第一話 死は常に寄り添い立つ






 ツレットは歓喜の雄叫びを上げた。王国騎士団の採用担当者から通知が届いたのだ。応募結果は「候補者として認定する」とある。つまり勇者になるための試験を受けられるということだった。
 やった、やった、やった。高ぶる気持ちを抑えられず、楡の木の上で万歳する。愛しい愛しい採用通知に何度もキスをしていると「何やってんの?」と冷めた声が響いた。
「ティーフェ!! 聞いてくれよ、俺さ、勇者候補に選ばれたんだ!! あの、ちょっと前に兵隊さんが看板立てに来てたやつ!!」
 同じ顔をした妹の元へツレットは慌てて降りて行く。唯一の肉親にはきちんと説明せねばなるまい。落ちたら格好悪いからと募集に名乗りを上げたことも秘密にしていたのだ。これから兄がいなくなるとは彼女も考えていなかったはずだ。いくらティーフェが男勝りで少々ガサツであると言っても淋しい思いはさせてしまうだろう。今までずっと二人で支え合って生きてきたのだから。
「へえ、良かったじゃん。おめでとう」
「ああ!! これで将来食いっぱぐれる心配はなくなったぞ!! 今回王様に勇者として認定されるのは一人だけだけど、候補者にも兵士と同額の給料が出るし、支度金や見舞金だって振る舞ってもらえるんだ!! 俺たち家財も家畜も持ってないし、村長さんの好意でここまで育ててもらえたけど……やっぱりちゃんと自分の力で生きていかなきゃだもんな」
 意を固めるように拳を握ったツレットに妹はうんと頷く。父をドラゴンに殺され、母を病に殺され、幼い頃からずっと村のお荷物として生きてきた。成人を三年後に控え、持てる財産は村長の教えてくれた読み書きと父に習った弓の腕だけだ。身を立てるのに他に頼れるものはない。
「これからは兄ちゃんが養ってやる。遠くにいてもお前を思って働くから、元気で過ごせよ」
「お兄ちゃん。でも」
「はは、遠慮すんなって。このまま一文無しのままじゃお前を嫁に行かせられないしな。流石に俺だって一生お前と二人きりなんてごめんだぜ。とりあえず最初の支度金の半分は試験の後にでも届けに戻るから」
「ううん、それはお兄ちゃんのお金だよ。あたしのことは気にしないで好きなもの買って。本当は弓より剣に憧れてるんでしょ?」
「ティーフェ!? お前そんな殊勝な奴だったか? 本当に遠慮なんかするなよ。お前には贅沢なんてこれっぽっちもさせてやれてないんだしさ」
「ううん、違うの。あたしも受かったの。同じ試験を受けるなら、あたしの方が好成績を残せる可能性高いじゃない? だってあたし、お兄ちゃんより狩り得意だもん」
「……は?」
 想定外の台詞にツレットは目を丸くした。どういうことだと尋ねると、ティーフェはさも当然のごとく「こんなチャンス見逃す手はないでしょ?」と返答した。
「初めはちょっと迷ったけど、村長さんがお兄ちゃんも応募するってこっそり教えてくれてさあ。お兄ちゃんにできることが双子のあたしにできないわけないなと思って。それにね、それに、どうやらフォラオス君も興味を示してたらしいの……!! もしかしたら試験で一緒になって、仲が深まって、玉の輿っていうルートも考えられるじゃない!?」
 キャーとティーフェは黄色い悲鳴を上げる。何を恥ずかしがっているのだこの男女は。ツレットは呆れ半分に嘆息すると、長年の鍛錬により逞しく育った妹の右肩に手をかけた。
「収穫祭のダンス、断られてたくせに」
 半身を返してのアッパーは鮮やかに決まった。否、決められたのは自分の方なのだが。
「うるさいわね!! フォラオス君は領主様の息子なんだから簡単に相手してもらえるはずないでしょ!!」
「領主様はご婦人に恥かかせたりしないだろ!? あいつ絶対性格わりーって!!」
「お兄ちゃん、余興の剣術試合で負けたこと根に持ってるだけなんじゃないの〜? どっちが性格悪いんだか」
「う、うぐぐ、お前っ……! 掘り返してはいけない胸の傷を……っ!!」
 なんて可愛くない妹だ。一番に喜びの声を聞かせてやったと言うのにあんまりだ。
 ふぅと短い息を吐き、ツレットはティーフェを振り返った。
 晩秋の森を木枯らしが吹き抜けて行く。清流のせせらぎが遠くから響いている。
「……ま、今後もお前と口喧嘩できると思うとホッとするよ。残して行くのも心配だったしな」
 故郷の景色を見れなくなるより、たった一人の妹の顔を見れなくなる方が辛い。この御時勢に兵役なんて危険な仕事に従事させるのもそれはそれで不安だが、自分が側に付いていてやれるならいいかとも思う。
 ティーフェはごめんねと呟いた。しおらしくされると調子が狂う。離れることになっても平気かと、聞いておかなかったのは自分なのに。そうか、やはりこいつでも独りぼっちは耐えられないか。
「いいって。でも魔物相手に戦うことになるんだから、ちゃんと気をつけろよ。これ以上筋骨隆々になったら本当に嫁の貰い手がなくなるぞ」
 返事は拳骨四連打だった。我が妹ながらいいパンチを持っている。






 ******






 このところ行商人が来なくなった。王都からほど近いツレットの村には昔から様々な旅行者が訪れたものだが、それもここ一年で徐々に見かけなくなっている。海の向こうの人々はぱたりと足を途絶えさせた。噂では、余所の大陸は全部魔王の手にかかり滅ぼされてしまったらしい。
 いくらなんでも広い世界の大半が死に尽くしたなんて言い過ぎだろう。面白がって尾ひれをつけた誰かの話を臆病者が真に受けたとしか思えない。けれど王国南西端に位置する灯台街にも魔王の手先がやって来たのは事実だった。それで新王は伝説を再現し得る勇者を求め、お触れを出したのだ。

「おお……。ここが王の都クローネか……」

 城門をくぐったツレットとティーフェは美しい街並みに圧倒された。広い。明るい。人が多い。こんな都会は見たことがない。
 自慢ではないが故郷の村で都の佇まいを知らないのはツレットたち双子と小さな子供くらいだった。連れて行ってくれる親がいなかったので、今までは聞きかじった話から想像するしかなかったのだが、まさかこれほど栄えていようとは。
 国内最大級の港には大きな帆船が多数停泊中だった。祝祭の日でもないのに市にも道にも人が溢れている。街を見回る王国兵はきびきびとして頼もしい。
 地図を片手にツレットとティーフェは王宮前広場を目指した。本日正午に勇者志願者は全員そこに集まるようにと言われているのだ。
 目的地が近づくと周囲にはそれらしい人相の猛者が増えてきた。試験には総勢百名の候補者が参加するそうだ。勝ち残る自信は皆無だが、人脈を作るくらいはできるかもしれない。選ばれた勇者は勿論魔王討伐に赴くけれど、落選者にも魔物退治の命は下る。もし勇者の同行者になることができれば給金は跳ね上がるはずだ。
「というわけだから、強そうな奴を見つけたら積極的に仲良くなるぞ。いいな?」
「お兄ちゃん……負けるの前提なんだね」
「なんだよその目は!? 文句あるのか!?」
「ううん。変に勇者に夢見てなくて安心した。お兄ちゃんのへっぽこ剣術と平均的弓術がどこまで通用しそうかなんて、わざわざあたしが諭すまでもなかったみたい」
「やめろ、へっぽことか平均的とか言うな」
「本当のことじゃん」
「だからやめろって言ってるんだ!! って言うか弓は平均よりも上だろ!!」
 騒いでいたら周囲の注目を集めてしまい、頬を赤らめる羽目になった。くすくすと笑い声まで零されて、ツレットはすっかり萎縮してしまう。村では全員知り合いだから多少いじられても気にならないが、見ず知らずの他人に微笑ましく見守られるのは気恥ずかしかった。
「と、とにかく。肝心なのは試験に受かることじゃないからな」
「わかってるよ。あたしだって職業兵士や賞金稼ぎに勝てるとは思わないし、アルタールみたいな勇者になれるとも思ってないもん」
 アルタールとは国で一番有名なおとぎ話の英雄である。今から三百年だか四百年だか昔に魔王を倒したとされる男だ。彼は賢者を伴って遥か南の孤島に旅立って行ったという。新王が望んでいる現代の物語も、おそらくそれと同じだった。――が、そんなことはさておき。
「……賞金稼ぎ? 賞金稼ぎって言ったか? まさか今度の試験には賞金稼ぎも加わるのか?」
 目の色を変えたツレットにティーフェはびくりと肩を竦ませる。「そうだよ。応募資格に前歴不問ってあったでしょ。村長さんの話じゃ王様から直接お声のかかった凄腕剣士もいるみたい」との返答に思わず拳を握り締めた。
「本当か!? じゃあ、じゃあもしかして竜殺しのバイトラートも来てるかもしれないのか!?」
「ちょ、お兄ちゃん声が大きい!! もー、広場に着いたら探してみたらいいじゃん。有名人だからいればきっと目立ってるよ」
「おお……!! おおお……!!!!」
 俄然やる気が湧いてきてツレットは石畳を蹴る足を速めた。高く聳える王城の、式典用バルコニーを臨む広場へ駆け急ぐ。

「――……」

 屈強な戦士や高帽子の魔法使い、その他一芸以上の何かを持ち合わせているのがありありと知れる面々が試験の始まりを待機していた。列を整備する騎士たちはツレットとティーフェにも並ぶ場所を指示してくる。目玉だけきょろきょろ動かして周囲の様子を窺うと、目当ての男はすぐ見つかった。透き通る白い大剣を背に、竜殺しはずっと前方で候補者たちに囲まれている。
「いた、いたぞティーフェ! バイトラートだ!」
「良かったじゃん! これであのときのお礼が言えるね。ついでにお近づきになっちゃえ!」
 書類審査に通ったと報告したときよりずっと嬉しそうに妹はツレットの背中を叩いた。バイトラートは命の恩人だ。だが彼に助けてもらったとき、自分はまだ年端もいかぬ子供だった。ありがとうございましたと伝える前に旅暮らしの彼は出発してしまっていたのだ。
「幸先いいなあ、お父さんの仇を討ってくれた竜殺しに会えるなんて。お兄ちゃん、あの人に憧れて剣の練習始めたんでしょ? 上手いこと親しくなって、技を教えてもらえたらラッキーだよね」
「ば、馬鹿!! そんな大それた真似ができるか!! 相手は大陸一の実力者なんだぞ!?」
「何よ? お兄ちゃんがさっき自分で言ったんじゃないの。強い人とは積極的に仲良くなろうって」
「そ、そうだけどなあ……!! 俺だって緊張する相手ってのが」
 ガランガランと鐘の音が鳴り響いたのはそのときだ。職務に当たっていた騎士たちが一斉にラッパを吹き鳴らし、十二時と「選定者」の訪れを告げた。
 大鷲の紋章が入った馬車から降りて来たのは古びたローブを身に纏う魔法使い風の人物だった。彼か彼女かはわからない。その魔法使いはどちらであるようにもどちらでないようにも見えた。容姿は非常に美しく、銀とも薄紫ともつかぬ長い髪をこれまた古そうなリボンで緩く纏めている。袖から覗く手は病的に白く、まるで何十年も日光を浴びていないようだった。
 選定者の放つ異彩はたちまち一帯のざわついた空気を塗り替えた。誰もが押し黙り、中央へ歩み出て来る魔法使いの一挙手一投足に見入る。あれが救世主を選ぶという賢者の末裔に違いなかった。ツレットたちは幾百の応募者の中から彼に選び出されたのだ。

「契約書にサインと血判を。支度金を受け取った者は速やかに準備を整え、日が沈む前に私の館へ来るように」

 声音は淡々としたものだった。賢者は最前列まで足を進めると、羊皮紙の束を抱えた補佐官と共に候補者たちを捌き始めた。
 ゆっくりと行列が動く。ツレットは自分の名前を何度も指で掌に綴った。田舎ではそんなものを書き記す機会など滅多にないから間違えやしないか心配だった。
 ティーフェより後ろに並んでいるのはほんの十数人だ。広場には既に全身フル装備の者も少なくない。契約が終わったらすぐに武器屋と防具屋を探さなければ。弓は使い慣れているものがあるけれど、胸当てくらいは新調したい。それに剣も、手作り感溢れる木刀とはいい加減お別れしたかった。
「ではまずこれをよく読むように」
 などと考えているうちにツレットの順番が回ってくる。
 恐る恐る差し出された文書を受け取った。間近で見ても賢者の性別は不明瞭だった。硝子玉の瞳と一瞬目が合って、思わずパッと逸らしてしまう。失礼ではなかっただろうか。
「どうした? 後が閊える。早くしてくれ」
「あっ、す、すみません」
「もう! お兄ちゃんたら!」
 少しでも時間短縮に努めようとツレットとティーフェは一緒に契約書を覗き込んだ。無学な者にもわかるようにか文章は至って平易に書かれている。給金や臨時の見舞金については思った以上に詳しく定められていた。魔王討伐に関しても、勇者と勇者候補者は自由に各々の旅を進めて良いと認められていた。何も腑に落ちない点はない。よし、と補佐官にペンを借り、ツレットは空欄に名を記した。
『魔王を倒すためならば我が身に何があろうと構わない。命を捧ぐ覚悟で挑むことを誓う』
 最後の記述に多少気圧されはしたものの、危険は承知と意を決して。
 揃って契約書を提出すると、補佐の女が金の入った袋を二つ渡してくれた。逸る心を抑えながら、ツレットは一つだけどうしても気になっていたことを問う。
「あの、俺たちが選ばれた理由ってなんなんですか?」
 女は――魔女はくすりと口角を上げた。声を潜め、まだ契約が済んでいない者に聞こえないように低く囁く。
「孤児は死んでも後腐れがないでしょう?」
 聞き間違いだと思いたかった。女は意地の悪い笑みを浮かべたまま賢者の隣へ戻って行く。呼び止めてもう一度同じ問いを繰り返す勇気は持てず、ツレットは「早く行こう」と急かす妹に腕を引かれて広場を離れた。幸いティーフェの耳には入らなかったようだ。






「美人相手だからってデレデレしちゃって。補佐官の手でも握ってたの〜?」
「なんでそうなるんだよ! 全然違うって。書類審査に通った理由を聞いてたんだよ」
「ふーん。で、なんて答えだったわけ?」
「……教えてもらえなかった」
「あ、そう」
 よく知りもしない都をティーフェはすたすた歩いて行く。不機嫌なのは目に見えたが、どうして虫の居所が悪くなったかはわからない。思春期の妹を持て余しつつツレットは後に続いた。
「お前どこ行くつもりなんだ? 呼び出されてる館へ行く前に、俺たち」
「わかってる。剣とか盾とか見たいんでしょ? こっちに行けば提携してるお店があって、試験会場も近いって教えてもらったの」
「え? 教えてもらったって誰にだよ?」
「広場に騎士団の人たくさんいたじゃない。お兄ちゃんがナンパに精を出してたときも、あたしは真面目に情報入手してたのよ」
「だ、だから違うって言ってるだろ〜!!」
 フンとティーフェは鼻を鳴らした。どうやら信用する気は皆無らしい。仕方なく反論を諦め項垂れていると、ややもせず威勢の良い声がツレットたちを呼び止めた。
「坊や! お嬢ちゃん! 二人も勇者試験ってやつを受けに行く候補者かい!?」
「うちの剣はいいぞ〜!! 買って行け買って行け!!」
「こいつは舶来の値打ち物、こっちは名刀工の鍛えた片刃剣だぜ!!」
 猛烈な呼び込みに立ち止まるや否や、逃げる間もなく取り囲まれる。こそりとティーフェに「ここが提携店か?」と尋ねると、妹は自信なさげに頷いた。
 露店には数多の武器と防具が並んでいる。今日はこの道を大勢の荒くれ者たちが通ると聞いて、商魂逞しく臨時の店舗を拵えたらしい。普段は騎士団御用達の老舗だそうで、言われてみると確かにいい品が取り揃えられていた。よくしなる弓に強く張られた弦。ツレットには弓矢の価値くらいしか判別がつかないが、ここでなら買ってもいいかという気になった。
「俺、ちょっと剣を見させてもらうよ」
「本当? だったらあたしも何か買い足した方がいいかなあ?」
「そうしときなお嬢ちゃん! どいつもこいつも盤石の態勢を取ってやがるぜ。実戦形式の試験があるかもしれねえしってな」
「ああ、品質には間違いないから自分に合ったものを選べばいいだけさ!」
 実戦か、とツレットは口元を引き締める。魔物退治を想定しているのだから、当然試験でも戦闘能力が問われるだろう。具体的な説明は先程もなされなかったが、わかりきっているからこそ説明しなかったのに違いない。
 言うまでもなく弓に近距離攻撃は向かない。木刀で真剣と渡り合えるような達人でもないし、しっかりした得物が欲しいところだった。ティーフェ曰く「へっぽこ剣術」をどうにかまともな形にできるように。
「あたし短剣にしよう。弓以外で一番使い方わかりやすいし。胸当ては今のがあるから、防具は腕と足に着けるのを買い足そうっと」
 ティーフェはさっさと鞘付きのクリスを手に取った。「鎌みたいな刃の曲がりがいくつもあるし、切れ味いいんだよね?」などと物騒なことを口にしつつ、早くも構えを取っている。腕甲やグリーブも重さを嫌い、金属製ではなく革製の物に即決していた。女の買い物は長いと聞くが、この迷いのなさである。やはり性別を間違えて生まれてきてしまったのだろうか。
 対してツレットはあれこれ目移りし、なかなか一つを選べないでいた。刃のある剣を持つのは初めてで、どれが扱いやすいのか感覚として掴み切れなかったのだ。斧なら普段も薪割りに使っているが、武器として考えたことはない。槍は初心者向きだと聞くが、手にしたこともない武器でいきなり戦えるほど無謀ではない。やはり剣の中から相性の良いものを選びたいのだが――。

「あんまり長いのにすると、距離感覚えるのに手間取っちゃうよ」

 と、そのときツレットの耳元に優しげな男の声が聞こえた。振り返れば揃いの稽古着に身を包んだ若者が二人、大きな荷物を背負って立っている。憮然とした面持ちで腕組みするのは逆立てた金髪に太い三つ編みをぶら下げた吊り目の男、話しかけてきたのはどこかのほほんとした茶色の猫毛の男だった。
「おいブラオン、わざわざ親切にしてやるこたねえだろ。こいつも試験受けに来るライバルなんだぞ」
「あはは、だってなんだかすごく悩んでるみたいだったからさあ」
「お前はいっつもお人好しすぎるんだよ。……ったく」
 二人がさっきの広場にいたことはすぐにわかった。彼らのオレンジ色の道着は列の少し後ろからでもよく見えていたから。
「おお、その道着! お兄さん方、霊峰の断崖で暮らしてるっていう修行者かね!?」
「ええそうです。ぼくはブラオン、こっちはウーゾと言います」
 どうやらブラオンたちは高名な道場の出身者であるらしい。わっと集まってきた商人の輪からあれよと言う間に弾き出され、ツレットは尻餅をついた。ティーフェにはやれやれと溜め息をつかれる。
「もー、お兄ちゃんてば何ちんたらやってるのー?」
「なっ!? お前が深く考えずに選びすぎなんだよ!!」
「こういうのってフィーリングじゃん? 戦いの本能っていうか? 必要なものをパッと見極める力っていうか? ……お兄ちゃん、もしかしてセンスないんじゃない?」
「……!!!!」
 酷い言われ様にショックを受け、青ざめたまま視線を陳列台に戻す。確かに妹の言う通り、装備選択も戦闘センスの一つであろう。目利きもできない自分が情けなく若干落ち込んだ。
「あー、あー! な、何もそこまでへこむことないじゃない〜!!」
 よろよろ立ち上がったツレットの側でティーフェが慌て始める。気まずい空気を破ったのは人垣から飛んできた一振りのショートソードだった。

「おい、あんた。それなら腰の木刀と長さも重さも大差ないし、扱いやすいと思うぜ」

 剣と言われて誰もが初めに想像するような、極めてシンプルな鋼の剣。
 人に見立ててもらったという安心感も働くのか、滑り止めの革が巻かれたその柄は不思議なくらいツレットの手によく馴染んだ。
「あ、ありがとう」
「ふん。それくらいで礼なんて要らねえよ」
「素直じゃないなあ。ウーゾの方が僕よりよっぽど親切じゃないか」
「なんでだよ! お前が先に声かけたんだろ?」
 誰が親切だ、と悪ぶる連れ合いにブラオンは慣れた風だった。二人はここで買いたい品もないようで、ひらひら手を振り道の先へと消えて行く。結局二人ともお人好しの類友であったようだ。
 残されたツレットは続いて防具選びに専念した。支度金の一部は世話になった村長一家に渡そうと思うと財布の紐は自ずと固くなる。結局胸当ては買い換えられず、腕甲とグリーブが妹と揃いになった。
「魔王征伐、頑張っておくれよ。海の向こうにゃ無人の街や村がいくつもできてるって話だ。この国もついに大灯台が襲われちまったし……。期待してるぜ、未来の勇者さんたち」
 魔物の話題が口に上ると商人たちは一様に顔を曇らせた。商売人の情報網は広く世界に伸びている。まだ本格的な脅威に晒されていない祖国の民が想像もできないほど、他国の現状は悲惨なのだ。逼迫した彼らの表情がそう物語っていた。
「王様は皆を不安がらせちゃいけないって口止めしたけどよ……。灯台街は壊滅したんだぜ。このクローネにも、もう三つぶっ壊れた大型船が打ち寄せられてきた」
「魔物は俺たちの知ってる竜やゴーレム、化け蝙蝠なんかとは違うんだ。不気味な影が蠢くのを見たって言ってる仲間が何人もいる。早く誰かがなんとかしなきゃ、本当に世界が終わっちまうかもしれねえ」
 頑張ってくれよと繰り返され、ツレットはおずおず頷き返した。商人は皆、戦士としても通用しそうながっしりした体格の者ばかりだ。そんな彼らに怯えた様子で縋られて、少し怖くなった。
 竜でもゴーレムでもない影の怪物。それらを統べ、人間を屠る魔王とは一体どんな生き物なのだろう。






 自国の一地域が壊滅の憂き目に遭っていたという話は、ツレットとティーフェを慎重にさせた。ほとんど無言のまま二人、道なりに賢者の館を目指して歩く。
「その……か、影の魔物って強いのかなあ? あたしたちでちゃんと敵うのかなあ?」
「今は気にしても始まらないだろ。一応俺たち賢者様に勇者の資格ありって判定されたんだから、何か強くなる方法があるだろうさ。こうなりゃ同じ候補者に師事するって話も現実的に考えなきゃな」
「そ、そうだよね。王様だって、そういう横の繋がりを持たせるために百人も募集したのかもしれないもんね」
「そうそう。一人じゃできないことも、百人いればできるようになるかもしれない。今は目の前の試験を頑張ろうぜ!」
「うん、珍しくお兄ちゃんの言う通りだわ! よーし、張り切って行くぞー!!」
「おい待て! 珍しくってどういう意味だ!?」
 明るい妹はツレットの言葉で調子を取り戻し、細い道をずんずん進んだ。左手には王城の水掘が、右手には椿の垣根が続いている。もうかなり歩いているのに試験会場だという賢者の館はまだ見えてこなかった。あれから悠長に買い食いなどしていたものだから、日没がもう近い。遅れる前に到着したいのだが。

「おーい君たちー! 館の門はこっちですよー! 行き過ぎ、行き過ぎー!!」

 後方から響いた声にツレットたちはぴたりと足を止めた。振り返れば背の高い男がこちらに手を振り呼びかけている。
「えっ? 行き過ぎ?」
「嘘! 通り過ぎちゃってたの!?」
 いつまでも景色が変わらないのでおかしいと思っていたのだ。慌てて引き返し、ツレットとティーフェは親切な紳士に頭を下げた。
「すみません! 教えてくださってありがとうございます!」
「いいですよ、気にしないでください。迷子にならなくて良かったです」
 鉄柵の傍らに立っていたのは爽やかな好青年だった。上等な絹のシャツを着て、上等な外套を羽織っていて、富裕層であるのがただちに知れる。育ちの良さは柔和な笑みにもそのまま反映されていた。
「もしかして、お城の離れか何かだと思っていましたか?」
 気さくに笑い、青年は垣根の向こうの巨大な建物を指差した。彫刻と噴水と美しい花園が陣取る庭の奥、鎮座する白亜の洋館。ここが試験会場だったらしい。
「えっ……」
「け、賢者の館ってこれぇ!?」
 揃って仰け反ったのも無理はなかった。ナーハ村で一番大きな村長の屋敷でさえこの館の半分の半分の半分もない。道理でそれらしい建物が見つからなかったわけである。館と聞いて思い浮かべるイメージが違いすぎたのだ。
「大きいからすぐわかるって騎士団の人に言われませんでした? 黒い鉄柵と薔薇門と、噴水のある王城東側の邸宅って、まさにこれですよね?」
「あ……、説明、してくれてたかも」
 ツレットはティーフェの脇腹を小突いた。詳しく聞いておかなかった自分も自分だが、妹もうっかり者である。ここで止めてもらえなければ都の外まで歩いて行ったかもしれない。
「あの、えっと。俺、ツレットです。こっちは妹のティーフェ。おかげで助かりました」
「どういたしまして。僕はシェルツという者です。会場ではお手柔らかに頼みますね」
 シェルツはにこやかに微笑み握手を求めてきた。右手を差し出し応じつつ、むんと胸を張る。初っ端から恥ずかしいところを見られてしまったが、館に入れば同じ勇者候補同士だ。今更かもしれないが対等な態度で接したかった。
「日も落ちそうですし、僕たちで最後なんじゃないですか。どんな試験かちょっと楽しみですよねえ」
 笑顔綻ぶ好青年はご機嫌で門を開いた。こんな立派な邸宅なのに見張りの兵がいないのは不思議な気がしたが、主があの賢者なら見張りなど不要なのかもと思い直す。国王から勇者選別を一任されるほどの大人物だ。きっと凄まじい魔力を宿しているに違いない。もしかしたら、選んだ勇者のサポートとして魔王退治に付いて行くのかも。
「ねえねえ、お兄ちゃん、あのシェルツって人ちょっとかっこいいね。さっきの二人組も村にはいないタイプだったし、勇者候補ってイケメン揃いなのかな〜? あ、でもお兄ちゃんは違うか」
「……おい。俺たちは今から大事な場所に行くんだぞ。って言うか、お前フォラオスはどうした」
「何よ〜。いいじゃない、ただの感想でしょ〜」
 何故かこちらがひそひそ声でお叱りを受ける。もう少し強く言い返しておこうとティーフェに向き直ると、妹は切なげに目を伏せて「フォラオス君来てるかなあ」と呟いた。
「……来てるんじゃねえ? わかんねーけど、貴族もゼロってわけじゃなさそうだし」
 あの補佐官の不穏な台詞を思い出しながらそう答える。真意は未だに測りかねるが惑わされないようにしようと言い聞かせた。
 それにしてもティーフェはあんなデリカシーのない男に本気なのか。次期領主の自覚は薄いし領民は蔑ろにするし、たとえ玉の輿であろうと兄としては願い下げだぞ。

「ごめんくださーい」

 薔薇のアーチをくぐり、噴水を通り過ぎ、数段の階段を上る。豪奢な両開きの扉を前にツレットたちは肩を並べた。

「ごめんくださーい。試験を受けに来た者ですがー」

 ノックしたのはシェルツだった。入りたまえという返答は内側からはっきり聞こえた。
 ドアが開いて鐘が鳴る。
 次の瞬間、世界は暗黒に飲み込まれた。






 ******






 三人同時に中に踏み込んだはずである。なのに周囲はツレット以外誰も存在しないかのような静寂を湛えていた。
 取り巻くのは違和感を覚えるほど重い闇。外から見た館にはちゃんと大きな窓があったし、扉を閉めてもいないのだから、日光は差し込んでていて然るべきなのに。
 見渡す限り視界に明かりは一切なかった。――否、一つだけ闇とは異なる何かがあった。それは、影としか言いようのないそれは、息を押し殺しツレットの背に飛びかかってきた。
「うわッ!?」
 突如出現した曲者に驚き跳ね退く。最初からティーフェやシェルツだとは思わなかった。その息遣いは明らかに人間のものでなく、獣の息遣いだったから。
 爪で抉られでもしたか、腿に鋭い痛みを感じた。触れてみれば指先がどろりと濡れて、錆びた鉄の臭いが漂った。
 フウ、フウ、と湿った呼吸音がすぐ近くで響いている。影は四本の足を地に着け、じっとこちらの出方を窺っていた。
(な、なんだこいつ……!?)
 狼や大角鹿と遭遇したときに感じる緊張が胸にせり上がってくる。心臓を叩き、落ち着けと己を叱咤し弓を取った。
 どうして賢者の館にこんなものがいるのかわからないが、ぼんやりしている場合ではなさそうだ。漆黒の獣からは胃が縮こまるほどの殺気が放たれている。思い出したのは先刻の商人たちとの会話だった。
(……灯台街を襲った魔物は、確か、不気味な影なんだっけ……)
 目の前にいるこれがそうなのかツレットには判断できない。しかし闇に目が慣れてなお影だとしかわからぬ生き物が普通の生き物でないことには確信が持てた。
「…………」
 一歩ずつ、足音を立てぬように静かに後ずさりする。睨み合った魔獣との距離を十分に開くとツレットは片膝をついた。
 まだあちらに目立った動きはない。今の間に仕留めなければ、最初に見せられた敏捷さから見ておそらくこちらが危うい。
 矢を番い、真っ直ぐ的を見据えると狩人の平常心が戻ってくる。波打っていた鼓動ももう速くはなかった。
(もしかして、これを倒せっていうのがここでの試験なのかもな) 
 冒険の途上、敵の急襲を受けることもあろう。その予行練習と思えば魔物との遭遇という不自然さは和らいだ。
 だとしたら案外強い相手ではないのかもしれない。王国軍が捕らえて使役できる程度の小物なら。
(よし、やってやる。折角勇者候補に選ばれたんだ。魔物退治くらいわけないってとこ見せてやる!!)
 意を決し、闇の奥へと矢を放す。反撃に備えてすかさず買いたての剣を抜いたが、そちらの出番は回って来なかった。
 小気味良い音を響かせ矢は獲物に突き刺さった。
 同時に辺りの暗闇が晴れていく。だがそれこそが、長い地獄の幕開けだった。












 ――気がつくとツレットは薄暗いホールに立っていた。今度は一人きりでなく、勇者候補と思しき人間もたくさんいた。
 キョロキョロと視線を巡らし妹の姿を探す。ティーフェは数歩先にいて、ツレットと同じく左手に弓を握っていた。
「おい、ティーフェ……」
 話しかけようと足を離れさせた途端、ざわめく声に制された。皆の視線は壁から突き出た手摺付きの高座に向いていた。ツレットがそちらを仰ぐと魔法使いがフードを下ろしたところだった。
「ようこそ賢者の館へ。まずは一戦目の勝利を祝福しよう」
 歓迎の言葉を口にしたのは広場で会った賢者だった。灰紫の長い髪を揺らし、色味の薄い瞳を伏せてにこりと微笑む。だがその笑顔はどこか作り物めいていた。
「私はヒルンゲシュピンスト。国王より勇者選びを任されている。君たちには今そうしてもらったように、トーナメント方式の勝ち抜き戦を続行してもらう。百人の中で最後に生き残った一人が魔王を滅ぼす真の勇者となるのだ。わかったね?」
 わかったね、と問われても賢者の言は唐突すぎて、ツレットには何を言っているのか理解できなかった。
 勝ち抜き戦? 勝ち抜き戦とはどういうことだ?
 さっき自分が倒したのは魔物だし、トーナメントなら人間の対戦相手がいたはずだ。それに、生き残った一人というのはもっと意味がわからない。
 変に思ったのはツレットだけではなかったらしい。あちらこちらで「え?」とか「はあ?」とか声が上がり、首を傾げる者は多数いた。中には「まさか」と突然しゃがみ込む者も。
「勘の良い子は気づいたようだね。とっくに選別は始まっているのさ。幻術をかけていたから、とても同じ人間には見えなかったろう?」
 くすりという笑い声と共に足元が照らし出される。目にした光景は戦場さながらだった。

「――」

 死体だ。闇で覆われていた格子模様の床に、三十はくだらない数の死体が横たわっている。ツレットの傍らでは頭蓋に深く矢の突き刺さった魔法使いが呼吸を止めていた。雉羽根で飾った竹の矢は紛れもなく己の私物である。思わず探った矢筒の矢は一本少ないままだった。
「うあああッ!?」
 突然見せつけられたモノに錯乱し、絶叫する。揺り起こしても死人が甦るはずもなく、温度を失っていく肉体に恐れ慄くだけだった。
「どういうことだ!? なんで殺し合いなんかさせた!?」
 比較的理性の確かな誰かが賢者に怒鳴りつける。悲痛な声を耳にしてもヒルンゲシュピンストの表情が変わることはなかった。それどころか、何を今更と言わんばかりに肩を竦めてみせる。
「ただの殺し合いではない。これは私の用意した術だ。国王陛下にどうしてもと頼まれてね」
 陛下と聞いて耳を疑った。賢者の口ぶりではまるで王がこの惨劇を承知していたかのようである。そんなことがあっていいはずないのに。
「彼は王国を守ろうと必死らしい。百人生贄を捧げれば魔王も魔物も一網打尽にできると言ったら二つ返事で頷いたよ。有り体に言えば君たちは見捨てられたのさ。そして今その半分が死んだ。――よぅく見ておくといい。君たちの大多数が、最後にはこうなる」
 賢者が腕を広げると、事切れた者たちが一斉に淡い光を放ち始めた。泡立つそれは遺体の表面を覆い尽くし、内側をも浸食していく。数秒と待たず死者は不定形な光の集合に変わった。
「……な、ん……っ」
 あまりの事態に言葉を失くす。実際何か叫ぼうと思っても、喉は完全に塞がれていたのだが。
 ツレットが殺してしまった魔法使いは口から体内に飛び込んできて、食べ物が消化されるのと同じように胃袋で溶けてなくなった。一瞬の出来事だった。
 食べたのだ。そう理解するまで随分な時間を要した。全身には今までなかった魔力が漲り、明らかな変質をもたらしていたのに。
 残された衣服と矢を前に、ツレットはただ呆然とするしかできなかった。
 なんなのだここは。なんなのだ、何が起きたのだ――。

「これで仕組みは体感できたろう? 勝者は敗者の命を食らって強くなる。最後まで残った一人が最強の勇者というわけだ」

 誰かが悲鳴を上げて駆け出した。ホールの扉を押したり引いたり、なんとか逃げ出そうと足掻く。それを見た他の候補者も広間の出口に殺到した。だが結界か何か張られているのかドアはびくともしない。斧を振るわれた壁も傷一つついていなかった。
 ふぅ、と漏れた嘆息にツレットは顔を上げる。ヒルンゲシュピンストの声はこれ以上なく冷やかにホールに響き渡った。

「君たちは少々、約束というものを軽んじているのではないのかね?」

 百人の名を記した、百枚の羊皮紙が舞う。
 風で束ねた契約書をこちらに見せつけ賢者は愚者を嘲笑った。
「魔王を倒すためならば我が身に何があろうと構わない。そう決めて契約に同意したのは他ならぬ君たちだろう? 今更逃れる道などありはしないよ。生き残りたければ戦うしかない。まだ諦めがつかないようだが」
 崩れ落ちそうになるのを堪えてもう一度ティーフェを探した。あんなに希望に満ち溢れていた妹は、今は絶望に唇を震わせていた。
「誓いとは、それ以外の全てを犠牲にする覚悟を持つことだ。約束とは、決して破れぬ法を己に刻むことだ。君たちは勇者を目指すと誓約したのだ。故に選定者たる私の定めたルールに縛られる。……だがこの館を出さえすれば、例外なく英雄になれると保障しよう」
 後悔が、自責の念が胸中に渦巻く。
 自分さえ勇者候補になろうとしなければ、こんなところへティーフェが来ることもなかったのに。
「さあ、我々百人で最強の勇者を生み出そうじゃないか」
 ヒルンゲシュピンストはどこからか小さな真鍮のベルを取り出した。鐘を鳴らして二戦目を始めようと言うのだ。
 館に入るときも甲高い音が聞こえた。あれが戦闘開始の合図だったのだ。

「待ちなさいよ!! 契約したなんて言うけど、私たちあなたに騙されただけじゃない!! こんなもの無効だわ!!」

 と、そのとき果敢にも賢者に食ってかかる者が現れた。鳶色のツインテールにそばかす顔の、身なりのきっちりした女の子だ。正義感の強い性格なのか、彼女は人差し指を突き立てて皆の心痛を代弁してくれた。
「人間を魔物に見せて殺させるなんて、信じられない人でなし……!! 残酷だとか可哀想だとか少しも思わなかったの!? それに私たち、街を守るために、家族や友達を守るために勇者を志したのよ!? 確かに自分がどうなってもいいとは誓ったけど、こんなこと、人殺しなんてこと、一度だって承服してないでしょう!?」
 そうだそうだと少女を擁護する声がちらほら上がった。帰せ、出せと半狂乱で数人が喚いている。賢者に向かって投げナイフを飛ばす者までいた。けれど刃はヒルンゲシュピンストの皮膚を掠めることなく消失する。矢も、炎も、かまいたちも同じだった。
「もはや私の掌の上だということを、まだわからない愚鈍がいるらしい。初めに契約の内容をよく確かめておかなかったのは誰だ? 何より尊重すべき自由をあっさり譲渡したくせに。どうしてもこの状況を受け入れられないなら余計な感情など奪い去ってやろう」
 宣言の直後、ツインテールの少女が壁まで吹き飛んだ。騒いでいた者も黙り込み、伏せた彼女を遠巻きに見守る。
「…………」
 身を起こし立ち上がったとき、少女は先程までの少女とはまるきり別人になっていた。目は大きく見開かれ、唇は固く閉ざされ、ぞっとするほど無表情だ。一身に注目を浴びているのに眉一つ動かさない。賢者が何らかの魔法をかけたのは明白だった。
「どうやら静かになったね。では次の一戦を始めようか」
 止める間もなくベルが振られる。賢者は異次元を作り出すことができるのか、一瞬の後にツレットは乾いた砂漠の遺跡へと運ばれた。照りつける太陽がギラギラと眩しく、朽ち果てかけた神殿の底には濃い影が溜まっている。
 心拍数はまた上がっていた。今度は弓を握り締めてもどうにもならなかった。
 砂利を踏む靴の音に狼狽し、ハッと顔を上げる。巨大な砂時計が吊るされた二本の柱の向こうにいたのは見覚えのある人物だった。
「あ……」
 ツレットは思わず剣の柄を掴んだ。瞠目し、こちらを見つめ返しているのは武器を選ぶ際に助言してくれたブラオンという男だった。







(20140429)