第八話 竜殺しとゴーレム殺し






 ひび割れた丸眼鏡から世界を覗けばぼやけた天井に亀裂が浮かんだ。フレームの歪みも気になるが、力をこめたら折れてしまいそうで直せない。駄目にしたからといって怒る持ち主はもういないのだが。
 寝台に入ったのは昨夜のいつ頃だっただろう。知らぬ間に訪れていた朝に舌打ちしたい気分でネルケは身を起こした。
 ヴォルケンが死んだ。冗談みたいな話だ。十年ぶりの再会と永遠の別れが一緒にやって来るなんて。
 かつて幼馴染に貰った首飾りを握り締め、ごめんねと囁いた。最後まで彼には何一つしてやれなかった。
(優しいから損しちゃうんだよ……)
 どうしたって今更ネルケが故郷に帰る日など来なかったのに。ヴォルケンならいくらでも他の女を見つけられただろうに。
(クノスペにも、どうせ自分から隙を作っちゃったんでしょ?)
 馬鹿ねと言ってやりたいが、相手はどこにもいなかった。思い出だけが走馬灯のように甦っては消えていく。
 初めて会ったのは七つのときだ。宿の常連だった行商人が「そろそろウチの息子にも仕事覚えてもらわなな」と連れてきたのが彼だった。
 歳も近く、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。旅の話を聞かせてもらうのも、一緒に遊ぶのも楽しくて、ニコと二人でヴォルケンが訪れるのをいつも心待ちにしていた。
 そのうち手土産を持参してくれるようになって。目が合うと照れ笑いするようになって。
 流行病に相次いで両親を亡くしたときは、心細さが消えるまで随分長く滞在してくれた。次に会ったら「結婚してほしい」と乞われた。
 嬉しかった。村の教会で盛大に挙式しようと約束され、ニコにも羨ましがられた。年頃になった妹の片想いには気づかないふりをした。狡い姉だった。
(本当の馬鹿はあたしの方かな)
 後悔したって遅すぎる。ニコもヴォルケンも帰って来ない。台無しにしたものがまた一つ増えただけだ。
(あたしが呼ばれたって噂がなきゃ、こんなとこ来るはずなかったんだよね、ヴォルケン)
 ごめんねとしか言えなかった。許されるはずがないのもわかっていたけれど。






 ******






 ツレットがペルレと今日の探索ポイントについて打ち合わせしていると、「おはよう」とホールにネルケが降りてきた。昨日は一日会えずじまいだったのでほっとする。少し元気がなさそうだが声の調子はいつも通りだ。
「ネルケさん!」
 女戦士の姿を目にして魔女も安堵の表情を見せた。駆け寄るペルレにネルケは「あたしにもできることないかな?」と問いかける。まだ滅入っているだろうに、こちらを手伝ってくれるつもりらしい。
「前は核探しをしてるのがばれないように少人数でやってたでしょ? でももう賢者には見抜かれちゃってるしさ、開き直って皆で探した方が早いかなって」
「あ、そうですね。確かにそうした方がいいかも」
「だったら俺、バイトラートたちにも応援頼んでくるよ。別館にいると思うから!」
 提案に頷いてツレットは庭へ出ようとした。が、その足はネルケに止められる。
「後でいいわよツレット君。あたしが魔力使い切ったらで。ペルレちゃん、野郎どもに囲まれるの苦手だもんね」
「えっ!? あ、は、はい……。気づいてたんですか?」
「そりゃ気づくわよォ。人数集まってくると腰が引けちゃってるじゃない」
「し……失礼のないようには気をつけてたんですけど……」
 さあっと青くなった魔女にネルケはけらけらと笑う。ペルレを構うことで心の安寧を保っているようにも見えた。守るべき誰かを前にしていれば強がることができるから。ツレットにも心当たりのある感覚だ。ティーフェがいなくなるまでは、それが当たり前だった。
「なんか本当の姉妹みたいだな、二人」
 ほんの少しの羨望と共に呟けば、何故かペルレが身を固くする。どうかしたのかと訝っていると魔女はおずおず窺うようにゴーレム殺しの顔を見上げた。
「あはは、そんな風に見える? 本当に妹いたからかな。まあ死んじゃったんだけどね」
 ネルケの返答にツレットはえっと仰け反った。慌てて「ごめん!」と謝罪する。知らなかったとは言え配慮に欠ける発言をしてしまった。
「え、あ、っま、まさかこの試験で?」
「ううん、ずーっと前よ。死んだときはペルレちゃんと同い年だったの。ヴォルケンも可愛がってくれてたんだけどなあ」
 昔の話だから気にしないでとネルケはあっさり言う。無理矢理なんでもないふりをしているのは明らかで、悪いことをしてしまったと反省した。行商人との思い出まで引き摺り出させてしまうとは。
(お、俺これ以上余計な口きかないようにしよう)
 傷口に塩を擦り込みたくはない。探索の段取りを相談し始めた女たちの傍らでツレットは沈黙を保った。
「空いた個室なんかも調べてみた方がいいかもね」
「ええ。わかりやすいところに核が隠されていればいいんですけど」
 ネルケとペルレは真面目な顔で重点的に調査すべき場所を話し合う。
 次の鐘が鳴れば殺し合うのはこの二人だ。ペルレは既に試合放棄の意思を示しているし、試験を続行させるわけにはいかない。なんとしても数日内、いや、今日明日中に核を探し当て破壊しなければ。






「――だったらレーレを取っ捕まえて怪しいポイントを吐かせねえか?」
 紳士らしからぬ提案をしたのは午後になって合流してきたバイトラートだった。ルーイッヒとシェルツも「成程な」「名案ですね」と乗り気である。
「俺や殿下の持ってる肉体補助系の魔法じゃ探索は手伝えねえしな。あちこちの壁やら床やら天井やら切りつけて様子見ちゃいるが」
「僕の土魔法も、ツレット君やネルケさんの魔法ほどは役立ちそうもありませんしねえ。庭の捜索はお任せくださって構いませんが、やはり事情に通じた方にお尋ねするのが一番手っ取り早いかと」
 バイトラートは新たな魔法属性を得ておらず、防御強化の力があるのみだった。ルーイッヒもジャスピスから譲られた肉体の一部を肥大化させる能力以外に魔法らしい魔法は使えないらしい。唯一当てになりそうなシェルツの力も使用場所が限定されている。
 となれば魔女レーレへの尋問は理にかなった行為だった。これも前回は脱出計画を秘していたため選べなかった策である。実行してみる価値はある、とネルケとペルレも頷いた。
 女性一人に寄ってたかってと気が引けなくもないけれど、なりふり構っていられる状況ではない。上手くレーレを拘束できたとして、素直に協力してくれるかどうかは甚だ疑問であるが。


「存じませんわ。私があの方の手となり足となり働いていたのは試験に参加する前の話ですの。今は私もただの候補者の一人、館の核だの水時計だの見たこともございません」


 個室から顔を出した悪しき魔女はあっけらかんと言い放ち扉を閉めようとした。隙間が完全に塞がる前にバイトラートが爪先を捩じ込む。
「本当だろうな?」
「嘘を言ってどうするのです? 私だって知っていれば教えて差し上げたいんですのよ? だってあなた方がさっさと失敗してくださった方が、次の試合開始が早まるかもしれませんもの」
 チッと舌打ちする音が聞こえた。駄目だこりゃと言いたげにバイトラートが振り返る。どうやらレーレは本当に何も知らないようだ。今日で一気に作戦を進展させられるかもと期待したのに。
「……では代わりに、何故ヒルンゲシュピンストに味方するのか教えてくれないか? 欲しいものがあると言っていたが、それは賢者自身のことか? お前やヒルンゲシュピンストは一体何を企んでいる?」
 続いて踏み込んだのはルーイッヒだった。王国の行く末を案じる前王子にとって、賢者とレーレの動向は気がかりに違いない。今が好機とばかり、矢継ぎ早に質問を投げかける。
「うふふ。確かに欲しいものがあるとは申しましたけれど、あの方を自分の所有物にできると思い上がるほど身の程知らずではありませんわ。ヒルンゲシュピンスト様に与するのは、先日も申し上げた通り、得たいものを得るためというだけです。下世話なあなた方からすれば、私があの方に懸想しているとでもご説明差し上げた方がまだご納得いただけるのかもしれませんけど」
「違うのか?」
 予測が外れてルーイッヒは訝しげに眉をひそめる。恵まれた貴族の子女が賢者に追従する理由など恋愛絡みに違いないと踏んでいたようだ。ツレットも少なからず好いた惚れたの話はあるだろうと考えていた。
「自分の研究対象に誤った情熱を注ぐだなんて、三流魔導師のすることですわね。私はただ純粋に調べ尽くしたいだけですわ。精霊王の加護を受けた不老不死の生命体について」
「研究対象?」
 思いもしなかった言葉が飛び出しツレットは素っ頓狂な声を上げる。魔導師の手にかかれば時間や呪いどころかあの賢者までも解析の対象となってしまうのか。
「ならば盲目的にヒルンゲシュピンストを信じているのではないのだな?」
「ええ勿論。研究者たる者、常に冷静に客体を観察すべきですもの」
「……よくぞ平然としていられる。人を殺してなんとも思わないのか? そうまでして何を求める?」
「あらあら、殿下はお若いんですのね。命を奪うことだけが人を殺すことだと本気でお考えですの?」
 おかしそうにレーレは唇を歪めた。読み切れない笑顔をルーイッヒの眼前に近づけ、妖しげな声で謎かけをする。
「勇気を失くした勇者は勇者と呼べるのかしら? 魔法を失くした魔法使いは魔法使いと呼べるのかしら?」
 薄笑みは明らかに"前"王子を嘲っていた。玉座を追われ、戴くべき冠を奪われた少年を。
「他を殺さねば自分が生き残れない環境に生まれてくる生物もいるのですわ。たとえ血を分けた兄弟を殺したとしても、自然界では責めを問われる罪でもなんでもございませんの。反省や同情を要求されても困りますわねえ」
「私たちは獣ではなく人間だろう!!」
 レーレの主張に同意できるはずもなく、ルーイッヒが語気を荒げる。不毛なやりとりに嫌気が差したか、嘆息一つ零したネルケが「行きましょ。時間の無駄だわ」とバイトラートの腕を引いた。
「幸せぼけしていらっしゃるのね。人間らしく育ててもらえた方は」
 冷笑と共に扉が閉じられる。館の新たな心臓部に関する情報は一つも得られずじまいだった。






 また逃げた。わかっている。わかっているのに向き合うなんてできそうもない。
 ネルケは下った階段の先で小さく肩を震わせた。「血を分けた兄弟を殺したとしても」という魔女の言葉にまだ追いかけられている気がした。反省も同情も不要だなんて主張に耳を傾けてはいけない。そこまで割り切れるようになってしまったら、きっと今より自分が信じられなくなる。
「悪ィな、俺の考えが浅くて」
 バイトラートの謝罪にハッと背後を振り返れば、ルーイッヒとシェルツがかぶりを振っていた。
「いや、彼女が何も知らないとわかっただけで収穫だ」
「思いついたこと全部試すくらいでないといけませんよ。我々には後がありません」
 ペルレとツレットも二人の意見に頷いている。竜殺しは別にネルケに謝ったわけではないらしい。
(……当たり前か。なんにも言ってないんだもんね)
 妹のことも、ゴーレムを殺した日のことも。それで自分を理解してくれなんて虫の良すぎる話だ。
「顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
 心配そうにバイトラートが尋ねてくる。平気だと気遣いを退けるも剣士の視線はなかなか剥がれてくれなかった。ヴォルケンが死んでから作り笑いが下手になっている。余裕がない。切り立った崖に追い詰められた錯覚までする。十年逃げ回ってきたツケを払うときが来たのだと。
「しっかりしろよ。一緒にここを出るんだからな」
 励ましに形だけ頷いてみせても同じ思いを抱くことはできなかった。バイトラートに聞きたかった。「だけど私たち館を出た後はどうするの?」と。
 きっと誰も明確には想像できていない。怖すぎて思い描けないから。ヒルンゲシュピンストの術に勝って皆の魂が解放されても、罪は居残ったままだから。
 ゼーゲルや他の対戦者を殺したことに恐れ慄いてなどいない。賞金稼ぎとしてだって、ターゲットの生死が不問であれば手をかける場合もあった。特に少女を売り物にしていた連中は。
 自己嫌悪で堪らなくなるのは犠牲になったのがヴォルケンだからだ。自分が巻き込んでしまったとはっきりわかるから。当の昔に己のことは見下げ果てたと思っていたのに。
「でもこの三日で屋敷の探索は大体終わったし、地道に核探しを進めてもあと二日かからないと思う」
 ツレットが皆に告げる。自分も頑張るからそれぞれできることをやってほしいと。
 少年は立派にファッハマンの遺志を継いでいた。バイトラートもまだ折れていない。だったらネルケもへたり込んでいるわけにいかなかった。死んでほしくない者が一人でも残っているうちは。
「とりあえずシェルツさんは庭を、俺とペルレは屋敷の残りと別館をってことで」
「わかりました。やりましょう」
 六人は玄関ホールで解散した。ルーイッヒがシェルツの手伝いに付いたため、その場にはバイトラートとネルケだけが残された。
 大丈夫、と胸に囁く。お姉ちゃん、ちゃんとわかっているからねと。
「そっちはもう魔力空っぽなんだっけ? 部屋で休んできたらどうだ?」
 どうせろくに眠れちゃいないんだろうと顎で階段を示される。首を振れば半ば強引に背を押された。
「いいから休め」
 優しくされると苦しい。何もかも放り出して縋りつきそうになる。
 首飾りを手に取りぎゅっと握り締めた。過去という名の戒めが解けてしまわないように。
 だって本当に好きだったのだ。妹も、幼馴染も。それを嘘にはしたくない。
「……ありがとね」
 個室のドアを閉めるとき、一言だけ礼を伝えた。バイトラートは部屋へ入れろなどとは言わず、物わかりよく去って行く。
 足音が遠くなるとネルケは寄りかかった壁からずり落ちた。忘れ難い記憶は重く全身に圧し掛かっていた。
 瞼を閉じれば容易く十年前のあの日に引き戻される。せめて誰かに懺悔すればいいのに、結局自分は責められるのも許されるのも怖いのだろう。






 ******






 今度は石つきの指輪を渡したいからと、ヴォルケンは旅立つ前に長く稼ぎに出る旨を伝えてきた。両親を看病する間に蓄えの大半を食い潰したネルケら姉妹に財産らしい財産は残っていなかった。結婚には金がかかる。幼馴染は少しでもこちらの負担を軽減しようとしてくれていた。
「幸せ者だね、お姉ちゃん」
 行商人を見送った山道で妹が茶化して笑う。だが大きな丸い瞳から淋しげな色は消しきれていなかった。
 言いたいことを飲み込んでいるのは最初から知っていた。でも聞かずにいればニコの初恋は綺麗な思い出になるはずだったし、姉想いの彼女を変に傷つけず済むはずだった。
 何がいけなかったのだろう。どうすれば道を誤らなかったのだろう。今でも答えは見出せない。
 ヴォルケンが港町から外国行きの船に乗った頃、ネルケの住んでいた宿場村と大陸東部を結ぶトンネルに巨大な土人形が現れた。
 故郷は王国最北端の山間部に位置している。最も近い船着き場は冬の訪れと同時に流氷に閉ざされるのが常だった。元々険しい竜鱗山脈も背丈以上の雪に覆われ越えられない。トンネルだけが唯一の行路で、村の生命線だった。
 道を塞がれた宿場村がどんな運命を辿るかなど知れていよう。運悪くその年は凶作が重なった。旅人を襲うゴーレムを始末しなければ餓死者が出るかもしれなかった。
 王都は遠すぎ騎士団は来てくれず、領主も兵を出し渋った。宿場村には「魔物が自ら去るのを待て」というふざけた手紙が返されただけだった。討伐に赴いた自警団は返り討ちに遭い大打撃を被った。食料や燃料の支援すらなかった。このまま長い越冬に耐えられるはずがないのは明らかだった。
 当時ネルケに大した戦闘の腕はなかったが、それでも居ても立ってもいられず、二ヶ月かけて対ゴーレムの秘策を練り上げた。自警団を見舞ったとき、「土人形の額にemeth≠ニいう文字が書かれていた」と耳にして思い出したのだ。ヴォルケンが聞かせてくれた異国の伝説に同じ怪物を倒す話があったことを。
 だが小娘の戯言と村の誰も本気で相手にはしてくれなかった。真理を意味するemeth≠ゥら頭文字を消してしまえば、死という意味のmeth≠ノなる。たったそれだけで自警団を壊滅させたゴーレムの息の根を止められるなど到底信じ難かったのだ。
 協力してくれたのはニコだけだった。小さな家ほどもある土人形の額に触れるには、なんとか相手を転ばせるか跪かせなければならなかった。トンネル近くの山麓に罠を張り、ネルケは自身が囮となってゴーレムをおびき出すことにした。
 月明かりの眩しい雪夜だった。魔物はねぐらに人間が忍び込むや否や、すぐさま後を追いかけてきた。最初は目論見通りだった。






 薄く積もり始めた雪を蹴散らしネルケは斜面を駆け上がる。ゴーレムの動きは意外に素早い。もたもたしていたらすぐに追いつかれてしまう。
 誘い込んだルートには樹齢百年を越える大杉が屹立していた。木と木の間に渡した鎖で土人形の足を引っ掛け、額に飛びかかろうという寸法だ。一つではかわされるかもしれないので、通り道には同じ罠を数カ所に渡り張り巡らせていた。
 ネルケは英雄になりたかったわけではない。ただ生き延びたかっただけだ。村全体で口減らしが始まれば、真っ先に財も親もない自分たちが切り捨てられるのはわかっていた。ヴォルケンのプロポーズを受けたばかりで死にたくなかった。幼馴染を悲しませたくなかった。ニコのことも、この手で守って、他の幸せを掴むまで見届けたかった。
 一つ目のミスはゴーレムの怪力を見誤ってしまったこと。上手く林に誘導できたものの、土人形は鎖に躓くどころか数本の鎖に足を取られたまま、大木次々に引き摺り倒してネルケの後に付いて来た。
 ブチブチと根の千切れる音が響き、引っこ抜かれた杉が傾く。呆然とした一瞬の虚を突かれ、ネルケは張り手に吹き飛ばされた。
「あうッ!!」
 何度か地面にバウンドし、大樹の幹に衝突する。痛みにはまだ慣れておらず、ショックでしばらく動けなかった。
 女の身体なんて脆い。戦士としての訓練を積んでいないなら尚更だ。脱臼した左肩を折れた右腕で嵌め直すのは不可能だった。薄目を開いて杉林の向こうを見やればゴーレムの赤い目が光る。土人形は己の巣を荒らした侵入者に吠え立てた。
「……ッ!!」
 逃げなければ。生存本能に突き動かされて立ち上がった。ゴーレムの縄張りさえ脱すればそれ以上追いかけては来なくなる。どうにか村まで戻るのだ。
 だが負傷した身体で全力疾走はできなかった。土人形は天突く杉を薙ぎ払ってネルケに迫る。息つく間もなく巨大な掌が振り下ろされ、ネルケのすぐ背後には手形の窪みが出来上がった。その衝撃に吹き飛ばされ、坂道を雪玉のように転がる。やっと茂みにぶつかって止まったと思ったら、今度は眩暈で起き上がれなくなった。
「はぁ……、はぁ……っ」
 賢明に息遣いを堪えるも無駄な努力だった。ゴーレムの双眸はしっかりとこちらに向けられていた。
 万事休すかと振り返る。吹雪いてきた視界には村外れの灯りさえ見えなかった。

「お姉ちゃん!!」

 ニコの声が辺りに響き、土人形の注意が削がれる。反射的に「逃げなさい!」と叫んでいたが、妹がどこにいるのかはわからなかった。ただ林の奥の方で、先程まではなかった松明が燃えていた。
 ゴーレムは新手を探し出すことにしたらしい。巨体がネルケに背を向けると、茂みの裏から「大丈夫?」とニコが現れた。助かったと胸を撫で下ろすと同時、冷静さも甦る。逃げるなら今しかないが、逃げて得られるものは何もない。飢えた村には役立たずの怪我人の居場所なんてないのだ。嘲笑うだけ嘲笑われて、「村に損害が及ぶところだった」と放り出されるのがオチである。
 ニコにもそれがわかっていたのだろう。姉の曲がった利き腕を見ても「もうやめよう。家に帰ろう」とは言わなかった。
 その場を離れ、ネルケとニコは話し合った。勝つための策を捻り出さねばならなかった。
「最初に鎖を結えた杉、あれがいい形に倒れてくれてるわ。あそこをくぐらせましょ」
 ネルケの案にニコが頷く。大杉は鎖に引き摺られた距離の長いものほど内側に傾いており、歪な三角屋根を形成していた。入口は広く高く、出口は狭く低いトンネルだ。ゴーレムが通過するには四つん這いにならねばなるまい。
「あたしが囮になるわ。この腕じゃ上手くeの文字を消せるかわからないから、待ち伏せはニコに頼んでもいい?」
「うん、任せて。お姉ちゃんも無理しちゃ嫌だよ」
 妹を危険な目に遭わせるのは気が引けたが、一人でゴーレムに立ち向かうほど無謀にはなれなかった。作戦が決まるとネルケは侵入者を探してうろつく怪物の前へ躍り出た。
「さぁこっちにいらっしゃい!」
 ゴーレムはあまり知能の高い魔物ではないらしい。少なくとも罠を疑う頭は持っていなかった。駆けるネルケに狙いを定め、いともあっさり進路を変更してくれる。
 果たして読みは的中した。杉のトンネルに入ったネルケを捕まえようと、ゴーレムは屈んで片腕を地に着けた。伸ばしたもう一方の手はギリギリで獲物を捕らえ損ねる。小さなネルケはすかさず出口から飛び出たが、大きなゴーレムは頭しか外に出せなかった。
「今よ!!」
 合図に応えて走ったニコの後ろ姿を思い出す。生きている妹を見たのはそれが最後だった。
 細腕がゴーレムの額に触れて、魔物に力を与えていた呪文の一部を削り取って、土人形は単なる土砂と成り果てた。坂道を塞いで埋めるほどの、大量の土砂と。

「――ッ!!!!」

 蒼白になってネルケは駆け戻る。黒い雪崩に飲まれたニコは、いくら呼びかけても返事をしなかった。
「ニコ!! どこ!? どこにいるの!?」
 土を掘るたび激痛が走る。折れた腕では救出できないと判断し、後ろ髪を引かれながらもネルケは村へひた走った。重い土塊の直撃を食らった妹がどんな状態で埋まっているか、想像するだに恐ろしかった。

「ねえ助けて!! 妹が生き埋めになってるの!!!!」

 泣きじゃくって門戸を叩くネルケに村人は冷たかった。ニコの遭難した場所がゴーレムの縄張りとわかると足を止め、そんなところには行けないと首を振るのだ。ゴーレムはもう倒したと言っても嘘をつくなと撥ね退けられた。満身創痍のネルケが魔物に挑んだことは認めても、命からがら逃げ帰ってきたのだろうとしか思われなかった。
 家という家を回って一人でニコの元へ引き返し、降りしきる雪の中、朝日が昇るまで土の下の妹を探していた。明るくなると近所の者が何人か恐る恐る様子を窺いにやって来て、慌てて土を除け始めた。
 ニコは窒息死していた。村長は圧死だと言い張った。ネルケが助けを求めた時点で死んでいたのだと主張したいらしかった。
 教会が用意してくれたベッドの上で、ネルケは数え切れないほどの賞賛を浴びた。遠方からわざわざ会いに来た騎士もいた。頭は考えることをやめていて、ただぼんやりと治療を受け、ぼんやりと過ぎていく日々を見送っていた。
 あの土人形が鉱山都市で稀に発掘される古代の遺物だと教えてくれたのは、再び繋がったトンネルを抜け宿場村を訪れた旅人だ。噂好きの旅人は更に、竜谷で強大な悪竜が倒された話もしてくれた。直後、ネルケの思考は冷ややかな冴えを取り戻した。
(鉱山都市……、竜谷……?)
 壁に掛けられた王国地図に目を瞠る。ドラゴンがいなくなった時期と、山間トンネルにゴーレムが出現した時期は同じだった。旅人によれば、坑道でゴーレムが発見されたのは一年前が最後らしい。しかもそれは作りかけの人形ではなく歩き回る粘土だったと言う。
(邪魔者が消えて谷を越えられるようになったから、ゴーレムがここまで来ちゃったんじゃないの?)
 閃きが確信に変わるまで時間はかからなかった。鉱山都市から宿場村までは竜谷を挟んで一本道だ。ドラゴンが縄張りに入ったゴーレムを追い払い、足止めしてくれていた可能性は高い。
(ゴーレムさえ来なきゃ、ニコは死ななくて済んだのに……)
 竜殺しの剣士はバイトラートと名乗ったそうだ。やり場のないネルケの怒りは全てこの若者に向けられた。
 一緒に戦ってくれなかった自警団を責めることも、ニコを見捨てた村人たちを責めることも、保身に走った村長を責めることも難しかった。ネルケはまだ成人前の小娘で、村社会の慣習に雁字搦めにされていた。北の果ての小さな村だ。寄り添い合ってやっと暮らしが成り立つような僻地では共同体に逆らう真似は許されない。自分を育ててくれた故郷に恩義こそ感ずれど、恨みを抱くなどあってはならないのである。
 そういう意味でバイトラートは格好の仇敵だった。必ず妹の死に報いようと誓い、会ったこともない男を憎んだ。
 包帯の取れた頃、旅先からヴォルケンが戻ってきた。ニコの訃報は耳に入っていたようで、婚約の破棄を告げると幼馴染は苦い顔をして承諾した。
「今すぐには、結婚なんて気分にはなられへんわな」
 いつまでも待っているからと、心が癒えるまで側にいるからと囁くヴォルケンの手を払い、ネルケは「いらないわ」と答える。
「ごめんね。でももうあたしにヴォルケンと幸せになる資格なんかないんだよ。……ニコはあなたのこと好きだった。こんな形であの子がいなくなった今、私に指輪は受け取れない」
 詫びるネルケにヴォルケンはもう何も言わなかった。命を奪われた妹に、この先与えられる幸せはない。それなのに自分一人だけ幼馴染の愛を受けるのは、ニコの死を悼むことと正反対の行為である気がした。姉妹平等でない気がした。ネルケの初恋は罪悪感に屈したのだ。
 これからどうするのか問うた幼馴染にネルケは仇討ちに向かう旨を告げた。指名手配されているわけでもないバイトラートを殺せばおそらく死罪に問われる。だがそれで良かった。己の残りの人生は復讐を果たすためだけにあった。
 雪解けを待たず、ネルケは故郷を旅立った。竜殺しの足跡を辿り、王国を半周し、訪れたのは渓谷の砦町だった。

「あっぶねえな!! 怪我する前に下がってろ!!!!」

 戦場に怒号が響く。グリフォンの羽根が舞う。ネルケを庇ったバイトラートは「なんでこんなとこに女がいるんだ」と舌打ちした。
 およそ幻獣とは聖山で生まれ、聖山で死ぬ生き物だ。しかし時折人里まで降りてくるはぐれ者がいた。人間社会の逸脱者と同じくその手のアウトローは気性が荒い。傭兵団や賞金稼ぎが討伐を依頼されるケースも珍しくない。中でもグリフォンはドラゴンに次ぐ暴れ者とされていた。鷲の上半身と獅子の下半身を持つ強敵と応戦中なら竜殺しにも隙が出よう。そう考えてナイフを隠し持ち背後に忍び寄ったのに、逆に鋭利な爪から守られてしまいうろたえた。
 突発事態に混乱した戦線を立て直すため、転がったままバイトラートが仲間に指示を飛ばす。今度こそ目的を果たそうとネルケは己の懐を探った。だがナイフはどこかに落としたようで見つからない。仕方なく仇の背中に手を伸ばし、白く輝く剣を奪った。
「あ、おい!!」
 噂に名高いオリハルコンは引き摺るほどの重さだった。ネルケには到底振るえそうもないが、そこらの池に沈められればそれで良い。武器がなければ戦う力はぐんと弱まる。竜殺しを殺すのに、正々堂々やるつもりなど微塵もなかった。少しでも自分の勝つ確率を上げたかった。
 だが目論見は失敗に終わった。オリハルコンが持ち主の元へ戻ろうとする性質を有するとは後で知った話だ。あっさりバイトラートに取り戻された神剣を見て、ネルケは動転していたと言い訳するほかなかった。バイトラートを殺すには、バイトラートをもっとよく調べなければならなかった。
 流れ者のバイトラートは決まった本拠を持っていない。しかし一度訪れたことのある村や町なら必ず彼を喜んで迎える者がいた。兄貴分とでも言うのか、お山の大将とでも言うのか、いかにも男臭い連中によく慕われていて、分け隔てなく他人に接する。高額な仕事を好むが金の亡者というのでもなく、三度に二度は無報酬の依頼を請けていた。それでますますうろたえた。賞金稼ぎなど所詮ごろつきと見なしていたし、一つくらいはネルケの憎悪を煽ってくれる良くない性質を持っているだろうと期待していたから。
 この頃はまだ己の無意識に無自覚だった。何故自分が屁理屈を捏ね回してバイトラートを敵視するのか考えもしていなかった。
 今は過去の自分が何に縋ろうとしていたかよくわかる。ニコは運がなかったなんて言葉で納得できなかったから、ニコのために生きていなければ自分の存在を許せなかったから、理由をでっち上げただけだ。
 何度か戦場を共にして、バイトラートとは親しくなった。弱点を探るべく更に接近し、背中すら預けられるようになった。
 いつでも殺せたはずなのに、ついにナイフは握れなかった。迂闊にも深手を負ったバイトラートを、医者の元まで運んでやったのはネルケだった。

「ありがとな」

 告げられた礼にたじろぎ、仮面をつけて取り繕う。「倍にして返してよね」と笑って頬を抓ったとき、触れた指先に痺れが走った。
 いつか殺す男だと、ニコを死に追いやった男だと、繰り返してももう遅い。竜殺しが一命を取り留めたことに安堵している自分は消せない。
 逆恨みだったなんて気づいてはいけなかった。人が一人死んだのに、誰のせいでもないなんてことはない。妹を殺したのがバイトラートでないのなら、下手人は浅はかな知識に頼ったネルケでしか有り得なかった。
 自分が奪ったのだ。愛する妹から、思い人も、人生も。
 竜殺しを恨めなくなってからの歳月は苦しみに満ちている。断罪と救済を交互に求め、引き裂かれてきた。そしていつしか目を塞いだ。
 もういつ死んでも構わない。でもそれは、口に出さなかったとは言え責任を被せようとしたバイトラートを守るためでありたかった。
 名が売れるほど竜殺しを狙う輩は増えていった。ネルケはそれを狩り続けた。実の妹を殺しているのだ。今更誰を手にかけるのも、誰を籠絡するのも躊躇ない。時々バイトラートから「もっと自分を大事にしろよ」と窘められた。彼はネルケが仕事のシマを争っていると勘違いしているようだった。






 ******






 ネルケの部屋に引き返すべきかどうか、迷って通路で足踏みする。
 バイトラートは心配だった。幼馴染を亡くした彼女が動揺したままでいることが。
 だが己の出ていい幕なのか、どうしても確信を抱けなかった。
 普段は誰がどんな仕事でデビューを飾ったかなど気にも留めないのに、ゴーレム退治に纏わる噂だけは未だ忘れられずにいる。ネルケの妹が犠牲になったと聞いたから。
 地図を睨む女戦士の奇妙な癖が伝染して、バイトラートも王国全土の地理をよくよく把握するようになっていた。本来は鉱山都市に出るはずのゴーレムがどうしてあんな北の山脈に現れたのか、仮説を立てられるくらいには。間接的に、自分は関わってしまったのだろう。でなければ初めて出会った頃のネルケがオリハルコンを盗み出そうとする理由がない。
 恨まれていると知ったのは、背中を任せて戦うようになってからだった。ネルケは何も言わないし、寝首を掻こうとさえしない。既に過去形になったのか、それとも手酷く裏切る気なのか、バイトラートに尋ねることはできなかった。
 心の深くに自分が触れたら傷つけてしまうのでないかと思う。瀕死の仇を医者に診せるほど優しい女だ。下手につついて耐え忍んでいる何かを刺激するのは避けたかった。
(ちっとも色っぽい関係じゃねえよなあ)
 仕事仲間だとか男と女だとか言う前に、バイトラートの気持ちは加害者になってしまう。己の依頼を全うしただけだと言い張ることもできるだろうが、ネルケを前にそんなつもりにはなれなかった。
 側にいて見守るだけ。軽口を叩き合うだけ。踏み込まないのが腐れ縁を維持するための絶対条件。
(……やっぱ無理か)
 ふうと嘆息一つ零し、訓練場に足を向けた。
 既にぎりぎりの精神状態のネルケにどんな言葉がとどめになるかわからない。危険な橋を渡る覚悟はできなかった。勇猛果敢と褒めちぎられた剣士のくせに、おかしな話だ。






 賢者の館に閉じ込められて十三日目の夜。邸内を調べ尽くしたツレットとペルレにより、「本館及び別館に空間の核は存在しない」と確かめられた。地下から屋根裏から倉庫から、隅から隅まで点検済みだと息を切らした二人が言う。消去法で考えて、あの水時計が隠されているのは庭のどこからしいと推測できた。
「シェルツさんが墓地と噴水以外は土魔法で引っ繰り返してくれたから、明日すぐにも見つかると思う。朝が来たら全員玄関に集まっておいてほしい」
 ツレットの要請にバイトラートは頷いた。今度はジャスピスの遺したランスを持って挑む。一度目のような失態は演じない。必ず全員で生還するのだ。
「ネルケには俺から言っとく。アルタールたちはどうする?」
「アルタールもウーゾもドルヒも俺が声かけるよ。ファッハマンのしてたことだし、俺が代わりにやりたいんだ」
 少年の眼差しは彼の魔力と同じに日に日に強くなっていた。それは悲壮な類の強さに違いなかったが、周囲を鼓舞する力があった。
(勇者ってのは、勇気ある者のことじゃなく、他人に勇気を与えられる奴のことなのかもな)
 何度打ちのめされてもツレットは前を向く。自身が風を切る矢のごとく。そういう単純な精神力こそが、原始的な生命力であるのかもしれない。

「バイトラート? どうしたの? 何か用?」

 訪れる口実を得てようやくノックできた扉から、馴染みの顔がこちらを見上げる。明朝の集合時刻について伝えると、ネルケは表情を強張らせた。
「だったらあたしたち、こうしていられるのも今夜が最後かもしれないんだ」
 言外に誘うような響きを感じて瞬きする。ネルケと視線を合わせても、いつもの上辺だけの笑みにはぐらかされるだけだったが。
「最後ってどういう意味だよ。悲観的になってんじゃねえぞ」
「やだ、違うわよ。流石に外に出られたらペルレちゃんやツレット君とはお別れでしょ? あんたとはどうせどこかで一緒になっちゃうだろうけど」
「なっちゃうとはなんだよ、なっちゃうとは」
「はいはい。決戦前なんだからお茶でも飲んでさっさと寝なさい。なんなら淹れてあげようか?」
「あ、じゃあ一杯頼むかな。ちょうど喉乾いてたんだ」
 扉を離れても袖を引かれることはなく、気のせいだったかと頬を掻く。慰めてほしいと乞われれば、いくらでも相手になったのに。
 ティーカップはなかなか空にならなかった。
 けれど特別なことはそれだけで、ネルケとは変わらず平行線のままだった。







(20140801)