこまでも周到な奴だ。
 ともかく一つ破壊してみようと試みて、ツレットは魔力の減りが著しいのに気がついた。考えてみれば当然だ。ついさっきまで水時計に向かって散々熱球を放っていたのだから。ちょっと待て、と血の気が引いた。
(まずいだろ……。他はともかく、俺とペルレは空に近……)
 思考は迫る圧力によって掻き消された。空間が歪み、時間差でツインテールの少女が召喚されて来る。長槍を手にした彼女はツレットを見つけるや否や、一礼もなしに突撃してきた。
「クノスペ!!」
 兄から聞いた名を叫ぶも芳しい反応はない。やはり彼女は賢者の操り人形だ。
 接近戦を余儀なくされ、魔法も当てにならないとなれば、頼れる武器は剣しかなかった。背中のショートソードを抜き、腹に向かいくる槍を弾く。
「ぐっ……!!」
 女の細腕とは思えない力だった。払いのけるついでに槍を取り落とさせるつもりだったのに、体勢を立て直した隙に間合いを戻されてしまう。息を弾ませさえもせず、クノスペは二撃目を繰り出してきた。
(落ち着け、ちゃんと、覚悟を決めろ)
 怖いのはまともに突きを食らうことだけだ。動作としては見極めやすいから避けるのに難はない。問題は己が仕掛ける攻撃である。猛攻乱打をかわしつつ、ツレットは攻めに転じる機を待った。殺せるのかと自問する。正義感が仇となっただけの女の子を。
(でも仮にこの子の動きを止められたとして、俺一人じゃ砂時計を壊すのは……)
 制限時間内にクノスペを戦闘不能にし、この空間からも脱出を図るなど不可能だ。第二試合でも第三試合でも、二人がかりでもどうにもならなかった。そもそも全力で向かってくる相手を殺さない程度に痛めつけるなんて器用な真似を、己の腕前でやれると思えない。やはり殺すつもりで挑まねば切り抜けられないだろう。
(この子に負けるのは駄目だ)
 柄を握り締め決意を固める。敗北は、ファッハマンが敵対陣営になくて良かったと言ってくれた強大な魔力を譲渡するのと同義だった。もしそうなればティーフェたちを救う切り札の一つを失うことになる。それだけはあってはならなかった。
「はあッ!!」
 気合一閃、大きく踏み込み上体を反らしつつ長槍を押しのける。鉄の柄は甲高い音を立て軌道を上方に逸らした。
 クノスペの攻撃は威力・速度とも凄まじいが、バイトラートほどではない。技の精度と多彩さに関しては比べるまでもなかった。竜殺しに稽古をつけてもらっていて良かったと改めて感謝する。おかげで少しは気圧されずに済む。
 体勢を崩しかけていたクノスペに勢いのまま体当たりした。少女は石の上を転がり、ツインテールをやや乱す。長槍に飛びついて、迷うことなく水堀に放り投げた。武器を奪えば戦いやすくなるだろうという目論見で。だがこれが間違いだった。
「っ、わっ、っと!!」
 得物を失くしたのに怯むどころかクノスペは僅かな逡巡すら見せない。身軽になったのをこれ幸いとツレットの懐まで距離を縮め、拳と蹴りで応戦してくる。しなやかな筋肉から生み出されるキックのパワーは強烈だった。避け損ねた右足に脇腹を蹴り抜かれ、縺れ合うように倒れ込む。上になり下になり、首を絞めようと伸びてくる腕を払った。引っ掛かれた顔面に思いきり眉を顰める。取っ組み合いはしばらく続いた。剣はいつの間にか手放していた。
「くそ、離れろッ!!!!」
 頭突きは効果あったようだ。一時的に動けなくなったクノスペを引き剥がし、ツレットは弓を構える。ごめんと心の中で詫びた。せめて苦しませないようにするからと。
 まだ肩が弾んでいる。呼吸は一向に落ち着かない。だがこの至近距離なら狙いを外しはしないはずだ。射なければ。彼女が回復する前に。
(しっかりしろよ俺!! ここで倒れたら何にも取り戻せないんだぞ!!)
 射出の瞬間に目を瞑ってしまったのがまずかったか、矢は心臓から下向きに逸れて腹に刺さった。薄手の革のコルセットに血が滲む。ぴくんとクノスペの四肢が跳ねた。
 倒れていた少女が痙攣しながら起き上がる。早くとどめを刺さなければと気が焦る。二本目を番おうとしてツレットは矢を取り落とした。彼女の呻きがはっきり耳に届いたから。――お兄ちゃん、と。






 ******






「暗闇に砂漠、塔ときて、お次は水上コロシアムか。あの賢者はなかなかいい趣味をしているねえ」
 腰のシャムシールを撫でながらラツィオナールは辺りを見回した。鼻唄でも歌いたい気分である。王宮主催の馬上槍試合だってここまでの設備は用意できまい。まあ、あんなつまらない手合わせより、自邸に招いた百戦錬磨の猛者どもと切り合う方がずっと有意義で楽しいが。
 激しく途切れなく続く水の調べが心地良い。しかし対戦相手の青年はこの雄大な音楽を楽しむ気になれないようだった。
「ウーゾ君、試合を始める前にお互い上着くらい脱いでおかないかね? もしリングから落ちてしまったら泳がねばならないわけだろう?」
 提案にはそっぽを向かれた。正式な決闘において道着に袖を通さないなど彼には有り得ぬことらしい。「勝手にしろ」と睨んでくるので肩を竦めた。水を吸った衣服の重さを存ぜぬわけではなかろうに。
(随分頭に血が昇っている)
 否、彼はずっと冷静ではなかった。まともに頭が働いていれば、途中からでもファッハマン一派に加わるか、賢者のやり方に乗っかるかしただろう。それが生き残るための最大限の努力というものだ。ウーゾが選んだのは破滅への一本道である。既に死んでしまった人間のために命を賭して復讐を遂げようとする、その意気だけは勇ましいが、後に残るものは何一つない。「ツレットには手を出さないでくれ」とミルトに釘を刺されたのもまずかった。多少なりともあの少年に怒りをぶつけられていれば、煮えた頭を冷やせていたかもしれないのに。全く気の毒な男だ。自ら袋小路に迷い込んで、こうして追い込まれている。
 ラツィオナールはにやりと口角を上げた。律儀にこちらの支度が整うのを待っている若者に、紳士的に声をかける。
「遠慮は不要だ。本気でやってくれたまえ。無論、私も全力を尽くそう」
 脱いだジャケットをウーゾの顔面に投げつけたのが皮切りだった。生まれた死角を利用してグッと懐に潜り込む。間髪入れず鞘から抜いたシャムシールの緩やかなカーブは跳び退る目標の太腿を掠めた。
「……!!」
 ウーゾの双眸が見開かれる。かわしきったつもりでいたのだろう。刃と柄を繋ぐ鎖を見せびらかすように追撃を加えると、チッと大きな舌打ちが返された。
「変わり種の刀剣類ばっか集めてるとは聞いてたが、そいつは鎖鎌じゃねえのか?」
「ふふふ、驚いたかね? こうやって鎖を収納すれば普通の剣としても使えるのだよ」
 柄の仕掛けボタンを押しつつ負わせた傷の深さを確かめる。決して浅い傷ではなかったはずなのに、ウーゾの表情や構えには痛みを堪える素振りは微塵も見られなかった。
 ふむ、と推測を巡らせる。これも気功の成せる業か、はたまた別の候補者から得た能力か、ウーゾは驚異的な治癒力を宿しているようだ。折角動きを鈍らせて四肢を切断してやろうと思っていたのに、奇襲の効果はなかったらしい。
「こすい真似しやがって。フォラオスと言いあんたと言い、お貴族様は試合前に礼の一つもしないのか?」
「おやおや、君が他流試合に不慣れと言うだけの話だろう? 裏町のごろつきと拳を交わしたこともないのかね? 彼らの流儀は先手必勝だ。私など暗闇で十数人に囲まれたこともあると言うのに」
「うるせえ、この卑怯者が!! 命のやり取りをする相手に、礼儀がなっちゃいねえっつってんだよ!!」
 非礼に対する怒りは燃え上がりやすいのか、赤い目が鋭く吊り上がる。振り下ろされた拳を後ろに跳んで避けるとラツィオナールはわざとらしく落胆してみせた。
「この程度で卑劣漢扱いされてもねえ。それに、君とて他人をとやかく言える立場にないのではないかな?」
「ああ? 俺はあんたみたいに突然切りかかったり、試合前からあれこれ嗅ぎ回ったりはしてねえだろ。下衆と一緒にするな!!」
「くっくっく! その驕り高ぶった態度が問題ありだと言っているのさ。君は所詮、都合の悪い真実から目を逸らしているにすぎない。例えばフォラオス君のこととかね!!」
 頸動脈を目がけ、切っ先で弧を描く。刃が飛び出すのを警戒したウーゾは不用意に留まることなく後退した。ラツィオナールの猛攻に反撃する兆しもない。しばらくこちらに攻め立てさせてシャムシールの実寸を測ろうと言うのだろう。カッカしやすい性格の割に戦いぶりは落ち着いていた。
「フォラオス? あいつがどうしたってんだ? てめぇと同じで腹の立つ自分勝手なクソ貴族だったぜ!!」
「あっはははは!! それは君がそう思いたいからそう思い込んでいるだけさ!!」
 リングの縁を伝って逃げる獲物を追う。斜めに切り上げては手首を返し、逆方向からも執拗に首を狙った。上半身に注意を向かせきったところで再び標的を足に変える。ラツィオナールは水平に滑らせるようにシャムシールを横手投げした。
「!!」
 まさか剣を手放すとは考えていなかったらしく、跳躍の際ほんの僅かウーゾの体勢が崩れる。その隙を見逃さず、もう一本の愛剣フランベルジュを手に飛びかかった。狙い通り、着地点に刃を振り上げる。
「っぐ……!」
 致命傷を避けるべく、ウーゾは左腕で首と胸を庇っていた。またしても骨を断つまではいかなかったが、今度は酷く痛むはずだ。刃物というのは不思議なもので、切れ味鋭い一品よりも多少粗悪である方が痛覚に訴える。おまけにフランベルジュの波打つ刃は、元より完治を遅らせるため鍛えられたものだった。
「痛いかね? しかしフォラオス君も、君にはもっと痛めつけられたと思うぞ」
「……ッ」
 肉が抉り取られるのも構わずウーゾが刃から逃れる。橙の道着は赤く染まって茶に濁り、石のタイルにぽたぽたと血が滴った。
 追い打ちをかけてやっても良かったが、転がったシャムシールを回収するに留める。こういう真っ直ぐな若者とやり合う機会はそうそうない。もう少し楽しませてもらいたかった。
「どうして君は新しく吸収した技や魔法を積極的に用いないのかな? 工夫さえすればあっさり私を凌駕しそうなものを」
 答えなど承知の上で問いかける。無言で隙を窺っているウーゾに微笑みフランベルジュを閃かせた。取りすぎなほど間合いを取っているのは腰が引けているからではなく、こちらの剣にも細工が施されていると見なしているからだろう。深手を負ってもパニックになっていない。一戦士としては十分な資質を備えている。それだけに弱点の極端な脆さが残念であるが。
「君が聖山式のやり方にこだわるのは、亡き友人や教えを乞うた師父のためかね?」
「……」
 黙れと言いたげに凄まれる。その青さが命取りだと笑いそうになるのを堪えた。ここは私見を抑え、彼の崇高な志を尊重すべきところだろう。
「美しい友情だ。素晴らしい師弟愛だよ! しかし、フォラオス君の内面が君に劣るとは私には思えないな」
 ウーゾの傷はじわじわと塞がりつつあった。内部の損傷はおそらく未回復だが皮膚は繋がり始めている。今の間に決定的に戦意を喪失させたかった。この男が本気になってしまったら、少々こちらの分が悪い。いくらラツィオナールが貴族としては異例の強さを誇っているとしても、だ。
「……何だと?」
 声高に復讐を叫んだくせに、ウーゾは殺人に抵抗感を抱いている。そこに付け入る隙があった。人間を木偶の坊にするのは簡単だ。特にこんな殺し合いの場では。ただ思い出させてやればいい。人を殺すのはいけないことだと。
「彼の指導者は私もよく知る男なんだ。非常に厳格でね、騎士の剣とはかくあるべきと固い信念を持っている。信奉者も多いのだよ。何しろ彼の説く剣は、勝利を追及する剣ではなくて、理想を追及する剣だから。……確か君の学んでいた聖山式武術も、魂を磨くことを第一の目的に定めていなかったかね?」
「何が言いたい」
 返された声は冷たかった。だがどんなに取り繕おうとしても苛立ちと怯えは消しきれるものではない。ウーゾは明らかに身構えていた。ラツィオナールの唇が紡ぎ出す言葉に。
「組織や団体と言うものは大きくなるほど複雑になる。霊峰をよじ登る人間は稀だが、宮殿にたむろする貴族はそうではあるまい。一派は十数年かけて地方貴族を取り込むまでに膨らんだが、フォラオス君は創始者に憧れる末端会員でしかなかった。そうすると皮肉な逆転現象が起きるのさ。尊敬してやまない指導者に直接指南を受けるためには他のメンバーとの試合に勝って段を上がらねばならない。理想を追求するために、目先の勝利を追求せざるを得なくなる。何が何でも勝とうとするようになるのだよ。しかもそういった集団は排他的だ。他流傍流をはなから馬鹿にして認めない。どうだね? フォラオス君にも十分当て嵌まる傾向でなかったかい?」
 シャムシールを前に構え、ラツィオナールはウーゾを見つめた。まだこちらの言わんとするところを理解はしていない。だが薄々勘付いているはずだ。彼にとって不利益な情報をもたらそうとしていることは。
「さっき君は彼のことを自分勝手なクソ貴族と貶めていたが、事実はそうではないよ。彼は熱心な若武者だった。勇者候補に名乗りを上げるほどの、ね。しかもたったの十五歳だ。ちょうど大人に邪険な態度を取りたがる年頃ではないか。あの年齢の不躾さは一過性のものだろう」
「……やめろ、もういい」
「生き残りたくて必死だったろうね。誰を頼りにすればいいのか、対戦相手は信用に値する人間か、不安で不安で猜疑心にも抗えなかったに違いない。君が殺したのは――」
「もういいっつってんだ!!」
 怒鳴るウーゾを無視して最後の棘を刺す。よく回る毒を含んだ言葉の棘を。
「君が殺したのは、幼気なただの少年だよ。嫌な奴だったと言い聞かせて自分を正当化することは卑怯とは言わないのかね?」
 血気盛んな若者の、額が見る見る青くなる。ニヤリと笑ってラツィオナールは距離を詰めた。チェックメイトだ。
「命を奪うと決めたとき、悪に堕ちた自覚もすべきだったな」
 三日月の刃が道着の上から鍛えられた体躯を舐める。心神喪失でも起こしたか、ウーゾは硬直したままだった。万が一にも形勢逆転などされぬように両肘の先を切り落とす。ひと思いに始末しても良かったが、まだまだ遊び足りなかった。何しろ最近は禁欲生活が続いており、獣一匹切れていない。研ぎ澄まされた二本の剣は血と肉を求めていた。
(シャムシールではすぐに絶命させてしまうか)
 相手が死ねば試合は終わりだ。死体を蹂躙している暇もない。長く付き合ってもらうならフランベルジュが適任だろうと剣を替えた。そのときだった。重い衝撃が走ったのは。
「……な、に……?」
 背中に冷気。それもゾッと鳥肌が立つほどの。
 冷たいと感じたものが短い刃だと気づいたときには膝がリングについていた。噴き出した血でシャツが貼りつく。
 どうにか見上げた背後には顔面蒼白のウーゾが立っていた。震える両手には血塗れのダガーが握られている。確か、彼の友人の形見であった。
「分身……魔、法……?」
 問いに答える者はなかった。ウーゾは呼吸をするのに忙しなく、しきりに肩を上下させていた。
 目玉を戻して切り刻んだはずの獲物を見やる。そちらには血痕の一つも残っていない。
「まぼろ……」
「ッあああああーーーー!!!!!!」
 絶叫がそれ以上の呟きを阻んだ。何度も何度も胸を突かれ、抵抗できぬまま意識が沈んでいく。
 誤算だったかと振り返る間もなかった。呆気ない最期だと己を笑う時間も。






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 何が起きたのかすぐには理解できなかった。五つに増えた砂時計を、しかも水の壁に守られたそれらをどうやって破壊すれば良いか、話し合っている真っ最中の変事だったから。
 ルーイッヒはふらりと後ずさりした。涼しい顔のシェルツと目が合ってもまだ状況を把握しきれない。 
 弱音を吐いた。それは覚えている。肩を抱いて励ましてくれた。それも覚えている。
 ではこの首を切り裂いたのは、やはり彼だと言うのか。ジャスピスの死後、献身的に尽くしてくれていたのは油断を誘う罠だったと言うのか。
「一撃で仕留めてさしあげるつもりだったんですが……」
 いつもの笑顔で詫びるシェルツに身が凍る。後から後から血の溢れ出る側頸部を押さえ、腕一本で剣を抜いた。
 致命傷を負わされたのは確実だ。頸動脈が切れている。噴出の勢いで裂け目が大きく広がらないのは従者が己に託してくれた属性魔法のおかげだった。肉体の一部を硬化或いは肥大化させる――。
 だがこの効果が切れれば瞬く間に死に至るに違いない。自分はこれから現王と賢者を廃し、民のために戦わなければならないのに。
「何故とは聞かないぞ、シェルツ!!」
 悔しさに歯噛みした。叔父に掌を返されたとき、どんな近しい相手だろうと信用しきってはならないと学んだのではなかったか。少しも成長していない。宮殿を後にしたときから、結局何も変わっていない。騙され裏切られてばかりだ。
「殿下、まさかそんな深手で戦うおつもりですか?」
「当たり前だ!! 私にはまだ成すべきことがある……!!」
 ルーイッヒはシェルツを睨み、刃を立てた。約束では、この空間からの脱出に失敗した際は、彼が勝利を譲ってくれることになっていた。ジャスピスがそうしてくれたのと同じように。
(魔力がなくなる前に決着させる。勝ちさえすればヒルンゲシュピンストが傷を治してくれるはずだ)
 命を落としかけたのはこれが初めてではない。第三試合が始まる前も、手を組んだムートたちの待ち伏せを受けた。あのときは助かったのだから、まだ生き残るチャンスはあるはずだ。
「意外に諦めが悪いんですね。まあ、こちらは構いませんよ。あなたの手の内はわかっていますし」
 落ち着き払った物腰がカッと頭を熱くさせた。傷口から手を離し、柄を握って飛びかかる。意地を見せてやるつもりだった。王宮剣術の真髄と言うものを。――だが。
 切りかかる直前、何かに足を取られてつんのめる。転倒すると思ったのに、ぶつかったのは壁だった。見渡してみて愕然とする。ルーイッヒの立つ場所を中心に、断層と見紛う高低差が生まれていた。
(土魔法はまだ要領を得ないと言っていたくせに……!)
 陥没した闘技場に泉の水がどっと流れ込んでくる。取り残されたルーイッヒは成す術なく水に巻かれた。溺れるほどではないにせよ、足を封じられたのが手痛い。腿から下が水に埋まった状態では跳躍もままならない。
「高いところから失礼します」
 悠々こちらを見下ろして、シェルツは槍を下に構えた。背中を見せれば一突きにされてしまうだろう。睨み合ったまま刻々と時間だけが過ぎていく。
 完全に詰みだった。あちらはただルーイッヒの魔力が底尽きるのを待っていればいい。今も首に開いた穴からは血が流れ続けている。このまま何もせずいれば、数分で昏倒するはずだ。
(顔色一つ変えずに、よくもこんな……)
 今更命が惜しくなったわけではなかろう。突発的な背信行為と捉えるにはシェルツが冷静すぎた。初めから味方のふりをするつもりで近づいたのに違いない。悪党の発想だ。善人面で騙し討ちなど。
「…………」
 考えても考えても起死回生の妙案は浮かばなかった。警鐘のごとく耳鳴りが響く。ベルトから抜いた鞘も、鞘の次に放った剣も、シェルツにダメージを与えてはくれなかった。追い詰められて水中に逃れる。槍は容赦なく退路を断った。
「ご安心を。きっと皆さん、殿下のために祈ってくれますよ」






 ******






 一体僕は何をやっているのだろう。家族も友人もいない世界で、たった一人で、何を。
「……っ、はぁ、ッ」
 息を切らして逃げ惑う。水に囲まれた平らなリングに身を隠せる場所はない。
 第四試合の「会場」に移されたのとほぼ同時、アルタールはレーレの容赦ない先制攻撃を食らわされた。烈風に吹き飛ばされ、呻く間に日本刀を奪われて、今は炎に追われている。第三試合まではヒルンゲシュピンストが手を貸してくれていた。だからほとんど怪我をしたり、危ない目に遭うこともなかった。だが今日はいつもと違う。水上闘技場のどこを見ても、あの賢者の姿はない。「本気になれ」と脅した通り、自分の力だけで戦えと言うのだ。そんなことできるわけないのに。
「はあっ、はあ……っ」
 火球を避けるのが精一杯で、せめて武器を取り戻したいのに思考回路が機能してくれない。レーレはこれまでの試合で幾人も魔導師を屠ってきたようだった。元々有していた植物属性の魔法の他に、火と風まで駆使するようになっている。当然魔力の総量も増えていた。刀を取り返せたとしても、容易に近づけそうにない。
「うあッ!!」
 僅かに足を緩めた拍子に飛び交っていた火蛍が学生服の隙間から入り込んだ。熱と痛みと炎の赤に怖くなって、堪らず泉に飛び込でしまう。それが魔女による誘導だとも気づかず。
「つくづく不思議でなりませんわ。あなたみたいに凡庸な方が、一度でも魔王を打ち破ったことがあるなんて」
 興醒めした女の声にハッとした。恐る恐る水面に頭を覗かせると、レーレの冷たい目と目が合う。その白い指先には蓮の花が握られていた。この泉の至るところで咲いている。
「もう少し手強いのかと思っておりましたけれど、私の買いかぶりでしたわね」
 突然何かに引っ張られ、アルタールは水中に沈んだ。もがきながら足首に絡んだモノの正体を確かめる。
 巻きついていたのは不自然に捩じれた蓮の茎だった。レーレの魔力が通っているのは一目瞭然で、彼女が溺死を狙っているのも想像に難くない。
「……ッ!!」
 振り解こうとすればするほど他の花まで集まった。地下茎で繋がった蓮は全てレーレの思うがままなのだ。
 喉を絞められ、無理矢理口を開かされ、肺の空気が泡と消える。酸素が欲しくて伸ばした腕を更に茎縄が戒めた。
(なんだこれ)
 焦りで視界が眩んでくる。光を反射する水面は遠い。
(僕死ぬのか?)
 そんな馬鹿なと頬が引き攣る。勝手にこんなところに呼ばれて、勝手に勇者になれと言われて、一度だって同意なんてしていないのに。どうしてこんな場所で果てねばならない。
(嘘だ。あいつが絶対どこかで見てるはずだ。あいつが、あいつがきっと――)
 ゴボ、と嫌な音が響く。水を飲んではいけないとわかっていても制御などできるはずがなかった。
 もう駄目だ。もう無理だと全身の力が抜けたとき、やっと耳元に囁きが届いた。

「馬鹿だね君は。第二試合で水属性の魔法使いを殺したことを忘れたのか?」

 水柱が蓮を引き千切って噴き出したのは直後だった。投げ出された水上で砂時計の台座に縋り、ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返す。忍び寄らんとする水草から渦を纏って身を守るアルタールにレーレがムッと眉を顰めた。
「あら、剣技や体術だけではなかったんですのね。でもあなたが窮地に立たされている事実に変わりありませんわよ?」
 瞬間、凄まじい暴風が吹き荒れる。思わず頭を庇った腕がそのまま動かせなくなるほどの。
 レーレはありったけの魔力を風に込めていた。そうしてアルタールの顔面に狙いを定めた。十分な速度を持った風ならば、呼吸困難に至らせられると知っているのだ。
「っ……!!」
 泉を高く波打たせ、何とか逃れようと足掻く。しかしレーレの魔法操作の方が一枚も二枚も上手であった。旋風はアルタールに取りついて離れない。空気に押され、砂時計に磔にされる。先程水に苦しめられたばかりの身体はすぐにも根を上げそうだった。
「ヒ、ル……ッ!!」
 無我夢中で賢者の名を呼ぶ。他に思い出せる誰かなどいなかった。
 混乱した頭で覚えたての魔法を扱えるはずもなく、アルタールの力と一緒に泉は静かに大人しくなっていく。命はまさしく風前の灯火だった。
「助ッ……、ヒル、ッ…………ト!!」
 最後の力を振り絞り、それだけ口にする。自分をこんな目に遭わせている張本人に頼るしかないのが情けない。だけど苦しくて。苦しくて苦しくて何も考えられなかった。子供のように泣きじゃくるしか。
「勇者のくせに、あの方の力を借りるおつもり!? 恥をお知り!!」
 烈風に乗って閃く光刃が目に映る。「君の剣だ」とヒルンゲシュピンストに持たされた、アルタールの刀だった。それが真っ直ぐ喉元に向かってきてる。
 身が震えた。瞼を閉じた。潜在能力の目覚めだなんて都合良いものは頭に浮かびもしなかった。
 できたのは待つことだけだ。救いの手が差し伸べられるのを。

「やれやれ、私もなかなか厳しくなれないな。君を直接支援するのは本当にこれっきりだぞ」

 あれだけ吠え猛っていた強い風は、ヒルンゲシュピンストの出現と共にぴたりと鳴り止んだ。重力に従ってずり落ちていくアルタールを賢者は軽々宙に浮かべる。どうにか目を開け見下ろした魔女の顔は闖入者の登場に酷く歪んでいた。
「ヒルンゲシュピンスト様……、これは私とアルタールさんの試合ですわ」
「わかっているさ。けれど私も、どうもあの顔で泣かれると弱くてね」
「味方なさるのですか? でもあなた自身は候補者を殺せないでしょう!?」
「ああ。私にできることと言えば、君の取れる選択肢をくまなく潰すくらいだろう」
 レーレが身を翻す。察しの良い彼女は次に何が起こるか予測がついたようだった。
 どん、どん、と地鳴りを響かせ闘技場が端から崩落していく。石の円盤は見る間に半径を縮め、魔女の立っていられる範囲を削り取った。
「考え直してくださいませ!! そんなやり方であなたの本当のご友人が目を覚ますとは思えませんわ!! 生死を賭けた真剣勝負を乗り越えてこそ――」
 ひと際大きな崩壊音がレーレの声をかき消してしまう。蓮は根こそぎ流されて行き、一歩分のリングを残す以外、試合場は広々とした水場に変わった。注ぎ込んでくる五本の滝も勢いを増していく。やがてレーレは巨大な渦の中心に取り残された。どちらの属性に有利な状況かは歴然としていた。
「ヒルンゲシュピンスト様……」
 あなただけは私の願いを尊重してくれたと思ったのに。魔女の呟きが雫と跳ねる。






 ――グロスファータ卿が危篤だそうね。良かったわ、これであなたをお嫁に行かせられる。
 頭の奥で甦った母の言葉に背が粟立つ。後ずさりすらままならず、レーレは呆然と賢者を見上げた。
 己の目的が第一の人であるのは知っていた。アルタールを裏からサポートしていることも。でも彼に少し失望していることも知っていたのだ。だから自分を次の対戦相手に指名してくれたとき、半ば以上見限ったのだと確信したのに。
「さあアルタール、後は君に任せよう。魔法はまだ使えるね?」
 勇者未満の勇者はおずおずと頷いた。アルタールが勝利を掴むのは赤子の手をひねるより簡単だ。この激流の中にレーレを突き落としてしまえばいい。こちらには水中戦を制する魔力など残っていないのだから。
「…………」
 杖を盾にして身構える。掌にはこっそり豆を握り締めていた。まだ勝機はある。この蔦を伸ばして邪視の有効範囲までアルタールを引き寄せるのだ。彼を眠らせさえすれば、ヒルンゲシュピンストとて無茶な肩入れはできまい。
(このまま終わるなんて絶対に嫌……!!)
 もうすぐ自由になれるのに。全てのしがらみから解放されて、思うがまま人生を謳歌できるのに。
 モーントシャイン家の一人娘として生を受けたその日から、レーレはドレスを着た奴隷だった。何事にも決定権を与えられず、従順さだけを求められ。きっとこれからもそうだろう。血筋だけはご立派な、名実伴わぬ古い家。典型的な没落貴族。乞食は腹を満たす分だけ慈悲を願えば済むけれど、モーントシャイン家が名を満たすには耐え難い恥辱に耐えねばならなかった。蜘蛛の巣の張った食堂、生い茂った中庭の雑草、薪のない冬、それから。
 十になるかならないかの頃、グロスファータ卿と出会った。卿は白い顎鬚を伸ばした老紳士だった。引き合わせたのは両親だ。二人はレーレの後ろで手を揉んで気持ちの悪い愛想笑いを浮かべていた。見知らぬ老人と腕を組み散歩するよう命じられ、今までになかった類の嫌悪感を抱いたのをよく覚えている。
 半年も経たぬうちにレーレはある法則に気がついた。グロスファータ卿の家に行った後、必ず屋敷のどこかが修繕されるのだ。庭の体裁が整って、家の埃が取り除かれ、壁は綺麗に塗り替えられた。使用人を雇えるようになると、鼠や百足も出なくなった。父は新しい時計を買い、母は胸元を宝石で飾り、あるべき貴族の権威を取り戻したかのようだった。所詮そんなものは虚構にすぎなかったのだが。
 十二歳の誕生日に夜会服を貰った。それなりの躾を受けてきたレーレには、ひと目でそれが淑女のものではないとわかった。戸惑うレーレに母は「今夜それを着て卿を訪ねなさい」と言った。父は「拒んでモーントシャイン家に恥をかかせないように」と念押しした。貴族の生活と引き換えに、レーレは売り物にされたのだった。
(あんな家にはもう戻らない。私は一人で生きていくのよ……!!)
 キッと上空のアルタールを睨みつける。安全な膜の中で、ただ震えているだけの生を許された少年が固まっている。傲慢な憐れみをレーレに傾けながら。
「どうしたアルタール? 彼女はまだ勝負を諦めてはいないよ。ひと思いにやらなければ、殺されるのは君の方だ」
 二度も死にかけたのだからわかるだろうと賢者が囁く。その声に背中を押されてアルタールが水面に降り立った。まるで天に遣わされた聖者のごとく。
 爪先だけが水に触れ、水に支えられている。魔法を発動させている間は身体が沈まないらしかった。
(大丈夫。これならきっと裏をかけるわ)
 袖を伝って長いスカートの下から一本の蔓を伸ばしていく。アルタールにもヒルンゲシュピンストにも悟られぬように慎重に。
 厄介さは感じても、不思議と賢者に怒りは湧いてこなかった。おそらく世界中の誰よりその一途さに共感してしまったからだろう。ヒルンゲシュピンストが「アルタール」との約束を果たすためだけに生きているのと同じに、レーレも魔法研究に没頭するためだけに生きている。たった一つの慰めだった。このつまらない、何の価値もない人生にあって。
 皮肉なことにレーレに植物属性の魔力が宿っていると発覚したのは中庭が植木職人の管轄に入った以後だった。レーレが歩くと草木がやけに早く育つと言うのである。花が咲くものも咲かぬものも緑は等しく好きだった。魔法使いになりたいと短絡的な夢を見た。どこかの魔導師に弟子入りすればモーントシャイン家に帰らず済むし、グロスファータ卿にも会わずに済む。
 だが当たり前にレーレの希望は撥ねつけられた。卿の後ろ盾を失えば以前の暮らしに逆戻りだ。父も母も決して首を縦には振らなかった。それどころかレーレに一切の魔法修行を禁じた。奴隷は生きた屍であれと暗に命じられていた。
 花の季節をレーレは肥えた老木に捧げた。卿は親よりいくらかましで、泣いて頼めば魔導書くらいは与えてくれた。恩着せがましく「感謝なさい」と君臨しながら。
(二度と誰の庇護も受けない。誰かに施しもしない。自分の力で、自分の望みのために、自分の足で歩くのよ。でなければ生きているとは言えないわ。少なくとも私は……!!)
 ごうごうと大渦が吠え立てる。アルタールはまだレーレに波を浴びせる覚悟を決められないでいた。男特有の感傷だ。「女性にそんな惨い真似はできない」と二の足を踏んでしまうのは。同じ口で「女が男より強く賢くある必要はない」などとのたまうくせに。こんなときまで対戦相手と対等であろうとしない神経に虫唾が走った。今ここに立っているのが「女」ではなく「魔法使い」だということが彼にはわからないのだろう。
 蔦は水の流れに沿って伸び、アルタールに食らいつく時を待っていた。頭の中で計略の手順をなぞる。足首を捕らえたら渦巻きに引き摺り込み、しばらく水中を泳がせよう。アルタールは反撃するだろうが距離さえ縮められればいい。彼がこちらに飛びかかってくればお終いだ。子守唄を歌ってあげる。とびきり甘い声で、おやすみと。

「アルタール、下だ!!」

 舞台をぶち壊しにする警告は上空から響き渡った。間髪入れず蔦に魔力を注いだが、アルタールの発生させた斥力に行き場を失わされる。
 高波に飲まれたのは直後だった。奔流に押し流され、レーレは足場から滑り落ちた。
(まだよ!! まだ……!!)
 逆らい難い時計回りの渦の中、必死で風を呼び寄せる。けれど近づいてくるものは闘技場の瓦礫ばかりだった。波に揉まれ、石に打たれ、目の前が暗くなる。苦しい、痛い、でも、でも――。
 脳裏に小さな背中が浮かんだ。病を得て、死を前にした卿の背中だ。あの男がいなくなるとわかったとき、やっと普通の女くらいにはなれると思った。だが現実はその程度の期待すら叶えてはくれなかった。レーレには、名誉の代わりに金だけは腐るほど持っている、成金男との縁談が持ち上がっただけだった。「妻」になんてなりたくなかった。「娘」でもいたくなかった。女の役割の中にレーレのしたいことはなかった。魔法以外に愛するものなど何もなかった。家族や自分自身でさえ。だから追いかけて来れない場所に逃れられさえすれば、いつでも飛び出す覚悟はあったのだ。
 ――そなたがレーレじゃな。地下牢に会ってもらいたい者がいる。
 嬉しかった。新しい王に呼ばれたとき、レーレは魔法の知識と才覚を認められた。王は宮廷に出入りしている人間の中から協会未登録の魔導師を探していた。レーレはこの日ヒルンゲシュピンスト付きの補佐官になった。やっと初めの一歩を踏み出せたのだ。
(勝ち残って勇者になれば……、本当の自由が……)
 ねえそうでしょう。
 私の花は、これからもっと咲き誇るんでしょう。
(自由が…………)
 暗闇に落ちていく。
 水の重さや息苦しさはもう感じなかった。






 ******






「どうした、斬らないのか? なんでも切れる剣なんだろう?」
 わざとらしい挑発に感情が波立たされる。ドルヒには戦う意志がないらしい。弓と矢は背に掛けたまま、無防備に両腕を広げてみせる。
「……なんなんだよてめぇは」
 バイトラートが問いかけても反応らしい反応は返されなかった。苛立ちは一層募り、我知らず声を荒立てる。
「自分の弟殺してまで生き残ったんだろ!? なんで戦おうとしねーんだ!?」
 ドルヒはあまり表情豊かな男ではない。時折皮肉った笑みを浮かべるくらいで、後は熱のない双眸しか見せなかった。ファッハマンやヴォルケンが団結を呼びかけたときも、輪の外で静かに様子見に徹していた。慎重を期して計画実行に手を貸さなかったのは弟のためだと思っていた。別段この男の人柄に何か期待していたわけではないが、今の態度は解せなさすぎる。
「お前、何か勘違いしてないか?」
「ああ?」
「俺があいつを殺した理由だよ」
 薄い唇に冷笑が浮かんだ。ドルヒの長い黒髪が風に遊ばれさらさら揺れる。草原の民は皆こんななのだろうか。何を考えているのだか、バイトラートにはさっぱり読み取れない。
「どちらが生き残ろうと相談したんじゃない。あいつは人殺しになった。だから兄である俺が裁いた。それだけの話だ」
「……ああ?」
 ドルヒが同じ国の言葉を話しているのか疑った。本当に意味がわからなかったから。裁いたとはどういうことだ。自分だって同じ数だけ殺しただろうに。
「注文通りの采配になって良かったよ。館の中では殺そうとしても殺せなかったしな」
 聞き捨てならない台詞に目を瞠る。――注文通り? 殺そうとしても殺せなかった? どういうことだそれは。
「……お前、まさか自分から賢者に弟と当ててくれって頼んだのか?」
「そうだ。瀕死のあいつを治療するのに姿を現したときにな。最初はあいつを射殺したら俺も自害するつもりだったが、試合以外で死ぬのは不可能だと言われた。だから俺の方が、責任を持って後で死ぬことにしたんだ」
 待て待て待てと思考が止まる。つまり何か、ドルヒたち兄弟は最初から館を脱出する気すらなかったということか。
「な、なんでだよ?」
「何が疑問だ? 至極真っ当な選択だろうが」
「疑問だらけだっつーの!! 折角兄弟で協力し合えたかもしれねえのに、揃ってここを出られたかもしれねえのに――」
「外へ出てどうなる?」
「は?」
「外へ出て、我々についた返り血が拭えるのか? 本気で今まで通りに暮らしていけると?」
 お気楽な奴だと笑われた気がした。現実を悲観しすぎて極論に走っているのはどちらだとムッとする。けれど言い返そうとした矢先、ドルヒの頬に翳りが差して口を噤んだ。次いで狩人の吐き出した悲嘆は予想外のものだった。
「二試合目が終わった時点ではっきりしていた。俺は弟を守れなかったんだと。あいつはまだ子供すぎた。第二試合を生き延びたのも偶然だった。お前、エルプセをどう思った? 大人しくて内気な奴だと思ったか? それは違う。全く違う。あいつは悪戯好きで、家畜の世話だってしょっちゅうサボって、明るくて、よく笑って、兄弟の中で一番騒がしい奴だった。試合の後、あいつはほとんど口をきかなかった。笑いもしないし泣きもしない。当たり前だ!! まだ羊を殺したこともなかったのに、人間を二人屠ったんだ!! ……そんな子供を元いた世界に連れ戻してどうなる? ただ思い知らされるだけだろう。自分はもう善なる世界の住人ではなくなったんだと。日の当たる場所では生きられないんだと。違うか、賞金稼ぎ!?」
 怒鳴りつけられてハッとする。ドルヒの弟の話をしていたはずなのに、気づけば脳裏には別の影がよぎっていた。
 あいつって昔からあんな無茶する女なのか。ヴォルケンにそう尋ねたら、違うと首を横に振られた。
 出会った頃の暗い影を纏ったネルケ。今でも過去を引き摺ったままでいる。
(いや、あいつは関係ないだろ……)
 ごくりと喉が鳴った。関係ないから大丈夫だと思いたいのに何故かドルヒから目を逸らせない。苦々しく歪められたその瞳から。――ああ、あの女も時々こういう顔をする。時々、一人で、地図を睨みながら。
 水上闘技場を取り巻く滝が激しさを増した。さっさと試合を始めろと急き立てるように。
 草原の狩人はまだ弓を取らなかった。自嘲気味に「殺せ」と呟くだけだった。
「経緯はどうあれ俺は弟殺しになった。兄のくせに、守ることも救うこともできなかった。……兄のくせにだ」
 ドルヒの姿がネルケと重なる。女戦士の懺悔を聞いている気分になる。錯覚だ、と言い聞かせた。この男とそっくり同じであるわけがない。少なくともネルケの恨みはバイトラートにも向けられていたのだから。この館でも脱出のために建設的な努力を続けていたのだから。違うはずだ。死んでしまいたいと願うほどの自責の念ではないはずだ。
「仕組んだのはヒルンゲシュピンストだろうが!!」
「そんなことはわかっている。だが誰もがお前のように、食らった命を背負って戦えるほど強いわけじゃない」
 反論はばっさり切られた。「強くない」と言われて思い浮かぶ顔はやはり同じで、胸騒ぎに汗が滲む。
 十年前に戻ったみたいだった。ヴォルケンを亡くしたネルケは。
「……俺も唯一の支えを失った。死があの子との同化を意味するのなら、それも悪くはないさ」
 ドルヒはもう一度だけ殺せと囁いた。早く側に行ってやりたいから、と。






 ******






 いつもあの子には言い訳ばかりしている。「ヴォルケンが別の人を選んでいたら、あたしだってちゃんと諦めてたわ」とか「折れた腕ではゴーレムの額に手を伸ばすなんて無理だったのよ」とか。
 罪悪感の鎖は重くて頑丈で、そのうちに歩けなくなるとわかっていた。ニコが死んだ日、ニコはネルケの人生の支配者となった。
 逆らえない。抗えない。「あの子に悪いと思わないの?」と咎める声に。
 そうして袋小路に迷い込んでいく。

「ネ……、ネルケさん……?」

 狼狽したペルレが後ずさりしようとしたのを強引に引き寄せた。ネルケの影は少女の細腕を捕らえたまま、闘技場の床をするすると巻き戻ってくる。
「ごめんねペルレちゃん。暴れないで大人しくしててね」
「な、なんで……こんな……っ」
 怖がらせないように笑いかけるが魔導師の表情はますます強張るばかりだった。小兎を彷彿とさせる赤い双眸には研ぎ澄まされたナイフの刃が映り込んでいる。
「ネルケさん!! やめてください!! ネルケさん!!!!」
 焦りの滲む上擦った声を聞き流し、身を離そうともがくペルレを更に濃い影で押さえ込む。小さな足を半ばまで闇に沈め、前方へ突き出させた両腕はぐるぐる巻きにした。これで彼女が自由にできるのは首から上だけになった。
「お願いですから待ってください!!!! 私、ネルケさんに勝ってほしいって言ったじゃないですか!!!!」
 逆手に握らされたナイフをなんとか地面に落とそうと、ペルレは肩を震わせる。だが無駄な努力だった。指先までネルケの影に覆われた状態では小指を浮かせることもできまい。
 背を反らし、大きく振りかぶった格好で魔導師の動きを停止させた。後はこれを打ち下ろさせれば彼女の勝ちは確定だった。本当は自分も土砂に埋もれて死ぬべきなのだろうが――それくらいの違いはニコも許してくれるだろう。
「次の対戦相手がペルレちゃんだって知らされたとき、ああこれは生き延びられないなって思ってたの」
 笑みは消さぬまま語りかける。目の前で涙を溜めている少女に。
 賢者の館へ来た初日、第二試合が終わった後、誰より早くペルレの啜り泣きに気がついた。弱々しい女の子を、それも妹と同じ年頃の子を放っておけるわけがなくて、お節介なほど世話を焼いた。自分を慰めてやるために。
「あたし、女の子って殺せないんだ。賊や傭兵や同業者の男なら何人も殺したことあるんだけどね。どうしても妹のこと思い出しちゃって……」
 誰にも明かしたことのない殺人の経験を聞かせると魔導師は息を飲んだ。ペルレはネルケに懐いてくれているから驚いただろう。
 失望の色を探して瞳を覗く。妹の代わりに叱ってほしかった。お前がそんな人間だとは思わなかったと。
「ネルケさん、魔法を解いてください。私、私、もう人を殺すのは嫌なんです!」
 ペルレに必死にせがまれる。ネルケが持たせたナイフはネルケの胸の真ん中に狙いを定めていた。
「魔法ならあたしが死ねばペルレちゃんに取り込まれるわ」
 彼女の願いを叶えてやるつもりは毛頭なかった。罪の重さに加害者がどれだけ苛まれるか知っているくせに、最後まで身勝手な性分は直らなかったようである。
「どうしてですか!? ネルケさんにはまだバイトラートさんが待っててくれるでしょう!? こんなの私、譲られたって嬉しくありません……!!」
 ついに少女は泣きだした。ぽろぽろと頬を伝う涙が在りし日の妹と重なって胸が痛む。ヴォルケンからのプロポーズを受けたと告げた夜、ニコは静かに毛布の中で袖を濡らしていた。押し殺された小さな嗚咽をネルケは眠ったふりで聞き流した。
「駄目なのよ。あたし、ヴォルケンを追いかけなくちゃいけないの。夫婦にはなれなかったけど、せめて添い遂げてあげないと」
「こっ、恋人だったん……ですか?」
 問いかけにこくりと頷く。「後追いなんて」と首を振るペルレに苦笑いしか返せなかった。今でも彼だけを愛していると言えたなら、どんなに救われたことか。
「違うわ。ヴォルケンのためじゃない。ヴォルケンのこと好きだった、あたしの妹のため……」
 えっ、とペルレが瞬きした。唐突な打ち明け話にオロオロこちらを見つめ返してくる。今ここにニコがいたらネルケに何と言っただろう。馬鹿な真似はやめろと止めてくれただろうか。きっと自分は優しくされても突き放してしまうけれど。
「姉妹揃って同じ人を好きになって、あの子だけ報われなかった。姉妹揃ってゴーレムと戦って、あの子だけ死んでしまった。あたし疫病神なのね。大切な妹だったのに、ちっとも幸せにしてあげれなかった。それどころかあの子がいなくなってからも――」
 声が喉に閊える。これ以上は口にしたくないと胸の底の方が抵抗する。
 妹を死なせてしまったことよりも、あの男に出会ったことを嘆いていた。もうずっと、長いこと。
 白く輝く剣を翳して泥土の上に立つ男。竜と一緒にネルケの世界を殺した男。
「バイトラートにごめんねって伝えてくれる? あいつ、ちょっとヘコんじゃうかもしれないからさ」
 脳裏には死の淵を彷徨う剣士の姿があった。全身を包帯だらけにして、助かったぜと屈託なく笑う。
 あの日芽生えた感情は、ネルケには許されないものだった。そんなはずはないと目を逸らし続け、誤魔化しながら側に居続け、逃げ道を見失った。
 幼馴染との再会は過去を鮮明にしただけでなく、現在と未来までも浮き彫りにした。青春はとうに色褪せたのに、バイトラートは変わらず眩く温かかった。はっきりと自覚すればするほど未来は冷たく閉ざされていった。
「何言ってるんですかネルケさん? バイトラートさんが悲しむってわかってるなら尚更……」
「うん。でもね、どうしても駄目なの。あたしは一度ヴォルケンを選んでるんだもん」
「でも、もういない人のためにそんな……!!」
「じゃあ死んだ人にしてあげられることは何にもないってペルレちゃんは思うの? そんなことないよね? 少なくとも、償い方がわからなくても死者を冒涜はしないよね?」
「ネ、ネルケさっ……」
 早口で捲くし立てたとき、どこかに余分な力が入ってしまったらしい。影に締めつけられたペルレが苦悶の表情を浮かべる。深呼吸を一つ挟んで少しだけ術を和らげた。ペルレの魔力は空っぽだから時魔法を使われる心配はないが、早めに勝敗を決した方が良さそうだ。彼女はネルケを殺す決断などしてくれそうにない。
「……バイトラートが待っててくれても、あたしはもう一緒には行けないんだ」
 影を動かしペルレを操る。万が一にもナイフが滑らないように、念入りに固定して。
「ネルケさん!! 嫌ッ、嫌です!!!!」
 間近で叫び声が響いた。ごめんねとの囁きは、小さすぎて聞こえなかったかもしれない。
 衝撃は一瞬だった。
 ドスンと胸に刃が突き刺さった直後、滝の音が止み、ネルケたちを取り巻く景色が灰色に染まった。






 涙で前が見えない。こんなはずじゃなかったのに。時間を止める能力も、自分自身の命運も、全て預けて弱虫は退散するはずだったのに。どうして。
「……ネルケさん……っ」
 裏返った声で名を呼んだ。噴き出しかけた血はまだ空中に静止していた。
 でももうどうしようもない。やっとの思いで発動させた術だけれど、魔力が切れればネルケは今度こそ――。
「わあ、時間停止ってこんな感じなんだ。すごい。最後に貴重な体験したなあ」
 あっけらかんと女戦士は笑う。肺に穴を開けたまま。
「痛覚も鈍るのね。助かるわ、ナイフが心臓に届いてなかったから」
 影魔法はまだ維持されていた。ペルレの腕は促されるままネルケの胴を深く抉った。
 頼むからやめてほしいと懇願する。肉を裂き、臓腑を貫く感触に強烈な吐き気がこみ上げた。
「どうしてわざわざ自分を痛めつけるんですか……!」
 嗚咽混じりの問いにネルケは頬を掻く。「なんでかなあ?」と返されて、意味がわからず顔を顰めた。
「苦しみたいのかもしれないや。あの子ばっかり損してきたから、姉妹平等に」
「そんなの変ですよ!! だってずっと昔の話なんでしょう!? この間まで、ネルケさんそんなこと言い出さなかったじゃないですか!!!!」
 ごうごうと再び奏で出された水のオーケストラにギクリとする。見渡せば泉の一部に色が戻り、そこだけ時の歯車を回し始めていた。薄灰の輪郭線がうねうねぐねぐね波打ちながらゆっくりと収束してくる。時を留めておくための魔力が枯渇しつつあるのだ。
「ずっと昔の出来事でも、思い出にならないものもあるの」
 淡々とネルケは語る。死線が彼女を越えてしまうのをじっと見据えて待っている。
「言えば良かったかなあって、少し後悔はしてるんだけど、今からあいつに会えたとしても、あたしはやっぱり何にも言えないんだろうなあ……」
 台詞は独白めいていた。ペルレには即座に意味を掴めなかった。ネルケが「あいつ」と呼ぶ相手はバイトラートしかいないと推測できただけで。
 時間停止の効果範囲は急速に狭まっていた。滝も、瀑布も、蓮の花も、石床の闘技場も、砂時計も、主導権を握り返してペルレの焦燥を募らせる。
 ほんの僅かな灰色だけだ。ネルケを死から遠ざけているのは。だがそれも最早。

「だって酷いじゃない? あたしがあの子にヴォルケンを諦めさせたのに、あの子はあたしが馬鹿なせいで死んだのに、後になって他の男になびくなんて」

 涙が一筋零れた気がした。ネルケの魔法が緩むのと、ペルレの魔力が底尽きるのが同時だった。
 赤が弾ける。
 透き通った水の中に。どっしりとした石の上に。
 赤毛が伏せる。身の丈と同じ影を敷いて。

「ネルケさん!!!!」

 血に汚れるのも厭わず駆け寄り膝をついた。女戦士の瞼は薄く開いていた。口いっぱいに鮮血が溢れ、何か呟きたそうにしているのに聞き取れない。手を握り、震える唇の動きを追った。
 ――お姉ちゃんだから。あたしは。
 次の瞬間、ネルケの肉体は光を放ってペルレの喉に飛び込んだ。






 ******






 最初に思い浮かんだのは、クノスペがティーフェを殺したのだろうかという疑念だった。槍使いの少女は人格を封じられているから、屠った魂が表に現れてこれたのかもと。
「ティーフェ……?」
 恐る恐る呼びかける。血に濡れた石床の上で身を起こした少女はまだ何事か呟いていた。遠くからではよく聞こえなくて、ツレットは思わず駆け寄り跪く。
 もしも思った通りなら、クノスペの中でティーフェが生きているのなら、救い出す方法を見つけられるかもしれない。ティーフェだけではない。ファッハマンやブラオンも、皆、皆、助けられるかもしれないのだ。
 だが希望は儚く打ち砕かれた。クノスペを介抱しようとしたツレットに繰り出されたのは荒々しい拳の一撃だった。
「ッ……!!」
 心臓を殴り飛ばされ息が止まる。倒れ込んだ拍子に馬乗りになられて顔面をボコボコにされた。その間もクノスペの腹からは鮮血が流れ続けていた。
「ティーフェやめろ……! 俺だよ、お前の兄貴だよ!!」
 肩を突き飛ばし手首を握る。暴れられて振り解かれる。槍だこのできた掌は、次いでツレットの喉元を締め上げた。
「ぐっ……う……っ」
 指はぐいぐい食い込んできて容易には引き剥がせない。霞む視界で無表情のそばかす顔が見下ろしていた。
「……ちゃん、……お兄ちゃん……」
 息ができず、手足の先が痺れてくる。このままではまずいと脳は警鐘を鳴らした。
 手探りでクノスペに突き刺さったままの矢を掴み、右に左に揺さぶりをかける。しかし彼女はびくともしなかった。腹に激痛が走っているはずなのに、力を緩めさえしてくれない。

「どこ……、カスターニお兄ちゃん……」

 瞬間、ツレットは残っていた魔力の全てを解放した。熱で膨張した空気の塊に押しのけられ、クノスペの背が反れる。その隙を突き闘技場の端へと転がり逃げた。追ってきた少女の手にはさっき落としたショートソードが構えられていた。
「――ッ!!!!」
 体勢が悪く避けきれない。「怪我してもいいから致命傷は防げ」との教えを思い出し右足を振り上げる。刃は太腿を切りつけたが、胴体には届かなかった。剣を払った反動で、ツレットは泉に転落した。

(違った…………。ティーフェじゃなかった…………)

 落胆しながら薄目を開く。ドボンと水の跳ねる音が響いてクノスペも潜ってきたのがわかった。水中で捕まると厄介だ。ただでさえ窒息しかけた後なのに、長く息を保てるわけない。
 足の痛みに歯を食いしばり、後ろ向きに泳いで逃げた。クノスペから少し距離を取り、石床に這い上がる。
 だが水を吸った衣服の重さと傷の深さが邪魔をした。足首を掴まれ再び泉に引き戻され、不格好な取っ組み合いが始まる。呼吸を阻害し体力を削ろうという互いの戦略は同じだった。水面が荒く波打ち、何度も上下が入れ替わる。
「おにい、ちゃん」
 幻影を突き放すようにツレットは痛烈な蹴りを浴びせた。上から矢傷を抉ったのは偶然だった。
 一面が朱に染まる。クノスペが停止している間に今度こそ闘技場へ退避した。
「あ!?」
 矢を抜こうとしてツレットは愕然とした。乱戦中に水没したのか矢筒に一本も残っていないのだ。他に武器はなかったか、慌てて周囲を見回した。だがクノスペの長槍はおろか、ツレットのショートソードも姿がない。殴り殺すか絞め殺すか、相当野蛮な手段に出なければならなさそうだった。
「お……兄ちゃ…………」
 ぺた、と石床に白い手が張りつく。その肘を押さえつけるように膝を乗せ、彼女が上がってこれなくした。
 戦慄く唇を噛み締める。すまないと繰り返す。ツレットの手は解けかかったツインテールを無理矢理水中に沈み込ませていた。がぼ、ごぼ、と泡が弾けるたび妹に呼ばれている錯覚が襲う。
 ――お兄ちゃん、お兄ちゃん、ねえってば。聞こえてるの?

「たすけ、て」

 最後の力を振り絞り訴えたクノスペを、ツレットは強く強く押し込んだ。 
 これは自分の妹じゃない。賢者の操り人形だ。かぶりを振ってもティーフェの声は耳に纏わりついてくる。
 わかってるよと囁いた。大丈夫、必ずお前を助けるから。
 だからこんな兄貴でも、見損なわないでいてくれよな。






 ******






 濡れそぼっていた衣服はすっかり乾いていた。太腿の裂傷も、初めから何事もなかったかのごとく塞がっている。
 格子模様のタイルに薄闇。壇上に立つ賢者。いつもの広間だった。昨日までそこにいた仲間が足りない以外には。
 啜り泣きがあちらこちらから響いてきて、自分の頬も湿っているのに気づかされる。
 まだ現実を把握する力は湧いてこなかった。







(20140826)