第一話 大いなる損失 前編






 太陽の出ている時間に帰れない――。式典と祭りの日以外は常にのんびりのびのびとしたこの勇者の都において、まさかそんな事態が幾週も続こうとは夢にも思っていなかった。
 多忙の原因は明白だ。アラインの二十歳の誕生日に合わせ、結婚式と戴冠式を同時に行おうという超過密スケジュール。これが己と自邸の仲を引き裂いているのである。
 いや、日程に文句をつけるつもりはないのだ。どうせなら一緒にやろうと言ったのは自分だし、こういう行事は華やかであればあるほど人の記憶に刻まれやすい。城畜だから帰れないのも半分は諦めている。それに住み慣れた我が家と言っても今後は王宮暮らしが確定しているから、屋敷はクラウディアたちに譲るつもりだった。そのためアラインの私物はほとんど残っていない。
 それでもできるだけ屋敷に身を置いておきたい理由があった。外洋の帝国、アペティートから迎え入れたヴィーダ・オブヴォール・アペティートの動きを監視するためだ。
「アライン様! ご来客です!」
 と、そのとき政務室のドアがノックされ、「お通しします」という衛兵の声と共に件のヴィーダ皇子が姿を現した。出たなという気分でアラインは机から顔を上げる。勿論態度にはおくびにも出さず。
「やあアライン、お疲れじゃないかと思ってね。ちょうど近くを通ったから差し入れを持ってきたんだ」
 ヴィーダはウィンクしながらビスケットの入った箱を差し出してきた。微笑む異国の貴公子からは抜群に爽やかな、しかし胡散臭いオーラが溢れ出ている。
 見栄えはいい。外面もいい。女性のあしらい方も上手い。なので既に城内の女性人気は獲得済みだ。と言ってもアラインの人気には劣るが。
「ありがとう。お腹が空いたら食べさせてもらうよ」
 同じように爽やかな笑顔を返しつつ菓子箱を机の隅にやる。毒見したって口に入れたくない代物だ。
 あちらもすぐには食べてもらえないことがわかったのか、鋼鉄の愛想笑いを張り付けたまま「それじゃあお先に失礼」と退室していった。
 足音が聞こえなくなってからアラインは重い溜め息を吐く。労わるように肩に青い神鳥がとまった。
「バール、食べてみるか? 精神体だし平気だろ?」
「……ジブン怖いこと言うなあ。まあ試してみたいんやったらエエけど」
 無造作に箱を開けるとアラインは一枚ずつバールの口にビスケットを放り込んでいった。最初の数枚は「お、美味い! なかなか! メチャウマ!」などと言っていたバールだが、七枚目を飲み込んだ瞬間猛烈な眠気に襲われ突っ伏してしまう。書類の上で睡魔に抗う小さな友人を見つめ、アラインは頭を抱えた。
「やっぱりこうなったか……」
「うう、眠い……アライン頼む起こして……」
 寝落ち寸前の神鳥に目覚めの魔法をかけてやれば、「アイツいつ追い出すねん!?」と真顔で問われる。アラインとて追い出せるものなら追い出してしまいたいのだが。
 鬱陶しいから国へ帰れと命じることは簡単だ。けれどその行為が引き起こすであろう事態を考えると、とても口にはできそうにない。名誉棄損だ、侮辱罪だと事実を歪曲され、アペティートに兵を送り出す口実を与えるわけにいかないのである。
「少なくとも僕の戴冠式が終わるまでは無理だろうね……。国賓として出席させなきゃいけないし」
「ホンマ勘弁してほしいなぁ〜」
 バールの嘆きはここ最近のアラインの心情と完全に一致していた。
 酷い国と縁を持つことになってしまった。新大陸を目指して旅立った日はあんなにドキドキワクワクしていたのに。
 勇者・兵士・辺境の三国が外の世界と国交を結んでそろそろ二年になる。ビブリオテークは辺境の国の復興支援という名目で、アペティートは文化交流という名目であっさりこちらの大陸に居ついてしまった。
 要するに初手の返しを誤ったのだ。彼らは何かと理由をつけて帰ろうとせず、この大陸に利用できるものがないか虎視眈々と狙っている。
 そういった情報がどこから入ってくるかというと、やはりノーティッツであった。あの初めの短い視察で彼はドリト島が非常に微妙な立場に置かれていると勘付いていたのだ。
 アペティートとビブリオテークは長く対立関係にあり、二国の中間に位置するドリト島は日頃から戦争の脅威に晒されている。そんなドリト島を支援するのが西方の大国ヒーナだ。政情が不安定になってくると、ヒーナはドリト島に軍隊を派遣し、島民を保護しつつ両国を牽制するのだそうだ。その軍隊には気功師――つまりあちらで言う魔法使いが多く所属している。ドリト島の民が畏敬の念を抱くのも頷けた。
 現在ノーティッツとベルク、ウェヌスはドリト島にて庶民に紛れて生活している。自国にキナ臭い連中が入ってくるよりこっちが赴いた方がマシだというトローンの性格が如実に表れた対応だ。三日月大陸諜報部の若きエースとして、ノーティッツは日々様々な情報を発信してくれている。おかげでこちらも外洋の国々に対し、警戒態勢が取れるのである。
(アペティートは近い将来ビブリオテークと戦争するつもり……か)
 ノーティッツから届いた密書の内容を思い出し、アラインは嘆息を押し殺す。
 穏やかならぬ話はひとつやふたつではない。アペティートが侵略を進めたい理由には勇者の国も無関係ではないのだ。
 蒸気機関なる高度技術を持ち、優れた軍事兵器を自国で独占しているにも関わらず、アペティートではそれらを活かす資源が枯渇してきている。ノーティッツ曰く、「成果は素晴らしいが効率の悪すぎる運用」で自分の首を絞めているらしい。例えば石炭の採掘装置を動かすのに掘り出した石炭の半分を消費していたり、少し負荷が増えただけで破損するタイプの蒸気釜をしつこく使い続けていたり、やっていることがあまりに鈍臭いので調べていて呆れたと彼は語った。
 アペティートとビブリオテークが衝突したのは十五年前のこと。その更に五十年ほど昔、アペティートのテクノロジーは飛躍的な発展を遂げている。ひとりの天才科学者が次々に先人の研究を完成させ、新しい機械とシステムを開発し、かの国は一気に技術大国となったのだ。
 南方にあったふたつの国を瞬く間に屈服させると、アペティートは次にビブリオテークに目をつけた。だがその頃には侵略戦争を引き起こした罪悪感で天才科学者は自ら命を絶っていた。しかも彼は設計図を改悪し、アペティートに金食い虫の機械のみを残したのだ。己の死後、帝国が確実に技術を養えなくなるように。
 それでもアペティートがビブリオテークを圧倒するには十分だった。唯一の誤算は帝国の侵攻を食い止めるべく、ヒーナが介入してきたこと。どんなに凄まじい威力の兵器をもってしても、アペティートにヒーナの気功師部隊を破ることはできなかった。ヒーナがビブリオテーク側についた以上、休戦協定も結ばざるを得なかった。
 ヒーナは互いの軍隊がドリト島を越えることのないよう二国に調印させた。すると間もなく、家を焼かれ傷ついた一般市民の一部が難民となりドリト島に流れ始め、いつしかそこでふたつの民族が混ざり合って暮らすようになった。
 先の戦争が幕を閉じ十五年、アペティートは自国の勢力内で採取できる資源は粗方採り尽くしたようである。ふたつの属国は相次いで鉱山を閉め、暮らしが立ち行かず困窮に喘いでいるという。更にはアペティート本国でも同じような状況が生まれつつあるらしい。
(ビブリオテークに眠る大量の資源を得るために、アペティートはまず軍用倉庫を満たそうとする――)
 勇者の国は狙われてるよとノーティッツは推測した。
 ビブリオテークと比べれば五分の一以下の面積しかない小さな国だ。掘り尽くしたところで何年分にもならないだろう。だが戦争に使う分だけなら、もしかするとあるかもしれない。
 勇者の国を踏み台にして、アペティートはビブリオテークを獲るつもりなのだ。
 幸いこの国には自分という勇者兼大賢者がいる。だから今のところ、アペティートも手を出しあぐねている。
 親交を持ち始めた当初、アラインは船でアペティートの首都を訪れて、転移魔法で帰るというパフォーマンスを敢えてしていた。そうやってこちらの強みである魔法の印象を強く植えつけておかねばならなかった。他に三日月大陸に、彼らに勝る技術はないから。
 舐められたら終わりだ。しかもどんなに腹立たしい真似をされても、技術力の差を思うと噛みつけない。耐えるしかない。
 水面下の睨み合いでストレスは溜まる一方だった。






 ******






「……さて、後は何を持って帰ればいいんだったかな」
「ノーティッツー!!」
 旅行鞄に暗号化した調査資料や土産物を詰め込んでいると、幼い少女の呼ぶ声が響いた。戸口に顔だけ覗かせて見れば、いつものようにニコラがひらひら手を振っている。小麦色の肌にベージュの髪をなびかせた、ドリト島でもとびきり明るい女の子だ。人懐っこく快活で、ノーティッツたちが島にやって来たばかりの頃からしょっちゅう遊びに来てくれる。
「ねえ、ノーティッツたち故郷に帰っちゃうの?」
 いつもの爛漫さとは相反して、やや不安げに少女は尋ねた。昨日から三人して思い切り「荷造りしてます!」という様子なので、ドリト島から出て行くのではと疑われているらしい。
「違う違う! あはは、友達の結婚式があるからちょっと帰るだけだよ。家具とかはそのままだろ? また戻ってくるからさ」
 半分だけ本当のことを教えてノーティッツは再び荷袋に向き直る。帰国の正確な理由は、近日に迫ったアラインの結婚式及び戴冠式に出席するためだ。本当は三人のうち誰かひとりくらい残るべきなのかもしれないが、入れ替わりで兵が数名来てくれるらしいので甘えさせてもらうことにした。自分だってアラインの晴れ姿を拝みたいのだ。
「良かったあ〜!! もし故郷じゃなくて、アペティートとかに行っちゃうんだったらもう会えなくなるなあって思ってたの……」
 ニコラは板張りの床にへにゃへにゃと座り込み、安心したと言って笑った。
 露骨に皮膚の色が異なる国と国でいがみ合っているものだから、ニコラのように黒い肌をした者は到底アペティートには入れない。同じことはビブリオテーク側にも言えた。今までは兵士の国はなんて勇者の国と仲が悪いのだろうと思って生きてきたが、この二国について知れば知るほど、ああうちの大陸って平和だったんだなと思える。
 多分それは長らく魔王という共通の敵を有していたからなのだろう。ツエントルムがそこまで考えていたのであれば唸らされる。人間同士が争い合って決定的な崩壊に繋がらないよう、コントロール可能な勢力を何百年も維持してきたのだ。……それはそれでどうかと思うやり口だが。
「ノーティッツのお友達、おめでとうだね。ところでノーティッツはいつ結婚するの?」
「あ、ニコラ! それは聞かない約束だろ!」
「あはは〜! どうしても相手がいなかったらあたしがしてあげるよ〜!!」
「相手はいくらでもいるの! ただぼくは仕事が忙しいの!!」
 きゃっきゃと跳ね回りながらニコラはデコボコした丸木の戸口から飛び出して行った。
 子供というのは本当に元気だ。なんだか自分とベルクの小さかった頃を思い出してしまう。
「おい、ノーティッツ。こっちは詰め終わったぞ」
「大変でしたわ〜!」
 ちょうど隣室から王子夫妻が顔を覗かせて、手伝うことはないか尋ねてきた。調査資料とダミー資料に埋もれた机が未だ手つかずなのを見てふたりはうっと眉を顰める。
「お前の部屋ほんと……紙だらけだよな……」
「真面目に働いてる成果だよ。毎日畑仕事と樵の真似事楽しんでるお前の部屋とは違うんだよ」
「す、すみませんノーティッツ。私も島のお料理を覚えるのが楽しくて楽しくてつい……」
「えっ!? いや、ぼくもウェヌスにはこっちの仕事任せようとか欠片も思ってないからね!? 大丈夫だからね!?」
 嘆息をひとつ挟んでノーティッツは作業を再開する。
 これは要るもの、これは要らないもの、と次々選り分け持ち帰るものだけベルクに放っていった。「多すぎる、誰が担ぐと思ってるんだ?」と文句を言われたが、そんなものは我らが勇者に決まっていた。頭脳労働も肉体労働もやらせようなどおこがましい。
「あ、これはぼくの手荷物に入れとくね」
 紐つきの巻き物を放り投げれば見事に荷袋にシュートが決まる。ベルクが「あれ何?」と聞いてきたので「ぼくの書いた論文」と答えると勉強嫌いの不良王子はそれ以上尋ねてはこなかった。
 報告書の大半は三日月大陸の三国で共有するものだ。しかしこの論文だけは天界へ持ち込んでみようかと考えている。
 内容は古代魔法に使用されている魔法言語についてつらつら疑問と予測を書き連ねたものだ。今でも古い呪文として残るそれは、ツエントルムの時代の一般語なのだと思っていた。だが、どうもそうではなさそうなのだ。アペティート出身の島民も、ビブリオテーク出身の島民も、聞くところによればヒーナの軍人も、皆ノーティッツたちが使うのとほぼ同じ言語を用いている。ということは、どういうことか。
 今は広く様々な土地に根付く人類だが、元々はひとつの文化圏の中に暮らしていたとも考えられるし、歴史の途上でひとつの国が世界を隅々まで支配した期間があるとも考えられる。では共通言語として認識されている言葉とまったく異なる形態を持つ魔法言語はどこから来たのか? 三日月大陸の人間はどうやってそれを実用化したのか?
 考え出すと謎が尽きないテーマで非常に興味深い。戦争の案件が片付いたら本格的に研究してみたかった。
(そう……戦争の案件が片付いたら、ね)
 アラインのおめでたいセレモニー前だと言うのに溜め息は深くなるばかりだ。先日、兵士の国にヒーナから密使が訪れ警告を与えて行ったと聞いている。曰く、アペティートにもビブリオテークにも味方してくれるなと。
 三竦み状態に近かったアペティート、ビブリオテーク、ヒーナの関係は三日月大陸の出現で大きく変わろうとしている。十五年前の戦争でヒーナはビブリオテークを支援したが、今なお同盟国ではない。ヒーナは監視国だった。侵略しない代わりに、他国に侵略もさせない。気功師という頭抜けた戦力を持ちながら、彼らが国際社会の中で指導者的立場を取ろうとしていることには感銘さえ受ける。だが最早その均衡は危ういものとなってしまった。
 ビブリオテークは辺境の国に執拗に同盟を結ぶよう迫っている。狙いは気功師部隊と同様の力を持った王国魔導師軍である。賢明なウングリュクのことなので、いくら金を積まれようと応じることはないと思うが、どんな手段で出てこられるかわかったものではない。
 ノーティッツ個人としては、アペティートよりもビブリオテークに同情している。休戦協定を結んだ後も、アペティートの軍船が密航してきて貴重な資源を掠め取っていったり、不利益でしかない貿易を強いられたり、不遇が続いてきた。首長の娘を人質同然に差し出さなければならなかったという話もある。だからこそ彼らの怒りがどのように発揮されるかが恐ろしくもあるのだ。争いに巻き込まれないために、また、争いを起こさせないためにも人事は尽くさなければ。






 ******






 二十歳の誕生日まではもう二十四時間を切っていた。いよいよ明日が本番と思うと、祭り慣れしたアラインでも少し緊張してくる。
 台本を手に落ち着かない気分で政務室をウロウロしていると「辺境の王ご一行がお見えになりました」と外から声がかかった。
 今日は当直の衛兵ではなくアライン直属の部下であるツヴァングが表に立ってくれている。まだ十八歳という若さだが、生真面目かつ優秀なお気に入りの補佐である。真っ直ぐな――時に真っ直ぐすぎて方向転換できない気性の、青年らしい青年。彼の向けてくる眼差しに少なからず入り混じる尊敬と憧憬の色がこそばゆいのは、かつて己も通った道だからだろうか。
「お通ししてくれ」
 返答に応じ、ツヴァングはきびきびした動作で扉を開いた。てっきりウングリュクとノルムが入ってくるのだと思っていたのに、最初に入り口でお辞儀をしたのは山門の神殿を守っているはずの巫女だった。
「お久しぶりです、勇者様」
「うわ、シュトラーセ!?」
 驚きのあまり声が引っ繰り返る。同時にウングリュクの悪戯っぽい笑い声が響いた。
「折角なので同行してもらったのだよ。彼女も祝福の言葉を捧げたいと言ってくれてね」
「うふふ、我が王の粋な計らいです」
 魔導師長のノルムもそう言って楽しげにシュトラーセの横に並ぶ。まさかの組み合わせだ。
 凱旋後、一度お礼を伝えに行ったきりだったのでまさかシュトラーセが来てくれるとは思ってもみなかった。神職の人間をほいほい呼びつけるのも悪いかな、と少し遠慮もしていたのに。
「長く神殿を離れるわけにはいきませんので、すぐ帰らせていただきます。お気遣いはなさらないでください」
「……あ、うん。こちらこそわざわざ来てくれてありがとう。本当に嬉しいよ」
 相変わらず見透かしたような口ぶりだ。変わっていなくて思わず頬が緩む。
「それにしても、あなたに勇者様なんて言われるとドキっとするな」
「相応しい呼称でお呼びしているだけです。あれからヴェイクはあなたの話しかしませんよ」
「はは、僕がこうしてここにいられるのはあなたの導きのおかげなのに」
「いいえ、あなた自身の意志の力です。――この度は本当におめでとうございます」
 しばしアラインは澄んだ巫女の目と見つめ合った。
 シュトラーセはやはり不思議な女性だ。闇夜を照らす月のよう、ただ静かにそこにいてくれる。
「あなたは僕のアラインという名に意味を与えてくれた。迷って迷ってどこにも行けなくなっていた僕に行く先を示してくれた。……導きというあなたの名前そのままに」
 感謝していると伝えるとシュトラーセは小さくかぶりを振った。自分は何も大仰なことはしていない、ただあのとき自分にわかったことを述べたまでだと。
「誰かに道のありかを示すと言うことは、非常に危険なことでもあります。私の名はほんの一字違うだけでまったく別の意味を持つのです」
「へえ、それはどんな意味?」
 シュトラーセは一瞬押し黙った。
 興味本位で尋ねたアラインの、その背後を睨み据えるよう告げる。
 或いは巫女には既に予感があったのかもしれない。
「『罰』です」
 聖なる婚儀の前にお話するようなことではありませんでしたね、と彼女は半歩下がった。
 恭しくこうべを垂れるシュトラーセの隣をすり抜け、ウングリュクとノルムが祝いの言葉を重ねてくる。
 ただの雑談の一種でしかなかったこのときの会話を、アラインは後になって思い出させられることになる。



 ウングリュクたちが退室してすぐ政務室にはイヴォンヌがやって来た。シュトラーセが来ていると知り慌てて駆けつけてきたものらしい。だが巫女がとっくに辺境への帰路に着いたことを伝えると、婚約者は残念そうに肩を落とした。
「私もお会いしたかったです……。あなたにとっても王国にとっても大切なお方でしょう?」
「時間さえ取れればいつでも会いに行けるよ。落ち着いたらふたりで神殿を訪ねよう」
 きらびやかなイメージが先行するイヴォンヌだが、寧ろこういう誠実で堅い一面の方が好きかもしれない。何を置いてもまず王族として己の責務を果たそうとするので、アラインとはとても気が合うのだ。
 一度シュトラーセのことでイヴォンヌが不安げに尋ねてきたことがある。王位を継ぐためとはいえ自分と結婚などして良いのかと。冒険の中でそういう関係になった女性はいなかったのか――と。
 耳にしたときはつい笑ってしまった。女の子というのはあれこれ余計な気遣いをするようだ。
「……アライン、私はあなたが一番苦悩していたとき、安穏とこの城でいつもの暮らしを送っておりました。ですから余計に、あのお方には厚くお礼を申し上げたいのです」
 わかってるよと答える代わりにアラインはイヴォンヌの細い肩を抱き寄せる。
 昔からよく知っている姫君だが、婚約してからますます色んな表情が見えて慕わしい。
 ベルクとウェヌスのように長旅の中で信頼関係を培ったわけでも、アンザーツとゲシュタルトのように百年想い合ったわけでもない。けれどこうしてひたむきに、アラインの伴侶になろうとしてくれる彼女を見ていると、とても愛おしく感じられる。こんな形で夫婦になるのも、まあ悪くないかなと。
「明日が済めば、ちょっと辺境に顔出すくらいすぐだよ」
「ええ……、いよいよ明日なのですね」
 自分たちはこれから、手を取り合って支え合って、パートナーとしての関係を構築していくのだ。
 誇らしげなイヴォンヌの額にそっと口づける。
 最高にいい気分で婚約者を部屋まで送り届けて戻ってくると、政務室に陣取っていた新たな来客にテンションが垂直落下した。
 黄金の髪と白い歯をきらりと光らせ、ヴィーダが「やあ!」と祝い状を掲げる。
 帰れとも寄るなとも叫べないアラインに、罪の無い顔でツヴァングが「ヴィーダ様をお通ししておきました!」と報告した。



 ヴィーダ曰く、アペティートの帝王は健康上の理由で式に出られないそうだった。静養の必要な病気を患っていてね、と堂々微笑まれるが、そんな噂は聞いたこともない。大方魔法使いの国になど足を踏み入れたくないというところだろう。こちらとて君主直々に値踏みなどされたくもない。
「そうなんだ、残念だよ。折角こちらの王室の婚礼や戴冠の儀を見ていただける機会だったのに」
 白々しい台詞を吐くのは最近得意になってきた。いや、随分前から勇者として国民にアピールすることは大得意であったのだが、ヴィーダのおかげで芝居に磨きがかかっているように感じる。
「明日はぼくが父に代わって君の雄姿を目に焼き付けさせてもらうよ。頑張ってくれ、アライン」
 表面上は互いに笑顔で握手を交わす。腹の底では何を考えているのか探り合いながら。
 いっそのこと闇魔法で深層心理に入り込んでやろうかと考えなくもない。こちらに心を開いていない相手に無理矢理侵入するのは術者にとっても危険な行為なので踏み留まっているけれど。
(まぁ、とりあえずバールとディアマントとクラウディアが妙な真似しないように見張っててくれてるし……一番心配なのは明日だな)
 アラインとイヴォンヌのために三国の要人が集まり、都中が祝福に包まれる。マハトが厳重に警備の手筈を整えてくれているから滅多なことはできないはずだが、用心するに越したことはない。
 最初、ヴィーダが屋敷にやってきたときアラインはまだ歓迎モードを維持していた。寝食を共にしはじめて二、三日経った頃だろうか、クラウディアがそっとアラインに耳打ちしてきたのは。

 ――胡散臭いです。

 にっこり笑って僧侶は毒舌を覗かせた。クラウディアにそう言われたら終わりだな……と思ったことは秘密である。

 ――あなたの留守中、屋敷の中を嗅ぎ回っていますよ。あれは訓練された動きです。勝手に部屋を漁られているの、気づかなかったでしょう?

 似たような報告はすぐにディアマントからも受けた。どうも都の外壁の薄いところや補修の必要なところを調べているようだと。
 まさかヴィーダも空から見咎められていたとは思うまい。彼に疑いの目を向けていないのはもはやエーデルくらいだった。
 どういうわけかあのふたりは仲が良い。むやみにエーデルを傷つけたくないとクラウディアはヴィーダについて何も教えていないので、おそらく警戒すらしていない。
 エーデルのことだから、多分恋愛談議に花を咲かせて親しくなってしまったのだろう。だが彼女があの皇子に気を許しているおかげで、男ふたりが血眼になってくれるわけでもあるが。
「アライン様、兵士の国の王子一行がお見えになりました!」
 ヴィーダから手を離すと同時、ツヴァングの声が待ちに待ったもうひとりの勇者の来訪を告げた。ささくれていた心が一気に浮上する。アラインは目を輝かせて扉を振り返った。
「おやおや、入れ替わり立ち替わり大変だね。それじゃあぼくはこれで退散するよ」
「おっすアライン! 久々だな!!」
 ヴィーダとすれ違う形で二年振りに会うベルクが入ってくる。今回は公式行事ということで、似合わない王族衣装に身を包んでいた。背が伸びて、肌は日に焼けている。続いてウェヌスとノーティッツもぞろぞろと姿を現した。皆本当に久しぶりだ。
「失礼」
 会釈したヴィーダに三人は愛想良くお辞儀した。目ざといノーティッツが早速ヴィーダの肩で揺れるアペティートの紋章に視線をやっている。対するヴィーダもドリト島での正装と思しきノーティッツの装束にすっと目を細めた。
「ご旅行帰りで?」
「取り寄せただけですよ。このところ、あちらの品も手に入れやすくなりましたから」
 魑魅魍魎がひしめき、権謀術数渦巻く宮廷に相応しいふたりのやりとりに思わずウワァと半笑いになる。冷ややかな空気を感じ取ってベルクも目を瞠った。ウェヌスの方は見ずともわかった。彼女はいつも通り鈍感ににこにこしているに違いない。






「遠いところありがとう、三人とも。こうして会うのいつ以来だろう? 通信はしてたからブランク感じないけどね」
 歓迎の意を示して両腕を広げるアラインに、ノーティッツたちは頬を綻ばせた。
 通信というのは辺境の国でウングリュクが使っていた魔法の鏡のことである。ノーティッツが「今度はもっと遠い国に諜報活動しに行くことになった」と母に告げると、「じゃあアレ改良して餞別に持たせたげるわ」と小さな手鏡にして何枚かくれたのだ。
 勇者の国の姫君と同じ名を持つ母は、結構な魔道具発明家であった。雷属性の魔法をどういじれば手鏡を通信機に変えることができるのか、本当にちゃんとした理論を紙に残してほしい。
 ともあれその手鏡は、辺境の国、兵士の国、勇者の国、それからドリト島に赴いたノーティッツたちで分け合うことになった。魔法の心得のある者しか使えない仕様になっているため敵に奪われても安全で、何より確実に伝えたいことを伝達することができる。重宝させてもらっていた。
「遠いところだなんて。おめでたい日なんですもの、世界の果てからだって帰ってまいりますわ!」
「ごてごて飾りつけられるのは正直面倒だけどな……」
「あはは! ベルク、そうしてると一応王子様に見えるよね」
「一応ってのはどういう意味だ!?」
 心の底からホッとひと息つける相手に再会したからか、アラインの表情はゆるゆるだ。それはこちらとしても似たような心境なのだけれど。
「今のが例のアペティートの皇子様?」
 ノーティッツがこそりと問うとアラインは急激に顔を曇らせた。快晴が一気に雷雨寸前になってしまう。
「うん、そう……。色々ね……色々悩まされてるよ……」
 明後日の方角を見つめるアラインをウェヌスがはらはら案じる。
 この二年で勇者の国が被りかけた損害は数知れない。質の悪い銅混じりの金貨を貿易に利用されかけたり、輸入砂糖に怪しげな薬を混入されていたり、戦争とは別の手でじわじわ内部崩壊させようという目論見は明らかだった。
 おまけに勇者の国サイドがどういうことかと説明を求めると、アペティートはのらりくらり言い訳して形だけの謝罪を述べてくる。はっきり言って気分が悪い。矢面に立たされているアラインの心労は計り知れなかった。
 これまではノーティッツの情報支援もあり大きな問題に発展することなく水際ですべて食い止められている。だがそれゆえに正面切って「あれは悪い国だ」と民衆に伝えることもできず、次期国王は孤独な戦いを強いられているのである。
「戴冠式が終わったら、またゆっくり今後のこと話し合おう。ぼくらもついてるから、ひとりで悩まないでね」
「ありがとうノーティッツ……! すごく心強いよノーティッツ……!」
 戦闘なら俺も多少は力になれそうなんだけどと居心地悪そうにベルクが頭を掻く。馬鹿野郎、お前が戦うような事態にさせないためにぼくが頑張ってるんだよ。そう思ったが、言わなくてもわかっているだろうと口は噤んでおく。
「船旅と馬車の長乗りで疲れてるんじゃない? 客室に案内させるから今日はゆっくり休んでくれよ」
「おお、ありがとうな。祝いの品は後で届けさせるから」
「島のお土産もですわ!」
「うん、楽しみにしてる。おーい、ツヴァング君!」
 アラインは扉を開いて部下の名を呼んだ。歳は若いが実直そうな感じの青年が顔を覗かせる。確か何度かアラインが話題に出していた人物だ。将来を期待して目をかけている子なんだと言って。
「お呼びでしょうか?」
「ああ、ベルクたちを部屋まで案内してきてくれ。奥の一番いい部屋だから」
 ツヴァングと呼ばれた青年は一瞬ギロリとこちらを睨みつけたように見えた。否、こちらをと言うかベルクをだ。ははあ、さてはこれが噂の勇者の国シンドロームかとノーティッツは肩を竦める。
 この国には少なからず「勇者と言うのはこの世にただひとり、神に選ばれた存在なのだ」という信仰じみた思い込みがあって、アラインがアンザーツの血筋でないことが公表された後も「兵士の国には勇者なんていない!」と主張する者が後を絶たないそうだった。意味なく嫌われることに対してベルクがまったく無頓着であるため特に問題視されていないが、実際にぞんざいな態度を向けられると面白くはない。
「……わかりました。どうぞこちらへ」
 不貞腐れたような目つきでツヴァングは先導に立つ。なんだかなあと思いつつノーティッツも後に続いた。と、そのときだ。
「きゃっ!!」
「っと危ねぇ!!」
 絨毯にドレスの裾が引っ掛かったのか、ウェヌスが転倒しかける。偶然倒れた方向にベルクがいたので事なきを得たようだったが、ヒヤリとさせられた。
「おっま……気をつけろよ! マジで!!」
「も、申し訳ありませんわ……」
「――どうぞお早く、こちらです」
 気遣う言葉をかけるでもなくツヴァングはずんずん白亜の廊下を進んで行く。ウェヌスはウェヌスですっかりしょげて落ち込んでしまったようだ。
「……もうちょっと優しい言い方すりゃいいのに」
「あ? あの兄ちゃんか? 確かにちょっと不愛想だな」
「違うって。お前の話だよ馬鹿」






 気に入らない。何故自分がこんな奴のために案内人など務めなければならないのだ。
 ツヴァングは舌打ちしたい気分を堪えて兵士の国から訪れた来客三名を客室に促した。
 こいつが王族なんぞでなければ、命じたのがアラインでなければ、その辺の兵士を捕まえて交代させたのに。
 ベルク・フロー・トリウムフ――兵士の国の出のくせに勇者を名乗る不届き者。本来正統な勇者の手にあるべきオリハルコンを所有し続け、神具を我が物扱いする許しがたい人間だ。何故アラインはこんな男を野放しにしておくのだろう。尊敬すべき人であるが、そこだけはどうしても腑に落ちない。
「ご苦労さん、後は勝手に寛がせてもらうぜ」
 部屋に着くなり外套を外して椅子に放り投げるベルクの粗雑さに苛立ちを募らせながら、「そうですか。では」とツヴァングはあくまで礼儀正しく扉を閉めた。室内からは「お前もうちょっと行儀良くしろよ。アラインの国とはいえ他国の宮殿なんだぞ」と従者の叱る声が漏れ聞こえてくる。
 お供にまで苦言を呈されるとは呆れた男だ。噂に違わず貴族のきの字も感じさせない庶民顔、いや、寧ろやや獣臭さえ漂ってくる風貌だし、立ち居振る舞いも優美や典雅とは程遠い。大体言葉遣いがなっていないのだ。流石は宮廷内を運動着でウロウロする王の息子だ。
 アラインはやたらにベルクを誉め讃え、僕も負けないように頑張らないとと言うけれど、どう考えても過大評価である。大方美人の奥方と有能な部下のフォローで分不相応な名声を得ているだけだろう。剣の心得はそれなりにあるのかもしれないが、複雑な古代魔法を操るアラインと比べれば、どちらが優れているかなど明白だ。
 あんな男が己の君主と並び称されているというだけでツヴァングには我慢ならなかった。何度か兵士長であるマハトに陳情しているものの、笑われるだけであまり相手にしてもらえていない。ただマハトも、ふたりはまったく違うタイプの勇者だから、とは言っていた。それは暗にアラインの方が勇者として相応しいということだろう。
「アライン様、戻りました」
 コンコンと政務室のドアを叩いて報告するとアラインに中まで入ってくるよう命じられる。
 まだ憤然とした面持ちのままツヴァングは君主の前に仁王立ちして背中で腕を組んだ。
「ありがとうツヴァング君。そろそろ帰宅時間だと思うんだけど、ごめんね、明日のことで頼んでおきたいことがあるんだ。いいかな?」
 結婚式と戴冠式という二大イベントを行う日に頼みごと。一体なんだろうとツヴァングはアラインを見つめ返す。
 いつも変わらない穏やかな笑みがそこにあった。どんなに忙しいときも皆を労い微笑みかけることを忘れない、聡明で立派な方だ。理想的な君主だ。隣国の勇者もどきとはまるで違う。大体真の勇者なら女性が倒れかけたときはそっと抱き起こし温かな言葉をかけてやるものだろう。あの場にいたのがアラインなら、もっとスマートに――。
「大事なことだからよく聞いてね」
「あ、はい!」
 ツヴァングは姿勢を正して耳を傾ける。この人に直属の部下として抜擢されたときは、歓喜のあまり死ぬかと思ったくらいだった。そんなアラインが、自分に頼みごと。最近ようやく側で仕事をするのに慣れてきたと思っていたが、やはりどきどきしてしまう。
「あのさ、明日、ヴィーダから目を離さないでほしいんだ」
「……ヴィーダ様からですか?」
 きょとんとツヴァングは目を丸くした。
 アペティートからやってきた気さくで明るい皇子。今はアラインの住む屋敷に逗留している。彼もまたアラインと同じく華のある人物だ。時々機械仕掛けの玩具を見せてくれたり、甘い菓子を振る舞ったりしてくれるので、他国の皇族だが心安く付き合わせてもらっている。
「本当はマハトに頼みたいんだけど、流石に明日は兵への指示で身動き取れないだろうし。ツヴァング君なら顔パスで入れないところ殆どないだろ?」
「まあそれは……、大臣の息子ですから」
「ぴったり横についてエスコートしてあげてほしいんだ。ほら、うちのしきたりがよくわからなくて恥をかかせたら国際問題になるし」
「ああ、そういうことですね! 流石はアライン様です」
 「いやあ」とアラインは目を背けたが、その意味はまだツヴァングには読み取れなかった。
 ただ敬愛する君主から――正式には明日君主になる人からの個人的命令に舞い上がり、必ずやってみせますと熱烈な御意を示すのみだった。
 燃えるツヴァングにアラインは小さくぼやく。何事もないとは思うんだけど、と。






 ******






 辺境の国においても殊更陰気で薄ら寒い街で少女時代を過ごしたエーデルにとって、勇者の都はまさに夢の国だった。お洒落に着替えて靴を鳴らして石畳の大通りを歩くのも、パン屋の看板娘になることも、素敵な恋人を持つことも、夢想で終わると思っていたあらゆる願いがここで叶えられている。
 今日もエーデルはひと仕事終え、居候中の屋敷へ帰ってきたところだった。
 アラインの家は平民街の坂の上にある。中の造りこそ豪奢だが、外観はそこまで目を引く建物ではない。何故勇者一族が貴族の居住区に住処を移さずいたのかは地下に鎮座する巨大なオリハルコンを思えば頷けた。その管理を任せるために、アラインは王様になると決めたとき、家財ごとクラウディアに屋敷を譲り渡すと決めたのだ。
 おそらく原石であろうオリハルコンが冥界の出口を塞ぐ役割を担っているとわかったため、あれから地下の土蔵には密かに手が加えられた。誰にも見つけられぬよう、入り口となる階段が肖像画の裏に隠されたのである。
 玄関を入った突き当り、シンメトリーのV字階段の麓にあるアラインの両親の肖像画。必ず一礼してから自室に上がるのがエーデルの習慣だった。
 だが今日はそこに先客がいた。海の向こうにある帝国の皇子様が。

「何をしている」

 吹き抜けの階段上からディアマントの声が響いてエーデルは顔を上げた。
 いつ見ても彼は不機嫌そうな顔をしている。今日は特に眉間の皺が濃くなっていた。
(あの馬鹿、何を因縁つけてるのよ! アラインの大事なお客様なのよ!?)
 慌ててエーデルはふたりの元に駆け寄った。ディアマントより数倍紳士然とした態度でヴィーダは「肖像画に埃がついていたから」と答える。にこにこ笑っているところを見ると、まだ無礼とは感じていないらしい。ホッと胸を撫で下ろしつつ、きちんと仲裁に入るべくふたりの間に身体を割り込ませた。
「あなたね、どういう口のきき方なの? ヴィーダはお客様なのよ? あんまり失礼なことをしないで!」
 アラインに迷惑がかからないように。その一心だったのだが、ディアマントはちらとエーデルを見やると謝りもせずスタスタ歩み去ってしまった。礼儀を知らなさすぎる行いにかっと頭に血が昇る。
「ちょっと!! ディアマント!! 戻ってきて謝りなさい!! ちょっと、もう!!!!」
 階段を駆け出そうとするエーデルの腕を引いたのはヴィーダだった。おかしそうに口元を手で覆っている。その笑みを見ていたら怒りも少し和らいで、残りは溜め息で押し流すことにした。
「ごめんなさい。代わりに謝っておくわ。あのひと世間の常識ってものを知らなくて……」
「はは、いいよいいよ。ぼく嫌われてるみたいだし」
「そっ、そんなことは……っ」
「大体、自分の城にいる方がよっぽど酷いこと言われるしね。それこそあることないことさ」
「……」
 何でもない素振りで彼は言う。少なからぬ自虐の念を込めて。その態度がエーデルには悲しくてつらい。
 いつでも笑っている人がいつでも幸せだとは限らないのだ。かつてクラウディアがそうやって己の運命をひた隠しにしていたように。
「……お願いよ、そんな風に言わないで。いつかあなたもアラインみたいに結婚式を挙げられるわ。皆から祝福されて」
「うん……そうだといいな」
 ありがとうエーデル、と切なげにヴィーダが微笑む。こちらが彼の素顔なのだとこの都の一体何人が知っているのだろう。
 大好きな人と引き離されて、会わせてほしければ国のために尽くせと言われて、知らない土地へ追いやられて。本当はとても可哀想な人なのに。
「初めてエーデルに会ったときは驚いたよ。ぼくの恋人と同じ肌の色をしてるのに、ぼくと同じ肌の色をしたクラウディアと愛し合ってるって言うんだから」
 そう、そんな共通点があったからエーデルとヴィーダはこんなにも打ち解けることができたのだ。誰にも素顔を見せようとしないヴィーダだが、唯一エーデルにだけは本音で接してくれる。
「ああ、ぼくも早く彼女を迎えに行きたいな。他人の結婚式なんか本当は見たくもないんだ。良くしてもらってるアラインにこんな言い方悪いかもしれないけど」
「ううん、わかるわ。あたしも魔物の血が目覚めてからは、普通の女の子を見るのが苦痛だったもの」
 沈黙の後、目と目が合う。
 どちらからともなくふっと笑うとヴィーダはもう一度ありがとうと囁いた。
「明日は早いし、ぼくは休む支度をするね。エーデルも働いてきたんだからゆっくりしなよ」
「ええ、そうするわ。明日は大聖堂でクラウディアの司教ぶりも見届けなくちゃいけないんだから!」
 挨拶代わりに手を振り合い、エーデルたちは左右の階段に分かれる。やるせない気持ちを打ち消すように早歩きで廊下を進んだ。皇子なんて大変な立場で、恋してはいけない相手に恋してしまったヴィーダが幸せになれるよう、祈るしかできないのが歯痒かった。






 好きに使っていいよと割り振られている一室に戻ると、監視を兼ねた侍女が「お疲れ様です」と無機質な声を響かせた。
「明日が戴冠式になりますが、どうなさるおつもりで?」
 冷たく突き放した物言いに思わず舌打ちしたくなる。
 どうするもこうするもない。やけに勘が冴えるし、わけのわからない魔法を使うし、アラインは相当食えない。彼に王位を継がれたらアペティートにとって面白くない状況が続くのは明らかだ。できればさっさと始末をつけてしまいたい。
 だが英雄を失脚させるような妙案はまったく思いつかなかった。
 国中が洗脳レベルで勇者という存在を崇めているし、折角のスキャンダルも既に彼らが周知の事実とした後だった。
 魔王退治の冒険譚が真実ならば、彼ひとりでヒーナの気功師百人分くらいの力を持っているかもしれない。王国から追放することができないのなら暗殺するしか手がないが、即死以外は自身の魔法で癒してしまうのがまた厄介だった。半端な毒は浄化してしまうし、病床に伏せさせることさえできない。
(アペティートに引き入れられれば一番いいんだけどな……)
 ヴィーダはふうと嘆息した。それこそ勇者などというわけのわからぬ人種であるあの男が頷くはずもない。
 だが魔法という能力に非常な魅力があるのは事実だった。アペティートはこれまでヒーナの妖術使いに散々辛酸を舐めさせられてきたのだ。もし自軍にひとりでも魔法使いを加えられたら、戦況を有利に運べるようになるに違いない。科学と魔法という新しいコンビネーションで。
 しかし今はそんな人的資源より物的資源である。属国のエアヴァルテンとフロームはついに九割の鉱山を閉鎖した。それでも掘れと父は言うが、採れないものは採れないのだ。この調子では本国の鉱山もいつまでもつかわからない。
(ビブリオテークは辺境の国と結びつこうと躍起になってるし……)
 同盟を結んで援軍を確保できたら彼らはアペティートへ攻め込んでくるつもりなのだろうか。
 自分のしていることだって結局は戦争に繋がるのだと知りながら、それでも怒りは抑え切れず、唇を噛む。
 アペティートにはクライスがいると、公式にはまだそういうことになっているのに。
 クライス――十五年前人質として宮廷に差し出されてきたビブリオテーク首長の娘。ヴィーダが真実の愛を捧げる唯一無二の相手。笑わない月の女神。
 己自身はどこの泉が涸れようと、どこの山が禿げようと、どうだって良かった。
 この国をアペティートのものにするという目的を果たしさえすれば自由にしてもらえるのだ。今度こそ彼女と穏やかに暮らしていける。
(……オリハルコンか……)
 選ばれた者だけが持つことのできる不思議な金属。いつもアラインが携えている盾を思い浮かべてヴィーダは床を睨む。
 別にオリハルコンでなくともいい。ベストは素人でも扱える魔法道具だ。そういうものでならアラインを殺しても事故として処理できる。
(この屋敷のどこかに、そういう類のものを隠してあるはずだ)
 何故なのかはわからない。だが直感がそう告げている。
 魔法の国で暮らしているから自分もそんな力に目覚めてしまったのだろうか?
 この都へやって来てから何かがずっとヴィーダを呼んでいた。そうしてその唸り声は日増しに大きくなっていった。
(――クライス、必ず君を迎えに帰る)
 何を犠牲にしてもだとヴィーダは拳を握り締める。
 仕掛けるならもう明日しかない。
 見上げた窓の向こうでは真っ赤な夕日が沈みかけていた。







(20121027)