プロローグ






 白い飛沫が水面から跳ね上がってくる。船の重量に押された波がどうにかこちらを押し返そうとするのを見つめながら、アラインはくすりと微笑んだ。空は快晴。おあつらえ向きの冒険日和だ。
 隣では好奇心旺盛な婚約者が物珍しそうに海と魚たちを見つめている。甲板の手摺から少しずつ身を乗り出していくので、さりげなく彼女の肩を支えながら、こっそり魔法で風を呼んだ。
「もっと近くで見たい、姫?」
 アラインが呼びかけた相手は可憐な面立ちと高い教養で長らく社交界の華として君臨するイヴォンヌ・ベステ・シュピーゲル。シャインバール二十三世が老いてから生まれた愛娘だ。胡桃色の長い巻き毛と赤みを帯びた琥珀の瞳、透き通る白い肌、どこを取っても完璧で、彼女自身がひとつの宝石であるかのごとく輝かしい。
 そんな自慢の婚約者のためアラインは風を纏い、文字通り彼女をお姫様抱っこした。波の上ぎりぎりまで舞い降りるとイヴォンヌは感嘆の声を上げる。
「まぁすごい! なんて見事な翡翠色なの!」
 熱帯魚なんて生き物のことはまだ知らなかった。青や黄や赤、鮮やかな小魚の群れに胸を躍らせ眺めるだけだ。
「こんなものが見られるなんて、ベルク様やノーティッツさんには感謝しなくてはなりませんね」
「うん。兵士の国って本当にすごいよ。遠洋に出る船乗りなんてちょっと前までひとりもいなかったのに、もうこんな、大陸が見えなくなるまで漕ぎ出せる船を作ったんだもん」
 アラインの心からの賞賛にイヴォンヌも頷いた。
 ふたりは今、兵士の国の大型帆船に便乗している。「突発的に何か起こったときに備えて、悪いけど用心棒になってくれる?」というのがノーティッツからの依頼だった。攻守に優れ、毒や怪我の治療もでき、おまけに政治的判断まで下せるアラインは同行者として打ってつけだったのだ。船は見知らぬ新天地を目指し航行中である。ノーティッツが万全を期すのも当然のことだった。
「この海を越えたところには一体何が待っているのかしら……」
「僕にもわからない。でも、こうして姫と一緒に初めての船旅ができて嬉しいよ」
「まぁ。アライン、あなた年々リップサービスが得意になっていくのですね。子供の頃みたいに、私には正直に告げていいのよ? 愛想笑いにも限度があるって」
「ひどいなあ、僕は姫にはいつも本音で接してるのに。手を滑らせて海に落っことしちゃおうかな」
「あら、都の女の子たちには聞かせられない台詞ね。そんな野蛮な振る舞いは勿論なさらないと信じておりますけれど」
 軽口の応酬にふたりでクスクス笑い合う。幼少期から宮廷に出入りしていたアラインにとって、同い年のイヴォンヌは幼馴染も同然だ。為政者たる王家の血と、魔王との戦いを宿命づけられた勇者の血が結びつくなど昔は考えもしなかった。多分イヴォンヌの方もそうだったのだろう。正式に婚約が決まったとき、喜び以上に彼女は戸惑いを見せていた。
「少しくらい浮かれさせてくれない? 折角可愛い婚約者と旅行中なんだからさ」
「アライン、私たち遊びに行くのではありませんよ。国の代表として新大陸に赴くのです。勇者の国が低く見られぬよう、あなたも立ち居振る舞いには気をつけてくださいまし」
「うっ、国政のこととなると途端に真面目なんだから……」
「当たり前でしょう! 私たちの方が技術的に後れを取っている可能性が高いなら尚更です!」
 イヴォンヌはぴしゃりとアラインを叱りつける。何もそこまで眉を吊り上げなくともいいではないか。現状考えられる問題点くらい己とて把握しているのに。
 長らく我らが三日月大陸にはせいぜい中型船までしか存在していなかった。大陸を囲む濃霧は到底越えられるものではなかったし、魔物のせいで沿岸部の漁に出るのが精一杯だったからだ。他は行商人たちが個人の貨物船を持っていた程度である。
 だが今は違う。ツエントルムの魔法が解けて、三日月大陸以外にも広大な土地があるとわかった。人間が住んでいるかもしれない。国だってたくさんあるかもしれない。ともかく、何百年も鎖国状態に置かれていた自分たちより、もっと進んだ世界が存在するかもしれないのだ。
 そういう国々と交流を深めて自国の発展に繋げていくのだと、出航を前にノーティッツは語った。中には魔王以上の脅威となる国が出てくるかもしれないし、早めに視察して外交の方針を固めておくべきだと。「外側」の者の目に、三日月大陸が好意的に映るかどうかはわからないからと。
 正直ノーティッツの考えには目から鱗だった。勇者としてチヤホヤされてきた自分には、他人から敵意を向けられるという発想がほとんどなかった。そしてそれは他の面々も同じだったようである。「まあ! 単に知らないところがあるから見に行ってみたいというだけではなかったのですね。流石ノーティッツですわ……!」というウェヌスの盛大なボケに今回はベルクも突っ込めないでいた。一応観光のつもりで付いてきたのではないけれど、婚約者を連れ込んでいる時点でアラインもお仲間だ。イヴォンヌだけは初めから二国王家の公式訪問と捉えていたようだが。
「おーい。そろそろ上がってこいよー」
「あ、うん! わかったー!!」
 頭上からのベルクの呼びかけに上昇気流を巻き起こし、アラインはふわりと甲板に舞い降りる。すると周囲の船員たちから拍手喝采が飛んできた。
「いやあ、勇者の国の勇者さんはイケメンだなァ」
「お姫様ともよーくお似合いだ」
「それに比べてうちの王子のそこはかとないゴリラっぽさは……」
「年々野性化が進んでっしなぁ」
 やいのやいのとコケにされ、ベルクが「おい」と頬を引き攣らせる。「勝手に比較するんじゃねーよ!」と噛みつく彼に船乗りたちは野太い笑い声を上げた。
 第三王子という身分ある立場なのに、どんな場所でもすんなり馴染んでしまうベルクはやはり大物だと思う。ノーティッツから聞いた話では、この船もベルクの呼びかけで製造が決定したらしい。海の向こうが見たい奴、新しい商売を始めたい奴、祖国の歴史に名を刻みたい奴は俺のところに集まれと言って。本格的な頭脳労働はノーティッツに任せたようだが、人望は相変わらずだ。
「予定通りいきゃ二十分後には島が見えてくるはずだ。安心しろよ、このルートはラウダが散々事前調査してくれたからな」
 どうやらベルクは神鳥までこき使っていたようだ。敬虔なトルム教信者が聞いたら「畏れ知らずにも程がある!」と卒倒するかもしれない。
「じゃあちょっと船室に入ってお茶でも飲もうか。ゆっくりしてられるのも今のうちだろうし」
「ええ、そうさせていただきましょう」
 ノーティッツとすれ違ったのは、お姫様抱っこのまま階段を降りていく途中だった。白紙部分の多い海図と睨めっこして大変そうだったので、労おうとして声をかけたら「うわ」と顔面を歪められた。
「ちょ、アラインまで見せつけないでくれよ〜。ただでさえベルクとウェヌスが桃色の浮遊物体撒き散らしてるんだから」
「あはは、悪いね」
「人が働いてるときに限ってイチャイチャしてるんだもんなぁ。はー、ぼくも早く彼女欲しい」
 この頃のノーティッツは多忙すぎて、モテるのに恋人を作る暇がないらしい。彼に次々仕事を放るベルクはプライベートも充実しているのだから、気の毒な話だ。
 とは言え実はアラインも、静かに語り合う時間を取れるようになったのはごく最近のことである。
 凱旋から一年――魔王討伐の旅の前後で、劇的に変化したことがいくつもある。個人的なレベルでも国家的なレベルでもだ。
 十六歳で旅立ったアラインは、今は十八歳になった。シャインバール二十三世は、たっぷり二十年分は老け込んだ。勇者の血筋が偽物であるのに苦しめられたのは、己より寧ろ国王だった。
 だがもうその秘密も秘密ではなくなった。国民はアンザーツの代で勇者が途切れたことを知っているし、その上でアラインを新たな勇者として受け入れてくれている。本意でなかったとは言えど、騙していたのは事実なのに有り難い話だ。
 打ち明けると決めたのはアラインだったが、公式発表の場では流石に足が震えた。「勇者アラインの冒険譚」を心待ちにし広場に集った群衆は、思いも寄らぬ顛末を聞かされ皆目を丸くしていた。
 仲間と別れた後もアンザーツが生きていたこと、魔王を生み出す存在が別にいたこと、大賢者ヒルンヒルトに力を貰ったこと、ゲシュタルトに攻撃を受けたこと、そして隣国の勇者と共に戦ったこと。何から何まで言葉にできたわけではない。クラウディアは真実をありのまま伝えすぎて人心を惑わせるのに難色を示したし、アラインとしても国を混乱させたいわけではなかった。
 ただエーデルは彼女が魔王の血を継いでいることを明らかにしてほしいときっぱり頼んだし、シャインバール二十三世も民への謝罪を切望していた。なので結局ほとんどの事情を説明することにはなった。
 アラインが話し終えると、広場は水を打ったよう静まり返った。静寂をあんなに長く感じたことはない。そのうちアラインに同情する声がぽつりぽつりと響いてきて、それらはたちまち国王を糾弾する怒声に変わった。警備兵に拳を突き出す若者までいて、一時都は騒然となった。
 シャインバール二十三世が冠を脱いだのはそのときだ。老王は両膝をつき頭を下げた。

 ――他に国を守る方法がないか、誰にも相談もしなかった自分に、王冠を頂く資格はない。アラインは血も運命も乗り越えて本物の英雄になってくれた。だから自分は王位を退き、すべて新しい勇者に託そうと思う――。

 退位を宣言した王を見つめる幾千の眼差しは、厳しいものから戸惑うものに変わっていった。
 アラインはそんな民衆に、苦悩こそしたが、おかげでここまで強くなれたと胸の内を吐露した。
 勇者でありたいという思いに血筋は関係ないと、だからこれからも自分に皆を守らせてほしいと告げたアラインに、寄せられたのは凄まじい大歓声。
 率直に嬉しかった。どんなセレモニーを思い出しても敵わないくらい誇らしくて。
 アラインの差し伸べた手を取りシャインバール二十三世が立ち上がると、都は熱狂に包まれた。
 イヴォンヌとの婚約も同時に発表し、勇者と王家の和解を知らしめ、――ベルクから誘われていた航海にやっと同行できたのがそれから一ヶ月後だった。
 外も内も色々なことが変わってしまったし、アラインとて自国に引き籠ってばかりいられない。王位を継ぐのは二十歳の誕生日にと約束もした。それまでに学ばなければならないことが山ほどある。
 一体この先にはどんな国があるのだろう?
 そこではどんな暮らしがなされているのだろう?
 昂揚と緊張の入り混じる胸に少なからぬデジャヴを覚えつつ、アラインは紅茶のカップを傾けた。
 と同時、「おーい! おーいて!」と耳慣れた訛り声が響いてくる。
 窓から飛び込んできたのは青銀の翼を持ったもう一羽の尾長鳥。
「島や、島とデッカイ大陸がふたつもあるで!!!!」






 ******






 クライスの家は集落部から少し離れた高台の上にある。高台と言っても標高の低いこの島ではそう大したものではないけれど、他の場所よりは広く海を見渡せた。
 「それ」を見つけたのは、ひとりきりの食事のため、こじんまりした裏の畑に青物を採りに行ったときだった。
 振り返った海の色はいつもと同じ。けれど波の向こうに見慣れない船が浮かんでいる。
 目を凝らしてすぐ確かめたのはアペティートの紋章がどこかに刻まれていないかということ。だがその船にはアペティートはおろか、ビブリオテークの紋章もヒーナの紋章も見つけられなかった。代わりにと言ってはなんだが、やたらに雄々しさを強調する獅子の旗が掲げられている。
 ――遠海の霧が晴れたことと何か関係があるのだろうか。
 脳裏に慌ただしく帰国した恋人の顔がよぎった。褐色の肌と長い銀髪を持つクライスとは対をなすよう、白い肌と豊かな金髪を持った恋人。「必ず迎えにくるから」と彼は言った。何年かかっても必ずと。

「どうやらもうすぐ始まるようですね」

 唐突に降って湧いた声にクライスは無表情のまま視線だけ上げた。目の前にはいつの間にか布で顔を隠した男がふわふわ浮いている。
 この島で暮らす人間ではない。衣装こそヒーナ風だが、ヒーナの人間とも思えない。そもそも人間かどうかが不明だ。
 クライスが初めてこのドリト島へ漂着したときも、彼は同じようにクライスの前に現れた。名乗るような名は持ち合わせていないと言うので気功師と呼んでいる。その不可思議な力を喩えて。
「始まるとは何が?」
 尋ねると気功師はいつもの微笑を湛えたまま右腕を海に伸ばした。真っ直ぐに船を指差し「破滅が」と宣告する。
「…………」
 あの船に乗った人々がそれを招くと言うのだろうか。クライスは小さく眉根を寄せた。それとも予言はまったく別の誰かに向けられているのか――。

「でもまだもう僅か……時間がかかりそうですね」

 そう囁くと気功師は煙のごとく掻き消えた。突然現れて突然いなくなる。それもいつものことだった。

(……彼がアペティートへ帰ると言い当てたのも、気功師だったわ……)

 ぐっと口元を引き締めるとクライスは野菜採りの籠を片付けに小さな家へ戻っていった。
 潮風に乗り、遠くざわめきが運ばれてくる。船はじきに港へ入ってきそうだった。






 ******






 島が見えたと思ったら、アラインたちは十艘以上にも及ぶ大小様々な漁船にぐるりと取り囲まれてしまった。小船に乗った男たちは皆こちらに漁具や武器を構えており、かなり警戒されているのが知れる。
 ひとまずこの帆船の指揮官はベルクで参謀はノーティッツだ。アラインがふたりに目配せすると、ベルクが小さく頷いて両掌を相手側に見せながらゆっくりと縁に近づいていった。
「あー、えっと、攻撃の意志はない。この船には民間人も乗ってる。できれば港に引き入れてほしいんだが」
 ベルクの言葉に反応し、一番大きな漁船に乗った浅黒い肌の男が隣の男に耳打ちする。
 ピリピリした空気が痛いくらいだ。場は一触即発、何が起きるかわからない。アラインは目立たぬようにざっと周囲を観察した。
 漁暮らしが主なのだろう。彼らが手にした武器の大半は銛だった。後はちらほらナイフや弓、手斧や手槍も見受けられる。小さな漁船にまでそんな武器が積まれているところを見ると、なかなか危険な土地なのかもしれない。
 それにしても目を瞠るのは彼らの外見的差異だった。祖国にもよくいるタイプの金髪・赤毛・黒髪に白い肌という者もいれば、褐色肌に色素の薄い髪を生やした者もいる。黒髪に褐色肌のエーデルを連れて来ていたら大喜びで握手しに行ったかもしれない。
「わかった。何人かそちらに上げる。武器の類が積み荷に紛れていないか確認させてもらうぞ」
「――……」
 リーダーらしき男の言葉にアラインとノーティッツは思わず顔を見合わせた。まさか言葉が通じるとは思っていなかったのだ。
 三日月大陸は何百年も外の世界と関わっていない。身振り手振りだけで会話しなければならないかもと心配していたくらいなのに。それに、ノーティッツは外界の方が文化は進んでいるはずだと推測していたけれど、あまりそういう風にも見えなかった。
「肌の白い奴ばかりのようだが、全員アペティート人か?」
 問われたこちらの船員たちは皆一様に首を傾げる。アラインも初めて耳にした国名だ。
「アペティート? ……ってなんだ?」
 尋ね返したこちらの反応に、寧ろ彼らが驚いていた。
 ――結局彼らが甲板に上がってくる前に、ノーティッツとベルクが降りてこちらの身元を説明することになった。
 言葉が伝わるならあのふたりに任せておいて間違いはない。とりあえず何かあったとき全員を一度に守れるよう、また現地住民が船内をチェックしやすいよう、アラインは乗組員をマスト下に集めた。
「少しの辛抱だからね、姫」
「心配なさらずともこれくらい平気です。何かあってもあなたが助けてくれるのでしょう?」
 不測の事態にもイヴォンヌは余裕そうだった。父親に似ず彼女は心根が強い。いかなるときも王族として堂々とした態度を保とうとする。
「うふふ、私も何の心配もしておりませんわ。だってこの船には頼もしい勇者がふたりも揃っているんですもの!」
 にこにことウェヌスもいつもの調子で笑った。ディアマントやクラウディアがいたら、多分たまには頭を使うように窘められていたところだろう。
 と、気づけばベルクたちの交渉が終わっていた。何人かの現地人が縄梯子を伝い、ノーティッツと一緒にえっちらおっちら船に上ってくる。
 他意はなかった。この時点でアラインは三日月大陸と外の世界に大きな差があると感じていなかったし、純粋に親切のつもりで風を送ったのだ。その方が早く甲板に立てるだろうと。

「なんだ今の風……!? あ、あんたもしかして気功師様か!?」

 狼狽する地元民にアラインは「えっ」と頬を引き攣らせた。気功師? また知らない単語である。
「なんだと!? 気功師だって!?」
「それは本当か!?」
「なんと、知らなかったとは言え気功師様の乗った船に失礼を致すとは……!! お詫び申し上げます!!」
「す、すみませんでした!!」
 リーダーが平伏すと、他の漁民も次々アラインに頭を下げた。意味がわからずオロオロするしかできない。警戒されまくるのも困るが、根拠不明な厚遇も困る。

「……もしかして、ここって魔法使いが珍しいんじゃない?」

 ノーティッツの推測は概ね正しかった。
 アラインたちが上陸したこの島――ドリト島でも、白い肌の民族が住むアペティートでも、浅黒い肌の民族が住むビブリオテークでも、魔法を扱う人間というのは皆無らしい。唯一南西の大国ヒーナにだけは、気功と呼ばれる不思議な妖術を操る者がいるそうだ。
 これらの話は島に来てすぐ教えてもらうことができた。
 だが彼らドリト島の民が何故気功師に対して敬意を払うのか、その理由が明らかになったのはもっと後のことだった。



 奇異の視線に晒されつつアラインたちは船を降りた。
 ドリト島は群島で、中心となる大きな島に寄り添う形で幾つもの小島が浮かんでいる。港付近には石造りの建物もちらほら見られたが、全体としては街というより村落に近かった。漁場は豊かそうなのに何故か人が少ない。住宅は簡素な木造。急いで建てたものをそのまま使っているという印象だ。小さな広場では市すら開かれていなさそうだった。あまりにも殺風景で、まるでどこかの避難所に紛れ込んでしまったかのよう錯覚する。
 案内役を務めてくれたのはガッシリした中年男性だった。半袖から覗く日焼けした腕は傷だらけ、しかも何本か指が足りていない。漁で事故にでもあったのだろうか。だがよくよく見てみると、そんな男は彼だけではなかった。壮年の男たちは大なり小なりどこかに古い傷痕を残していた。本当に、かつてこの島を大きな災害が襲ったのかもしれない。
 ともあれまだ自由に質問できる段階ではなかった。案内人の後に続いてアラインたちは丘の方へと歩を進める。
 ドリト島にはっきりした貧富の差は見られない。まとめ役が住んでいるという家も、屋敷と呼べるようなものではなかった。森の樹木と切り出した岩で作られた、あまりに単純すぎる住居。とりたてて広いわけでもない。
「どうぞこちらへ」
 呼ぶ声に応じて進み出そうとして、アラインは足を止めた。
 鬱蒼とした木々の隙間からこちらを覗く女がいて、彼女に目を奪われたせいだった。
 風に舞い上がる銀髪。動かない表情。踝まで隠す長いワンピースは、この島の住民が着ている衣装とは色も仕立てもまったく異なる。
 夕映え色の瞳は順番に来訪者を一瞥した。まるで何かを見定めるように。
「どうなさったね? こちらですよ」
 完全に足を止めたアラインのところへ案内役の男が戻ってきて、何かあったか尋ねてくる。その声が響いた途端、女はくるりと踵を返して立ち去った。
 後ろ姿を手で示しながら「彼女は?」と問う。すると男はわかりやすいほど表情を歪めた。
「……ありゃ何年か前にアペティートから駆け落ちしてきた女だ」
「へええ、それはまた熱烈な」
「どこぞの偉いお貴族様の召使いだったらしいが、正直関わり合いになりたくないね。どんな厄介事に繋がるかわかったもんじゃない」
 心底忌々しげに案内役は吐き捨てる。ちょうどそのとき温厚そうなおばさんが家から出てきて男を窘めた。
「またそんなこと言って。可哀想な子だよ、もう少し親身になってやれないのかい」
 おばさんによると、最近彼女――クライスは駆け落ち相手に逃げられてしまったらしい。身内はおろか友人のひとりもいないところへ置いて行かれたのだ。少しくらい根暗でも明るく接してやるべきだろう、とのことだった。
 大恋愛の末の破局か。それは確かに同情する。
「今のだって、大方自分の男が迎えにきたんじゃないかと見に来たのさ」
 おばさんが言うと、案内人はどうだかと言いたげに鼻で笑った。そして話題を戻すことなくアラインたちを家の中へと促し始める。
 それにしても妙に気になる人だったなと森の奥を見つめていると、「あの女だけなんか感じが違ったな」とベルクが小さく耳打ちしてきた。どうやら自分たちふたりとも同じ印象を抱いたらしい。「うわ〜、婚約者がいるくせにやーらーしーーんだー」などとノーティッツがやっかんできたせいで、この話はすぐ有耶無耶になってしまったが。
「ま、とりあえず今はここのまとめ役だって奴と話そうぜ」
「そうだよ、ぼくたちは仕事しに来たんだからな! 仕事を!!」
「……う、うん。そうだね」






 ******






 アラインたちが新大陸に辿り着いた頃、勇者の都と辺境の都にも海を越えての来客があったらしい。
 勇者の都にはアペティートから、辺境の都にはビブリオテークから、それぞれ使節団が遣わされた。――長いこと霧に閉ざされていた海に人の暮らす陸地があったとは驚いた。是非正式な国交を持っていただきたい、と。
 それからまた三国で会議を重ねることになり、アラインに残された十代の日々は忙しなく過ぎていった。
 国際交流が始まってすぐ、勇者の都には親善大使としてアペティートの末っ子皇子がやって来た。
 彼の名はヴィーダ・オブヴォール・アペティート。爽やかな金髪の好青年で、アラインよりふたつ年上だった。

「ヴィーダと言います。よろしく、未来の国王様」

 人好きしそうな微笑と共に求められた握手を、アラインは何故かすぐ交わすことができなかった。
 ドリト島であの女性を見かけたときと同じよう、やけに心がざわついたのだ。
 だが違和感は拭いきれぬほど大きなものではなかったし、工業技術の最先端を行くアペティートとは仲良くしておかねばならなかった。
 ヴィーダはアラインの屋敷に長期滞在することが決まった。留学して見聞を広めたいのだと言う。勇者の国はそれを受け入れた。



 物語の始まりはこの二年後。アラインの戴冠式の日のことである。








(20121024)

einsamer Fesseln(孤独の鎖)